237

 

 

 

 

北の国から来た猫第八章

 

後藤守彦

 

 

 

 先ず、昨年後半にあった二つの重大ニュースから始めよう。ついに猫がペットの王座を犬から奪った。今年は犬年で猫は十二支入っていないのに。『北海道新聞』二〇一七年一二月二九日号には、「ペットの王座だニャン」「手軽な飼育 猫にかなワン」という二つの見出しが付いた記事が載った。そこには「ペットフード協会(東京)が今月発表したペット飼育数調査によると、猫は九五二万六千匹、犬は八九二万匹となり、一九九四年の調査開始以来、初めて猫が逆転した」とあった。猫を飼う方が、医療費や散歩などの世話の点で負担が少ないから、と理由が説明されていたが、これも飼い主になる人間の高齢化の反映だろう。

 

もう一つのニュースは、わが飼い猫ミーが腎臓病になったという個人的なもの。水を飲む量とオシッコの量が急に増えたので、一〇月二七日動物病院で受診し、エコー・尿・血液検査の結果腎不全と診断され、一日二回薬を飲むようになった。症状を緩和することはできるが、完治は不可能ということだった。わが飼い猫も年老いたということである。猫年齢一四歳、人間に換算すると七二歳で、ついに飼い主の年齢と同じになった。病院で斡旋された「腎臓サポート」という固形の餌と今まで食べていた餌とを混ぜ合わせ、そこに薬を入れて飲ませている。今のところ、口から吐き出したりせず飲んでいる。

 

 これも昨年一二月ことだが、二二日、翻訳した本の出版打合せで上京した際、社長との話し合いを終えて、地下鉄神保町駅に向かう途中、偶然猫本専門店をみつけた。そこで購入したのが、森村誠一の文庫オリジナル『ねこの証明』(講談社文庫、二〇一七年)。「反戦猫」というエッセイで、森村は「憲法9条は人間のためだけではない。人間に最も近い猫、そして犬を護るためにも終戦と共に新憲法は生まれた」と述べている。これを読み、我が不明を恥じた。ミーのためにも九条を守り発展させなければならないのである。

 

 さて、猫に関するアンソロジーは何度も編まれているが、昨年もちくま文庫から、『猫の文学館』が出た。Ⅰのサブタイトルが「世界は今、猫のものになる」、Ⅱのサブタイトルが「この世界の境界を越える猫」と意味深である。計八二篇のエッセー・詩・短編小説が載っているが、五〇〇匹も猫を飼った大佛次郎のものが、群を抜いて多く八篇もある。いくつか取り上げてみよう。

 

井上靖の童話「猫がはこんできた手紙」は、二つの家を行ったり来たりする猫、つまり飼い主が二人存在する猫の生態が少女の視点から描かれている。梶井基次郎のエッセー「愛撫」には、猫の耳を「切符切りでパチンとやるというような児戯に類した空想」や「猫の爪をみんな切ってしまう空想」が出てくるのだが、これは作者が事実空想したことなのだろう。三島由紀夫はエッセー「猫、『テューレの王』、映画」で、「あの憂鬱な獣が好きでしようがないのです。芸をおぼえないのだって、おぼえられないのではなく、そんなことはばからしいと思っているので、あの小ざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚び、何んともいえず私は好きです」と猫好きの理由を独特の表現で語っている。俳句もある。俳人の加藤楸邨はエッセー「猫」の冒頭に「死ににゆく猫の真青の薄原」をおき、佐藤春夫はエッセー「愛猫知美の死」の中間に「春寒のわが膝に倚り眠りしを」という、亡くなった愛猫に手向けた句を挟んでいる。佐藤は、今まで「一度も涙を流して人の死を歎いたことはなかった」が、愛猫の死には「自分でもきまりがわるいほど泣けてしかたがないのであった」。その理由についても、佐藤は、猫の生活は自分の生活の一部で、それが失われたのだから、「他の人間の死よりも悲しまれるのも当然のような気がする」と分析している。萩原朔太郎の「猫町 散文詩風な小説」では、主人公が続けている「私自身の独自な方法による、不思議な旅行」とは、「あの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶ」ものであり、その旅で出合った「猫の精霊ばかりの住んでる町が、確かに宇宙の何かに、必ず実在して居るにちがいない」と断じられている。これでも紹介した作品数が、全体の一割に届かない六篇にしかならない。きりがないので止めるが、掲載作品とは別に、編者和田博文の解説もよかった。特に、飼っていた二匹の猫との別離の話は心に沁みてきた。和田は「猫と共に暮らすことは、たぶん二度とない」と結んでいるのだが。

