札幌民主文学通信  二〇一七年月一日  225号 

 

 

 

  七月例会合評報告     

 

 

  「崖の上の家」

 

(風見梢太郎 『民主文学』七月号)

 

                 松木  新

 

 

 

今度の大会で短編小説について論議されたこともあって、この例会では短編小説そのものについての理解を深める意味から、阿部昭『短編小説礼賛』(岩波新書一九八六年)を素材にして、「崖の上の家」を分析することにし、以下の報告をした。なお、資料として、『短編小説礼賛』から該当する箇所をプリントした。

 

【報告】

     ①一度読んだら忘れられない「話」

  物語は真下の書庫の整理→後輩からの電話→街への買い出し帰宅という時間の中で片倉との思い出、片倉の死、後輩の来訪が語られている。

 ②書き出しの一行

  最初の三行は、この物語を豊かにしており、平易な言葉で書かれているにもかかわらず、文体に緊張感がある。

 ③「生きたイメージ」に語らせる風景描写のイメージは良い→冒頭の場面、家の周囲の光景(11ページ上段)甥の夫人の描写が良い(13ページ上段)(13ページ下段)

 ④会話も描写である。

  「叔父の世話は、いっさいこちらでやらせでやらせていただきます」(13ページ下段)が良い。

 ⑤読者が自由に考えるに任せる。

  真下と笠谷が連れてくる加藤との対話、合唱する若者たちと真下との今後の交流などに、読者が想像できる場面だ。

 ⑥小説は終わってもまだその先に別の新しい物語ある。

  上記⑤とも関係するが、若者たちとの新しい世界の構築が「新しい物語」である。

 ⑦すべての人間が各々の物語の主人公である。スーパーの店長、書店の店主の描写に心配りが見受けられる。

 ⑧「これが人生というものか」

  本来なら片倉の人生が、「これが人生というものか」と読者に示さなければならないのだが、連作完結というこの作品の性格から、不十分に終わっている。

 ⑨結末の一行こそは二十世紀の文学が新たに付け加えたものである。

  結末の、「明日この部屋でかわされるはずの会話を想像して胸を轟かせた」という描写は、読者の想像にまかせるほうが良い。

 

【論議】

  文体についての好意的な意見が多かった。文章がなめらかで読みやすい、比喩を用いず平易な言葉で作品世界を描出している力量は、三六年に及ぶ書き手としての修業のたまものだろう。

  人物描写では、甥の夫人の形象の評価が高かった。彼女が登場する場面、セリフなどは心憎いほどだ。ぼくはモーパッサンの「脂肪の塊」を思いだした。

  真下がたたかいつづけることができたエネルギーの根源は、特別の感情ではなく、ごく普通のことに満足するところからきているという指摘は重要だと思った。彼はスーパーマンだったからではなく、片倉など集団の援助があったからたたかいつづけてきのだろう。

  このことは、そうした援助の機会がなくて、不本意ながらたたかいの戦列から離れていった人々とどう向き合ったら良いか、という事への回答にもなっている。離れていった彼らを切り捨てるのではなく、初心に立ち返って、新しい可能性をさぐることが求められているのだと思った。

  たたかいの形象を描いていることも注目された。崖の上の「家」が、生きていく上での「砦」になっている。この作品は、目次では「シリーズ完結」となっているが、「家」を主人公と考えると、真下と合唱する若者たちとの「家」を舞台にした交流など、続編が期待できるのではないかという意見は貴重だと思った。

  蛇足ながら、作品冒頭のカットは、内容にそぐわないものだった。

 

 

 

 

    225号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

 

   後藤守彦 

     北国から来た猫第七章

   

   泉  脩

     吉田たかし

     海峡の少年1945年・真岡・ホムルスク

   松木 新

     ゴーリキー『母』と音楽

 

   大橋 あゆむ

      早送りの達人 

 

            福山瑛子

     「文章を磨くとは?』『小説の知恵とは?』

      と考え込む今日この頃

 

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談義5 

 

 

 

  

 

 

   札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  224号 

 

 

   六月例会合評報告

 

 

 

第十四回民主文学新人賞佳作

 

「譲葉の顔」

 

(杉山まさし「民主文学」六月号)

 

未知なるものへの挑戦 

 

            石川弘明

 

 一九三五年(昭和十年)生まれのわたしは、

 

アバンゲールではない。かと言ってわたしは、

 

アプレゲールと言われるのも中途半端である。

 

昭和十年が昭和一桁なのか、二桁なのかで悩んでいるのが1935年生まれなのである。昭和一桁生まれ、主として昭和二年~六年生まれの先輩たちのように、徴用、援農、軍需工の臨時工の経験もない。教育勅語とか軍人勅諭、百二十四代の天皇名を暗誦させられることもなく育ち、軍事教錬を受けたこともない。国際連盟脱退の真相も知らず、八紘一宇の精神も不明のままだ。

 

 私自身は、一九四五年八月九日満州国北部三江省鶴立街から避難疎開を始めて、放浪の末、九月新京に辿り着き、翌年一月母と父を、相次いで共に病で失い、孤児となり妹弟を現地人に養子として渡し、自身も日本人に連れられて帰国した。

 

 歴史の教科書に自らの筆と墨で文字を塗り潰して、習っていた教科書の嘘を知った。そういう幼かった時代のことを創作のネタにはできない。涙なしに書くことはできないし、心が痛むからである。唯一エッセイ「少年の戦争」(奔流VOL22)の一作だけ残している。

 

「譲葉の顔」の作者は、一九六五年生まれという若さでありながら、自らの知らない時代、世界を描くことに挑戦した。試みとしては画期的である。それでありながら、読者の多くが熟知している被爆、空襲,津波を、登場人物の三田村と両親の似顔絵を依頼に来た兄妹の幼い頃の体験談で語らせて、それで読者に伝えようというのでは、創作としては甘すぎる。リアリテイが薄いし,メッセージ性に頼りすぎて作為ばかりとなりがちになる。実感とか体験の重みに欠けると言えようか。その上に作者の悪癖というべき、自己主張の強い悪文の多さが目につく。

 

テレビ画面で見た津波に、

 

「荒涼とした大地に残る生活の痕跡は、人々の胸裏にえも言われぬ無力感を生じさせた」

 

「数多く溢れる情報が、あらゆる媒体を通じて発信され、短時間のうちに、一緒くたになって私たちの意識に流れ込んで来た。認識し、思考し、取捨選択し、整理する暇もなく、ランダムに構成された画像の一群となって、その都度私の人生に刻み込まれていった」

 

 こういう悪文は私の心には響かない。その上に勝手な「絵画論」を押しつけてくる。死者が枕元に立つという主張も我論であろう。

 

 私には、絵画や文学、音楽など芸術の持つ創造と想像の二つの力が必要だと感覚的に見抜いている三田村の「妻論」など共感はしにくい。最後には「ヒロシマとフクシマは同じなんだ、フクシマの子供たちは私たちなのだ」と結論を押し付けてくる。

 

 会話による伝聞だけで物語を進めていき、己の主義の主張だけを綴るというのでは、それは文学以前のものとなってしまう。作者のさらなる真実への追求と学習を望みたい。

 

      

 

 

 

 

 

 「譲葉の顔」合評への追加意見

 

              泉   脩

 

 

 

 例会での合評で意見がまとまらず発言ができなかったので追加意見を書きます。

 

 私は一読して感銘を受けました。主人公の老画家と、彼に亡き両親の肖像画を依頼する老年の兄妹に、敗戦後に父を失った私が共感したのです。老画家は三月一〇日の大空襲で、兄妹は広島原爆で共に両親を失いました。私は戦後流行した天然痘で父を失いました。

 

 この偶然の一致が私の心を揺さぶりました。しかも写真を見ながらも、兄の語る父親の想い出を聞きながら、二人の両親の肖像を描くことに、私は教師としての自分を思い出しました。

 

 五六歳の時、私は私立高校の新一年生の担任になりました。同期採用で校長になったMさんに特に頼んだのです。

 

 三年間全力をつくし、卒業後に私も定年退職しようと決心したのです。自分のクラスが決まると、四〇人あまりの生徒を少しでも早く理解しようと考えました。入学志願票の写真を見ながら、名前をフルネームで覚えました。中学校からの内申書にも丹念に目を通しました。

 

 次に学級通信を四枚書きました。生徒全員の名前、出身中学、特技などを一枚にまとめました。次に私の自己紹介を詳しく書きました。どんな担任かは、生徒と保護者の最大の関心だと考えたからです。

 

 そして三・四枚目には担任としての私の方針を書きました。日刊の学級通信を発行すること、学級PTAをつくり、学級父母懇談会を行うこと……です。

 

 そしてクラスの目標として、欠席、遅刻、早退をしないことを掲げました。かつて、遅刻、怠学で欠課オーバー→留年→退学をたくさん出したことを反省したのです。

 

 この学級通信四枚を全家庭に送ると早速家庭訪問を始めました。まず私の家の近くから電話をかけて訪ね始めました。学級通信が着いたころなので、どの親も受け入れてくれました。

 

 どの家でも話がはずみました。母親と本人が中心でしたが、時には父親や祖父母にも会いました。こうして、入学式前に四分の一の家庭を訪ね、五月頃に全部終えました。地方からの生徒の親には入学式の後に残ってもらい、話し合いました。

