札幌民主文学通信

 

二〇一九年〇二月一日  243号 

 

 

 

 

 

特集

 

田中まゆみさん(筆名 大橋あゆむ) を偲ぶ

 

 

 

 

 

 

 

 田中まゆみさんのこと

 

「たとえ機械につながれていても」

 

              木村玲子

 

                                  

 

 私とまゆみさんとの出会いは、当時小さいビルの三階にあった「フリースクール札幌自由が丘学園」の一室でした。一九九〇年代の半ば過ぎのことです。

 

 フリースクールとして立ち上がって間もなくの頃で、代表のKさんの高校の教え子だったまゆみさんは、画家として「新道展」の会員として脂の乗った時期にあり、学園での活躍は目を見張るものがありました。

 

 定年を待たずに私立高校の専任を降りた私は、ここで「文学へのいざない」というメニューで週一回の子ども達との時間を過ごすことで、心の空白を埋めていたのですが、まゆみさんは「ここは私の生き甲斐」と全身全霊で子どもたちと向き合っていました。

 

 「どんな子供たちもたくさんの可能性を秘めている」と、「不登校」という負い目を背負った子ども達に、アートで自信を持たせようと、校外での展示会を企画し、最初は喫茶店や銀行のロビーを借りて、そのうち「札幌市資料館」の一室での展覧会を開催しました。そのために遅くまで子供たちと製作に励んでいました。何人かの子供たちは大作にも挑み、そのうちの数点を「有島絵画展」に出品し、毎年必ず受賞者がいました。そんな一人に浜地彩ちゃんがいます。彼女は卒園して百号の作品を「新道展」に出品し見事新人賞をとり、今は最高の賞も受賞し、個展も開く画家に成長しています。

 

 

 

 自らのアートの世界でも大活躍で、インスタレーションという造形美術の分野での新しい試みを毎年発表していました。何時の頃からか「メメント・モリ(死を想え)」のタイトルで連作を追求していましたが、ここには自らの思いを投影していたでしょう。二〇代の終わりころに重い腎臓病を患ったということで、その頃から週三回の透析に通う日々。初めの頃失意の中で、ある医師から「たとえ身体は機械につながれていても心は自由」の言葉をかけられ、美術の世界に奮起したとのこと。透析の日は朝から病院に出かけ、治療をしている四~五時間は読書の時間だったそう。医学書から、漫画まで「あらゆる本を読んだ」と言う読書家でした。

 

 私と知り合ったころは、まだ松葉杖もつかず、多少不自由な歩き方で、アメリカ西海岸での絵画展のイベントにも出かけていきました。現地で透析をするために、必要な英語を学んで病院を探したりと苦労をしているのを見た人などから、「あまり無理をしないで」と言われるのをとても嫌っていました。「無理をしないでは何事も成し得ない」というのが信条でした。身体を気遣っているようで、挑戦を押さえつけるこの言葉。私などもついこの言葉が出かかっては、ハッとして呑み込むことが何度かあり、そのバイタリティに圧倒される思いでした。

 

 

 

 出会ったころに開催された、今は無くなった「時計台美術館」での個展に行った時の事。何気なく部屋に入ろうとすると「あ、待って。この部屋全体が作品だから」と言われて、薄暗い部屋全体に張り巡らされた造形を、蠢く映像等を不思議な思いで眺めたことを思い出します。この後も海岸での焚火の燃え上がる炎の写真をアートの世界に仕立てたりなど、あちこち動き廻って様々な試みをしていました。

 

 畳二畳ほどのベニヤ板に、子供たちと大きな樹の張り紙アートを「希望の樹」として製作し、私がそれに寄せる詩を書いて、学園の象徴として発表したこと等懐かしい思い出です。そこから学園の通信名「希望の樹」が生まれました。

 

 

 

 長年透析を受けている人は、何らかの副作用があるとのことで、まゆみさんの場合は骨が脆くなるということらしく、次第に松葉杖の助けを借り、手首の力の衰えをカバーする装具をつけるようになり、やがて車椅子の生活になってゆきました。そんなまゆみさんを送り迎えする男性の姿もチラチラ(恋人だったのかな)。自慢の息子さんにユメちゃんという赤ちゃんが生まれた時「孫の顔を見られるとは思わなかった」と言って喜び、娘さんは時折アートのモデルになっていたよう。

 

 障碍者としてヘルパーさんのサポートを受ける生活の中でも、いつも精力的で明るく、学園の子供たちやスタッフとの交流にも独特の存在感を持っていました。

 

 

 

 私が、『奔流』や『北海道民主文学』に書いた作品を見せると、民主文学会にとても興味を持ち、自分にも書きたいことがあること、身体が次第に思うようにならなくなり、造形美術の分野で製作することには限界がくるであろうということもあって、文章を書いてゆきたいと札幌支部に入り、準会員になりました。支部の面々との交流も嬉しかったようで、電動車椅子を操りながら地下鉄を乗り継いで出席する姿は、支部の面々の目に焼き付いていることでしょう。まゆみさん流の美意識を湛えた表現力で、書くことにも精力的に取り組み、その苦労を楽しんでいるかのようにも見えました。

 

 子供時代に親から離れて生活した経験もあるそうで、活動家だった父の事、育ての母の事等複雑な生い立ちを、きちんと見つめたいという思いを持ち続けていたようでしたが・・・・・・。

 

 そんな幼少期の辛い体験を潜り抜けた後の、人を見る目の確かさを感じさせるエッセイは、ユーモアとウィットに富んでいていいなあと感じます。

 

 

 

 フリースクールの子供たちにとって、車椅子のまゆみさんは、生きた教材でもありました。まゆみさんが来ると、玄関からの階段や段差を子どもたちが手を携えてサポートします。器用に電動車椅子を操りながら子供たちの作品を指導するまゆみさんから、その生きる姿勢を学んでいったことでしょう。どこまでも子供たちと共にアートの世界を追求したいという情熱に燃えていましたが、体力の限界から退職せざるを得なくなったことは、とても残念そうでした。

 

 

 

 何度かの手や足の手術の他にも、乳癌をも患い、入院を繰り返しては不死鳥のように蘇る、そんなまゆみさんでした。障碍者保険が介護保険に切り替わり、施設に入っても、そこから垣間見る世界を温かい眼差しでエッセイに綴り、また創作の世界も豊かに広がり、いつも傍らに書きかけの原稿用紙が置かれていたとのこと。自身で予言したとおり、身体は不自由でも、心は自由の精神で精一杯のコミットをしていました。

 

 

 

 毎月の『民主文学通信』に必ず掲載されていたエッセイを楽しみにしていましたが、今年(2018年)の夏頃から「載ってないなー」と思いつつも、また、最新号の『北海道民主文学』にも新たな作品がないのを、深刻には考えませんでした。調子が悪いのかしらと思いつつも、どこかで不死鳥のようなまゆみさんを思い描いていた、おめでたい私でした。

 

 訃報の連絡をいただいた時には、既に数週間も前に亡くなっていたことを知らされ、愕然としました。まゆみさんが施設に入ってからは、電話で二、三度話したきりで、それも取次だったので遠慮の気分が働き、後は手紙のやり取りだけになっていました。一度訪ねようと思いつつも、日常に追われて、訪ねないままになってしまったことは、返す返すも口惜しく心残りです。

 

 しばらく会っていなかったこともあって、まだ、夢を見ているようでもありますが、これからはあの個性的な文章に出会えないのかと思うと寂しいです。まだ、何時でもあの明るい声が聞こえてくるような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさん、さようなら                  

 

福山瑛子

 

 

 

 田中まゆみさんが、最後に民文例会に出席されたのは何時だったか? 物忘れがすすんでいてる私は記憶が曖昧で何年か前の夏、としかいえません。電動車椅子で来られた彼女と一緒に、例会後、高教祖センターから車椅子を押して駅まで行き、エレベーターを二回乗り継いで、ホームで「さよなら」をしたのが最後だったように思います。

 

 田中さんのことで忘れられないのは、彼女が作った陶器の作品「メメント・モリ」を市民センターで開かれた新道展で見たことです。当時、私は「メメント・モリ」の意味を知らずに見ていました。でも、その作品が発する不思議な力に惹きつけられました。

 

二〇〇八年発行の「北海道民主文学」に田中さんは「メメント・モリ」と題する二十四枚の作品を載せています。主人公由美が闘病中の美術仲間、中山義幸のお姉さんからの電話で、彼の病状が思わしくないことを知り、見舞いに出かける話です。義幸は声が出ないので、筆談で会話しますが、その三日後に彼は亡くなります。

 

この作品の中で、田中さんは次のように書いています。

 

「由美は現代美術の映像によるインスタレーション(架設)展示を個展や美術展などで発表している。テーマは生と死。メメント・モリ(ラテン語で死を想えの意)と題して生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ。というコンセプトで、長年このテーマで取り組んでいる」

 

由美は田中さん自身であり、上記の取り組みは彼女の取り組みなのです。「メメント・モリ」の中で、彼女は昨年(二〇〇七年)、由美が「右乳がんの全摘手術をした」ことや帯状疱疹にかかったことを書いています。私は彼女と同じように、右乳がんの全摘手術を受けていますが、手術したのは七年前の二〇一二年でした。私も帯状疱疹にかかったことがありますが、それは三十年前のことです。でも、共通の病気にかかったことで語り合ったことはありませんでした。

 

彼女はフリー・スクールの先生をし、生徒に美術の指導をしていたのを、様々な作品から知ることができます。

 

田中さんは、「奔流」と「北海道民主文学」が発行される度に必ず作品を載せており、二〇一二年九月発行の号には、「弘美の日常」を書いています。ここでは、恋人らしい雄一郎を登場させ、弘美の朝から夜までの変わった生活ぶりを書き、翌二〇一三年、二月の「民文通信」{一七一号}に、「二十年目の『ぶち切れ』」と題してエッセーを書いています。「弘美の日常」の初稿ゲラの校正をしている時に電話が鳴り、二十年の付き合いがある人工透析の仲間とわかります。校正中であることを話しても、彼が喋り続けるので、ぶち切れるというストーリーでした。

 

 田中さんは昨年九月に亡くなりましたが、八月発行の「北海道民主文学」に「まっ、いいか」の表題で、「民文通信」に載せた四つの通信を掲載しています。最後まで紙面に登場した田中さんの意欲に敬意を表したいと思います。

 

私事になりますが、一月九日、八十九歳の姉が老人ホームで老衰で亡くなり、私は急に自分の死を考えるようになりました。でも、田中さんには申し訳ないのですが、最近の私は姉のように、「出来たら八十九まで生きたいな」と思っているのです。

 

私は今、田中さんが例会だけでなく、その後の飲み会でも朗らかに元気な声で話していたのを懐かしく思い出しています。

 

 

 

 

 

 

 

「メメント・モリ」に寄せて

 

  死を想え、生をも想え田中まゆみ

 

               浅野勝圀

 

 

 

 田中さんのことを考えているうちに二〇代のころ観た映画の一シーンが浮かんだ。志村喬扮する主人公が、小雪のちらつく公園でブランコに揺られながら低唱する『ゴンドラの歌』―などである『黒澤明の傑作『生きる』の名場面である。それにしても、どうして「生きる」だったのだろう。