 

 前述のサブタイトル「世界は今、猫のものになる」という言葉と重なってくるのが、新年早々に出版されたアビゲイル・タッカー『猫はこうして地球を征服した人の脳からインターネット、生態系まで』(インターシフト)である。冒頭で述べた通り、日本では昨年末に、猫がペットの王座に就いたのだが、世界的には、疾うに猫が王者となっている。その数は六億を超えているとのことである。その理由を、著者は、遺伝子学や動物行動学の最新の研究成果に基づいて、分析している。勿論著者は猫好きで、猫を飼っている。「幸運にも備わっている魅力的な外見と入念な行動によって、現在では私たちの家庭、大型のマットレス、人々の想像力そのものまで支配している」猫。その「魅力的な外見」とは何か。猫はベビー・リリーサーという、人間の子どもを思い出させる身体的特徴をもつ。特に、目の大きさと配置がいい。さらに、鳴き声も人間の赤ちゃんの泣き声に近い。長い時間をかけて、赤ちゃんの泣き声を真似るよう努めてきたという研究成果もあるとのことである。こんな風に書いてきたら、紙幅が尽きてしまう。最後に著者の言葉をもう一つだけ。犬は「人間とあまりにも心を通わせているために、近くに人間がいなければ未完成な存在のまま」であるのに対して、猫は「自己充足型」で「人間がいなくても必要を満たすことができる」。今までも繰り返し述べてきたが、猫の魅力は孤独な自由主義者であることに尽きる。

 

 六月には、大山淳子原作の映画『猫は抱くもの』が劇場公開された。勿論、見に行かないわけがない。映画の中に舞台が出て来るなどの工夫がされていたものの、原作とはかなり距離があった。大山が書いている全五作シリーズの、事務所に沢山の猫を飼っている弁護士を主人公とする『猫弁』(講談社、二〇一二~二〇一四年)についても言及したいところだが、断念する。次々と猫本の新刊が出るので、在庫が増え続けるばかり。来年八月号に投稿する第九章はどうなるだろうか。

 

 

 

 

 

 

  236

 金子兜太を悼む

 

後藤守彦

 

 

 

俳人の金子兜太が今年二月二〇日に亡くなった。一九三三年に、小林多喜二が二九歳で虐殺された日と、たまたま同じ日となった。享年九八歳。金子は目標とした日野原重明には、七年及ばず逝去したことになる。

 

ある俳句結社に加入して句づくりに励んでいる妻から勧められて、金子を特集した月刊『俳句』五月号(株式会社KADOKAWA)を読んだ。その特集から幾つかピックアップしてみたい。

 

一四人が寄せた追悼エッセイの中で、心に響いたのは、「声と言葉と眼光と」と題した俳人高野ムツオのものである。高野は、金子の二つの句、「水脈(みお)の果炎天の墓碑を置きて去る」「炎天の墓碑まざとあり生きてきし」をあげたうえで、次のように続けている。「前句は終戦後、トラック島を去る時のもの。後句は平成二十八年の作。「炎天の墓碑」はトラック島に残してきた死者だけを指すのではない。戦争の犠牲になったすべての人間を指すのだ。金子兜太はそれらの人々の魂をことごとく背負って戦後の時空を駆け抜けてきた。時には顔を真っ赤にして戦争を怒り、平和のかけがえのなさを声高に訴えた」。

 

 また著名な俳人四六人の追悼句も掲載されているが、その中から、句に添えられている短文も併せて三句紹介したい。

 

 

 

  九条の署名悴む兜太の訃  小原啄葉

 

  金子兜太氏の訃は、偶九条改正反対の街頭署名の場で知らされた。第二芸術論以来激    動する俳壇で最も活躍した人。「私は死ぬ気がしない」と、氏らしい言葉が忘れられない。

 

 

 

  信じる道を歩めと凛と雪間草  大牧広

 

  「俳人九条の会」で対談した時の氏の表情を忘れられない。戦中のトラック島で食物もなく、紙のように白くなった兵士の顔が可哀想だったと話す兜太氏の目も潤んでいた。

 

 

 

  料峭の曇天を截れ不戦の碑  矢島渚男

 

  兜太氏が奇しくも小林多喜二忌に天寿を終えた数日後、上田市の無言館に兜太筆「俳句弾圧不忘の碑」が除幕された。彼は「安倍ヲ許サナイ」反戦作家としても記憶されよう。

 

