226号

 

 

  解説の解説を書く

 

後藤守彦

 

 

 

解説の解説を書くのはしつこいことかもしれないが、躊躇せず書くことにした。対象としたのは、『新訳 チェーホフ短篇集』(集英社、二〇一〇年)で、解説者は新訳に挑戦した、ロシア文学を専門とする沼野充義東大教授。「女たち」「子供たち」「死について」「愛について」と題する四つの章に、一三の短篇を振り分け、作品毎に解説を書いている。

 

読もうとしたのには二つの理由があった。一つは、七月例会での、松木さんの提起による短篇小説論議に触発されたからである。沼野も、短篇は「登場人物の人生の一局面や一つのエピソードを中心に鮮やかに造形される」ものと定義している。もう一つは、現在小説の翻訳中なので、参考になるものを求めたからである。

 

当然ながら、解説では、個々の作品を丁寧に読み解き、豊かなチェーホフ論を披歴しているのだが、関連してというか、脱線してというか、ともかく、そこで沼野が展開している、ロシアに焦点をあてた人間論、文学論、文化論、言語論、歴史論、これが実に興味深い。それに倣って、私も沼野の解説に関連して語っていきたい。

 

「中二階のある家」には、語り手である画家と彼が愛したミシュス、そして彼女の姉リーダが登場する。若く美しいリーダは良家の娘でありながら教師の給料で暮らし、貧農を救済するため運動している女性だった。一九世紀半ばごろから、リーダのような女性の社会運動家・革命家が出現したが、その多くが貴族階級出身だった。その一人として皇帝アレクサンドル二世暗殺の企てに加わったソフィア・ペロフスカヤが取り上げられている。詳述されていないので付言したい。一八八一年、皇帝の暗殺は成功するが、彼女は逮捕され、二七歳で絞首刑となる。クロポトキンは『一革命家の思い出』で「ペロフスカヤは心の底からの「人民主義者」であり、同時に本当の鋼鉄の革命家であり闘士であった」と熱く語っている。クロポトキンが紹介している、彼女の言葉が胸を打つ。「私たちは大きな仕事を始めたんです。おそらく、私たちとその次の世代とはこの仕事のために倒れるでしょうが、それでもやりとげなくてはならないでしょう」。沼野が言及していない、一八二五年に自由を求め蜂起した、デカブリストと言われる青年将校たちの妻も忘れてはならないだろう。ネクラーソフの長詩「ロシアの女たち」は、彼女たちの気高さ、健気さを感動的に歌い上げている。流刑となった夫を慕ってシベリアに向かったのは、極寒の地で約三〇年間暮らし、老婆となって都に戻った公爵夫人ヴォルコーンスカヤなど九人だった。

 

沼野は、辻橇の御者の内面を掘り下げた名作のタイトルを変えた。ずっと使われてきた「ふさぎ虫」から「せつない」へ。勿論、そのほうが原題に近い、と判断したからである。原題はロシア語で「トスカ」といい、憂鬱、煩悶、不安が渾然とした精神状態を指すのだが、訳するのがとても難しい単語と言われている。沼野は、ロシア語の「トスカ」のように、「各民族、各言語、それぞれ固有の概念や感情を表す語彙がある」と述べ、その一例として朝鮮語の「恨(ハン)」をあげている。愛用している小学館版『朝鮮語辞典』は、ただ「恨み」としているだけで実に素っ気ない。「恨」についての説明した文献にもあたったが、わかったと自信を持って言えない。むしろ、安易にわかった気になってしまうのは危ういことだろう。わかろうと努めること、そこに意味があるのではないか。今、朴烈と金子文子の愛と革命の生涯をテーマとした、キムビョラの『熱愛』を翻訳中だが、語彙のみならず文章でも直訳しただけではどうしても理解できないところがあり、市内在住の韓国出身者に助けて貰っている。

 

ところで、チェーホフは「ぼくはやっぱりあと七年だけしか読まれないだろう」と予言したのだが、チェーホフは死後一〇〇以上経った今も、全世界で読まれている。一九二六年の二月二六日、朴烈とともに大逆罪で訴えられた金子文子が大審院の法廷に入った。その際、彼女が携えていたのが、チェーホフの短篇集だった。前掲の『熱愛』には、文子が獄中でチェーホフの短篇二作を読む姿が織り込まれており、その一つ「賭け」については、あらすじまでかなり詳しく叙述されている。銀行家との賭けに敗れ、一五年間監禁された、若い法学者の、「何もかもが、かげろうのようにはかなく、空しく、かりそめであり、偽りに満ちているのです」から始まる言葉に接した文子が涙を流す。このシーンは作者の創作だろうが。

 

最後に、チェーホフの死について一言。結核持ちのチェーホフは四四歳で亡くなった。沼野は「その小説や戯曲がすべて死の縁で書かれたというのは、なんとも壮絶なことではないか」と述懐している。夭折した人びとの足跡を知る度に、彼らよりはるかに多く時間を与えられた自分は、いったい何を刻んできたのだろうか、と情けなくなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

225号

 

 

 北の国から来た猫第七章

 

後藤守彦

 

 

 

 先ず、朗報をお伝えしよう。といっても全く個人的なことだから、無視されてもかまわない。我が家では私にしか抱かれない飼い猫ミーは、月一度ほどやってくる孫が近づいたら、今まで「シャー」と威嚇し続けていた。しかし、五年半かかったけれども、ついに友人関係が実現した。私がミーと猫じゃらしで遊んでいたら、孫がやりたいというので、やらせてみた。驚いたことに、何と猫が嫌がらず、まるで孫と遊んでやっているかのように、戯れたのであった。とはいえ、猫アレルギーは解消されておらず、孫の目が赤くなることが依然としてある。だから、孫が遊びに来るとなったら、猫の毛を少しでも除去しようと掃除と換気を徹底して行うことになる。

 

 悲しい知らせもあった。我が飼い猫と同時期に、同じ富良野の農家から貰われてきた、知人の猫が最近亡くなった。猫の年齢では一三、人間に換算すると六八。猫の平均寿命の一二歳をこえているので、早死にではないのだが、抱けば抱くほど長生きする、との教えに従って、我が飼い猫を一層可愛がらなければならない、と改めて思っている。

 

 さて、毎年一回、飼い猫の動静とネコ本を紹介してきたが、ネコ本の発行量はすさまじく、在庫一掃どころか、新刊本についても悔しいことにほんの一部にしかふれることができない。

 

 昨年末、猫が詠まれた、約二四〇〇の歌や句と猫に関する言葉を集めた『俳句・短歌・川柳と共に味わう猫の国語辞典』(三省堂、二〇一六年)が出た。この辞典は次のように表記されている。

 

 

 

あまえねこ【甘え猫】そっと人の心模様に添って、猫は甘えの達人。

 

夕闇の猫がからだをすりよせる 種田山頭火

 

猫のさみしうて鳴いてからだすりよせる 種田山頭火

 

 

 

小林一茶や正岡子規の句が多く採用されているが、例示したように種田山頭火の句がいい。「どうしようもない私が歩いている」と認識しながら、放浪の旅を続けた山頭火だから当然だが、捨て猫、野良猫の項にも登場する。「こんなに晴れた日の猫が捨てられて鳴く」「山里にのぼりきて捨猫二匹」「捨てられて仔猫が白いの黒いの」「野良猫が影のごと眠りえぬ我に」など。山頭火からの句からは、深い哀しみがにじみ出てくる。

 

今年早々読んだのが、夏川草介『本を守ろうとする猫の話』小学館、二〇一七年)である。帯封に「二一世紀版『銀河鉄道の夜』」とあった。主人公は、古書店を経営する祖父と暮らす、ひきこもりがちな高校生の少年。本の世界に逃避する少年に、祖父は「お前はただの物知りになりたいのか」と静かに問う。そして「本には力がある。けれどもそれは、あくまで本の力であって、お前の力ではない」「どれほど多くの知識を詰め込んでも、お前が自分の頭で考え、自分の足で歩かなければ、すべては空虚な借り物でしかない」と語りかける。祖父が亡くなった後に、人間の言葉を喋るトラ猫が出現し、本を守る旅に少年を連れ出した。旅を終え、「〈人を思う心〉、それを教えてくれる力が、本の力だ」と確信した少年は足を一歩踏み出していく。本好きの私を喜ばせてくれたファンタジーである。

 

「小さな町に奇跡を起こした2匹の物語」とサブタイトルがついた『図書館ねこベイカー&テイラー』(早川書房、二〇一六年)は、図書館司書のジャン・ラウチが書いたエッセイ。子どものころから活字中毒といっていいほど本好きだったジャンが、心から愛したもう一つが動物である。「裏庭で本に読みふけっているわたしのかたわらを猫や犬がうろうろしていて、手を伸ばして毛の生えた頭をなでながら、読書がもたらす世界に浸る」のがジャンの至福の時だった。ジャンが勤めていた、アメリカ西部ネヴァダ州ミンデンの小さな図書館に、可愛い折れた耳をもつ二匹のスコチッシュフォールドの猫がやってくる。図書館の利用者からも職員からも愛された二匹が図書館を変え、ジャンを変えていく。ジャンは思う、「家でも猫がいて、仕事場でも猫たちがいた。どちらの場所でも本に囲まれていた。わたしの考えるまさに天国だ。人生でひさしぶりに悩みがなくなった」。羨ましい限りである。

 

猫の話題から外れるが、本と図書館を愛するジャンが憤慨したことを二つ取り上げる。本を傷めるもの、例えばアイスキャンディーの棒やバナナの皮がしおりとして使われたこと、そして、ホロコースト否定者が「ホロコーストは絶対に起きなかった」と表紙に書いてあるパンフレットを棚に並んでいる沢山の本に勝手に挟んでいたこと。

 