 

 

 

 田中さんのことですぐに思い出せるのは泉恵子さんに伴われて支部の例会に現れた初対面の日のこと、市民ギャラリーの美術展でインスタレーション「メメント・モリ」を観た日のこと、フリースクールの美術講師藤田由美が語り手の三部作ー『白杖の調べ』『メメント・モリ』『輝ける子どもたち』―などである。

 

 支部の例会では、身体の不自由なことよりも、強い向日性の方が印象に残った。

 

 

 

 ぼくが見たインスタレーションは、化け物のように巨大な卵と百個は優にありそうな並み卵の広がりとで構成され、一様に銀色に塗られていた。面白いなとは思ったものの作者の意図が推測しきれず少々困惑したことを覚えている。

 

 

 

 「北海道民主文学」十七号に発表された同名の創作『メメント・モリ』には語り手の由美が真情を吐露し作品のテーマが明らかにされる場面がある。

 

  由美は現代美術の映像によるインスタレーション(架設展示)を個展や美術展で発表している。テーマは生と死。MENTOMORI(ラテン語で死を想えの意)と題して、生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ。というコンセプトで長年このテーマで取り組んでいる。

 

 三部作の語り手が作者の分身であり、そのしなやかな強靱さの由縁がここには語られている。

 

 三部作などで創作をはじめ、支部の「通信」に掲載されたエッセイの数々に至るまで、(美術作品も含めて)田中さんが遺した作品に一貫するテーマは「生きる」だった。

 

 そう納得すると、映画『生きる』のシーンが浮かんだこともインスタレーションから受けた困惑も、きれいに氷解するような気がする。

 

 

 

 田中まゆみさん。「メメント・モリ」のバトンをぼくも引き継いで行こうと思います。

 

 ゆっくりお休みください。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさんを偲んで

 

室崎和佳子

 

 

 

 私と田中さんとの接点は、月一回の例会とその後の居酒屋行きの時に限られていました。その時交わした会話などを、今、思い出しています。

 

 彼女は必要以上の手助けを拒み、ほとんどのことを自分一人の力でやり遂げていました。車椅子で地下鉄を乗降するのはもとより、居酒屋での立ち居振る舞いに、それが感じられました。

 

 潔い人だなぁ、この人とはなんの遠慮(会話を交わす時、返答するのに言葉を選ばなければならない人もいる。この人にはそんな遠慮はいらない。直球で返せばいい。そうすれば、直球で返ってくる)もいらず、対等に付き合える、と直感したものです。多分、年齢も同じだったように思うので、その点でも会話がはずんだように思います。

 

 彼女がいつから車椅子の生活になったのかとか、夫はいるのか、などの個人情報(?)は知らずじまいで、それでも会話が楽しいという人間関係がとても楽しかった。特に、愛とか性に関する感覚が、私ととても似ていた。だから対等に感じたのだろう、とたった今、この文章を書きながら突然のように思ってしまいました。だから、居酒屋だけでなく明るい場所で、愛や性を語りたかったなぁ、とこれもまた痛切に感じているところです。

 

 ここ何年か彼女を見ないなぁ、つまり例会に出てこないなぁ、とは感じていたのですが、何せ例会と居酒屋だけの付き合いだったので、悲しいかな、彼女の顔を見にいくなどの行動を起こさなかった。今思えば、悔いになります。

 

 いずれにせよ、月並みな言葉ですが、彼女は力一杯生き抜いた。これがダメなら、あれがある。あれがダメなら、こういう方法がある。私に不可能はないさ。

 

 生き絶える間際まで力を振りしぼって生き抜いた田中まゆみさんに乾杯。

 

 

 

 

 

 

 

恐いお姉さん

 

泉  脩

 

 

 

大橋あゆみさんが亡くなった。

 

私が札幌民主文学会に入会してまもなく、例会で私は、「子供を愛さない母親などいない」と発言すると、大橋さんにきびしく批判された。「泉さんは幸せな家庭で育ったので、そんなことが言えるのだ」と。

 

大橋さんは子供の時、父親がレッドパージで失業し、母親が働きに出たので、充分に親の愛を受けられなかったという。私は大橋さんの鋭い批判にびっくりし、後日自己批判の手紙を書いた。坊ちゃん育ちの私は、未だ甘いところが残っているのである。

 

そのころ大橋さんは車椅子で例会に出席し、二次会にも車椅子で参加した。私はお詫びの気持ちで、車椅子を押すように努めた。私にとって大橋さんは、年下なのに恐いお姉さんなのである。

 

大橋さんは美術の教師だった。一度合同展を観に行ったが、どこにも大橋さんの絵が見当たらず、係りの人に尋ねると造形の作品だった。なんでもできるのだ。

 

文学では、小説もエッセーも上手だった。美術の教師として生徒と熱く交わった作品が多く、同じ教師出身として胸が熱くなった。恋愛小説もあり、不倫でもお構いなかった。自由自在だった。

 

エッセーでは「イケメン物」がおもしろかった。あけっぴろげに書くので、こちらが恥ずかしくなるくらいだった。まったく自由自在だった。最近は身近な思い出をしみじみと書くエッセーが多く、大橋さんも年を取ったのだなと思った。

 

私の贈る本をよく読んでくれたようである。病気とたたかいながら読んでくださり、好意的な感想を書いてくださり、とてもうれしかった。

 

もっとゆっくりと話し合えばよかったと、後悔している。さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

MEMENTO・MORIの文学

 

               松木 新

 

                         

 

大橋あゆむさんの最初の小説は、2006年の「越えられない壁」(『北海道民主文学』16号)です。以来、2017年の「春のワルツ」(『奔流』26号)まで、全11作品を発表しています。

 

最初の5作品(「越えられない壁」、「白杖の調べ」、「メメント・モリ」、「二枚の卒業証書―旅立ち」、「輝け子どもたち」)は、作者と等身大の藤田由美が主人公、つづく4作品(「弘美の日常」、「『わたしのせいじゃない』」、「雨よ、雨」、「さらさらと」)は、小田弘美が主人公です。彼女には、作者の美意識が濃厚に投影されていますから、藤田由美と表裏一体の関係にあると捉えても良いでしょう。最後の2作品(「わたしの中の私」、「春のワルツ」)は、取材にもとづいた作品のようで、それぞれ主人公は違っています。

 

あらためて全作品を通読して、「MEMENTO・MORI」がモチーフだということに気づきました。

 

「メメント-モリ」について、『広辞苑』には次のように書かれています。

 

「メメント-モリ【memento mori (ラテン)】

 

『死を忘れるな』という意味の警句。古代ローマでは『今を楽しめ』という意味で言われたが、キリスト教では、現世のはかなさを覚え、来世の救いに思いをはせるように勤める言葉となった」

 

ホイジンガ『中世の秋』では、次のようです。

 

「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。『死を想え』(メメント・モリ)の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた」

 

大橋さんはこれを、「生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ」(「メメント・モリ」)としています。古代ローマ時代の意味を現代に再生したようにも思いますが、「生をも想え。そして、しっかり生きよ」という主張は、いかにも大橋さんらしい、すぐれた着想だと感心しました。

 

胆管閉塞で緊急入院、右乳癌の全摘出手術、電動車椅子生活―死の不安がつねに大橋さんにつきまとっていたといってもよいでしょう。そして実際、大橋さんは、親しいひとが突然に亡くなる話を、「メメント・モリ」や「二枚の卒業証書―旅立ち」で描いています。その彼女が、「生をも想え。そして、しっかり生きよ」と叱咤激励したのが、これらの作品群でした。その特徴は三つあります。

 

第一、不条理にたいする抵抗です。最初の作品「越えられない壁」では、自動車事故の賠償金の全額返還を要求された由美が、生活保護受給者には慰謝料も認められないのか、と不服審査請求をして、勝利する話です。10作目の「わたしの中の私」は、家庭内DVを認めず、夫を刑事告訴して自立する女性の話です。

 

第二、向かい風に凜として立ちつづける女性たちへの讃歌です。「白杖の調べ」では、光に懐かれて、白い杖をついて、凛として、前を向いて歩いていく里沙を描いています。「さらさら」では、優柔不断な恋人玉木との別れを自分で決める、弘美を描いています。

 

第三、「今を楽しめ」というローマ時代の教えを、忠実に実行していることです。モーツアルトのピアノソナタをBGMに、レーズン入りの蒸しパンを作ったり(「白杖の調べ」)、ヤナーチェクのシンホニエッタの第一楽章を聴きながら、村上春樹の『1Q84』を読んだりします(「輝け子どもたち」)。

 

息子の詔太とは真剣に向き合うものの、どこかそれを楽しんでいるような風情があります。高校受験を相談する詔太に、「あなたの人生なのだから、あなたが決めなさい」と一般論を言うと、家計が大変なことを分かっているから、公立高校受験のために頑張っているのに、「思ってもいないことを、言うな!」とどやされる始末です(「二枚の卒業証書―旅立ち」)。

 

この場面を読んでいると、『ライ麦畑でつかまえて』を思い出しました。相手にプラスになるような言葉をかけているのですが、その言葉に自分の真意以上の効果を含ませている、大人の偽善にたいする反発です。そのことを由美はきちんと理解しているのです。

 

弘美を主人公にした作品世界は、どこか耽美主義的な雰囲気を醸し出しています。大橋さんの美意識が、どこか人を惹きつける妖しい魅力に満ちているのは、このためかも知れません。

 

インスタレーション(仮設構築物)を制作するために、相棒を八剣山の頂に立たせたり、小樽駅前の歩道橋に立たせるなどして撮影した画像を、すべてモノクロに拡大して、180㎝四方の箱の内側の壁に貼り付け、その中から外界を眺める弘美です。

 

電動車椅子の望に恋したものの、望の彼女が別れを拒絶して手首を切ります。彼女は両松葉杖で右足は義足でした。望を諦めた弘美は、展示会にインスタレーションを出品します。望の半袖のTシャツが赤色だったことを意識して、タイトルを「赤の記憶」とした弘美でした。

 

あらためて考えてみると、大橋さんのなかには、小説家と美術家がつねに同居していた、ということを実感します。なお、ペンネーム「大橋あゆむ」の由来は、東区選出の共産党の道会議員だった大橋晃さんから借用したもので、その名に恥じないように歩み続けるというものでした。

 

ぼくが例会に持参している黒のカバンに、電動車椅子のタイヤがこすった跡があります。例会の後の二次会へ向かうときに、雪道で難儀していた大橋さんを助けたときについたものです。今では、それが懐かしい思い出になっています。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさんの印象   

 

石川節子

 

 

 

田中さんにはあまりお会いしたことが無かったのですが、強烈で懐かしい想い出があります。  

 

それは、私がまだ釧路に住んでいたころのことで、もう、昔のことです。あるとき美術の全道展移動展が釧路にやって来ました。勿論、覧に行ったわけですが、その直前に妹から電話がきて「お祭りの縁日で飼ってきたひよこの中にめんどりがいたらしく、子ども達のペットになっていて、そろそろ卵を生むそぶりを見せていて、巣箱に閉じこもって居るので排卵誘導玉子を今でもまだ持っていたら貸してほしい」というのです。排卵誘導玉子というのは、昔どこの家でも鶏を飼っていた頃、新子のめんどりに抱かせて、排卵を促すために使っていた石膏で作られた偽物の「生ませ玉子」のことです。