 

 なぜこんなに急いだのか。それは親の話を聞いて生徒のイメージを作りたかったからです。入学式に生徒と初対面し、HRや授業で接していくのが普通ですが、これでは生徒を理解し働きかけるのが遅れるのです。平面的な理解から、立体的な理解にするには早い方がいいのです。

 

 これからの三年間は、やはり悪戦苦闘の連続でした。しかし以前とは違って、停学、怠学が出ず、いろいろな新しい取り組みができました。組合運動に二〇年も取り組んだため、教師としての成熟がおくれた私にとっては、貴重な体験をすることができました。

 

「譲葉の顔」の主人公が、依頼者に両親の思い出を話してもらいながら、両親のイメージを作り肖像を描いて行く方法は、かつての私の生徒のイメージ作りと同じでした。対象の内面的な心を知ることが、とても大切なのです。そのためには対話が必要なのです。コンピューターのデータではダメなのです。

 

 文学作品の理解は、作品への共感が土台になると思います。少しの共感もなければ、自分とは無縁の作品です。理解も評価もあきらめるしかありません。私はそのように考えて多くの文学作品に接してきました。

 

「自分の背丈に合わせて作品を切り取っている」と言われたことがありましたが、その通りでした。大切なことは多くの体験をして共感する力を増すことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 「譲葉の顔」合評と自己反省

 

                豊村一矢

 

 

 

 六月号が届いてその日のうちに「譲葉の顔」を読んだ。一読してひどい小説だと思った。出だしの「つかみ」の部分、「三・一一」の書き方からして仰々しく陳腐な言葉が並ぶ。戦争体験としては広島原爆投下と三月十日の東京大空襲が書かれているが、借り物の言葉、どこかで見聞きした事の描写が並び、私は白けてしまった。

 

 例会合評当日、レポーターは、冒頭からこの作品を憤りながら厳しく批判した。批判の内容には同感できたが、冷静さを欠くほどの厳しさを感じて私は驚いた。「譲葉の顔」の作者は、レポーターのような戦争体験者に最も共感してほしいと願っていたのではないだろうか。

 

 私は討論で、分別臭く、「レポーターと同じに否定的な感想を持ったが、怒りを覚えるほどの反感ではなかった」と言い、「戦争体験者でなければ書けないとすれば、先の戦争を書く人はまもなくいなくなる」と当たり前の詰らないことを言った。

 

しかし一方で、分別臭いことを言いながらも、レポーターが、かつて『奔流』に発表した作品「少年の戦争」(満州からの引揚げ体験記)のことを考えていた。そしてそれは、レポーターが「譲葉の顔」で傷ついたのではないかとの思いに連動した。

 

私にとって「少年の戦争」の衝撃は大きい。当時、「少年の戦争」の外に、児童文学で付合いのあった人たちの引揚げ体験記を私家版でいくつか読んでいた。いずれも筆者が十歳前後の体験記で悲惨極まりなく、私は深く影響を受けた。以来、自身の創作テーマに『棄民』が根付いたくらいだ。

 

 民主文学会に加入した節目で、これからの創作の題材やテーマを絞った。「格差社会」、「アイヌ」など…そして「三・一一」も加わった。

 

実際、『北海道民主文学』や『奔流』に作品を書いたが、意気込んだわりには、今なお、道半ばである。

 

例えば「アイヌ」にしても、読者に、共感であれ反感であれ、響く作品が書けていないと思っている。アイヌが、取るに足らないと無視する、冷笑する、慢罵する……そんこともあり得るし、未熟さの結果だと受け入れなければ進歩はないとも思っていた。

 

今回の例会合評で、そのことを改めて感じた。

 

 

 

(補足)

 

この一文を書いたところで、恒例により、レポーターだった石川さんから本号トップの原稿が届きました。私の文とかぶるところがあって自分の文を載せるか、ボツにするか迷いました。  

 

結論は推敲せず載せることにしました。

 

 なお、本号の石川さんの原稿は「エッセイ『少年の戦争』」となっていますが、「奔流」二十二号では「自伝『少年の戦争』」です。

 

                                      

 

 

 

    224号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

 

   後藤守彦 

     ただ今翻訳に挑戦中

   

   泉  脩

     NHK大河ラマ

         動乱の世を生きた男たち①

   松木 新

     『稲の旋律』の面白さ

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談義④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  223号 

 

 

 五月例会合評報告

 

             泉  

 

 

 

合評作品  田島 一『争議生活者』

 

(『民主文学』4・5月号)

 

 

 

  力作に感銘

 

 

 

 田島一『争議生活者』をめぐって、充実した討議が行われました。私のレポートの後、全員が発言しましたが、「読むのがつらかった」という感想は、内容の深刻さから出されたものでしょう。八年間も争議を続けて結局は職場復帰を実現できなかったのです。何人かの女性が「すらすらと読めた」と発言しましたが、この作品が主人公の家族の苦しみと協力を中心に書いているので、女性にはわかりやすかったのだと思います。

 

 大企業の理不尽な千四百人ものハケン切りに対し、十二人が組合に加入してたたかった物語の最終編なので、力のこもった力作であり、誰しも胸を打たれたようです。討論の中で、現在ますます広がっている非正規雇用の実態について多くの実例が出されました。病院・学校・郵便局など、驚くような話でした。安上がり、使い捨て、そして労働者分断の非正規雇用は、今や花盛りといった有様です。不況脱出とも、経営者(資本家)のあくなき利益追求ともいえるこの現象は、格差と貧困をますます増大させ、結婚難・少子化・犯罪増加を生み出し、日本の未来を危うくするものです。

 

 田島さんの『時の行路』から、この作品に至る、ハケン切りとの闘いの作品は、社会のカナリアとしての作家の役割を充分に果たしています。そして小林多喜二の後を継ぐ立派な業績と言えると思います。新しい参加者を迎えて意義のある例会でした。

 

 

 

 

 

 

 

小説の知恵大会発言に関連して 

 

            松木 

 

 

 

 二日間の大会は、出席代議員75名、委任状169名、合計244名(定数342名)で無事に成功しました。会長、副会長、事務局長、『民主文学』編集長は現体制でいくことになりました。カンパをありがとうございました。

 

馬場雅史さんの発言「支部はつらいよ」が大好評でデビュー戦は勝利でした。

 

 ぼくは「争議生活者」について発言しました。五味洋介がたたかいきれたのは、人間の尊厳をないがしろにする者たちへの怒りであること、人間の尊厳は「小説の精神」であることにも言及しました。

 

 この文章では、発言の根拠になっていることについて、まとめてみました。

 

 

 

不破哲三『文化と政治を結んで』に、「文学についての発言から」が収録されています。その中で、バルザックとトルストイ、ゴーリキーを例に、世界観とリアリズムの反映について論じています。

 

 マルクスやエンゲルスが、バルザックの作品に、「彼が生きた世界の『社会的存在』を正確かつ深刻に反映したリアリストとして、たいへん高い評価をあたえ」た、と紹介した後、エンゲルスのマーガレット・ハークネスへの手紙を論拠に、「エンゲルスが、バルザックがその芸術的活動において世界観に反して行動していたことを強調しているのは、たいへん重要だと思います。これは、現実の事情の深い把握を、自分の階級的心情に優先させた『偉大なリアリスト』にしてはじめてできたことでした」と、指摘しています。

 

 トルストイについては、レーニンの「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」などにもとづいて、「ロシアの生活の比類ない画像」(レーニン)という積極面を描いた作家だが、同時に、「トルストイ主義」という言葉に表現されているような「宗教的反動と結びついた否定面」もあったこと、これは当時のロシアの「農民の気分の表現」だというものです。

 

 トルストイ主義については、光文社古典新訳版『アンナ・カレーニナ』の訳者である望月哲男が、農民を理想化せず、労働を通した農民との共同体験に感動する地主貴族リョーヴィンを例にとりながら、「トルストイ主義は十九世紀後半のロシア社会が直面した諸矛盾の表現そのものであるというレーニンの表現(「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」一九〇八年)が想起されますが、リョーヴィンを小説の動力としているのは、まさに簡単にイデオロギーに回収できない、矛盾を含んだ情動の主体としてのあり方でしょう」と述べていることも、参考になります。

 

 「バルザックは政治上正統王朝派的な見解にたちながら、未来をになう革命勢力についても、その世界観に逆らってしかるべくえがきだすことができましたが、トルストイは、その農民的世界観に支配されて、農奴制的圧迫や資本主義的搾取を糾弾する告発者としては『驚くべき力』(レーニン)を発揮し(略)、革命的闘争の問題については、『家父長制的な、素朴な農民にだけ特有の無理解』(レーニン)から最後までぬけだしえませんでした」といっています。

 

 不破さんは、この二つの例から、作家の世界観が「社会的存在」の「反映」の仕方をどのように制約するかは一様でないこと、「リアリズムと一口にいっても、バルザックの反映の仕方、トルストイの反映の仕方、それぞれ非常に個性的な独自のものがある」と述べています。

 

 ゴーリキーについては、レーニンがゴーリキーの政治的弱点を指摘したのは、「彼の芸術的活動への指導的助言としても、文学における反映論の問題としても非常に考えさせられる」と指摘しています。

 