 『北海道新聞』の書評欄に、「画家で絵本作家の著者が子猫から育てた白いオス猫・鉄三の奇妙で笑える行動の数々を、特徴的な絵で紹介している」とあったので、早速購入したのが、ミロコマチコ『ねこまみれ帳』(ブロンズ新社、二〇一六年)である。前掲『図書館ねこベイカー&テイラー』は図書館で借りたが、他はすべて買ったものである。だから、きりがないとカミさんに叱られてしまった。ミロコマチコを全く知らなかったが、日本絵本大賞など数々の賞を受けている実力者らしい。愛猫には、四六時中、ミロコマチコの視線が注がれ、コメントが添えられた絵になっていく。「朝ごはん欲しくて起こしに来るよ。目を開けほしいからって、まぶたをなめるから、めちゃくちゃ痛いんだよ」から始まり「下くちびるに爪をひっかけて、引っぱって起こす技も持ってるよ」と続く。

 

 今回はここまでにしておこう。在庫を一掃したいのだが、また新入荷ネコ本を捌くだけで終わったしまった次第。

 

 

 

 

 

224号

 

 

ただ今翻訳に挑戦中

 

後藤守彦

 

 

 

 吉井森一「変容する韓国文学」(『民主文学』二〇〇九年九月号)で、金子文子を描いたキム・ビョラの小説『熱愛』を知り、拙著『只、意志あらば植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)に、はしがきの冒頭部分を引用した。邦訳はされていなかったので、拙訳で。

 

「アナキストであると同時に虚無主義者、テロリストでありながら詩人であり、一人の女を限りなく愛したが、結局失わざるをえなかった男がいた。虐待された少女時代の心の傷のため、苦しみと絶望に身悶えした末、一人の男の中に命と愛が一つになっていることを発見したが、最も輝くその瞬間に、夜明けの露のように地上から消えてしまった女がいた」

 

男は朴烈、女は金子文子のことだが、読みなおしてみると、気になる点がある。金子文子は獄中で亡くなったのだから、「失わざるをえなかった」ではなく、「喪わざるをえなかった」とすべきだった、これが一つ。それよりも、「一人の男の中に命と愛が一つになっていることを発見した」は逐語訳すぎて、意味不明ではないだろうか。作品全体をしっかりと読まなければ、正しい訳に近づけないはず、そこで三二〇ページの長編小説で私の朝鮮語の能力をこえているかもしれないが、一行一行を丁寧に訳し綴っていこう、と決めた。

 

しかし、作業は何度も中断して、遅遅として進まなかった。そんな時に意気阻喪させられるような文に出合った。それが大逆事件で国家権力に命を奪われた幸徳秋水の翻訳に関する小文である。名文家として知られる秋水は英語をマスターしており、『共産党宣言』やクロポトキンの『麺麭の略取』を初めて邦訳している。「兆民先生は曽て、ユーゴーなどの警句を日本語に訳出して其文勢筆致を其儘に顕そうとすれば、ユーゴー以上の筆力がなくてはならぬ、総て完全な翻訳は、原著者以上に文章の力がなくては出来ぬと語られた」(「翻訳の苦心」『文章世界』三巻四号、一九〇八年)。秋水の師である中江兆民はルソーの社会契約論を『民約訳解』のタイトルでフランス語から邦訳している。秋水は、「古来文章の大家は皆な実に一字の為めに苦心した、一字の適否が文章全体の意義勢力を軽重すること甚だ大なる故である」とも述べている。さらに、ドイツ文学者の池内紀は「文学作品の翻訳そのものが不可能である。原作をそっくり、匂いや、ぬくみや、色つやまで失わず他の言葉に移すなどありえない」(「ひとり二役」『翻訳家の仕事』岩波新書、二〇〇六年)と語る。ここまでいわれたら、翻訳どころか、文章を書くことすら躊躇してしまう。

 

最近、書評集『雑な読書』(シンコーミュージック・エンタテイメント、二〇一七年)を上梓した英米文学の翻訳家古屋美登里は、「翻訳は日本語の砦」と断言しており、昔、日本の国語をフランス語にしよう、といった志賀直哉の作品は一切読まない、と宣言している。古屋は村上春樹の「翻訳というのは極端に濃密な読書だという言い方もできる」という考えに共感したと述べているが、これは古屋自身の言葉、「翻訳家は、作品をいちばん深く理解しなければならない読者である」に通ずるといえよう。村上は小説の執筆と海外文学の翻訳に交互に取り組んでいる。ハードボイルドの巨匠といわれるレイモンド・チャンドラーの『高い窓』(早川書房、二〇一四年)の訳者あとがきで、村上は「レイモンド・チャンドラーの作品を翻訳していて何より嬉しいことは、ところどころではっと息を呑むような素敵な文章に出会えることだ。もちろんそういう部分は読むだけでも十分楽しいわけだけれど、それを自分の手で、自分の言葉で日本語に移し替えられるというのは、「楽しい」という表現ではとても追いつけない格別の喜びとなる」と語っている。奥書を見ると、村上の肩書は「小説家・英米文学翻訳家」となっている。また、二〇〇一年に札幌で出版社柏艪舎を設立したプロの翻訳家山本光伸は、文芸作品の翻訳についての持論「小説を書くように訳せ」を繰り返している(『誤訳も芸のうち』柏艪舎、二〇一三年)。

 

一方、次のような理解もある。「そもそも若いころから私は滅法翻訳の仕事が好きだった。それは自分をさらけ出さないで、したがってある種の責任をとらないで、しかも文章を作ってゆく楽しみを味わえたからではないか」(須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水社、一九九〇年)。この一文に接し、なるほど、と励まされたような気持になった。須賀はイタリア文学の邦訳、日本文学のイタリア語訳、この両面での翻訳で活躍しただけでなく、優れたエッセー風の小説を書いている女性で、かつて論じたことがある(「『生きる哲学』から始まって」『札幌民主文学通信』二〇一四年一〇月号)。

 

このように迷いながら翻訳作業を重ねてきたが、やっとゴールが見えるところまで辿り着いた。そう遠くない時期に形にしたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 223号

 

 

音楽ミステリの愉楽(その二)

 

後藤守彦

 

 

 

 前回(二〇一七年二月号)は海外の音楽ミステリを紹介したが、今回は国内編となる。初めに、最近久しぶりに引き込まれるように一気に読んだ小説について語りたい。それが、書評に触発されて購入した『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、二〇一六年)で、今年一月の直木賞に続いて、四月の本屋大賞とダブル受賞になった。作者は多様なジャンルの作品を書いている恩田陸。彼女は、『ユージニア』(角川書店、二〇〇五年)で日本推理作家協会賞を受賞しているので、ミステリ作家として見ることもできるが、『蜜蜂と遠雷』はその枠を超えた音楽小説といえよう。ミステリのような吸引力はあるが。世界は音楽に満ちているとの作者の思いが伝わってくる、この作品自体も全編音楽であふれており、「音楽は素晴らしい。それは絶対的真実だ」「命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできた」と、音楽賛歌が繰り返される。国際ピアノコンクールが舞台で、エントリーから始まって、第一・第二・第三次予選、本選までを競い合う四人の人物を軸にストーリーは展開するが、数多のピアノ曲の曲想、作曲家像、奏者の所作や内面が細やかに描かれていく。

 

ところで、日本の音楽ミステリには、著名な作曲家の名がタイトルに使われているものが目立つ。中里七里による、ピアニストの岬洋介が事件を解決するシリーズは、『さよならドビュッシー』(宝島社、二〇一〇年)から始まって『おやすみラフマニノフ』(同、二〇一〇年)、『いつまでもショパン』(同、二〇一三年)、『どこかでベートーヴェン』(同、二〇一六年)と続く。どの作品でも、曲想・奏法と奏者の内面を交錯させながら演奏シーンが見事に描写されている。第三作でみてみよう。ショパンコンクールに出場した岬はファイナリスト八人の一人となる。決勝ではピアノ協奏曲の第一番か第二番を弾くのだが、岬は第二番を選ぶ。優勝したポーランド人ヤンは第一番だが、その第一楽章のピアノソロに入るパートは次のように叙述される。「オーケストラが再び第一主題を奏で始める。これがピアノ誘導の合図だ。ヤンはその旋律を受け継ぐ形で独奏に入った。和音を加えた両手オクターブのフォルテシモ。このメロディは十六小節しか続かないが、だからこそ威風堂々と歌わなければならない。惜別の哀しみを背後の弦が優しく包む。それでもヤンの魂は到底鎮まるものではない。指がやり場を探して狂おしく躍る。千々に乱れる心が鍵盤を掻き鳴らす。オーケストラが絡んでくると、ヤンは上下向を繰り返しながら装飾音を加えていく」

 

奥泉光『シューマンの指』(講談社、二〇一〇年)は、精緻な楽曲分析に基づくシューマン論といってよい。そこでは「シューマンの音楽には、闇が全体にねっとりまとわりつくような印象がある。喜びと悲しみが、交わり合い、重なり合うのではなく、喜びがそのまま悲しみであるような音楽。平穏無事の世界に不吉な影が忍び寄るではなく、平穏さそれ自体に、そのまま不吉なものへと反転していく予感が孕まれている」と評されている。確かにミステリだから殺人事件が起こる。女子高生が卒業式の夜に学校内で殺害され、犯人探しが始まるが、未解決のまま時が流れていく。シューマンが指の一部の麻痺によって、ピアニストの道を断念せざるを得なくなった、という史実が事件の背景になっているのだが。

 

江戸川乱歩賞を受賞した森雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』(講談社、一九八五年)と『べートーヴェンな憂鬱症』(同、一九八八年)は、ベートーヴェンと弟子のチェルニーを探偵役とした、一九世紀のウィーンを舞台とするミステリである。歴史ミステリに入れたいところだが、史実をいじくりすぎているとの批判があるとおり、歴史を利用したフィクションというべきだろうか。

 

