札幌民主文学通信  二〇一七年月一日  220号 

 

 

 

「合評を受けて特集

 

その4)

 

 

 

 

 

 

 

合評の力

 

菊地大

 

 

 

合評の中で、「主任闘争って何だか分からない」という人が何人か居て、「はっ!」と思った。文学は特定の人を対象に書くものではない、勿論、自分のために書くものでもない、という当たり前のことを……。そして、「主任闘争とは一体なんだったんだ」と、改めて考えた。

 

 

 

ぼくが小説を書き始めたときに、ある先輩が次の言葉で励ましてくれた。

 

「小説はモチーフの重さ深さで、その達成の高さが決定する。書こうとする素材及び主題への繰り返しての反芻と検討の中に、作品を高いレベルに引きあげる力がある。その繰り返しの精神作業の中に、モチーフが鍛えられ、テーマが明確になっていく。創作は「完」と書いて、いくら(なんぼ)の世界である。未完は無であり、完は存在である。書き始めたら終わらせること。その文学世界を完結させることが大切である。そして、最後の詰めの努力を忘れない。一字一句、ゆるがせにしない推敲の努力が大切である。平瀬誠一」

 

あの日、帰りの電車の中であれこれ考えているうちに、それを思い出した。ぼくは先輩のその手紙を、目の前の机の上に張ってある。家に着くなり、コートも脱がずにそれを見た。何時も見ているのだが、改めて「そうだ」と思ったが、ひとつの作品を十数年も完結できずにいる俺に、小説を書く資格があるのかとも考えた。

 

 

 

「主任闘争」は、単に手当てを貰うか貰わないかという組合の闘争戦術の問題ではなく、教育のあり方、教職員組合運動の存在意義を問われる闘いだった。毎日毎日がドラマだった。そこで多くの教師達は成長した。それは、教育運動史として残しておくという整理の仕方ではなく、これからも続くであろう教師のたたかいは、小説という手段で残すのが最も適切だと考えた。それに揺るぎがないかと、例会は考えさせてくれた。

 

やっぱり、ひとりで考えていてはだめだ。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

八〇年代初頭、主任制度化撤廃を目指して闘う日教組と文部省の間で板挟みになり自死した校長と、日教組の人権侵害に苦悩する教師が描かれる。「教師にとって大事なことは子どもと学び合う喜びを共有すること」という言葉が胸を打つ。作品の感性が待ち望まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 言い残したことなど

 

               浅野勝圀

 

 

 

 今回取り上げられた作品のうち、菊地さん・松木さんのものは初読時からぼくに深い感銘を残していました。

 

 「ある校長の死」については、その内容を多少は伝えられたように思いますが、「ジャッカ・ドフニ」の方はかなり不充分だったと思い返しています。

 

 映画「沈黙」に描かれた凄まじいキリシタン迫害シーンに、松木さんの紹介する同じ場面がそっくりオーバーラップしたこと、「ジャッカ・ドフニ」の結びに重ねて「ぼくらの課題」を提示する結論の一文に、ほとんど美しいと形容したいほどの感銘を受けたことなどは、きちんと伝えるべきでした。

 

 

 

 さて、自分の作品のことですが、前号二〇号の合評で、「作品紹介をもっと丁寧に、わかりやすく」「第二弾を書け」(青木陽子)、「もういっぺん書け」(浜比寸志)などと指摘されたことが、今回の執筆にあたって大きな推進力になっていたと思います。

 

 今回の合評では、好意的・肯定的な指摘として、次の3点が印象に残りました。

 

 1.「ケストナーはよく知らなかったので、おもしろかった」「はじめてケストナーを読んだ。いい作品だ」「ワーズワースの(おさな子は大人の父だ)を印象深く読んだ」など、作品や作者への興味、共感を寄せる指摘。

 

 2.「自分史の部分がおもしろかった」「発想の根がわかった」など、執筆の動機にかかわる指摘。

 

 3.「小説的評論。精神の発展を跡づけながらおもしろかった」「子どもの可能性を肯定している」「読みやすかった」など、全体についての指摘。

 

ほめられるのはうれしいのですが、それは不安や居心地の悪さとも背中合わせになっています。

 

「むずかしい。こういう文章はすごく苦手」という、頂門の一針と言うべき指摘がありました。

 

当日も話しましたが、ぼくは自分の書くものが私性(わたくし・せい)を深めていることを自覚し、これが評論と言えるだろうかと自問自答を繰り返しています。しかしこんなものしか書けない、こんな書き方しかできない自分を肯定し、自分史や創作(物語)との隙間(虚実皮膜の間?)を進んでみたいと思います。

 

合評に参加された皆さんの率直な指摘にあらためて感謝します。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 作者が敗戦後の歴史の転換期に読んだケストナー「飛ぶ教室」を紐解く。ナチスに反対の立場を表明していたケストナーが同時代へのメッセージをこめて書き上げた作品。作品によって閉ざされた感性が開放されていくのか。ぜひ、「飛ぶ教室」を読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて   

 

松木 新

 

 

 

津島佑子は好きな作家の一人です。今度の『ジャッカ・ドフニ』を読んで、一番関心を持ったのが、作中で使用されているユーカラでした。出典さがしに随分と時間がかかった気がします。すべてのユーカラの出典が明らかになり、その意味が明解になった段階で、正直、もう終ったという気分でした。そのために、作品全体の構造分析は後回しになったようです。馬場さんから、「母語の身体性」について論及することの必要性を指摘されましたが、納得のいくものでした。

 

例会の翌日、今月の『新潮』に掲載されている、野田秀樹「足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)」を読みました。十八代目中村勘三郎へ捧げるオマージュです。この中に、「母語の身体性」に関わる箇所があり、とても興味深いものでした。出雲阿国とその弟サルワカとの対話です。

 

サルワカ 母の音は、最後になんて言った?

 

出雲阿国 い、い、あ、い。

 

サルワカ い、い、あ、い?

 

出雲阿国 その母の音は子供の耳に入ると、子供の音、子音になって聞こえた。

 

サルワカ 姉さんの耳には、母の音は、どんな子供の音になって聞こえたんだ?

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は、『死、に、た、い』そう聞こえた。幽霊病になって声を失くした踊り子の最後の音だよ。

 

  (略)

 

サルワカ 僕の耳には、その母の音は、こんな子供の音になって聞こえる。

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は?

 

サルワカ 『生、き、た、い』さ。

 

出雲阿国 え?

 

サルワカ 生、き、た、い。

 

出雲阿国 そうか。「死、に、た、い」も「生、き、た、い」もどちらも「い、い、あ、い」だ。だから姉さんは、あんたが好きだよ。ずっとずっとつらく思っていた、母さんが『死にたい』と思って死んでいったんじゃないか、私は何もしてあげることができなかったのじゃないか。でも違うのね、『生きたい』って言ったんだ。

 

サルワカ それも姉ちゃん、ただ生きていたいの『生きたい』じゃない、お城に『行きたい』だったかもしれない。

 

  註1 河原ものとさげすまれていた出雲の阿国の母は、城に行き、殿様の前で踊るのが夢だった。

 

註2 キャストに、出雲阿国:宮沢りえ、サルワカ:妻夫木聡で、東京芸術劇場で上演中)

 

映画「中村勘三郎」で、「型破り」と「形なし」について語っていたことが、今でも思い出されます。歌舞伎では徹底した修業によって基本の型を修得し守っていくことが基本になります。その基礎の上に独創性が加味されたときが「型破り」で、基礎ができていない人間がそれをやると「形無し」になる、というものでした。文学の世界にも通用するような気がしています。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 津島が『ジャッカ・ドニフ』の作品を通して、読者に訴えたかったテーマがあらすじと共にわかりやすく提示されている。「死者との共生」、アイヌとキリスト殉教者を重ねて「差別に抗する」姿を描いた。残念ながらまだ読んではいないが、奥深いテーマに挑んだ作品だとわかる。

 

 

 220号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     いつまでも中島みゆき

 

   大橋 あゆむ

     小銭持ち

   

   泉  脩

     1. NHKドラマで描かれた女性たち⓶

           「八重の桜」

     2. にしうら妙子「淡雪の解ける頃」

           抒情性と強い意志

 

    福山 瑛子

      童話作家の本で米軍下の沖縄の実態を知る

       

      

 

 

 

 

   札幌民主文学通信 二〇一七年月一日  219号 

 

 

「合評を受けて特集

 

その3)

 

 

 

合評を受けて

                 大橋あゆむ

 

 わたしは『民文札幌支部』の合宿には参加できなかったのですが、「わたしの中の私」を合評していただき、とてもうれしく思います。泉恵子さんには、お忙しい中を、わたしの合評をまとめてくださり、心温まるお手紙と一緒に送っていただきました。豊村さんは、お電話で連絡をとってくださり、エッセイを書いていてあわてたわたしに、締切り日などの配慮をいただきました。

 私は前回の『奔流』第25号の創作「さらさらと」の感想をいただきはげまされました。そして、新たな作品に挑戦する勇気をも持たせていただきました。それで、今回『北海道民主文学』№21には、「わたしの中の私」書くことができました。

 わたしの中には、いつも、もう一人の「私」がいるのです。「私」はいろいろな言葉が入っている引出しを持っています。その中には、今までいただいた感想などが、「励まし」の言葉として入れてあります。特にわたしが「気づかなかったところ」には印がつけられています。

 わたしが書いた文章を声に出して読むと、「私」サッと印のついた引出しから、わたしが「気づかなかったところ」を見せるのです。わたしが書き直してみても、「私」が納得するまで、何度でも別の引出しから突きつけてくるのです。それでわたしは、何度でも書き直していくのです。

 それでも、文章の表現がうまくいかず、進まずで、わたしはため息をつくことがあります。すると、「『私』の引出しには『あきらめる』という言葉はない。『書いてみなければ分からない』という言葉ならある」とほほえんで、「励まし」の言葉をいっぱいに並べてみせてくれるのです。

 わたしにとって、わたしが「気づかなかったところ」や「励まし」の言葉は、書き続けるエネルギーになっているのです。

 合評していただきありがとうございました。わたしが「気づかなかったところ」や「励まし」の言葉は、「私」の引出しに大切に入れました。わたしはこれからも、がんばって書き続けていきたいと思います!

 

 〈橘あおいさんから〉

 夫の暴力によって重症を負った主人公由紀子が、子どものために裁判を起こして闘い、看護師を目指して人生の再起を図る。真っ白な箱に自分を閉じ込め、夫からの暴力に耐えていた由紀子が、健太の「ママ、だいじょうぶ?」という声に抵抗を決意する場面に心を打たれた。

 

 

 

 

  創作か、エッセイか?                  

                     福山瑛子

 

  私は小説を書こうとして、「母の会津と七福神」を書いたが、合評の中で「これはエッセイだ」と言う人がいた。道研究集会でも、同じことを言う人がいて、その時は、私も「エッセイかもしれない」と、それを認める発言をした。しかし、「エッセイとして書いたつもりはないのだが……」という思いはつきまとっていた。

 「エッセイ」という印象を与えたのは、最初の部分にあったと思う。確かに、エッセイ風の書き出しをしてしまった。

 実際には、作品中の会津の旅の部分は、構成上も母と私の会話も、すべてフィクションである。確かに当時、母からきた(先祖に関する)手紙を参考にした部分はある。しかし、旅の間中、母とは会津藩の話をほとんどしなかったのだ。この作品を読んだ妹は、私と母の会話を含め、すべて事実と思ったようだ。私は敢えて否定せずにいる。しかし、もし、母が生きていて、この作品を読んだとしたら、びっくり仰天しただろう。

 私は、そうした創作上のことを積極的に集会で言うべきだったのかもしれない。しかし、作品として、できあがったものに対して、読者がエッセイとして捉えたなら、私は、「それは、それでいい」と思っているのだ。

 合宿研修の一月七、八日、私は「あと、何回、研究集会に参加できるだろうか?」と考えていた。

 その一方で、「あの人のことも書きたい、あのことも書きたい」と、焦る気持ちで頭の中で構想を練ったりしてもいる。こうした矛盾の中にいるのが最近の私なのだ。

 年賀状の多くに、「老化に抗して行きます」と書いたが、それがかなりのエネルギーを要することに気付いている昨今なのである。

 

 〈橘あおいさんから〉

 会津藩士の子孫である母の会津を旅しながら、戊辰戦争やその後の会津若松史に接し、娘にも教育熱心だった母と私につながる歴史を紐解いていく。今は亡き母の年齢に近づき、二十二年前の母との旅を懐かしく回想する娘の温かな心情が伝わってくる。

 

 

 

   合評を受けて

                  室崎和佳子

 

  二〇一三年に初めてチェルノブイリを訪れて以来、私の頭の中からチェルノブイリのことが離れなくなった。

 テレビや新聞で「チェルノブイリ」という音や文字に出会うと、自分の中で何かが反応するのである。

 台所で仕事をしていても、「チェルノブイリ」というその音を耳にすると、どんな報道をしているのだろうと気になり、仕事を放り出してテレビの前へ駆けつける。新聞や雑誌などはなおさらで、その場に釘付けで見入ってしまう。

 あのとき出会ったチェルノブイリの子どもたちの透き通るような白い肌と、はにかみを含んだ弱々しい微笑が忘れられないでいる私だった。

 どんな形でもいいからチェルノブイリのことを伝えたい、という強い想いが今回の作品の背景にある。

 「私」という一人称を使って、原発事故から三〇年たった現在のチェルノブイリで生き抜いている人々と、力尽きて天に召された人々を描きたかった。

 作品の中に作者がいない、という評には「その通りです」と言うしかない。当初から、こういう形で書きたい、と思っていたので。

 この作品は、福島の人たちに読んでもらいたいと思っている。

 しかし、自分たちの二五年後の姿ととらえ、暗く嫌な気持ちになるだろうか、などと考えたりもする。作者として悩むところであるが、結論はまだ出ていない。

 実は昨秋、この作品を書き上げてから、二度目のチェルノブイリに行って来た。

 

 〈橘あおいさんから〉

 昨年、ノーベル文学賞を受賞した「チェルノブイリの祈り」を彷彿させる作品である。被災当時、またその後の年月を経て世代を超えた被害と差別が続いていることを作品は訴える。福島原発事故の被災者たちの声にも聞こえ、衝撃を受けた。

 

 

  「奇跡の邂逅」後記

                     平山耕佑

 

 「民主文学に入っていたおかげです」

 合評が終わったあとそう言ったら皆さん、笑っていた。そんなことでこのエッセイ、批評というよりも「よかったね」「こんな偶然ってやっぱりあるんだね」といった私の「奇跡の邂逅」についての感想が多かったように思う。結末の文に対して「同感!」と言ってくれた方もいた。私自身はそれで満足である。

 それにしても村瀬さんが、貴重な資料を保存し、わからないこと、気にかかること、疑問に思ったことを徹底的に調べる人でなかったら、言い換えると、私のようないい加減な人間だったら、「北海道民主文学21号」の私の作品は全く別なものになっていたはずだ。そんなわけで村瀬さんには感謝の気持ちでいっぱいである。

 秋田君とはその後、お互い夫婦同士で会った。彼の計らいで芸術の森で行われたPMFの野外演奏を聞き、その後彼の家の近くの「名所」に案内された。二つとも実に素晴らしかった。私の妻は話好きなタイプ、だれとでも気軽に話し合う。そんなわけで奥さん同士も親しく楽しんだようだ。

「次はあいの里でぜひ」と提案したが病弱な体の持ち主のこと、しかも南の端から北の端へ。私たちがまた尋ねるしかないかな、とも思っている。出来ればグラスを交わしながら、と思うのだがそうはいかない。それが残念なところである。

 なお合評で、「奔流」ということばが注釈なしに突然出てくるなど一般の読者にはわからない表現があると指摘された。これについては全くその通り。事実そのままだからついつい気分に乗ってしまった。 

 

 〈橘あおいさんから〉

 樺太からの引き揚げで生き別れとなった親友を実名で小説に描き、七十年ぶりに奇跡の邂逅を果たしたエピソードが綴られる。北海文学で文学生活にけりをつけた作者が、再び札幌民主文学会に入られて小説を書いてくださることをうれしく思う。

 

 

 

 合評をうけて思う

               村瀬喜史

 

 先月の「通信218号」のつづきになるが、同じように「読者に不親切だ」と批評された。豊村さんの「リーダー・ファースト」になっていないということだろう。分析的に読み返してみて、どこがそうなのか、まだよくつかめていない。

 私の枕書に中村明著「名文」(ちくま学芸文庫)がある。もう二十五年も前のものでボロボロになっているが、そのなかに「もし源氏物語の文章に、文を短く切り、主語を補い、会話にカギを入れるという三段の加工を施せば、なにも現代語に訳さなくても、それだけで明晰で、わかりやすさが大幅に増す」「そのために一つ一つの文章を短くすることが効果的で「一台の荷車には一個の荷物だけを積め」とも言う。

 私は脱線が多過ぎる、ということだろうか。もう二十年以上も前になるだろうか、弟が「赤旗日曜版」の記者をやっていたころだったか、「読者は高校を出たばかりの主婦だ」と思って、それらの方々に理解して貰えるように書け、と言われていた。

 とまれ、志賀直哉「山鳩」と谷崎潤一郎「陰影礼讃」はどちらが名文か。勝手にしやがれ。文章の手本は多種多様、「読者の心をつかめ」が正解だろう。

「治安維持法と相沢良」をこの視点で読み返してみると、北海道に記念碑のある小林多喜二は知られているものの、野呂栄太郎や西田信春はおよそ知られていない。綴り方事件においてはさらに知られていない。読者を広く掴むには、一言でも説明が必要だった。

 行変えをしたり中見出しをつけたりしたらどうだろうという意見もあったが、この作品を書き変えようとは思わない。別の機会にためしてみよう。

 この作品を書いた動機を、「良子ちゃん」と呼ぶ二人の女性を発見したからと書いた。一人は出獄したとき、写真を撮った祖父の孫、石井啓子さん。もう一人はテルちゃんこと松本照子さん。

 良の獄中書簡が二十三通残されているが、三箇所、「照ちゃん」が出ている。姉・高松千代の家から近所の松本宅に間借りしたとき、そこの若い娘さんが、「照ちゃん」であろうと推定した。その松本照子さんが、「良子ちゃん」と言っているのを聞いて訪ねた。近く建て直す予定の古びたG団地の暗い部屋の中で寝ていた。その後、入退院を繰り返して亡くなった。質問事項を整理して訊ねるべきだった。そのことが作品からすっぽり抜けている。リーダー・フアーストで読み見返して気がついた。

 時を失すると、取り返しが利かない。綴り方事件の叔父・坂口勉について調べようと年上の従姉たちと食事をして語りあったことを前回の「通信」に書いたが、そのとき、もう一人、函館の私と同年齢の従兄を呼ぼうと約束した。父方の長男で元高校教師だが、年賀状が来ない、どうしたのだろうと思っていたら、先週、夜遅く電話があった。突然、亡くなったと言う。二階から落ちて頭を打ち、即死状態だったらしい。民文会員だった小縄さんと同じだ。他人事でない。

 このとき夫人に、わが家のルーツに関する資料を送ってほしいと頼んだら、なんと大きい段ボールで二個も送られてきた。従姉たちとは温かくなってからと言ってあるので急がないが、楽しみと新しい仕事を抱えることになった。

 

 〈橘あおいさんから〉

 二五歳の若さで、治安維持法に倒れた相沢良の評伝。厳しい弾圧の中で全協活動に力を尽くし、特高の激しい拷問にも耐え抜いて、その意思を貫いた相沢良。丹念な取材でその人生に迫る力作。余談だが、東京の上野御徒町駅で相沢良に声をかけた吉田登代(歯科医)さんは、足立区長を務めた吉田万三さん(歯科医、北海道出身)の母親だろうか?

 

 

    未完の課題

                  後藤守彦

 

                                                                

 

 合評会は独りよがりを気付かせくれる、実に貴重な機会です。今回もそう思いました。ご批評ありがとうございました。

 このテーマの根底には、人間の、特に人間の心に対する関心、というよりもっと切実なものがあります。現段階で一定の整理をしましたが、脱稿後も新しい文献を発見しましたし、合評会でも読むべきものを教示されました。論旨が曖昧な点もありますし、このテーマは依然として未完です。

 引用が多いことについてですが、方法論としてさらに考えてみたいと思います。学術論文を書いているつもりはありませんが、一つひとつの概念や言葉の意味をはっきりさせることは、どの表現の場においても大切なことだ、と思っています。

 

 〈橘あおいさんから〉

 思想は人間進化の過程の中で生得的にも獲得するという考え方、クロポトキンの相互扶助の思想を大変、関心をもって読んだ。多喜二の思想形成に影響を与えた書物をぜひ読んでみたいと思った。

 

 

「ゲゲゲの女房」の合評を受けて

                          泉  脩

 

  テレビドラマの評論など初めてだと思います。そこで、「なぜテレビドラマなのか」「なぜ朝ドラなのか」という説明から話しました。この事情は解かってもらえたと思います。

 朝ドラが好きな人ということで、主として女性からの発言が多かったと思います。朝ドラは女性が主人公のドラマが殆どで、女性の支持、共感が多いからでしょう。

 私も朝ドラは殆んど見たことがなく、三年前に「おしん」をDVDで見てからファンになったのです。「おしん」にもモデルがいるそうで、女性はすごいとつくづく思います。

 男は仕事と出世に生き、見栄をはり、家族は二の次になりがちです。その点、女性は家族を愛し、なりふりかまわず働き、時には自分を犠牲にします。そんな姿が、朝ドラにはよく描かれています。

 

 私の評論への批判はなく、残念でもあり、ほっともしました。

 今後、文学評論を再開し、力の入ったエッセイも書きたいと思います。

 あと何年掛けるか、そろそろ秒読みの段階に入ってきたのかもしれません。

 よろしくどうぞ。

 

 〈橘あおいさんから〉

 NHK連続小説を見直し、その人気の要因分析する取り組みとして、大変、興味深く読んだ。➀戦争②家族③創造という三つ、文学においても重要なテーマだ。今後のさらなる分析が楽しみである。

 

 

  0番線の恐怖・考   

                    石川弘明

 

  一九六二年小樽桜陽高校ヨット部は初めて国体に出場した。転校したばかりの新米教師が先輩教師に押し付けられた顧問役であったが、私はヨットの操作法を知らかったのでまず大会のルールの勉強をした。  

 大会で競った相手をルール違反で告発するのである。「水をくれ、と申告したのにくれなかった」などとルール違反の不服を申し立てるのである。審判の監視艇が必ず監視していて疑わしい船は反則失格となる。石巻港で行われた全国大会は悪天候で二レースとも中止してしまった。三人の選手を松島まで連れて行ってウナギ丼をご馳走して慰めてやった思い出がある。

 教職を辞めて大阪に出た私の許に、補欠だった二年生から手紙がきて、正選手となって出場することを知って、高松港まで応援に行った。一九六四年、佐渡ヶ島の両津港で行われた大会では三年生ひとりだけが顔見知りであった。その生徒はヨット部のある大学に進学したいと願って悩んでいる様子だった。

 休暇日数の少ない私は、一日だけ応援観戦して大佐渡一周のバスツアーに出かけて賽の河原、佐渡金山、尖閣湾を一周して「鬼太皷」に出会った。

 翌日能登半島に渡って輪島、能登金剛、兼六園を巡って、ここにも「鬼太鼓」があるのを知った。当時から金沢駅には「0A番線ホーム」と「0B番線ホーム」があった。考えてみると、アイディア、モチーフは五十年も前から抱いていたのである。

 0番線の恐怖は、怪奇ものと思われそうであるが、作者にしてみれば、ごく真面目に取り組んだ作品である。カメラと目の働きとの共通点、死後の世界の不気味さと鬼に対する恐怖、それらの疑問をまとめてみたいと考えたのである。

「蛇と墓」「幼化」と同じ系列の作品であり、前作の「幻想の中の不安」とテーマは共通である。

 この作品のヒロインは生者ではない。鬼も生死不明であろう。むしろ永遠の命を与えられているものと考えた方がよいのであろう。そういう得体のしれないものを、昔は「もの」と称した。主人公はカメラの魔力により力を得た。「物がたり」、「物の怪」は理屈ではない。理窟に合わないから「物」であり、「鬼」となる。死の恐怖が根底にあるから鬼が出てくる。事実だけが物事の全てであると断定しては、理屈に合わないことが多すぎる。理窟に合わないことを含めて描いてこそ、「物語」「小説」「創作」が面白いのである。

 大学四年の時に、風巻景次郎教授の「謡曲」講座を聞いた。謡曲の「序.破、急」というドラマ構成は「起,承、転、結」という四段論よりもある種の説得力があるように思われた。最近は、作者が自由に、承、承、転、転としているが、それは冗長となりがちであり、転、転とするのは、手ばかりを広げ過ぎて締まりのない作品になる。

 卒論を執筆中の私は、「序、破、急」論を一つの演劇論の柱に構成した。

 一九九五年神戸大震災の後で、街中のビルが怖しくなった。それで九か月も過ぎた十月十日の旗日の一日、神戸を観に行った。二十代の思い出に満ちた神戸は歩く道もない有様だった。その年十一月末日会社を退職した。

 長いサラリーマン生活の中で卯月の桜を観る機会は少なかった。退職した翌年春憧れの鈍行列車の旅をすることができた。会津まで普通列車で移動するのである。湯谷温泉で桜を観たきり、公園の桜はまだ開いておらず、飯田も岡谷もまだ蕾で野沢温泉も桜はゼロで、小出も只見も雪の中であり、若松城の花見も一週間先であった。気候は時に人間の生活の計画に思いもよらない障害になることがある。花見一つでも大きな問題となる。 

 今では吉野山の千本桜も造幣局の夜桜も懐かしいだけである。その花見一つにしたって、イメージは千差である。

 シナリオの読み手も多岐である。一九〇九年映画撮影現場で「シナリオスタッフ」という職制が職場内に認めてから、一世紀を経てなお、シナリオは独立していない。一九一一年フランスにおいて、映画と蓄音機の二つを同時に操作するという画期的な発声映画が生まれた。同時に「シナリオ」は「セリフ」を必要とするようになった。

「シナリオ研究十人会」の北川冬彦などの「シナリオ文学運動」から九十年余、シナリオは不遇のままに未だ独立し得ず、作品=興行、監督第一主義はまかり通っている。一九四七年、「シナリオ作家協会」が結成されたが、「シナリオ文学運動」は衰えてしまった。

 興行第一の映画の世界の中では独立が難しいのは、中心にある映画の魅力は興味と関心が高いのだが、利益第一主義の興行の中で「シナリオ」は成長しえない。独自の文学賞を持たない文学はいつまでたっても独立しえないのであろうか。

 先ずはシナリオを皆さんに読んで頂くことが第一であろう。読みながらイメージに浸り、そこに展開しているドラマを読み取っていただくのが肝要であろう。なによりもイメージと想像力であろう。

 

 〈橘あおいさんから〉

 主人公は女神によって、名声だけでない真の写真芸術に導かれる。「光が当たっていない影にこそ、事実や真実があるのだ」ラストで語る主人公のセリフに、この作品のテーマがある。謎めいた美女を探し求めて真実の姿に出会うストーリー展開は推理小説のようであり、「夕鶴」や「雪女」を思わせる。

 

 

 219号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     音楽ミステリの愉楽

 

   大橋 あゆむ

     いやされるニャー!

   

   泉  脩

     1. NHK連続テレビ小説をめぐって

           「ウイスキーを買う」

     2. 動乱を生きた女性たち

           幕末から明治にかけて

 

    豊村 一矢

      「差別語」なるものの使用、

       「差別表現」なるものへの看過し難い非難について⓶

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信二〇一七年月一日  218号 

 

 

「合評を受けて特集

 

その2

 

豊村一矢  「おれと私」

 

北野あかり 「誕生日の想い出づくり」 

 

馬場雅史  「国破れて㈠」

 

 

 

 

 

 原点を思い出させてくれた合評

                豊村一矢

 

 

 

 「おれと私」は、北海道研究集会の分科会でも支部例会でも、構成や表現方法について多くの指摘を受けた。構成や表現方法の工夫は今回の創作で力を注いだところだから、そこを指摘してくれたのは嬉しかった。

 

 一方、何度か「実話か」とか「モデルはあるのか」と聞かれた。私は常にフィクションでしか書かないのだが、札幌支部の大勢からみると、たぶん少数派だろう。

 

 リーダー・ファースト(読者優先―作品の良し悪しは読者が決める)で、作品世界に苦も無く入ってもらえる表現方法に熱中し、それでいて主題にこだわってきた。フィクションでしか書かなかったのは、リーダー・ファーストの姿勢の、無自覚な結果だと思う。

 

文学作品らしきものの創作は、小学校教員三年目のとき、学習発表会(学芸会)の劇指導で既存の脚本に不満で、自分で書いたのが、多分、初めてだろう。学習発表会での劇指導は教育活動だから授業であり、脚本を書くことは教材づくりだ。当時、私は、文学に志はなかったが、教育には、少し、あった。

 

昭二二制定の「教育基本法」第一条(教育の目的)「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」

 

そうすると、脚本は自ずと、明確なテーマをもち、欲を言えば社会性も意識し、発信力があり、場面構成、場面展開(変化・速度、間)にメリハリがなければならない。演ずるのも観るのも児童なのである。

 

劇指導という授業の主要教材である脚本を書くとなれば、私の場合、あるいは私の能力ではフィクションで自由に構成しなければリアリズムに徹することができなった。

 

教員経験二十年の時点で、私は児童文学に首を突っ込んだ。ずいぶん熱中したが、いま振り返れば、そこでも教員根性が根底にあったと思う。特定のモデル、実話、体験を軸にして作品を書いたことがない。

 

さすがに今は教員根性で作品を書いてはいない(たぶん)が、作風は変えられそうにない。余命も限られているし、変える必要はないと開き直ろうと思う。

 

今回、自分の創作姿勢の原点まで思いが行くことになり気持ちの整理ができた。感謝。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 頻回な転校を繰り返す「おれ」と、おれを担任する教員の「私」の二つの視点で作品は展開する。子どもや夫を病気だと偽り、市役所に保護費の申請に行きPTAの役員を進んで引き受けてお金を盗んでしまう母親の実態が明らかにされる。「おれ」はママの様子を冷ややかな目で観察し、他のママさんたちに「かわいそうね」と言われて「てめえと違うのはフコーなのかよ」と憤る。作品の全体として、したたかに生きる親子のような印象が残るが、普通に生きることができない母親の苦悩が電話での会話から伺い知ることができる。現代の家族病理として何を考えるのか「私」の思いを知りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

言葉の表現に注意すること!