「『社会的存在』を正確に認識し、作品に反映するということは、実にたいへんな仕事だということです。社会科学の理論がそのための重要な武器となることはいうまでもありませんが、この武器をもたないものは正確な反映はできないのかというと、ことはそんな単純なものではありません。 バルザックは、資本主義社会の経済学に通じていたわけではけっしてありませんでしたが、マルクスが『およそ現実の事情の深い把握によってきわだっている』と評した観察力で、科学的な武器の不足を補い、あれだけの仕事をした」のです。

 

 世界観と反映の関係は、作家それぞれにとって「個性的」で「独自」であり、「観察力」が大きな比重を占めていることが、この場合、大切な点だと思います。

 

 ところで、先日、大江健三郎の『人生の習慣』を再読していて、世界観と反映について、違った要素が存在することに気がつきました。それは、「小説の知恵」です。

 

大江はミラン・クンデラの「エルサレム講演―小説とヨーロッパ」(『小説の精神』所収)を論拠にして、次のように述べています。

 

 トルストイは、アンナ・カレーニナのように、姦通する人間はよくない、糾弾しなければいけないということを、道徳的に確信していた。レーニンが言うところの「家父長制的な、素朴な農民にだけ特有の無理解」からして当然の確信です。トルストイが「最初の草稿を書いたとき、アンナはきわめて反感をそそる女性でしたし、彼女の悲劇的な死は当然の報い」(クンデラ)でした。しかし小説の決定稿では、アンナ・カレーニナは本当に魅力的な女性に変身しています。

 

この変化に注目した大江は、トルストイには「道徳的な確信があるんだけれども、作家自身のそれをどんどん裏切っていって、非常に美しいものを作り出す力というものが、小説にあるんだと。それが小説の知恵だという。作家の知恵というよりは小説の知恵だとクンデラはいっているわけなんです」と、述べています。

 

 クンデラは、近代ヨーロッパの誕生と同時に小説が生まれた。あわせて、近代ヨーロッパを代表して「ヨーロッパ精神」が生まれた。それは、「寛容の精神」だと言っています。大江は、この「寛容の精神」を、「小説の知恵」と捉えているのです。

 

 大江が、近代ヨーロッパの誕生とともに生まれた小説は、「寛容の想像の王国」であり、「小説の想像の世界とは何かというと、個人が尊重される世界」だと断言しています。

 

 小説の世界=「個人が尊重される世界」では、「寛容の精神」が、そこに生きる人々の生活原理になっています。アンナ・カレーニナが、作者の道徳観に反して、魅力的な美しい女性として描かれる所以です。

 

 バルザックは、世界観に反しながらも、すぐれた観察力にもとづいて、現実を描き、トルストイは世界観にしばられて、その枠の中で現実を描きました。しかし、道徳観に反して「アンナ・カレーニナ」を書いたのは、「小説の知恵」によるためでした。

 

 世界観とリアリズムの反映の関係を考える場合に、小説に本来的に内在している「小説の知恵」についても、考慮しなければならないという気がするのです。

 

 参考までに、小説についての大江のコメントを紹介します。

 

 「ところが、よく考え抜いたことを書くというのは、つまり最初に最後までよくわかっていることを書くということは、小説を書く上ではあまりいい方法じゃない。小説というものは、頭で考えてもわからないような、本当の人間の不思議ということを書く。少なくともその方が小説としてうまくいくものです。いわゆる純文学の上等なものになる確率が高いといってもいい」

 

 

 

短篇小説について

 

 (大会で、宮本編集長が短篇小説について発言していました。その中で、引用されていた文章が参考になりましたので、紹介します。出典は、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見 4』「序」です)

 

 

 

 日本近代文学のなかで、短篇小説は特別な位置を保ってきた。それは短いだけの「小説」ということではなかった。人生を切り口鮮やかに一瞬のうちに示してみせる言葉の技術。一人の人間のその複雑な内的世界を丸ごと描いてみせる文章の技量。日本の短篇小説の作家たちは、人間や社会や歴史を、そのままの全体として描き出すのではなく、鏡に映った小さな宇宙として描き出したのである。

 

 しかし、それは単に小さなものへの偏愛や、短いものへの愛好だけではなかった。言葉の世界が持つ可能性としてのミクロコスモス、小さな言葉の奥にある無限大の広がりへの信頼が、短歌や俳句の文学的伝統を持つ日本の文学者(小説家)たちに、強固に保持されていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

(第二七回大会感想)

 

新しい時代に向かう想像力のかたち

 

馬場雅史

 

レーニンが「ロシア語の純化について」を書いたのは百年前のことである。誤解を恐れずに言えば、レーニンの苛立ちに共感している自分を、ぼくは幾度か経験してきた。レーニンは、会議における発言や演説での半可通の誤った外来語の使用について「文筆家にはそれは許されない」とした。ぼくはもう少し曖昧な意味で、つまり、大会における発言での、意味のない繰り返し、発言時間の終了を告げるベルが鳴ってから延々と語ることを当然とする態度、あるいは、いかにも大家然とした発言を苦々しく感じたことがあったのである。

 

 初めて日本民主主義文学会の大会に参加した。大会期間中やはり何度か「ロシア語の純化について」を想起した。しかし、それはこれまでとは逆の意味においてである。大会で行われたあいさつ、報告、発言、特別決議それぞれが、文学を志し、言葉と格闘する人間の言葉だったのである。そして、それらの言葉は、幹事会報告が強調した「激動の時代にふさわしい言葉」に接近しようとする意志に満ちたものだった。このことが、大会に初めて参加してのまずもっての感想である。

 

 いくつかの論点について、深く考えさせられた。

 

 宮本阿伎さんは「短編小説の作り方を研究しよう」と呼びかけた。「日本文学のなかで、短編小説は特別な位置を保ってきた。それは短いだけの『小説』ということではなかった。人生を切り口鮮やかに一瞬のうちに示してみせる言葉の技術。一人の人間のその複雑な内的世界を丸ごと描いてみせる文章の技量。日本の短編小説の作家たちは、人間や社会の歴史を、そのまま全体として描き出すのではなく、鏡に映った小さな世界として描き出したのである。」「戦後短編小説再発見」(講談社文芸文庫)の「序」を引用しての呼びかけであった。ぼくは率直に不意を突かれた気がした。いつか長編小説を書いてみたい、小説を書き始めた時からそう思ってきた。だから短編小説はそのための習作だと考えてはいなかったか。あるいは連作の一部とだけ想定してはいなかったか。引用された言説は宮本さんの発言のすべてでも、結論でもない。幹事会報告にいう「民主主義文学の到達を踏まえて文学はどうあるべきかを問い、激動の時代にふさわしい言葉をどう生み出し、意欲的な創造、批評活動を繰り広げていく課題」の一環としての提起であった。プロレタリア文学以来の創作の鉱脈の中から、自らの短編小説観を見出し、創作を通して提起に応えたいと思った。

 

 大田努さんは、昨年五月に行われた「百合子の文学を語るつどい」での不破哲三さんの提起、つまり「時代を描く」ということの意味を問い、深化させた。不破哲三さんは講演の中で、松本清張の「プロレタリア文学は支配者階級を書かなかった」という批評を、「傾聴すべき言葉だ」と述べた。ぼくはこの提起を一般的にしか捉えていなかった。民主文学が総体として時代の全体像を描くことを課題にしているならば、支配者階級を描きうる誰かが書くことには意味がある。その程度にしか考えていなかった。しかし、太田努さんは、この提起が、幹事会報告もいう「新しい時代」に即応した提起であること、そして「支配者階級とは、我々の運動、認識に応じて見えてくるものである」とした。その瞬間、もはや、誰かの課題ではなくなった。ぼく自身にも課せられた課題であると思った。支配者階級を今すぐ書くことはできないにしても、それと政治的に対峙する市民を、自ら一人の市民としてどう描くかということに直結する課題だった。その発言の鋭さにぼくは身の引き締まる思いだった。「市民とは誰なのか、そしてそれはいかに形成されるのか」という自らの課題を、大田努さんの提起に応えて探求したい。

 

 しかし、もっと議論すべきではなかったかという論点もあった。それは「主題―モチーフ―題材」をめぐる論点である。この論点についての提起は、それぞれの概念の辞書的な意味を示し、それをもとにそれら概念の関係性を明らかにするという方法によってなされた。はたして、こうした形式的な整理でいいのかというのが、第一点である。さらに、幹事会報告では、この整理を「身の回りに材を得た作品」に限定して、「凡庸さ」から逃れる作法との関係で提起されている。こういう限定の必然性がどこにあるのか、わからないというのが第二点である。少なくとも、日本文学の作品群から内発的に生起する創造的概念として、捉えられるべきではないか。「社会主義リアリズム」を批判的に乗り越え「リアリズムの今日的探究」が課題となり、あらたな地平を切り拓こうとしている。こうした課題と統一的に捉える視点と方法が求められていると思う。

 

 大会の最後に、宮本阿伎さんは「寝食を忘れて書きましょう」と訴えた。一瞬、会場は共感的な笑いに包まれた。しかし、宮本さんの目は笑っていなかったし、大会参加者の目も笑っていなかった。ぼくだけ笑っていたことを次の瞬間、後悔した。そして心から書きたいと思った。そういう大会であった。

 