 

もう、とっくに無用の長物なのですがなぜか捨てられずに、ガラクタ箱にしまいこんであるのを探し出してハンドバッグに入れて、展覧会を見終わったら帰りに妹の家に寄ろうと思い出かけました。

 

勿論、移動展はだいたい顔見知りの地元の人の作品が多く展示されていて、全道展らしい自由闊達な画風が満開しておりました。そんな中に一段と大きな存在感を示している「知らない人」の作品があり、そこに釘付けになりました。

 

題名が「メメント・モリ」という彫塑部門の作品で、巨大な玉子が見上げるばかりの大きさで立っているのです。コロンブスから玉子の立て方を享受されたのか、揺れることも無く敢然としてそびえ立っているのです。

 

思わず今、持ってきた「生ませ玉子」をバックから取り出して、手のひらで撫で回してその大きさの違いに恐れ入っていました。回しているうちになぜか、芥川の「蜘蛛の糸」の陀多がまぶたに浮かんで、身震いがおきました。「死をおもえ」。

 

すっかり無口になってしまって妹宅を訪れて、妹に「なにか怒っているの」と云われてびっくりして我に返りました。

 

それが田中さんの作品であったことを想い出したのは,私が札幌に転居して、民文に入会してから、全道展の本展を見たときのことです。一目で分かりました。

 

そこには、巨大なコロンブスの玉子が時空を越えて健在していたからなのです

 

それなのに、今はその制作者の田中さんご自身がいらっしゃらない。とても残念なことです。

 

惜しみながらご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

まゆみさんとMEMENT・MORI

 

村瀬喜史

 

 

 

「民主文学」十月号、文芸時評に「メメント・モリ」が出ていた。そのとき田中まゆみさんを思いだしていた。「札幌民主文学会便り」173号をみて訃報を知り、早速残されている賀状から二年分のまゆみさんの賀状をさがしだしてきた。二枚とも新道展出品のインスタレーションの写真が載っていて「今年も文学と美術にがんばります」と添え書きがあった。今年の写真の副題は「八月の視線」であった。

 

 わたしは二年前のこの「民文通信」の紙上に彼女の作品の合評に「これらの作品について解説を聞きたい」と書いた。「八月の視線」は東京空襲か原爆のあとの廃墟のようなイメージで、生は血管のような赤い紐であらわしたのか。

 

 東京でピカソの展覧会を見たとき、耳に解説の入った説明を借りて聞きながら鑑賞し、圧倒された。シャガールなどの作品も私には解説が必要である。まゆみさんのインスタレーションの解説を生の声で聞きたかった。

 

 早過ぎた死を悼む。人工透析は体にダメージを与え、耐久力をそぎ、早く亡くなる。友人二人にその例をみている。創作は詩的な文体で、もっと書いてもらいたかった。

 

 もう一〇年も前になるが、「北海道民主文学」VoL17に、彼女の「メメント・モリ」という作品があり、そこに次のように解説がある、「現代美術の映像によるインスタレーション(架設展示)を個展や美術展などに発表している。テーマはメメントモリ(ラテン語で死を想え)と題していて、生と死は表裏一体である。死を想え、生を想え。そして、しっかり生きよ。」と。

 

 私は、彼女に父のことを書けと言って嫌われたことがある。私は、彼女の父がレツドパージで職場を追われ、北海道機関紙印刷所で働いていた当時を覚えている。メーデーに夫婦で天理教の半天をはおって参加していた。気風のいい面白い男だった。

 

それで井伊大に電話した。彼女の死をおどろいていたが、上条順ももどっていることだし、と考えて民文に復帰を誘った。彼は彼女の父と機関紙印刷所時代一緒だったことがあり、誰か続いて声を掛けてくれないか。彼とは、石川弘明が「少年の戦争」で書いたその現地、中国東北三省を三人で碁盤をもってビール片手に打ち合ったこともあった。井伊大なら書けるだろう。それが何よりの供養になる。

 

 

 

 

 

 

 

大橋あゆむと作品

 

               菊地 大

 

 

 

 大橋あゆむ(田中まゆみ)さんが民文に参加したのは、ぼくと同じ頃か、ぼくより少し後だと思う。だから同期生のような親近感があった。ぼくも一生けんめい例会に出ていたし、彼女も元気に車椅子を操って、高教組の4階まで通って来ていた。2次会にもいっしょに参加した。ぼくの作品が民主文学誌に載った時、彼女からお酒が届いた。

 

 大橋さんの作品には3つのキーワ ードがあったと思う。フリースクール、美術、身体的障がい。そして敢えて言えば、それを包括するように愛。男女の愛も含めて、彼女には独特な世界があった。

 

 フリースクールは彼女の職場だったし、美術はライフワークだった.「二枚の卒業証書―旅立ち」(「奔流」22号、2009年)は、まさにそのものずばりの印象深い作品だった。

 

「いじめ」を引きずったままの加奈と、作者でもある由美の卒業式当日のやりとりと、それを包み込む友人・父母達・教職員の姿が感動的に描かれていた。

 

 彼女の抽象的造形は独特のものだったが、ときに文章表現にも、激しく大胆に共通する世界が持ち込まれることもあった。病気とのたたかいが、彼女の表現の全てに反映していたのだろう。

 

彼女は、今でも安らかに眠ってなどいないのではないか。もっと生き永らえて創造活動を続けてほしかったと、つくづく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 大橋あゆむ原稿のデータ化を通して

 

                豊村一矢

 

 

 

大橋さんと私は、2006年に数ヶ月の違いで文学会に加入した。

 

彼女は初めから作品発表に意欲的だった。

 

2007年発行の「奔流」21号以来、毎年、「奔流」と「北海道民主文学」に計十二冊、支部誌・同人誌に欠かさず発表し続けた。

 

さらに、私は2008年から「札幌民主文学通信」を担当しているが、大橋さんは「通信」にも積極的だった。「通信」が、事実上、月刊紙となった頃からは(体調が執筆を許さない場合を除いて)ほぼ毎号作品を寄せている。

 

「通信」が充実し、しばしば20,000字を超える号も出始め、私の作業量が増え、私は手書き原稿でなくデータ投稿をお願いすることにした。大橋さんは身体的にパソコンを使えないので、従来通り、紙原稿を最後までデータ化させてもらった。

 

それは作品を書き写すことでもあり、そこから私はかけがえのないものを得たのである。

 

大橋さんの作品世界、生き方、メメント・モリ……などで大橋さんと同じ空間に佇んだ体験といっていいだろうか。心に残っている投稿作品を三篇再録する。「(略)」があったり段落を詰めてたりしてある。読みづらいのはご容赦。

 

 

 

「白い細い指」の行方(一三〇号

 

  死と隣り合わせの究極のエクスタシーを追い求める『クラッシュ』(衝突)という、R指定の映画を一人で観ていた時のことだ。クライマックスのところで、スクリーンをうっとりと視つめていると、左太腿に波間に漂う心地良さを感じた。(中略)ふと、太腿の感触が、 わずかに変わった瞬間、何か、微妙な違和感に気がつこうとしていた。気がつこうとしている感覚が、自分の太腿に目を向けさせた。あれ?何で手が、と、じっと手を見る。そのうちに、その手がはっきりと見えてきた。白い細い指。爪は短く切り揃えてあり、優しげな風情で(イヤ、そう思うのは、心地良さが続いているからかもしれない)乗せてある。その優しげな風情の「白い細い指」をたどって行く。色白な手首、まっ白いワイシャツの袖口、上品な紺色の背広の袖口、さらにたどって行くと、「紺色の背広」の先が、きりっとした端正な顔立ちをして、優しげな眼をして、わたしを見ていた。わたしのたどりつくのを静かに待っていた眼と合わさった。その眼を見て、わたしは、とうとう「行きつく先」にたどりついたという妙な達成感を味わった。何をするんですか、とも、やめてくださいとも言わなかった。何事もなかったかのように、「白い細い指」の手の上に、わたしの手を重ねた。身動きもせずされるがままになっているその手を取って(中略)揃えてある膝の上に戻した。そして、わたしは静かに椅子から立ち上がった。左太腿の、心地良い感触を残したままで…。

 

「偶然」が呼んでいる(一五三号

 

(略)ひょっとして父よ、あなたがわたしに気づかせようとしているのですか? この間、あなたのことを書き始めてから、2年もたっていると思いながら原稿を読み返していました。そしたら、支部の例会後の居酒屋で、偶然、あなたをよく知る村瀬さんに、「お父さんのこと書いているかい?」と訊かれました。その次の日の日曜日に、また偶然にも新十津川町の藤原忠雄さんと、ばったりと出会いました。そして開口一番に「お父さんの小説は進んでいるかい?」と言うではありませんか。2年前にあなたのことで取材に行っていたからです。そもそも、あなたのことを書こうとした、きっかけだって、偶然だったのかもしれません。わたしが高校生だった頃、あなたの書籍棚から見つけて読んでいた「民主文学」の40周年記念の年に勧められて、「日本民主主義文学会」の札幌支部に所属して小説やエッセイや詩などを書くようになりました。そして、あなたのことを書き残そうとしているのです。それは、あなたのことを知るいろいろな立場の方々に、あなたのことについて言われれば言われるほど、わたしにとっては、あなたに対してのよい印象などありませんから、そこのところのギャップというか、わたしなりに書き連ねようとしているのです。そうしなければ、わたしの中で今もまだ、あなたへのこだわりが消えそうにありませんから。(中略)だから、書き始めた頃に、偶然、あなたの勤めていた北海道機関紙印刷所の増山取締役さんが、あなたの書いた「20年社史」の後の「40年社史」を書くために、遺族の方々に取材をしているとの事で、わたしのところへもみえたのです。ところが、わたしは「父とは6年間くらいしか一緒にいなかったから話すことはありません」とそっけない態度でした。(中略)

 

 でも、あなたのことを小説に書いていると知り増山さんは、新十津川町の藤原さんのところまで、わたしの取材に連れて行ってくれたのです。「偶然」が重なったことで、あなたのことを書いた原稿を、また読み返してみました。こんなふうに書いていいのだろうかと、迷って、迷って、消したままの原稿用紙。すると、「とことん気の済むまで書いてみなさい。書くことによって、見えないものが見えてくる」と、あなたの声が聴こえたようなきがしました。

 

「またかい!と言われて」(一五四号

 