                       北野あかり

 

 

 

「誕生日の想い出づくり」はエッセイのつもりで書いたのですが、創作にした方がいいのではないかとの助言に、少し小説っぽくなってきたのかなと、深く考えもせず創作として掲載することにしました。

 

合評会では「エッセイの方がいいのではないか」「エッセイとして読んだ」などという意見や、小説にするには「想い出づくりを膨らませる」「どういう想いで訪ねたのかによってエッセイともなるし小説にもなる」などの意見を頂き、小説にするには、もう少し深く掘り下げてみることが大事なのだと感じました。

 

また、「未婚の看護師は一人前でない」と云われ……という文書表現について、

 

「未婚だって素晴らしい人は沢山いる」「ヘイトスビーチと同じ差別的な言葉」「作者はそれを、それもそうだで留まっている」「先輩が一番云いたかった思いは何だったのだろうと、本当の思いが伝わるように書くこと」などの指摘を受けました。

 

何度か推敲もしたのに、合評を受けるまで何も感じなかった自分に気づき驚きました。

 

云われた言葉をそのまま書けばいいというものではない、誤解を招くこともあり、言葉で相手を殺す事も生かすことも出来る、文章を書く上で注意することは言葉の真意を見ようとする心構えを身につけなければならないと改めて認識させられました。

 

このような合評することができる、札幌民文支部の取組みはとても有意義で、月一回の集まりに参加するのも私のとっては、楽しみの一つとなっています。

 

 

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 参議院選挙の只中、姉妹の誕生日会を兼ねた旅に出る主人公は、樺太で終戦を迎え、引き揚げて来た。看護師として生き、早くに夫を亡くした。戦争への道に突き進む与党を食い止める共産党の躍進を求めて、旅行後は選挙戦に加わる。誕生日を祝い命を尊ぶ社会を望む主人公の真摯な姿が印象に残った。

 

 

 

 

 

 

 

国破」を合評していただいて

 

  馬場雅史

 

 

 

 十二月三日、札幌支部例会で「国破(一)」を合評していただいた。

 

 最初に出された論点は「完結していない作品の合評は可能か」ということだった。これが不可能であることは当然であり、釈明の余地はないと自分でも思っている。当初から二百数十枚の作品にする予定で書き始めた。掲載誌の「北海道民主文学」の制限枚数が六十枚ということで、一旦は六十枚程度のダイジェスト版にしようとしたが、内容にボリュームがあるので、かなわなった。そこで、以前いただいたアドヴァイスにしたがって、連作の一篇にしようと試みたが、力不足でかなわなかった。やむなく連載形式をとって、その第一回としたのだが、それが精いっぱいだった。

 

 であるにもかかわらず、皆さんの好意で、ひとまず「合評」のまな板に載せてくださったことには感謝している。「羅生門」の授業について、評価する意見をいただいた。これはぼくの教員生活において、もっとも記憶に残る授業であった。一見困難を抱える子どもの持つ知性というものに覚醒させられた授業だった。ここでの作品のとらえ方、小説一般についての考え方については、果たしてこれでいいのかという疑問はいまだにある。ただ、この作品理解の底流には宮本顕治「敗北の文学」における芥川論があることは事実である。その適否について、今後批評、ご教示をお願いしたい。

 

 この作品において、今後、中国残留日本人孤児問題、在日朝鮮人問題、福島原発避難民問題が大きな位置を占めるということを話させてもらった。これについては積極的に評価してくださる意見をいただいた。これらの重い問題と格闘しながら、「国が破れた」ことにより困難を押し付けられた人々を描きながら、「ネギ刻む」で書いた、同時代的な課題にかかわる子どもの成長を、歴史的な視点から拡張し、表現できたらと思っている。

 

 小説の分量の問題については、合評のなかでも、臆することなく長編に挑むべきだとの激励をもらった。同時に、短編にまとめ上げる力量をつけるべきだという意見もいただいた。その通りだと思った。まずは、長編に臆せず挑戦することを合評を通して決意できた。しかし、「作品は発表しなければ価値はない」とも思っている。今後の課題である。

 

 

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 荒れた工業高校の生徒たち一人ひとりと粘り強く真向かう担任教師、山本の姿が描かれる。芥川の「羅生門」を読み解かせる授業の場面で不良の自分を結びつけて悟る生徒が生き生きとリアルに迫ってきて印象に残った。

 

 

 

  

 

  218号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤 守彦

     テッサ・モーリス・スズキの試み

 

   大橋 あゆむ

     歯科医さんにほめられる歯

   

   松木 新

      閑話三題  承前

   

   泉  脩

     1. NHKテレビ小説をめぐって

         「花子とアン」とてもよいドラマ

     2. 木村玲子「イトムカからのメッセージ」

           ―故郷を汚した犯罪への怒り―

 

   村瀬 喜史 

      北海道研究集会・分科会で発言したことなど

 

    豊村 一矢

      「差別語」なるものの使用、

       「差別表現」なるものへの看過し難い非難について➀

      

 

 

 

 

  札幌民主文学通信 二〇一六年十二月一日  217号 

 

 

札幌支部では「北海道民主文学」21号掲載の会員の作品を順次、例会・合宿研修会で合評していきます。

 

「札幌民主文通信」は、「合評を受けて」特集を組み、筆者全員の感想、意見等を掲載することにしました。

 

なお、「第21回北海道研究集会」で講師をお願いした民主文学会常任幹事の橘あおいさんは、全作品それぞれに、感想・コメントを用意してくれていました。

 

今回の「合評を受けて」特集の各号で、ご本人のお許しを得て、橘さんの感想・コメントを紹介します。

 

 

 

 

「合評を受けて」特集その1

 

 

 

 

 

  わが持論に白旗を揚げた日

 

               石川節子

 

 

 

十月八日の「北海道研究集会」は私にとって初めてのことであり、子どものときの遠足の前夜のような楽しい興奮を味わった。いよいよ初めて書いた自分の作品が、まな板の上にのったとき、避難ごうごうを覚悟していた。 

 

予想に反して、好感を示してくれた人が多かったことにとても驚いた。

 

 だからと言って、気にかけていた、題名の中の「新土人」という語句がすんなり容認されたとは勿論考えていなかった。

 

 しかし、それに対する自分の持論にも自信があった。なぜなら、私の周囲に「アイヌ」と呼ばれて苦しんだという人はいくらでもいたけれども、「土人」と呼ばれて蔑まされたという人の実例を聞いたことはなかった。

 

 「旧土人保護法」は明治政府の失態であって、言葉自身の持つ「土人(土着の人)」の意味が「劣っている」と結びつけられたのではたまらない。それでは世界中の先住民を愚弄することになってしまうではないか。汚れてしまった「土人」という言葉を、本来の「エコな暮らしをする土着の人」と周りの大多数の人々が、自分たちも分かち合う気持ちで用いれば、洗い流され、アレルギーがなくなってゆくのではないかと思っていた。

 

 「以前、あれほど、恐れ嫌がっていた『アイヌ』という語句でさえ、双方の理解によって今では堂々と使えるようになったではないか」とも。

 

 敗戦後、国の政策で、やむなく豊原から引き揚げてきて、散布の辺地に落ち着いたとき、父が「これからは、ここが墳墓の地となる。早く土着の人となれるように、地元の人の生活様式を見習って、可愛がってもらえるように振る舞わなければいけないんだよ」と言ったことを思い出す。成年して、そのことを「新土人文化を築いてゆく」ということだと理解した。夢のまた夢。いつか、遅れて「北海道島」にやって来て、厳しい自然の中の生き方を先住の人たちに教わりながら、その地に馴染んでいく姿を小説にでも書けたらいいなと心の奥底に畳み込んでいた。その一部分が、この度、現実のものとなった。

 

 現実は厳しいものだ。今の世の中、「土人」という言葉は既に回復不可能なまでに汚染され尽くし、今や時代錯誤の差別用語となってしまったことを、この研究会とそれに続く札幌支部例会でのみなさんのご意見によって改めて認識させられた。

 

「やっぱり、土人という言葉は、どんな言い訳があろうが、どんな用法であっても、使うべきでない」と。

 

 ごじょっぱり(強情っ張り)のこの私が容易に白旗を揚げる訳もなく、苦しみ、もだえ、皆さんのご意見をよく咀嚼したうえで、納得して、「今ここに白旗を揚げる」。これほど、今回の研究集会は有意義なものでありました。

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 明治から大正・昭和まで、アイヌとともに生きた和人である源吾とその家族、住民たちの暮しや労働が無駄のない文章で描かれ、短いエピソードとして繫げられている。樺太から、敗戦後に密航したため、行方しれずとなった正美が散布に戻るラストが感動的だった。

 

 

 

 

 

 「望郷のトロッコ」の合評を受けて

 

                        泉 恵子

 

 

 

  故郷は懐かしく慕わしい所である。と同時にそこにある負の遺産を知ってしまった以上、それを避けて通れないところでもある。

 

 子供の頃の楽しかった思い出の一つ、トロッコに乗っていった「お花見」のことも、そのトロッコにまつわる逸話を想起させるようになった。

 

 そんなことを書いてみたいと思ったのだが、主人公を設定するまでに試行錯誤した。

 

 以前、『思い出のイトムカ』を編集した時に出会った、戦時中徴用で働きに来ていた方々の話は、衝撃的だった。その方たちは、正規の従業員の語らない話朝鮮人たちの過酷な労働について語った。過去にそのうちの一人の今回キヨ子のモデルになった人の立場で、語りの口調で書いたことがあった。その時も隆司のモデルになった男性も少しだけ登場したのだが、今回は隆司の立場で創作してみた。

 

 

 

 だが、隆司の姿勢が曖昧なことを今回の合評で知らされた。強制連行された中国人の一行が乗る気動車に一緒に乗らなかったことを痛みと悔恨する、良心的人物ではあるが、会社の従業員として安定していた一時期を「良い時代になった」と述懐するのは安易で、舌足らずだったと思う。橘あおいさんの評にも「主人公は十年後の今を純粋に楽しんでいるような印象を受けるが、どうだろうか?」とあり、合評でもその姿勢への指摘があった。当時の一般的な従業員の姿として設定したのだが、批判精神が希薄であり、それでは小説の主人公として魅力がないし、作品としての深みもないということだろう。それも手伝って、中途半端な作品になったのかもしれないと思う。最後の戦後間もなくの朝鮮人たちの蜂起の場面も、暴動を起こしたとして流布されている。ここも走り書きの説明文になってしまった。

 

 そうした深刻な矛盾を孕んで経過してきた戦後十年目と、楽しい「お花見」を合体して描くには、もう一工夫もふた工夫も必要なようだ。

 

 

 

 また、「O町」「M山」など、地名をイニシャルで表すことの積極的な意味についても問題提起された。読者は、それがどこなのかを推定する。まったくの架空の土地なら「鉄道員」(ぽっぽや)の「幌舞駅」のように、現実にない地名を付けた方がよいのかもしれない。「望郷のトロッコ」の場合、「オンネ温泉」(本当は「オンネユ」)とか、「イトンカ川」(本当は「イトムカ」)、三国山方面等、場所を推定させる地名も出てくる。だから「K町」はどこなのか考え戸惑ったという。小説なのだから虚構の世界であって、事実ではないわけだが、実際の場所を想定もさせ、ここも中途半端だったということだろうか。

 

 今回、中国人の強制連行された一行が「O町」の宅地造成に関わったという設定だが、これは私の推論で、確証はない。そんなことからはっきりした地名を付けなかったのだが、現実の「大町」とした方が良かったのかどうか。そうした場合、嘘は書けなくなってしまう。悩ましい問題だ。ご意見いただけたらありがたい。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 戦時中、鉱山で過酷な命の危険にさらされる労働を強いられていた中国人、朝鮮人労働者に対する主人公の悔恨が描かれる。看護助手キヨ子が、外傷の手当への苦悩を語る場面がリアルに胸に迫る。敗戦から十年後、低迷していた鉱山が朝鮮戦争によって息を吹き返したことは深刻な矛盾をはらんでいる。ラストで、十年後の今を主人公は純粋に楽しんでいるような印象を受けるが、どうだろうか。

 

 

 

 

「風通し」の創作合評を終えて 

 

               柏原 竜

 

 

 

 自分の思いや考えを充分に作品に表現できない。ただ書くだけで終わってしまった。いつも感じるが、今回もまた強く感じた。柔らかくて深かったり、硬く平面的なだけだったり、捕らえ処のないような人間と、どう向き合ったらいいのか解らなくなってしまう。

 

しかし、この頃思う。日々生きていくことは、広大な原野を、足を踏み外して沈み込まないよう一歩一歩気遣って走っていくようなものだと。人と人の繋がり、あつれき、安らぎ。不思議だけど、吸い寄せられてしまう。

 

 窓の外は吹雪。ストーブの前で二匹の猫が重なりあって寝ている。長椅子の上が定位置のギンは、もういない。十月十八に日に死んだ。今年の春先頃から、ギンは後ろ足を動かせなくなり、後ろ足はだんだん枯れ枝のように細くなってしまった。動けなくなったギンを大事に介護していたのに、その私の手に噛みついた。二か月ほどの間に三度もだ。自由にならない後ろ足に自暴自棄になっていたのだろうか。ギンの鋭いキバは深くめり込みなかなか離れなかった。パンパンに腫れ上がってしまい、その都度病院に走った。それを見た友人が噛まれないようにスキー用の手袋を持ってきてくれた。

 

夫が毎朝、ギンのお尻をお湯に付けて綺麗にした。ギンは気持ち良さそうだった。それでも、ギンはだんだん痩せていき、最後は苦しまず穏やかに、スーと息をひきとっていった。昔は七匹の猫がいて大騒ぎだったが、今は二匹しかいない。それも、目が見えないネズと、交通事故にあって牙の先端が折れたのでギンの四分の一の体格のミケの二匹だ。

 

ところが、この頃見知らぬ黒猫が物置に来はじめた。今まで、よその猫が家に近づいてきて、うちの猫たちが怪我したりするので大声をあげて追い払っていたが、ネズもミケも外に出ることもなくなったので放置していた。そうしたら、堂々と私の脇を通り抜けていくようになった。焦げ茶色っぽい黒で、がっちりした体型の大きな猫だ。猫とは縁が切れそうもないのかねと、尻尾を振りながら、物置のドアの脇の猫玄関から入っていく黒猫を見つづけている。                                                             

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 職場の同僚との人間関係に悩む恵美子に対して、近所に住む共産党員の岸はその悩みをよく聞いてやりながら、選挙の時には恵美子に支持を訴える。近所の人付きあいを通してつながりを深めていく党員の姿が描かれる。「風通し」というタイトルが良かった。

 

 

 

 

   

 217号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤 守彦

     『長生きしても報われない社会』という現実

 

     大橋 あゆむ

     パン! パン! で思い出す

   

   松木 新

     閑話三題

   

  

   泉  脩

     1. NHKテレビ小説をめぐって

         『純と愛」 過酷なメルヘン

     2.『寂しくても悲しくてもネギをむ』

 

   生駒 多津子

      西美濃の史跡を訪ねて

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信  二〇一六年十一月八日  216号 

 

 

 

 支部例会報告

 

21回「北海道研究集会」と係って

 

 

 

 月一回例会を行うのを慣例・原則としている札幌支部は、一〇月例会を第二十一回北海道研究集会参加に代替しました。

 

 今回の「一〇月例会報告」は、札幌支部のメンバーと北海道研究集会、「北海道民主文学」等の係りについていくつか書きたいと思います。

 

 北海道研究集会の札幌支部からの参加者は十五名でした。二年前の前回参加者が十八人でしたから、三名減でした。前回の参加者で今回出席できなかった人は五名、病気療養などが主な理由です。初参加者は二名で印象的なデビューとなりました。

 

 『北海道民主文学』二十一号に作品を掲載した札幌支部会員は十七名です。うち二名が健康上の理由で集会には不参加でした。初登場は集会初参加の二名で、大作でした。

 

 数字を比較すると、札幌支部はそれぞれの項目で、みな、全道全体のほぼ50%になります。集会の開催地が札幌ということもあって、会運営では、会場設営、司会進行担当等々で、札幌支部のメンバーが協力しました。

 

 今回の取り組みの課題の一つは、『北海道民主文学』二十一号への原稿提出が、経費削減のため、ワードで作成されたデータでなければならないことでした。パソコンの苦手な人が少なくありません。

 

 最終的に、札幌支部の十七作品中、データで届いた作品は十四でした。会員がパソコンによる文書作成にがんばってくれた結果であり、編集担当は大変助かりました。

 

 同時に、データを精査、冊子編集レイアウトの過程での校正、印刷所のパソコンへの変換後の校正などが不十分、誤記の多い冊子になってしまったことは大きな反省点です。

 

作品合評については、北海道研究集会での合評に加えて、さらに十一月例会から十二月例会、一月合宿例会としっかりやっていく計画です。

 

そして、合評を受けての筆者の思いを全員分、本「通信」で特集を組んで掲載する予定です。

 

               (豊村一矢)

 

 

 

 

 

思わぬ受賞(優秀作)で思ったこと

 

馬場雅史

 

 

 

思いもかけない受賞でした。それは二つの意味においてです。一つはこんな賞があることを知らなかったということです。松木さんから「民主文学」が年一回支部誌から推薦を募って特集する、ついては馬場さんの「ネギ刻む」を推薦することになった、とは聞いていました。だから、「民主文学」に掲載されたらいいなあと、思っていました。

 

今年三月、三上満さんを追悼する集いが東京であり、参加しました。その時「馬場さん、小説書いてるんだね」と四人の元同僚に言われました。ぼくは全日本教職員組合の専従役員として六年間東京で仕事をしていました、その時の同僚です。「民主文学」4月号「支部誌・同人誌評」で、ぼくの作品が取り上げられていたのをみんな読んでくれていたのです。「民主文学」に加入してよかった。そう心から思いました。こんな聡明で尊敬すべき人たちが読んでいるのだから。「読ませてよ」「『奔流』送って」といわれましたが、「今度いいのが書けたら」と答えました。作品に自信が持てなかったからです。今回、その方々にも読んでいただける。恥ずかしくもうれしくもあります。

 

思いがけなかった二つ目の理由は、作品に弱さがあるからです。「説明ばかりで、文学的じゃない」という評価が、友人の間では大勢です。反論もあるにはあるのですが、再読するたびぼくもそう思います。教員として三十数年子どもたちと生きてきて、ようやく「だめな生徒は一人もいない」「子どもたちは希望そのものだ」と言えるようになった。その喜びのようなものを伝えたかった。この時代、この社会で成長を遂げること、またそれに寄り添うこと。それは闘いですから。そこにもっと焦点化して作品を構想できなかったという弱さを感じています。支部の合評会で、「女子生徒がキャバ嬢になると言った部分を、もっと掘り下げたかった」という感想が出されましたが、その通りだと今思います。いずれにしても、初めての作品で、こういう評価をいただいたことに戸惑いがあります。正直に言えば、もっといい作品を書けるという自負もあります。

 

思いがけず受賞して思ったことが二つあります。民主主義文学会に加入して、多くの新しい出会いを得ることができました。菊地先生や平山先生は存じ上げていましたが、松木さんや泉さんは活字の世界でしか知りませんでした。お会いするたび、なにがしかの自己紹介が求められます。「元高校教員です」「元組合役員です」、つまり元ばかりの自己紹介になってしまう。「年金生活者です」「専業主夫です」「専任配達員です」ということに抵抗はないのですが、どこか自分を紹介しきれていない。「元ではない今の自分は何者なんだ?」と。ぼくは今回の受賞で、濃密な一〇年間を与えられたと感じています。本当にうれしいです。書くことをとおして、自分の現在を埋め続けていく、その方向に思い切って舵を切りたい。書きたいことは、それこそ、山ほどあるのだ(へたな比喩ですね)と気づきました。

 

もう一つは、芸術への憧れが強まったということです。子どものころから、ぼくは芸術的なものについての憧れを強く抱いてきました。ベートーヴェンの構想力と繊細さ。ピカソの豊饒さと静謐さ。小林多喜二の強靭さとユーモア。井上ひさしの可笑しさと寂しさ。真実を見極める姿勢に裏打ちされた芸術性というものに憧憬の念を抱いてきました。そういうものに一歩でも近づきたいと真剣に思うようになりました。芸術、つまりartはもともと技という意味です。何か神秘的で形而上学的なものではありません。そういう意味での小説の技というものを、今から身につけたい。そのための修練が、ぼくの現在を形作るのだと思っています。

 

ぼくは、人の心の襞に食い入って、微に入り細を穿って表現するということが得意ではありません。たぶん恋愛小説などは書けないタイプの人間です。しかし、物事や人間を構造的に、歴史的に、少し背伸びをしていえば弁証法的にとらえることはできると思っています。抒情詩は無理だが、叙事詩なら書ける。そう夢想しています。詩のような無駄のない、硬質な、しかしわかりやすい言葉と文体で、叙事詩のような小説を書きたいと昼も夜もそう考えています。

 

 

 

 216号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤 守彦

     やはり「メモリー」か

 

     大橋 あゆむ

     エッセイ 『イクナミ』

   

   平山耕佑

     挨拶ことばの不思議 -その3-

        「いただきます」と「ごちそうさま」

   

  

   泉  脩

     NHKテレビ小説をめぐって

          カーネーション

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信 

 

二〇一六年月一日 215号 

 

 

 

本号では、アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』の第3章「リアリズムの問題」、第4章「こども」、第5章「武器としての芸術」、第6章「反帝国主義と国際主義」、第7章「弾圧、転向、そして社会主義リアリズム」(本邦初訳)、「訳者 あとがき」を掲載します。横書きのため最終頁から左開きの編集です。

 

「通信」213号より開始した〈アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』「イントロダクション(序)」(本邦初訳)〉の掲載は、本号をもって完了します。「全体の『序』」は「通信」213号、第1章「個人的なことは政治的なこと」、第2章「労働と文学」の「序」は「通信」214号に掲載されています。                

 

                   (編集担当)

 

月例会合評報告

 

 

 

(「季論」2116夏・福山瑛子)「スパイにされた北大生・宮沢弘幸

 

問題提起&報告者 馬場雅史

 

 レジュメ(馬場)

 

1 「レーン・宮澤事件」を史実に即して表現した作品である。簡潔で抑制のきいた表現で事件の真相を読者に伝えている。宮澤弘幸の妹・美江子が事件の真相を弘幸から聞き、再話するという基本的なスタイルで描かれている。

 

事件を構成するトピック、それにかかわる人々についても過不足なく言及されている。事件の全容を時系列的に正確に、かつ簡潔に表現している。事件を理解するうえで有効なドキュメントあるいはレジュメとなっており、貴重な作品である。

 

 秘密保護法や安保関連法の危険な本質を告発し、それに反対する市民をはじめとする運動に連帯し、激励するものである。多くの人に読んでいただきたい作品である。

 

 

 

2 そのうえで、いくつかの問題点について述べる。一つは、作品の構成に関してである。作品は、妹美江子が弘幸から聞いた話を再話するというスタイルになっているが、どこまでが再話なのかが判然としていない。その点での整理が必要ではなかったか。

 

 二つ目は、「引用」についてである。例えば

 

2208「アメリカ・イギリス」→「米英」

 

226上l20「戦車を習う」→「戦車を習ふ」

 

226下l17「退学願い」→「退学願」

 

227上l12「桜星会」誌→「「桜星会雑誌」

 

227下l20「個人主義的自由主義者」→「個人自由主義思想」など「判決」からの引用

 

228下 「真理は時に嘆く」の詩

 

 仮名遣いの問題を含めて、部分的な引用は難しい。だが、正確さは求められる。

 

 

 

3 登場人物の形象について、いくつか感想を述べる。

 

 

 

宮澤弘幸について

 

  1.  「桜星会雑誌」に掲載された弘幸の詩が引用されている。作者はこの詩を「あや子」を想って書いたものとしている。「雑誌」は387月刊行のものでる。「あや子」(高橋あや子)は24年生まれ、当時14歳に満たない年齢であった。上田誠吉によれば、弘幸はあや子との面識はあったが、親密な関係に至ったのは41年とされており、詩のモデルを「あや子」とするには必然性に欠ける。41年には「黒田しず」を平取に再三訪ねていることからも、やや、ロマンティックな解釈だと思う。この場面で、詩を想起すると同時に「あや子」を想ったのであれば、自然だと思うが。

  2.  拷問による「自白」について、作者は再三、弘幸が苦痛に耐えかねて漏らした「ううっ」といううめき声を取調官が自白とみなしたと解釈している。(p223、p226上段で二カ所)作者は、斉藤弁護士に「君の体が心配だ。このままでは殺されかねない。時には頷いたらどうかね」と発言させている。これは、上田弁護士も斉藤からの「聞き取り」として証言している。外形的事実として否定せず、法廷で反論するという、訴訟戦略があったと想像される。

 

   「小説」として、どう表現するか、難しい課題であると思う。

 

  1.  作品を通して、弘幸の旺盛な知的好奇心と卓越した行動力はよく伝わってくる。国家主義的な思想や日本人優越論的な発想についても隠すことなく表現されている。ただ、当時、弘幸自身に関する「身の危険性」の認識は、作品での表現以上に深刻だったのではないかと思われる。北大ではこの事件に先立って、学生等が治安維持法違反で検挙、処分されている。また、「心の会」自体がその危機感を持っていたことは、十分に想像される。検挙前日、弘幸はあや子を病院に見舞い、多額の現金を預けていることや、アルバムを疎開させていることからも、弘幸は身に迫る危険を強く感じていたのではないか。「弘幸は特高が北大の学生課に出入りしているとは、思ってみたことさえなかった」(p221下)という解釈はどうだろうか。

     

 

レーン夫妻について

 

作品の中で、レーン夫妻についての言及は必ずしも多くない(p223下段)。上田はその著作で、レーン夫妻のクエーカーとしての高潔さを含めてその人となりを紹介している。レーン夫妻は戦後、再来日し、北大。北海道教育大でそれぞれ英語教師として教鞭をとっている。しかし、この事件については、終生、沈黙を守ったようである。なぜ沈黙したのか、この事件に文学として接近しうるテーマがあるように思う。なお、北大への復職については、いくつかの教授会、学生自治会が反対したという経緯もある。

 

 

 

 マライーニについて

 

 マライーニについての言及は多い。p222、p227、p229、p231、p233。その描かれ方は、青年研究者と学生の純粋な友情と学問的熱意を中心としたものである。上田の記述からも二人の関係は確かにそういうものだったと想像される。マライーニが当時師事していた医学部教授児玉作左衛門は、現在たたかわれているアイヌ遺骨盗掘事件の中心人物の一人である。現在は行方不明になっているが北大には「児玉コレクション」なるアイヌ人骨が展示されていた。また、函館の北方民族博物館、白老のアイヌ民族博物館には「児玉コレクション」が現存している。白人優生思想の視点から、「未開」の状況にある「形質的に白人に酷似したアイヌ」の研究がヨーロッパで行われていた。マライーニの学問的動機もこれと無関係ではなかったと推測される。日本人優越論者である弘幸との関係はある種の矛盾あるいは共感を孕んでいたことも考えられる。一方、弘幸はアイヌについて純粋に愛情を感じてもいた。ここにも複雑な関係性がある。

 

 

 

ヘッカー、その他について

 

ヘッカーは作中でも触れられているように、反ナチの立場を鮮明にしていた人物である。詳細な「来訪者メモ」やそこへの記載事項からみて、「心の会」でも重要な役割を果たしていたと推測される。さらに踏み込んだ形象化がほしいと感じた。

 

 弘幸の母・とくの行動力と愛情の深さは、作中の限られた表現からも大いに推し量ることができる。母の視点からこの事件を見ることも可能ではないかと思った。

 

 

 

4 作品では抑制的な記述になっているが、上田の著作などは、北大は「エルムの学園」であり、「弘幸の青春は、北の大地に花開こうとしていた」(『ある北大生の受難』p36)という記述からも推測できるように、自由と開放感にあふれた学園としてとらえられている。クラークの「ボーイズ ビー アンビシャス」という言葉も、しばしばこういう理解を助長している。一面でそれは事実なのかもしれないが、クラークの言葉も「少年よ、大志を抱け」というよりは「少年よ、(私のごとく)野心的であれ」と訳しうるのである。クラーク個人の思惑を超えて、その野心は、北海道だけではなく「満州」「シベリア」「樺太・千島」に向けられていた。民族的には中国人、朝鮮人、ロシア人、アイヌをはじめとする北方の少数民族に向けられていた。まさに北大は北方に対する帝国主義的侵略を支える産学協同の拠点でもあった。こうした時代と状況が背景にあったことを理解することは、この作品をとらえる上で重要である。

 

  北大のこの事件に対する姿勢の不十分さの告発も「心の会の碑」にかかわる問題として言及されてはいるが、今日の国家的戦略とにおける国立大学の問題として深める必要を感じた。

 

 

 

5 「事実」を描く、「歴史」を描くということの大変さを、この作品を通して強く感じた。スピノザは「規定は否定である」と述べている。一見単純な「AはBである」という言説も、その背後には「AはCではない」・・・「AはZではない」という無限の言説を含んでいるということだろう。ましてAもBもZも言葉であるというのが文学の定めであ

 

拾い求めるようなものだとも思える。しかし、そのうちにこそ、表現の無限の多様性、創造性の自由もまた根拠を持つのだろう。現実を探し、拾い集める行為のうちに、作者の時代的感覚や、思想性といったものが問われるのだろう。

 

  だから、歴史や現実を真に描いた作品は、あらたな感覚や思想性を生み出し、歴史や現実を生み出すことにつながるのだろうと思う。

 

  福山瑛子「小説 スパイにされた北大生・宮沢弘幸」は、あらためて、「レーン・宮澤事件」の持つ意味を考えさせ、70数年後に位置する現代の状況を問うものである。

 

福山瑛子さん、執筆ご苦労様でした。いい勉強になりました。ありがとうございました。

 

 

 

〈参考文献

 

上田誠吉「ある北大生の受難―国家機密法の爪痕」2013年・花伝社

 

上田誠吉「人間の絆を求めて―国家機密法の周辺」2013年・花伝社

 

 

 

北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相をめる会「引き裂かれた青春。戦争と国家秘密」               2014年・花伝社

 

逸見勝亮「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考:北海道大学所蔵資料を中心に」      2010年・北海道大学・文書館年報

 

井上高聰「工学部学生宮澤弘幸の在学について」2014年・北海道大学・文書館年報

 

北大開示文書研究会「アイヌの遺骨はアイヌのもとへ―全国12大学に1636体をこすアイヌ人骨があります」   2014年・北大開示文書研究会

 

 

 

 

 

 

 

合評報告(馬場

 

  1. 簡潔で抑制のきいた文章で、「レーン・宮澤事件」の全体像に迫る作品であり、多くの人に読んでいただきたい作品である

  2. そのうえで、構成上の問題と引用について問題点を指摘した

  3. 登場人物の形象と、小説として表現する際の他の可能性について述べた

  4. ともすればロマンチックに語られがちな北大について、北方進出の拠点として見ることの必要性に言及した

  5. 「事実」や「歴史」を描くことのむずかしさと可能性について感想を述べた

 

討論では、

 

  1. 事実をなぞるだけではなく、登場する人間について書くべきではなかったか。「まず人間ありき」である

  2. アイヌを描く場合、エトランゼ的な視点に陥りがちだという難しさがある

  3. 事実との符合を重視する読み(馬場の読み)は小説の読みとしてはいかがなものか

  4. 「事件」についてのすぐれたドキュメント、レジュメとして価値の高い作品である(多数)

  5. 戦争を小説のテーマとすることの意味を再確認させる作品である

  6. この作品を「書いたこと自体の意味」をこそ評価すべきだ(多数)

    などの意見・感想が述べられた。また「民主文学」誌からのアドヴァイス、「エンターテインメント性が足りない」についても意見が交流された。

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

24回全国研究集会参加記     

 

                         松木  新

 

 

 

新潟は、約九〇年前に木崎村でたたかわれた小作争議が有名です。山岸一章『発掘 木崎争議』は、文学会の貴重な財産です。

 

同盟休校した子どもたちのために農民学校が作られ、藤森成吉、鹿地亘などが支援に入りました。このたたかいの中から、泥にまみれた子どもたちに役立てようと、プロレタリア児童文学が誕生しました。ノーマ・フィールドさんたちの『日本プロレタリア文学選集』は、「こども」というタイトルで特別に一章を設けています。

 

千歳から新潟まで55分、新潟から越後湯沢まで45分。なんと、自宅を出てから会場に到着するまで3時間弱でした。越後などははるか彼方、というイメージだっただけに、上越新幹線が二階建てであったことなどもふくめて、ビックリの連続でした。  

 

参加者は22都道府県、118人、北海道はぼくだけでした。懇親会で「孤塁を守る」といったら、笑われてしまいました。

 

第一日目のシンポジウム「いま、文学はどう時代にきり込むか」では、個人の問題を描くことと、時代を描くこととが、二項対立的に捉えられているように思われたので、その点について発言しました。

 

自身の問題を徹底的に描くこと、それが多くの読者に支持されることによって、時代の真実を反映する文学になることを、旭爪あかね「稲の旋律」を例にとって話しました。

 

分科会は、第一志望に浅尾大輔さんを希望したのですが、定員オーバーで、第三分科会「若い世代が描いた世界と方法」に参加しました。

 

松本たき子「アラサー女子がいく」、東喜啓「ポニー教室」をテーマにした牛久保さんの問題提起が示唆に富んでいたので、楽しい分科会になりました。取材をどのように創作に生かすか、人間を描くとはどういうことかなど、相当、突っ込んだ論議をすることができました。

 

第二日目の昼休み、湯沢町歴史民俗資料館「雪国館」を見学しました。そこで新しい発見をしました。有名な冒頭の文章です。

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章も良いのですが、その後につづく「夜の底が白くなった」という文章です。

 

普通の言葉で書かれながら、多分、これまで誰も使ったことがないと思われるような表現で、自らの文学世界をイメージしていることに気付きました。

 

なお、最近になって、一九五一年に刊行が始まった河出書房版『宮本百合子全集』の推薦文を川端康成が書いていることを知りました(他に、桑原武夫、小倉金之助、野上彌生子、加藤周一が書いています)。

 

 

 

 

 

 

 

   ミステリに登場するスターリン

 

                         後藤 守彦

 

 

 

今年初め、拙稿「スウェーデンミステリあれこれ」(『札幌民主文学通信』二〇一六年二月号)で、イアン・テオリンのエーランド島シリーズを紹介した。このシリーズ四部作では、身体は思い通りに動かないが、頭脳は明晰な老人である元船長のイェローフが探偵役となり事件の真相を探っていく。また、過去を織り込みながら現在が進行するストーリー展開も共通している。『黄昏に眠る秋』(早川書房、二〇一一年、)から始まり、『冬の灯台が語るとき』(同、二〇一二年)、『赤く微笑む春』(同、二〇一三年)と毎年刊行されてきた。しばらくおいて今年、最終作の『夏に凍える舟』(同、二〇一六年)が出た。エーランド島に復讐のため帰ってきた男がいた。少年時代、希望に燃えて海を越えて彼が渡った国は、望んでいたアメリカではなくソ連だった。成長した彼はスターリンの恐怖政治の末端を担う処刑執行人になる。大量逮捕・大量処刑の大テロル、その犠牲者の数は計り知れない。「反革命分子」「人民の敵」との烙印を押され、満足な取り調べを受けることなく、銃殺される。何時か自分もターゲットになるのではないか、と皆が怯え続けるスターリン時代が背景として描かれている。

 

最近、ソ連共産党の干渉と闘った日本共産党のリーダーの不破哲三が、史料を精査し、スターリンの罪業を、大国主義・覇権主義の発現を焦点に暴いた。不破はいう。スターリンは「旧反対派の勢力だけでなく、レーニンの時代を知っているすべての党員たち、またスターリンとともに反対派とたたかった多くの同志たちをも世代的に抹殺し、スターリンが抜擢した幹部を中心に、スターリンに無条件に従うことが社会主義、共産主義の事業に忠実につくすことだと確信する集団にソ連の党を変えることを追求した」と(『スターリン秘史』1、新日本出版社、二〇一四年)。歴史的事実を包み隠さず叙述したこと、「スターリンの覇権主義の歴史の邪悪さは、桁違いに深刻なもの」(『スターリン秘史』6、同、二〇一六年)であることを明らかにしたことは高く評価されるが、なぜスターリンが独裁政治・恐怖政治を行ったのか、その理由を掘り下げてほしかった、と思う。スターリンの資質に帰されるだけでは、十分な説明にならないであろう。スターリンの粗暴さと大国主義をレーニンが批判し危惧したことは、レーニンの遺書が示すように確かだが、特にテロルの面ではレーニンをスターリンと完全に切り離せない、との見解も存在する。

 

不破が再三引用している、ロシアにおけるスターリン研究の第一人者メドヴェージェフ兄弟の『知られざるスターリン』(現代思潮新社、二〇〇三年)では、「極度に中央集権化された全体主義国家」としてのソ連を作り上げたのはスターリンだが、レーニンも「テロルに依拠した独裁者」であり、「ロシア帝国と資本主義一般に結びついていたものをすべて破壊しようとした」と指摘されている。

 

前掲『夏に凍える舟』のあとがきで紹介されている参考文献の一つが、イギリスの歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリが著した『スターリン―赤い皇帝と廷臣たち』(白水社、二〇一〇年)である。上下巻あわせ本文一一〇〇ページを超える大作で、膨大な史料・文献・証言を駆使して、スターリンと取り巻きの言動を、その時何を食べたのかまで細かに叙述し、人物像を浮き上がらせている。また、本文の前には写真のページがあり、約八〇葉の貴重な写真が掲載されている。モンテフィオーリは、「大テロルの責任を一人の人間に負わせる見方は、正確でないばかりか、有益でもない。なぜなら、組織的な殺害は一九一七年にレーニンが政権を奪取した直後から始まっており、スターリンの死後も終わらなかったからである」と明言する。

 

レーニンとの関わりについて、拙著『只、意志あらば―植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)の「第三章 金子文子の意志」でも言及したことがある。レーニンとスターリンは明確に違う、と批判する読者もいたが。レーニンが活躍した時代、日本でアナキストになった金子文子の自伝『何が私をこうさせたのか』には、「民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が来ったとき、ああその時民衆は果たして何を得るであろうか。指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再び権力の奴隷とならなければならないのだ」とある。この言葉をスターリン批判と絡めてどう受け止めるべきだろうか。

 

これも最近読んだのだが、スターリンの罪悪を告発した、途中で投げ出そうか、と思うほど衝撃を受けた本がある。それが北広島九条の会会員の元道新記者から勧められた、イェール大教授ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド―ヒトラーとスターリン大虐殺の真実』(筑摩書房、二〇一五年)である。虐殺者はヒトラーだけではなかった。第二次世界大戦が終わるまでの一二年間、ヒトラーとスターリン、この二人の独裁者によって、ブラッドランドで一四〇〇万人が殺戮された。この数には戦死者は含まれていない。ヒトラーによって虐殺されたユダヤ人、スターリンによって餓死させられたウクライナ人三〇〇万人など。ブラッドランド、流血地帯はポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト三国、ロシア西部で、そこであったおぞましい事実が詳細に記述されている。

 

このようにスターリン関連文献は数多くあるが、読むのは精神的にきつい。しかし、避けることなく読み続けなければならない、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 NHKテレビ小説をめぐって

 

    「おひさま」 太陽のような女性

 

                           泉   脩

 

 

 

 昭和七年、十歳の陽子は、両親と二人の兄と共に、東京から長野県安曇野(あずみの)に移ってきた。病弱な母の健康のためである。しかし、やがて死去し、陽子が家事を受け持つことになる。

 

 太陽のような女性にと願ってつけられた名前のように、彼女はいつも明るかった。女学校に入り、「女のくせに」を連発する英語教師に反発して、クラス全員がテストで白紙を出そうと決めた。結局、白紙で出したのは、陽子を含めた三人だけだった。

 

 三人は大目玉をくい、トイレ掃除を命じられた。三人はトイレで白紙同盟をつくり、永遠の友情を誓った。そして、この三人がひきおこすさまざまな事件で、ドラマが進行し、三人は最後まで結束を守り抜くのである。

 

 安曇野の美しい自然の中で、暗い戦争の日々に、三人はそれぞれ恋をする。金持ちの一人娘真知子は、陽子の上の兄で医学生の春樹を、育子は兄の茂樹を。春樹は軍医になり戦死する。飛行兵になった茂樹は危うく戦死をまぬがれ、戦後、兄を継いで医学をめざす。やっと医師になった彼は、テレビ局で活躍する育子と結婚する。

 

陽子は小学校の教師になり、戦時中の母校で、つらい軍国教育をせざるをえなくなる。彼女は体をはって生徒たちを守り、一人ひとりに目をくばり、生徒たちにしたわれる。

 

松本の名代のそば屋丸元の女将(おかみ)に、女学生時代から偶然に何度も出会い、一人息子の嫁にと申し込まれる。見合いは成功するが、相手の和成は、出征直前なので辞退する。しかし二人は心を惹かれあい、出征前日に結婚式をあげる。

 

陽子は教師を続けながらも、そば屋の嫁として奮闘する。陽子を演じる井上真央と女将を演じる樋口可南子のコンビが実にさわやかでよい。夫(息子)の出征中に、そば屋を守る姑と嫁とは相思相愛になり、そば職人の義父(父)を驚かせる。

 

戦争が終り帰ってきた和成との間に娘も生まれて、一家五人で幸せをつかむ。陽子は教師を辞めるが、教え子たちを温かく見守り、惜しみなく必要な援助をする。教師の原点を見る思いである。

 

松本の大火で丸元が消失し、一家は、安曇野の陽子の実家をたよる。陽子の父と兄は快くむかえ、やがて近くの古い洋館を手に入れて移る。若夫婦を中心に、新しいそば屋「百白花」をつくり、義父はそば畑に打ち込むようになる。

 

年月が過ぎ、現代になり、陽子は百白花の老女主人になる。女友だちや教え子、幼な友だちの老人などに支えられて、ゆったりとした日々が続く。若尾文子が演じる陽子は、たまたまドライブ中の事故で店に来た中年の主婦に思い出を語り、次の世代に太陽の役目を受け継がせるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 エッセイ

 

       感謝しています!