松本清張も作曲家名をタイトルに使った作品を一つ残している。それが『モーツァルトの伯楽』(文藝春秋、一九九一年)である。伯楽とは、モーツァルトの歌劇「魔笛」を初演した、ウィーンの劇場主で「魔笛」の脚本を書いたシカネーダーをさす。シカネーダーは俳優・歌手でもあり、「魔笛」では鳥刺しパパゲーノ役を演じた。モーツアルトにとってシカネーダーの存在が大きかった、と考えている著述業の「男」が、モーツアルトが埋葬されている墓地などを訪ね、モーツアルトとシカネーダーの関係、そしてモーツアルトの妻コンスタンツェの役割を探ろうとする。男が雇った案内役はウィーン在住の日本人の「女」で、オペラ歌手を目指したものの挫折したのではないか、と「男」は想像する。松本清張らしく丁寧に調べて書いていることがよくわかる作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 222号

 

 

加藤虎之助を知る

 

後藤守彦

 

 

 

最近の嬉しい出来事の話である。道産子だが京都で職に就き、京都出身の女性と結婚し、京都市左京区でずっと暮らしている弟を通して、京都市在住の彫刻家柏木みどりさんが、拙著(『只、意志あらば――植民地朝鮮と連帯した日本人』日本経済評論社、二〇一〇年)を求められた。上梓してから六年も経つのに、ありがたいことである。早速、送ったところ、折り返し、彼女が書いた『あのころひとりの医師がいた』(せせらぎ出版、二〇〇〇年)が届いた。添えられた信書には「なんとしても知ってほしい、と若いころからよんでもらえる作品にと、小説で書いたものです」とあった。「ひとりの医師」とは加藤虎之助のことだが、こうした人がいたことを特に若者に知ってもらいたいとの作者の思いが、心のこもった平易な文章を通して伝わってきた。

 

彼女の弟功がまとめた「加藤虎之助と三島無産者診療所」(『治安維持法と現代』二〇一五年春季号)をもとに、虎之助の足跡を辿ってみることにする。伊豆の下田に生まれた虎之助は、一九二七(昭和二)年、静岡高校から京大医学部に進む。社会科学研究会のもとで読書会のリーダーをつとめ、京大付属病院の看護婦のストライキを指導した。この間、虎之助は何度か検挙されている。卒業後の一九三一(昭和六)年、大阪吹田の三島無産者診療所の初代所長となり、ひとりで外科・内科・小児科を受け持ち、貧しい人たちの治療にあたった。日本無産者医療同盟の中央委員にもなる。約二年召集された後、診療所に復帰した。弾圧が激しくなる中、盲腸炎の悪化を知りながら、往診に出かけた途中で倒れ、病院に運びこまれたものの亡くなってしまう。一九三四(昭和九)年の一月のことである。二九歳の小林多喜二が特高警察によって虐殺されてからほぼ一年後、虎之助は二八歳で未来を絶たれた。若い死は本当に悔しい。読書会に参加していた松田道雄は「まさに聖者だった」(『私の読んだ本』岩波書店、一九七一年)と虎之助を称えているが、それにしても、まだまだ私が知らない高潔な人がいたのだ、としみじみ思う。

 

三島無産者診療所のスタッフとして活動した、柏木姉弟の父茂弥も、こうした高潔な人の一人であった。キリスト教徒の社会主義者だった茂弥は、一九三八(昭和一三)年、日本共産主義者事件で検挙され四年間獄につながれている。

 

前述した松田道雄は小児科医として高く評価されている。娘が出産した後すぐに、子育ての参考にしてほしいと願って、松田の名著『最新育児の百科』(岩波書店、一九八七年)を贈った。それだけではない。松田道雄は医学の領域をこえて活動しており、私は社会思想家として位置付けている。社会主義の文献も原語のドイツ語やロシア語で渉猟している。河出書房版全二四巻の『世界の歴史』シリーズでは、歴史学者にまじって、異色の執筆者として『ロシアの革命』(河出書房新社、一九七〇年)を担当した。文庫本のあとがきでは「引き受けたのは、日本のマルクス主義がロシア製であることと、十月革命が歴史的必然でないことを、いいたかったからだ」と言い切っている。これは、ソ連邦解体の二〇年ほど前のことである。また、「スターリンという異常犯罪者があらわれてレーニンの成功させた革命をねじまげてしま」ったのでなく、既にレーニンの段階で「秘密警察の暴力によって維持されている国家体制」がつくられていた、と指摘している(「なぜ革命を信じたのか」『わが生活わが思想』岩波書店、一九八八年)。

 

だが、革命運動の指針に誤りがあったとしても、特高警察のテロルにさらされるなか、若者が革命のため闘ったことを決して否定はしない。松田はこの稿を次のように結んでいる。「私たちが私たちの青年の日を悔いないのは、不足した情報のなかで知的にあやまった選択をしたとしても、心情としてあやまたなかったことを信じるからである」加藤虎之助たちのような、苦しんでいる人びとのために命をかけた献身を忘れてはならない。

 

 

 

 221号

 

   二人の宗教者が語ったこと

                 後藤守彦

 

  三月五日、偶然同日に、宗教が異なる二人の宗教者の講演を聞く機会を得た。午前は、北広島カトリック教会で松浦悟郎名古屋教区司教が、午後は、北広島九条の会例会で藤田憲昭浄土真宗本願寺派興徳寺住職が多くの人たちに平和を訴えかけた。

 

松浦司教は日本カトリック教会難民移住移動者委員会委員長、ピース9の会の呼びかけ人で、「福音と平和――今、私たちにできること」を演題に選んだ。参会者の中に、教会に併設されている修道院のシスターたちがいた。一昨年、北広島市で初めて行われた戦争法反対の市民集会・パレードに参加した、彼女たちの修道服姿が鮮やかに蘇る。

 

松浦司教は、教皇フランシスコの言葉、「私たちは今、「散発的な世界大戦」に直面しています」(『第五〇回世界平和の日教皇メッセージ』二〇一七年)を引用し、自国(自民族)第一主義、軍備、格差、差別といった負の要因が増大、拡大しており、今世界は危機にあると強調した。そして、今なすべきこととして、教皇フランシスコの呼びかけを提示した。その一つが、「情報の蓄積や好奇心の満足ではなく、むしろ、痛みをもって気づくこと、世界に起こっていることをあえて自分自身の個人的な苦しみとすること、そして、一人ひとりがそれについてなしうることを見付け出すこと」(『回勅「ラウダート・シ」』二〇一五年)である。「なしうることを見付け出すこと」にはアンダーラインが引かれていた。見えない壁に囲まれた中にいる自分・家族・自国の幸福だけを求め、壁の外にある不幸や苦しみを風景としてみる無関心を乗り越えて、行動することである。

 

もう一つは、「積極的な非暴力に基づく生き方を実践」(前掲『第五〇回世界平和の日教皇メッセージ』)することである。『マタイ福音書』にある「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」について、松浦司教は解き明かした。それは、暴力に対する非暴力の、積極的な意志表明であると。三浦綾子も、右の頬を打たれて左の頬を向けることができるのは、「相手の悪意に引きまわされない自由な精神の持ち主」「積極的に生きていく力のある者のみ」と指摘している(『新約聖書入門』光文社、一九七七年)。

 

松浦司教が講演の結びで紹介した本を会場で購入した。その一つの、帯封に「信徒が抱く「なぜ」に答える」とあった『なぜ教会は社会問題にかかわるのか』(カトリック中央協議会、二〇一二年)には、三三の問答が載っている。松浦司教の講演でも言及された問答を二つみてみたい。「秘跡にあずかり、祈ることこそ信者にも求められることであり、信者にできることは「平和」を「祈る」ことではないのですか」という問いへの答えは次のようなものであった。「(前略)飢えてる人、のどの渇いた人など、困っている人への実際の手助けが必要なのです。祈りだけでなく、行動が必要であることは新約聖書を貫く考えです。祈りが伴わない社会的かかわりはもろいものとなり、行動が伴わない祈りは誠意に欠けるものになるでしょう。祈りと行動の両方が必要です」。また、「司教団は憲法九条の大切さを訴えています。それは政治的立場の表明ではないのですか。異なる立場の信徒はどう考えればいいのでしょうか」との問いには、信徒それぞれが九条についてどう考えるかは自由だが、「日本国憲法は、その前文と九条によって、世界にあっても類まれなほど明確に、個人の尊厳(人権)と非暴力によって建設される平和の大切さを訴えています。この思想は、まさに福音そのものといえます」と明言している。

 

念仏者九条の会の会員で北広島市民連合の世話人である藤田住職は、「犠牲と追悼」という演題で、淡々と説くように話した。浄土真宗は鎌倉時代に親鸞が、法然の浄土宗を発展させて開いたものである。戦国時代には、一向一揆を起こし権力者と対決したが、敗北。後継者争いに介入した家康の画策により東本願寺と西本願寺に分裂させられた。そうした歴史を概観したが、多くの時間を割いたのは、アジア・太平洋戦争時の戦争協力のことであった。従軍僧の多くは浄土真宗の僧侶であったし、教団として信徒に戦争協力を促した。戦時教学として「真俗二諦」論があった。「真俗二諦」は明治以降成立したが、諦は真理の意味で、真諦は悟りに関する真理、絶対的真理、俗諦は世間的真理、世俗に合わせる真理を意味する。戦時下、教団は「真俗二諦」を、あの世では阿弥陀仏の下で暮らす、この世では天皇の臣民として戦う、ことだと信徒に教えた。つまり、天皇に帰依することが仏に帰依することであるとされたのであった。しかし、戦後の教団としての戦争協力への反省、戦争責任のとり方は曖昧である、と批判した。そのうえで、人間は楽だから都合のいい方に流れる、大勢に順応していく、そうした人間の弱さを考えなければ、宗教ではない、とも述べた。藤田住職が最後に強調したのは、何事も自分の問題として考えていくことが人間として大切であるということだった。その点は、期せずして松浦司教の語りと一致していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 220号

 

 いつまでも中島みゆき

 

               後藤守彦

 

 

還暦を過ぎても歌姫として活躍している中島みゆきについては、一度書いている(「としをとるのはステキなことです」『札幌民主文学通信』二〇一二年一月号)。中島みゆきの曲との最初の出合いは、大雪青年の家で女子高校生たちがギター伴奏で歌った「世情」であり、学び直しで上京した二〇〇九年に、何とかチケットを入手し念願の夜会コンサートに行けたことなどを語った。