 いま、自分の部屋に戻って、大会を振り返っている。右側にある書架には、入会して以来二年分の「民主文学」が置いてある。これまでは活字でしかなかった背表紙の名前や作品名が、表情をもってぼくに語りかけてくる。それはやさしさや誠実さや、探究者としての厳しさという表情である。しかしそれだけではない。幹事会報告を媒介として、これら背表紙の奥に、「新しい時代に向かう想像力のかたち」を見せてくれている。そのことが、うれしい。

 

 

 

  

 

 

 

 

    223号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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    後藤 守彦

     音楽ミステリの愉楽(その2)

 

   村瀬 喜史 

    「恩田の人々」を読む

   

   泉  脩

     NHKテレビドラマで描かれた女性たち④

         女性は偉大なり

   松木 新

     「土人」の使用例

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談議3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  222号 

 

 

 

   四月例会合評報告

 

               松木 新

 

    

 

合評作品 『民主文学』4月号  

 

風見梢太郎「予感」 

 

 

 

【評価された点】

 

 筆力があり、密度の高い構成力が緊張感をはらんだ作品に仕上げている。

 

肉親ではない認知症患者の介護が、お互いの信頼を土台にして成立するという、介護への新しいアプローチだ。

 

 片倉の幻覚の内容が前向きなものとして描かれていることによって、彼がすばらしい活動家であったことがわかる仕組みはうまい。

 

【論議になった点】

 

 例会参加者の何人かが、レビー小体型認知症をふくめた患者とのつきあいがあったために、その体験の違いによって、この作品の理解の度合いに差が出た。「認知症」という単語自体への違和感もだされた。作中に使用されている「幻覚」は「幻視」の方が適切ではないかという指摘もあった。

 

裕造が片倉に批判されて、「私のせいだと思っているのが悲しかった」(76ページ)とか、「私は暗い気持ちになった」(80ぺーじ)と書かれているが、これは認知症患者と向き合う裕造の姿勢が不十分であることを示している。なぜなら、無条件に相手を受け入れることが、患者と向き合う場合の大前提だからだ。

 

「ピカソの絵」の描写については、評価が分かれた。なぜ、この場面に必要なのか、説得力に乏しいという評価にたいして、病んだ片倉の内面にある理解しがたいものの暗喩で、効果的だという意見がだされた。

 

タイトルの「予感」が何を意味するのかについては、いくつかの意見が出された。

 

  1. 片倉が死ぬのではないかという予感

  2. 認知症でさえ侵すことができない人間の尊厳と信頼にもとづく二人の関係のほころび、最期の嵐がそれを示唆している

  3. 裕造の妻の発言にあるように、片倉を施設に入所させなければならないのではないかという予感

  4. 裕造が、介護疲れで倒れるのではないかという不安

 

いずれにしてもタイトルの含意が鮮明でないということは、この作品のテーマの不明確さに通じている。少数ではあったが、これまでの風見作品の内では良いできではないという意見などとも、密接に関連していると思えた。

 

 

 

    222号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     加藤虎之助を知る

 

   大橋 あゆむ

     エッセイ  さりげなく

   

   泉  脩

     評論 

     田島一『争議生活者』 (「民主文学」4・5月号)

         ―ハケン切りとのたたかい

   松木 新

      「壁小説」の活用方法

    豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義⓶

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信   二〇一七年月一日  221号 

 

 

 三月例会合評報告

 

                福山瑛子

 

 

 

合評作品  「民主文学」2月号

 

橘あおい「ミシンを踏む音」

 

        

 

 私は最初に作品のストーリーを紹介し、読後感として「最初に読んだ時、物足りなさと感じたが、二度、三度と読むうちに、構成や人物描写の的確さに感嘆した」と述べ、「作品分析と作品評価」として、次のように話した。

 

「書き出しがいい。内職でミシンを踏みジャケットを縫う母の姿が描かれ、家族構成(小四の遼子、印刷会社勤めの父、五歳年下の弟達也)が紹介される。一家は東京東部の二間の借家から埼玉県K市の一戸建ての家に引っ越したばかり。遼子と達也には二階の部屋が与えられている。転校後、口の重い遼子にはなかなか友だちができない。ある日、母はミシンを踏みながら、自分の子ども時代の話(五歳の時、父親が戦死し、母親が再婚。叔父夫婦の許に預けられ、叔父の子らと差別され続けた)をし、『父が戦争で死んだりしなければ……戦争さえなかったら』と話す。

 

級友の真由美の誕生会に招かれた遼子は、プレゼントを用意し、それに付けたカードに『また、一緒に遊ぼうね』と書き、『文字にすれば、思いを伝えられる』ことを知る。真由美が誕生会で遼子の服をけなし、友だちが嘲笑したため、腹痛がすると嘘をついて、直ぐに家に帰ると、母はミシンを踏んでいた」

 

 私は、この作品を作者の少女時代を描いたものと想定して読んだが、四年生の時「文字にすれば、思いを伝えられる」と悟ったことが、その後、作者を現在に至る作家へと導いたのだと思った。

 

橘さんの他の作品、「黒いぶち猫の絵」(五〇周年記念臨時増刊号所収)を読むと、主人公、佐山恭子が看護師として活躍しており、その姿に作者の成長ぶりを見た思いがし、現在、積極的に生きる作者が反映されていると思ったことも付け加えた。

 

 また、「民主文学」読者の友人に、メールでこの作品への感想を求めたところ、「テーマがはっきりしない作品でインパクトに欠け、批評する気になれない」と返信があったことを紹介した。

 

 合評の後、予定通り「差別用語」について、岩井さん、木村さん、豊村さん(いずれも文書を提出、豊村さんは欠席)の三人の意見を参考にして話し合った。

 

 

 

作品合評で出された主な意見

 

〇 いい小説だと思った。書き出しがいい。

 

〇 真由美が悪餓鬼に描かれてないか?

 

〇 書き出しが小説の手本みたいで素晴らしい。「日の丸弁当」が出てくるが、今の子どもには「梅干弁当」としないと、分からないのでは。インパクトが弱い面があるが、ブレないで的確に書いている、と思った。

 

〇 母からの昨年の誕生祝いのプレゼントの服を真由美の誕生会に着て行くが、成長している遼子にちいさくなっていないか?

 

〇 ミシンの音が、遼子に子守唄になっている。彼女にミシンの音が力を与えている。

 

〇 橘さんを大先生と思ったが、この作品を読み近づきになれそうに思った。

 

〇 九歳~十歳は敏感な年頃で大事な時期、育ち合うのがよく分かる。

 

  • 当時は激動の時期だった。戦争について、もっと書くべきだったのでは。

  • インパクトがない作品だと思った。作者はまだ新人の部類に属する作家だと思う。

     

     

     

    北海道研究集会実行委員会の報告

              (文責) 豊村一矢

     

    過日案内の通りに、三月一八日、北海道高等学校教職員センターにおいて北海道研究集会実行委員会を行いましたので報告します。参加者は、十勝支部二名、小樽支部二名、いぶりひだか支部三名、札幌支部三名でした。ほかに、個人ではありますが、メール等で実行委員会に連絡をくれた支部は函館支部、旭川支部です。

    これは、昨年、文学会の強い要請もあって開いた同趣旨の会議への参加の二倍の対応で、議題を消化するだけの消極的な会議を脱したした、充実の内容だったと思います。

    会議で確認されたことを中心に報告しますが、出された意見や議論の内容なども紹介します。

    説明ために会議の場では出されなかった資料的なものも加えます。そのため文責者豊村一矢で報告します。

     

     第二十二回北海道研究集会の予定

      日時 二〇一八年(平成三〇年)

           十月十三()・十四()

    会場 北海道青少年会館コンパス

              (札幌市)

     

     会場の「北海道青少年会館コンパス」は一年前でないと予約を受け付けません。予約受付開始日に必要施設が確保できた時点で正式決定することを確認しました。

     二日間日程・タイムテーブルは、二十一回の方法と主旨を基本に編成することを考えますが、参加予定者の希望や意見を聞いて変更・改善の工夫の努力を続けます。

     提案文書での開催日時の誤記について

     提案文書では開催日が十月十六・十七日になっていました。前記のように十三日()・十四日()が正しい日時でした。暦を見間違えるという単純ミスです。お詫びします。正しい日時については、「実行委員会ニュース」を全員に届け、周知します。

     

     北海道民主文学二十二号編集計画

      原稿〆切 二〇一八年七月十五日

          ・データ原稿で提出、厳守

      発行日  二〇一八年九月〇一日

      校正  ・著者校正を最低一回は行う。

    ・大幅改稿、文章入替・挿入は不可。

      作品掲載料・枚数制限等の規定は二十一   

      号の基準を堅持の予定

     

      要望意見について

     

    要望意見➀ 札幌開催の恒常化を決めたのか。他の地域での開催も追及してほしい。それを札幌支部が支援して欲しい。

    要望意見②分科会に分かれていて他分科会の作品検討には参加できない仕組みになっている。全体で作品検討、創作研究を取り組む場・時間が欲しい。

     

     要望意見をどう取り入れるか

     二〇一四年の二十回研究集会(札幌)は最後の支部輪番制で企画運営された集会でした。次期集会の当番支部を確定できなかったからです。順番になっていた支部にその体制が整っていなかったのが理由です。