 

                         大橋 あゆむ

 

 

 

 「通信」の編集に携わっている豊村さんに、次回9月分のエッセイ「高らかに吹き鳴らせ!」を、締切日にFAXで送信した。折り返し、FAXが届いたとの電話があり、印刷会社が替った事情による送金の仕方を、やわらかな口調で丁寧に説明してくれた。

 

 その「やわらかな口調」で、わたしはハッとした。今、FAXで送信したエッセイの会話部分は、何てきつい書き方なんだろうと、気がついたのだ。「歳よりは云々」と、わたしが入居者さんと会話したことを、そのまま書いていたのだ。受話器を置いてからも、きつい会話部分が頭から離れない。このままにしておいていいのか。どうしたらいいのか。頭が混乱したまま電話を掛けた。「会話部分は、きつい書き方なので訂正したいが、時間がないので削除してほしい」と、あわてながら会話内容を話した。「まだ、原稿を読んでいので、読んでから電話します」とのことで、ホッとした。

 

 ちょっとたってから、電話が来た。

 

 「エッセイで言いたいことは、これこれ、こういうこと、ですよね。会話部分を削除すると構成がくずれてしまいます。言いたいことが伝わりません。会話文を文章で表現する方法もあります。きつい書き方が変ると思います」

 

 との的確なアドバイスに納得した。

 

 それでわたしは、「会話文を文章に直してください」と、せっぱつまった気持ちでお願いした。「ぼくでよければ……」との言葉に、とてもありがたく思った。

 

 数日後に、会話文を直したエッセイ部分のみをプリントした「通信」が郵送されてきた。それには、支部の日程の都合で、次号の「通信」の発送は来月中旬過ぎになるので早めに届けたという、細やかに配慮した文章が添えてあった。

 

 わたしは会話文が文章になった部分を、一文字、一文字、かみしめながら見入っていた。

 

 

 

 豊村さんは、わたしが「通信」に投稿する手書き原稿を、ずっと長い間、校正してパソコンで打ち直してくださっている。このたび、「北海道民主文学」の編集でお忙しい中を、校正してパソコンで打ち直していただきました。とても、感謝しています。

 

 

 

3章 リアリズムの問題

 

 

 

イントロダクション()

 

 Realism (リアリズム)は、real (リアルな) reality (リアリティ) という語とともに、歴史的に複雑な意味合いを持つ。それは時には、目に見える対象や行動を強調し、他方では目に見えない概念や過程を重視する。そうしたリアリズムが内包する複雑さにもかかわらず、プロレタリア文化運動に取りくむ者たち、即ちそのために社会主義やマルクスの思想を信奉する者たちが、意識の外にも広がっていて、捉え、分析し、そして変革する必要のある世界の存在を信じている故に、自分たちをリアリストとはみなさない、とは考えられない。世界文学における不動の古典、ホメロスの叙事詩や『源氏物語』に立ち返ってみることは意味のあることであろう。それらは、時代の主要な作品では否定されたり、誤解を招くような形式のうちに隠されたりしている真実のリアリティを描いている、と物語作家たちは主張している。リアリズムとは、実に論争の的なのである。

  現在までの様々な懐疑論の中で、「リアリズム」はしばしば、暗い状況を描く退屈な実話の代名詞として扱われている。――現実そのものの存在を表面的に捉えるばかりでなくそれを言葉に置き換えて伝えようとする、面白くもなく不快な目論みであると。こうした状況をさらに悪くしているのは、社会主義リアリズムという用語が、すべての左翼芸術の試みを否定するためにしばしば用いられていることである。(社会主義リアリズムについては第7章でその成り立ちが論じられている。)私たちは、「リアリティ」と「リアリズム」の地位が、早くには19世紀の科学技術の発展によって確立されていたことに留意すべきである。それは、カメラのような機器、あるいは精神分析学やマルキシズムのような概念体系を通して、世界の表層及び実質とそれを理解する手段を変革した。文学では、「自然主義」として知られている運動で、登場人物である人間は、社会経済の状況とともに、物質的、生物学的環境という意味での自然によって決定されるとみられるようになった。この章に収録の蔵原惟人の影響力ある評論(13) は、この自然主義運動は「プロレタリア・レアリズム」への先駆けとしてヨーロッパで起こったと述べている。「リアリズム」という言葉は、日本では、カタカナで「レアリズム」、または「現実を写し取る」という意味で「写実主義」と訳されて、19世紀後半から使われ始めた。もちろん実際には文字通り写すことではなく、精選するのであるが、近代日本文学の先駆者、坪内逍遥(1859-1935)や二葉亭四迷(1864-1909)などの作品における「リアリズム」の主たる役割は、表現方法を模索することを推し進める新しいリアリティを勧めている。

  ソヴィエトロシアでは、1917年のボルシェヴィキ革命以後の大規模な現実の変革が、リアリズムの概念に新たな挑戦をもたらした。新しい社会の市民たちに食糧と住居を与えるために新経済政策を開始することが何よりも必要であると同時に、そのような社会にふさわしい文化を創造することの重要性が強く主張された。大量の実際的、理論的問題が噴出した。明らかにプロレタリア階級出身でない知識人は運動において役割を果たしたか? 革命に同調的であるが党員ではない支持者についてはどうか? 労働者作家を早急に産みだすにはどんな指導法があるか?文学は現実を理解する、あるいは現実を変革する道具とみなされるべきか?

  これらは、ソヴィエト連邦において指摘されたことであって、私たちが「リアリズムの問題」としてみる必要のある問題のほんの一部分である。日本の場合、革命以前の社会であるが、識字率が高く、ブルジョア的活字文化をもった社会であって、それらは精力的に論議され、可能なかぎり実践された。政府が日本では革命は起こらないだろうと決めつけているのであれば、プロレタリア作家たちは、文学でそれを成し遂げる役割を担おうと決意した。しかし彼らは現実社会でそうした働きをするために、新しい文学はどうあるべきかを把握しなければならなかった。彼らはソヴィエト連邦における発展を理解し、新しい用語を彼ら自身の執筆と組織的実践に移す必要があった。これが、蔵原の「プロレタリア・レアリズムへの道」、文学史の研究と始まったばかりの運動のための創造的方法論への最初の案内書ともいうべきものである。

  蔵原の1928年のこの評論は、大志を抱くプロレタリア作家のために具体的な方向性をあまり指し示してはいない。この点はその後の論議と実際の作品に対する批評へと引き継がれた。それに続く1年後の一篇(「再びプロレタリア・レアリズムについて」)で、1928年にソヴィエト連邦における支配的な文学組織となったラップ(ロシア・プロレタリア作家同盟、1925-1932)による二つのスローガンをとりあげている。「生きた人間」を描くことと、「弁証法的唯物論」に依拠することである。最初のフレーズは、日本のプロレタリアートたちに、類型的な人物造形の危険を避けるためのお題目であるかのように繰り返えされた。――平林たい子がこの章の小論(14)の中で浴びせている批判によれば、全く功を奏していないということだが。 実際に、一見自明の「生きた人間」への願望は、やっかいなとりくみになった。現実の生活からある人物をとりあげ、同時に社会の構造の真実を明らかにするための特徴付けをすること、言い換えれば「個」と「類型」の結びつきを必要とする難題だった。それは佐多稲子が、彼女の評論(15)の中に引用したように、佐多の家族に降りかかった絶望的な不幸の数々を知って同志宮本百合子が、日本の社会状況の中で何もかも一緒に起こったということは決して偶然ではなく「実に弁証法的な」ことだと言ったことと本質的に同じなのである。

  そしてこれによって私たちは2番目のスローガンに行き着く。すなわち「弁証法的唯物論」に依拠して書くことである。平林はそれを支持すると言うが、佐多は平林がその本質を理解していないと批判している。私たち自身が理解するために、その言葉を分けて、まず「唯物論」について見てみよう。グレゴリー・ゴーリーによる最近の「リアリズム」の定義はその要点を示してくれている。「人間の身体の限界を超えて到達する世界を知る方法がある。私はこの認識の方法をリアリズムと呼ぶ」When Our Eyes No Longer See。唯物論はそのような認識に依拠する分析の方法である。それは目に見えても見えなくても、私たちが意識しようとしまいと、実際に存在するリアリティ(現実)に取りくむことである。しかしどの部分も切り離されて存在しているのではない。そしてそれが「弁証法」にかかわってくるところである。V. I. レーニン(1870-1924) はかつて「弁証法」を「折衷主義」と対比させて、ユーモアを交えて説明したことがある。コップはそれ自体「飲むための容器」でもあるしガラスの円筒でもあるが、しかしコップは、これら二つの属性、性質、側面だけではなく、多くの他の属性、性質、側面を持つ。投げつける道具にもなり、捕まえた蝶の入れ場所にもなり、文鎮などにもなる。彼は強調している、「コップとて永久に不変ではない。また、とくにコップの用途、その使用、その周囲の世界との連関は変化する」(「ふたたび労働組合について」『レーニン全集』第2P92)。 ある現象を弁証法的に分析することは「変化」を強調する。さまざまな局面の相互作用は「周囲の世界」と同様にたえず多次元の変化を引き起こすからである。(弁証法における対立あるいは矛盾の要素については第4章の序文を参照のこと)

  弁証法はリアリズムを理解するのにどのように役立つのか? それは、まず第一に、いかなるものにも絶対的な定義はないということを示唆している。リアリストの作品は個人にあるいは集団に焦点を合せたり、精神的な状態を探るものであり、形式的な経験主義や慣習に陥るものではない。5章の序文で論じられているように、目的は、対象とする読者層に合わせて、何をどう描くかに重要な役割を果たす。ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)にとっては、「作品とは、その場かぎりのものではなく、個々人に彼らの置かれている状況を理解させ、それを変えていこうとさせる特別な時と場所をさし示すことによって、リアリスティック(写実的)なのである」。これは私たちに、とりわけ一連の批評家とともに1920~30年代の自称モダニストたちによって推進された「モダニスト」(あるいは「芸術派」)と「リアリスト」(「プロレタリア」)の相違について問いかけるだけでなく、リアリズムに関する論争の要因とプロレタリア・リアリズムの変革の目的について考えさせる。

  リアリズムが論争の的だとするなら、そのときプロレタリア・リアリズムは階級に根ざした変革を求める。ブルジョア文学者たちは、そのような階級に根ざした作品に、好んで「プロパガンダ」というレッテルを貼ってきた。そうすることが、いかに彼らが好む文学の階級的本質を覆い隠しているかに気づかないで。それに対して、1935年の『アメリカプロレタリア文学選集』の編集者、ジョセフ・フリーマンは、以下のように述べている。

 

 

 

    もし創造的想像力に富んだひとりの労働者を連れてきて、正直に彼の体験を 

      綴るようにと言ったとしたら、それはブルジョアの体験とはあまりにもかけ離

      れたものなので、支配層はいつものように、「プロパガンダ」だとの叫び声を

      あげることだろう。しかし労働者は、ブルジョア唯美主義者が忌み嫌い、そん

      な生活があることさえ全く信じられず、異邦人の世界のように思うことを、ま

      さしく体験しているのである。支配層は、モスクワからの指令のみが人々に工

      場やストライキや政治的争いについて書かせている、と考えているように思わ

      れる。権力のみがそのような事柄を書かせていると、プロレタリア文学のテー

      マはその人物の生活外のことであるから、決して自分の意志で書いているので

      はないのだと、思っているのである。しかし労働者はブルジョアが「プロパガ

      ンダ」とレッテルを貼っているまさにその体験、その上に支配社会が成り立っ

      ているところの搾取を明らかにする体験そのものを書いているのだ。Proletarian

                 Literature in the United States

 

フリーマンの政治的かつ審美的鋭敏さは、誰の現実を、そのどんな局面を描く価値があるのかという明確な争点を前提にしている。そのような強烈な問いかけの意味が、個人と社会の関連において、この章の二つの作品の中で明らかになっている。プロレタリア陣営のもっとも有名な、その正当な代表とされる、小林多喜二(1,5,11,22,29,30) と、新感覚派モダニスト陣営から「左傾化」し、感覚派の要素もひきずって転換したばかりの片岡鉄平(12) による作品である。片岡の初期の作品は、自らを表現する感覚派の魅力と描写の技巧を強調していたが、「通信工手」では、資本主義的搾取における人間と技術的構造の実態の摘発へとしだいに移行している。小林多喜二の「一九二八年三月十五日」は、日本国家による激化する拷問を含む、抑圧の歴史的様相を描くのに様々な観点を取り入れている。両作品は衝撃的であり、読者への強い呼びかけとなっているこれが諸君の世界で実際に起こっていることなのだ。今までどう考えていたにせよ、今こそ真実を知る時だ。傍観することは許されないのだ。プロレタリア・リアリズムは、言い換えれば、切実な要求とともに生まれるのである。

                             ( NF  ノーマ・フィールド )

 

 

 

 

 

 

 

 
  テキスト ボックス: 11. 一九二八年三月十五日(小林多喜二 1928年) 12.通信工手(片岡鉄平 1930年) 13. プロレタリア・レアリズムへの道(蔵原惟人 1928年) 14. プロレタリヤ作品の類型化について(平林たい子 1930年) 15. 本質の上にかけられた覆い (佐多稲子 1932年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4章 こども

 

 

 

イントロダクション()

 

衣食住に満ち足らへる「王様」や「ブルジョア」の『子供』が、「乞食」や「プロレタリア」の『子供』と同一の「心」や「生活」や「夢」や「要求」を持ってゐると云ふのか?

 

                        槇本楠雄 『プロレタリア児童文学の諸問題』P.17

 

 

 

プロレタリア児童文学のためのこの強烈な訴えは、児童文学の指導的理論家であり物語や歌詞の書き手でもある、槇本楠雄(20)によるものである。彼はそれに続けて、至る所に(大人の心の中にも)存在している「子供」の天真についての常套句を列挙し、超階級論者の芸術家や出版業者を強く非難している。しかし、彼の言葉をていねいに吟味すると、ブルジョアとプロレタリアの子供たちは、共通して尊重されるべき特質を持っている、という考えに共感していることがわかる。実際、槇本の作品全体に展開されている論法は、弁証法的思考の有益な例を示してくれている。

 ブルジョアとプロレタリアの子供たちが置かれている相反する社会状況を考えれば、ブルジョアの子供たちのための作品は、プロレタリアの子供たちにとってはその十分な素地を与えられていず、おそらく有害なものだ、としても、それでも両者は、大人とは違ってファンタジーを愛するという点では共通しているのである。あるいは、サミュエル・ペリーが、槇本の仲間の児童文学作家・村山壽子(17,18)やドイツ青年共産インターナショナルのエドウィン・ホェルンレ(1883-1952)について述べているように、彼らの「生活と作品は・・・子供時代というものは、階級社会での様々な社会的体験と、人間の成長段階の特別の時期、即ち子供の想像力をかきたてる格別な読書の体験の両方の要素を持っている、という思いから成り立っている」。そのような確信が、プロレタリアの子供たちにふさわしい文学のありかたに対しての彼らの柔軟な姿勢となっているのである。たとえば、科学的価値観は、空想的な物語を受け入れることを除外してはいなかった。ホェルンレ(槇本はその翻訳もした)や他のドイツの左翼、そして村山壽子のような同志たちの実践に触発されたこのような槇本の考えは、プロレタリア文学運動の児童文学の分野で出版された広範な作品に影響を与えている。

  社会の変革をめざす運動が子供たちに注目するのは当然のことだろう。しかしその方法となると難しい。新潟県木崎村における画期的なできごと、数年にわたる争議は、精査してみる価値がある。1926年の夏に設立された「プロレタリア農民小学校」は、多くの様々な革新的な人々を惹きつけた。鹿地亘(16)のような東京帝国大学の新人会のメンバーもその中にいた。多くの若き知識人たちにとって、これは、子供と呼ぶにはあまりにふさわしくない、汚れた、ひどい様子の子供たちとの驚くべき出会いだった。国の教育制度下の教科書も、『赤い鳥』(1918-1936)や『コドモノクニ』(1922-1944)のような、才能ある芸術家たちが無垢な子供たちのために創りあげた美しい挿絵の入った雑誌も、そのような子供たちが必要とするものではなかった。教科書は彼らを服従させるためのものであったし、美しい雑誌は高価で、また実生活からもかけ離れたものだった。また若い知識人たちの高揚した意識からすれば、『少年倶楽部』(1914-1962)のような大衆向け雑誌で伝えられる個々の不幸や勤勉や幸運などの内容も、望ましいものではなかった。

  たいていのプロレタリア作家は、小説や評論を書き、組織の仕事にも身を投じていたのと同じ気概を持って、子供たちのために子供たちの物語を書いた。その中には、片岡鉄平(12)、宮本百合子(36,40)、徳永直(23,31)、小林多喜二(1,5,11,22,29,30)、中野重治(19)らがいた。佐多稲子(8,15,12)や、ドイツ左翼の児童小説の翻訳もした林房雄 (7)は、自分たち自身の子供のころの記憶の自伝的な物語を書いた(佐多の「キャラメル工場から」、林の「繭」などが有名) 村山知義(35)は自身の執筆のかたわら、印象的な画や挿絵を、例えば妻の村山壽子の小説などに描いて貢献した (fig.1,6) 村山壽子に、早急にプロレタリア児童文学を創造することの必要性を説き、理論上のプロレタリアの子供に対して、実際に存在する子供たちのための文学を、という彼女の展望を支えたのは、運動の理論家、蔵原惟人であった。そのことは本書の序文の中でもとりあげられているように、村山知義の自伝的転向小説(35)の中の印象的な一節に述べられ、蔵原の刑務所からの書簡でも立証されている。一定期間(1929-1931)、これらの同志的取りくみは、『少年戦旗』で繋がった。『少年戦旗』のタイトルの「少年」は男の子を指すが、その雑誌は明らかに「労働者農民の少年少女たち」というふうに、少女をも指していた。風俗に売られ、少年たちよりも子供時代が短い、かわいそうな少女たちは、プロレタリア文学の対象でもあった(小林多喜二、『救援ニュースNo.18』) 『少年戦旗』各号には、ローザ・ルクセンブルク(1870-1919 fig.) のような「私たちのヒーロー」を紹介する短いエッセイ、ドイツの同志たちによってしばしば行われたようなイデオロギーの見え隠れする昔話の改作版、詩や歌、連載漫画、読者からの手紙などが掲載された。まことに国際的な『少年戦旗』は、ソヴィエトの「ピオネール」を描いたし(19295月号)、アメリカの「若いパイオニア」も描いた(19296月号)。 韓国の子供たちは、手紙に、短いコラムに、そしてOrini-nal(『子供の日』)に掲載したような優れた記事にも登場する(19297月号)。鹿地亘の『地獄』は孤児となった韓国人の少女が主人公であり、これはこの章に収録されている。(16)

 大人対象の政治的文学に反対していた批評家たちにとって、そのような児童文学は全く不快なものであった。何よりもまず、彼らは子供たちを政治的生活と関連づけてとらえなかったし、それを認めもしなかった。しかし、争議中の小作農民の子供たちのことを考えると、たとえば物質的貧窮だけでなく教師たちの無理解や裕福な級友たちの嘲笑にさらされ、親たちの屈辱を目の当たりにして、二重の苦しみを味わい、不利益を被るだけで、差別された階級社会から何の利益も得ていない子供たちのことを思うと、彼らが親たちのそばで苦しみながら、政治に目覚めていくことは当然のなりゆきだった。現実の飢餓の中にあるだけでなく、社会の不正義を改めて認識した「農民小学校」の先生たちの励ましや、組織化されていく闘争の姿などによって、子供たちは政治的に目覚めていったのだった。

  大人たちと同じような重荷を背負った子供たちに直面して、若き左翼知識人たちは、プロレタリアの子供たちとしての階級意識を彼らが持つ手助けをしたいと強く願った。しかしまた、彼らが子供であるということを考慮しなければならないということはわかっていた。そこで彼らはいろいろな内容を試みた。教え導きたいと思い、また楽しませることを軽視してはならないとも思った。彼らはまた飾らない対等の話し方をしようとした(特に講話のときなど)。 時には彼らは(ブルジョアの)子供たち向けのお話しの特徴的な話し方である「~です。」「~しました。」などの丁寧な話し言葉を使わないようにしようともした。この章の最初の三話ではこうした表現を用いているけれども。プロレタリアの子供たちもまた丁寧な言い方を好んで楽しむかもしれないという議論はあるだろう。「祈祷」(8)の中には、工場で働く少女が、こうした上品な言葉で語られるキリスト教的雰囲気を魅力的に感じている場面がある。                         

  この章に収録された小説の中で、中野重治の「鉄の話」は、鹿地亘や村山壽子の作品と比べると、子供のために書かれたのではないように思われる。小林多喜二の「同志田口の感傷」(1)と同様に、少年時代の忘れられない記憶の物語は大人の言葉で語られている。中野がこの物語で訴えていることは、主人公が、内面を見つめ(ブルジョア文学で重視されていた)、少年の頃を振り返り、抑圧の構造を見抜くことで、貧しい田舎の子供の苦難に尊厳を与えることなのである。

  最後に、槇本に戻ろう。槇本は、ブルジョアとプロレタリアの子供たちが必要とするものの違いを述べた後で、両者が共有している子供としての特質、基本的には「空想の」世界の存在を信じる特性を探っていく。そしてこの章に収録の評論で、「擬人法と象徴」は大人にも、意識的にだけでなく無意識的にも、自然に日常生活の中で使われていると述べている。槇本は彼の弁証法的論法を、まだ不十分な段階ながら、以下のように結論づけている。ブルジョアとプロレタリアの子供たちの差異は、古典的な言葉でいえば矛盾は、現実である。しかし両者には認識すべき共通性がある。子供たちと大人たちの間の差異は現実である。しかし両者にはすべての人間に共有のものがある、と。これに続けて、私たちはつけ加えることができよう、プロレタリア文学とブルジョア文学の差異はそれぞれの豊かさや不完全さも含めて現実であるが、それらが重なり合ったとしたら、階級差別の不正義に打ち勝つ社会をめざす一つの姿が見えてくるのではないだろうか?  (NF)

 

 

 

 

 

テキスト ボックス:  16. 地獄(鹿地亘 1928年)  17. こほろぎの死(村山壽子 1929年)  18. ゾウ ト ネズミ(村山 壽子 1939年)  19. 鉄の話(中野重治 1929年)  20. 童話に於ける「現實」「非現實」の問題(槇本楠郎 1928年)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

5章 武器としての芸術

 

 

 

 イントロダクション()

 

 この章の最初のページの詩に、作者が、「武器としての芸術」(この場合、宣伝ビラ)を撒く直前に、うずくまって身構えている場面がある。抗議の伝達手段としての芸術はその昔からあったのかもしれない。階級闘争や革命の言葉として重要な部分である武器としての芸術の表現方法は、この意義ある活動の一つの実例と見做されるであろう。しかし20世紀におけるこの用法は、「芸術至上主義」に果敢に挑戦するものであり、日本の内外で、「芸術派」のブルジョア評論家や作家たちを立腹させることになった。(22,29参照) 彼らは目的、とりわけ政治的目的を持った芸術は、全く芸術などではない、せいぜい元来劣った芸術にすぎない、と見做しがちだった。しかし、芸術と政治の関係はプロレタリア文学運動の内部でも熱い論争を巻き起こしたのである。

  芸術の大衆化、形式と内容、そして芸術的価値と政治的価値の関係についての、運動の主な論争は、すべて、この章にも収録されているように、作品の短い形式に関係している。芸術的価値は政治的価値に融合しうるか? 形式と内容はどちらが重要か? あるいはそれらは分けられない一つのもので、芸術的価値と政治的価値はプロレタリアートの目的のために統一すべきものであるか? どんな書き方をすれば教養ある者から無学な日雇い労働者や小作農民までの、プロレタリアートの様々なレベルに最も効果的に届くのか? これらの論争は極めて知的なものだったが、熾烈を極めた。論争する者たちは、社会を現実に変革したいという点では一致していて、単に勝ち負けを決めるようなものではなかったからである。論争の三つの観点の中で、大衆化は現実に最も急を要するものだった。運動の中心である知識人たちは、どのようにして工場労働者や小作農民に訴える作品を創造することになったか? 大衆化論争の第一段階は、1928年中頃に、蔵原惟人(13)、林房雄(7)、鹿地亘(16)、中野重治(19)などが中心となって起こった。議論は、以下のようなものだった。大衆へのアジプロと本物の芸術は区別することが望ましいか、プロレタリア芸術は、革命以前の社会において創造されうるか、あるいは大衆的娯楽は、当然のことながらそれ自身の形式で内容を伝えるものであり、従って運動の目的にとっては、有害ではないまでも無益なのではないか、など。

  1931年末に「工場で、農村で」文学の分野にプロレタリア文化運動の基盤を置くとする指令のもとに、上部団体、コップ(日本プロレタリア文化連盟)が結成された。この指導のもとに、「壁小説」、「通信」、「報告文学」のような新しい形式が、工場・農業労働者たちによって進められた。小林多喜二の「壁小説と『短い』短編小説」(29) は、前近代の形式からヨーロッパの短編や「芸術派」の筆頭・川端康成の「掌小説」へ、などの前例を経て、このような新しい形式が、長い小説を読む気持ちを持たず時間的にも経済的にもその余裕のない者たちにふさわしい作品を、という労働者の願望に応えて、生まれてきたのであることを示唆している。多喜二の評論は、形式と内容の結合がプロレタリア作家たちにとって意味するものについての重要な提言となっている。同時に、工場の壁のような公共の場所に、「壁小説」を貼りだせる場所があるかということさえ、このジャンルでは重要なポイントだったが、日本の作家や読者たちがそれをどのように実際に活用したのかについては、正確な記録が残されていない、ということに留意する必要がある。ここに収録したものも含めて、現存の作品すべては雑誌に掲載されたものなのである。韓国の作品 (24)に描かれているような形で、それらが剥がされたりピンで留められたりしたというようなことは、日本の場合知られていないのである。楜沢健は、壁小説が貼りだされる場所は、作家(そして挿絵画家や出版者)が作品を創りだす上で重要なポイントだった、と述べている。そこに集まってそれを読む者たちの現実の感覚が重要であり、何を書くべきかは、そこにどんな読者がいるかによって決まるのである。(楜沢健、「壁小説の集団現実性」―『多喜二の文学、世界へ』P341-46) 亀井秀雄は、壁小説の代表的作品ともいえる多喜二の「テガミ」を考察する中で、もしこれらの壁小説が、合法的には労働者のものではないが、彼らの表現の場所だとされていたメディア、即ち「壁」に、人目を引くように貼り出されていたら、まさしくそれは闘争を活気づける役割を果たしただろう、と示唆している。(小樽文学館での発言「小林多喜二の『テガミ』―‘壁小説’の実験性」) いずれにせよ、この章に収録の22~26の作品は、「壁小説」と言われる分野のものである。

  国際的な、とりわけドイツの、この形式への奨励は、プロレタリア・革命作家協会の機関誌の編集長、オー・ビーハが、日本の読者層のために書かれた「壁小説」を、ことさら大きく取り扱っていることでもわかる。「ドイツに於けるプロレタリア文学の萌芽形式」と題するビーハの論文は、日本で、秋田雨雀(1883-1962)と江口渙(1887-1975)によって編集監修された5巻シリーズ『総合プロレタリア芸術講座』の第3巻に掲載された。この『芸術講座』は、理論的分析、歴史的考察に優れた驚嘆すべき選集で(まだ始まったばかりの運動としては!)、プロレタリア芸術の映像から文学に渡る範囲の案内書であり、最初は日本の、それからドイツやソ連やアメリカの芸術にまで及んでいる。多喜二の「小説作法」は、徳永直が最初の巻で紹介した後に、第2巻に掲載されている。その助言の多くは、駆け出しの作家にも経験豊かな作家にも、意味深く響いたようだ。徳永が『文学新聞』に投稿された作品を総括し、批評して書いた「創作活動の成果」(31)とともに、これらの考察は、プロレタリア作家たちが自身の作品を見直すことへと繋がり、それによって、私たちに、プロレタリア文学とブルジョア文学の様々な違いを再検証するように促している。この章の中の多喜二や徳永の評論とともに、山田清三郎の「報告文学の書き方」(28) は、新しい読者を募るだけでなく、昼間は働いている労働者や小作農民が書き手となることを促している。山田は、ドイツのオー・ビーハの「萌芽形式」の中で提唱されている通信、あるいは報告文学を、彼らの手で書くようにと鼓舞している。 運動の中の文学の分野が、1931年後期のコップ傘下の多々ある部門(音楽、美術、映画等々)の一つとして認められると、「サークル」が工場や農村の中に組織された(本書中表紙・ナップ表紙参照)。拍車を掛けたのは1930年の赤色労働組合インターナショナル(プロフィンテルン)第5回大会からの呼びかけだった。労働者が自らの経験を書くように勧められたならば、彼らの作品は出版物を通して認められる必要があった。『文学新聞』は、そのような場所を提供するものだった。それは、内外のニュース、様々なサークルの報告、主要な作家たち(多喜二、徳永、宮本百合子(36,40)、中野など)による記事などを伝えると同時に、読者の散文や詩を、時には賞を設けたり、批評もつけたりして掲載した。どのページにも写真があり、挿絵は運動の指導者だけでなく読者も投稿したようだ。「工場の一日」(27)は、この選集では唯一の無名の書き手によるものである。それは、山田清三郎の「報告文学の書き方」(28)と対をなしている。その中で山田は、彼女の作品の構成に関する批評などを加えている。山田の論評は、報告文学の形式の基礎をなすべき、現実の観察、政治的なものの見方の必要性を示して、有益なものとなっている。しかしながら私たちは、彼の具体的な批評の妥当性だけでなく、彼の取り組みそのものを評価している。プロレタリア文学運動の指導者たちが、ペンと紙を持って何かを書こうとは思いもしななかった者たちを励まして書かせようとした、その真剣な取り組みを評価したいと思う。