 

昨年、NHKBS放送の「中島みゆき名曲集」を見た。冒頭で、一九七〇年代には「わかれうた」、一九八〇年代には「悪女」、一九九〇年代には「空と君のあいだに」、二〇〇〇年代には「地上の星」で、シングルヒットチャート一位となった、四つの年代で一位を獲得したのは、中島みゆき唯一人である、と彼女のすごさを紹介していた。その番組は、八人の女性アーティストが中島みゆきに寄せる思いを語った後、大切にしている曲を歌うという構成となっていた。歌うシーンは、二〇一五年に東京で行われた「歌縁(うたえにし)中島みゆきRESPECT LIVE2015」というコンサートで撮ったものである。  

 

なかでも三人の歌いぶりが印象的だった。〈流れるな涙〉と目を潤ませながら、芝居しているかのように「化粧」を歌う大竹しのぶ。自身の数多く体験した別れを思い、〈雪 気がつけばいつしか/なぜ こんな夜に降るの/いま あの人の命が/永い別れ 私に告げました〉で始まる「雪」を歌う坂本冬美。〈シュプレヒコールの波〉の中で〈戦うため〉と応援歌として「世情」を歌うクミコ。

 

その「歌縁」コンサートが一月二九日にニトリ文化ホールであると知り、私と同じくファンの妻と娘が期待に胸膨らませて出かけた。大竹しのぶ・坂本冬美・クミコの他に、研ナオコと中村中が舞台に立ったとのこと。二人は帰宅後、大竹しのぶや坂本冬美が歌った時には、感動して涙を流して聴いた、と興奮して話していた。紛い物だから、とうそぶいて行かなかったことを私は少し悔いた。

 

その代わりというわけではないが、昨年行われた、「一会」と題した本人による全国ツアーの映像を見に行った。二月二日のシネマフロンティアでのフィルムコンサートというわけである。料金は通常の映画料金の三倍近い。観客の中には三、四組の夫婦がいたが、終演後その一組の妻が、「とてもよかったけれど、知らない曲が多かったね」と夫に語りかけているのが聞こえた。歌われた全二〇曲の中には、NHKのテレビドラマ『マッサン』の主題歌「麦の唄」もあったが、よく知られている曲は確かに少なかったかもしれない。

 

中島みゆきは優れた歌い手だが、詩人としての彼女を高く評価したいと思う。そこで歌詞にふれながら、コンサートで聴いた幾つかの曲について語ることにする。

 

最も古い曲は、前述した「雪」とともに、一九八一年のアルバム『臨月』に収められている「友情」だった。〈悲しみばかり見えるから/この目をつぶすナイフがほしい〉で始まり、次のフレーズが三回も繰り返される。〈この世見据えて笑うほど/冷たい悟りもまだ持てず/この世望んで走るほど/心の荷物は軽くない/救われない魂は/傷ついた自分のことじゃなく/救われない魂は/傷つけ返そうとしている自分だ〉。他人に傷つけられたことよりも、他人を傷つけたことが多かった、と自分の来し方を思う。

 

アンコールの第一曲「浅い眠り」も古い時期の作品である。〈浅い眠りにさすらいながら/街はほんとは 愛を呼んでいる〉、これが何と五度もリピートされる。この曲を聴くと、私が最も好きな作家の一人で、昨年亡くなった高井有一が書いた『浅い眠りの夜』をいつも思い起こす。主人公が抱いた「確かに孤絶の感覚に違いなかったが、淋しさはなく、却って解き放たれたような感じ」に共感した。

 

沖縄をイメージした「阿檀の木の下で」では、アルバムと違って、バックに爆音が流されていた。阿檀は沖縄・台湾に自生する熱帯性の低木で、葉はパナマ帽などの材料となる。〈遠い昔にこの島は戦軍に負けて貢がれた/だれもだれも知らない日に決まった〉、戦軍には「いくさ」とルビが付されており、沖縄戦とその後の沖縄の苦難が意識されていると思う。「世情」もそうだが、中島みゆきは社会への視点を失ってはいない。

 

最も心に響いたのは「命の別名」だった。別名とは何か。この曲は〈命に付く名前を「心」と呼ぶ/名もなき君にも 名もなき僕にも〉と結ばれる。「命の別名」は、このコンサートでは歌われなかった「永久欠番」につながる。〈人は永久欠番〉と叫ぶ「永久欠番」を作詞した動機を中島みゆきは、「生きてたってことが別に自分じゃなくてもよかったんだと、それじゃあ、はじめからいなくてもよかったんじゃないかというんじゃあ、悲しいことだと思う」と語っている(『月刊カドカワ』一九九一年一一月号)。

 

 いつまでの中島みゆきの世界が続いてほしい、と切に願う。

 

 

 

 

 

 

 219号

   

 

音楽ミステリの愉楽

 

後藤守彦

 

 

 

 芥川龍之介の「ピアノ」から始まるアンソロジー『音楽小説名作選』(集英社文庫、一九七九年)を読んだのは、三五年ほど前のことだった。ついで、鮎川哲也が編集した『戦慄の十三楽章―音楽ミステリ傑作選』(講談社文庫、一九八六年)に出合った。タルティーニが作曲したヴァイオリンソナタがタイトルになっている氷川瓏「悪魔のトリル」をはじめ、一三作中六作がヴァイオリンに関わっている。

 

 最近読んで印象に残った作品もヴァイオリンが絡んでいる。それが、ポール・アダムの『ヴァイオリン職人の探求と推理』(創元推理文庫、二〇一四年)と『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』(同、二〇一四年)である。ポール・アダムはイギリスの作家だが、イタリアを舞台に選んでいる。主人公ジョヴァンニは優れた技術をもつ実直なヴァイオリン職人。自身もヴァイオリンを弾き、友人と弦楽四重奏団を結成している。一緒に事件を解決するのが刑事アントニオ。彼も弦楽四重奏団の一員でチェリストである。謎解きの対象となるのは、第一作では楽器、勿論ヴァイオリンで、一七世紀に作られたストラディヴァリやグァルネリなどの名器が中心となる。名器の音色をジョヴァンニは次のように聴く。「そのパワーは圧倒的で、響きはゆたかで暗く、いま情熱にあふれていたかと思うと、次の瞬間には苦しみにすすり泣き、今度は喜びに声をあげ、人間感情のすべてがこの驚くべき、聞き手を高揚させる音に含まれていた」「聞こえるのは天使の声ではなく、神そのものの声だった」第二作もヴァイオリンが関係するが、直接的には楽譜である。

 

 同じくヴァイオリンが焦点となる作品に、ドイツの精神科医でもあるクリスティアン・ミュラーが書いた『謎のヴァイオリン』(新潮社、一九九九年)がある。名器グァルネリそれもストラディヴァリとならぶグァルネリ・デル・ジェズが主人公である。麻薬犯罪の捜査の過程で暗殺されそうになり、命は助かるものの足が不自由となったベルナルディは刑事を辞め、今はヴァイオリン鑑定家として活躍している。「ヴァイオリンこそ、人間の手になるもののなかで、芸術と技術の両面において絶対的な完成度に到達した魔法の存在である」と、彼は認識している。優秀な刑事であったこととヴァイオリンに関する専門知識の持ち主であることから、乞われて難事件の解決にあたる。

 

前掲『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』と『謎のヴァイオリン』では、ともにパガニーニと彼の愛器である、グァルネリ・デル・ジェズの「カノン」が話題になる。パガニーニは六つのヴァイオリン協奏曲でも知られるように作曲もしたが、何よりも天才的なヴァイオリン奏者であった。彼の生地ジェノバには、パガニーニの愛器が保管されており、ジェノバで行われる国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者には、愛器で披露演奏する名誉が与えられている。私が住む北広島で昨年五月三一日にコンサートを開いた庄司紗矢香は、一九九九年に日本人で初めて、それも史上最年少の一六歳で優勝した。

 

ジュール・グラッセ『悪魔のヴァイオリン』(早川書房、二〇〇六年)は、「数百年を経た身廊のドームの下のひんやりした空気につつまれて、信者たちはヴァイオリンのすすり泣きに聞き入っていた。それは音楽以上のもの、おそいかかる日々の有為転変を束の間忘れさせる力を持つものの愛撫であり、優しい、心のなごむ、ちっぽけな幸せである」で書き出される。美少女の奏者が弾くヴァイオリンはストラディヴァリ、曲は「悪魔のトリル」。彼女をめぐって殺人事件が起こるが、真犯人を探り当てるのがパリ警視庁のメルシエ警視。彼のキャラクターはシムノンの創造したメグレ警視と重なる。

 

ピアノが絡むミステリとしては、探偵役を天才老ピアニストが務める、ロベルト・コトロネーオ『ショパン 炎のバラード』(集英社、二〇一〇年)がある。二〇世紀を生きたピアニストが解く謎は、ショパンが晩年に作曲した「バラード第四番」フィナーレの手稿譜に込められた、ショパンの秘密である。だから、これは音楽ミステリであるとともに歴史ミステリでもあるといえよう。何といっても、著者の、大学で哲学を音楽学院でピアノを専攻という経歴を反映した、音楽への深い理解と精緻な論理展開には圧倒された。

 

クラシック狂の私立探偵を主人公にした『レクイエム』(早川書房、一九八五年)がジェイムズ・エルロイによって書かれている。元警官の私立探偵ブラウンが黒幕の警部を私的に制裁する、まさにハードボイルドである。ブラウンによって殺された警部はブルックナーの愛好者。ブラウンが「生まれて初めて音楽を、心に残る音楽を聴いた」のは二一歳の時で、曲はベートーヴェン交響曲第三番「英雄」だった。彼は一人になった時にはいつでもどこでもクラシックを聴く。それだけではない。現実に曲が流れていなくても、彼には音楽を感じる時がある。ブラウンが愛した女性はジュリアード音楽院に通うことになるチェリスト。このように音楽に溢れたこの作品は「私はなおも大量の音楽を聴く」で結ばれている。