    次期集会の企画推進母体が確定できなければ札幌支部の任務完了という訳にはいかず、札幌支部の声掛けで文学会組織部地方担当部員が中核となって検討を重ね、今日の実行委員会方式、作品集発行、研究集会のタイムテーブルの基本形を練り上げてきました。

    それは、➀衰退著しい支部がある、②「作品を書く、作品集に載る、集会で合評して貰う」ことが文学会での活動の拠り所になっている、という北海道民主文学の際立った特徴を踏まえてのことでした。

    この骨格を基本しながら、要望意見も含め様々な声を反映させていくのを基本姿勢にしなければならないと思いました。

     

 

     221号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     二人の宗教者が語ったこと

 

   大橋 あゆむ

     意外なものみーつけた

   

   泉  脩

     1. NHKドラマで描かれた女性たち③

           「あさがきた」

     2. 浜比寸志「彼岸花」

           ―悪性リンパ腫とたたかいながら

   生駒多津子

      錦木(にしきぎ)伝説

 

   松木 新

      『騎士団長殺し』余話

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談議➀

 

 

 

 

 

 

 

 

   札幌民主文学通信  二〇一七年月一日  220号 

 

 

 

 「合評を受けて特集

                   その4)

 

 

  合評の力    菊地大

 

合評の中で、「主任闘争って何だか分からない」という人が何人か居て、「はっ!」と思った。文学は特定の人を対象に書くものではない、勿論、自分のために書くものでもない、という当たり前のことを……。そして、「主任闘争とは一体なんだったんだ」と、改めて考えた。

 ぼくが小説を書き始めたときに、ある先輩が次の言葉で励ましてくれた。

 

「小説はモチーフの重さ深さで、その達成の高さが決定する。書こうとする素材及び主題への繰り返しての反芻と検討の中に、作品を高いレベルに引きあげる力がある。その繰り返しの精神作業の中に、モチーフが鍛えられ、テーマが明確になっていく。創作は「完」と書いて、いくら(なんぼ)の世界である。未完は無であり、完は存在である。書き始めたら終わらせること。その文学世界を完結させることが大切である。そして、最後の詰めの努力を忘れない。一字一句、ゆるがせにしない推敲の努力が大切である。平瀬誠一」

 

あの日、帰りの電車の中であれこれ考えているうちに、それを思い出した。ぼくは先輩のその手紙を、目の前の机の上に張ってある。家に着くなり、コートも脱がずにそれを見た。何時も見ているのだが、改めて「そうだ」と思ったが、ひとつの作品を十数年も完結できずにいる俺に、小説を書く資格があるのかとも考えた。

 

 

 

「主任闘争」は、単に手当てを貰うか貰わないかという組合の闘争戦術の問題ではなく、教育のあり方、教職員組合運動の存在意義を問われる闘いだった。毎日毎日がドラマだった。そこで多くの教師達は成長した。それは、教育運動史として残しておくという整理の仕方ではなく、これからも続くであろう教師のたたかいは、小説という手段で残すのが最も適切だと考えた。それに揺るぎがないかと、例会は考えさせてくれた。

 

やっぱり、ひとりで考えていてはだめだ。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

八〇年代初頭、主任制度化撤廃を目指して闘う日教組と文部省の間で板挟みになり自死した校長と、日教組の人権侵害に苦悩する教師が描かれる。「教師にとって大事なことは子どもと学び合う喜びを共有すること」という言葉が胸を打つ。作品の感性が待ち望まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 言い残したことなど

 

               浅野勝圀

 

 

 

 今回取り上げられた作品のうち、菊地さん・松木さんのものは初読時からぼくに深い感銘を残していました。

 

 「ある校長の死」については、その内容を多少は伝えられたように思いますが、「ジャッカ・ドフニ」の方はかなり不充分だったと思い返しています。

 

 映画「沈黙」に描かれた凄まじいキリシタン迫害シーンに、松木さんの紹介する同じ場面がそっくりオーバーラップしたこと、「ジャッカ・ドフニ」の結びに重ねて「ぼくらの課題」を提示する結論の一文に、ほとんど美しいと形容したいほどの感銘を受けたことなどは、きちんと伝えるべきでした。

 

 

 

 さて、自分の作品のことですが、前号二〇号の合評で、「作品紹介をもっと丁寧に、わかりやすく」「第二弾を書け」(青木陽子)、「もういっぺん書け」(浜比寸志)などと指摘されたことが、今回の執筆にあたって大きな推進力になっていたと思います。

 

 今回の合評では、好意的・肯定的な指摘として、次の3点が印象に残りました。

 

 1.「ケストナーはよく知らなかったので、おもしろかった」「はじめてケストナーを読んだ。いい作品だ」「ワーズワースの(おさな子は大人の父だ)を印象深く読んだ」など、作品や作者への興味、共感を寄せる指摘。

 

 2.「自分史の部分がおもしろかった」「発想の根がわかった」など、執筆の動機にかかわる指摘。

 

 3.「小説的評論。精神の発展を跡づけながらおもしろかった」「子どもの可能性を肯定している」「読みやすかった」など、全体についての指摘。

 

ほめられるのはうれしいのですが、それは不安や居心地の悪さとも背中合わせになっています。

 

「むずかしい。こういう文章はすごく苦手」という、頂門の一針と言うべき指摘がありました。

 

当日も話しましたが、ぼくは自分の書くものが私性(わたくし・せい)を深めていることを自覚し、これが評論と言えるだろうかと自問自答を繰り返しています。しかしこんなものしか書けない、こんな書き方しかできない自分を肯定し、自分史や創作(物語)との隙間(虚実皮膜の間?)を進んでみたいと思います。

 

合評に参加された皆さんの率直な指摘にあらためて感謝します。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 作者が敗戦後の歴史の転換期に読んだケストナー「飛ぶ教室」を紐解く。ナチスに反対の立場を表明していたケストナーが同時代へのメッセージをこめて書き上げた作品。作品によって閉ざされた感性が開放されていくのか。ぜひ、「飛ぶ教室」を読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて   

 

松木 新

 

 

 

津島佑子は好きな作家の一人です。今度の『ジャッカ・ドフニ』を読んで、一番関心を持ったのが、作中で使用されているユーカラでした。出典さがしに随分と時間がかかった気がします。すべてのユーカラの出典が明らかになり、その意味が明解になった段階で、正直、もう終ったという気分でした。そのために、作品全体の構造分析は後回しになったようです。馬場さんから、「母語の身体性」について論及することの必要性を指摘されましたが、納得のいくものでした。

 

例会の翌日、今月の『新潮』に掲載されている、野田秀樹「足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)」を読みました。十八代目中村勘三郎へ捧げるオマージュです。この中に、「母語の身体性」に関わる箇所があり、とても興味深いものでした。出雲阿国とその弟サルワカとの対話です。

 

サルワカ 母の音は、最後になんて言った?

 

出雲阿国 い、い、あ、い。

 

サルワカ い、い、あ、い?

 

出雲阿国 その母の音は子供の耳に入ると、子供の音、子音になって聞こえた。

 

サルワカ 姉さんの耳には、母の音は、どんな子供の音になって聞こえたんだ?

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は、『死、に、た、い』そう聞こえた。幽霊病になって声を失くした踊り子の最後の音だよ。

 

  (略)

 

サルワカ 僕の耳には、その母の音は、こんな子供の音になって聞こえる。

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は?

 

サルワカ 『生、き、た、い』さ。

 

出雲阿国 え?

 

サルワカ 生、き、た、い。

 

出雲阿国 そうか。「死、に、た、い」も「生、き、た、い」もどちらも「い、い、あ、い」だ。だから姉さんは、あんたが好きだよ。ずっとずっとつらく思っていた、母さんが『死にたい』と思って死んでいったんじゃないか、私は何もしてあげることができなかったのじゃないか。でも違うのね、『生きたい』って言ったんだ。

 

サルワカ それも姉ちゃん、ただ生きていたいの『生きたい』じゃない、お城に『行きたい』だったかもしれない。

 

  註1 河原ものとさげすまれていた出雲の阿国の母は、城に行き、殿様の前で踊るのが夢だった。

 

註2 キャストに、出雲阿国:宮沢りえ、サルワカ:妻夫木聡で、東京芸術劇場で上演中)

 

映画「中村勘三郎」で、「型破り」と「形なし」について語っていたことが、今でも思い出されます。歌舞伎では徹底した修業によって基本の型を修得し守っていくことが基本になります。その基礎の上に独創性が加味されたときが「型破り」で、基礎ができていない人間がそれをやると「形無し」になる、というものでした。文学の世界にも通用するような気がしています。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 津島が『ジャッカ・ドニフ』の作品を通して、読者に訴えたかったテーマがあらすじと共にわかりやすく提示されている。「死者との共生」、アイヌとキリスト殉教者を重ねて「差別に抗する」姿を描いた。残念ながらまだ読んではいないが、奥深いテーマに挑んだ作品だとわかる。

 

 

 220号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     いつまでも中島みゆき

 

   大橋 あゆむ

     小銭持ち

   

   泉  脩

     1. NHKドラマで描かれた女性たち⓶

           「八重の桜」

     2. にしうら妙子「淡雪の解ける頃」

           抒情性と強い意志

 

    福山 瑛子

      童話作家の本で米軍下の沖縄の実態を知る

       

      

 

 

 

 

   札幌民主文学通信 二〇一七年月一日  219号 

 

 

「合評を受けて特集

 