  この時代に、そのように多くの執筆、組織、教育、発行がなされたことは、驚嘆すべきことである。1932年4月から、中心的な指導者たちの逮捕や投獄が始まったばかりか、1931年10月から1933年8月の間に発行された33回の『文学新聞』のうち、ある回は完全に没収され、24回分が発行禁止となった。相次ぐ禁止の中でも、なお彼らは読者と繋がる方法を見い出していったのである。 (NF)                        

 

 

 

 

 

 
  テキスト ボックス: 21.ビラ撒き(佐多稲子 1929年) 22.テガミ (小林多喜二 1931年) 23.ショール(徳永直 1931年) 24.掲示板と壁小説(李東珪 1932年 ※原文朝鮮語) 25.百姓鑑 (細野孝二郎 1932年) 26.チチハルまで(黒島伝治 1932年) 27.工場の一日(長野加代 1932年) 28.報告文学の書き方(山田清三郎 1932年) 29.壁小説と「短い」短編小説(小林多喜二 1931年) 30.小説作法 小説の作り方(小林多喜二 1931年) 31.創作活動の成果(徳永直 1932年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第6章 反帝国主義と国際主義

 

 

 

イントロダクション()

 

1941年12月3日の日本の真珠湾攻撃は、欧米の注視するところだった。しかし第二次世界大戦を通して日本帝国を見ることは、いわゆる「氷山」の一角を見るようなものである。大日本帝国という「氷山」は、19世紀における自然資源、安価な労働力、そして20世紀に入るころまでには日本を軍産複合体制へと駆り立てた新しい市場をめぐる国際競争の様相から、その全貌が捉えられる。1920年代後期から1930年代初期にかけて、日本帝国は、台湾(1895)と朝鮮半島(1910)を支配し、1931年までには、中国東北部(満州)に傀儡国家を樹立した。更に中国の一部地域、東南アジア、太平洋諸島が加えられた。黒島伝治の評論の抜粋がこの章に収録されているが(34)、彼らプロレタリア作家たちは、レーニンに倣って、19世紀後半から20世紀初期の帝国主義を「資本主義の最高段階」とみなす国際主義者の運動と連帯して、日本帝国主義を批判した。もし政府の弾圧が1930年代中頃までそんなにも熾烈なものでなかったとしたら、国際主義者、反帝国主義者の運動は、国内でどのように日本帝国主義に反対して闘い続けただろうか、と推測してみることは興味あるところである。(弾圧に関する論議については第7章を参照のこと)

  プロレタリアの雑誌は「帝国主義打倒」などのスローガンを掲げ(その中では帝国主義はまた帝国の発展に欠かせない金融資本主義であるとも捉えられていた)、そして、報道記事、写真、創作などを通して、日本自身の、植民地の、そして世界中の貧困者たちに共通する、搾取の実態を描き出した。この章に収録の2作品は(一つは日本のゴム工場での女性労働について、もう一つは日本の植民地支配のもとでの朝鮮人農民の苦難についてのもの)、ともに、プロレタリア雑誌が、国際的連帯が築かれつつある中で、資本主義と帝国主義の間の複雑さを暴露することに貢献していることを、示している。この章の中の黒島伝治の評論は、なぜプロレタリアートは、国家の戦争の中で、騙されて自ら犠牲的な役割に甘んじるのではなく、国際的団結を作りだしていくことが必要であるか、を明らかにする反戦文学の重要性を論じている。

  日本は、他の「後進の」諸国と同様、19世紀末までにはアジアの殆どが、大英帝国、フランス、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダ、そしてアメリカなどに分割支配されていたことに気づいた。当時国際的信用を享受していた社会ダーウィン主義者の論理によれば、問題は、いかにして列強に追いつき、弱者の運命を避けるかということだった。19世紀中期には、清朝(中国1644-1912)と徳川幕府(日本1603-1868)は、商業資本主義とは明らかに相容れない新儒教のもとにあった。イギリスが、中国とアヘン戦争を戦い(1839-18421856-1860)、茶の輸入による貿易の不均衡を、アヘンを中国に不正に持ち込むことで相殺することに成功したとき、状況は決着した。軍事的勢力が、有利な貿易の条件を奪取したことは明らかである。一方では徳川幕府は、およそ250年にわたる体制の経済的矛盾のもとで、飢饉(1833-1836)や多くの一揆(1830-1844)が起り、体制は不安定となり、崩壊していった。

  ヨーロッパの帝国主義勢力の間では、徳川幕府が歓迎せざる外国人に対しては残忍であると知れわたっていた。しかし、ゴールドラッシュで1850年にアメリカの31番目の州となったカリフォルニアを加えて、成長しつつあるアメリカは1853年に三隻の軍艦を率いるマシュー・ぺリー将軍を日本に送り込み、幕府に開国を求めた。その1年後に再び来航し、すでに中国に課していたような「不平等条約」を締結した。交易のために港を開き、治外法権を敷き、徳川幕府の関税権を制限するものだった。他の帝国主義勢力、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなどは、それに続きすばやく、同じ状況で、自国との条約の交渉を行なった。通商条約なども加わった。主権を侵害され植民地にされることを恐れて、日本国内の支配者はいかにして国土を防衛するか、苦慮した。

  資本主義は明らかに、帝国主義の拡大しだいで喰うか喰われるかのどちらかであった。大方が驚いたことに、日本は、ほんの20年のうちに、欧米型の帝国主義勢力として台頭した。1895年までに、日本は日清戦争で清を破り、台湾を領土として獲得し、朝鮮王朝(1392-1897)に侵攻した。大日本帝国による50年に渡る朝鮮支配の始まりであり、1945年の敗戦でその終焉を迎えたのである。日本は1905年にロシアを破り(これは、1940年の大東亜共栄圏の宣言の戦略的目標であった、白人覇権に対して闘う英雄として、世界中のアフリカ系アメリカ人やその他の国際主義者の喝采を受けた)、1910年に韓国を併合し、1915年に中国に対して「21カ条の要求」を提示し、第一次世界大戦後に連合国が講話条件等について討議した際、日本の成果の国際的認知を求めた。後の首相(1937年6月-1939年1月、1940年7月-1941年7月)の近衛文麿(1891-1945)は、1918年のパリ講和会議に出席し、欧米列強がアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの「民族自決」の考えを完全に遂行しようとしないことに失望した。その提唱のもとに欧米諸国は世界中の彼らの領土から撤退すべきであったが、そうはならなかった。

  ボルシェヴィキ革命(191710月)は、敵である資本主義に対して、驚嘆すべき試みに着手した。日本のような後進国の思想家たちは、プロレタリアートは必然的に資本主義の成長に苦しまねばならないという重荷を抱えつつ、マルキシズムを学習し、ソ連邦にその理想像を求めた。もしプロレタリア革命が、ブルジョア民主主義革命が行ったのと同様に、社会の状況を完全に変えることができるとしたらどうであろうか? 資本主義・帝国主義の発展に代わるものがあるのであろうか?

  日本における資本主義についての活発な論争は、国内外で続いた。そして急成長しつつある日本帝国は、論争の核心であった。1927年にコミンテルンは「日本問題に関する決議」を発表した(通常「1927年テーゼ」と呼ばれている)。それは大きな論争を巻き起こした。何よりも先ず彼らの関心は大日本帝国の強さにあった。

 

 

 

   戦後、世界経済および世界政治において極東の占める比重が非常に高まったことは、日本帝国主義の問題をとくに重大ならしめている。最近十年間における日本帝国主義の強化、その侵略性の増大、中国・インド・近東・太平洋諸島およびソヴィエト連邦の領土にたいするその侵入、等によって、日本は膨大なる全アジア大陸における第一級の帝国主義強国となった。(「日本問題に関する決議」)

 

「第一級の帝国主義強国」としての日本という評価は、コミンテルンだけでなく、日本の左翼によってもまた、しばしば帝国拡大の重要なポイントと見なされた1931年の満州国傀儡国家の建設以前でさえ、自明のこととされていた。日本の帝国国家の台頭をどのように理解するか、は論争を巻き起こす問題だった。それは、確かに直接的にプロレタリア革命へと進むのに十分なほど経済的に発達していたのか?コミンテルンの評価は、近衛がパリ講和会議で直面したような、人種的に見下ろしていた態度と同じもののように思われ、日本では失望した者たちもいた。「コミンテルンの1927年テーゼは、日本が社会主義を達成するために、二段階の革命(最初はブルジョアの、次にプロレタリアの)を求めているものの、1917年2月のロシア自身の『後進性』よりも更に遅れた状態にある、と述べている」Hoston:‘The State, Identity, and the National Question’)。 労農派を結成するに至った知識人たちは、日本帝国主義は、日本が遅れているのではなく、むしろ高度に発達している証しである、と論じた。一方講座派として知られるようになった者たちは、日本の経済構造を徹底的に研究しつつ、コミンテルンの提言に従ったHoston,‘Marxism and the Crisis’。 日本の中国への進出が中国の革命を遅らせるだけでなく、中国北北部を日本が占領したことが直接的にロシアの安全を脅かすことからソヴィエト社会主義建設の弊害になるということを考えるならば、コミンテルンの理論家たちは中立ではいられないだろう、という事実によって、帝国主義に対するプロレタリアの論評は、複雑なものになった。しかし、日本帝国の拡大が、1920年代後期までには分析され、論評されつつあり、プロレタリア作家たちが、いろいろな不一致があったとしても、日本帝国主義は内外のプロレタリアートの犠牲の上に成り立っているという認識では一致していたということに、注目することが重要である。

  プロレタリア文学は、帝国主義を、その全体像を理解させるために、様々な形で描いている。二つの評価すべき作品は、小林多喜二(1,5,11,22,29,30)の「蟹工船」(1929、後半は発禁)と黒島伝治(26,34)の「武装せる市街」(1930、 発禁)で、国内外のプロレタリアートの犠牲の上に行われた帝国主義的事業の明晰で強力な告発の作品である。本選集の中には、細野孝二郎(25)の、飢餓に苦しみ、息子が戦地で死ぬかもしれないという心配の中でさえ、国の手先(村長)からの欺瞞満ちた手土産を拒否する田舎の農民の姿、黒島の、満州北部での戦時に垣間見た兵士たちの生活、鹿地亘(16)の、貧しい日本人の男の子と、父親を地獄から救い出そうとする朝鮮人の女の子の話、張赫宇(33)の、韓国における階級闘争の描写、そして、金斗鎔(39)の、日本人の同志があまりにも性急に社会主義リアリズムを取り入れようとすることへの批判、などが収録されている。黒島が論じているように、プロレタリアートは、「同じ貧乏人同志が傷つけあいをやり殺し合いをやることに絶対に反対しなければならない」そして帝国主義者である「泥棒同志の喧嘩を利用して泥棒制度全体をなくすることを考えるべきである」。(「反戦文学論」)                                         (HBS)

 

 

 

     

 

 
  テキスト ボックス: 32. ある戦線(松田解子 1932年) 33. 餓鬼道(張赫宙 1932年) 34. 反戦文学論(黒島伝治 1929年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                      

 

 

 

第7章 弾圧、転向、そして社会主義リアリズム

 

 

 

イントロダクション()

 

国家が個人を迫害し、かろうじて存続していた組織も壊滅させた最後の数年に、プロレタリア文学に残されたものは何であったか? 本章は、作家たちが、陰鬱な環境の中で、なんらかの取りくみを維持しようと苦闘した時代を概観するものである。「陰鬱な」という言葉は、1933年3月20日、小林多喜二が取り調べ中に虐殺されたとき、事実上、組織闘争の消滅を告げて、悲劇に転じた。(fig.2) 運動は、最後に残ったプロレタリア芸術組織「作家同盟」が1934年2月に解体したとき、終焉を迎えたと言われている。しかしながら、信念を堅持し続けた者たちは、耐え続けて、『文学評論』などの雑誌を立ち上げさえした。この章に収録した作品は、同盟解体後の1934年から1935年の時期のものである。しかし読者は、どんな小作品でさえ、運動がいつの日か再建されるかもしれないという希望を抱いていることに気づくだろう。そして引き続き、多くの論争が行なわれたのである。

  確かに、弾圧は、運動にとって今始まったばかりのものではなかった。執筆活動であろうと組織活動であろうと、当事者たちは、来るべきものに対しての心構えはしていても、彼らの行動がいつ何時厳しい弾圧に合うか、と恐れながら生活していた。1928年3月15日の1500人にものぼる一斉逮捕に関する小林多喜二の記述(11)は、警察の夜間急襲の恐怖と苛酷な取り調べについての記憶に残すべき文学的表現となった。改めて読み返すと、広範な読者に多喜二の文学的才能を知らしめたこの作品が、また左翼の活動家たちへの弾圧の凄まじさを如実に描いているということが、ますます意味深いものに思えてくる。その上この小説は、作者と同志たちの身に、現実に起こったことを描いているのである。1930年に、非合法の日本共産党に活動資金を出したという理由で逮捕されて、多喜二は特高に脅かされたという、「やあ。お前が小林多喜二か。お前は『三・一五』という小説を書いて、おれたちの仲間のことをある事ない事さんざん書き立てやがって、ようもあんなに警察を侮辱しやがったな。こうしてつかまえたからには、お前が『三・一五』で書きやがったとおりの事をお前にしてやるからそのつもりでおれ」(江口渙『たたかいの作家同盟記・上』p286

  左翼関係者の逮捕はその後増える一方で、1931年には10,000人以上に達し、1932年には約14,000人、1933年には14,000人を超えた。同様に、検閲も激化し、政治や社会に関係する書物の20パーセントが、1928年12月から1929年5月の間に発禁となった。それ以上に頻繁に発禁となった左翼系の雑誌の数を加えずにである。国家の監視制度は1928年に増強された。警察には200万円以上の予算が計上され、その半分以上が警察使用の電信電話網の増設に使われた。片岡鉄平の「通信工手」(12) には、抑圧の政策のためのクモの巣の網の目のように張りめぐらされた電話線をめぐっての不気味な状況が描かれている。1932年春の一斉逮捕は、宮本百合子(36,40)、中野重治(19)、片岡鉄平、蔵原惟人(13)らを含む、本選集の中の多くの指導者や作家たちの逮捕によって、決定的な打撃となった。宮本顕治(百合子の結婚したばかりの夫)、小林多喜二、鹿地亘(16)は辛うじて逃れて地下に潜ったが、三人とも結局また別の監視機構即ちスパイによって捕らえられた。

  1931年から1933年までの逮捕者の数が38,000人以上ということには、正式に罪名を問うことができない人々に圧力をかけるために、特高によって行われた嫌がらせの戦略で、同じ人物が繰り返し逮捕され、罪名もなく拘束されたことによる重複を含んでいる。何度も標的にされ、「人間をなんとも思わないやり方で」、「まったく人権を無視したようなやり方で」(蔵原惟人「『小祝の一家』『乳房』について」)扱われた宮本百合子の場合をとってみよう。権力が、囚人を死の間際に追いやってから釈放し、その死に対する責任を回避することは、彼らの常套手段だったのである。

 本選集の中の作家たちのほとんど誰もが逮捕されたことがあり、逮捕を免れた者たちは刑務所にいる人たちに、必要な補助食品、暖かい衣類、そして手紙や書物などを差し入れる仕事に時間や金を費やすことになった。この様子は、この章に収録の若杉の「母親」(3)や村山知義の「白夜」(35)、百合子の「乳房」(36)に窺うことができる。「乳房」では、無産者託児所を運営し、労農救援会で働いている活動家たちが耐えている、時にはいらだたしい、時には悪質な嫌がらせが描かれている。警察スパイの裏表を描いた小説が出版されたということは(しかも1935年に)、驚くべきことである。

  1932年の一斉逮捕が運動に深刻な打撃を与えたとするなら、もう一つの打撃は運動の内部から起こった。日本共産党の指導者二名が1933年に自説を撤回、あるいは「転向」したのである。佐野学(1892-1953)、と鍋山貞親(1901-1979)は、本選集の作家たちと共に当初から活動していたが、無期服役中に、共産主義インターナショナル(コミンテルン)への忠誠を放棄し、それは日本独自の状況への理解を誤ったとする、連名の書簡を発表した。佐野と鍋山の声明は、刑務所の中で回覧され、500人以上の転向者へとつながった。おびただしい転向が警察スパイの徹底的な潜入に加えて起こった。1935年までに日本共産党は統一的機能を失った。なぜそんなに多くが転向したのか? 刑務所での精神的肉体的苦痛、満州事変(日本の大衆の生活がよくなるのではないかという幻想)に伴うナショナリズムの復活、ソヴィエトの指導性への疑問、とりわけ家族共々生きていくための収入を得ることの必要性、などで説明がつく。そしてまた、「偽装転向」というわかりにくい現象もあった。それは釈放を得て、活動を再開するという意図のもとに行なわれた。

  転向へのどんな理由づけがされようと、それは個々人にとっても運動にとっても、当時においてもその後においても、傷跡を残した。 かつて1920年代にはマルクス主義者福本和夫(1894-1983)によって、「真の方向転換」として肯定的に用いられていた「転向」という語は、今やプロレタリア政治との公的決別と同義語になった。宮本百合子が1934年12月に述べているように、「転向という文字が今日のような内容をふくんで流布するようになったのは、正確には去年の初夏以来であり、(佐野・鍋山・三田村その他共産党指導者たちが従来の帝国主義侵略戦争に反対するコンムニストたる立場をすてて、日本の中国に対する侵略行為に賛成し、支配権力に屈服した時から)プロレタリア文学運動との関連で実際的内容をもつようになったのは特に今年になって、プロレタリア文学者・戯曲家その他の屈服があらわれてからのことであると思われる」(「冬を越す蕾」)。この章の最後に収録した評論「冬を越す蕾」の中で、百合子は、転向は個人的な問題でもあり、社会的な問題でもある、と強調している。

 すぐさま登場した転向文学は、ブルジョア評論家から直ちに論戦を挑まれることとなった。これに応えて、宮本百合子は、「基本的にいかなるものから、どう転向したかということを明確に批判し得るのは、抵抗者たち(下線部伏字)であり、文学運動の面についてこの問題をとりあげるとすれば、ブルジョア文学においてではなく、問題の本質はプロレタリア文学の問題である」と論じた。百合子の不満は、運動を損なう、挫折したプロレタリア作家たちの安易な目標設定に向けられたが、また彼女の関心は、長い間同志であった村山知義や中野重治の転向、あるいは転向文学をより深く解き明かすことにもあった。多くの他の転向した同志たちと同様、この二人は、逮捕の危機に瀕し、実際に逮捕され、投獄され、発禁にあい、長期間監視下におかれ、そうした状況の中で、できる限り抵抗し続けた。転向文学の走りである村山の「白夜」(本章に収録)が出版された時、その作品と村山自身が、弾圧に抗する運動の失敗をさぐる手がかりとして検証された。中野は、戦後も精力的にすぐれた政治的文学的活動を続けたが、当時、転向に関して影響力ある、苦渋に満ちた考察や小説を書いた。中では「村の家」(1935) が特に有名である。小説家で評論家の野間宏(1915-1991)が指摘しているように、「転向文学は、自分の転向の意志を表明し、思想的に転向して新しい思想を求める文学ではない。あくまでも共産主義運動マルクス主義思想の正しいことを信じ、それに前進しようと考えるが、自分自身の弱さを振りかえり、たたかい敗れた自分を徹底的にみきわめ、自分の限界をさだめて、その限界内においてあくまで良心をまもり、生きて行こうという決意にいたる自覚を追求した文学である」(『日本プロレタリア文学大系』7・解説)

  実際、1934年2月に作家同盟が解体した時に、運動はその不可欠の基盤である組織を失った。運動のメンバーたちの中には、転向文学とともに、中心組織の解体をプロレタリア文学の新たな転換へと進める者もいた。不安定な状況を複雑にしたのは、この時期に、社会主義リアリズムが日本に入ってきたことである。社会主義リアリズムは、しばしば、明白な左翼の芸術的実践の全体を包括すると考えられている。それはマルクスやエンゲルスに立ち返る「原則性」のような基本概念を利用する一方、ソ連邦の二度の五か年計画の時期に、特定の歴史的状況における理論として重きをなした。1932年、ロシア・プロレタリア作家同盟(ラップ)の解散は、多くの団体が様々な傾向を論議する時代の終わりを告げ、単一のソヴィエト連邦作家同盟が「社会主義リアリズム」の旗の下に結成された。社会主義リアリズムは、ソ連、中国、北朝鮮、ラオス、ベトナムなど多くの共産主義体制にとって公認の芸術的ドクトリンとして、その先長く論争され続けることになった。初期の段階、少なくともそれが公認の理論として発表された時には、それを学ぶことは多くの読者に驚きを持って迎えられたかもしれない。社会主義リアリズムは、ソ連邦自身に、継続する活発な議論を促しただけでなく、その日本への導入は、プロレタリア芸術運動にかかわった人々の中に最後の精力的な論争を引き起こしたのでる。

  ソヴィエト作家同盟第1回大会(1934)が開催され、発表されたその声明から、このドクトリンの内容を把握することは容易ではない。その目標が、アンドレイ・ジダーノフ(1896-1948) が大会での演説の結語で語った言葉によれば、「人々の意識の社会主義の精神における改造の最も能動的な組織者となっていただきたい」として、作家たちを統一することであったとすれば、当然のことだろう。戦後の党中心の文化のドクトリンはジターノフィズムという用語を産み、ジダーノフは、「ソヴィエト文学はこの領域においてすべての先行諸時代によってつくり出されたよいものをすべてえらび取って、これらの武器の種類(文学創造のジャンル、スタイル、形式および手法)をその手法をその多様性と充実において適用するあらゆる可能を持っている」と、作家たちを激励した。言い換えれば、社会主義リアリズムの要綱が日本に入ってきた時、その内容や形式に関しては、具体的には明示されていなかったのである。                                     

  宮本百合子は、ソヴィエトの発展を簡潔に紹介する中で、次のように指摘している。「日本において、直ちに社会主義リアリズムというスローガンをそのまま適用し得るかどうかということは、活撥な大衆的討論によって決定されるべき点でしょう」(「社会主義リアリズムの問題について」)

 そして討論は行なわれた。社会主義リアリズム、即ちプロレタリア革命を経た国の新しい芸術政策は、転向者も含めて今なお抵抗運動にかかわっている多くの者たちにとって、スローガンとなった。第一回ソ連作家大会で発表された時の漠然とした内容にもかかわらず、ソ連邦の政府が提唱する「社会主義リアリズム」は、とりわけ展望を模索していた日本の作家たちにとっては、確固たる意味を持ったのである。しかし、そのスローガンは何を意味したのか? ラップが推進した「文学創造のための弁証法的唯物論の方法」はもはや有効でないということなのか? それはついに文学方法、運動組織、そして世界観を統一することを可能にするのだろうか? そしていずれにしても、日本ではどこに、「社会主義」リアリズムのための素地があるのであろうか? この最後の問いかけは、論争者たちが意図しようとしまいと、結果的には、佐野や鍋山の転向声明の核心部分、即ちコミンテルンは日本や植民地の「特殊な状況」を把握できていないという主張に密接に関連している。中野重治や森山啓(38)など社会主義リアリズムの擁護者たちの考えでは、日本の状況はそれに適応しないと主張している者たちは、基本的に、闘争の本質と闘争における文学の役割を理解していないとされた。「日本的現実」がどうであるにせよ、それは世界の状況とかけ離れては存在しないし、芸術は社会の現実を単純に反映するだけのものでもないのである。

 社会主義リアリズムには様々な見方があるにせよ、ここに抜粋収録した、川口(37)、森山(38)、キム(39)らの思想闘争は、作家たちがこの絶望的な時代の中では充分と言えるほど、真剣に「リアリズム」を追求し続けたことを表している。   (HBS & NF)

 

 

 

 

 

 

 

 
  テキスト ボックス: 35. 白夜(村山知義 1934年) 36. 乳房(宮本百合子 1935年) 37. 否定的リアリズムについて――プロレタリア文学の一方向(川口浩 1934年) 38. プロレタリア・リアリズムと「社会主義リアリズム」              ――文学の方法についての研究(1) ――(森山啓 1935年) 39. 社会主義リアリズムか×××リアリズムか(金斗鎔 1935年) 40. 冬を越す蕾(宮本百合子 1934年)

 

 

 

 

 

 

 

                                       

 

   訳者 あとがき

 

  この翻訳は、札幌民主文学会の皆さんのために試みました。

  進めていくうちに、当初予想したよりもはるかに難解で、何度も挫折しそうになりましたが、なんとか終わりまで来て、ほっとしています。

 夫(松木新)が次々に引っ張り出してくる資料で、プロレタリア文学の歴史を紐解いたり、オリジナルの小説や評論を読んでみたりして、初めて英文が理解できるということもありました。

  それにしても、当時の苛酷な状況の中で、プロレタリア文学運動にとりくんだ人々の苦闘と遺された業績には、敬服する思いです。そしてシカゴ大学の研究者の方々の、この徹底的な、緻密な、奥深い労作に、心から敬意を表します。

  私の力量不足のために、誤訳や著者の意にそぐわない表現などがあると思いますが、それはお詫びするしかありません。同時に、何かの機会があれば、それらを指摘、訂正していただければ幸いに思います。

  

 

 (注)は作品番号を主とし、引用文献名も必要に応じて文末につけました。アメリカの文献の引用は、そのまま英語で記しました。なお、fig.1~10として関連の図、挿絵、写真などが掲載されていますが、それらは原書のページでご覧いただければと思います。

                       ( 2016.9.30 まつきたかこ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信 二〇一六年月一日  214号 

 

 

アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』

 

目次(初出誌付き)と第1章「個人的なことは政治的なこと」、第2章「労働と文学」の「イントロダクション(序)」(本邦初訳)を掲載します。残り3章~7章も、順次、掲載していく予定です。 横書きのため最終頁から左開きの編集です。

 

(編集担当)

 

 

 

 

 

 

 

 

  月例会合評報告

 

 

 

最上裕「海辺の正月」について

 

             平山 耕佑

 

 

 

レポーターを仰せつかった私がしたことは、時間の経過に従って出来事やその時の思いを並べ替えたことである。例えば①「小学生の頃」浜中繁は祭りで槍使いの子に選ばれる。袴の裾を破る失敗をしたが何とか無事に終えて父に褒められるが照れくさい気持ち。(p.52) ②「だいぶ前の話」川が氾濫し被害を受け、父恒吉は家を移したが、川を暗渠にする工事の際住民といさかいを起こす。(p.51上)という具合に。それが⑪まで続いた。そうすることによって事実関係が整理されテーマや作者の主張が浮き彫りにされると思ったからである。そしてその根底には「どうも面白くない。こんなことでもしてみなければ」という思いがあったことは事実である。

 

 ところがこの「面白くない」ということばがその後の話し合いで続出した。これだけ多くの人が否定的な見解で一致したのはこれまでにないくらいだった。 

 

 以下、合評で出された意見を列記する。

 

・全体的に、「感じる」所がない。

 

・最後の章の「列車」はどこなのか、場所をはっきりさせてほしい。

 

 思い出した出来事の 互いのつながりがない。自分自身の「意志」がもやもやして宙ぶらりん。魅力なし。

 

・出来事がそれぞれバラバラで深化なし。「変わっているものもある」-何が?

 

・「課題」をどうしようという意思が全くない。ただやたらに流しているだけ。読者に訴えるものなし。

 

・期待感なし。父と子の気質は似た者同士か?自分の家族のことは何も書いていない。過去の事実を並べてそれを小説としてどう生かそうとしているのか。それが書かれていない。「あきらめずに続けていれば―」何を続けるのか?

 

・この作品をトップに置いたのは間違い。他の作品の方がいい。9月号の仙洞田氏の評価にも異論あり。

 

・小説としてのメリハリがない。それがダメとは言わないが―。

 

・最後の「直ちに解決する方法なし―」これは現実にありうること。悩んだままで終わっていることが不満。

 

・主人公は積極的に行動を起こすことがない。何を書こうとしたのか。むしろ父の人物像の方が面白い。

 

・同感。父を主人公にした方が面白いものができた。

 

 

 

 私はレポートの最後で1の章が導入部としていることを評価し、こうしたテーマで書くことの作者の意図が不明だとして結んだ。

 

 

 

 

 

 

シカゴ大学出版局『日本プロレタリア文学選集』目次

 

 

 

Ⅰ 個人的なことは政治的なこと

 

 1 小林多喜二「同志田口の感傷」(1930年『週刊朝日』4月春季特別号)

 

 2 中本たか子「赤」(1929年『女人芸術』1月号)

 

3 若杉鳥子「母親」(1931年発表誌不詳)

 

4 青野季吉「正宗氏の批評に答え所懐を述ぶ」(1926年『中央公論』11月号)

 

5 小林多喜二「年譜」(1931年改造社版現代日本文学全集第62編『プロレタリア文学集』)

 

Ⅱ 労働と文学

 

 6 葉山嘉樹「淫売婦」(1925年『文芸戦線』第27号)

 

7 林房雄「林檎」(1926年『文芸戦線』2月号)

 

8 佐多稲子「祈祷」(1931年『中央公論』10月号)

 

9 青野季吉「自然成長と目的意識」(1926年『文芸戦線』9月号)

 

10 中本たか子「調査見学的?」(1930年『女人芸術』第3巻新春号)

 

Ⅲ リアリズムの問題

 

11 小林多喜二「一九二八年三月十五日」(1928年『戦旗』1112月号)

 

12 片岡鉄兵「通信工手」(1930年『戦旗』5月号)

 

13 蔵原惟人「プロレタリア・レアリズムへの道」(1928年『戦旗』5月号)

 

14 平林たい子「プロレタリア作品の類型化について」(1930年『新潮』11月号)

 

15 佐多稲子「本質の上にかけられた覆い」(1932年『都新聞』526日~28日)

 

Ⅳ こども

 

16 鹿地亘「地獄」(1928年『プロレタリア芸術』1月号)

 

17 村山籌子「こほろぎの死」(1929年『少年戦旗』9月号)

 

18 村山籌子「ゾウ ト ネズミ」(1930年『子供之友』6月号)

 

19 中野重治「鉄の話」(1929年『戦旗』3月号)

 

20 槇本楠郎「童話に於ける『現實』『非現實』の問題」(1928年『プロレタリア児童文学の諸問題』)

 

Ⅴ 武器としての芸術

 

21 佐多稲子「ビラ撒き」(1929年『火の鳥』5月号)

 

22 小林多喜二「テガミ」(1931年『中央公論』8月号)

 

23 徳永直「ショール」(1931年『美術新聞』1225日)

 

24 李東珪「掲示板と壁小説」(1932年『グループ』 原文朝鮮語)

 

25 細野孝二郎「百姓鏡」(1932年『プロレタリア文学』2月号)

 

26 黒島伝治「チチハルまで」(1932年『文学新聞』25日)

 

27 長野加代「工場の一日」(1932年『文学新聞』425日)

 

28 山田清三郎「報告文学の書き方」(1932年『文学新聞』425日)

 

29 小林多喜二「壁小説と『短い』短編小説」(1931年『新興芸術研究(2)』)

 

 

 

-1-

 

30 小林多喜二「小説作法 小説の作り方」(1931年『綜合プロレタリア芸術講座』第2巻)

 

31 徳永直「創作活動の成果」(1932年『文学新聞』925日)

 

Ⅵ 反帝国主義と国際主義

 

32 松田解子「ある戦線」(1932年『プロレタリア文学』4月作品増刊号)

 

33 張赫宙「饑餓道」(1932年『改造』5月号)

 

34 黒島伝治「反戦文学論」(1929年『プロレタリア芸術教程』第1輯)

 

Ⅶ 弾圧、転向、そして社会主義リアリズム

 

35 村山知義「白夜」(1934年『中央公論』5月号)

 

36 宮本百合子「乳房」(1935年『中央公論』4月号)

 

37 川口浩「否定的リアリズムについて―プロレタリア文学の一方向」(1934年『文学評論』4月号)

 

38 森山啓「プロレタリア・リアリズムと『社会主義リアリズム』―文学の方法についての研究(一)―」(1935年『文学評論』4月号)

 

39 金斗鎔「社会主義リアリズムか×××リアリズムか」(1935年『文学評論』6月号)

 

40 宮本百合子「冬を越す蕾」(1934年『文芸』12月号) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第1章 個人的なことは政治的なこと

 

 

 

 イントロダクション(序)

 

個人的な問題が単なる個人的な問題ではないと認識されるのはいつのことか? 1969年にアメリカのフェミニスト、キャロル・ハニッシュ(1942-)は、女性たちが一般的に個人的な事として体験している諸問題は、家庭や職場でのジェンダーによる不平等なども含めて、「誰がこれによって利益を得るか?」というシンプルな問いかけで、社会の権力構造の上に位置づけられるものであろうと主張している。ハニッシュは彼女の評論「個人的なことは政治的なこと」の中で、アメリカの第二波フェミニズムが掲げている意識の高揚は、精神的なもの(すなわちブルジョア的セラピー)に深く関係するもので、政治的なもの(すなわち集団的行動)にはあまり関係していない、という批判に対して、女性たちは混乱した状況にあるのではなく、自由を侵害されているのだ!と反論している。ハニッシュは、集団意識を高めるということは、個人がそのかかえる問題を個々で解決しようとするのではなく、抑圧と闘うためにどんな客観的状況を変えていかなければならないかを、集団的に自覚することだと強調したのである。

 

本選集に収録された物語を読むと、どのように個人的悲劇が起きたかについて考えさせられる。資本主義は個々人を保護しないばかりか、彼らを精神的にも経済的にも不安定な状況に置いて、従順な労働力を確保するなど、さまざまなやり方で、しばしば目に見えない形で、利益を得ているのである。労働災害、セクハラ、民族差別、流産、栄養失調の子どもたち、そしてその他多くの貧困からくる悲惨な状況は、「地獄(16)の中の父親を亡くした女の子のように、全く個人の身の上に起こった事柄でさえも、「誰がこの問題から利益を得るか?」と問うとき、抑圧の形態であることは明らかである。「個人的なことは政治的なこと」というフレーズは、まさにプロレタリア運動から生まれたかのように思われる。運動に携わる男や女が、個々の生活の中の深刻な不正義を物語ることによって、階級、植民地、性別における不平等の問題に取りくむ中から生まれた言葉のようだ。実際は、そのタイトルはアメリカの第二波フェミニズムに由来していて、今なおそのスローガンが共感され続けていることは、意味あることであろう。なぜならプロレタリア運動と同種の、抑圧に反対する集団的行動が、正当であり続けることを認識させられるからである。

 