ロシア文学の講座で、ある作家は、小説を書くと異年齢の子供や大人の聴衆を前にして読み聞かせ、感想を訊いて何度も書き直すという。その話にならって、わたしは、小説やエッセイや詩などを周りの人たちに読んでもらっている。それで、最初に「お願いします」と原稿を見せるのは娘だ。「またかいめんどくせェ」と言いながらも読んでくれる。いきなり「おもしろくない」とか、「何これ、枝葉が多すぎてわけわかんない」とか、「インパクトがない。表現が大げさすぎる。普通に書けないの?」と、さんざん言われる。その後、「あー、いいんじゃない」とOKが出ると、「ありがとうございました」と両手を合わせて頭を下げるのだ。息子の場合は、「テーマは何だ。何を言おうとしているのか。文章にリズム感がない。題名がいまいちだ。結びに切れ味がない」とまるで、文芸評論家の松木新氏に言われているような気がして、直した原稿を見てもらう時は、とても緊張する。助動詞の使い方とか、段落の取り方や送りがなの付け方まで、一字、一字、丁寧に見てくれる。「さすが」と拍手をしてほっと安心するのだ。次にフリースクールの中学生やボランティアの大学生や職員たちにも読んでもらう。その中で「左手で書いた彼の名前」という突然女の家へ乗り込んでゆくエッセイを読んだある女性は、「あらっ、私とバージョン違いだ。妻に乗り込まれてさ。それも2回とも」とさりげなく言うから、「エー」とのけぞってしまった。わたしはすぐさま「それで、どうしたの?」と訊いたら、両手をバツの印にして「話はここまで。私のこと 書こうとしてるでしょ」だって。惜しいことをした。まっ、こういう展開もあるから恥を忍んで、読んでもらうのも悪くない。娘に「またかい」と言われながら、今日も、せっせと書いているのであった。

 

 

 

 私は「札幌民主文学通信」の121号(2008年7月)から担当させて貰っているが、大橋さんが初めて登場したのは128号(2009年7月)である。最後の投稿は233号(2018年4月)。234,235,236,237号と投稿がなく、九月の始め、娘さんから九月一日に亡くなったとの知らせを受けた。

 

 通信初登場から最後の投稿までに、大橋さんは六十三回作品を出している。投稿できなかったのは四十七回。

 

不投稿は、156号(2011年2月)から195号(2015年2月)の間に集中していて、40回中36回投稿していない。大橋さんはこの四年間、病と厳しい闘いをしていたのだろう。途中、169号から172号だけ、連続四回原稿が届いた。病が一時小康状態になったときだったのか。

 

いずれにしても、この病を経て大橋さんはフリースクールの教師を退職し、施設(住宅型有料老人ホーム)に住居を移した。それ以来、大橋さんの手書き原稿はファックスで届くようになった。196号(2015年3月)から連続投稿が再開され、最後の233号まで三十五回投稿し休んだのは四回である。美術、フリースクールの題材は少なくなり、日常の人とふれ合いからモチーフ得たもの、家族のこと、意外と多かったのが「思い出」。私はファックスで届いた手書き原稿をパソコンでデータ化しながら、いつしか、作品世界に引き込まれていった。

 

 振り返ってみると、私が大橋さんと直接話したことは少ない。電話がほとんどで、それも長話ではなく原稿や投稿についての打ち合わせ、確認だった。それなのに田中まゆみを間近に感じていた。彼女の原稿を書写する作業を通し人間田中まゆみに触れたからだろう。

 

 

 

 大橋さんとの最後の電話は七月の末で、「北海道民主文学」二十二号の著者受取り分五冊のほかに五冊を追加してほしいということであった。私は了解し冊子が納品されしだい、十冊まとめて送ると答えた。次に「掲載料と追加五冊分合わせて一万五千円を払いたいが方法は?」というので「ゆうちょ銀行に専用の口座を作ったのでATMを利用するのが一番簡単……」と勧めたが、大橋さんは経験のない送金方法で不安らしい。私は娘さんに送金を頼むのを知っていたから、「娘さんにそんなこと言ったら、バカにするんでない! って怒られるよ」ととがめた。するとちょっと間があって、大橋さんの「ふふふ」と、それはそれは嬉しそうな笑い声が受話器から聞こえてきた。それが最後の声だった。

 

八月三十日、「北海道民主文学」二十二号発送。翌三十一日、受取人入院不在の施設に配達されたという。九月一日、ご逝去。

 

 

 

大橋さん

 

追加の五冊を購入され、まだまだ頑張ろうとしていたんですね。

 

 私は、大橋さんからたくさん学びました。刺激をもらいました。

 

本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

とにかく書きなさいよ

 

               北野あかり 

 

 

 

大橋さんとは、例会の時は隣の席でしたので、「とにかく書きなさいよ」と、いつも明るく話かけてくださいました。

 

また、帰りも地下鉄の改札口まで一緒になることが多く、車椅子に乗った大橋さんは改札口に来ると、あとは一人で行くから…と、エレベーターに向かって頼もしく去って行きました。そんな姿が忘れられない事として心に残っています。

 

大橋さんの作品は、小話のようでユーモアがあって面白く痛快です。身の回りの出来事が題材なので、読んでいると私にも書けそうだという思いに駆られます。いま改めて「北海道民主文学」に掲載された「まっ、いいか」を読み返していますが、その中の「千代紙」に、「……小学校2年生の時、突然、継母の実家に小間使いとして貰われていき、また突然、中学一年生の時、実家に戻された。わたしは突然の出来事の怒りを抑えるために、常に何かに夢中になっていなければならなかった」を読み、大橋さんの生い立ちを知ることができました。その後、車椅子生活を余儀なくされても、なお力一杯生きてきた大橋さんに魂を揺さぶられます。

 

先日、札幌支部の村松祝子さんから次の創作について「あなたはどんな題材を考えているの?」とメールをもらい、私は「今年はやはり選挙でないかと思うんだけど……、でも四月のコンサートで唱う『襟裳の森の物語』は、土砂の投入で生物が死に絶えた襟裳の海を、山に一本一本木を植えることで蘇みがえさせたという、襟裳の人たちの長い闘いの実話を基に作られた合唱組曲で、沖縄の闘いと重なり、唱っていても身体の底からエネルギーが湧いてきます。それも書きたいし……、私の入院初体験、我が家の出来事……息子が旅立つ前に……とか、いろいろあります。」などと返事を送ってしまいました。

 

大橋さんの「とにかく書きなさいよ」の声を忘れず、身の回りの出来事を題材にして、書きつづけたいと思っています。

 

 

 

 

 

一月例会(合宿研修)

作品合評報告

 

   

 

一月例会合評は合宿研修会として行い、

 

「北海道民主文学」二十二号から9作品

 

を合評しました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『黒猫が走る』

 

「黒猫が走る」の合評を受けて 

 

 柏原

 

 

 

  会話が多く、会話でそれぞれの事情が説明されすぎて、小説的膨らみがないと指摘されたが、作品を作りながら自分でも何となく気がついていた。しかし、どう展開したらいいか解らなく、締め切りも近づいてきたので、そのまま提出した。作品を書き始めるのを早くすればいいのだが、なかなか取り掛かれない。こんなことを書きたい、あんなことを書きたいと思うのだが、勝手に頭のなかで動き始めグルグル回り収拾つかなくなる。そのような時期を越えて何となく形になっていって、作品になる。早く始めればいいのだが。しかし、書き始めたら、自分は楽しいみたいだ。ああしよう、こうしようと考えたり、創造したりする事が好きなのだろう。

 

 日常生活には、考える事や書いてみたいことが沢山あって楽しい。

 

今、畑は雪の下だが今年はどうするか、窓から外を見て思いを巡らしている。去年は、芋、人参、大豆は沢山取れたが、トマト、キュウリ、トウキビは天候不順で不作だった。しかし、ビニールハウスを使って育てている友人のトマトやキュウリは大きく育って、おいしかった。ビニールハウスが欲しい。

 

今、着物の着付けを習っている。結婚した時、母が沢山の着物を縫って持たせてくれた。その着物を一緒に住んでいた夫の母が、ちゃっちゃっと着せてくれた。踊りを習っていたので着付けが上手で、自分は、ただ黙って立っているだけでよかった。今は、母も、夫の母も亡くなってしまい、着物だけが残っている。生前、眼鏡を掛けて前屈みになって着物を縫っている母に「着物を縫うのは肩が凝って疲れるだろう」と言った事があった。母は顔を上げ、手を休めて、「楽しくて、どんな風に出来あがるか見たくて」と言った。そのような母は父の運転する車で、何度か旭川に遊びに来た時も、反物を幾つか買って帰り、それを縫って送ってくれた。箪笥の中で眠っている着物を何とかして着たいと思う。でも、大変だ。何とか着物は着られても帯が結べない。自分で着物を着て外出するのが夢だ。でも、外を歩いていたら、だんだん着物が緩んできて引きずるようになってしまったらどうしよう。

 

 黒猫が小説の中で、充分生かされてないと指摘されたが、本当だと気が付きました。書いているうちに、アパートの住人水沢と大家、節子とヒガちゃんをどう関連させていくかで、黒猫のことに目がいかなかった。指摘されて、初めて黒猫のポジションに気がついた。 

 

今、あの黒猫が物置に来ている。ジブリの映画「魔女の宅急便」の黒猫のキキのようにスタイルは良くない。大きくてがっちりした胴体と頭、そしてギョロッとした眼があり、凄みのある風貌だ。以前は出会うと、サーと走って逃げていったが、今は向き合っても逃げない。それで、「よし、よし。いいこだね」と、言いながら一歩踏み出すとやはり逃げていく。この黒猫は、何処かの家の飼い猫だと思う。毛並みも良く、太って頑強だ。これから、この黒猫とのつきあいが楽しみだ。

 

 次回の作品はどうしようか。毎年正月を過ぎると考えはじめる。考える事は楽しいが、その先になかなか進まない。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『たてがみ』

 

 『たてがみ』の合評を受けて

 

石川節子

 

 

 

昨日のことは全て忘れてしまい、子どもの頃のことばかりが鮮明に蘇ってくる日々です。この小説『たてがみ』は、昭和二十二年に樺太から引き揚げて来て、道東の漁村で過ごしていた小学校五年生の時の、ひと夏の思い出を再現したものです。

 

書きながら常にいくつかの疑問を持ち続けました。その疑問は合評会のとき見事に皆さんからの発言の中にでてきて、やっぱり留意点は皆同じなのだと知り、安心しました。

 

一番悩んだ「前書き・後書きを付けるか付けないか」。

 

まよいにまよって結局、付けませんでした。それについてみなさんのご意見は相半ばして、「永久の課題な」と受け止めました。

 

これからも迷いに迷い、揺れながら書いてゆくのだろうその自画像が鮮明に浮かび、我が画嚢にしっかりと納めました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『槇村浩断章』

 

 合評が教えてくれたこと

 

                浅野勝圀

 

 

 

 合評の冒頭、小文中に盛り込めなかった、槇村浩の徹底した天皇制批判と人道主義への拘りについて補足した。この二つは彼の思想を理解する上で不可欠の要件だと考えていながら、執筆時には適切に取り上げることが出来なかったからだ。また、彼の字の前年に「土佐脳病院に入院」したことについては、「警察権力から逃れる手段として彼の母親が選択した」という叔母の証言があることも紹介した。

 

 当日寄せられた皆さんの声を質問と感想に分けて自分の考えや感想を述べてみたい。

 

 

 

 〈質問〉

 

  1. 「間島」の読み方は?