 

なお、音楽家によるミステリ論として青柳いづみこ『ショパンに飽きたら、ミステリー』(国書刊行会、一九九六年)がある。彼女はピアニストだが、「クラシックの演奏家には、ミステリー・ファンが多い」と述べている。いずれにしても良質の音楽ミステリからは音楽が聞こえてくるような気がする。つまり、読むことが聴くことになるような気がするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 218号 

 

テッサ・モーリス=スズキの試み

 

後藤守彦

 

 

 

思いがけず、昨年、テッサ・モーリス=スズキの話を、短時間ではあったが、直接聞くことができ感激した。時は八月二二日、場所は本願寺札幌別院。強制連行された朝鮮人の遺骨を韓国に奉還する運動を推進した殿平善彦が司会を務めたシンポジウム「東アジアの記憶と未来」で、彼女が特別発言者となったのであった。

 

テッサ・モーリス=スズキは、一九五一年にイギリスで生まれ、日本人男性と結婚し、オーストラリアで暮らす、日本と東アジアの近現代史を専攻するオーストリア国立大学教授である。ほぼ重なるテーマを追う私にとっては、彼女の切れ味鋭い論稿には学ぶところが多い。だから、彼女の言葉を使うことも少なくない。一昨年から昨年にかけて五回、北広島九条の会主催の、明治以降の日本の戦争と平和をテーマとする連続学習講演会で、私は多くの方に語りかけることができた。第一回のプロローグでは、レジュメに載せた彼女の言葉、「現在、世界中どこでも、政治的決定の基盤は歴史の理解である。すべての戦争は過去の解釈の差異をめぐって戦われる」(『過去は死なない――メディア・記憶・歴史』岩波書店、二〇〇四年)を読み上げた上で次のように続けた。「ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが負けたことを屈辱の歴史と理解し、第二次世界大戦を起こしました。安倍首相は、民主主義がなく戦争が繰り返された戦前の日本を否定していません。そうした歴史の理解に立って、日本を戦争する国に変えようとしているのです」

 

テッサ・モーリス=スズキは研究室に留まっていない、行動する研究者である。最近北朝鮮にも行き、優れたルポルタージュを書き上げている(『北朝鮮で考えたこと』集英社、二〇一二年)。あとがきには、「長生きして、平壌からの観光客が東京スカイツリーにバスで乗りつけてエレベーターの前に長蛇の列をつくっている光景を、冒険好きな日本のバッグパッカーが新しく友だちになった北朝鮮の若者と金剛山でピクニックをしている光景を、この目で見とどけなくてはならない」とあり、彼女の熱い思いが伝わってくる。

 

北朝鮮訪問以前に、一九五九年から一九八四年まで続いた帰国運動・事業の意味について、テッサ・モーリス=スズキが丹念に追究したことを高く評価したい。日本政府の狙いは治安対策と生活保護費削減であり、北朝鮮政府の意図は労働力確保とプロパガンダであった。だから、この事業・運動は「策略と欺瞞と裏切りの物語」(テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社、二〇〇七年)であった、と彼女は言い切っている。

 

テッサ・モーリス=スズキは全八巻からなる『岩波講座アジア・太平洋戦争』(岩波書店、二〇〇五~二〇〇六年)の編者の一人にもなった。論文も、第一巻に「暴力を語ることは可能か」、第七巻に「帝国の忘却」を載せている。後者で彼女は、日本における脱植民地化によって引き起こされた忘却について、「敗戦という不愉快な記憶」「この事実が」「帝国からの撤退のプロセスについての歴史的記憶喪失を促すと同時に、日本社会の内部と、より広範な東アジア地域の内部に長く残存した、植民地主義と脱植民地化の遺産と向き合うことへの忌避観を生み出すことになった」と明快に指摘している。

 

最近では、テッサ・モーリス=スズキは、私が大学時代に受講した文化人類学者石田英一郎や、和辻哲郎、梅棹忠夫などの言説を批判的に検討したうえで日本論を試みている。それが『日本を再発明する――時間、空間、ネーション』(以文社、二〇一四年)である。膨大な文献を渉猟していることは分かるが、残念なことに理解に苦しむ文章が散見する。直訳的なぎこちない訳文のせいもあるだろうが。だから、私の捉え方が正しいか不安がないわけではない。そう断ったうえで、同書での彼女の問題提起を次のように受け止めたい。まず、彼女は、一九九〇年代が分岐点にあったとする。一方は「より開かれた日本に向かう道」であり、多文化主義の認識が高まり、アジア諸国をはじめとする他国との結ぶつきが強まる方向で、他方は「閉ざされた日本に向かう道」で、ナショナリズムが高揚し、軍備が増強され、近隣諸国との摩擦が増していく方向である。今の日本は後者の道を歩んでいる、と明言する。この懸念といってもいい問題意識が根底にある。そして、日本・自然・文化・人種・民族をキーワードに議論を展開していく。彼女が批判している見解を列記してみよう。明治に入っての空間から時間へ認識の転換が行われ、アイヌや沖縄社会の異質性を時間の枠組みで捉え、発展が遅れた、文明化されていない社会と規定するようになった。アニミズムを核とした自然に優しい姿勢が日本の自然思想である。天皇の存在と結び付け日本人の純潔性が説かれる一方で、雑種性が日本の特徴で、人種間の上下関係を否定する見方も出された。それなのに、日本がアジアのリーダーとなれるのはなぜか。それは経済が発展し近代化が進んでいるからである、など。これらの論を丹念に検証し、彼女は、日本を際立たせない、日本を安易に定義しない日本論、日本を越える日本論を提示しているといえよう。彼女は一貫して「「日本」という枠組みの解体」(『批判的想像力のために――グローバル化時代の日本』平凡社、二〇〇二年)を唱えていたのだから。

 

終わりに、テッサ・モーリス=スズキのメッセージを一つ紹介したい。安倍政権下、表現の自由度が一層低下している状況に抗して、「繁華街のゲーム・センターに置かれた「モグラ叩き」のモグラのように、叩かれても叩かれてもまた頭を出していく「ソフトな対抗」が必要なのではなかろうか」(「叩かれても叩かれても、また頭を出すモグラのように」『これからどうする――未来のつくり方』岩波書店、二〇一三年)。私も小粒ながらもモグラであらねばならない、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 217号

 

 

 

『長生きしても報われない社会』という現実

 

               後藤守彦

 

 

 

民生委員を一期三年で終えようとしたが、もう三年務めざるをえなくなり、第二期目が一二月一日から始まった。民生委員は正式には民生委員児童委員という。だから、小中学校の入学式などにも出席したりするが、一人暮らしの高齢者宅などを訪問したりして、自身の老いを見つめながら他者の老いと向き合う、というのが活動の基本になっている。訪問対象者は変動する。入院した人、施設に移った人、亡くなった人、それも看取られずに亡くなった人、連れ合いを喪った人、さまざまである。

 

 そこで、老いにまつわる諸問題を学ぶために、講演会や講座にでかける機会が多くなる。最近では、尊厳死協会主催の看取りをテーマにした講演会や、私の住む北広島市にある道都大学社会福祉学部の学生が中心になって初めて開いた認知症カフェにも参加している。認知症カフェは一九九七年オランダで始まり、認知症の人や家族、専門職、地域住民が悩みを語りあい、情報を交換する場となっている。当日は三〇名ほどが集い、三年の男子学生が認知症の基礎知識をレポートしていた。

 

勿論、本も学びの対象である。最近読んだ山岡淳一郎『長生きしても報われない社会――在宅医療・介護の真実』(ちくま新書、二〇一六年)は、現代日本の老いに関わる問題を包括的に理解させてくれた。現場への取材に基づき、超高齢社会といわれる日本の現実が多角的に描かれている。

 

第一章「在宅医療の光と影」、何年も介護した末、家族が家族に手をかける、無理心中を図って死にきれなかった介護者は殺人罪に問われる、こうした事件が後を絶たない。在宅医療は広がっているが、在宅医療・介護での家族の負担は大きい。第二章「なくなる場所が選べない」、多死社会に入った日本、理想は在宅での看取りだが、このままでは看取り難民が大量発生する。人生の終末においても現実を受け入れつつ、前向きに生き切る支えとは何なのか、これは普遍的で重いテーマである。第三章「認知症と共に生きる」、超高齢化社会は認知症の人たちとの共生が試される社会である。家族が困ったら、身体拘束や向精神薬の過剰投与が行われる精神科病院に入院させる、そうではない認知症ケアはある。第四章「誰のための地域包括ケアなのか」、病院・介護施設・訪問看護ステーション・NPO・自治体などのネットワークを地域包括ケアシステムと称して、厚労省は盛んに推奨している。介護報酬を引き下げておきながら、何を実現しようとしているのか。第五章「資本に食われる医療」、介護保険料は引き上げられるが、介護サービスは削られる。医療財政の危機が叫ばれるが、多国籍化した製薬会社が超高額の医薬品を売り出し、莫大な利益を得ている。TPPは医療費にとっても危険である。

 

このように著者は問題の核心を抉るだけでなく、「長生きしても報われない」のはおかしいと思い、人間の尊厳をそこなうことのない医療や介護を目指して苦闘する医師・看護師・介護関係者などの姿を紹介している。だから、読者は少しかもしれないが希望を見出すことができる。

 

福祉の世界で使われる言葉に、自助・互助・共助・公助がある。自助は本人の健康管理や家族の支え、互助はボランティア・住民組織の活動、共助は介護保険などの社会保険制度、公助は生活保護などを示す。この共助・公助を後退させ、自助に向かわせようとする国の姿勢は許すことができない。

 