 

 

 短文について、三点補足説明する。「第二芸術論」は、戦後桑原武夫が唱えた説で、俳句という表現形式は前近代的なものであり、他の芸術と区別すべきだとしたもの。西太平洋のミクロネシアの「トラック島」に、金子は主計中尉として、一九四四(昭和一九)年に派遣され、二年半戦争を体験した。「俳句弾圧不忘の碑」の文字は金子が揮毫したもの。戦前、治安維持法により、四〇名以上の俳人が弾圧された。

 

 金子は毎夏京都で開かれている原爆忌全国俳句大会の選者を務めたこともある。京都在住の、私の弟の妻も俳句をつくっており、この大会の実行委員として三〇年以上活動している。昨年、大部の記録集『被爆の野からー原爆忌全国俳句大会五十年の記録』がまとめられたが、入賞作品の中には彼女のものもある。その一つの「八月の広島を歩くただ歩く」がいい。「歩く」という言葉に、今生きている人間としての様々な思いや決意が込められていると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   235 号

 

 伊藤光悦の震災絵画

 

後藤守彦

 

 

 

今年二月二八日に始まり、東日本大震災から七年目を迎えた三月一一日まで、札幌市東区の茶廊法邑で、大震災をテーマにした伊藤光悦展があった。伊藤は何度も被災地を訪れ、昨年一一月にも、飯舘村などに足を運んだ。伊藤は現場に立って感じることを大切にしているからである。

 

北広島市在住の伊藤は北広島市民連合発足の時には呼びかけ人となり、夫人は私と共に北広島九条の会事務局員として活動している。二〇一四年にも、同じテーマで作品展を開いた。今回は油彩の大作七点、アクリルと水彩などによる小品一八点、合わせて二五点が展示された。最初の絵は油彩の「つたえたいこと」である。「つたえたい」ということは「忘れない」と同義だろう。黒々とした津波が襲おうとしている。画面のほとんどを占めている津波のすさまじい迫力。その津波は一つの眼を持っている。その眼は怖いというより哀しい眼に私には見えた。そして津波を待ち受けるようにして一人の少年が鑑賞者に背を向け立っている。大震災での犠牲を象徴しているのではないだろうか。鎮魂の思いも伝わってきた。

 

画題を列記すれば、大震災を主題にした作品世界を想像することができる。「雨上がりの仮置場」「灰色から茶色の街へ・・・・・・色が戻ってきた」「途切れた鉄橋」「震災遺跡(あの日の記憶)」「日本一の大堤防を越えて津波が街を飲み込んだ」「秋晴れの線量計」「捜索終了地点」「娘を捜す」「瓦礫置場」「線量計のある公園」「海辺の理容室」「残った一本松」など。

 

 「秋晴れの線量計」には、一つの線量計のみが描かれているのだが、これは原発事故への告発である。「娘を捜す」は小品だが、胸が痛くなる作品だった。崩れ落ちた家が広がる街。その一軒の瓦屋根の下に少し隙間がある。そこを覗き、手で探ろうとしているのは、多分父親だろう。後姿なので表情はわからない。泣きながら娘を捜しているのかもしれない。「海辺の理容室」は、岩手県山田町で流されずに残った理容室を描いたものである。二〇一四年にも展示されていたが、今回は別の角度からとらえている。店の前に立つ、まったく動いていない赤・白・青色のサインポールが、印象的だった。二〇一五年に車で被災地を巡った時に、この理容室を私も見ているのだが、一年経っているのに、片付けもされず二〇一四年の作品と全く同じ情景だったのには驚いた。

 

 画題だけでは、理解できないものも少なくない。「渚にて」では、左側に浜辺で手を合わせている母と少年が立つ。右側には海があり、海には花束が漂っている。少年は父を、母は夫を喪っただろう。命を呑み込んだ海は、今日も変わらず浜に寄せて来る。「桜咲く」は、色調が最も明るい絵である。最上部の桜の木々、満開でピンクの色が鮮やか。その下の傾斜地には、除去された汚染土が一トンほど詰まったフレコンバッグが、八列も階段状に置かれている。置かれてから時間がかなり経っているので、フレコンバッグの上部には雑草が生えている。そして、フレコンバッグの階段の下には、ヤギが一頭立つ。

 