 

日本語では「かんとう」だが、朝鮮語では「かんど」になる。質問者のおかげで、当時の満州国(現在吉林省)に属する間島地方がかつては朝鮮民族を中心とした抗日闘争の拠点であり、キリスト教のしんこうに支えられた地でもあったことが明らかにされた。

 

  1. 「リアリズムの深化」とあるが?

 

プロレタリア文学運動を代表するひとり森山啓の指摘に基づくこの仮説は、「当たらずとも遠からず」とひそかに自負しているところ。きちんとした検証が今後の課題ではあるが。

 

「生ける銃架」と「間島パルチザンの歌」は満州事変の直後、ほとんど時を置かずに構想・執筆・発表されたモチーフとテーマを共有する作品だが、両者の間には大きな隔たりがある。そのことを「リアリズムの深化」という視点で考えてみようとした。

 

  1. 「槇村浩と尹東柱の間に一種血縁のようなものを直観していた」とは?

 

二人の詩人との出会いには多少の時間差があるものの、衝撃の大きさはまったく同じであった。

 

二人は共に戦争への道を狂奔する天皇制ファシズムの時代を生き、槇村浩は燃えるような反戦平和の思想と行動を、尹東柱は潜熱のような祖国愛同胞愛を、それぞれに妥協なく貫いた。

 

時間をかけて「直観」を裏付ける論理の構築に取り組むことで、二人の詩人との出会いを真に意味あるものにできればと思う。

 

 

 

〈感想〉

 

  1. 貴司山治ってすごいことをしたんだね!

 

ぼくらがいま槇村浩の作品を手にすることができるのは、彼の三〇年に及ぶ献身的な同志愛と歴史的な責任の自覚のおかげ。

 

彼はまた、虐殺された小林多喜二の遺体を家族や同志たちが沈痛な面持ちで囲んでいる―あの歴史的な写真を守り抜き後世に伝えた人でもあったはず。本当にすごい人だ。

 

  1. 小熊秀雄にも「間島パルチザンの歌」を

 

思わせる作品があったなあ。

 

小熊の長編叙事詩集『飛ぶ橇』(一九三五年)に収められた『長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)』―朝鮮語で長い長い秋の夜という意味―の殊だと思う。

 

「朝鮮よ、泣くな」と歌い出され、「すべての朝鮮が泣いてゐる」と結ばれる二七〇行を数えるこの作品は、日本による残酷非道な植民地支配を告発し、民衆の悲しみとの連帯を歌い上げている。

 

 小熊秀雄と槇村浩と、この二人のプロレタリア詩人の血縁関係をぼくらは容易に見出すことができるだろう。

 

  1. 「間島パルチザンの歌」を感動した。金達寿が「この作者は朝鮮人ではないか」と考えたのも無理はない。

 

最初に読んだ時ぼくもまったく同じ感想だったことを思い出します。深い海の底から迫り上がってくるうねりのような語り口/文体に引き込まれ、槇村浩のことをもっと知りたい/知らねばと思ったものだ。

 

 ぼくらのこうした素朴な感想の中にこそ、槇村の目指したリアリズムの深まりが反映されているのではないだろうか。槇村浩の詩集がもっと多くの人々の手に届くようにならないかと思う。

 

 

 

 昨年十月の北海道研究集会には、個人的な事情もあって、短時間のあわただしい参加に終ってしまい、肝心の講師牛久保さんの発言さえ記憶に留めることができなかった。

 

 唯一印象に残っているのは、十二月号のルポ「激震地から」に報告された大変な状況の中から駆けつけた高橋さんが、司会の席で「私も読んでいるよ」と言うように、新日本文庫版の『間島パルチザンの歌』を高く掲げてくれたことだった。

 

 牛久保建男さんにはお詫びを高橋篤子さんには感謝をあらためて申し上げたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品『兄の死』

 

若者にもわかることばで 

 

                平山耕佑

 

 

 

「予科練ということばは若い人にはわからないはずだ。若者にも読んでもらいたいと思うならここは説明が必要だ」

 

 そんな指摘があった。全くその通りである。二年ほど前の高齢者大会の分科会で、戦争中の話をしたとき、「小学校三年になった日、ゲートルを巻いて学校へ行ったら先生にえらく褒められた」と言ったら、高齢者大会には珍しく若い人が一人来ていて、その人から「ゲートルって何ですか?」と聞かれた。そういう経験がありながら何の説明もなしに予科練ということばを使ったのは確かに私の落ち度である。

 

 で、この機会だから私にも詳しくは分からなかった「予科練」を百科事典を参考にして紹介しておく。それによれば旧日本海軍の航空機搭乗員の養成制度で、「海軍飛行予科練習生」の略。中学校四年一学期修了程度の甲種、高等小学校卒業程度の乙種、海軍兵から採用する丙種に分かれる。私の兄は農業学校二年のときだから乙種ということになるのだろう。昭和五年にできた制度だというが昭和一九年ころは片道燃料で飛び立ち、敵の戦艦に体当たりするいわゆる「特攻機」に乗って、体当たりできればまだいい方、多くはその前に撃ち落されたはずだ。そして兄が入った終戦間際は、その飛行機さえなくなっていたに違いない。だから

 

「穴掘りばっかりだった」ということばになる。穴掘りというのは多分空襲に備えての防空壕作りだと思う。

 

 いずれにしてもこのエッセイは死んだ兄の追悼の気持ちで書いたものだからこうした長い説明は不要である。私はもともと作品の中で注や説明を書き入れるのは不得手な人間である。ではどうすればいいのか、私にはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品『木古内の女 垣内ツヤさん』

 

木古内の女・垣内ツヤさん

 

                石川弘明

 

 

 

作者の試みである鉄道とそれに縋って生きようとする庶民の暮らしとの結びつきは描ききることができていなかった。

 

 今頃は鉄道の存在意義を認める人はいなくなっている。突き詰めると「鉄道を守れと言うだけでいいのか?となる。マイカー族にとっては、インフラの意味すらも無視してしまう。 

 

 ツヤのような生き方をする人を無視してしまっているのが現代的と言えるのであろうか?貧しい中に、子育てに励む女を見殺しにせよと言うのか?           

 

 

 

 身体に器具をつけても生きている人は多い。器具が動く限りは生きようと考える人も多い。それが、新幹線という新メデイアに取り替えようというのでは、新しいものができれば、古いものは滅びてしまってもいいというエゴだけの文化文明になってしまう。

 

 国鉄の経営者や、時の政治家の言い分は正しかったのか?現代のJRの経営陣の言い分は正しいのだろうか?

 

 人々の生活を繋ぐインフラは必要がないのか?

 

 線路が開通する度に旗を振っていた庶民が愚か過ぎたのか?

 

 ツヤさんの食堂「急行」に後継者がいないのだから、潰れてしまっても仕方がないと言うのか?  

 

 

 

 時代錯誤に近いJRという表現は誤りであった。

 

 一九八七年に旧国鉄は民営化されて、JRに代わっている。それ以前は国鉄と呼ぶのが正しい。

 

 最初の「登場人物表」をなくして、初めからの二十五行を書き換えるつもりである。

 

 そうして最後の二十八行の、視点を変えた表現を訂正するつもりである。

 

 

 

「訂正本文」

 

 書きやすい地図というものは少ないが、北海道の西南部にある渡島半島もそうである。いわゆる北海道を道央、道北、道東と区域分割をした残りの四分の一に当たる残りの西南の半島部分である。

 

大雑把に例えると、あたかも魚の尾びれのような形をしている半島で、図には画きにくい。

 

 その西南部の最北部に小樽市を中心とする後志地方がある。古くから開けた土地である。そこに鉄道が敷かれたのは、明治十三年の手宮駅であり、

 

札幌駅も同時に建築されている。南小樽、銭箱、手稲、琴似駅も揃って明治十三年である。明治三十五、六年には、余市、二木、蘭島、塩屋まで線路は伸びて、産物と人々は交流した。翌三十七年には、小沢、倶知安、ニセコ、長万部、八雲まで鉄路は繋がっている。岩内線は大正一年から二年の間に繋がり、胆振線は伊達市上長和から、壮瞥、北湯沢、新大滝、喜茂別、京極、倶知安市六郷までを大正八年から昭和十五年までの間に、開通している。瀬棚線は瀬棚、北檜山、今金、茶屋川を昭和四年から昭和七年の間に結び付けた。それらは今はない。廃線されてしまったのである。

 

 更に江差線は大正十五年から作り始め、松前線昭和十二年に着手している。瀬棚線は昭和四年の着手である。

 

 それらの線には始発駅と、終着駅があった。

 

 港町から魚が運び出され、内陸の平坦地は拓かれて産物を港へと運んだ。

 

 

 

 函館を中心とする道南部は、北海道としては、比較的早くから拓けていた。和人の移住もアイヌとの交流も早くから行われていた。松前藩の存在もあって、曲がりなりにも江戸幕府の傘下にあったのは間違いない。函館市は戊辰戦争の時には、五稜郭が戦いの主戦場となり、東軍の幕府軍と薩摩長州が官軍と自称した西軍との最激戦地となった。

 

              (1・18)

 

 現代の交通事情では、函館と小樽間は二三四キロで,JRで言うと更に三十三キロで札幌に到達する。長い間この二百六十七キロが北海道の鉄道の屋台骨である。

 

 もっとも現在は苫小牧から千歳線経由となっていて、函館札幌間は、三一八.七キロである。

 

(これには先行した函館本線が、雪深い日本海側に施設され、海岸沿いの狭い土地しか確保することができぬままに苦闘した歴史がある。)

 

 

 

 この旧函館本線は、倶知安のあたりで名峰羊蹄山をま近に見上げることができるので、観光旅行のお勧めのコースである。しかし、旅行時間の短縮の利便性のみを追求するあまりに,JRは函館本線をローカル化してしまった。

 

 当初は石炭、木材、玉ねぎ、馬鈴薯、ニシンその他の貨物を運ぶための鉄路は、道民の経済を支える

 

ためのものであった。

 

 

 

 一九六八年(昭和四三年)の六月、函館本線を走る列車の中に、垣内ツヤは四人の子供を連れて乗っていた。

 

(本文一三六頁の三行目から一四八頁の十二行目まではそのまま残す)

 

 

 

 木古内駅に物珍しさから旅行客が降りるようになって、休日を利用して本州からくる客が多くなってきたので、「急行」も土日は休まないという方針を決めてからまだ三月も経っていない。

 

 五月の休日には普段の二、三倍の約五十人の来客があって、キミさんが喜んでいたところだったのに、キミさんの人工弁による心臓が停ってしまったのである。

 

 僻地は暮しにくくなり、行政は田舎を見棄てて、都会にばかり目を向けている。新幹線が札幌まで通じるようになったら、やがては倶知安から札幌までの函館本線は廃線となるであろう。

 

 野垂れ死にすべきは、国鉄時代に国鉄民営化を推進した政治屋どもであり、JRの経営者たちの無力さ、愚かさである。

 

 それなのに鉄路を見守り、鉄路と共に生きてきた人たちは老いて死んでいく。

 

 これを世の無情と言うべきか?

 

 政治の過ちと非難すべきなのか?