 そのうえで、四苦の一つの老いに絡む、人間としての根源的な問題を考えたい、とも思う。それを強く意識させられたのは、韓国の、両親がパルチザンであった鄭智我の短編小説集『歳月』(新幹社、二〇一四年)であった。かつてパルチザンとして闘い、過酷な月日をともに生きてきた夫が、年老い記憶を失っていく。その夫と暮らす妻が心の裡をさらけ出す。「これまで生きてきてわかったような気がするんだよ。生命というものの哀しい運命を。革命なんぞで説明できるもんじゃない。生きるということは、それ自体つらいもんだねえ。哀しくて切なくて胸が張り裂けそうになる」

 

 どんな人間も老い、そして独り逝く。それは必然である。この真理をどのように受け入れるのか。自分を越えた存在や世界を信じることによって救済されるのか。来世にいけるので死は怖くない、と言い切る人を羨ましく思いもする。そして、終焉までの残された時をどう刻むのか。ちっぽけな自分でも何かのこすことができるのか。考えを深めていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 216号

 

 

 やはり「メモリー」か  後藤守彦

 

 

 

一一月六日が千秋楽の、『オズの魔法使い』の設定を借りたミュージカル『ウイキッド』を見に北海道四季劇場へ家族で出かけた。最も高いS席は九八〇〇円もするのだから、暴利という批判があってもおかしくはない。「四季の看板は輸入ミュージカルだ。本場ニューヨークのブロードウェイやロンドンのウエストエンドの演劇街で人気が高い作品を、頭を金髪で染めるなどして日本人の俳優とスタッフが忠実に再現する。だから物真似ショー、コピー劇」(紺野一彦『劇団四季の謎』KKベストブック、二〇〇三年)だと揶揄もされる。確かに、本場と違ってオーケストラも用意されていない。

 

しかし、現実に見た観客の反応は熱狂的であり、ファンタジーの世界に酔っているように見えた。私も例外ではないのだが。観客動員数も来年三月札幌で再上演される『ライオンキング』は一〇〇〇万人を越えている。

 

初めて見た四季の舞台は『オンディーヌ』。漁師の娘、実は水の精オンディーヌと王子ハンスの悲恋を描いた作品である。オンディーヌは三田和代が演じていた。次は、ブロードウェイに生きる無名のダンサーたちの厳しいオーディション風景がメインの『コーラスライン』。迫力満点のダンスシーンをリードしていた前田美波里の踊りに圧倒された。前述の『ライオンキング』は、二〇〇九年に、再び大学に通っていた東京で観劇した。上京した家族と一緒にJR浜松町駅近くの四季劇場「春」で見たのだが、家族連れが多かった、と記憶している。『ライオンキング』は、アフリカの大草原をバックに、王国を追われたライオンの王子が、殺害された父の復讐を果たし王となる話である。

 

ミュージカルだから当然観客の心をつかむ歌が求められる。その点では、ブロードウェイを席巻したロンドン・ミュージカルの旗手アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲した歌が群を抜いている。四季の公演で日本語で歌われるのを聞き、それはそれでよかったが、本場の舞台で演じた歌い手が英語で歌うCDを手に入れ、時折雰囲気にひたっている。特に気に入っている五曲を上演順に紹介してみたい。

 

ロックオペラといってもいい『ジーザス・クライスト・スーパースター』。イエスの最後の七日間を裏切ったユダの視点から描いている。マグダラのマリアがイエスへの愛を歌った「私はイエスがわからない」(原題を忠実に訳すと、「私は彼をどう愛していいかわからない」となる)が最高だろう。

 

『エビータ』の主人公は、アルゼンチンの大統領夫人となって権力をふるったエヴァ・ペロン。彼女が大統領宮殿のバルコニーから民衆に呼びかけて歌う「アルゼンチンよ泣かないで」が耳に残る。

 

登場するのが猫だけの『キャッツ』は大ヒットした。月が明るく照る夜、ロンドンの場末のゴミ捨て場に猫たちが集い、年に一回の舞踏会が開かれる。自分をアピールする猫たちから選ばれた一匹が、天に昇っていき永遠の命を与えられることになる。選ばれた娼婦猫グリザベラの歌う「メモリー」が心に沁みた。劇団四季の創設者浅利慶太の訳詞は直訳ではないが、それによると「メモリー/思い出をたどる/美しく去った/私の日々/過ぎゆく/幸せの姿よ/甦れ永遠に」のパートがいい。

 

『オペラ座の怪人』は「アンドリュー・ロイド・ウェバーの畢生の傑作」(小山内伸『ミュージカル史』中央公論新社、二〇一六年)と高く評価されている。ブロードウェイでの初演が一九八八年だが、今も続演中で公演回数は一万回を越え、史上最高を更新中である。原作はガストン・ルルーの同名の長編推理小説で、パリのオペラ座の地下にある地底湖に住む醜い容貌の怪人の恋を描いている。名曲が多いが、地下の棲家で怪人が歌う「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」と、怪人が恋する歌姫クリスティーヌと彼女の幼馴染のラウル子爵がオペラ座の屋上でデュエットする「オール・アイ・アスク・オブ・ユー」の二曲をあげたい。

 

さて、この五曲中のトップはどれだろうか。迷うが、やはり「メモリー」だろう。

 

 

 

  214号

 

 

再訪無言館

 

後藤 守彦

 

 

 

美術館や美術展に出かけることが多い。最近では、一昨年、栃木県那須町に開館した藤城清治美術館がよかった。正直、彼をファンタジー画家として軽く見ていた。それがいかに愚かであったか、を痛覚させられた。気が遠くなるほどの時間をかけ、細緻な手業を重ねて、何と見事な影絵を作り上げたことか。豊かな色彩によって生み出された夢の世界に心が洗われた。テーマ性も明確であり、福島原発事故を告発する力作もあった。

 

 今年六月に再訪した無言館はそうした美術館とは少し異なる。戦没画学生慰霊美術館「無言館」を正式名称とするこの美術館は長野県上田市の郊外にある。初めて行ったのは二〇〇七年の初夏、開館十年目のことである。そこで入手した、窪島誠一郎館長が書いた『無言館―戦没画学生「祈りの絵」』(講談社、一九九七年)に寄せた序文を、澤地久恵は「絵の巧拙など問題ではない。修行途中の〈わかがき〉のういういしさ、どこまで伸び得たか未知数の才能が、戦争によって無残にねじきられた実相を、展示の作品はあなたに語りかけてこよう。絵は無言のまま、見る人の心に多くの思いを書きたてずにはいられない」と結んでいる。

 

 再び訪れた日は晴天の日曜日だった。事前には承知していなかったが、第一九回「無言忌」の日であった。着いたのは開会の一時間以上も前だったが、野外に用意された会場や館内には名札を付けた遺族の姿がちらほら見えた。戦後七一年、遺族の時の進み方はどうだったのだろう。

 

 入場料を払い入場券をもらうのは入り口ではなく出口なのだが、入場券の裏には窪島誠一郎の言葉が刻まれている。「口をつぐめ、眸(め)を開けよ/見えぬものを見、きこえぬ声をきくために」と。

 

左右二つの入り口の、私は右から同行した妻は左から入る。自然に沈黙する自分になった。最初に対面した絵は飛行兵の絵。中央に設置されている遺品展示用ガラスケースに収められている白黒写真で、キャンバスに向かう作者大貝彌太郎の後ろ姿と絵を発見する。写真の中の絵は鮮明なのだが、今展示されている絵は、絵の具が剥げ落ちぼろぼろになっている。顔を見ると目は残っているのだが。特攻隊員となった、この飛行兵は戦死したにちがいない。彼の人生はこの絵のように、無謀な戦争を始めた権力者によって壊されたのである。特攻隊基地を訪ね、特攻隊員の遺書を読み、『特攻隊と北海道』(溶明社、一九九四年)をまとめたことを思い起こす。

 

 続いて、左右の裸像を見る。左は出征直前に中村萬平が描いた妻霜子。太い描線で強調された彼女は、夫と正対して悲しみをこらえながら少し微笑んでいる。右は日高安典が描いた恋人。厳しい表情を浮かべた横顔が悲哀を伝える。裸婦といえば、佐久間修が妻静子の裸像を描いたデッサンもある。前掲『無言館―戦没画学生「祈りの絵」』の表紙には、静子の肖像画が使われているが、瞳の大きい目が印象的で、美しく初初しい。

 

 伊沢洋は戦地で「家族」を描いた。両親を含め四人が座っており、中央のテーブルには、コーヒーカップと果物が盛られた皿がのっている。そして、家族の背後では画布の前で絵筆を握る、学生服姿の本人がこちらを向いて立っている。新聞を読む父の横に座り、ただ一人正面を向いている母の慈愛のまなざし。実家は貧しい農家だったのだから、これは幸福な食卓風景を空想したものだろう。

 

出口付近には二枚の風景画がかかっている。作者の佐藤孝は、一九四三(昭和一八)年、学徒出陣で戦場に向かい、一九四五(昭和二〇)年七月二五日、ルソン島で戦死した。享年二一歳。遺品展示用ガラスケースの中には、出征直前に記したノートの、あるページが開かれておかれている。そこには「遺書には非ざる言葉」と題して、「一、」で始まる十の文章が並んでいた。一番目の「私には既に與へられた運命がある」と、二番目の「私には私丈けしか持てぬ世界がある」は太字で書かれている。五番目には「おそらく生きて帰れぬことを信じている」とあるが、こうした諦観を強いた、天皇制国家の酷さを思う。だが諦めることが完全にできたのだろうか。九番目には「作画の少なきことを残念に思ふ」とある。もっと描きたかったのだろう。

 

新たに第二無言館ともいえる「傷ついた画布のドーム」ができていた。そこに入ろうとしたら、「ふるさと」の合唱が聞こえてきた。間もなく始まる「無言忌」で歌うための練習と思われた。入館してすぐに見上げた天井は、美校で学んだ戦没画学生の習作で覆われていた。空から命が降ってくる、一瞬そう感じた。また、ドイツの戦没画家アルベルト・シャモーニの作品一五点も展示されていた。

 