佐多稲子(8,15,21)は、第3章の、文学方法をめぐる論争で、自分自身の人生に起こったことに触れ――「窪川鶴次郎が警察に連れていかれ、それと前後して父親が気が変になり、弟がルンペンになって行衛がわからない」――、そして「そこに今日の社会情勢の反映を見ることが出来る」と述べている。(15) 佐多によれば、プロレタリア文学の仕事とは?「我々プロレタリア作家は、一家庭一個人に起こった事件をも、孤立したものとして表面だけを撫で廻しているのではなしに、必ずその本質へ入って、これらのことが起った必然性を社会的つながりに於いて見出し、具体的に表現しなければならない」。佐多は、彼女の苦難の「社会的必然性」をどのように解釈するのか。彼女の1932年の小論は、ライバルのプロレタリア作家、平林たい子(14)の、プロレタリア文学は「類型的」になっているという批判に論駁するものである。佐多は、平林の「現実社会の一切の斜面明暗流転の姿をそのままに文学化し得る方法」というプロレタリア文学の浅い理解の仕方を排斥する。代わりに彼女は主張する。「創作における唯物弁証法的方法とは、『あるがままに』ではなくて、あるがままの現象を通じて、それの起こった必然をその本質へ入って解明する方法である。単にあるがままにということは、絶対にあり得ない空語であり、表面だけを撫でることによってあるがままと思ったブルジョア・リアリズムとどのような差があると、平林さんは言うのであろう」。(15)

 

 この章に収録の3編は、「その本質に入って」描かれた作品である。プロレタリア運動の最もよく知られた作家・小林多喜二(111,22,29,30)の「同志田口の感傷」(1) は、今は成人している男が、愛する姉と過ごした少年の日の追憶を、ある同志に語るものである。中野重治の「鉄の話(19) の、御前揮毫をめぐる痛ましい少年時代の出来事と同様に、田口の語る話は、過去の出来事を抑圧の一つの形として読者に示している。しかし、「鉄の話」と異なって、「同志田口の感傷」では、彼の姉への思い出や彼女の運命がどのように彼に「同志」田口になる決意をさせたかを明らかにしないままに終わっていて、読者自身にその経緯を読みとるように委ねている。

 

一方、若杉鳥子の短編「母親」では、母親である主人公は息子を病気で失い、次に娘が社会主義運動のために家を出て行って、嘆き悲しむうちに、娘の行動から、彼女の個人的な悲劇はより大きな社会の構造から生まれたものだと理解するようになる。この平凡な家族の崩壊から、主人公は、1929年に邦訳されたマクシム・ゴーリキー(1868-1936)の『母』のように、新しいより社会的な家族の形を追い求めていくことになるのである。ゴーリキーの小説とは異なって、若杉の描く母親は、息子ではなく娘によって社会主義へと導かれるのであるが。

 

 中本たか子の「赤(2) での女主人公の苦難は、プロレタリア文学の洞察力と新感覚派の技巧を結びつけた形で描かれていて、葉山嘉樹の「淫売婦」(6) や片岡鉄平の「通信工手」(12) にも匹敵する。しかし「赤」がそれらの作品と違うところは、プロレタリアの女として生きること、この場合、繰り返し妊娠し、大酒飲みの夫に虐げられ、生活費もないまま沢山の子供たちと残される女の生活を、詳細に描いている点である。

 

これらの登場人物や語り手は、男も女も、老いも若きも、田舎者も都会人も、個人的には運がないのだと見なされるような苦難を味わうが、しかし同時にそれらは、佐多の言うところの「それの起こった必然をその本質へ入って解明する」ことを私たちに求める組織的抑圧を示唆しているのである。

 

 この章に収録した評論は、プロレタリア運動の二人の方を指導者たちによるものである。青野季吉(4,9)は若いころ貧困からニヒリズムに陥り、小林多喜二は豊かさを渇望した。その後二人は、青野によれば「社会の経済的機構の研究、社会主義の思想」(4) に出会ったのである。(HBS ヘザー・ボウエン=ストライク)

 


                              

 

第2章 労働と文学

 

 

 

イントロダクション()

 

労働とプロレタリア文学とはどんな関係にあるのだろうか。一方では答えは自明である。すなわちプロレタリア文学は、労働以外に売るものを持たない人々の苦難と願望を表現することを求めるものだった。他方、プロレタリア作家たちは、一日いっぱい働く労働者たちと自分たちとの間に存在するギャップに悩んだ。彼らの多くは高い教育を受け、書くことで多額の金を得ている者さえいた。1928年、運動をどう大衆に広げるかをめぐる熱い議論の中で、林房雄 (7) は、当時の作家たちが最も恐れていることを明確に述べた。「――吾々日本のプロレタリア作家の現在までの作品が、労農大衆の間に読者をもっていない」、これは問題である、と彼は続けている。なぜなら「而も吾々の作品はかかる大衆の間にこそ真の読者を持たなければならない」のだと。彼は次のように繰り返してこの小論を閉じている。「そして最後に三度び繰り返えす。大衆の間に龍巻を起こし得るためには、何よりも先ず現実の大衆に愛読されなければならない!」(「プロレタリア大衆文学の問題」―『戦旗』」192810月号)

 

プロレタリア文学運動が胎動してきたとき、労働運動はどんな状況にあったか? 19世紀末の未成熟な論議は、1920年代までに工場労働者と小作農民による大きく組織化されたストライキを伴う労働運動へと発展していた。労働運動が、治安維持法17条にもかかわらず、そのように大きくなったことは、驚嘆すべきことである。治安維持法はストライキや組合を完全に非合法とはしていなかったが、他の人々をストライキや組合に参加するように唆したり、扇動したり、団体交渉へと巻き込むことなどを強く禁じていた。1912年に、東京の産業界全般にわたる組織「友愛会」が、「親睦・相愛扶助、修養活動、地位の改善」を綱領として、クリスチャンの鈴木文治(1885-1946)によって設立された。1919年にそれは「日本労働総同盟友愛会」となり、やがてその政治的立場を明確にして、1918年のシベリア出兵に反対し(黒島伝治2634参照)、普通選挙権を支持し、1923年には朝鮮独立を支持した。この激しい政治的論議の時期に、「現実主義者」(すなわち資本主義との協調を望む者たち)と共産主義者との間に亀裂が生じたのは驚くにはあたらない。その後、共産主義者は日本労働組合評議会を結成した。小作農民組合もまた全国に設立された。最初の全国的組合、日本農民組合(日農)は、1922年に賀川豊彦(1888-1960)と他のクリスチャンによって設立された。そしてこの組織もまた亀裂を繰り返すが、小作農民の運動は起こり続けた。1927年までに4582の農民組合が356,332人の組合員を擁し、1933年の組合数4810をピークに、戦争勃発とともにその数は減少していった。(法政大学大原社会問題研究所『太平洋戦争下の労働運動』第3編「農民運動」)

 

小作農民の闘いは「不在地主」の著者・小林多喜二(1,5,11,22,29,30)や前述の黒島伝治などの目を引いた。本書では中野重治(19)、細野孝二郎(25)、張赫宙(33)の作品が農民文学として収録されている。さらに、プロレタリア児童文学を立ち上げたのは、1926年の新潟県木崎村における小作農民ストライキの際のプロレタリア農民小学校開校をめぐる闘いであったことにも注目しなければならない(第4章参照)。とは言え、大部分の作家たちの勢いは、「労働者・農民大衆」の統一への広まりにもかかわらず、都市プロレタリアートの方に向かっていた。小作農民制度は封建制度の遺物であって、それ故、日本は、プロレタリア革命に移行する前にブルジョア革命の完遂が必要だとする考え、あるいは、不在地主も含めて地方の土地所有者が年貢として得ている資本が他の金融資本と同様に流通していることをみれば、それは幻想であり、日本はプロレタリア革命の準備が整っている、とする考えなど、理論家たちの間では意見の相違があった。日本の政治・経済の世界史における位置づけに関して、相反する論議が巻き起こり、時には共産主義インターナショナル(コミンテルン)から、日本に関する「テーゼ」などが出されたりもした。

 

 ウラジーミル・レーニン(1870-1924)は「何をなすべきか」(1901)の中で、時代の熱い問いを投げかけている。1890年代ロシアにおける組織的なストライキや労働運動は革命的となりうるか? 彼は組織的なストライキは、すでにある程度労働者やその組織者たちの階級闘争の芽生えを表していると認めつつも、「しかし労働者は、自分たちの利害がこんにちの政治的・社会的体制

 

全体と和解しえないように対立しているという意識、すなわち社会民主主義的意識を持っていなかったし、また持っているはずもなかった」と述べている。

 

  「この意識は外部からしかもたらしえないものだった。労働者階級が、まったく自分の力だけでは、組合主義的意識、すなわち、組合に団結し、雇主と闘争を行い、政府から労働者に必要なあれこれの法律の発布をかちとることが必要だという確信しか、つくりあげえないことは、すべての国の歴史の立証するところである。他方、社会主義の学説は、有産階級の教養ある代表者であるインテリゲンツィアによって仕上げられた哲学・歴史学・経済学上の諸理論のうちから、成長してきたものである」(『レーニン全集』第5巻p395)

 

  これは、大衆を革命へ導くためには知識人の前衛が必要だとするボルシェヴィキが、この点でメンシェヴィキとは異なっているとする、戦闘的な言葉である。1920年代に邦訳された多くの著作の中で、「何をなすべきか」はとりわけ重要だった。正確に言えば、青野季吉(1890-1961)(4,9)の「レーニン」として、翻訳というよりむしろ翻案的なものであったが、それはプロレタリア運動の発展の基軸となった。青野は1925年に部分訳を行い、その後、佐々木孝丸(1898-1986)とともに全訳を成し遂げた。「大衆の自然発生性と社会民主主義者の意識性」というタイトルは、翻訳では、「社会民主主義の目的意識」となっている(下線・筆者)。「目的」という言葉は、青野が1926年と1927年に書いた「目的意識」に関する小論2編(この章に収録)の中でも強調した重要な要素である。「特殊な運動がなくてもプロレタリアの文学は、自然に発生し、成長する」とした上で、青野は、プロレタリア文学運動は「目的を自覚したプロレタリア芸術家が、即ち社会主義プロレタリア芸術家が自然成長的なプロレタリアの芸術家を、目的意識にまで、社会主義意識にまで、引上げる」ことが必要であると述べている。(9)

 

しかし青野は、彼のメッセージが類型的に受け取られたことに困惑し、1927年1月の第2の小論でそのような誤解を正そうと試みている。プロレタリア文学の研究者が指摘していることだが、プロレタリア文学運動は、ある程度、青野のこの小論に刺激されて、肯定的にも否定的にも解釈されたのである。ジョージ・タイソン・シーは、「プロレタリア文学運動は、アナーキズム、サンディカリズム、ボルシェヴィズムなどに共通の緩やかな戦線であったところから、ここで初めてマルクス主義文学運動の基盤として定着した」(Leftwing Literature in Japan) と述べている。

 

葉山嘉樹(6)や徳永直(23,31)のように労働争議を通して目覚め、運動から熱望されていた労働者作家となったプロレタリア作家もいた。葉山(1893-1945)は、水夫、ローラースケート場のボーイ(!)、事務員、セメント工場の工務係、社会部記者などとして働いた。彼が1921年、名古屋のセメント工場で働いていたとき、一人の労働者が防塵室へ落ちて全身火傷して死んだ。この出来事は労働組合を組織する企てとなり(そのために彼は解雇された)、また彼の有名な小説「セメント樽の中の手紙」(1925)を産みだすこととなった。彼がたいそう評判になった「淫売婦」などの小説を書き始めたのは、日本共産党に連なったために、1923年、千種刑務所に入っているときであった。徳永は、1929年、小林多喜二の「蟹工船」と並んで『戦旗』に連載された大衆向きの小説「太陽のない街」で文壇に出た。「太陽のない街」は1926年に東京で起きた共同印刷のストライキでの体験に基づいたものである。徳永は、まず誰よりも労働者にこれを読んで欲しいと書いている。

 

当然のことながら、すべてのプロレタリア作家がそのような出身であったわけではない。多くの者が大学入学の特権を持ち、そこで、新人会、社会科学研究会、あるいは学生社会科学連合会(学連)などの研究会と出会った。彼らは日本語や英語に翻訳されたマルクス主義の文献を読み、また彼ら自身で翻訳もした。これらのグループの特徴は、国際的にも国内的にも、社会を変革していくものとして労働を捉えることだった。運動の草創期、理論家・青野季吉は「『調べた』芸術」(1925年7月、1926年1月) を書き、現実の状況の徹底的な調査に基づいて書かれた作品は大衆の心をしっかりとつかむということを論じた。青野はプロレタリア文学の模範としてアプトン・シンクレアの『ジャングル』(1906)を挙げた。その邦訳は1925年に前田河広一郎(1888-1957)によってなされた(部分的に検閲された)。『ジャングル』は、労働者階級のありのままの生活を描くよう日本の作家たちに促していると青野は強調した。作家たちはその要請に応え、たとえば林房雄は、学連から小樽高商軍事教練反対運動を指導するため小樽に派遣され、その滞在中のできごとから書いたのが「林檎」(7)である。

 

佐多稲子8,15,21と中本たか子(2,10) は、彼ら作家と彼らが描きたいと思う労働者との感覚のずれを感じて、女たちの労働争議を支援し、小説に描くために、東京の南葛工業地域の紡績工場の地元、「モスリン横町」に移り住んだ。歴史学者のアンドルー・ゴードンによれば、「1920年代後半には南葛の工場労働者のおよそ3分の1が労働組合に所属していた」、そしてそれに伴い、あちこちで労働争議が広まった。(Labor and Imperial Democracy in Prewar Japan)ヴェラ・マッキーは、1930年の東洋モスリン争議について、「数千人の労働者を巻き込んだ最も激しい争議の一つ、『女たちの争議』として知られる」(Creating Socialist Women〉)と書いている。この章に収録した佐多稲子の短編「祈祷」(8)は紡績工場に広がっていった労働争議に巻き込まれていく若い女性たちを見守って書かれた連作五話のうちの一篇である。主人公は、所属している労働組合と一方の共産党組織の間で、男性の指導者と女子工員たちとの間で、キリスト教信仰の癒しへの依存と解雇されずに職場に残ることへの切実な願いとの間で、様々な体験をする。後年、佐多は、労働争議に参加することで予想もしない新しい自分自身を見出し、逮捕や投獄の危機にも瀕する、この口数の少ない北国の娘たちのことを、愛情をこめて回想している。(『時と人と私のこと』1979)  

 

                                        (HBS)                                  

 

                                                                          

 

テキスト ボックス: 6.淫売婦(葉山嘉樹 1925年) 7. 林檎 (林房雄 1926年) 8. 祈祷(佐多稲子 1931年) 9. 自然成長と目的意識(青野季吉 1926年) 10. 調査見学的? (中本たか子 1930年)                                       

 

                               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 214号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤 守彦

     再訪無言館

 

     大橋 あゆむ

     エッセイ  高らかに吹き鳴らせ!

   

   平山耕佑

     挨拶ことばの不思議 -その2-

        さようならとGood bye

   

   松木 新

     『羊と鋼の森』と原民喜

       

   泉  脩

     感動のドキュメント⑥

          現実は小説より奇なり

                「

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信  二〇一六年月一日 213号 

 

 

 

 

 

月例会合評報告

 

 

 佐田暢子「半夏生」

             松木 新

 

最初にレジュメにもとづいて左記の報告を行った。

 

Ⅰ 作者が書きたかったこと

 

  二年後に定年を迎える中学校長北澤昭彦の、「学校は教育委員会の派出所と変わらん」現状への批判と、職務に「苦痛を感じるようになった・・・自分を削る虚しさに苦しんでいる」管理職の苦悩を描きたかったようだ。

 

Ⅱ 学力テスト反対闘争の場面は読み応えがあった。猿渡民郎の人物描写が良い。

 

Ⅲ いくつかの疑問

 

  1. 昭彦が二年前に校長になるまで、「校長会で求められる管理はそんなものではない。教育委員会の方針を学校に徹底するための管理だ」という現実に気付かなかったというのが不思議だ。昭彦が教員時代や教頭時代を過ごした学校が、すべて民主的な学校だったとは考えられないからだ。

  2. 昭彦が、「定年まで続けるかどうか、自身にも分らないのだ」、「自分が岐路に立っているのを感じていた」と悩むきっかけは、七月の校長会で、若い指導主事から批判されたことだ。

 

「若い教員を育てる道のほうが悔いの残らない選択であった」ということで、校長になったわけだから、二年間の校長生活で、そのような実践から何か確信になるものをつかめなかったのか。確信があれば、指導主事の批判に対して、毅然と対応できたのではないか。

 

Ⅳ 全体として、昭彦の苦悩にリアリティーが欠けている。この苦悩を半夏生に象徴させた手法には好意を持つことができるものの、この作品を積極的には評価できない。学力テスト反対闘争を描きたかったのであれば、それだけを主題にして創作すべきだった。

 

 

 

文章のうまさ、表現方法など学ぶところもあるという意見はあったが、作品評価は報告の通りという意見が多かった。

 

学テ反対闘争の描写を評価する意見も多かったが、民郎の発言にたいする評価が分かれた。子どもには力がある、父親が労組の活動家という環境を考えると、民郎の発言を素直に受容できるというのが、一方の意見。他方は、民郎の学テに反対する力が、どこで育ったのかの描写がないために、大人の発言になっているというものだった。

 

昭彦の苦悩については、掘り下げが浅いという意見が多かった。校長など管理職は周囲の教員集団の態度に大きく左右されるのだが、この作品には、教員がまったく登場していないために、昭彦の独り相撲に終わっている。また、教育現場の描写には、現状の厳しさが反映しておらず、ノスタルジックだ、などである。

 

最後の箇所―どこかで苦しさの質が変わったのだ。・・・・・それはいつ、どのように現われたのか」―の意味が判然とせず、論議したが明らかにならなかった。

 

 

 

 

投稿欄

 

 

   エッセイ  挨拶ことばの不思議 その1

  「すみません」と「すいません」     平山耕佑

 

  日本に初めて来てある程度の期間過ごした外国人が、「日本語にはとっても便利なことばがある。『すみません』ということばだ」と言ったという。なるほど、と思った。確かにこのことば、謝罪の意味、お礼の意味、そしてちょっと話しかけたり呼び止めたりするときも使う。例えばレストランで追加注文をするときなど、「すみません」と声をかけるのが普通である。

 

 このことば、本来は「済まぬ」つまり口で謝っただけでは済まない、という深い謝罪の意味のはずだ。それが時を経るにしたがって軽い挨拶ことばになったものと思われる。便利と言えば確かに便利である。

 

 ところで最近、この「すみません」を「すいません」と言う人、というより書く人が増えてきている。テレビでの会話の字幕に多い。「み」と「い」は似た音だからそう聞こえることもあるし実際に「すいません」という人がいても許容されるのかもしれない。しかし文字にする場合は「この人はすみませんと言うべきところをすいませんという言い方をする」とあえてそれを強調するとき以外は、どうかと思う。ところが最近小説などでこれをよく目にするのだ。私の好きなある著名な作家がそうだ。もっともこの人は「すみません」と書いていることもあるが。

 

 ある落語家がテレビでこんな噺をしていた。

 

 レストランへ行ったらウエイトレスが「いらっしゃいませ。おタバコはお吸いになりますか」「吸います」、「ではこちらへどうぞ」奥の席へ案内されて「すいません」、「あ、お吸いにならないんですか。それじゃあちらへどうぞ」と別の席に案内されて、「すいません」「おタバコはお吸いにならないんですね」「吸います」「??」

 

 そう、「すいません」というのはこんな時に使うことばなのだ。

 

 

 

 

 

  北の国から来た猫第六章     後藤守彦

 

 

 

 先ず、昨年八月、『札幌民主文学通信』に「北の国から来た猫第五章」を投稿した後、私の知る範囲で得たネコ情報から始めよう。ネコノミクスという言葉が出現した。破綻しているアベノミクスと違って実際生じている、ネコグッズやネコ本などによる経済効果を指している。まもなく、ネコがペットの首位の座をイヌから奪うだろう、という予測の反映だろう。「北の国から来た猫」では、ネコ本を取り上げ続けているが、書店の店頭に並ぶ、膨大な数のネコ本には驚いてしまう。

 

さて、昨年八月以降最初に購入したネコ本は、瀧森古都の『悲しみの底で猫が教えてくれた大切なこと』(SBクリエイティブ、二〇一五年)である。何しろ、新聞広告に「ラスト三〇ページ、衝撃の結末に私は号泣しました」とあったので、すぐに飛びついた。東日本大震災が背景になっているものの、創り過ぎの感があって、新聞広告のコピーのようにはならなかった。猫が教えてくれた大切なこと、「今を精一杯生きることで、僕らは奇跡を起こすことができるんだ」を結びにしている。

 

脱稿直前に読んだのが、・一一後、家族と四匹の猫を連れて南相馬市に移住した柳美里の『ねこのおうち』(河出書房新社、二〇一六年)。公園に産み落とされた六匹のネコとかかわる飼い主たちの物語だが、彼女は「苦しみや絶望のただ中にいる人に、そこから抜け出す小道を、猫が『ここだよ』って案内するような話を書きたかった」と語っている。飼い主のひとりでライターのひかるは、「ねこが全身から発している温かさと長閑さこそ自分の生活に必要なものだった」「何をしていても、何をしていなくても、ねこの周りには平安としかいいようのないものが漂っている」と思うのである。

 

五年前に出た本だが、『招き猫亭コレクション猫まみれ』(求龍堂、二〇一一年)は重量級だった。夫婦の共作だが本名は秘せられている。はじめには「私たち夫婦にとって「猫」と「猫作品」は空気のような存在です。一〇頭の「猫」たちと、「家中の壁を埋める「猫作品」に囲まれて暮らしています。普段は意識していませんが、両方とも生きるためになくてはならない存在です」とあった。二人は猫を描いた絵を収集し、それを移動展で披露しているのだが、この本では三〇〇数点の作品が紹介されている。さらに二人はただ絵を集めるだけでなく、ネコを描いた画家とネコとの現実の関係を追い綴っている。すでに亡くなっている画家であれば、遺族や美術館に照会までして。この本の後半ではネコにまつわる歴史や、八世紀初頭の『日本霊異記』から始まる、ネコが出てくる日本の古典に関する自論が展開されている。

 

今年一月には、北海道立文学館でのネコの特別展を見に行った。「文学に現れた猫」「表紙・挿絵の中の猫」「絵本・童話とネコ」といったコーナーに分かれて展示されていたのだが、掲示されていた中条ふみ子の短歌、「薄寒き独身のともが尋ね来ぬ猫の抜け毛をズボンにつけて」が心に沁みた。

 

ここで私個人にかかわる話題を二つ。以前に述べた、孫のネコアレルギーは科学的に証明された。我が家に遊びに来た時、瞼が赤く腫れあがり目をしきりにこすったので、小児科で詳しく検査してもらったところ、何とアレルギー度が普通の人の四〇倍であることが判明。娘は、今まで孫と一緒に入っていた風呂も駄目と宣告した。私にしか抱かれないネコなので私にはネコの毛が一番ついているから、というのが理由である。悲しい。

 

北広島市の民生委員になって三年目になるが、月一回程度、主として一人暮らしの世帯を訪問している。その中に、まるで猫に会いに行くみたいになっている女性宅がある。飼われているのは二匹だが、札幌に住む息子の飼う四匹の猫をたまに預かることもある。その際は一階と二階に棲み分けさせるとのこと。彼女は「五〇になっても結婚していない」と時折、息子のことを嘆いている。

 

 次はネコ本を原作とする映画の話である。今年二月、ディノスシネマ札幌劇場で見たのが『猫なんかよんでもこない』。原作は漫画で、ほぼそれに沿っていた。何といっても登場する二匹の猫が愛くるしかった。後ろの観客席から上映中数回「かわいい」という声が聞こえてきたぐらいである。漫画家となった元ボクサーと二匹の猫の物語なのだが、最終ページに載っている感謝の詩の一部を紹介しよう。「あの雪の日もしも兄貴が二匹を拾ってこなかったら/オレはたぶん今とはちがう価値観の人間になっていた/猫などふりむきもせずに・・・・・・」(杉作『猫なんかよんでもこない』実業之日本社、二〇一二年)。この詩に共感するが、「イヌやネコしか心を開けない、ペットさえいれば何もいらない。でも、そんなのって人として、やっぱりどこかおかしい」(香山リカ『イヌネコにしか心を開けない人たち』幻冬舎新書、二〇〇七年)といった批判にも耳を傾けるべきだろう。

 

五月には、「北の国から来た猫第三章」で取り上げた、川村元気の小説を原作とする『世界から猫が消えたなら』が札幌シネマフロンティアなどで公開された。もちろん見に行ったが、ファンタジーといえるこの作品に登場する猫が、我が家の飼い猫と同じキジトラで、愛くるしかった。

 

 今回も筆が止まらない。在庫がまだまだある。お後は第七章で。

 

 

 

 

 

 

 

 感動のドキュメント⑤

 

     辺見庸「もの食う人びと」   泉  脩

 

 

 

 著者は共同通信社の外信部長を勤め、世界各地の特派員からの通信を切り縮め、マスコミ各社に配布してきた。中心的ポストだが、毎日、情報の垂れ流しをする仕事にいや気がさして退職した。そして世界の紛争地域に直接おもむいて、自分の眼で見ることを決意した。

 

 人間の生活で最も基本的な食を通して、その本質を探ろうと考えた。政治、文化、宗教といった上部を飛び越えて、底辺の人々と結びつこうというのである。

 

 最初に世界の最貧国のひとつ、バングラディッシュを訪ねた。

 

 道端で売っている食事は、安くてうまかったが、食堂やレストランの残飯を集めたものだった。貧しい人々は、この不潔な食事で命をつないでいたのである。

 

 アフリカのウガンダは独裁国で、国民の生活はかえりみられなかった。そのためエイズが拡がり、人口は半分になっていた。

 

 著者が貧しい家を訪ねると、売春でエイズを移された少女が死期を待っていた。

 

 バルカン半島のクロチアでは、セルビア人による大虐殺が行われたばかりだった。大戦中にチトーの率いるセルビア人のレジスタンスに手を焼いたナチスドイツが、クロチア人のナチス組織に大虐殺をさせた。大戦後に生まれたユーゴスラビア連邦共和国が、チトー大統領の死後に分裂し、セルビア人がかつての報復をしたのである。死者の額にナチスの印が刻まれたという。

 

 ウクライナでは、チェルノブイリ原発のあとを見た。多くの人が死に無数の避難民が出た。被災地にとどまった人を訪ねると、故郷で死にたいと言って、次々と白血病で亡くなっていた。

 

 ロシアの千島列島の島々に行くと、ソ連崩壊後の混乱の中で島民は見捨てられていた。どの家でも苦しい生活をしていて、豊かな日本を憧れていた。

 

 最後に韓国に行き、首都ソウルの戦場慰安婦の共同の家を訪ねた。彼女たちは憎むべき日本人の来訪者を迎え入れ、一緒に飲食をし、語り、歌い、踊った。

 

 このようにして、辺見庸は身をもって紛争で苦しむ人々と接し、表面的なニュースではわからない真実を知ったのである。

 

 異様な迫力のある、胸を打つドキュメントだった。

 

 

 

  支えられた一票    大橋あゆむ

 

 

 

 7月10日は参議院の投票日だった。わたしは身体障害者手帳で申請した、選挙管理委員会の「郵便等投票証明書」を持っている。

 

その「証明書」を前もって「在宅不在者投票の請求書」を提出しておくと、期日前投票が開始された6月23日に速達で投票用紙と候補者一覧表が送られてくる。その日のうちに同封されていた速達の封筒に、候補者名と党名を書いた投票用紙を入れてヘルパーさんに投函してもらった。

 

 

 

あれは、昨年4月の選挙があった、すぐ前の選挙の時だった。女性の担当ケアマネージャさんに在宅の不在者投票をしたいので申請を頼んだら、今までやった例がないのでわからない、と調べてくれた。

 

 住んでいる区役所の選挙管理委員会に申請するのだが、申請はどこの区でも受け付けるだろうと思い、申請最終日の午後5時前に、住所先の近くの区役所へ行ったらダメだった。「選挙ができなくなって申し訳ない」と、何度もあやまった。

 

 施設では内勤のヘルパーさんだけで、外出時の「ガイドヘルパー」の資格を持っている人はいないという。家族は遠いので近くにいる一番上の兄に電話をした。「雪道で車椅子を押したことがないからあきらめろ。頼まれた候補者は、妻も投票するから心配するな」と。二票は確実でうれしいが、わたしの一票はどうなる。

 

 それで、車椅子になってから何度もお世話になっている福祉タクシーに予約の電話をする。送迎料金は、一般タクシーの基本料金は同じで、メーター料金の他に介護料金千円がかかる。「投票所はすぐそこで申し訳ないのですが」と頼んだら、「車は修理に出しているから行かれない」とのこと。「エー わたしの一票が」と、がっくりして言った。すると、「僕がボランティアで車椅子を押して連れて行く」と、朝の9時に来てくれた。スキーウエアの上下を着て、帽子に耳当てをしてマフラーをぐるぐる巻いてスキー手袋をしていた。両手をパンと叩いて、「さあ、出発します。お客さんがかぜをひいても、僕は完全装備だから大丈夫です」と笑わせる。そういえば、運転手さんの住所は知らないので訊いてみた。「なーに、ここら辺は僕の庭みたいなもので、ほんの7丁くらい歩いて来た」と言って笑った。わたしはとてもありがたくて、言い方や表情がおかしかったが、笑えなかった。帰ってきて料金を払おうとしたら、ボランティアだからと受け取らなかった。

 

 その後、ケアマネージャさんが申請してくれて、昨年の3月に「証明書」ができて4月の選挙に間に合い、初めて在宅で選挙ができた。ケアマネージャさんは、これで「証明書」のやり方がわかったと言って、受け持っている数箇所の施設の入居者さんに声をかけたら、数名が申請をして初めて選挙ができたと喜ばれているとのこと。

 

 わたしはこれからも、選挙があるたびに思い出すだろう。雪道を、「ほんの7丁くらい歩いて来た」運転手さんに、私の一票が支えられたことを

 

 

 

 

 

      「札幌民主文学通信」前号で予告の通り、

 アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』

「イントロダクション(序)」(本邦初訳)を掲載します。

 翻訳の第一稿をノーマ・フィールドさんがていねいに点検してくれました。今後、七つの章につけられた「序」を、順次、翻訳していく予定です。 (編集担当)

 

 

 

For DIGNITY, JUSTICE, and REVOLUTION

          〈 尊厳、正義、そして革命のために ~日本プロレタリア文学選集~ 

 

                      ヘザー・ボウエン=ストライク

                                                                                         ノーマ・フィールド 編

                                                                                        2016年 シカゴ大学出版局 発行

イントロダクション (序)

 

                      注:( )内の数字は本書収録の作品番号を表す 

 

プロレタリアン スナップショット(ある会話)

  本書最終章に収録した「白夜」(35)の書き出しの場面で、主人公鹿野のり子は労働者の子供たちのための雑誌の編集会議から憤慨して出てくる。「(同志たちは)本当の子供の気持ちがわからないから、みんなはただ理屈ばかりで行くの。そんなもの押しつけようとしたって子供は受けつけないと思うわ」と彼女は仲間に不満を述べる。「白夜」は村山知義が書いた実話小説で、村山はアヴァンギャルドからプロレタリア劇作家となり、画家でもあり(彼は絵では粋にTomと作品にサインしていた)そして小説も書いた。「のり子」は彼の妻村山壽子(17,18)で、戦前の児童文学に並外れた才能を示し、子供たちのためのプロレタリア雑誌『少年戦旗』の編集長であった。彼女はまたプロレタリア文学運動の担い手たちが獄中にあったとき、すぐれた書簡や差し入れで彼らを支え、その中には、彼女の夫や、上述の「白夜」の場面で彼女に共感を示す木村壮吉、実際は日本のプロレタリア文学運動の指導的理論家・蔵原惟人らが含まれている。

  この会話の場面には、プロレタリア運動のいくつかの解明すべき点が凝縮されている。しかしそれらを考察する前に、読者にはこの選集を読むにあたって、まずのり子の不満について心に留めておいていただきたい。左翼運動の中で生まれたすべての文学を「社会主義リアリズム」と一括りにしたり、これを労働者や同調者の機械的でプロパガンダ的な発表の場とする陳腐な見方にもかかわらず、作家たちは折にふれ互いに形式的な書き方の落とし穴について警告しあってきた。彼らはソ連の5か年計画を取り入れることが実現可能か否か、望ましいか否か、日本における現実の特徴、それらが広く多様な教養レベルを持つ読者へ届くような書き方などについて活発に議論した。様々な意見の相違があるにせよ、作家たちは歴史的なそして新しく生まれる文学のまさに本質への挑戦を始めつつあると自覚していたのだった。彼らが求める新しい読者――工場労働者や産業化していく農業の歯車ともなる小作人たち――には、ある工場労働者が小林多喜二に語ったように、5分か10分で読める短編作品を書いてもらえないか・・・読んだ瞬間フン成る程だとか、へえとか、ピリッとしてらァとか、すぐそうくる作品であって欲しい」(29)という文学が必要なのだった。多喜二は後にプロレタリア文学運動のもっとも称賛される作家となった。(1,5,11,22,29,30) そのような影響力を持つために彼は「‘感ずる’ということが、小説を書くことの基礎となるのだ」ということを肝に銘ずることが重要だと「小説作法」(30)の中で強調している。また「芸術は感じたことを表現する一つの額縁である」という意味のことを述べている。彼は作家たちだけでなく読者や同志たちに、彼らがシェイクスピアに見られるように、「目もあやかな詩藻」により、作品「燦然と千古に輝き出す」ような新しい作家が「工場から、農村から」出でよと願っていることを再認識させているのである。(30)