 

 

 

 

 

 

 

合評作品「呼び出し」

 

  書きたいこと

 

                豊村一矢

 

 

 

 最近、「何で自分は小説を書き始めたのか」という原点に思いが行く。

 

 私はずうっと公立小学校の教員だったが、四十歳代の半ばころが旬だったように思う。年度始めの家庭訪問のとき、保護者の都合で自宅ではなく自営するラーメン食堂の方に行ったことがあった。暖簾はかかっていたが客はおらず、母親が中ほどのテーブルに座って、わら半紙を4~五枚広げ鉛筆で書きものをしながら私を待っていた。初対面だった。

 

彼女は小説を書いていたのである。その時の会話がきっかけで、一ヶ月後に私も彼女が所属する児童文学同人に加入した。創作活動が教育実践になると思ったからである。結果、文学が教師の仕事の一部になり熱中した。その中で「読者は王様」が信条になった。

 

 退職して数年後に民主文学会に加入し、書いたり読んだりして、はじめは「文学は教師の仕事の一部」「読者は王様」をあまり意識しなかったのだが、それでも文学だけを抽出して純粋培養する気にもなれないでいた。そうしているうちに、書き始めた頃の原点回帰が鮮明になった。これは信念というより習性に近い。

 

 

 

今回、「北海道民主文学」二二号への最初の構想を途中で断念し、ほぼ同じ主題で書いた古い作品を多少改作したのが『呼び出し』だった。

 

 学校教育とその周辺を題材に書くといっても、自分自身が納得できる作品に仕上がらない。迷路に入った感覚になることもあった。

 

 

 

 場面や時間転換が入り組んで繰返され、登場人物は多数多様で複雑だし立場や役割もいろいろ、複数の小物語を分散させておいて結合するそんな作品を一〇〇枚くらいで書きたいが見通しが立たない。戯曲の形式を取り入れたこともあったが、評価は今ひとつだった。

 

 合評では、時間の転換が複雑で混乱した、人物像の立ち上げが不十分、との指摘があった。もっともだと思う。合評で、始めに私が書くときの苦労話や挫折を喋ってしまったものだから、意見を出し難くくさせてしまったのではないかと反省している。

 

 体力も気力も知力も衰える一方だ。

 

だが、かわりに開き直る力がついてくれば、まだ頑張れると思っている。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『軍靴の足音』

 

書いて良かった

 

               北野あかり

 

 

 

この作品を書こうと思ったのは、戦争への道をひた走る安倍政権を許してはならない、平和憲法を絶対変えさせてはならないと痛切に感じたからです。五才で終戦を迎えた私は、これまで一度も人前で戦争体験を語ることはしてきませんでした。戦争体験を語れる最後の年代であり、これではいけないと思いました。

 

合評会では、私の他にも樺太からの引き揚げ者がおり、「空襲で焼け野原になった中をトラックで逃げた」「娘狩りもあった」「私の所は男狩りだった」「引き揚げ後、行き先のない家族は、無縁故者扱いとなり、未開の土地を指定され、木を切り倒し笹で屋根を葺いた家を建て、笹と格闘しながら畑を耕すという過酷な生活を余儀なくされたた人たちもいた」「残留孤児や強制連行された人は無国籍となった」「引き揚げ者は悲惨な人ばかりではなかった。国が用意した客船に乗り、引き揚げ後も職場が確保され困る事はなかった」など体験が語られました。また、戦争体験のない方からは「この作品を通して戦争の悲惨さを感じた。でも北方領土問題が何故大きな運動とならないのか」と問題提起も出されました。

 

その他「中見出しがあるのはいい」「歴史を調べて正確を大切に」「小説にしてはどうか」などの意見を頂きました。

 

これまで戦争体験を語らなかったのは、頑なに過去に封印してきたわけではありません。聞かれれば話す話題は山ほどあるのですが、自らその場を作って来なかったからなのです。

 

それが今回「民主文学会北海道研究集会作品集」に掲載することで戦争体験を紹介する機会を得ました。

 

身近な人と、戦争について話すミニ対話で、読みたいという方も増えました。書くことは大事ですね。書いて本当に良かったと思います。

 

 

 

 

 

 

  243の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

   音楽映画に酔った一日

 

    泉 脩    

    私の好きなラブストーリー ④

  

   豊村一矢

         エッセイ   北の勝

 

   松木 新

      『凍てつく太陽』が面白い

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

       二〇一九年月一日  242号 

 

 

 十二月例会合評報告

 

 

 

「札幌民主文学通信」の例会合評報告は、支部誌「奔流」と北海道研究集会作品集「北海道民主文学」掲載の作品の場合、作者が報告します。 

 

十二月例会では、「北海道民主文学」二十二号から三作、合評しました。       

                               編集部          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  創作 泉恵子『無加川ラプソディ』

 

 

 

「無加川ラプソディ」の合評を受けて

 

               泉 恵子

 

                             

 

 作品化に当たって、やはり現在の私が携わっていて、その中での最大の関心事でもあり問題でもあるところを掘り下げてみようとした。

 

 ドキュメンタリーとするより、「創作」化して書く方が膨らみが出るだろうという思いで、最初からフィクションを交えて描きだした。が、なかなか深まってゆかないもどかしさを感じていた。

 

 本が出来上がってから、後藤さんの評論「記憶と忘却」に教えられることが多かった。こちらの合評で、「個人が集団の記憶を受け止めることの難しさ」という言葉に考えさせられた。

 

 例えば戦争(第二次大戦)の記憶では、直接体験者からの話はどんどん聞けなくなっている。それでも父母の世代から受け継ぐことのできる我々世代は「親たちと同じ過ちを繰り返すまい」と追体験できるが、我々の子供や孫の世代は更に難しくなるだろう。

 

 そこに直接携わっていなくても、多少なりとも関係がある時、その度合いによって関心の深さは異なってくるだろう。どれだけ客観化して自分の問題とするか。人間力が試されているのだろうか。

 

 今話題の「徴用工」の問題も然りで、遠い記憶の人もいようが、私にとっては身近な記憶の一つである。生まれ育った故郷の土地のあちこちに、その痕跡がある。直接見聞きした事ではないが、幼いころに聞いた話は強烈で、胸の奥深くにしまい込まれていたものが、あるきっかけで急に頭をもたげてきたのだ。

 

 私の中の「イトムカ」はそういう記憶の問題なのだと教えられた。それは未だ解決されていない。謝罪も賠償もない。犠牲者の遺骨も全部は還っていない。慰霊碑もない。戦争の傷跡は清算されてはいないのだ。

 

 なぜだろうと考えた時、地域の特殊性や、その背景にある政治の貧困ともいえる誤った認識と、そこから来る社会性が垣間見えてくる。

 

 そこをどう作品化するか、人物の形象が弱いと指摘された事と相まって、これからも課題なのだろうが・・・・・・。

 

 今回ドキュメンタリー的な要素が強いなかで、地名を「R町」「I町」とすることへの疑問が出された。描き方に不統一なところがあったせいと思うが、悩ましい問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  小説 田中恭子「希望を抱いて」

 

 

 

合評を受けて

 

田中恭子

 

 

 

支部長の松木さんから「お母さんのことをちゃんと書いてみたら」と言われたのは一年程前だったろうか。亡くなってから二十五年にもなるのに、客観的に、一人の人間・女性の一生として見ることができなくて、無理だなあと思っていた時、埼玉の大宮の火事の報道があった。まざまざと、夏だというのにひやりと震えるような印象だった小父さんの顔や、やせた腕に精いっぱいの力を込めて四年生の私を抱き寄せてくれたシズさんの顔、そして母の涙が蘇った。

 

 従軍慰安婦問題での数々の隠ぺいや暴言に、私はじりじりする怒りと悔しさと、女性蔑視と差別をひどいことと認識することさえできない議員や識者の感覚に、あきれ果ててもいた。

 

「あの人(朝鮮人女性)たちは、それでお金を稼いでいたんですよ。仕事です。無理やりやらされた人ばかりじゃないんです」

 

マイクに向かって言っている議員の映像が流れ、私は議員の名前を確かめる前に思わずチャンネルを変えてしまっていた。そんな想いがずっと私の胸底に停滞していて、一直線に母を描くはずの作品の冒頭が、シズさんのこととなった。

 

 シズさんのことを書くにあたって、実際には私は夏のあの日一時間ほどしか一緒にいなかったわけで、まずは公娼制度の成り立ちから調べることとなった。そして函館の街の歴史や、共産党の党史、旭川や函館の女性誌研究会の会誌など、手元に重ねて積み上げた。その中の一冊が民主文学同盟札幌支部に所属していたことがある谷川美都枝さんの『ものいわぬ娼妓たち』であり、民主文学会奈良支部に所属していた小阿彌(こあみ)義春さんが贈って下さった『一億人の昭和史』十六冊である。

 

 

 

合評で、読みづらい、説明に終わっている、と指摘されたことは、書いた本人が、書いている最中から自覚していたことで、あれもこれもとにかく書いておかなければで、三十九枚になってしまって、文学的な素養の足りなさ、研鑽を怠ってきた自分の姿勢を思い知らされながら、書き直す気力も時間もなくて提出してしまった。以前、札幌支部の仲間・小縄さんの炭鉱の歴史を題材にした作品に対して、私は、読みづらい、説明が多すぎると言った覚えがある。その時小縄さんは、図書館に何度も足を運び、書籍を買い、人にも会い、手元の資料を精査したら、書いておかなくてはならないことばかりだったので、筆を走らせ続けたと、断固たる口調で、おっしゃっていた。小縄さんの長時間多岐にわたる調査及び精査努力とは比べることはできないし、テーマと向き合う迫力は小縄さんの足元にも及ばない私だが、ほんの少しの資料調べと、新たに知ったことも含め、母の生涯に沿って事実を並べ、これは書いておかなくては、あれも入れておかなくては、と、書き手の思い込みが先行してしまった結果かもしれない。

 

もう一つ、朝鮮人娼婦の入浴場面のことについては、何故一緒に闘おうとしなかったのかと悔いていると記述にあるように、母は闘士ではなかった。ただただ、姉妹を思い、職場の仲間を思い、世の中を良くしたいと思い、裏切りはその大切な人々の心をずたずたに引き裂いてしまうことだと深く思い知って、取り調べとはいえない拷問にも、刑務所での生活にも屈服せずに頑張っていた二十四歳の女性である。理論的な勉強をする機会もなく、軍国主義的教育を受け、電話局の就職試験では、「女ながらもお国の役に立ちたい」と書いて採用された経緯を見ても、母の中に巣くっていたであろう朝鮮人への差別意識が払拭されていたとは思われない。でもあえて『交換台』という手記の中に項目を立てて、明治時代から繰り返されてきた朝鮮侵略の歴史を記した上で、刑務所での体験を明らかにしたのは、七十五歳までの生き方の中で獲得した朝鮮の人々への謝罪と連帯の意識の表れだと思っている。更に、この手記の中にシズさんのことは一行も書かれておらず、あたかも三人姉妹であったかのような記述しかない。シズさんのことを書くには、相当の原稿枚数を要するので書けず、十六歳で娼妓とされ、闘う気持ちも奪われて遊郭の中で亡くなった姉への想いも込めて、『朝鮮婦人がつぎつぎ投獄』と項目を立てて書いたのではないかと私は思っている。