その3)

 

 

 

合評を受けて

                 大橋あゆむ

 

 わたしは『民文札幌支部』の合宿には参加できなかったのですが、「わたしの中の私」を合評していただき、とてもうれしく思います。泉恵子さんには、お忙しい中を、わたしの合評をまとめてくださり、心温まるお手紙と一緒に送っていただきました。豊村さんは、お電話で連絡をとってくださり、エッセイを書いていてあわてたわたしに、締切り日などの配慮をいただきました。

 私は前回の『奔流』第25号の創作「さらさらと」の感想をいただきはげまされました。そして、新たな作品に挑戦する勇気をも持たせていただきました。それで、今回『北海道民主文学』№21には、「わたしの中の私」書くことができました。

 わたしの中には、いつも、もう一人の「私」がいるのです。「私」はいろいろな言葉が入っている引出しを持っています。その中には、今までいただいた感想などが、「励まし」の言葉として入れてあります。特にわたしが「気づかなかったところ」には印がつけられています。

 わたしが書いた文章を声に出して読むと、「私」サッと印のついた引出しから、わたしが「気づかなかったところ」を見せるのです。わたしが書き直してみても、「私」が納得するまで、何度でも別の引出しから突きつけてくるのです。それでわたしは、何度でも書き直していくのです。

 それでも、文章の表現がうまくいかず、進まずで、わたしはため息をつくことがあります。すると、「『私』の引出しには『あきらめる』という言葉はない。『書いてみなければ分からない』という言葉ならある」とほほえんで、「励まし」の言葉をいっぱいに並べてみせてくれるのです。

 わたしにとって、わたしが「気づかなかったところ」や「励まし」の言葉は、書き続けるエネルギーになっているのです。

 合評していただきありがとうございました。わたしが「気づかなかったところ」や「励まし」の言葉は、「私」の引出しに大切に入れました。わたしはこれからも、がんばって書き続けていきたいと思います!

 

 〈橘あおいさんから〉

 夫の暴力によって重症を負った主人公由紀子が、子どものために裁判を起こして闘い、看護師を目指して人生の再起を図る。真っ白な箱に自分を閉じ込め、夫からの暴力に耐えていた由紀子が、健太の「ママ、だいじょうぶ?」という声に抵抗を決意する場面に心を打たれた。

 

 

 

 

  創作か、エッセイか?                  

                     福山瑛子

 

  私は小説を書こうとして、「母の会津と七福神」を書いたが、合評の中で「これはエッセイだ」と言う人がいた。道研究集会でも、同じことを言う人がいて、その時は、私も「エッセイかもしれない」と、それを認める発言をした。しかし、「エッセイとして書いたつもりはないのだが……」という思いはつきまとっていた。

 「エッセイ」という印象を与えたのは、最初の部分にあったと思う。確かに、エッセイ風の書き出しをしてしまった。

 実際には、作品中の会津の旅の部分は、構成上も母と私の会話も、すべてフィクションである。確かに当時、母からきた(先祖に関する)手紙を参考にした部分はある。しかし、旅の間中、母とは会津藩の話をほとんどしなかったのだ。この作品を読んだ妹は、私と母の会話を含め、すべて事実と思ったようだ。私は敢えて否定せずにいる。しかし、もし、母が生きていて、この作品を読んだとしたら、びっくり仰天しただろう。

 私は、そうした創作上のことを積極的に集会で言うべきだったのかもしれない。しかし、作品として、できあがったものに対して、読者がエッセイとして捉えたなら、私は、「それは、それでいい」と思っているのだ。

 合宿研修の一月七、八日、私は「あと、何回、研究集会に参加できるだろうか?」と考えていた。

 その一方で、「あの人のことも書きたい、あのことも書きたい」と、焦る気持ちで頭の中で構想を練ったりしてもいる。こうした矛盾の中にいるのが最近の私なのだ。

 年賀状の多くに、「老化に抗して行きます」と書いたが、それがかなりのエネルギーを要することに気付いている昨今なのである。

 

 〈橘あおいさんから〉

 会津藩士の子孫である母の会津を旅しながら、戊辰戦争やその後の会津若松史に接し、娘にも教育熱心だった母と私につながる歴史を紐解いていく。今は亡き母の年齢に近づき、二十二年前の母との旅を懐かしく回想する娘の温かな心情が伝わってくる。

 

 

 

   合評を受けて

                  室崎和佳子

 

  二〇一三年に初めてチェルノブイリを訪れて以来、私の頭の中からチェルノブイリのことが離れなくなった。

 テレビや新聞で「チェルノブイリ」という音や文字に出会うと、自分の中で何かが反応するのである。

 台所で仕事をしていても、「チェルノブイリ」というその音を耳にすると、どんな報道をしているのだろうと気になり、仕事を放り出してテレビの前へ駆けつける。新聞や雑誌などはなおさらで、その場に釘付けで見入ってしまう。

 あのとき出会ったチェルノブイリの子どもたちの透き通るような白い肌と、はにかみを含んだ弱々しい微笑が忘れられないでいる私だった。

 どんな形でもいいからチェルノブイリのことを伝えたい、という強い想いが今回の作品の背景にある。

 「私」という一人称を使って、原発事故から三〇年たった現在のチェルノブイリで生き抜いている人々と、力尽きて天に召された人々を描きたかった。

 作品の中に作者がいない、という評には「その通りです」と言うしかない。当初から、こういう形で書きたい、と思っていたので。

 この作品は、福島の人たちに読んでもらいたいと思っている。

 しかし、自分たちの二五年後の姿ととらえ、暗く嫌な気持ちになるだろうか、などと考えたりもする。作者として悩むところであるが、結論はまだ出ていない。

 実は昨秋、この作品を書き上げてから、二度目のチェルノブイリに行って来た。

 

 〈橘あおいさんから〉

 昨年、ノーベル文学賞を受賞した「チェルノブイリの祈り」を彷彿させる作品である。被災当時、またその後の年月を経て世代を超えた被害と差別が続いていることを作品は訴える。福島原発事故の被災者たちの声にも聞こえ、衝撃を受けた。

 

 

  「奇跡の邂逅」後記

                     平山耕佑

 

 「民主文学に入っていたおかげです」

 合評が終わったあとそう言ったら皆さん、笑っていた。そんなことでこのエッセイ、批評というよりも「よかったね」「こんな偶然ってやっぱりあるんだね」といった私の「奇跡の邂逅」についての感想が多かったように思う。結末の文に対して「同感!」と言ってくれた方もいた。私自身はそれで満足である。

 それにしても村瀬さんが、貴重な資料を保存し、わからないこと、気にかかること、疑問に思ったことを徹底的に調べる人でなかったら、言い換えると、私のようないい加減な人間だったら、「北海道民主文学21号」の私の作品は全く別なものになっていたはずだ。そんなわけで村瀬さんには感謝の気持ちでいっぱいである。

 秋田君とはその後、お互い夫婦同士で会った。彼の計らいで芸術の森で行われたPMFの野外演奏を聞き、その後彼の家の近くの「名所」に案内された。二つとも実に素晴らしかった。私の妻は話好きなタイプ、だれとでも気軽に話し合う。そんなわけで奥さん同士も親しく楽しんだようだ。

「次はあいの里でぜひ」と提案したが病弱な体の持ち主のこと、しかも南の端から北の端へ。私たちがまた尋ねるしかないかな、とも思っている。出来ればグラスを交わしながら、と思うのだがそうはいかない。それが残念なところである。

 なお合評で、「奔流」ということばが注釈なしに突然出てくるなど一般の読者にはわからない表現があると指摘された。これについては全くその通り。事実そのままだからついつい気分に乗ってしまった。 

 

 〈橘あおいさんから〉

 樺太からの引き揚げで生き別れとなった親友を実名で小説に描き、七十年ぶりに奇跡の邂逅を果たしたエピソードが綴られる。北海文学で文学生活にけりをつけた作者が、再び札幌民主文学会に入られて小説を書いてくださることをうれしく思う。

 

 

 

 合評をうけて思う

               村瀬喜史

 

 先月の「通信218号」のつづきになるが、同じように「読者に不親切だ」と批評された。豊村さんの「リーダー・ファースト」になっていないということだろう。分析的に読み返してみて、どこがそうなのか、まだよくつかめていない。

 私の枕書に中村明著「名文」(ちくま学芸文庫)がある。もう二十五年も前のものでボロボロになっているが、そのなかに「もし源氏物語の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話にカギを入れるという三段の加工を施せば、なにも現代語に訳さなくても、それだけで明晰で、わかりやすさが大幅に増す」「そのために一つ一つの文章を短くすることが効果的で「一台の荷車には一個の荷物だけを積め」とも言う。

 私は脱線が多過ぎる、ということだろうか。もう二十年以上も前になるだろうか、弟が「赤旗日曜版」の記者をやっていたころだったか、「読者は高校を出たばかりの主婦だ」と思って、それらの方々に理解して貰えるように書け、と言われていた。

 とまれ、志賀直哉「山鳩」と谷崎潤一郎「陰影礼讃」はどちらが名文か。勝手にしやがれ。文章の手本は多種多様、「読者の心をつかめ」が正解だろう。

「治安維持法と相沢良」をこの視点で読み返してみると、北海道に記念碑のある小林多喜二は知られているものの、野呂栄太郎や西田信春はおよそ知られていない。綴り方事件においてはさらに知られていない。読者を広く掴むには、一言でも説明が必要だった。