  のり子が不満を言う場面は、プロレタリア文化運動の指導者にとって児童文学が占める位置の重要さに、読者の注意を促すものである。(この中編で描かれている指導者とは主に男性で、日本近代文学に少しでも明るい読者ならだれもが知っている中野重治(19)をモデルにした人物などが登場している。)プロレタリア児童文学の始まりは、1926年、北日本(新潟県木崎村-訳者注)での小作争議の際であるとされる。地主に抗して小作人たちが子供たちを学校から引きあげたのだ(同盟休校)。代わりに作った「農業小学校」を支援するために村に集まってきた進歩的教育者や労働者オルグたちの中には、やがて新進のプロレタリア文学運動のメンバーとなるエリート大学生たちがいた。彼らは既存の教科書が、貧しい田舎の、しだいに政治に目覚めていく子供たちには全く不適当なものであることがわかって、この新しい生徒たちのために、自分たちで教材を作り始め、ヨーロッパの革命作家の作品を翻訳したりした。彼らの取り組みの成果はいくつか第4章に収められている。

  文学や哲学に傾倒し、1917年のボルシェヴィキ革命に続く興奮の時代に成人したこれら若き知識人たちは、彼らの芸術への愛を組織的な社会変革に注いだ。それは楽天的に革命を目指すものであった。彼らが都市労働者や小作人たちと交流を図り、信頼を得ようとするとき、子供たちの教育が彼らの課題となることは当然のなりゆきだった。この地盤で活動するということは、彼らの言葉遣い、作品形態表現方法についての問題意識を研ぎすました。これはライバルの「芸術派」の課題でもあった。彼らの試みの、何を、誰のために はのり子によって擁護される「現実の子供たち」に向けられた。そしてそれは運動の中心的任務に繋がっていくのである。変革の目的を持って現実を正確に理解し表現すること、「木村」すなわち蔵原惟人が説く「プロレタリア・リアリズム」の芸術的実践として。

  ここで「プロレタリア文学」とは私たちにとって何を意味するのかという問題に行き着く。本書に登場する作家たち自身はカタカナ表記で「プロレタリア」、あるいは漢字で「無産者(財産を持たない人々)」という表現を使用している。したがって私たちも同様の用語を用いることにする。OED(オックスフォード英語辞典)では「ローマ市民の最も低い階級」にまでさかのぼる。「子供以外には国家に」捧げるものを所有していない階層である。現代用語「プロレタリアート」は生活していくための日々の労働以外に何も持たない人々のことを指す。近年、「プレカリアート」という用語が出てきて、不安定な雇用、非正規労働者、失業者などを指しているが、それもまた日常的なことばとしては定着していない。現在私たちがこのカテゴリーに属する多くの人たちを指して言う適切な用語がないのは、まさに歴史的なこの時期の症候的なものであろう。2011年のオキュパイ運動(ウォール街占拠運動)が、「99パーセント」の構図でひとつの出発点を与えてくれているかもしれないが。

  「のり子」と同志たちは、国際的「赤い10年(19251935)」の時期にマルクス主義や労働者の組織に影響された文化的政治的運動に参画するものとして文学を作りだした。彼らの文学は、読者を、読者と作家の関係を、そして文学自身の性格を変えることによって、社会変革に貢献することを意図した。このようにプロレタリア文学にとりくむことは、他の諸問題にも有益な視座を与えてくれる。例えば、ある作品がプロレタリア文学に属するかどうかを判断する際に、作家の出身階級、読者の出身階級、あるいは主題の性格、また主題によって作りだされた展望などをどのように重要視すべきなのか。本書の読者にはこれらの諸課題に留意しつつ、ここに肩を並べる男性、女性、日本人、植民地出身者、知識階級とそうではない階級――様々な書き手たちによる小説と評論を読んでいただきたい。

 

小 史

  冒頭で紹介した「白夜」の場面は1929年あたり、すなわち「赤い10年」の中頃の設定だと思われる。わずか10年と思われるかもしれないが、日本では、駆け出しの作家も中堅の書き手も、そして出版業界全体が、その時代の強烈な進取の精神に影響を受けていた。先進的なプロレタリア雑誌『戦旗』は、1928年5月発刊の2年後には、頻繁な発禁にもかかわらず、2万部の発行部数に達した。この数字は、『キング』のような大衆雑誌の50万部に比べればささやかなものではあるが、運動のために多くの読者を獲得する期待に満ちた可能性を示唆している。そもそも、職場などで所持すること自体リスクを孕むプロレタリア雑誌は、読者から読者へと回覧されることが多かった。従って実際の読者数は発行部数が示すよりもずっと多かったのだ。さらにプロレタリア文学は、商業界においても否定できない存在であった。今日書店界大手の「紀伊国屋」は1927年に創立されたが、『戦旗』のような出版物を置くことによって既存の書店と対抗することができた。新しい号が届くと朝早く開店し、多くの場合中産階級の都会人であった顧客は、列を作って並び、警察が没収しようと昼頃現れる前に、先を争ってそれらを手に入れた。

   この小史を『戦旗』発行部数から始めたのも、運動の機関誌であるにも関わらず、一般読者の手に届いていたからだ。ここで強調したいのは、『戦旗』に限らず、プロレタリア文学の広がりようである。この選集に収録された作品のうち、わずか4篇だけがもともと『戦旗』に掲載され、他の作品は、急激に発展しつつある日本近代文学の状況下で、24の異なる知識人向けの雑誌や新聞、女性雑誌、プロレタリア雑誌、そしてモダニストや他の実験的な出版物などに掲載された。そしてこれは初出の場合で、多くの作品はさらに単行本に収録され出版されたのだった。英米の日本文学研究者はプロレタリア文学を無視する傾向が見受けられるが、1920年代後半から1930年代前半にかけては、避けて通ることは不可能だったとも言えよう。著名な日本文学研究者のドナルド・キーン氏は、プロレタリア文学の同調者とは決して言えないが、文化界における左翼の理論が卓越していた証左として、「文芸雑誌や総合雑誌掲載の評論の約80パーセントはマルキストによるものだった」と推断している。

    現在に至ってもプロレタリア文学は切り離してみれば、風変わりなものに過ぎないのかもしれない。しかし、1920年代の終わり頃には、強固な組織のネットワークが多くの国々に存在していた。日本、フランス、ドイツ、イギリス、アメリカ、中国、インドなどで。日本では、19世紀後半、近代日本の初期に身分制度が公的に廃止され、誰もが「平民」に(賤民は「新平民」に)なり、下層階級への関心が広まった。やがて、アナーキスト、社会主義者、そしてクリスチャンたちは、日本が遅ればせながら帝国主義の道を急速に歩き始めるにつれて、社会正義の運動に身を投じるようになった。彼らの多くが、帝国主義者による日露戦争(19041905)に批判の声をあげた。天皇の名において戦争がおこなわれ、天皇暗殺を謀ったとして告発された者もいた。1911年には大逆罪で12人のアナーキストが処刑された。これらの処刑はしばらく革命への情熱を冷却させ、しばしば「冬の時代」として語られた。

  1915年から1925年の10年間、国内外の歴史の動きはプロレタリア文学を日本の最前線へと押し出した。1917年のボルシェヴィキ革命と1918年の第一次世界大戦の休戦は世界の権力の構図に大変動と再編成をもたらすことになった。台頭してきた日本帝国主義は、ヴェルサイユ条約で既得権の承認を求めたが、否決された。この結果は、日本側にとっては差別的にすら思えた。一方では日本の大派遣軍が、誕生したばかりの革命軍と戦う連合軍に加わるべくロシアに送られた。派兵されたひとり、黒島伝治の反戦、反帝国主義の作品はこの選集に収録されている。 (26,34) 1919年、コミンテルンが結成され、時を同じくして日本植民地からの独立を求める朝鮮の3.1運動、元ドイツ領地の山東省が日本に譲渡されたことに抗議する中国の5.4運動が起る。国内では、ますます組織化されていく労働運動、1918年の米騒動、1920年の日本社会主義同盟の結成、1922年の日本共産党の創立などが時代の趨勢となった。しかしプロレタリア文学運動は未だ興っていない。

    それは一般的には、1921年日本北部の秋田県での『種蒔く人』という雑誌の出版に始まったとされている。アンリ・バルビュス(18731935)のクラルテ運動の平和主義とマルクス主義に共鳴してフランスから帰ったばかりのフランス文学者小牧近江(18941978)が、地元の作家仲間とこの雑誌を発刊した。翌年彼らは東京に移り、青野季吉(4,9)などが同人として加わる。1923年の関東大震災とそれに続く弾圧でいったん活動の停止を余儀なくされるが、解散前に、地震直後の混乱の中での左翼や朝鮮人への残酷な扱いの告発記事の出版にこぎつけていた。グループは1924年に「文芸戦線」として再組織され、プロレタリア文学運動の中心となった。議論を重ね、内部分裂を繰り返しつつ、1928年には「ナップ(全日本無産者芸術連盟)」の成立へと続き、機関誌『戦旗』を発刊した。政府はプロレタリア文学のブームに弾圧をもって対抗したが、プロレタリア組織はその運動を広げていき、1931年には作家同盟、演劇同盟、映画同盟、美術家同盟、写真家同盟、音楽家同盟、エスペランティスト同盟、「戦闘的無神論者同盟」、産児制限同盟、科学研究所、新興教育研究所を傘下におく「コップ(日本プロレタリア文化連盟)」の設立へと進んだ。本選集に収録したすべての作家がこの連盟に参加したわけではないが、大多数は共産主義陣営の影響下にあった。国家による弾圧は1931年の満州事変に続く軍事的野望の広がりとともに加速していった。転向者が続出し、運動の柱たる作家同盟は1934年、「自発的に」解散した。しかしながら、組織基盤の壊滅的な損失、幾度にもわたる長期的な投獄、そして転向でさえも、運動への参加者の絶滅とはならなかった。本選集の最後の作品、宮本百合子の『冬を越す蕾』(40)のその蕾は、1945年の日本の敗戦とともに花開くのであった。

  実際に、戦前のプロレタリアは、刑務所や検閲から解放されると、そしてとりわけアメリカの占領が終わった(1952)後には、抑圧的国家の復活に抗して、以前にもまして敢然と帝国主義戦争反対を決意した。彼らは新しい雑誌を立ち上げ、驚嘆すべきエネルギーで、戦前の作品を再出版した。マッカーシズムと冷戦で英語圏の研究では左翼文学は退けられたが、日本では、セクト的分裂にもかかわらず、政治に関わる文学の正当性は堅持され続けた。しかしやがて社会全体が非政治化し始めることになる。このなりゆきに拍車をかけたのは、1960年の日米安保条約改定で平和主義的希求が打ち砕かれた後に発表された「所得倍増計画」だった。新たな国際的現象である「新左翼」と呼ばれる勢力の台頭は、多くの若い左翼たちを、共産党に結びついているとされていた文学から引き離していった。加えて、彼らの多くは中産階級的繁栄に屈していった。彼らにとって、階級に根ざした政治はもはや説得力を失っていた。一方、消費生活に夢中な層とそれにありつきたい層にとっては、階級闘争など無縁の話であった。戦前のプロレタリア作家たちが熟知した芸術至上主義、すなわち作品の外部に目的を持つことは劣等であると批判する考えは、プロレタリア文学を歴史のゴミ箱に掃き捨てようとしていた。

  この小史を、歴史的にそして現実に存在する社会主義国家、ソ連(19221991)、中華人民共和国(1949~)、そして朝鮮民主主義人民共和国(1948~)などの破滅や悲劇にふれずに終えることは不誠実と言えよう。とりわけ、ベルリンの壁以後、ソ連邦の時代以後、社会主義の失敗は一定の知識人をファシズムとコミュニズムを同一視するよう仕向けた。社会的、分析的カテゴリーとしての階級概念が衰退する一方、人種、ジェンダー、民族性、あるいは性的志向などが対照的にクローズアップされてきた。スターリンの犯罪や毛沢東の大躍進政策を理由に、本選集の作家たちのような、過酷な状況の中で生命の危険さえ賭して階級的正義を追い求めた人々の苦闘と業績を、抹殺しようとすることはさらなる過ちと言わざるをえない。私たちは社会主義者の政策の歴史的失敗を、その業績や大志を忘れることなく、論評していくべきである。それらの大志は、皆さんがこれから読もうとされている、プロレタリア文学というカテゴリーで収録された本選集の作品の中に、多種多様な表現で見出される。

 

なぜ文学か?

  私たちは今日、1920年代や1930年代に文学が、小説家、評論家たちや社会運動家に実に真剣に取りくまれ、国家にさえも重要視されたということに驚きを覚える。私たちは多様な表現様式があふれる21世紀に生きていて、前世紀における活字媒体の支配的位置や、国家の偉大さから個人の心の襞まで表現できる小説形式の位置づけを見落としかねない。ソ連とは対照的に日本にはエリート層やホワイトカラー層だけでなく、生活に苦しむ多くの大衆にも読まれる小説を、他のジャンルとともに産みだしてきた豊かな活字文化があった。それでもなお私たちは、なぜ運動家たちは、組織することだけに集中しようとしなかったのか?という疑問を持つかもしれない。プロレタリア運動初期の指導的文芸評論家・青野季吉は、文学に集中することの正当性を強く訴えている。「(私は随分長い間文学を捨てていた。)それを再び問題にするようになったのは、社会思想の方の考えが、多少とも深められていって、社会の上層建築の実相、それに対する闘争の意義を、知ってからであった。私は文学の恐ろしい麻酔力を人一倍、否、生命を危うくするまでに、経験していた。それだけにその実相をまざまざと感ぜられ、それに対する闘争の意義を重大視した。」()「上層建築」という言葉によって、青野は文化と社会制度を「土台」あるいは生産力と社会関係を対照させて見極めるマルクス主義の概念に言及しているのである。土台の変革とともに「上層建築」に取り組もうという青野の決意は、まさしく文学が「上層建築」で占める特権的な位置を熟知していたからである。

  かのロシア革命の指導者レオン・トロツキー(18791940)は、プロレタリア文化と芸術の概念に反対したことは周知の通りである。内戦の荒廃後にすべての市民たちに食料と住居を保証することが彼の優先事項であり、同時に高い識字率達成という同じく困難な任務もあった。トロツキーにとって、ブルジョア文化の発展に必要とされる十分な蓄財と時間は、その文化の達成と同様に、軽視できないものだった。プロレタリアートは「敵から学ぶ」という危険な活動に取りくまなければならなかった。新しい文化を創造することは時間がかかる。なぜなら「あることを理解し論理的に表現することと、それを根本的に吸収し、感性の働きを見直し、この新しい存在に新しい芸術表現を見つけることとは、全く別の事柄である(トロツキー:階級と芸術)からである。やがて革命が社会主義社会を作り上げることに成功すれば、プロレタリアートそのものは消滅する。言い換えれば、革命後にはプロレタリア文化を創造するということもなければ、それは未来への望ましい目標でもないのである。

  しかし日本は「革命以前」なので、トロツキーには異をとなえることになろう。作家たちが嘆いたように、繁栄するブルジョア的大量の活字文化の諸刃の方策に取りくむことで、すなわち「敵から学ぶ」ことで、「プロレタリア文学」を発展させる機会を与えられているのであるから。結局、青野のように、ほとんどのプロレタリア作家たちは、ブルジョア文化の中から生まれた知識人だった。彼らの文学への愛は、社会の不正義に目覚める道であり、詩の本質についてのホラティウスの神聖なる言葉で言うならば、「喜びを与える」ために、そして「教えるために」(「詩論」ー訳者注)それを織り込むことはもっともなことであった。言いかえればそれは、世の中のしくみを理解する力となる人間性やエネルギーそして尊厳を奪われている工場労働者や小作人たちにこそ与えられるものである。小林多喜二が、彼の「不在地主」を掲載する予定の主流の雑誌『中央公論』の編集者に書き送ったように、小作人たちは、「如何に惨めな生活をしているか」を示される必要はなく、如何にして惨めか」を明らかにすることが重要なのだった。(多喜二:書簡412-13)

  本書に収録されている蔵原惟人の「プロレタリア・リアリズムへの道」(13)、階級闘争とその文学との関係について鍵となる問題を歴史的に解明した貴重な評論である。書き手の視点を重要視する蔵原は「プロレタリア・リアリズム」の内容を規定することをはっきりと控えている。しかし彼は、それは居心地のよい場所に置かれた男性のみじめな反芻行為、すなわち近代日本文学の中心となっていた「私小説」から成るものではないということを明確にしている。

  ただし私たちは、プロレタリア文学は散文小説からのみ成り立っているのではないということに留意すべきであろう。それは、当時の日本で広まっていた戯曲やあらゆる種類の詩的形式(短歌、川柳、俳句、自由詩)を含んでいる。しかし文学が文化運動の中心であったように、小説が文学運動の中心であった。作家同盟のメンバーたちは、執筆、翻訳、研究とともに、諸々の組織活動に従事していた。その間常に自分自身と家族を養い、逮捕を逃れるために苦闘していた。逮捕は当然、しばしば拷問下の取り調べへと続くことを、よく承知していた。

  プロレタリア文学は、上品さを漂わせていたとしても、国家に対して危険を孕むものとして扱われ、絶え間ない監視と弾圧の脅威にさらされた。共産党と社会主義同盟は非合法とみなされ、すぐさま解散させられた。そして富裕層を非難したり、労働現場の不公平を描いた文学はどうだったか? 階級意識を高め、読者にも同様のことを促した人物たちはどうだったか? 1925年の治安維持法の制定は天皇制や私有財産に異議を申し立てることを違法とした。1928年にはそれは死刑を含むものに改定された。以下でさらに具体的に論じるが、作家や編集者たちは、合法の限界まで闘った。運動機関の出版物は商業出版物よりもはるかに危険であることにも、臆さなかった。しかし、エリート向け出版物が、ますます自己検閲を余儀なくされつつも、発刊され続けたことは、時代の精神と作家たちへの共感の両方を証明するものである。                         

 

 本選集の留意点 

  本選集には、膨大なプロレタリア文化作品のうち、短編と評論に限って収録した。他の人たちがいつか私たちがやり残したところを補ってくれることを願っている。創作に関しては、一番長い作品である「白夜」以外のすべての小説は、可能な限りの完訳である。「可能な限り」というのは後にふれるが、検閲制度の制約があるからだ。一方、評論のほとんどは抜粋とした。読者にできるだけ多様な評論を提供すると同時に、中心的な課題が把握できるように選択することにした。一人一作というアプローチではなく、作家たちが運動の中で果たした種々の役割を例証しようと試みた。( )の作品番号で参照でき、作家たちの相関性を表すようにした。各章の序は、各作品の前に載せた作家略歴と併せて、作品の背景と作家たちの文学的及び組織的活動についての情報を提供している。

  翻訳の底本には作品の初出を使用し、各タイトルの下に出典と掲載年を示した。作家たちはしだいに厳しさを増す検閲状況の下で執筆活動を続け、再出版の際は、発禁処分とならないまでも、大幅な削除を求められる場合が多かった。ポルノ的表現や画が主な検閲の対象であったが、政治的表現、とりわけ1925年の治安維持法に抵触するものもまた危険であった。本選集の創作期には、主に出版後に検閲が行われ、発禁となったので、編集者や作家たちは、発禁処分にかかわる費用の損失を避けるために、前もって内容を検討し、当局の規制に触れる危険のある語のところに、×印や省略記号やときには○印を用いるなど、懸命に策を講じた。

  プロレタリア文学の読者たちは、内容に応じて、××が「革命」とか「戦争」という漢字2文字を表すと容易に推測できた。しかし、×や(あるいは○、コンマ、省略記号、*)が大量に連なると、あるいは行全体がカットされると、どんなにプロレタリア文学に馴染んだ読者でも、不明の部分を判読することはできなかった。私たちの目的は読者を惑わすことではないので、勇気ある献身で守られた原稿やゲラ刷りのおかげで後の編集で判明した箇所は、文字の上に末梢線を引いた形で補ってある。戦後生き長らえた作家の中には、削除された箇所を埋めるだけに止まらず、さらに手を加えている場合もある。そのいくつかは注釈をつけて翻訳に反映させた(単純な不一致には修正を行っていないが)。 意図された語がいまだに解明されていない場合は、×や○や省略記号を残したままになっている。編者が抜粋のために省略した箇所は[・・・・・・]で示した。

  自己検閲の記号と、日本近代文学が時間をかけて取り入れた諸記号とには、全く同じとは言えないが、重なりがある。地名や他の固有名詞に頭文字や――、あるいは×、○を用いたり、言葉にできない感情、ためらいなどを表すのに――や省略記号を用いたりする慣例が、その例である。住所の一部の脱落や頭文字の使用は、アイデンティティを保護する意味合いもあれば、実在を示唆する役割もある。さまざまな記号が付された本文から、予防的自己検閲と近代小説が蓄積した表現手段の交錯を読みとっていただきたい。

  各章のタイトルが示しているように、本選集の構成は主として主題によっている。「個人的なことは政治的なこと」、「武器としての芸術」、「こども」――これらはいわゆるプロレタリア文学のカテゴリーではないが、だからこそ、読者が伝統や時代によって作られた境界線を越えてとらえることができると思う。同時に、読者の皆さんが本選集を最初から読み始められるならば、その構成は大体年代順になっていることがおわかりになると思う。私たちは皆さんに、それぞれの部分が互いに呼応しあい、私たちの現在とも密接に繋がる、全体的な歴史を示していることをとらえていただけたらと願っている。                         

 

  終わりに

  日本では、経済不況の「失われた20年」後の2008年に、80年前のプロレタリア文学の傑作、小林多喜二の『蟹工船』が、ベストセラーのリストに登場してセンセーションを巻き起こした。極寒の北洋に漂う工場のイメージ――人々を死の労働に陥れ、出口のない牢獄――は、現代をも照射するフラッシュである。今、21世紀にあって、私たちはいかにその過酷な不平等、終わりのない戦争、生活破壊の危機に立ち向かっていくべきであろうか。本選集の作家たちは彼らの住む世界を容認できないものとし、それを変えようと決意した。彼らは、文学がその変革に十分でないことはわかっていたが、役割は担えると信じていた。

  彼らの物語が読者の皆さんに語りかけることを願っている。

 

 

                                   〈 2016.7.12 まつきたかこ 訳      

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信 二〇一六年月一日  212号 

 

 

 

 

 

  6月例会合評報告

 

 

 

  岩崎明日香「角煮とマルクス」

 

                   後藤守彦

 

 

 

 選者の圧倒的な支持により新人賞を受賞した作品でしたので、予想されたことですが、合評会に参加された皆さんの評価は大変高いものでした。「久しぶりにいい作品を読むことができた」との声もありました。

 

 報告者は、テーマを「社会変革と結合しての自己変革という生き方とその背景にある家族の結びつき」ととらえましたが、それを象徴するタイトルとあわせて、書き出し(「バスの車窓ごしに空を見上げると、窓枠の片隅に白い十字架がちらりと見えた」)が、読者をひきこみます。この「十字架」が示す、キリスト教の根本精神である利他思想が、受難の歴史をもつ長崎で暮らす、主人公はじめ家族に流れていると思います。強烈な印象を与える祖母を含め、母、姉、などの家族一人ひとりが生き生きと立ち上がってきます。

 

 高評価を得た要因の一つが文体だと思います。「過剰な修辞のない整った文体」と報告しました。

 

父の葬儀での、主人公緋沙子の思いを描いたところでは、作者の筆力を感じました。

 

 父との葛藤をめぐって議論されましたが、主人公が「冷たさから逃げていた」と後悔しつつ、真摯な自己凝視と活動を通して成長していくことをうかがうことができます。主人公の思想形成については、もう少し丁寧に追ってほしかった、という意見が出されましたが、同感です。民青加入、共産党入党がごく自然に事実として書かれていますが、何が主人公をそうさせたのかを家族のことも絡めて、掘り下げてほしかったと思います。

 

 作者は、『民主文学』誌上には、宮本百合子に関する評論でデビューしましたが、作者が指摘した、百合子の「たえることなく貫かれていたヒューマニズム」と共通するものが、この作品にも溢れています。それが感動を与えるのでしょう。

 

 

 

 

 

      掲載予告 

 

前号の『通信』でお知らせした、ヘザー・ボウエン=ストライク ノーマ・フィールド編『尊厳、正義、そして革命のために 日本プロレタリア文学選集』の原書を入手しました(シカゴ大学出版会 変型A5判 440ページ)。

 

全体の序の他に、章ごとの序、作品ごとの序があり、とてもていねいな編集になっています。そこで、次号の『通信』から、序の和訳を掲載します。本邦初訳になります。

 

翻訳者の松木太加子さんは、「翻訳に苦労しながら、改めて、プロレタリア文学を勉強しています。それにしても、アメリカの研究者がこれだけ日本のプロレタリア文学を研究し、多くのことを示唆していることに驚嘆しています」と、語っています。 (編集担当)

 

 

 

 212号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

   

      後藤 守彦

        メロディ―・メーカー

     

   木村 玲子

     キューバツア日記5 キューバ日記6

   

   泉  脩

     感動のドキュメント④

          寺内タケシ「愛のエレキ ロシアを翔ぶ」

                

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信 二〇一六年月一日 211号 

 

 

 

   5月例会合評報告

 

    民主文学」五月号 

   『彷徨える秋』(井上通泰)をめぐって

                       馬場 雅史

 

 冒頭、報告者(馬場)が、作品の構成と概要、会話文にもちいられた言葉の分析、「説明できない不安に怯える人」の形象についてレポートした。方言と「標準語」の使い分け、そこからの逸脱によって、人間関係の距離感や親密感が計算されて表現されていると指摘した。また、「説明できない不安に怯える人」の形象が、現代を生きる人々の一つの典型として形象化されていると期待したが、それに応える内容を持つ作品ではなかったとまとめた。

 

 合評では、自らの介護体験に基づいた感想が多く出された。介護問題の深刻な現状や制度に対するとらえ方が議論された。

 

 作品については、裕治の生育過程、とりわけハルに対するトラウマがどう形成されたのか描かれていない、それゆえ裕治の形象もハルの形象も深められていないという指摘が多く出された。また、介護問題は取り上げるべきテーマではあるが、人間の問題としても、制度の問題としても作品に問題提起がない、共感できるドラマやキャラクターに欠けるという指摘もあった。

 

 一方、ハルをめぐる地域コミュニティーが健全に機能している点に希望が感じられるという意見や、ハルを異母弟に任せ、親元を離れた裕治が、いやいやながらでもハルの面倒を見るということのなかにリアルな現実や人間性を見るべきだという指摘もあった。

 

さらに、社会問題を作品で扱う場合、それを作品中でイージーに解決してみせることが文学ではない。「彷徨」するならさせておいて、そこにある不安や葛藤を描くということに価値を見出すべきではないか、また、社会的な変革によっても解決されないという一面を持つ痴ほう症や病、死というテーマを掘り下げるべきだという意見も出された。

 

 この作品を含む、五月号の創作三作品は、いずれも真摯かつヒューマンに現実に向き合おうとするものであった。しかし、正直なところ「気が滅入る」作品でもあった。フィクションをもって現実を抉っていく発想の必要性を、自分自身の課題とする機会になったと感じている。

 

 

   211号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

   

   

    後藤 守彦

     だます者とだまされる者と

 

   豊村 一矢      

     自分は数字表記の「ものさし」をもっているか

 

    大橋 あゆむ

     エッセイ  プレゼント

   

   木村 玲子

     キューバツア日記3 キューバ日記4

   

   松木 新

     『プラハの墓地』が面白い

        『日本プロレタリア文学選集』の刊行が意味するもの

   泉  脩

     感動のドキュメント③

          田村京子「北洋船団 女ドクター航海記」

                「捕鯨船団 女ドクター南氷洋を行く」

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信  二〇一六年月一日 210号 

 

 

 

  4月例会合評報告

 

 

 

   民主文学4月号

 

  『片栗の丘』(青木陽子)の合評を終えて

 

                   室崎 和佳子

 

 

 

 この作品について評価をする人としない人とで、はっきり分かれたように思います。

 

 それぞれの意見を列挙して、合評の報告にさせていただきたいと思います。

 

 

 

<評価する意見>

 

・自分を客観的に見つめて書いている、内省の深さのある人である。初めの集会の部分は、この作品の中で効いていると思う。

 

・一人の活動家としての集会を担う役割と片栗の群落とを結びつけている。

 

・『片栗の丘』という題名がまず気に入った。細部の描写が良い。P82上段1行と2行「あまり深刻な話にしたくなかったから、最後は笑顔で返した。」の精神が全編を貫いていると思う。

 

・いろいろなエピソードが出てくるが、夫のエピソードが点滅してさりげなく出てくることが効果的。繭子の性格などがとてもよく描かれている。

 

・自分の癌体験の病院生活を思い出しながら読んだ。患者の目でいろんな人を見ている。繭子の出現で作品が明るくなったことに安心。ただ、繭子が息子を助けられず、母を助けたことがちょっと疑問。母親だったら、まず息子を助けるのではないか。

 

・定山渓でやった全国研究集会の時に、青木さんに片栗の花を手渡したことを思い出しながら読んだ。(フイルドワークで定山渓の山々を巡っていて片栗の花に出会い、松木さんが、この花を食べるとうまい、と青木さんに言ったら、村瀬さんが、片栗は七年もかかって花になるのだから食べたらダメ、と言った)

 

・自分の病気に関心があるので、書きたいから書いている。狭い世界にならざるをえないのは仕方がないと思う。何とか乗り切りたいという必死さがこれを書かせている。 

 

<評価しない意見>

 

・自分を知ってくれている人が読むことを前提としているように思えて不満。苦しいこと、醜いことなどを避けてサラリと書いたことにも不満。最後にひょこっと出てくる片栗の描き方だけでは題名に迫ることはできない。自分の体験を取り上げたり、そうでないものを付加させたりしながら、だけど、文学的な力を感じさせない。民主文学の中でも力のある人と言われている人の作品としては不満が残る。

 

・この作品の中にフィクションはどこにあるのか。この小説はあまりに自分の体験に密着しすぎているのではないか。

 

・事実に寄りかかりすぎているのではないか。「放火」にすべきではなかった。

 

 

 

 合評で出たあらかたの意見は、以上のようなものでした。四月から始まった放射線治療は五月いっぱいまでかかるようです。

 

 平常心で淡々と自身の乳がんに向き合っていると感じさせる文章になるまでに深い葛藤があったことでしょう青木さんの健闘を祈ってやみません。

 

 

 

 

   210号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

   

   

    後藤 守彦

     「鳳仙花」のことなど

 

   生馬 多津子      

     謡曲の世界へのご案内(三回目・最終回)

 

 

   大橋 あゆむ

     エッセイ  主治医の処方箋

   

   木村 玲子

     キューバツア日記1 キューバ日記2

   

   岩井 よしあき

     ものさしはあるのか

  

   泉  脩

     感動のドキュメント⓶

          高杉良「祖国へ、熱きここりを」

             

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信 二〇一六年月一日 209号 

 

  3月例会合評報告

 

  合評作品

  浅尾大輔「支部の人びと」(「民主文学」2月号)

                      報告者  豊村 一矢

 

  一、合評資料(報告者の私見)から

 

1.感想

 

(1)この作品をいつ執筆したのだろう。

    月号は昨年十二月末に届いた。作品冒頭の早朝配達は八月三〇日。戦争法案強行採決は九月十九日だ。まさに戦争法反対、安倍政権打倒の闘いの高揚の中で生まれた作品ではないのか。

 (2)起承転結からなる一般的な「筋書」、プロットがない。主人公の行動に伴って単独のエピソードが次々に並んでいく。したがって登場人物の数も夥しい。

 (3)日本共産党員の人間像が多様に描かれている。戦争と強権政治への動きとそれに抗う新しい市民革命ともいうべき動きの分岐点で活動する姿が市民目線で生き生きと表現されている。

 (4)支部の人びと、支部の人びとが係る人びとは、弱さや苦しみを抱えていても懸命に活動し生きている。

  これら、支部の人びとの活動は新鮮で、「市民革命」の時代に相応しい党員像といえるのではないか。

 

2.作品の特徴

 

(1)一般的な「筋書」が無く、たくさんのエピソードを主人公ハルミの活動という糸でつないでいく構成は、作品を単なる共産党員ハルミの成長物語ではなく、「支部の人びと」と「支部のまわりの人びと」の生活・人生・人間像を多彩に群像として描き出すのに成功していて見事だ。

 

  だが、「1 早朝配達」「2 支部会議」ではピッタリ嵌った手法だが、「3 早希ちゃんのこと」「4 新しい人」の後半になると、この手法が緩み、人物を絞り人物像を深く掘り下げることに重点が置かれる。作品の前半と後半で色調が変るのには違和感が残る。

 

(2)浅尾氏独特の用語、表現法が冴えわたっている。P6、出だし3行目「平屋の……」から始まる重文、複文、重複文、入り混じった難解な文を「小学生の作文より下手で呆れる」と扱下ろした評をネットで見た。しかし、これは浅尾流の妙だと感心した。

 

(3)推敲不足と思わせる個所がいくつかあった。

 

例を二点のみ挙げる。

 

➀P34上段、支部長の宮原が亡くなって、病院が遺体を寝台車で自宅のある団地の昇降口前まで運んで、ストレッチャーに乗せた遺体と妻を外に残して帰ってしまった、という場面がある。これは、普通、ありえないことだ。事実と虚構との著しい乖離に潜む作者の意図をこれでは読み取れない。

 

②高橋純一のキャラのこと。ハルミの「子育てしながらの議員活動や苦労話を『階級闘争』という観点から……」などと言うくだりやその他の言動では、高橋純一のキャラ、人格が立ち上がってこない。

 

(4)浅尾氏の評論との関連

 

  ➀「4 新しい人」での、宮原郁子と坪井照之の人間像は、浅尾氏が、「民主文学」3月号の評論の中で、多喜二の「工場細胞」から引用した一節に繋がる。

  勿論俺だちの仕事は遊び半分には出来ることでもないし、それに俺だちのようなものが、後から後から何度も出てきて、折り重なって、ようやくものになるというようなものだから、分りきった事だが……。

 

 ②作者の「政治と文学」問題に決着をつけようとする決意を感じる。

    浅尾氏のブログにこんな一節があった。

    同じ「民主文学」3月号の「文芸時評」で岩渕剛氏が「支部の人びと」を取り    

   上げてくれたことに謝辞を述べ、そのあとに次のことばが並んでいる。

 今回の小説(1)の恐ろしさは、評者の立ち位置と私のそれとを明るみにしてしまうこと。

 激動する政治と社会の中に参加し共にストラグルしているつもりが、事実、紛れもなく、両者は、それぞれの立場にいたにもかかわらず、お互いの言葉が、表現が、批判が、そのストリムから、どちらかが遠く流されてしまっている()という印象を、否応もなく与えてしまう。