作品展の案内葉書に「この地はこれからの社会の行末を思う時、立ち戻るべき原点であると感じている」とあったが、会場で話を聞いた際にも、「三・一一から見て考えれば、間違った判断をすることはない」と伊藤は語っていた。前回はメディアが大きく取りあげてくれたが、今回は反応がない。なかったことにする、忘れようとする流れを感じると危惧もしていた。それでも、次回は震災十年目を目指す、と決意を述べていた。伊藤は作品展が始まってからも描き続け、三月七日に追加展示した四点の一つが「決意」であった。淡い黒一色による少女の顔の大写し。少女は目をしっかり開けているのだが、小さな涙の滴が今にも零れ落ちそうになっている。絵筆を使っての、伊藤の忘却に対する記憶の闘いは続く。

 

ここで結ぶつもりだったが、六月二九日まで、道立近代美術館と三岸好太郎美術館で開催予定のブリヂストン美術館展を見に行ったので一言。二八歳で夭折した青木繁の『海の幸』と初めて対面することができた。神話を素材とした『わだつみのいろこの宮』も展示されていたが、労働の美と人間の気高さを謳った『海の幸』に感動した。帰宅後、青木繁を描いた小説があったはず、とぼんやりした記憶を頼りに書棚を探し、直木賞作家渡辺喜恵子の『海の幸』(新潮社、一九七一年)を見つけ再読した。渡辺は「青木は絵筆を握っているときだけ、真実に生きている」と書いている。これからも、いい絵と対話したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 234

 

講演『「明治150年」を考える』

 

第二回プロローグ

 

後藤守彦

 

 

 

今日もよろしくお願いします。前回は、たまたま東日本大震災から七年目の三月一一日にお話しすることができてよかったと思います。私は毎朝NHKのラジオ放送を聴いていますが、七時ちょっと前に「今日は何の日」のコーナーがあります。さて、今日は何の日でしょうか。

 

今日は戦艦大和の命日です。一九四五(昭和二〇)年、敗戦の年の四月七日午後二時二三分、アメリカ軍機の二時間にわたる攻撃受け、沖縄に向かった大和は沈められました。乗り組んだ三三三二名中九二パーセントにあたる三〇五六名が亡くなりました。今、大和は九州の南の海底三五〇メートルのところに眠っています。実はこの大和の最後のみならず、大和の存在そのものも、国民には知らされていませんでした。戦争に負けた後、はじめて知ったのです。

 

 大和は「明治150年を考える」というテーマに深く関わっていますので、もう少しお話しします。大和は広島県呉の海軍工廠、国立の兵器工場ですね、そこで一九三七年から四年以上かけ建造され、一九四一(昭和一六)年、一二月八日の真珠湾攻撃の日から八日後にデビューしました。呉といいますと、おととしから上映が開始され、全国各地で感動をよんでいる反戦アニメ映画『この世界の片隅に』、ご覧になった方がいると思いますが、その映画の主人公のすずが、結婚してから暮らしたところです。

 

 なぜ大和はつくられたのでしょうか。背景には大艦巨砲主義があります。レジュメの四ページ、八の(五)をご覧ください。そこに書いてあります。図を書いて説明します。大和がやろうとした戦い方をアウトレンジ(射程外)戦法といいます。これは相手よりも射程距離が長い砲をつくり、相手の弾がとどかない位置から相手を撃つという戦い方です。射程距離を伸ばそうとすれば、砲を大きくしなければなりません。そして、砲が大きくなれば、発射の衝撃が大きくなりますので、砲を支える土台、船体が大きくなります。これが大艦巨砲主義の意味です。しかし、もう航空機が主役の時代になっており、大和はつくっても無用の長物になる可能性がありました。

 

 大和は重さ七万二八〇〇トン、全長二六三メートルの世界一の巨大戦艦として誕生しました。最も大きい砲を主砲と言いますが、主砲の四六センチ砲が九門ありました。四六センチは砲の直径ですが、この四六センチ砲の射程距離は四二キロメートルもありました。ここから四五度の角度で北に向かって撃つと、高さ三七七六メートルの富士山の倍以上のところを飛んで行き、石狩湾に浮かぶ船にあてることができます(一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』人文書院、二〇一五年)。

 

日清戦争・日露戦争では、日本は主にイギリスから買った戦艦で戦いました。それが世界最大の戦艦を自前で建造するところまできたのです。悲劇の大和と言われますが、大和に光をあてるとすれば、明治以降の工業化と技術水準の高さを示したことでしょう。確かに、アジア・太平洋戦争では、レーダー開発などの面で、アメリカの技術力・工業力の高さを思い知らされますが。いずれにしても、この技術が兵器をつくるために使われたことは、とても不幸なことでした。