 行変えをしたり中見出しをつけたりしたらどうだろうという意見もあったが、この作品を書き変えようとは思わない。別の機会にためしてみよう。

 この作品を書いた動機を、「良子ちゃん」と呼ぶ二人の女性を発見したからと書いた。一人は出獄したとき、写真を撮った祖父の孫、石井啓子さん。もう一人はテルちゃんこと松本照子さん。

 良の獄中書簡が二十三通残されているが、三箇所、「照ちゃん」が出ている。姉・高松千代の家から近所の松本宅に間借りしたとき、そこの若い娘さんが、「照ちゃん」であろうと推定した。その松本照子さんが、「良子ちゃん」と言っているのを聞いて訪ねた。近く建て直す予定の古びたG団地の暗い部屋の中で寝ていた。その後、入退院を繰り返して亡くなった。質問事項を整理して訊ねるべきだった。そのことが作品からすっぽり抜けている。リーダー・フアーストで読み見返して気がついた。

 時を失すると、取り返しが利かない。綴り方事件の叔父・坂口勉について調べようと年上の従姉たちと食事をして語りあったことを前回の「通信」に書いたが、そのとき、もう一人、函館の私と同年齢の従兄を呼ぼうと約束した。父方の長男で元高校教師だが、年賀状が来ない、どうしたのだろうと思っていたら、先週、夜遅く電話があった。突然、亡くなったと言う。二階から落ちて頭を打ち、即死状態だったらしい。民文会員だった小縄さんと同じだ。他人事でない。

 このとき夫人に、わが家のルーツに関する資料を送ってほしいと頼んだら、なんと大きい段ボールで二個も送られてきた。従姉たちとは温かくなってからと言ってあるので急がないが、楽しみと新しい仕事を抱えることになった。

 

 〈橘あおいさんから〉

 二五歳の若さで、治安維持法に倒れた相沢良の評伝。厳しい弾圧の中で全協活動に力を尽くし、特高の激しい拷問にも耐え抜いて、その意思を貫いた相沢良。丹念な取材でその人生に迫る力作。余談だが、東京の上野御徒町駅で相沢良に声をかけた吉田登代(歯科医)さんは、足立区長を務めた吉田万三さん(歯科医、北海道出身)の母親だろうか?

 

 

    未完の課題

                  後藤守彦

 

                                                                

 

 合評会は独りよがりを気付かせくれる、実に貴重な機会です。今回もそう思いました。ご批評ありがとうございました。

 このテーマの根底には、人間の、特に人間の心に対する関心、というよりもっと切実なものがあります。現段階で一定の整理をしましたが、脱稿後も新しい文献を発見しましたし、合評会でも読むべきものを教示されました。論旨が曖昧な点もありますし、このテーマは依然として未完です。

 引用が多いことについてですが、方法論としてさらに考えてみたいと思います。学術論文を書いているつもりはありませんが、一つひとつの概念や言葉の意味をはっきりさせることは、どの表現の場においても大切なことだ、と思っています。

 

 〈橘あおいさんから〉

 思想は人間進化の過程の中で生得的にも獲得するという考え方、クロポトキンの相互扶助の思想を大変、関心をもって読んだ。多喜二の思想形成に影響を与えた書物をぜひ読んでみたいと思った。

 

 

「ゲゲゲの女房」の合評を受けて

                          泉  脩

 

  テレビドラマの評論など初めてだと思います。そこで、「なぜテレビドラマなのか」「なぜ朝ドラなのか」という説明から話しました。この事情は解かってもらえたと思います。

 朝ドラが好きな人ということで、主として女性からの発言が多かったと思います。朝ドラは女性が主人公のドラマが殆どで、女性の支持、共感が多いからでしょう。

 私も朝ドラは殆んど見たことがなく、三年前に「おしん」をDVDで見てからファンになったのです。「おしん」にもモデルがいるそうで、女性はすごいとつくづく思います。

 男は仕事と出世に生き、見栄をはり、家族は二の次になりがちです。その点、女性は家族を愛し、なりふりかまわず働き、時には自分を犠牲にします。そんな姿が、朝ドラにはよく描かれています。

 

 私の評論への批判はなく、残念でもあり、ほっともしました。

 今後、文学評論を再開し、力の入ったエッセイも書きたいと思います。

 あと何年掛けるか、そろそろ秒読みの段階に入ってきたのかもしれません。

 よろしくどうぞ。

 

 〈橘あおいさんから〉

 NHK連続小説を見直し、その人気の要因分析する取り組みとして、大変、興味深く読んだ。➀戦争②家族③創造という三つ、文学においても重要なテーマだ。今後のさらなる分析が楽しみである。

 

 

  0番線の恐怖・考   

                    石川弘明

 

  一九六二年小樽桜陽高校ヨット部は初めて国体に出場した。転校したばかりの新米教師が先輩教師に押し付けられた顧問役であったが、私はヨットの操作法を知らかったのでまず大会のルールの勉強をした。  

 大会で競った相手をルール違反で告発するのである。「水をくれ、と申告したのにくれなかった」などとルール違反の不服を申し立てるのである。審判の監視艇が必ず監視していて疑わしい船は反則失格となる。石巻港で行われた全国大会は悪天候で二レースとも中止してしまった。三人の選手を松島まで連れて行ってウナギ丼をご馳走して慰めてやった思い出がある。

 教職を辞めて大阪に出た私の許に、補欠だった二年生から手紙がきて、正選手となって出場することを知って、高松港まで応援に行った。一九六四年、佐渡ヶ島の両津港で行われた大会では三年生ひとりだけが顔見知りであった。その生徒はヨット部のある大学に進学したいと願って悩んでいる様子だった。

 休暇日数の少ない私は、一日だけ応援観戦して大佐渡一周のバスツアーに出かけて賽の河原、佐渡金山、尖閣湾を一周して「鬼太皷」に出会った。

 翌日能登半島に渡って輪島、能登金剛、兼六園を巡って、ここにも「鬼太鼓」があるのを知った。当時から金沢駅には「0A番線ホーム」と「0B番線ホーム」があった。考えてみると、アイディア、モチーフは五十年も前から抱いていたのである。

 0番線の恐怖は、怪奇ものと思われそうであるが、作者にしてみれば、ごく真面目に取り組んだ作品である。カメラと目の働きとの共通点、死後の世界の不気味さと鬼に対する恐怖、それらの疑問をまとめてみたいと考えたのである。

「蛇と墓」「幼化」と同じ系列の作品であり、前作の「幻想の中の不安」とテーマは共通である。

 この作品のヒロインは生者ではない。鬼も生死不明であろう。むしろ永遠の命を与えられているものと考えた方がよいのであろう。そういう得体のしれないものを、昔は「もの」と称した。主人公はカメラの魔力により力を得た。「物がたり」、「物の怪」は理屈ではない。理窟に合わないから「物」であり、「鬼」となる。死の恐怖が根底にあるから鬼が出てくる。事実だけが物事の全てであると断定しては、理屈に合わないことが多すぎる。理窟に合わないことを含めて描いてこそ、「物語」「小説」「創作」が面白いのである。

 大学四年の時に、風巻景次郎教授の「謡曲」講座を聞いた。謡曲の「序.破、急」というドラマ構成は「起,承、転、結」という四段論よりもある種の説得力があるように思われた。最近は、作者が自由に、承、承、転、転としているが、それは冗長となりがちであり、転、転とするのは、手ばかりを広げ過ぎて締まりのない作品になる。

 卒論を執筆中の私は、「序、破、急」論を一つの演劇論の柱に構成した。

 一九九五年神戸大震災の後で、街中のビルが怖しくなった。それで九か月も過ぎた十月十日の旗日の一日、神戸を観に行った。二十代の思い出に満ちた神戸は歩く道もない有様だった。その年十一月末日会社を退職した。

 長いサラリーマン生活の中で卯月の桜を観る機会は少なかった。退職した翌年春憧れの鈍行列車の旅をすることができた。会津まで普通列車で移動するのである。湯谷温泉で桜を観たきり、公園の桜はまだ開いておらず、飯田も岡谷もまだ蕾で野沢温泉も桜はゼロで、小出も只見も雪の中であり、若松城の花見も一週間先であった。気候は時に人間の生活の計画に思いもよらない障害になることがある。花見一つでも大きな問題となる。 

 今では吉野山の千本桜も造幣局の夜桜も懐かしいだけである。その花見一つにしたって、イメージは千差である。

 シナリオの読み手も多岐である。一九〇九年映画撮影現場で「シナリオスタッフ」という職制が職場内に認めてから、一世紀を経てなお、シナリオは独立していない。一九一一年フランスにおいて、映画と蓄音機の二つを同時に操作するという画期的な発声映画が生まれた。同時に「シナリオ」は「セリフ」を必要とするようになった。

「シナリオ研究十人会」の北川冬彦などの「シナリオ文学運動」から九十年余、シナリオは不遇のままに未だ独立し得ず、作品=興行、監督第一主義はまかり通っている。一九四七年、「シナリオ作家協会」が結成されたが、「シナリオ文学運動」は衰えてしまった。

 興行第一の映画の世界の中では独立が難しいのは、中心にある映画の魅力は興味と関心が高いのだが、利益第一主義の興行の中で「シナリオ」は成長しえない。独自の文学賞を持たない文学はいつまでたっても独立しえないのであろうか。

 先ずはシナリオを皆さんに読んで頂くことが第一であろう。読みながらイメージに浸り、そこに展開しているドラマを読み取っていただくのが肝要であろう。なによりもイメージと想像力であろう。

 

 〈橘あおいさんから〉

 主人公は女神によって、名声だけでない真の写真芸術に導かれる。「光が当たっていない影にこそ、事実や真実があるのだ」ラストで語る主人公のセリフに、この作品のテーマがある。謎めいた美女を探し求めて真実の姿に出会うストーリー展開は推理小説のようであり、「夕鶴」や「雪女」を思わせる。

 

 

 219号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     音楽ミステリの愉楽

 

   大橋 あゆむ

     いやされるニャー!