 

 本当に恐ろしいことです。

  私は、その意味でも絶対に負けられないのです

  それゆえ私は、勇気を振り絞り今号の批評(2)を投じることになりました。

1:「支部の人びと」 

 2:「工場細胞」―日本共 産党を描く多喜二的主題の現代性―(「民主文学」3月号)

 

 (5)作者の決意

 

   「『工場細胞』―日本共産党を描く多喜二的主題の現代性―」は、『民主文学』(3月号)の「特集 いま多喜二と百合子を読む」での評論だが、「支部の人びと」のモチーフと主題を窺い知ることができる。『工場細胞』から「日本共産党を描く」多喜二的「主題」の「現代性」を考察している。中でも浅尾氏が、「『工場細胞』に込めた男女平等とか女性を大切にするという(多喜二の※報告者補足)思想は、この小説をより価値あるものにした」としているのが印象深い。その思いは「工場細胞」外の、田口瀧子との手紙や中本たか子の闘いも紹介する力の入れようだ。これが「支部の人びと」に反映している。

 

浅尾氏は評論の最後を次のように結んでいる。

 

   

 

私は、現代の作家の一人として多喜二の人生と作品から多くのものを学んできたが、彼の主題と物語は未完のままである。私は、今日ほど時代の日本共産党を描くという多喜二的主題への挑戦が求められている時はないと考える。

 

 

 

 二、合評での意見

 

 合評では全会一致のような意見はなかったが、➀特徴ある作品に刺激を受けた②積極的に受け止めるべきもの、主張があった③戸惑うところや頭を傾げたくなるところもあったが、これは問題提起とも思える等々、思い思いの意見や感想が出た。

 

 意見が集中したのは、「作品の構成」と、浅尾氏一流の「文章表現」についてだった。

 

 作品の構成の特徴については、前項の1.の(2)で報告したとおり、単独のエピソードを数珠つなぎしていくような展開方法への驚きとそれをどう評価するか、ということだった。この構成方法と文学性との関連についても、成功か失敗かについても結論を出せないが、印象的で刺激があり、惹きつけられる作品になっているという意見が多かった。浅尾氏流「文章表現」についても同様だった。

 

 久しく日本共産党員を真正面から描いた作品を読んでない者として、この作品から、「今日ほど時代の日本共産党を描くという多喜二的主題への挑戦が求められている時はないと考える」という作者の意気込みを充分に受け止めた。

 

 

 

   209号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

   

   

    後藤 守彦

     パウゼヴァングのメッセージ

 

   生馬 多津子      

     謡曲の世界へのご案内(つづき)

 

 

   大橋 あゆむ

     エッセイ  感想を受けて

   

   豊村 一矢

     浅尾大輔「支部の人びと」から受けたもう一つの刺激

   村瀬 喜史

     最近の読書から、まず多喜二関連ついて

  泉  脩

     感動のドキュメント➀

          杉原幸子「六千人の命のビザ」

             ―人の日本人外交官がユダヤ人の命を救った―

 

 

   

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通 二〇一六年月一日 208号 

 

 

  「奔流」25合宿研修会報告特集

 

   ―続編&二月例会合評分―

 

   ※本号の「特集」掲載で「奔流」25号の全作品の合評報告がなされました。(大橋あゆむ「さらさらと」の投稿掲載も含む) ありがとうございました。    (編集担当)

 

 

    先輩、旧友、「暑い夏へ」、そして人生を思う

 

              柏原  竜

 

 四十数年ぶりに学生時代の先輩が旭川に来て我が家に一泊した。十数年前に札幌で会った時は立ち話ほどで別れたが、今回は学生時代のこと、社会人になってからのことなど話がつきなかった。

 あの頃、女子学生は学内でわずかだったが、先輩は男子学生の先頭に立って学園闘争を引っ張っていた。さらに酒を飲んでも強くて、男子学生は太刀打ち出来なかった。先輩は昔と変わらずコロコロと笑い転げながらも鋭い物の見方をしていて、ずっしりと年齢を重ねてきた様子が見えた。話していると昔の姿と今の様子がダブってきて嬉しかった。自分の学生時代はとにかく走り続けていたようだ。何か興味があるとそれに向かっていき、嫌なことがあると下宿に引きこもり外に出ない時もあった。

 先輩に「奔流」の「暑い夏へ」を見せるとすぐに読んでくれ、読みやすいと言い、そして私の生きざまも大きく見つめてくれたようだ。私は今まで書いてきた作品を家族以外には見せていなかった。読まれるのが恥ずかしいのか、作品に自信がないのか、周りの人にはほとんど公表していない。やっと数年前から何人かに見せるようになった。今回、先輩が読んでくれてよかった。

 一月の合評会で話し言葉に注意したらいいと指摘されたが、もっともだ。声を出して読んでみるといいとも言われたが、書くだけで精一杯で読み返さない。そのままである。次回は気をつけようと思っている。

 若い頃の友人知人に会う機会が最近増えてきた。会えば懐しさとともに自分のこれからの人生を見つめ直す機会になる。

 人生を一歩引いて見られるようになってきたからだろうか。

 

 

 

 「怠慢欠席」の合評を受けて

 

               豊村 一矢

 

 司会の松木さんから冒頭に「筆者から何か発言はありますか」と促された。そこで話したことから書きたい。

 ぼくは、「怠慢欠席」を構想するなかで、「脚本」の形式・表現方法を散文の小説に応用しようと考えた。

 脚本は、基本的に「柱」(場面、日時、場所)、「ト書き」(人物の動き、出入り、情景など)、「セリフ」で構成されていると素人ながら思っている。そこで「柱」「「ト書き」「セリフ」の役割を散文形式の創作で表現しようとした。  

 その意図は、作品を、原則、読者の「視点」で貫くこと、読者に、演劇や映画を観るのと同様の視点で作品を読むようにしたかった。また、冗漫を恐れ、過度な修辞を避け、展開が解かりやすく、短い文で読者の想像力を刺激する表現にしたいと欲張った。

 それぞれの章に(章の長短に関わらず)小見出しのように、〈日時、場面の順序、場所〉をつけた。これは脚本の「柱」の応用だ。

 地の文は、なるべく短い文で書き、人物(主語)を省略せず、現在形を多くした。これは「ト書き」の応用のつもり。

 会話文の前または後に「と言った」の類いの言葉は入れず、長い会話がつづいても会話文だけを連ねるようにした。脚本の「セリフ」の応用だ。

「哀しい」「寂しい」などの直接表現を極力さけた。

 今思うと、こんなことに気を遣う性分は、児童文学をやっていたころに身に付いたものらしい。児童文学では、出だし、つまり「つかみ」の部分で読者に退屈されたら、あっという間に離れていく。最後まで読んでもらってナンボの世界だった。

 ぼくの試みは成功したか、思い通りの作品になったか。これも児童文学流でいえば読者が決めてくれることなのだが、ぼくなりに及第落第のボーダーラインと自己評価している。ある程度できたと思う反面、満足できない所が多々あるし、「脚本」応用の良し悪しも具体的に検討したい。

 合評では、「成功している」という感想もいただいたが、よくわからないという意見も伺った。試みは作品に具体化されているが、作品の良し悪しとどう関連するかは判断できないという意見・感想だと受けとめた。納得のいく評価で有難かった。

 時間の関係もあって、あまり論議して貰えなかったが、書いている途中でも書いた後もテーマの押し出しが不充分なのが気掛かりだった。「怠慢欠席」だけでなく、ぼくの作品にはテーマがはっきり伝わらない傾向があると思っている。何を言いたいか分からんということでもあるのだから重大な課題だ。

「怠慢欠席」では、➀養育能力のない十代が出産する社会問題、②貧困等の負の連鎖、③格差社会の告発、は、当然、意識の中にある。しかし、うまく言葉に出来ないが、ぼくは、アイヌ作品にも、3・11作品にも、学校現場作品にも共通する根本の問題意識を心の中で持ち続けている。だけど作品で表現し切れていない。無理に書けば演説になってしまう。いつか合評の場でそんなことも論議して貰い勉強したい。

 最後に石川弘明氏からご本人の作品が掲載された半世紀以上も前の同人誌を貸していただいた。紙が茶色くカサカサに劣化していて、破れてしまわないかと心配しながら慎重に読ませてもらった。シャクシャインの時代の道東方面のアイヌの物語だ。

 驚いたのは、石川氏はこの作品をシナリオとして書いたというのだ。

 ぼくは、不覚にもそのことにまったく気づかず、石川氏の若々しく気力あふれる作品を小説として楽しんでしまった。申し訳ない。

 脚本も小説も、書式・形式の問題ではないということだろうか。「戯曲」もレーゼドラマとかビューネンドラマとか奥が深いということだろうか。

 いろいろと充実した「奔流」二十五号の合評月間だった。

 

 

 

 合評会の指摘から

 

               浅野 勝圀

 

  〈「夏の花」三部作の背景〉は、はからずもぼくの「奔流」デビュー作となりました。合評会では、この舌足らずのデビュー作に、いくつもの率直であたたかい指摘をいただき、大いに励まされました。記憶にあるそれらの発言を振り返り、思うところを記します。

 ⑴「二二三ページ上段、「我々の圏点について」(Hさん)

 指摘された通り原作にはありません。ここを強調して論を進めようとする思いが先走っての勇み足でした。引用後に(圏点は引用者)とすべきでした。

 ⑵「原民喜の自死をどう考えているか」(Gさん)

 Gさんは自分も原民喜を書いてみたいと思っていたとのことでした。たしかに、原民喜の全体像を論ずるとすれば、彼の用意周到な自死をどう考えるかという問いは、避けて通ることはできないでしょう。

 ぼくの最初の関心もその点にありました。当時ぼくが考えていたのは、原民喜がめぐり合った三つの死➀両親や姉など親密だった肉親の死、②彼の生の拠り所だった妻の死、③運命を分けた無数の被爆者たちの死の記憶の中で彼は生きていたのではないか、ということでした。その間、とりわけ妻の死以後、さまざまに生への可能性が彼の眼前に展開しますが、一九五〇年の朝鮮戦争の勃発が大きな転換点になりました。

 それは、原民喜から「夏の花」を書かせた「戦争は終わったのだ」という感動を奪い去ったばかりでなく、無数の人々に理不尽な死を強いた、あの原子爆弾の惨劇さえも現実のプログラムとして感じられたはずです。

 彼の生への可能性はこのとき決定的な打撃を受け、さらに、彼が希望を託していた共産党幹部の追放指令・警察予備隊七万五千名の創設などの反動化政策が、追い打ちをかけます。

 こうして、最終的に彼の生の可能性は、ローソクの火が消えるように消えていった。これが当時ぼくが考えていた内容のあらましです。

 同じ被爆作家だった大田洋子は、原民喜の自死は敗北であると批判的でした。彼女の口ぶりには、原民喜の生と死を反面教師として考えていたのでは、と思わせるものがあります。

 それに対して、小海永二は一九五五年に書き上げていた「原民喜詩人の死」において、原民喜の死は敗北ではないと主張しています。

 当時も今も、ぼくは小海永二の側から原民喜の自死を考えたいと思っています。それを自分なりに跡づけることができたら、ぼくにも原民喜論が書けるかもしれませんが……

 ⑶「一九四九年の三つの拒否、結婚しない/入党しない/カトリックの洗礼を受けないから考えると、原民喜は生きることへの展望を持っていなかったのではないか」(Bさん)

 Bさんの指摘は、⑵の自死についてのやり取りの中で示されたものです。鋭い着眼に教えられました。

 「原民喜全詩集」の年譜によれば、この「三つの拒否」は、「一九四九年の心根として大学ノートの裏表紙に英文で書かれていたそうです。

 この「三つの拒否」は、当時における原民喜の決意があるとともに、それらの事項についての、彼の関心の深さ、あるいは強い執着の表明でもあったのではないか、とぼくは受け止めています。 

 「三つの拒否」と同じ一九四八年の項には彼が結婚に関心を示した事実も紹介されています。いっしょに「三田文学」の仕事をしていた女性との結婚を考えた彼が、「丸岡明に相談。丸岡から相手にその気持ちの無いことを聞き、涙する」とあります。「結婚しない」はその苦い経験を反映しています。

 前年の一九四八年の頃には、その年の春に大学を卒業したばかりの遠藤周作と知り合い、「以後、遠藤は週に一度は民喜の部屋を訪れ、二人は酔えば「お父さん」「ムスコ」と呼び合うほどに深交を結んだ」という記述があります。

 さらに、二年後の一九五〇年の項には、各行の最初の文字をつなぐと「エンドウノバカ」となる謎かけの詩を送って本人を困らせたこと、フランスへ留学する遠藤を見送るために横浜港に行き、「埠頭で一番あとになるまで残って見送った」ことなどが紹介されています。

 遠藤周作はカトリックの幼児洗礼を受けた、いわば生まれながらのクリスチャンとして、後年安岡章太郎や加賀乙彦などをカトリック教徒に改宗させました。その遠藤への愛惜の念が強かったことを思えば、彼がカトリックの信仰を自分のこととして考えていたとしても不思議ではありません。

 三つ目の「入党しない」については、原民喜をモデルにした丸岡明の「贋きりすと」にヒントがあったような気もしますが、いま確かめることができません。ただ、「おわりに」で紹介したような経緯から推測すると、彼が入党を考えていたとしても、おかしくない気がします。

 しかし、三つすべてを「拒否」しているわけですから、Bさんのいうように、生きて行く展望を見出せないでいたというのが本当のところかもしれません。

 ⑷「私たち」から「我々」への転換に着目した二二三ページ下段の論旨に、作品(作者)の思想を読むことができる。作品(文学)にはやはり思想が大切でないか」(Mさん)

 作品の核心(思想)を読み取るのが苦手な者としては、望外のうれしい指摘でした。

 最初にこの個所に注目した詩人の故長田弘は、次のように書いていました。

「ここで原爆が『我々』という言葉を択んだということは、かれが『我々』という言葉によってしか、このひとりの兵士とかれに肩をかしている自分とを内がわから強く繋ぎはじめていた感情をよく表現できないことを感じていたからにちがいないし(以下略)」(「わが原民喜」定本全集別巻収録)

 ぼくはこの場面を読み返すといつも胸が熱くなるのを覚えます。

 

 

  合評を受けて   

               松木 新

 

  多喜二祭での講演は、釧路で三回、小樽で一回だが、今回の講演が一番楽しかった。例会の後で泉脩さんが、総選挙勝利の後だったからではないか、と言っていた。たしかに、会場には熱気があったし、聴衆の雰囲気が語り手に微妙に反映するものだと言うことを、改めて実感した。

 浅尾大輔さんのブログは、予想外の反響だった。豊村さんから教えられて初めて知ったのだが、合宿の感想で細野さんが書いているように、「支部の人びと」について意見交換をしていたので、内容については納得できるものだった。

 今、ぼくが関心を持っているのは、「情勢とラディカル」についてだ。前の「通信」にも書いたし、今度の「文芸時評」にも書いた。多喜二が「選挙はお前達の『台所』の問題だ」と叫んだとき、ラディカルな情勢が象徴的に表れていたのが『台所』だった。台所で働いている人たちへの関心だけでなく、台所にあるものへの関心だ。ネギは何本で何円か、ジャガイモはいくらか。日常の生活の実際について、常に注意を怠らないことが、ラディカルな情勢をつかむ前提になる。

 多喜二の年齢を大きく超えている「若い書き手」たちの反応が楽しみだ。

 

「さらさらと」の感想

 

※「さらさらと」(大橋あゆむ)については筆者の合評会への直接参加が叶わないため、「通信」紙上への感想を募りました。

               (編集担当)

 

 

  甘美で哀しい物語

          泉  脩

 

 大橋あゆむ「さらさらと」について感想を書きます。

 私はラブロマンスが好きです。男と女が惹かれあい、愛しあうのは自然の流れで、これがなければ人生はつまらなくなり、子孫はのこせません。

 十九世紀のヨーロッパ文学は、ほとんどがラブロマンスであり、しかも不倫ドラマ多いのです。トルストイ「アンナ・カレーニナ」、バルザック「谷間の百合」、スタンダール「赤と黒」などです。

 家の利害から親が子供の結婚を決めるので、真実の愛が不倫という形を取らざるを得ないのでしょう。しかし現代では個人の意思で結婚が行われるので、不倫は単なる浮気の結果です。

 この作品では、男は子供をデートに連れていって、家庭をこわすことがないことを示します。女性は敏感にこのことを察して、自分から別れていきます。

 石狩の浜と海をバックにした、甘美で哀しい物語だと思います。

 

 

 

大橋あゆむ「さらさらと」を読む

               南 平太郎

 

   「ごさい、です」という卓也が漢字に興味を持ち始めた翌年の夏、小学校一年生になった夏までの卓也の父玉木悠人との恋と別れ、一編の詩のように読みやすい。

 これが最初の三行にある「とりかえしのつかない過去」「ひきずっている想い」なのだろうか。

 小田弘美と玉木ひろみ夫人と同じひろみという名前、それが卓也から知らされることが心に突き刺さって弘美の恋の夏が終わる。弘美の仕事は何か、どうして食べているのか、玉木夫人をどこで初めて見たのか、玉木夫妻は離婚しないで、ひと夏の浮気にしてしまうのか。語っていないことが多すぎる。

 読者になにを訴えたいのか。

 現代アートのインスタレーションを見に行って弘美は玉木親子と会う。このインスタレーションの作品を大橋あゆむは今年の新道展に出展している。市民ギヤラリーと道立近代美術館の二度とも「メメント・モリ」(ラテン語「死を思え」)で、よく理解できない。作者あゆむさんから制作意図など解説を聞きたいものだ。

 大橋さんのお父さんはK・Kさんだと聞いている。

「ほっかい新報」2000号記念で再刊初代編集長が道新の元敏腕記者だったK・Kさんを取り上げている。大橋さんは、いつかは父のことを書きたいと思っているのでないか。ぜひ実現してもらいたい。

 当時を知っている人にT・Aさんがいる。二十二日「赤旗」の「読者の広場」に日本民主主義文学会から送られた戦争法廃止の署名を碁会所で集めたというT・Aの投書が載った。

 さっそくT・Aさんに激励の電話を掛けた。レッドパージ、天理教と、たくさん話題になった。

 

 

 

 

 

 

 

大橋あゆむ「さらさらと」の世界と宮本百合子「道標」の一節

 

                        泉 恵子

 

  作者独特のラブロマンスの世界。道ならぬ恋のはかない世界を、美しく描こうとした?かの様に見えるが……。「さらさらと」という題名に表わされているように、冒頭の三行に示されている、「砂浜の足跡が消えてゆくよう」なひと時の淡い恋の世界が、散文詩風に描かれていると読んだ。

 初めの場面で、主人公小田弘美と相手の男性玉木の息子卓也とで、波打ち際で砂山にトンネルを掘っているが、その砂山が脆くも崩れる、そして思う、「一度壊れたものは、元には戻らない」と。

 ここで作者は「砂上の楼閣」という言葉をイメージしているかのようだ。最後まで読んで、この場面はそんな伏線だったのかと思う。

 すらりと背が高く、黒縁の眼鏡をかけて端正な顔立ち。ピアノを弾くような指。 作者を知っているから、「また」と微笑ましくもなるが、知らなかったら「なんとまあ陳腐な」と言いたくなるような描写だ。

 大体、「ピアノを弾くような指」って?作者は、多分すらりと伸びた長い指をイメージしているのだろう。そういう人もいるだろう。しかし、……私は「フジコ・ヘミング」を大写しにした写真を思い出す。振り乱した金髪混じりの白髪と、ゆったりした衣服から伸びた年輪を感じさせる太い腕と指でピアノに向かっている姿に、ピアニストとしての激動の人生を生きた女性の凄さのようなものを感じた。

 そして不意に、宮沢賢治の私の好きな詩が思い出される。「曠原淑女」と題された詩の中で、二人の農婦をうたっている。……(中略)

   にわとこやぶのうしろから   二人のおんながのぼって来る

   けらを着 粗い縄をまとい   萱草の花のように笑いながら

   ……(中略)

   鍬を二挺ただしくけらにしばりつけているので

   曠原の淑女よ  あなた方はウクライナの舞手のようにみえる

    ……(略)

 粗い縄で、鍬をしばりつけた農婦のいでたちに「ウクライナの舞手」を想像する賢治の発想の豊かさに感心する。この女性たちの手はきっと節くれだってごつごつしているのではないだろうか。労働する女性の姿、健康的な笑いの中に美しさを彷彿とさせている。

 そういう美を引き出す作者賢治に感心する私は、「ピアノを弾くような指」の玉木に対して、良い印象を持つことができない。というか、上辺しか見えないのだ。

 またこの二人は美術に関して造詣が深いことになっている。男性は大学で美術史を学んで画廊を営み、女性は美術研究所で講師をしているという設定である。美術作品についての批評をする場面があるのだが、美術家の二人なら、もっと深みのある会話が欲しいと思った。

 というのは、この「さらさらと」について感想を書こうと話し合った、民文二月例会の翌日の日曜日(十四日)は「宮本百合子を読む集い」の例会だったのだが、五年越しで読んでいる「道標」もやっと終わりに近づいた、第三部の第四章〈一二〉の場面を読んだからだ。

 モスクワにいる伸子と素子の部屋に、一時同居することになった画家の「蒲原順二」が登場する。日記からモデルは「寺島貞志」という画家で、ソビエトに入った日本で初めての画家という。当時フランスなどには多くの日本人画家が学んでいて、「道標」でも、主人公伸子はフランス滞在中に、そうした多くの日本人画家たちと交流しているが。

 ネットで調べると、寺島貞志はあの「小林多喜二の死顔」を描いた画家でもあり、「プラウダを持つ蔵原惟人」や、徳永直「太陽のない町」の表紙等を描いた、戦前はプロレタリア美術の画家として活躍した人だった。

 作中では、ソビエトに来るまでの旅費しかなくて、モスクワでプロレタリア美術家連盟での仕事を貰うことで一ヶ月間の滞在費を稼ぎながら、ソビエトの美術を学ぼうとしているという設定だ。幸い、絵の技量が認められ、日本のメーデーの絵を描く仕事を与えられた。最初に描いた百号の絵は、「もっと日本の労働者らしい顔や体つきの特徴をつかんで」とプロレタリア美術家同盟の書記局の仕事をしている画家に言われてしまう。「聞こえない、聞こえない、この絵からはメーデーの足音が聞こえない。彼らは眉毛で憤っている。口で怒っている」「しかし、声がない。どよめきがない真実の感情が不足している」と。

 それでテーマを変えて、東京市電のストライキのときに、男女従業員が催涙弾で襲撃された事件を描くことになった。その下絵を見せたとき、「悪くないじゃないですか」と言いながら「どうして、人物の肉体をすっかり描かなかったのか」「足元から、すっかり頭まで」「全体の物語を描きなさい。労働者たちが、こういう野蛮な襲撃を受けたとき、彼らは、いつだって全身で戦わなければならないんです」そして、自分の体でやって見せながら、「ごらんなさい。体全体がこういう風に動くんです。体全体で抵抗するんです。肉体で戦うんです」という。その批評について、「労働者は彼らを搾取する権力の元ではどのように生きなければならないか。その真実についての物語の一節なのだった」という伸子の感想が書かれている。

 リアリズム絵画の神髄に迫るこうした言葉は、文章にも当てはまるように思う。「さらさらと」のことを考えながら、ここを読んだときに、対極にあるように思った。リアリズムの手法ばかりではないと思うが、どんな手法を用いても、私自身はそういう精神を持ちたいと思うし、大いに戒めになる言葉だった。

 大橋あゆむさんのエッセイはとてもいいと、毎回感心して読んでいる。が、「さらさらと」にはその良さが反映していないと思う。なぜだろう。

 

 

   大橋あゆむさんへ

                    福山 瑛子                    

 

  「さらさらと」を読み、絵画・彫刻に関わる弘美と玉木の交流の深まりが美しく描かれていて、感心しました。何時もあなたの作品を読んで感じるのは、「田中さんは詩人だなあー」ということです。書き出しから詩的な雰囲気で私を作品に誘い込みました。

 端正な顔立ちの玉木に寄せる弘美の心情、玉木の愛情たっぷりの弘美への接し方――玉木が妻と別居したこともあって、二人は結ばれるのかと思って読みすすむと、最後は「さようなら」でさらっと終わり、意外でした。しかし、実に「さらさらと」の表題に似合った終わり方でした。(今、朝の連続ドラマ「あさが来た」の主人公あさ(波瑠)の夫新次郎役を玉木宏が演じていますが、玉木悠人がこの実在の俳優に重なり、私は勝手に彼の顔を思い浮かべながら読んでいました)

 私の「『睡蓮』の池の色」の最後も「さようなら」で終わっているのは、偶然でしたね。

 でもニュアンスは違っても、「別れ」という現実は共通していました。

 田中さんのこれからの作品に大いに期待しています。       

 

 

  『さらさらと』を読んで

                田中 恭子

 

  あゆむさんの作品を読むときの楽しみの一つは、私の生活の中に定着していない日常上の細部にあるオシャレ感のような気がする。この作品の中では、ログハウスの白いテラスとかオフホワイトのハーフパンツ、パールのペデキュアとか、そしてインスタレーションだろうか。インスタレーションは美術の分野でも活躍している作者の作品によって私が初めて知った名称だが、二回ほど実際の作品を観賞しているにも関わらず、発せられているであろうメッセージを感じ取れていない。つまり現代的なオシャレなアートでは? というあたりで止まってしまっている。

 『さらさらと』もそんな言葉のオシャレ感のまま、あっという間に読み終えてしまった。

 読み終えて、さて、振り返ってみると、実に淡々と、さらさらと消してしまいたいあまり深くは傷ついていないよと開き直っているような弘美さんの哀しみは伝わってくるものの、読み手の方には「?」ばかりが残っていた。弘美さんは何歳? 専門分野は絵なの? 彫刻なの? それともインスタレーション? 美術研究所の講師だけで生活は成り立っているの? 玉木さんには、ピアノを弾くような指のほかにどんな魅力があったの? 父親として息子の卓也くんに何を見せようとしていたの? 美術仲間は二人のことをどう思っていたの? 等々。

 もう一つ、知り合いに厚田に住む版画家F氏がいる。私の住む南区から何年か前に移住した。彼は豪放磊落な個性の人で、いつもくたびれたジャンパー姿で現れ、会議でも道で出会っても、大きな声で話し、怒り、笑い、自分のペースで突風のように去っていく人という印象がある。厚田に住む芸術家はF氏であったことが先入観を生み、『さらさらと』に登場する美術仲間の中にそんな個性のある人物をあてはめられなくて戸惑ったことも、「?」が多くなった一因かもしれない。

 あゆむさんの美術分野でのインスタレーションの作品同様、文学作品でも、観る人・読む人の想像力を喚起させてくれる作品かと思う。たくさんの「?」は私自身の想像力で、違う作品を生み出すしか解決しないのかな。

 

 

 

「さらさらと」を読んで

               北野 あかり

 

書き出しがテーマを暗示しおり、興味を持って読みました。情景描写も目に見えるようで素晴らしいと思いました。

 また、この作品に描かれている女性、小田弘美の生き方についても考えさせられました。

 弘美は、妻子ある玉木に惹かれ、快楽を共にして、ずるずると逢瀬を重ね、お互いにその愛を享受しあう日々をおくっています。

 生きていく過程では、目標に向かって邁進している時もあるが、ずるずると安易な日々に流されてしまっている事がよくあります。

 この間の弘美は、後者であり、その事に終止符を打つことは非常に難しいことを、別れるその寸前までも癒しを求め揺れ動いている姿として描いています。

 しかし、彼女はきっぱり終止符を打つと決断します。

 周囲からの説得でもなく、玉木からでもなく、自らの意志で、です。

 それができた、もっとも大きな要因は、玉木夫妻の別居の原因が自分にあったと知ったこと、そして、子供(卓也)の存在が非常に大きいと思います。卓也の言葉を介して知った玉木親子の絆、そして、これを壊してはいけないという良心だったと思います。

 この作品の感想文を書こうとしていた矢先、元プロ野球選手だった清原が麻薬使用で逮捕されというニュースが報道されました。その報道の中で、二人の子供が野球をしている様子をネット裏から、腰を降ろしてじーっと見入っている寂しげな後ろ姿の映像が忘れられません。

 彼にも覚せい剤と決別できるきっかけがあったはずなのに……。

 と思いながら、人と人との絆を大事にしなければならないと改めて考えた作品でした。



 

「さらさらと」と「別れの朝」  

                松木 新

 

 この作品のどの場面からも、具体的な情景が浮かんでくる。それだけでも、短編としては成功していると思う。

 読み終わってすぐに、ペドロ&カプリシャスの「別れの朝」とテーマが同じだ、ということに気付いた。この歌はぼくの大好きな一曲だ。

 

「やがて汽車は出てゆき

  一人残る私は

  ちぎれるほど手をふる

  あなたの目を見ていた」

       (作詞なかにし礼)

 

 別れの朝、別れを決意したものの、汽車に乗ってもなお未練がましく「ちぎれるほど手をふる」彼に対して、私はただ冷然と「あなたの目を見ていた」だけだ。

「さらさらと」では、玉木は望来の画廊へ息子を連れて来ることで、別れる伏線を張るものの、最後の場面では、「僕は、ここにいる。弘美さんも、ここにいる。だから・・・・・・」と諦め切れない。まるで汽車の中から「ちぎれるほど手をふる」彼のようだ。

 作品の最後の二行、「『だから』の後に続く言葉は、わたしが決める。だから、さよなら!」がとくに良い。「わたしが決める」という姿勢に、「別れの朝」の私と同様、直向きに生きる女性の強さと見て取ることができる。「あなたの目を見ていた」私と、弘美の姿が重なるのだ。

  小説と音楽とが一致するという希有な感情を味わった楽しいひとときだった。

 

 

       大橋作品について

                       後藤 守彦

 

  冒頭の「さらさらと」で始まる一節と文末の「だから、さようなら!」で終わる一節は、散文詩のようです。「雨が落ちてくる」で始まり、「わたしの、雨」で終わる前作「雨よ、雨」(『北海道民主文学』二〇号)もそうでした。その間で、ドラマが展開します。今回の作品では、玉木と弘美の出会いと別離が描かれていますが、二人がなぜ結ばれたのか、なぜ別れたのか、どうも判然としません。それが作者の手法かもしれませんが。いずれにしても、作者の感性・感覚の瑞々しさといったものを感じました。

 

 

 「さらさらと」他、大橋作品のこと

                            豊村 一矢

 

 「さらさらと」で、最後の、「『だから』の後に続く言葉は、わたしが決める。だから、さよなら!」の二文がぼくの心を撃った。

「わたしが決める」に加え、「さようなら」ではなく「さよなら!」なのが効いている。

 ぼくが、民主文学会に入って、最初に読んだ大橋作品は「白杖の調べ」(奔流二十一号)だった。以来、由美(先生)を主人公とする作品が、「メメント・モリ」(北海道民主文学十七号)、「二枚の卒業証書―旅立ち」(奔流二十二号)、そして二〇一〇年の「輝け子どもたち」(北海道民主文学十八号)と毎年続いた。これらは基本的に学園ドラマであり、繊細な感性で描かれ、危うさを感じさせつつも根底に根づいている「向日性」にほっとしながら読んだ。

  ところが、二〇一一年の「奔流」(二十三号)では小説を書かずエッセイ集を載せる。その年に「札幌民主文学通信」に投稿したエッセイの十篇だった。小説を書けなくて「通信」からの転載で間に合わせたのか、エッセイ十篇にこの時期に文学で表現したかったことが集約されていたからなのか、ぼくは後者だと思っている。筆者はエッセイでは筆名を使わない。

 次の年から小説が復活し、主人公は、由美から弘美になり、作風が変る。「弘美の日常」(北海道民主文学十九号)、「わたしのせいじゃない」(奔流二十四号)、「雨よ、雨」(北海道民主文学二十号)、そして今回の「さらさらと」となる。これらは基本的に恋愛ドラマである。

 どう作品が変ったか。ぼくの感覚では、まず、心象性がより深くなったこと、それは純正志向の高まりの結果かも知れない。作品世界は映像的には具体的で鮮明なのに生活臭が希薄で、弘美の内心が浮き立ち、透明な心の世界に満たされる。

 なぜ玉木に惹かれたのか、なぜ玉木と別れるのか、玉木の妻の別居は弘美のせいか、玉木が卓也を連れてくるのは別離の意思の表れか、等々について断定的なことは書いていない。だから通俗的な不倫ドラマの関心事に囚われるのを回避し、作品世界に浸ることができた。

 さらに本質的ことは、学園ドラマ群の「向日性」が恋愛ドラマ群では「背日性」に変化していることだ。

「さらさらと」と「雨よ、雨」では、プロローグで悲恋となる結末を暗示する念の入れようだ。

 そして、弘美の物語の四作目「さらさらと」で、ぼくは弘美の到達点に感動した。つまり、「『だから』の後の言葉はわたしが決める。だから、さよなら!」である。

 ぼくが勝手に作風変化のターニングポイントと推察すると「奔流」二十三号のエッセイ十篇にあると思う。その中で印象深いのは「朝の『夜這』」だ。そして「『偶然』が呼んでいる」も。

 筆者の思いも同じではないだろうか。十篇それぞれに題がついているが、エッセイ十篇全体の表題を「朝の『夜這』」にしたのはそのためではないだろうか。

 

 

 

   208号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

   

   

    後藤 守彦

        講演 「戦後日本の歴史を考える」

              第一回 プロローグ

 

 

   生馬多津子      

     謡曲の世界へのご案内

 

                

     大橋 あゆむ

       楽しい「お茶会」

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信  二〇一六年〇二月一日 207号 

 

 

 

  「奔流」25

 

  合宿研修会報告特集

 

  一月十六・十七の両日、「奔流」(札幌民主文学会・日本 民主主義文学会札幌支   部発行)二十五号の作品合評会を新年の合宿研修会として行いました。

 「札幌民主文学通信」では、各筆者より、合評を受けての意見・感想、自作品や「奔流」の他の作品等について思う所を投稿してもらい、本号と次号で「報告特集」を組むことにしました。   (編集担当)

 

 

 

 

 

 パリ不戦条約

 

               泉  脩

 

 

 