昨年北広島九条の会の例会で、「近代日本の戦争と平和を考える」と題して三回連続で講演したのだが、そのはじめに話した言葉が頭に浮かんできた。「人間はいつ生まれるかを自分では選べない。もし二〇年ほど前に生まれていたら、大学生活の途中でペンを捨て、銃を持って戦場に行ったかもしれない。幸い、戦争しない日本で生活することができた。戦後七〇年は私の人生と重なるが、平和に生きることができたことに心から感謝している。次の世代にとっても、これから生まれてくる子どもたちのためにも、平和が続いてほしいと願っている」。正直な気持ちを吐露したつもりである。

 

 

 

 

  212号

 

 

メロディー・メーカー

 

             後藤守彦

 

 

 

かつての職場の同僚にヴァイオリンを嗜む数学教師がいた。コンサートに一緒に出かけた時があったが、彼は楽譜を持参し譜面を目で追いながら鑑賞していた。羨ましかった。彼とは違い、ただ聴くしかできない私だが、音楽の魅力の源はメロディー、楽曲の核はメロディー、と頑固に思い込んでいる。メロディー・メーカーという音楽用語がある。その意味を、旋律を作るのがうまい人、というよりは美しい旋律を作る人、ととらえたい。人というのは勿論作曲家を指す。該当する作曲家として、クラシックでは第一に挙げたいのがドヴォルザークである。その楽曲が映画のテーマ音楽に使われているラフマニノフもメロディー・メーカーの一人、といえよう。彼が敬愛したチャイコフスキーもあてはまる。ラフマニノフは古くさい、と批判する人がいるようだが、私は彼の編み上げたメロディーの美しさに酔いしれ、心を震わせる。

 

四月八日、私が長く会員となっている札幌交響楽団の第五八八回定期演奏会があった。演奏曲が三曲、すべてのロシアの作品だった。指揮は選曲にふさわしくロシアのドミトリー・キタエンコ。最後に演奏されたのがラフマニノフの『交響曲第二番』である。総演奏時間六十分の四分の一にあたる第三楽章のアダージョ。音楽会評では、「清澄な響きの弦楽部がうねるように歌い上げ、さらにクラリネットをはじめとする独奏陣が、哀愁に満ちた音色を聴き手の心にじわりとしみこませた」(『北海道新聞』二〇一六年四月一三日号)と高く評価されていた。

 

ロシア的な抒情あふれる主題を奏でたクラリネットの首席奏者は、私が四〇代に勤務した高校のブラスバンド部の部長であった。そして、彼の父親は同僚であった。私はわが子が通う高校に勤めるのは嫌だと思っていたが、彼の父親は違っていたようだ。彼は東京の音大で学んだ後、ドイツに留学し、最近CDも発売している。

 

二巻からなる檜山乃武『音楽家の名言』(ヤマハミュージックメディア、二〇一一年)には、ラフマニノフの言葉が五つ載っている。そのうちの二つを紹介したい。「コンサートは私の一生の楽しみなのです」。彼は優れたピアニストでもあり、演奏活動が彼の生きがいだった。「私はロシアの作曲家です。そして祖国ロシアは、私の性格とものの見方に影響を与えています。私の音楽、これは私の性格の所産です」。彼は一八七三年、ロシアに生まれ、一九一七年のロシア革命勃発後、フランスに亡命、翌年、アメリカに渡り、一九四三年、カリフォルニアで亡くなった。彼の音楽には、憂いと哀愁を帯びるロシアロマンティシズムの香りが漂っている。あまりにも有名な『ピアノ協奏曲第二番』が初演されたのは、一九〇一年、無論ピアノを弾いたのは本人である。この曲の成功で、一八九七年に初演された『交響曲第一番』の不評によるノイローゼから、彼はすっかり立ち直った。

 

この『ピアノ協奏曲第二番』を演奏する場面がクライマックスになっている小説が、中山七里『おやすみラフマニノフ』(宝島文庫、二〇一一年)である。ミステリ仕立ての音楽物語といっていいだろう。ピアニストの仲道郁代が解説を書いているが、『ピアノ協奏曲第二番』の演奏シーンについて、彼女に「心理描写と、楽曲分析と、演奏の様との交錯でもって見事に描かれていて、曲を熟知している私でも、読みながらこの曲を聴きたくなったくらいだ」といわしめている。これは、作者の音楽に関する造詣が深いことの証左だろう。過去、仲道郁代は札幌交響楽団と八回ピアノ協奏曲を演奏しているが、残念ながらラフマニノフの作品はない。

 

最近、歴史学研究会の会誌に音楽に関する論文が載った(半澤朝彦「音楽と国家」『歴史学研究』二〇一六年四月号)。珍しいことである。「君が代」などについて、演奏法や歌い方の変化について論じており、大変興味深かった。歴史を研究する者としては、中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、二〇一三年)のような、国家権力と対峙したカザルスやショスタコーヴィチ、バーンスタインなどの音楽家を追った史書に関心を寄せるのだか、音楽そのものの解明にも心が惹かれる。

 

 

 

211号

 

だます者とだまされる者と

 

後藤 守彦

 

 

 

前号に続いて、北広島九条の会での講演に関連して述べることにしたい。三月の講演、「戦後日本の歴史を考える」第一回で、「指導者責任観」に言及した。これは、政府・軍部にだまされ無謀な戦争に巻き込まれたとする、国民の被害者意識を示すものである。そこでレジュメに引用したのが、敗戦一年後に書かれた映画監督伊丹万作の「戦争責任者の問題」(『映画春秋』一九四六年八月号)である。「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。(中略)だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していいこととは、されていないのである。(中略)だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。(中略)「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。たまたま、彼の言説には「現在の国民が傾聴すべきものがある」と、私と思いを同じくする投書が、講演後二〇日ほど経った三月二五日の『北海道新聞』に載った。

 

勿論、「だまされた」自分の責任を真摯に問うた日本人が、数は少ないもののいなかったわけではない。『砕かれた神――ある復員兵の手記』(朝日新聞社、一九八三年)を書いた渡辺清もその一人である。この書は、出版当時話題になったジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店、二〇〇四年)で、「天皇が突然神から人へ変身したこと、聖戦における至高の象徴から「民主主義」の曖昧な象徴へと転身したことを批判したユニークなもの」と評価されている。渡辺清は少年兵として一五歳で海軍に入隊し、一九四四年のマリアナ沖海戦では、沈められた戦艦武蔵に乗り込んでいた。多くの戦友が亡くなったが、彼は生き残り、戦後の早い時期に天皇崇拝者から天皇批判者への思想的転換を遂げた。彼は天皇に裏切られだまされた自分にも、だまされるだけの弱点があったのだ、と率直に認める。そのうえで「天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分を責めることでなければならない」、肝心なのは自分自身である。「二度と裏切られないためには、天皇の責任は無論のこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいする私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない」と結論付ける。講演のレジュメには、天皇の戦争責任を追及した一節を載せたが、彼が「だまされた」自分を徹底的に見つめたことを強調した。

 

高校生と学んでいた頃の苦い記憶がある。今も時折思い起こす。論文指導していた、難関国立大学を目指す三年生が、「憲法改正に反対している野党」という教科書の記述を読み、「改正に反対しているのだから社会党や共産党は駄目でしょう」と言ったのであった。「改正」ではなく実質は「改悪」なのだが、法律用語としては、変更することは「改正」なのである。だから、憲法「改正」を目指し、憲法を守るというのは思考停止だ、と誹謗する安倍首相の言動には憤りを覚えると同時に、危険性を感ずる。安倍首相の手法について、ヨーロッパ史の研究者の南塚信吾は、戦争法を強行成立させた後、問題点から目をそらそうとして、「一億総活躍社会」などのスローガンを打ち出す、「こうした表象による世論操作によって、安倍政権は「改革派」というイメージを広め政権を維持している」(『座談会世界史の中の安倍政権』日本経済評論社、二〇一五年)と、指摘している。だます手口は他にもあり、実に巧妙である。

 

冒頭に前掲「戦争責任者の問題」を全文掲載している『だまされることの責任』(高文研、二〇〇四年)は、フリージャーナリスト魚住昭と評論家佐高信との対談を収録したものである。二人によって白熱した議論が展開されていくのだが、魚住の言葉、「「だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない」という伊丹の言葉をかみしめながら、この国を戦争へと導く流れに抗っていくしかありませんね」で結ばれている。この対談から一二年経った今、「戦争へと導く流れ」は加速されている。何としても止めなければならない。

 

 

 

210号

 

「鳳仙花」のことなど

 

後藤 守彦

 

     

 

 昨年、北広島九条の会が主催した連続学習講座の講師を務めた。三月・四月・六月の三回だったが、回を追うごとに参加者が増え感激した。テーマを「近代日本の戦争と平和を考える」とし、一八七四(明治七)年の台湾出兵以降の侵略戦争史だけでなく、それに抗した、反戦の思想と運動も取り上げた。昨年秋に行われた北広島九条の会総会の議案書では有り難いことに、「この学びが私たちの「戦争法に反対する」運動に大きな確信と勇気を与えました」と総括されている。アンコールの声がかかり、今年も三月・四月の二回にわたり、戦後日本の歩みを辿った。

 

各回とも一時間半以上は語ったのだが、休憩も兼ねて毎回音楽を取り入れた。高校生や専門学校生と歴史を学んだ時、音楽を教材として積極的に活用していた。こうした実践は珍しいものではないが、それにならったわけである。幸い好評であった。計五曲すべて歌で、そのうち三曲が朝鮮半島のものである。

 

昨年の講座の二回目では、「鳳仙花」を聴いてもらった。この歌は日本の音楽学校で学んだ洪蘭坡〈ホンナンパ〉が、一九二〇年にヴァイオリン独奏曲として作った曲に、彼の友人の金亨俊〈キムヒョンジュン〉が、後に歌詞をつけたものである。一番の歌詞は「垣根の下に立つ鳳仙花よ/お前の姿がもの悲しい/長い長い夏の日に/美しく咲く頃/かわいい娘たちは/お前とよろこんで遊んだ」で、三番まである。昔から朝鮮では、夏になると少女たちが鳳仙花の花弁で爪を赤く染める風習があった。それを背景としているこの歌は、「嘆き悲しむ一人の女性の感情という次元を越えて民族の精神を代表する歌となった」(安準模『韓国歌の旅』白帝社、二〇〇三年)。そして、植民地時代、隣国の表現では日帝時代、抗日歌として歌い継がれていく。