   

   泉  脩

     1. NHK連続テレビ小説をめぐって

           「ウイスキーを買う」

     2. 動乱を生きた女性たち

           幕末から明治にかけて

 

    豊村 一矢

      「差別語」なるものの使用、

       「差別表現」なるものへの看過し難い非難について⓶

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信二〇一七年月一日  218号 

 

 

「合評を受けて特集

 

その2

 

豊村一矢  「おれと私」

 

北野あかり 「誕生日の想い出づくり」 

 

馬場雅史  「国破れて㈠」

 

 

 

 

 

 原点を思い出させてくれた合評

                豊村一矢

 

 

 

 「おれと私」は、北海道研究集会の分科会でも支部例会でも、構成や表現方法について多くの指摘を受けた。構成や表現方法の工夫は今回の創作で力を注いだところだから、そこを指摘してくれたのは嬉しかった。

 

 一方、何度か「実話か」とか「モデルはあるのか」と聞かれた。私は常にフィクションでしか書かないのだが、札幌支部の大勢からみると、たぶん少数派だろう。

 

 リーダー・ファースト(読者優先―作品の良し悪しは読者が決める)で、作品世界に苦も無く入ってもらえる表現方法に熱中し、それでいて主題にこだわってきた。フィクションでしか書かなかったのは、リーダー・ファーストの姿勢の、無自覚な結果だと思う。

 

文学作品らしきものの創作は、小学校教員三年目のとき、学習発表会(学芸会)の劇指導で既存の脚本に不満で、自分で書いたのが、多分、初めてだろう。学習発表会での劇指導は教育活動だから授業であり、脚本を書くことは教材づくりだ。当時、私は、文学に志はなかったが、教育には、少し、あった。

 

昭二二制定の「教育基本法」第一条(教育の目的)「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

 

そうすると、脚本は自ずと、明確なテーマをもち、欲を言えば社会性も意識し、発信力があり、場面構成、場面展開(変化・速度、間)にメリハリがなければならない。演ずるのも観るのも児童なのである。

 

劇指導という授業の主要教材である脚本を書くとなれば、私の場合、あるいは私の能力ではフィクションで自由に構成しなければリアリズムに徹することができなった。

 

教員経験二十年の時点で、私は児童文学に首を突っ込んだ。ずいぶん熱中したが、いま振り返れば、そこでも教員根性が根底にあったと思う。特定のモデル、実話、体験を軸にして作品を書いたことがない。

 

さすがに今は教員根性で作品を書いてはいない(たぶん)が、作風は変えられそうにない。余命も限られているし、変える必要はないと開き直ろうと思う。

 

今回、自分の創作姿勢の原点まで思いが行くことになり気持ちの整理ができた。感謝。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 頻回な転校を繰り返す「おれ」と、おれを担任する教員の「私」の二つの視点で作品は展開する。子どもや夫を病気だと偽り、市役所に保護費の申請に行きPTAの役員を進んで引き受けてお金を盗んでしまう母親の実態が明らかにされる。「おれ」はママの様子を冷ややかな目で観察し、他のママさんたちに「かわいそうね」と言われて「てめえと違うのはフコーなのかよ」と憤る。作品の全体として、したたかに生きる親子のような印象が残るが、普通に生きることができない母親の苦悩が電話での会話から伺い知ることができる。現代の家族病理として何を考えるのか「私」の思いを知りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

言葉の表現に注意すること!

                       北野あかり

 

 

 

「誕生日の想い出づくり」はエッセイのつもりで書いたのですが、創作にした方がいいのではないかとの助言に、少し小説っぽくなってきたのかなと、深く考えもせず創作として掲載することにしました。

 

合評会では「エッセイの方がいいのではないか」「エッセイとして読んだ」などという意見や、小説にするには「想い出づくりを膨らませる」「どういう想いで訪ねたのかによってエッセイともなるし小説にもなる」などの意見を頂き、小説にするには、もう少し深く掘り下げてみることが大事なのだと感じました。

 

また、「未婚の看護師は一人前でない」と云われ……という文書表現について、

 

「未婚だって素晴らしい人は沢山いる」「ヘイトスビーチと同じ差別的な言葉」「作者はそれを、それもそうだで留まっている」「先輩が一番云いたかった思いは何だったのだろうと、本当の思いが伝わるように書くこと」などの指摘を受けました。

 

何度か推敲もしたのに、合評を受けるまで何も感じなかった自分に気づき驚きました。

 

云われた言葉をそのまま書けばいいというものではない、誤解を招くこともあり、言葉で相手を殺す事も生かすことも出来る、文章を書く上で注意することは言葉の真意を見ようとする心構えを身につけなければならないと改めて認識させられました。

 

このような合評することができる、札幌民文支部の取組みはとても有意義で、月一回の集まりに参加するのも私のとっては、楽しみの一つとなっています。

 

 

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 参議院選挙の只中、姉妹の誕生日会を兼ねた旅に出る主人公は、樺太で終戦を迎え、引き揚げて来た。看護師として生き、早くに夫を亡くした。戦争への道に突き進む与党を食い止める共産党の躍進を求めて、旅行後は選挙戦に加わる。誕生日を祝い命を尊ぶ社会を望む主人公の真摯な姿が印象に残った。

 

 

 

 

 

 

 

国破」を合評していただいて

 

  馬場雅史

 

 

 

 十二月三日、札幌支部例会で「国破(一)」を合評していただいた。

 

 最初に出された論点は「完結していない作品の合評は可能か」ということだった。これが不可能であることは当然であり、釈明の余地はないと自分でも思っている。当初から二百数十枚の作品にする予定で書き始めた。掲載誌の「北海道民主文学」の制限枚数が六十枚ということで、一旦は六十枚程度のダイジェスト版にしようとしたが、内容にボリュームがあるので、かなわなった。そこで、以前いただいたアドヴァイスにしたがって、連作の一篇にしようと試みたが、力不足でかなわなかった。やむなく連載形式をとって、その第一回としたのだが、それが精いっぱいだった。

 

 であるにもかかわらず、皆さんの好意で、ひとまず「合評」のまな板に載せてくださったことには感謝している。「羅生門」の授業について、評価する意見をいただいた。これはぼくの教員生活において、もっとも記憶に残る授業であった。一見困難を抱える子どもの持つ知性というものに覚醒させられた授業だった。ここでの作品のとらえ方、小説一般についての考え方については、果たしてこれでいいのかという疑問はいまだにある。ただ、この作品理解の底流には宮本顕治「敗北の文学」における芥川論があることは事実である。その適否について、今後批評、ご教示をお願いしたい。

 

 この作品において、今後、中国残留日本人孤児問題、在日朝鮮人問題、福島原発避難民問題が大きな位置を占めるということを話させてもらった。これについては積極的に評価してくださる意見をいただいた。これらの重い問題と格闘しながら、「国が破れた」ことにより困難を押し付けられた人々を描きながら、「ネギ刻む」で書いた、同時代的な課題にかかわる子どもの成長を、歴史的な視点から拡張し、表現できたらと思っている。

 

 小説の分量の問題については、合評のなかでも、臆することなく長編に挑むべきだとの激励をもらった。同時に、短編にまとめ上げる力量をつけるべきだという意見もいただいた。その通りだと思った。まずは、長編に臆せず挑戦することを合評を通して決意できた。しかし、「作品は発表しなければ価値はない」とも思っている。今後の課題である。

 

 

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 荒れた工業高校の生徒たち一人ひとりと粘り強く真向かう担任教師、山本の姿が描かれる。芥川の「羅生門」を読み解かせる授業の場面で不良の自分を結びつけて悟る生徒が生き生きとリアルに迫ってきて印象に残った。

 

 

 

  

 

  218号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤 守彦

     テッサ・モーリス・スズキの試み

 

   大橋 あゆむ

     歯科医さんにほめられる歯

   

   松木 新

      閑話三題  承前

   

   泉  脩

     1. NHKテレビ小説をめぐって

         「花子とアン」とてもよいドラマ

     2. 木村玲子「イトムカからのメッセージ」

           ―故郷を汚した犯罪への怒り―

 

   村瀬 喜史 

      北海道研究集会・分科会で発言したことなど

 

    豊村 一矢

      「差別語」なるものの使用、

       「差別表現」なるものへの看過し難い非難について➀

      

 

 

 

 

札幌民主文学通信の最新号と前号を掲載しています。

なお、投稿文につきましては、各号の末尾に筆者名・タイトル名のみを 記しています。

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