 私の「思い出の世界文学」は、四人の作家による第一次世界大戦をめぐる反戦小説を中心に書いた。討議の中で一九二八年のパリ不戦条約の話が出た。

 

 第一次大戦後、平和の機運がおこり、国際連盟ができて国際紛争を話し合いで解決することになった。軍縮の国際会議も次々と開かれ、ワシントン条約とロンドン条約で海軍の軍縮が決まった。毒ガスやダンダム弾などの残虐兵器の使用も禁止された。

 

 そしてパリ不戦条約が締結され、日本も調印した。ところが一九二九年に世界恐慌がおこり、交際対立が激化してきた。

 

 日本は中国侵略で不況脱却をめざし、満州事変(一九三一)、上海事変(一九三二)をおこし、ついに一九三七年の日華事変で全面戦争に突入した。宣戦布告をせず、自衛のための事変で通し、欧米諸国の反対、介入を避けたのである。

 

 同時に、国際的な戦争放棄にはとらわれず、捕虜殺害、民間人虐殺、強制労働と女性の姓奴隷化など、勝手気ままな行為をほしいままにした。南京虐殺(30万人?)、重慶(新首都)爆撃(世界初の都市無差別爆撃)、三光作戦(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす)、七三一部隊の人体実験、そして従軍慰安婦である。

 

 ソ連軍によるムスメ狩りとシベリア抑留(強制労働)、アメリカによる東京大空襲と原爆投下は許せない無法・残虐な行為である。しかし、日本軍の方が先に大規模に行い、中国人だけでも一五〇〇万人も殺したことを忘れてはならない。昭和天皇が近衛元首相らの和平勧告を退け、終戦を一年遅らせたことも。

 

 

 

 

 

  宛先のない手紙」始末記

 

              平山 耕佑

 

 

 

「秋田幸男というのは実名です」と言ったら皆さん「へえ」と驚かれたようだ。そう、あのころ同じクラスだった人たちで、その後の消息が分かっている人はただの一人もいない。それが外地からの引き揚げ者の宿命なのか、と思ってしまう。

 

だからあの作品が万々が一にも誰かの目に留まって秋田幸男と私の名を見て思い出してくれる人がもしいたら、そんな偶然中の偶然にほのかな期待をかけていたことは確かなのだ。

 

「秋田の言った言葉、無理があるのでは」という指摘があり、若干の議論になった。しかしあの当時でも、例えば天皇を揶揄した言い方があったり、進軍ラッパのメロディに卑猥な歌詞をつけて歌ったりしていたものだ。一般庶民の中にはそんな雰囲気があったのだ。まして空襲で親戚一家を亡くしたとなれば、「この戦争は負ける」と口にする子どもがいたとしても不思議ではないのではないかと思う。それよりむしろ、そんな状況の中でも日本の勝利を微塵も疑わず、イタリアが降伏し、ドイツが降伏した後もなお、これで日本だけが世界中を相手にしていることに誇りさえ感じていた田鍋勝三(つまり私)の心情のほうが異常に思われるのだがどうだろうか。

 

 手紙の部分をどう評価するかによって作品の評価が分かれる、という意見があった。そして「この部分は余計だ」とも。そういう評が出ることはある程度予測していた。「余計」と思わせたのは私の筆力の至らなさであり、やむを得ない。

 

私としてはこの部分をぜひ書きたかったのだ。最後に二〇一五年八月とわざわざ書いたのもそのためだ。もし九月一九日以降に書き終えたのであれば内容も変わってもっとくどくなる。

 

 なお、「内容が事実かフィクションかなどと問うのは無意味。そんな言い方はやめましょうや」という意見があったのでひとこと。一般論としてはまさに正論である。しかし、同人誌とか私たちのようないわば「仲間うち」ではそれが話題にされてもいいのではないか。事実をどう書くか、どうフィクション化するか、それはいわば技量の向上に資すると思われるからだ。それを別にしても、お互いあからさまに、聞きたいことは聞き、話したいことは話した方が、仲間うちとしては楽しいのではないか。

 

 ということでついでにひとこと。今回の「創作」作品、創作というよりエッセイとした方がいいと思われる作品が多かったように思われる。事実に偏れば小説としての起伏がなく、したがって読者に与えるインパクトも弱くなる。だから「これは小説ではないよ。私が実際に経験したことだよ」として書いたほうが読者に訴える力も増すのだと思う。

 

 

 

 

 

    書くことの難しさ

 

              山路 文彦

 

                                                                

 

 合評会は独りよがりを気付かせくれる、実に貴重な機会です。今回もそう思いました。ご批評ありがとうございました。

 

 表現したいと切実に思ったことを書きました。実名を出して書くのはまずいという思いもあり、小説という表現形式を選択しましたが、出生にまつわる体験的事実と原発の問題との二つにテーマが分裂していてうまく絡まっていなかった、と思います。エッセイ風に体験的事実を淡々と書く方がよかったのかもしれません。はじめの、双子であることを知った経緯も実際はもっと複雑でした。

 

 小説となると、もちろん体験をただ書くのではなく、体験を深く掘り下げ、対象と距離をおき、テーマを普遍的なものに昇華していくことが求められます。しかし、作品化して実現することは容易ではありません。あるプロの作家は「エッセイを書くことと小説を書くこととは違う。書くという行為の、自分の中での深さが違う。書かれたものへの畏れの度が違う」(日野啓三『書くことの秘儀』集英社、二〇〇三年)と述べていますが、私がその意味を理解できるかどうか、不安です。

 

 実名で評論・エッセイを書き、ペンネームで小説を書く、まさに二兎を追っているわけですが、さて次はどうなるでしょうか。いずれにしても、表現したいと切実に思うことが起点です。それが無くなったら、どうしようもありません。そのためには、社会や人とつながりながら、より善く生きていかなければならない、と思います。残された時間がどんどん短くなっていくからこそ。

 

 小説における言葉の使用についても一言。私は、既知の、普通の国語辞典に載っている言葉を使うようにしています。合評会で指摘された「逸る」もその範囲内の言葉です。愛用している『新明解国語辞典』では、「実行を急ぐ気持が先に立って、つい落着き・平常心を失う」と説明されています。似た言葉に「焦る」がありますが、ニュアンスが違います。既知の言葉は、読書などの学びを通して増えていくのは当然であり、表現の豊かさと言葉の豊かさは無縁ではないでしょう。差別語は論外として、事の本質を歪める言葉や難語の使用は避けるべきですが、「言葉狩り」になってはならない、と思います。尚、プロの作家を含めて他者が使用する場合については、『広辞苑』の範囲内までならよしとしていますが、それから外れても心に沁みてくる言葉であれば、学びの対象にしています。

 

 

 

 

 

   「幟旗」について

 

             菊地 大

 

 

 

 作品について、いろいろ言い訳をして時間が経ってしまったように思う。

 

 とりわけ実名で登場する「みのわ登」について、引用も説明も長かった。「みのわ登」は気になる存在だが、それが長すぎると主役の影が薄くなる。

 

 最後の一行「その日、日本海には黒い雲が垂れ込めていた。」について、「その日とは何時か?」「黒い雲にしたわけは?」などと聞かれた。言われてみれば、確かに「その日」が何時か分からない。「その日」が何時かはっきりしないから、「黒い雲が垂れ込めていた」かどうか、その根拠がなくなるのは当然である。たった一行もいい加減に書いてはならないのである。

 

まだまだ現役で忙しい中、必死?に書いているのだから……と思ったり、「趣味ですから……」などと言ってはならぬと常々思っている。小説を書くという作業は、僕にとっては厳しくも大切な時間だから、気力と体力のある限り、一作に二年も三年もかかるけれど止めないつもりでいる。

 

 自分では、作品の最初の海の描写が気に入って、そのままずうっとその調子で書きたいと思いながら、いつも最初から読み進めながら書き足している。要するに作品の構成が不十分なままに書くとこういうことになる。それは分かっているのだが、しっかり設計図を書いてから仕事を始めるという習慣が、僕にはまだない。万事そうだ。今の生活環境を変えない限りだめかもしれない。しかし、環境が変わったら酒ばかり飲んでいるかもしれない。困ったものだ。

 

 

 

 

 

 「老いを楽しく」の合評を受けて

 

              南 平太郎

 

 

 

 今の心境は、多喜二が「オルグ」を発表した批評を受けて「自分の作品というものは、原っぱへ落としてきた見苦しい『野糞』でしかない」と少々怒って書いた論評「四つの関心」に似ている。全集で調べなおした。

 

 こんなに高齢者が多くなる社会は前代未聞のこと。昨年十月の調査では、最も古い市営住宅で今年、新築移転しつつある六丁目は、実に六五歳以上は六〇、四九%である。そんな問題意識で私小説風に書いたものである。

 

 先輩の辛口批評化に読ませると「君、少子高齢化は今の政治の下だ、書くならカニ工船のような作品が必要なのだ」と言われた。

 

 認知症はマスコミに連日取り上げられ、本も沢山出ている。新年会の席でつれあいが介護2という人もいて話になった。

 

 わが民文の仲間はあたたかい。「楽しく面白い」「ユーモアがある、これまでとちがって距離をおいている」と。私の活動に敬意ともいわれ、質問は、「囲碁のこと、外国の認知症の状況」などであった。

 

 これに関する読書量が増え、中途半端だが知識も沢山入ってきた。大学の福祉科を卒業して「介護福祉士」の資格のある人にケアメソッドの一つ、バリデーションとユマニチュードを質問したら、知らなかった。(社会とともに歩む認知症の本、宮沢由美著)に紹介されている。

 

 現在の薬はアルツハイマー型の場合、進行を止めるものだが、リウマチの薬は十年来、非常に進歩し、話題のIPS細胞もある。医学の進歩を願っている。

 

 

 

 

 

  合評を受けて 

 

『「水神」碑再訪』のこと

 

泉 恵子

 

 

 

 この作品は、前回の作品 「『水神』碑の前で」の続きのつもりで書いた。だから、作者としては無意識のうちに、読者も前の作品を読んでいる、という前提が働いてしまった。

 

 ある人から、冒頭の場面から、どこに行こうとしているのか、一緒にいる人物(男性)はどういう関係の人なのか、最後の場面が来るまで分からない、と言われて、そうした配慮を欠いていることに気が付いた。そんなことも含めて大変中途半端な作品になってしまったと思い、合評ではさぞかし批判が多いだろうと思っていた。

 

 前回の作品で、「怒り」の感情が反映されていない(薄い?)という指摘があって、そのことをずっと考えてきた。主人公が作者に近いということもあって、なかなか突き放すことができないということが、今回の作品でも指摘されたが、作者自身、「怒り」の感情をあまり抱いていないことが反映している。それはなぜなのか?という疑問とともに書き出した。

 

 かけがえのない思い出の詰まった故郷であり、しかしながら愛する故郷の抱えている負の遺産に焦点を当てた作品である。その部分については、会社の理不尽な態度に対して「そのままにしては良くないのではないか」という批判の思いはあるのだが、「怒り」という強い感情ではない。「何とかするべきだろう」と咎めるくらいの思いだろうか。

 

 そんな複雑な故郷に対する思いを書いてみようと思ったが、なかなかうまく書けない。舌足らずな作品になってしまったと思っている。

 

 合評では、「前回の作品では、作者の熱い思い、マグマのようなものを感じたが、今回は淡々として記述になっている。その中での熱い思いも感じられる(?)」(いや、熱い思いをどう表現するかが問題?という趣旨だったか) 「文章が抑えられている。小説として成功しているのでは?」といった好意的なご意見もあってありがたかった。批判的な意見は遠慮されたということかもしれないが……。合評は作者だけでは見えない面を引き出し、教えてもらえると改めてその意義を感じた次第。

 

 また、「負の遺産」の追求はこれからの課題だ。今回その点での描写は弱いが、自分の中で整理をして、広く目配りして書いてほしい(?)(疑問符は、発言をきちんと把握できなかったかもしれないという思い)という意見もありがたく、私自身も同感だが、果たしてどこまで書けるだろうか。

 

 今回「そこまで故郷にこだわる気持ちは何なのか?」という疑問が多く出された。作者自身の課題でもある。

 

 ずっと気になっていた強制連行・強制労働問題。故郷の埋もれた歴史になっている。仕事や子育てに追われていた暫くは忘れていて、気にし出してからも、どうしたらよいのか分からないという時も長かった。が、あるきっかけで踏み込むことになった。

 

 故郷が無くなってしまったという現実もあるかも知れない。自身が、級友達と離れて、中三の二学期にさっさと札幌に出てきてしまったという後ろめたさもある。しかし年を取るほどに、懐かしい思い出の詰まった所でもある。などなど……。そして、未解決の問題を抱えている。どこまで追求できるかわからないが、これからも追いかけてゆくことになりそうだ。 

 

 

 

 

 

  私の信念とその由来」について

 

               林 清三

 

 

 

『私に信念とその由来』で「その一」に詩を載せた。これは警察官職務執行法の一部改正案反対闘争で、国家公務員法に違反するとして検挙され六日間拘留された時のものだ。この時、私は強いダメージを受け、このダメージにいかに対処したかを詩にした。

 

「その二」で、私は日高種畜牧場の労働組合の分会の執行委員長だったのだが、当局の労働強化などの結果、労働者が作業中に死亡する事件がおきた。その時の葬儀の「弔辞」である。この時、私は社会進歩のために全身全霊を捧げることを誓った。

 

「その三」以降は、その私の学習の方法について書いた。

 

 観念論的な形而上学に陥ることがないようにしなければ、正しい認識は得られないということを強調した。

 

 さらに、日本の仏教者として有名な親鸞について、その青年時代の苦難のたたかいを書いた。

 

 若い人々の正しい学習のために、仏教の様々なことを発表していきたいと思っている。

 

 合評で、私の文については、特に異論とか意見は出なかった。

 

 ただ、最近東本願寺の高僧が「私は死んでも生きかえることができる」という本について、私と同じように否定する意見があった。

 

 

 

 

 

  「『睡蓮』の池の色」をめぐって  

 

  福山 瑛子

 

 

 

 私の作品は一日目の終わり、四時半過ぎに取り上げられた。しかし、その前の昼食の時、私の前に座った松木新さんから、「ワイマントを知っていたとは……」と突然、声がかかり、おどろいた。彼は続けて「他の登場人物はみな偽名なのに、何故、ワイマントをそのまま出したの?」と訊く。私は、ワイマントと書いても、知っている人はいないだろう、と思っていたのだ。松木さんは「ワイマントが書いた『ゾルゲー引き裂かれたスパイ』が発刊当時、話題になり、沢山売れたはず」とも付け加えた。私は松木さんの博学ぶりに恐れ入ってしまった。

 

 作品に対して、主人公雅子をめぐる意見がほとんど聞かれなかったのは残念だった。それに反して、ワイマントを登場させたせいで、私を「恋多き女」と揶揄する声が上がったりした。若い頃は、誰にでもあることではないか、と私は心の中で反発していたのだが。

 

 交流会で薗田さんに「書くのにどれくらいかかったの?」と訊かれ、「三ヶ月」と答えた。もちろん、毎日原稿に向かったわけではなく、正味にすれば、二ヶ月半か? 

 

この作品で苦労したのは、雅子との思い出は書ききれないほど多く、そのせいで、書いては消し、書いては消しし、その選択に迷ったことだ。それで、完成までに思ったより時間がかかった。しかし、最初から構成は決めていた雅子の死を知った日と二日後の彼女からの賀状が届いたところで終わりにしようと。だから、構成上での苦労は少なかった。

 

 私はこの作品に自信がもてなかったのに、松木さんからは、滅多に聞けない「ほめ言葉」をもらったようだが、しかし、今、その中身が定かではないのに気付く。

 

 この作品を書いて、小説が生まれる過程を面白く思った。書き始めは、彼女が作ってくれた「ひな人形」を題名にしていた。しかし、書くうちに、彼女を象徴的に表すには、モネの睡蓮の池の色だ、と気付いて、題名を変更した。また、思い出(実体験)を辿るうちに、忘れ去っていたこと(雅子のT氏との恋やワイマントとの出会い)を改めて思い出して付け加えた。これは、自分でも予期しなかったことだった。最初から虚構の構成を考えて書いていたら、こうはならなかったと思う。小説を書く面白さは、このような予期しなかったことが起こるせいでもあるようだ。

 

 

 

 

 

   『戦後七〇年』を振り返って

 

  田中 恭子

 

 

 

戦後七〇年間、日本は戦争をせず平和であった、という発言を聞いて、私は少し違和感があった。

 

幼いころ住んでいた町にはアメリカ軍の大きな駐屯地があり、恵庭・千歳方面へ演習に行く軍用トラックが頻繁に通学路を往来していたし、小学校入学の年には朝鮮戦争があり、お金持ちになった人と、貧しい人との差が激しくなった。そして高校二年生の時、六〇年安保闘争があった。高校生がデモ行進した、と報道された翌日、高校の校長室に呼び出され、「戦争を知りもしないあなたたちが行動するのはおかしいでしょう。今は静かに学ぶときです」と言われ、「それじゃあ、戦争を知っている先生たちは何故デモに行かないのですか」、と言い、居並ぶ先生たちに苦笑された。樺美智子さんが亡くなり、私の一七歳の誕生日に、同じ一七歳の少年に浅沼稲次郎さんが殺された。その後社会人となってからも、文学運動や婦人運動に関わり、職場では働く者の祭典のメーデーの行進をいつも仕事中で眺めるだけで参加できないなんておかしいと、矛盾解決を手探りする仲間づくりにも力を注いでいた。

 

つまり、正式な戦争というのもおかしいけれど、海外で戦う戦争が起こされはしなかったけれど、何事もなく平和であったわけでは決してない、常に人々の努力と運動と連帯があり、かろうじて戦争をしない状態が保たれてきたのだと思っている。

 

 では私自身は憲法を守らせ、平和を守るための真の努力をしてきたのかと振り返ったとき、何か心もとない浮ついたものを感じてしまった。川瀬夫妻について書いた文章の中にある『字面を読んだだけの反戦の言葉や、口元を緩めただけの愛想笑いや見せかけの優しさ』で過ごした日々はなかったろうか。私の戦後七〇年のあちこちにそんな日々があったことに気が付いた。それが、川瀬普実子さんのことを書いておきたいという衝動になった。

 

 

 

 合評の場では、皆さん好意的に読んでくださったようで厳しい指摘はされなかったように感じた。書いた本人としては、書いた内容よりも、これは創作なのか・エッセイなのか? と、問われる気がして、答えようがないなあ、と開き直っていた。原稿を提出した折に、松木支部長は即答で「創作に入れたから」と言ってくれたので、そうか、と納得したつもりであったが、本となった作品を読み直してみると、人名も場所もその他すべてが実名で書かれているのが気になった。そして、描いたつもりの川瀬普実子さん像は、私の想像の範囲を出ていない事にも気が付いた。創作でもエッセイでもない代物ではないのか。

 

 川瀬普実子さんとのあの一度だけの出会いの時、叱られてムッとした私の未熟さが悔やまれる。もう少し自分が謙虚であったなら、はるばる札幌から来てやった、抗議活動に参加してやったという上から目線の傲慢さがなかったとしたら、叱られた後に「ほんとに大雑把な人間ですみません」と謝り、食材の調達も難しい中でどんな工夫をして日々の食事を用意しているのか、何十年という月日を暮してきたのか聞くことができたかもしれない。会話を続けることができていたら、川瀬普実子さんと同時代を生きる人間として女性として実りある交流ができたのではないだろうか。

 

 戦争法反対の署名行動に参加したとき、「私は賛成ですから」とその家の男性に一言で断られ署名してもらえなかったことがある。時間がないとかそういう人もいるさ、というあきらめではなく「何故そう思われるのですか」と謙虚な姿勢で相手の意見を聞いてみなければいけなかったと思っている。生きてきた道筋の違い・思想の違い・宗教の違い(信仰を持つか持たないかも含めて)それらすべてをお互いに尊重し理解を深めたうえでこそ連帯は強固になるのではないか。川瀬普実子さんを思い考えたことで、私は少し地に足を付けた歩みを進めることができるのかもしれない。

 

 

 

 

 

     改行で文が途切れる

                              北野 あかり

 

 

 

私の作品「母の七回忌」について、合宿で指摘されたのは、「改行で文が途切れる」ということでした。

 

改めて読み直してみると、全てではありませんが、「。」のところで殆ど改行しており。書き出しなどは、二、三行で改行しているので、まるで箇条書きのような文でした。そのことにについて「改行で文が途切れる」と、単的な言葉で、鋭い、しかし、適切なアドバイスをして下さったことに心から感謝しています。

 

ところが、合宿の時には、小説を書けない事へのこだわりがあって、指摘されたことについて、流してしまい、余り深く考えもしていませんでした。

 

それが、報告文の提出を促され、再度「奔流」を見直したところ、赤ペンでマークして、コメントまで記載してあり、改めて重要な指摘だったと気付きました。

 

そこで、他の方の作品や、新聞記事も見直してみると、

 

改行しているのは、会話の¬ 」のあとや、場面が展開する時などであり、必ずしも「。」で改行はされてはおりませんでした。

 

以前、私の作品について「、」が多い、「、」「、」「。」くらいがいいのではないか。改行については、「。」や会話のあと。と、アドバイスされたように思ってきましたが、“必ず”ではないことが解りました。

 

今回、合宿を機会に、基礎的なことに気付かせて頂いたことや、小説の書き方など、次の作品に繋がるアドバイスをして下さる、素晴らしい仲間の方々にお会いできて、とても元気を頂きました。

 

 

 

 

 

       時代と共に

 

              石川 弘明

 

 

 

大阪で三十五年間暮らしてきた。関西弁に慣れることができず、最後まで東京の出身の

 

人間かと疑われた。露悪趣味とも言える関西流の人との付き合い方には悩まされた。今では,TV番組の「ケンミンショー」の「大阪の府民性の暴露」を面白がっているが、一緒に暮らしていると腹立たしいやら呆れるやらであった。「ガサツさ」も上手に表現してやると、バイタリテイと言えるのか。

 

 言葉の乱れはひどいもので、若者間でやり取りしている会話が理解できなくなってきている身としては、もっとゆっくり話そうよ、歩くのも人生も急ぎすぎるなよと言いたい。

 

ゲームでは簡単にリセットできるだろうが、もっとよく見て、よく考えようよ、と言いたいのである。 

 

 昨年七月二九日「海街DIARY」を観た。屋内でのカメラアングルが座っている人の目線であり、会話が緩やかに流れる。それは六十年前の小津安次郎監督作品「東京物語」「晩春」の雰囲気そっくりである。この作品では登場人物は向きあっているが、観客に対して並ぶよう配置されると小津作品にますます似てくることだろう。「三丁目の夕陽」「寅さんシリーズ」で味わうノスタルジーと同質のものであるらしい。とにかく久しぶりに映画を楽しんだ。そこから己の創作にまで考えを及ばすきっかけとなった。

 

 その時期は掲載予定作品の短縮に苦労している最中だった。

 

 

 

「奔流二十五号」を送付した諸氏に対して当てた短文は次の通りである。

 

「八十歳ともなると生きていること自体が幻想に近くなってきたようです。

 

 制限枚数六十枚でしたので、カットするのが大変でした。

 

 村会議員選挙に立候補した老夫婦の不安とか,食中毒疑惑におののく調理人とか、妊娠を怖れる娘とか、生活苦と年金不安とか、カットすべきエピソードの選択を間違えたのかもしれません。

 

 ご笑読を賜りたい。」

 

 

 

 わめき、おののいてみせるのが、恐怖とか不安の表現であると考えている人にとっては、この作品の流れは不満であろう。何かと言うと、騒ぎ、踊り、歌いまくるのが現代人であり、生きている証拠と考えている向きが多いのだが、それは間違いであり、走るばかりでは疲れてしまうだろう。

 

 創作に激しさばかりを求めて、激情、激昂、

 

激愛、主張に走るのは誤りだと思う。

 

 近年はそればかりであるのが、むしろ寂しく感じています。 二〇一六・一・1

 

 

 

 

 

     「不法妊娠」の合評を終えて

 

             室崎 和佳子

 

 

 

 日本のテレビ界は八月に入ると決まって戦争にまつわる番組を流し始める。

 

 私の見たいドキュメント番組は夜中の放映だったので、録画して翌日見ることにした。

 

 見始めてすぐ、頭を後ろからガ~ンと殴られたような鋭い痛みを感じた。

 

 見終わった瞬間、どうしてもこのことを書かなければならない、今書かなければ、と切羽詰まった気持ちになった。

 

 戦争に負けた日本の女たちはレイプされたばかりか、自分の足で引揚船から降りて故郷の土を踏むことも許されなかった。さらに、孕まされた子を国家の手で抹殺され、何もなかったこととして自身の経歴を墨で塗りつぶさなければならなかった。

 

 今まで手をつけていた原稿はやめて、これを書こう。原稿締め切りまであと二週間しかなかったが、即断した。

 

 女であるがゆえに孕まされ、自分の体内で生命を育てざるをえなかった。引揚船の甲板から故郷日本の灯火が見えてきた時の恐怖と困惑と怒りと哀しみと……。

 

 待っていたものは、有無を言わせない命の抹殺行為。自らの手を汚したのは医療関係者だったが、全ての責任は日本国国家という名の殺人者であった。 

 

 戦争というものは、向き合っている敵や戦闘機の真下に見える敵国の住宅や住民を殺すだけではない。自国の民の尊厳と幸せをもことごとく奪いつくす非道極まりないものである。戦争を起こす者は理由なく人非人である。

 

 人間が戦争を起こすのではない。人非人が戦争を起こすのである。

 

 テレビ画面いっぱいに映し出された、ひたと見つめあう水子供養の母子像。慈愛に満ちた母と安心しきって抱かれている赤子。   その姿の気高さよ、永遠なれ。

 

 

 

 

 

    寝ても覚めても

 

細野 ひとふみ

 

 

 

『奔流第25号』の合評合宿、お疲れ様でした。寝ても覚めても、考え、耳を傾け、語り通した二日間でした。製本された作品が手元に届いて、『奔流』『民主文学』『しんぶん赤旗』を代わる代わる読む正月になりました。

 

今年は正念場です。文学を志す私たちは、「いま書かなければ」の思いで作品を提出されたのだと思います。だからこそ、「何が足りなくて、何が余分だったのか」「そもそも主題がどうなのか」「物事の急所が描ききれたか」が話題になりました。自戒を込めて、書くしかないみたいですね。

 

合宿中、浅尾作品「支部の人々」が何度か話題になって、部屋でも松木さんと意見交換しました。(シナリオ再現)

 

細野「『支部の人々』どうでした?」

 

松木「面白いんでしょ」

 

細野「何だかごちゃごちゃして、それがまあ現実なんですけどね」

 

松木「向こうから年賀状をくれて、僕(浅尾)が書きたかったことと『多喜二と選挙』は同じです、びっくりしました、って書いてあったさ」

 

細野「たぶん浅尾さんは地方の『支部』が最前線だと言ったのでしょうね」

 

松木「健全な感覚だと思うよ。で、そこにはいろんな条件の人がいて、ぐちゃぐちゃしている。だから『人々』なんだよ」

 

二〇一六年の年頭に「支部の人々」が出て、いよいよ文学と、文学的思考が求められていると感じます。過去十年余の苦闘を踏まえ、為政者の欺瞞と闘い、現在進行中の生活苦や貧困とも闘い、職場や地域で世代の壁を乗り越え、病気や別離と向き合い、全てがここ=文学につながると思うからです。寝ても覚めても考えて、耳を傾け、言葉を紡ぎ出す一年にしましょう。

 

 

 

 

 

       いきなりの「晩年のスタイル」                

 

              馬場 雅史

 

 

 

丁寧に読んでいただけること、そして真摯に批評してくださること。それが、いかに人を激励するものなのかということを知りました。それが合宿に参加した成果の一つです。

 

 ぼくの作品についての批評は、三点あったと思います。

 

第一は、「これが小説かな?」「小説としてこれでいいのか?」という感想の周辺にある課題です。「小説とは何か」という大きな問題は、これから小説を読み、書きながら考えていきます。

 

ぼくは写真を見るのが好きです。写真は、世界のある場面を切り取り、ある一瞬を、光学的に処理し、視覚的に固定したものです。スナップ写真もあれば、報道写真もある。もちろん芸術性を目的とした写真もあります。写されたものは、どれもある種のリアル、世界の断片です。しかし、そのリアルを超えた芸術性や、真実がぼくをしばしばとらえます。人間的な動機、鍛練された技術がそれを支えています。

 

ましてやぼくが使おうとしているのは、ことばです。音・文字・単語・文・文章のそれぞれのレベルで、ことばは世界を分節します。人間は世界を理解し、世界に働きかけ、変革するために、ことばを生み出し、磨きあげてきました。そのことばの力に依拠して、世界を構成しなおし、あらたな世界を生み出す。そこに文学のたいせつな意味があると考えてきました。そういう視点から、小説ということを実践したいと思います。

 

第二は、「予定調和的だ」「結論を作者が与えるべきではない」という感想にかかわるものです。これは、ぼく自身の自分の作品への感想でもあります。にもかかわらず、なぜこういう作品になったのか。それは、それでいいとぼくが思っていたからです。子どもたちは、どこかの場面で、どこかの瞬間、教師を超えていく。そのことが書ければいいと思っていたのです。それが、真実だからです。

 

作品の最後の部分を、青い紙飛行機が飛んでいくのが見えたような気がした、ということで閉じました。ここを書きながら、ぼくの心の中には宮本百合子の「伸子」の最後のシーンがありました。戻ってきた十姉妹を見て、佃が「ああ、ああ、鳥でさえ帰ってくるのに……君は……君は……」という。それに対して、伸子は「苦々しい心が湧き、伸子は目を逸らした」というところです。

 

合宿から帰った日、どうしても「伸子」や伸子のその後を描いた作品を読みたくなりました。それは、泉脩先生が議論の中で宮本百合子について言及されたことにも強く触発されてのことですが。さっそく全集を購入し、ここ何日か、読み続けています。読みながら、あらためて「予定調和」を超える視点について何かを得たいと考えています。宮本百合子を読もうと動機づけられたこと、これが二つ目の成果です。

 

第三は、何を書くかということにかかわる問題です。これはぼくの作品だけでなく、すべての作品への批評の視点として通底していたと感じます。

 

折に触れてぼくはサイードの著作を読んできました。サイードの最後の作品は「晩年のスタイル」です。サイードは言います。人間はその晩年において、人格的成熟とか完成の域に達し、それにふさわしい円熟した芸術的達成を遂げるのか?その答えは断じて「否」だと。サイードはアドルノ、ベートーベン、ジュネなどを参照しつつ、そういう世俗的な理解を覆します。そして、晩年のスタイル(レイト・スタイル)とは、抵抗のスタイルであり、時代とのズレを意識しつつ、時代に抵抗し続けること、円満な和解と完成に達成に逆らい続けることだと語ります。円熟とは程遠い、場合によっては理解しにくい、狂気ともいえる、しかし、ラディカル(根本的)で本質的な領域へと多くの芸術家は踏み込んでいきます。

 

比較的若いというものの、ぼくもレイト・スタイルの域にあります。しかし、小説という世界ではぼくは何の経過も蓄積もない。いきなりのレイト・スタイルなのです。今回、ぼくは作品で、何か円熟した教育者像を書こうとしていたのではないか。自分の作品について考えさせられました。

 

『奔流』誌上のいくつかの作品と合評を通して、「晩年のスタイル」ということを具体的に意識しました。これが今回の合宿の三つ目の成果です。そして、ぼくにも書かなければならないことがあると強く感じました。あれこれではなく言語、民族、歴史、革命。そして誰かが(そのなかにぼくもいる)書かなければ、世界の記憶から永遠に消去されるかもしれない尊い人々の生。

 

「書かずに死ねるか」と「晩年のスタイル」にあるぼくは思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

  207号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   

  後藤 守彦

     スウェーデンミステリあれこれ

 

 

   泉   脩      

     心に残る大衆小説⑩(完)

 

         渡辺淳一「阿寒に果つ」

 

                

 

   大橋 あゆむ

       哀しき「オノマトペ」

 

            

 

 

 

 

 

  

 

   札幌民主文学通信  二〇一六年月一日 206号 

 

     12例会合評報告

 

  河野一郎

  「青いチマ・チョゴリ」について

                   後藤 守彦

 

  報告を担当して批評、そして合評としての批評がどうあるべきか、考えさせられました。この作品が載った一二月号の座談会「民主義文学の五〇年と明日への展望」でも批評について論じられていました。率直に指摘することが、作者のこれからの創作意欲を一層駆り立てるものにならなければならない、と思います。作者と批評者が同じ支部内にいて、意見を交わしながら作品の評価作業をすすめていくことができればいいのですが。歴史認識について言及せざるをえない、このような作品については作者と対面して議論したい、と強く思いました。

 

 「残念だ」という表現で、作者の朝鮮認識の不十分さを批判し、それが「重厚さが欲しかった」

 

「もう少し彫り込んでほしかった」との選評の原因だ、とレポートしました。選者の誰一人、作者の朝鮮認識に言及していない、との指摘があり、レジュメではふれなかったが同感だ、と言いましたが、黙っていた自分の中に権威主義が潜んでいたことを認めざるをえません。

 

 「見るべきものをきちんと見ている」との選者評は納得できない、などの厳しい意見もあり、「よかった」との声が多かったわけではありませんが、差別的言辞を投げつけたことを後悔し続けた修、「気が弱いがやさしい」少年の心情は伝わってきたと思います。春枝をもう少しクローズアップさせるべきだ、との声もありました。そのように描くことが、小説を盛り上げる要素である葛藤を生み出すことにつながったかもしれません。

 

 書くことは自分を曝すことです。そのことに恐れを抱きつつ、深く考え文を練り書き続けるしかない、と改めて思いました。

 

   206号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤 守彦

        双子文学の世界 

  

  泉   脩

     クラスのありよう      

 

     心に残る大衆小説⑨  

        横山秀夫『クライマーズ・ハイ』

 

  松木 新

     ラディカルな文学

 

  大橋 あゆむ

     エッセイ   偶然って、すごい 

 

  木村 玲子

     中国黄石市に唐燦さんを訪ねて 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信の最新号と前号を掲載しています。

なお、投稿文につきましては、各号の末尾に筆者名・タイトル名のみを 記しています。

投稿文にはページ左、タイトル下のナビゲーション(筆者名欄)からお入りください。