 

一九九〇年、戦後長く日本語による歌の公演が禁止されていた韓国のソウルで、加藤登紀子がコンサートを開いた。彼女は「知床旅情」などの持ち歌を日本語で歌っただけでなく、朝鮮語で「鳳仙花」を歌った。記者会見で、「この歌に込めた深い思いを、日本人であるあなたに理解できるのか」という韓国の記者の質問に対して、彼女は「韓国の人びとの悲しみをこの体に受けとめるために」と答えている。講演では、彼女のライブ盤が素晴らしかったのでそれにしようとも思ったが、迷った末、在日コリアンの女性歌手の澄んだ声にふれてもらった。

 

「イムジン河」は今年の第一回目の講演で用いた。イムジン河は、北朝鮮の南部を源とし、ソウルの中心を流れる漢江と合流して黄海にそそいでいる。八年前、板門店見学の途中で三八度線に沿う、茶色に濁った姿を目にした。「イムジン河」は、もともと北朝鮮で作られた歌で、イムジン河を自由に越えて故郷のある南の地に飛んでいく水鳥を見て、「誰が祖国をわけてしまったの」と分断されている民族の悲しみ・苦しみを表している。

 

一九六八年、東芝音楽工業が一部出荷していたにもかかわらず、「政治的配慮」を理由に、ザ・フォーク・クルセダーズが歌うレコードの発売を中止した。三四年後の二〇〇二年に、ようやくシングル盤としてアゲント・コンシピオから売り出されたのである。ザ・フォーク・クルセダーズに歌うよう勧めた松山猛が、この歌との出会いについてそのジャケットに言葉を寄せている。「僕が「イムジン河」という歌を初めて耳にしたのは、京都で育った中学生の頃のことだった。その頃朝鮮系の生徒と日本の若者は、ことあるごとにケンカばかりしているという現実をなんとかしたいという、純情な動機を胸に、サッカーの対抗試合を提案に出かけた時、当時銀閣寺近くにあった朝鮮中高等学校の、どこからか聴こえてきたコーラスが「イムジン河」だったのだ」。二〇〇五年公開の映画『パッチギ』でも繰り返し流れていたし、You Tubeでは、キムヨンジャ・森山愛子・都はるみなどが歌う映像を見ることができる。

 

今年の最終講演では、戦争法廃止を目指す闘いを励ましてくれる歌を流した。日本のうたごえ運動と連帯して、一七年ぶりに来日した、韓国の男性二人と女性三人で構成されているグループ、サム・トゥッ・ソリが歌う「並んで歩かなくても」。この歌は、韓国市民の抗議集会であるロウソク集会でよく歌われているとのこと。彼らの長野公演と私の講演の時間帯がたまたま重なった。二番の歌詞を見てみよう。「心 心の窓開けよう/花の 花の種まこう/手を取り 肩を組みあおう/同じひとつの空の下/肌の色も 言葉も違うけど/ほほえみあえるあなたがいるから/並んで歩かなくっても/きっときっといるから」

 

朝鮮半島における南北分断の基底的責任を負っているのが日本である、このことは今年の講演で強調した。日本の責任は、朝鮮を植民地にしたこと、アジア・太平洋戦争を始めたこと、そして戦争の終結を遅らせたこと、の三層からなっている。最後の点について補足するならば、「聖断」つまり戦争終結が早ければ、東京大空襲・沖縄戦・原爆投下・ソ連参戦とあわせて分断国家朝鮮の誕生はなかったのである。二〇一〇年に日本聖公会札幌キリスト教会で、李在禎〈イジェジョン〉元統一部長官の講演を聞いたが、冒頭で同氏が語った言葉、「戦争に負けた日本ではなくどうして朝鮮が分断されたのか」が、今も私の胸に突き刺さったままである。

 

 

 

 

 

 209号

 

パウゼヴァングのメッセージ

 

後藤 守彦

 

  戦後七〇年の年に、ドイツの児童文学者グードルン・パウゼヴァングは、『片手の郵便配達人』(みすず書房、二〇一五年)を私たちに贈ってくれた。齢八七、これには驚くというよりは感動する。パウゼヴァングは、『そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶』みすず書房、二〇一二年)に続いて、再び、ナチス支配下のドイツの暗い歴史と真摯に向かい合った。その根底には、少女時代にナチス信奉者となった自身への痛恨の念がある。主人公の郵便配達人ヨハンはなぜ片手になったのか。一七歳で入隊したヨハンは、前線に送られた二日後、砲弾の破片で左手を吹き飛ばされてしまった。そのため除隊となったヨハンは故郷の村に戻り、再び郵便配達に従事する。一九四四年の八月から翌年五月のドイツ敗戦まで、銃後で暮らす村人の姿がヨハンの目を通して語られていく。ヨハンが村人に届ける手紙には、夫や息子の戦死を伝えるものがある。戦死の公報の後に、死んだ当人からの手紙が来ることもあった。パウゼヴァングの作品はなべてハッピーエンドで終わらないが、『片手の郵便配達人』の結末も同じで衝撃的である。

 

前掲『そこに僕らは居合わせた』は、七六歳になったパウゼヴァングが書き上げたものである。パウゼヴァングは、この作品で一〇代の少年少女から見たナチス支配下のドイツを、自分が見聞きした事実をもとに二〇の短編小説にまとめている。直接体験した実話が二作あり、その一つの第七話「おとぎ話の時間」は、教師の戦争犯罪を描いたもの。主人公の一〇歳の少女は、クラスの皆が大好きだった中年の女性教師から、毎週土曜日の最後の時間にお話しを聞いたり本を読んでもらっていたりしていた。女性教師がおとぎ話の時間と呼んでいたその時間を皆はとても楽しみにしていた。一九三八年、ドイツ全土でユダヤ人教会やユダヤ人商店が破壊・略奪された「水晶の夜」の二カ月前、おとぎ話の時間に、ユダヤ人への敵対心を植え付けるという意図のもとに、ユダヤ人がドイツ人の少女に悪事を働く話を聞かされる。それはデマ以外の何ものでもなかった。第七話の最後は、「私たちを毒することに成功した」担任の先生に投げつける言葉、「いったいあなたは私たちに何ということをしてくれたのでしょう!」で結ばれている

 

一五作目の「どこにでもある村」は恐い話。その地方で最も美しい村、人口は三〇〇人にも満たないが、小さいが豊かな村、その村にもユダヤ人迫害の事実があった。しかし、村人たちは観光産業が打撃を受けるという理由で、それを隠し、ただ一人その事実を忘れずに語ろうとする女性を排除しようとする。ラストの文章は不気味である。「もう大昔の話です。そろそろやめてもらわなくてはなりません。わざわざ自分の巣を汚す必要はないのですから・・・・・・」。日本でも跋扈している、負の史実を隠し否定しようとする勢力の言辞とそっくりではないだろうか。「過去は過去、不快な過去は忘れて前向きに、そう欺くことによって、過去の社会病理はそのまま現代へ継承されてしまう」(野田正彰『なぜ怒らないのか』みすず書房、二〇〇五年)、それが危惧される。だから記憶の暗殺者に厳しく対峙するパウゼヴァングを、記憶の伝道師と呼んでも許されるだろう。

 

パウゼヴァングの名を知ったのは、チェルノブイリ原発事故の翌年に刊行され、ドイツ児童文学大賞を受賞した近未来小説『みえない雲』(小学館、一九八七年)によってだった。ある原子力発電所で、チェルノブイリより大規模な原発事故が起こる。主人公の一四歳の少女ヤンナは原発から九〇キロ離れた町で被曝する。避難する途中で弟は死亡し、ヤンナの毛髪は抜け落ちる。ヤンナは、悲惨な被害状況を目撃した末、ようやく祖父母の家に辿りついた。一連の原発小説を論じた松木新は、終幕で、事故について大騒ぎするな、と非難する祖父と真実を語るヤンナとを対比させながら、『みえない雲』が訴えた、事実から目をそむけず真実を知ることの意義を強調している(「小説に描かれた原発」『奔流』第二三号、二〇一一年)。

 

『みえない雲』に先駆けてドイツ児童文学大賞を受賞したのが、同じ近未来小説『最後の子どもたち』(小学館、一九八三年)である。ドイツが東西の分裂状態を克服できていない段階で、パウゼヴァングは核戦争の恐怖を告発した。夏休みに、祖父母の家を目指して少年が旅に出る。そこに核爆弾が落ちてきた。生き残り、四年後一七歳になった少年の視点で、人びとの悲惨な運命が語られる。即死を免れたものの、原爆症・伝染病・飢餓により人びとが次つぎと倒れていく。主人公の家族も先ず妹が、そして姉が、ついには母が。家族全員が即死し、自分も両足を失ったアンドレス少年の自殺を主人公はやむを得ず幇助する。アンドレス少年は、静かに、だが痛烈に告発する。「大人がこんなことになるのを防ぐべきだったんだ。みんなわかっていたんだ。めちゃくちゃになるのを防ごうともしなかったんだ。ぼくらがどうなってもいいんなら、なんでぼくらを産んだんだ?」。核の恐怖には、核兵器と原発(核発電)の二つがあるのだが、その両方ともをパウゼヴァングは、文学作品として結晶化したのである。

 

パウゼヴァングのメッセージは何だろうか。それは、流される情報を鵜呑みにせず、自分の理性と感性を働かせて深く考えなければならない、ということだろう。前掲『片手の郵便配達人』に載る「日本の皆さんへ」と題したアピールで、パウゼヴァングは「日本もドイツと同じように、戦時中に周辺国において非道な行いをしました。その事実と、どのように向き合ってきたでしょうか」と厳しく日本人に問いかけている。私たちが今何をなすべきか、それははっきりしている。