 

 

 

六十七歳で現役を引退した次の日、母に「お疲れ様のプレゼントは何がいいの?」と聞いた。「なんでもいいから、音の出るものがあったら嬉しい。ピアノでもハーモニカでもなんでも」と答えた。いろいろな人に相談の結果、母の友人の土井道子さん(土井さんは母を短歌の世界にも誘ってくれ、母は亡くなるまで《歌群》の同人だった)が、娘さんが昔使っていたオルガンを物置の奥から引っ張り出して、届けてくれた。早速オルガンの前に立った母は、親指と人差し指だけで鍵盤のあれこれを押していたが、やっと椅子に腰を下ろし右手だけでメロディーを奏で、歌い始めた。「シロジニアカクヒノマルソメテ」。そこまで歌って母はハッとしたように立ち上がり「私ったらまったくもう」とオルガンの蓋をパタッと閉めてしまった。あんなにほしかった音の出るもので、最初に奏でることができたのは『日の丸』だけだったことに母はかなりショックを受け、オルガンは部屋の隅に飾り置かれるままとなった。

 

もうひとつ私の中で忘れられない母の一言がある。一九八〇年代のある年の大晦日、例年と同じく、お正月に食べる煮しめやお雑煮の汁の下ごしらえをしながら、卓袱台の前に陣取ってテレビに向き合っている父の背中越しに、紅白歌合戦を垣間見ていた。沢田研二さんが画面に登場していた時、「この人は変な衣装だけど、随分と歌の上手な人だねえ、歌に力があるねえ」と、まな板の上の手を止めて感心した風に言った。父は振り返ってびっくりと言う顔で母を見つめ、母の横にいた私は、良いものを良いと見抜く澄んだ目を母は持っていると感心した。

 

数々のエピソードを織り交ぜて、展望を抱き、どんな困難や苦しみや悲しみに会おうとも

 

見失わず手放さず、その展望を次の世代に繋いだ人物像を描くことがで

 

 

 

きたらよかったのかもしれない。

 

 

 

この作品を取り上げてくれた札幌支部の合評会に、事情があって私は出席できなかった。

 

でも貴重な例会の時間を費やして作品の合評をしてくださった事、感謝しています。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  評論 後藤守彦『記憶と忘却』

 

 

 

記憶の問題の重さ

 

                後藤守彦

 

                          

 

   評論には、意識しているわけではありませんが、私の体験と思いを織り込んでしまいます。客観性に徹するべきとの考えもあるでしょうが、生き生きと評論にするにはそれでいいと思っています。この作品でも、言葉の暴力による私の加害と自責に言及しました。これについては大いに共感するとの発言がありました。

 

これは個人の記憶の領域のことでしたが、評論の後半で論じた集団的記憶との関連が十分深められていませんでした。この点では批判がありました。日本人の忘却性についても議論になりましたが、加藤周一が探求した「今=ここ主義」の問題を、さらに考えつづけていきたいと思います。

 

休憩時間に、松木さんのご母堂が九四歳で、拙稿でとりあげた『火山島』を読了されたと聞き、感激しました。作者の金石範は今九二歳ですが、続編を雑誌『世界』で書き続けています。 

 

その姿勢から学びたいと思います。

 

 

 

 

  

 

 

  242の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

   伝統の創造

 

    泉 脩    

    私の好きなラブストーリー ③

  

   豊村一矢

     連続エッセイ  床屋談議 20 (最終)

 

   松木 新

      『このミス』第一位

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

   二〇一八年十二月一日  241号 

 

 

 

 

 

   十一月例会合評報告

 

 

 

「札幌民主文学通信」の例会合評報告は、支部誌「奔流」と北海道研究集会作品集「北海道民主文学」掲載の作品の場合、作者が報告します。                                   

                            編集部

 

     

 

 

 

 

 

合評作品

 

進藤良次「海と父と」(『民主文学』十月号)

 

 

 

報告者   松木新

 

 

 

作者を迎えての合評だけに盛り上がった。

 

海に生きる父親の凡庸な生き方を、きらきらと光らせて描いた作品、父親と作者の距離感が適切、簡略な叙事文体で海に生きる父親像が生き生きと動いている、アブラコのハエ縄釣りや飯寿司づくりの描写に臨場感がある、などを報告した。

 

「文芸時評」での北村さんの批評については、バルザックの人物造形をドストエフスキーが深化させたことにふれながら、北村批評はバルザックの域に留まっていると指摘しておいた。

 

日高を舞台にした作品なのに、なぜ、アイヌが登場しないのか、という疑問も提起した。

 

討論のなかでは、海を主題にした作品が『民主文学』に掲載されたことの意義が強調された。同誌上では、このところ一次産業を主題にした作品がほとんどないことが危惧された。

 

最初の四行と最後の六行の文体が別人のようだと指摘された。作者が種明かしをして、一同は納得した。このようなサンドイッチ方式をあえて採る必要がなかったのではないか、という意見もだされた。

 

起伏がないので面白くないという意見もだされたが、タイトルに象徴されているように、「海」を全面にだすことで、この作品が広がりをもち、読む人に感動を与えているという指摘はそのとおりだろう。

 

漁業の体験者が、自分の世界を描いた作品だ、と全面的に受け入れたが、漁業の未経験者がその細部にまで想像力を働かせることは、至難の業のようだ。あらためて、体験の相違が、読解力を大きく左右していることについて、考えさせられた。

 

かけがえのない尊い人間を、今、書き留めておかなければならないことを、この作品から学んだという意見には、皆、同調した。

 

北村さんの「文芸時評」については、こういうことをいわれると作品世界が分裂してしまう、稚拙な作品で読者に媚びる方法では、この作品の良さが死んでしまうなど、不評だった。

 

アイヌがなぜ登場しないのかについて、作者が、日高では「えりも」と「奥日高」にだけアイヌが生活していないからだ、その理由は、「百人浜」の由来にある、と磯谷則吉の『蝦夷道中記』を紹介しながら説明した。初めて聞いた人も多く、勉強になった。

 

 

 

補遺 〈百人浜〉

 

磯谷則吉『享和元年歳次辛酉 蝦夷道中記』に、次の記述がある。

 

「二里計も登り左の方東海の濱エリモ岬百人濱 百人濱と唱ふ事は寛文年中の頃かと シャムシャインと云蝦長津軽の金堀庄太夫といへるものを婿として黨を結ひ辻頭蝦地オシャンベまてもおそひ来りしか此事公に聞へ南部津軽の両家へ台命ありて松前と共に是を討せしめ候ふて黨主百人を此濱におゐて誅せられしより百人濱と名付しよし也」(太字は引用者)

 

この書籍の末尾に、「京和元年秋七月於箱館旅宿記 磯谷則吉」とある。「京和」は、原本を現代語に訳した際の、「享和」の誤植だろう(ちなみに、現代語訳に当たったのが誰かは不明だが、釧路の研究団体のようだ)。

 

関根達人「アイヌの宝物とツクナイ」によると、享和元年(一八〇一)に、蝦夷地御用掛の松平忠明に随行した磯谷則吉が、『蝦夷道中記』を記した、とある。

 

平成十三年(二〇〇一)三月三十一日に発行された『増補 えりも町史』は、次の様に記述している。

 

「『百人浜』という地名は古く、すでに二〇〇年以上前の寛政三年(一七九一)の『東蝦夷地道中記』にその名が記されている。その名の由来については、『南部藩の御用船が難破し、百人余がこの浜で絶命』『シャクシャインの乱後に、それに組みした金掘り一〇〇人余人と、かくまったアイヌを虐殺』『十勝アイヌと幌泉アイヌの古戦場』などの諸説がある。既刊『えりも町史』には、その説と一石一字塔碑文の読み下しが記されている」

 

榎森進『アイヌ民族の歴史』(二〇〇七年、草風館)の第五章「シャクシャインの戦い」には、「百人浜」にかかわる記述はないが、気になる箇所がある。

 

「松前軍は、(中略)一六七一(寛文一一)年春、『シラオイ(現白老町)』に出陣して日高の『シベチャリ』より『奥七ケ村』の仕置を行った(『寛文拾年犾蜂起書』)。ここにいたって、シャクシャインの戦いは、最終的にアイヌ民族側の敗北として終結するのである。事件発生後、ほぼ一年九ヶ月目のことであった」

 

右の引用文のうち、「日高の『シベチャリ』より『奥七ケ村』の仕置を行った」ということのうちに、百人浜で「誅せられし」事件が含まれているのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  評論 野上彌生子『迷路』の世界

 

 

 

合評を受けて     松木 新

 

 

 

「野上彌生子『迷路』の世界」の合評を受けて、何よりも嬉しかったのは、何人かの人たちがこの評論をきっかけに、『迷路』を読み始めたり、読んでみたいと言ってくれたことでした。

 

文学会に加入したての頃、大会で有名な作家に会い、何かのはずみで『迷路』を読んでいないことを知り、ショックを受けた記憶が今でも鮮明です。

 

誰もが知っている名作だけれども、じっくりと読んだことがない小説は、ぼくも結構あります。『源氏物語』や『ドン・キホーテ』、『ユリシーズ』などはその最たるものですが、さすがに、『フィネガンズ・ウェイク』だけは、Ⅰ~Ⅳまでが手元にあるものの、絶対に読み終えることなど出来ないだろう、と「確信」しています。

 

浅野さんから、渡辺澄子と平野謙との師弟関係を教えてもらいました。彼女の論調に、何となくざらざらした肌触りを感じていたので、納得できました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  旅行記  沖縄の少年

 

 

 

「沖縄の少年」について   村松祝子

 

 

 

この1年近く「札幌民主文学」の例会に参加するようになって、何か書かなければならない責任を?感じていました。しかし何を書くか定まらない中で以前沖縄旅行した時、印象に残った少年の模型姿が浮かんできました。ある日の合評会で「沖縄のことでも書こうかな?」と言ったら遠くの席の松木さんが「そりゃいいですね、ぜひ書いてくださいよ。」と細い目が喜んでいるようで、その嬉しそうな顔に答えねばならないと、当時のメモ帳を探しましたが、およそ10年前の資料もパンフも棄捨した後で、頼りにするのは空想の世界と平和記念館で求めた3冊の本でした。 まずは作文的に書き始めイメージの浮かぶまま書いているうちに何を書こうとしているのか、どう書いたら良いのかの壁にぶつかり、1ヶ月近くも休んだり、近づく締切日に追いかけられるような気持ちにもなり、悪戦苦闘しながら仕上げました。書き終えて沖縄に関する事件やニュースに敏感になり沖縄は私にとってすぐ隣に存在する感じです。合評会では泉恵子さんから定年退職から換算して第二次世界大戦を経験した年齢が合わないと指摘され、大雑把な書き方を反省しました。時代の大切さをしっかりと確かめなければと肝に銘じた次第です。また夜光虫という表現もこれは海の生き物であり決して空中を飛ぶ生き物ではないと指摘されました。確かに自分のイメージは夜に飛ぶ蝶々か蛾のイメージで書いたので、ここも不確実な表現でした。石川弘明さんからは全般の旅行記を切って少年を幽霊に仕立ててシナリオ風に書いたらとのアドバイスも頂きました。しかしそれは新たな世界のような気がします。

 

どう書いていいか苦しんで自然に出てきた文章に、自分の心の片がそれもほんのチョピリ、表わせられた箇所は読み手の心にも感じるのだと思いました。

 

事実の羅列の奥にある真実を書くことだとも言われました。哲学的表現で頭を悩まさられます。

 

「民主文学」仲間の中に入って勉強させていただきながら、いつかは書きたいと思っていた沖縄の少年を「北海道民主文学」に載せていただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

  241の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    「最大遺物」を受け継ぐ

 

    泉 脩    

    秋月礼子「雑種天国」   心の病とたたかう人々

 

    私の好きなラブストーリー ➁

  

   

   豊村一矢

     (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方  5 (最終)

 

   松木 新

      『暗幕のゲルニカ』が面白い

 

   村松 祝子

      小誌 エルサレムのアイヒマン 悪は「陳腐」である

 

  

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

 二〇一八年十一月一日  240号 

 

  支部例会報告にかえて

 

 

「北海道研究集会」参加報告

 

  民主文学会札幌支部は月一回の例会を原則にしていますが、「北海道研究集会」が開催される場合は、そこへの参加を例会に換えることにしています。

 

今年十月十三・十四日、「第二十二回北海道研究集会」が札幌市で開かれました。本号の支部例会報告は、札幌支部会員が第二十二回北海道研究集会と作品集『北海道民主文学』二十二号にどのように関わったかについてまとめます。

 

「北海道研究集会」は隔年で開催されてきました。『北海道民主文学』は研究集会のための作品集ですから、冊子の編集・発行も隔年です。

 

札幌支部からの参加者は(全体参加者二十六名中)十三名でした。初参加は一名。前回の二十一回の集会(二年前)は十四名でした。前回の参加者で今回出席できなかった人は二名、病気療養などが理由です。

 

 『北海道民主文学』二十二号に三十作品が掲載されました。うち、札幌支部会員は十五作品の掲載です。

 

 数字を比較すると、札幌支部は全体のほぼ半数ですが、各支部がある市町村の人口比から見ると札幌支部の割合は十分とはいえません。

 

札幌支部は、集会の開催地が札幌ということもあって、会運営では、会場設営、司会進行担当等々で、札幌支部のメンバーが協力しました。

 

 前回からの課題の一つに『北海道民主文学』への原稿提出が、経費削減のため、ワードで作成したデータでなければならないことでした。前回はパソコンの苦手な人が多く大変でしたが、札幌支部に関しては格段に進歩しました。その結果、著者校正を含め四校出来たことは、まだ不十分なところもありますが、成果です。

 

二十二号に掲載された十五作品には力作が多く、北海道研究集会での合評に加えて、さらに十一月例会から十二月例会、一月合宿例会と作品研究を継続していきます。

 

そして、合評を受けての筆者の思いを全員分、本「通信」で特集を組んで掲載する予定です。    (豊村一矢)

 

 

 

 240の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    再び鎮魂の歌を聴く

   

   泉  脩    

     私の好きなラブストーリー ①

        

   豊村 一矢

     (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方  4

 

     

   福山 瑛子

        民主文学に関わっての六十年余を振り返る(十)

              

   松木 新

      「政治少年」とスタヴローギン

 

   村松 祝子

      小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 3

 

   村瀬喜史

      まゆみさんとMEMENT・MORI 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

        二〇一八年一〇月一日  239号 

 

 

  

九月例会合評報告

 

 

 

 合評作品

 

宍戸ひろゆき「階段で」(「民主文学」九月号)

 

 

 

レポーター報告   馬場雅史

 

 

 

 文部官僚の腐敗と無能力、不道徳なふるまいを糊塗するかのように、学校現場にはきわめて管理主義的な政策・制度が押し付けられている。この作品は、小学校三年生を担任するベテラン教師である「私」が、強い上昇志向を持つ新任教頭の管理主義的な企図をやり過ごしながら教育実践をすすめた経験を描いたものである。権力的な統制に抗する視点からあるべき教育の姿を示唆する作品となっている。子どもの成長を願い、保護者との協力をすすめようとする「私」の想いや実践は、こころに染み入るものである。

 

 しかし、元教師であったぼくにはどうしても気になることがある。一つは、「私」があまりに孤独だということである。仲間がいない。管理職も組合員も同僚ですら仲間ではない。孤高であることを誇っているように見えるが、それでは教育は成り立たない。教育は個人プレーではない。二つ目は、「私」が肝腎な時に言葉を失う、あるいは言葉を飲み込むことである。「週案」の提出を求める野口にも、教務主任になることを勧める組合幹部にも、「経験にもとづいたずさんな指導」と「私」の実践を侮辱する新教頭にも「私」は反論しない。「してもしょうがない」という諦めがあるのか? だが、そんな諦めは傲慢に近い。誠実に心を込めて反論すべきである。三つ目は母親の描き方についてである。母親は「教育熱心な母親」「賢く毅然とした意志を持った女性」「身体能力への自信」「他の子の気持ちまで考えられる、いいお母さん」とされている。それは事実であろう。しかし描くべきはそうした母親の内面にある「苦悩」であり「困難」であるはずだ。何が、母親をして「賢く毅然とした意志を持つ女性」にしているのか、そこへの社会的視点と個人的共感がない。おそらくこの作品の文学としての価値の源泉はそのあたりにあったはずだ。

 

 例会参加者の感想・評価も分かれた。第一は「素直で読みやすい」「子どもに寄り添った教師の姿が良い」というというものだ。第二は「経験だけに頼る『私』に疑問を感じる」「なぜ『計画―実践―反省―実践』ということや『指導案の作成』に反発するのか理解しにくい」というのものだ。これらの感想には「現実の学校現場の厳しさと作品の世界にはズレがある」「こうした実践では若い教師の共感を得られない」「独りよがりで自己中心的な実践・作品であり好感を持てなかった」など厳しい意見が伴った。

 

 議論を通していくつかの課題も明らかにされた。一つは、文学に表れた教師像について整理検討する必要があるということだ。「金八先生」幻想がいまだに教師経験者の中にあるということになどにもかかわってである。二つ目は「好き・嫌い」という視点からの作品評価はいかがなものかということに関してである。引き続き議論する必要を感じた。

 

 

 239の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    とにかく前へとにかく空へ

   

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る⑦

        医学と私

     山形暁子「家族の小径」

        銀行でたたかう共産党員夫妻

 

    豊村 一矢

     連続エッセイ    床屋談議19

    (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方3 

     

   福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(九)

              

   松木 新

      山本有三「女の一生」三第噺

 

   村松 祝子

      小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 2

 

   村瀬喜史

      多喜二とロマン・ロラン 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

                 二〇一八年月一日  238号 

 

 8月例会合評報告

 

8月例会合評報告は、「レポーター報告」と合評に釧路から参加してくれた合評作品の著者、増田さんの投稿を記載します。編集部

 

  

 

 合評作品

 

増田竹雄 『二年目の春』

 

          (「民主文学」8月号)

 

 

 

レポーター報告

 

村瀬喜史、

 

合評作品、民文八月号,増田竹雄「二年目の春」。作者本人が釧路から遠路かけつけ、参加した。私がさそった動機は、詳細なことは本人でしかわからないことがあること、もうひとつは、東京で行われている「作者と読者の会」を北海道でもやろうと思ったこと。釧路の見田さんや松木さんに事前に電話の了解をえていた。

 

私のレポートは、この作品は民主文学誌に初登場、力作で70枚。当時の国鉄労働者の戦いが、よくわかるもので、

 

  1. 4・17スト、共産党入党、65春闘の拠点スト。貨物列車の最初の乗務で投身事故。

  2. 「4・8声明」と反ストのビラまき。釧路車掌区分会の教宣部長の野原進の参加。などストーリーにそって6点と私の感想を最後に、A4レジュメ一枚に圧縮して報告した。時間不足で半分しか話せなかった。

 

続いて,増田さんが、

 

  1. モチーフ 労働組合の組織率の低下で18%になっている現状を憂いて、いろいろ提案している。

  2. 4・17ストと組合の査問などを真正面から書いた。作品にはふれていない狩勝トンネルの難所と歴史的闘争にもふれた。これは一昨年に書いたもの。

 

 

 

参加者の意見・感想。

 

 

 

◎すごいエネルギーだ。迫力がある。野原進の一時代,教養小説のようだ。 

 

◎真正面から労働運動を書いている。

 

◎今の若い労働者にはうけない。

 

◎階級敵への批判が浅い。 

 

◎女性を描くのが、いまひとつ。夫人のたたかいも描く。「屋台」のところもふくらませたい。

 

◎飛び込み自殺のところ踏み込みが浅い。

 

◎文学的香りがない不足。

 

以上

 

 

 

札幌支部の例会に参加して

 

釧路支部 増田竹雄

 

 

 

報告者の村瀬さんから「二年目の春」を七項目にまとめた資料が配布されました。

 

資料㈠「落合まで行き引き返すとすれば……」「魔の狩勝トンネル……」に触れられていない。

 

ご指摘の通りです。魔の狩勝トンネルは急勾配、千分の二十五で戦後の復興を急ぐ政府と国鉄当局は、輸送量の増加の問題を労働者と労働組合に押し付け、その結果、悲惨な事件が発生したこと、新得機関区の職場離脱が誰の計画で行われたのかということ、これらを野原進の見聞だけでは書けなかった。

 

主題(何を)モチーフ(書くべく意図)題材(何について書くか)はっきりしていなくて曖昧だったと思っています。

 

資料の六項目「女性の描写を」と指摘しています。「屋台風の焼き肉店」での出来事をリアルな描写が必要であったと思いました。

 

進と斉藤との関係について……斎藤の弁解をするつもりはないのですが、斉藤が党員でもなく進に無理矢理、四・一七スト反対に協力させ、ストは間違いだったと頭を下げるが、反省が不十分なまま進に「入党」を薦める斎藤の矛盾が指摘されました。

 

斉藤は、進が国鉄に就職以来の友人であり、二人三脚で苦楽をともにした唯一の人でした。一九六四年の時代背景として、党の分裂から七回大会で自主独立の党として統一を回復し、安保闘争と統一戦線の構築、三井三池闘争で闘争方針を前面に掲げて闘ったこと、党の八回大会で大衆闘争と党勢の倍加運動に成功を納めたことなど……当時の事が蘇って来ます 党の労働組合に対する基本路線が確立されても、それを指導する地区党の指導体制に弱点があったように思います

 

四・一七スト問題で斉藤を余り𠮟責できなかった。むしろ前衛党が地区党に弱点があって良いのかとさえ思った程です。

 

これも一九四九年七月行政機関職員定員法反対の闘いで党を知り共産青年同盟(民青)に加盟を勧められた経緯もあり党に対する同情があったように思います。 以上。

 

 

 

 

 

 

 

  238の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

  『羊と鋼の森』から「砂漠の花」へ

   

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る⑥

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