 

 これに対して、大和の影、あるいは悲劇といっていいのが、明治以降日本が続けた無謀な戦争の、無謀な戦術の究極の姿でした。大和は人の命、人間の尊厳を全く無視した特攻作戦に使われたのです。私はかつて特攻隊について調べ、本を書き(『特攻隊と北海道』溶明社、一九九四年)、この例会でもお話ししました。有名な、カミカゼ正しくは神風特別攻撃隊といわれるものは飛行機を使った航空特攻です。これに対して、大和は船を使った海上特攻、水上特攻です。アメリカの猛攻撃を受けている沖縄に向かい、途中アメリカの艦隊をけちらし、沖縄の海岸に乗り上げ、陸上の砲台となって戦うプランだったといわれていますが、はっきりしません。

 

他の戦艦などから燃料の重油をかき集め、大和を中心に巡洋艦一隻・駆逐艦八隻の計一〇隻で艦隊を組み出発しました。絶対に必要だった航空機の援護はありませんでした。アメリカは暗号を解読し大和の動きをしっかりつかみ待ち受けていました。出発してから二三時間後に、大和は沈められました。

 

艦隊の司令長官の伊藤整一海軍中将は、連合艦隊司令部の特攻命令に反対でしたが、最後は「一億総特攻の先駆けになってほしい」と説得されたようです。大和に続いて我々も死ぬから先頭にたって行ってくれというわけです。当時の人口は一億もありませんでしたが、「一億総特攻」したら国民は残るのでしょうか。それで一体何を守るのでしょうか。前回お話しした、明治になってつくられた天皇制国家を守ること、国体護持が当時叫ばれましたが、国民がいないところで国体は存在できるのでしょうか。

 

伊藤長官は大和と運命をともにしました。伊藤長官には、男一人、女二人、合わせて三人の子どもがいました。ただ一人の男の子叡(あきら)は、父が亡くなってから二一日後の四月二八日に、航空特攻により沖縄海上で戦死しました。二一歳でした(中田整一『四月の桜』講談社、二〇一五年)。

 

それでは本題に入ります。今日は主にアジアの視点から、「「明治150年」を考える」というテーマを深めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 233

   講演『「明治150年」を考える』

 

第一回プロローグ

 

         後藤守彦

 

 

〈私が事務局に入っている北広島九条の会の例会で、「「明治150年」を考える」をテーマに二回連続話すことになりました。三月一一日の第一回目で、最初に話したことを紹介します〉

 

 

 

また、皆さんと一緒に学び考える機会を与えていただきました。よろしくお願いします。今日は三月一一日です。七年前の東日本大震災の発生時刻、二時四六分を間もなく迎えます。全国的に黙祷が行われますが、話を進めますので、心の中でお願いします。私は被災地を三度訪れていますが、東日本大震災を思いおこしながら、お話しするつもりです。

 

早速ですが、レジュメをご覧ください。【資料1】はオーストラリアの歴史学者テッサ・モーリス・スズキの言葉です。以前、「近代日本の戦争と平和について考える」というテーマでお話しした時も、紹介しました。彼女は、昨年夏も来道し、強制連行された朝鮮人の遺骨が埋められた地に立ちました。その遺骨を祖国に届ける運動に取り組んでいる、深川の住職殿平善彦さんの運動に協力しています。殿平さんには、北広島九条の会の例会でお話ししていただいことがあります。このように彼女は書斎に閉じこもっていない、行動する研究者です。読んでみます。「現在、世界中どこでも、政治的決定の基盤は歴史の理解である。すべての戦争は過去の解釈の差異をめぐって戦われる」(『過去は死なない』岩波書店、二〇〇四年)。ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが負けたことを屈辱の歴史と理解し、第二次世界大戦を起こしました。安倍首相は、民主主義がなく戦争が繰り返された、明治時代を含めた戦前の日本を否定していません。そうした歴史の理解にたって、憲法を変え、日本を戦争する国にしようとしているのです。

 

一月四日の年頭記者会見で安倍首相は、明治維新から一五〇年になるが、「あらゆる日本人の持てる力を結集し、近代化を一気に推し進めることで、先人たちは独立を守り抜き、国難とも呼ぶべき危機を克服しました」と述べました。また、政府の文書には「明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです」と書かれています(内閣官房「明治150年」関連施策推進室、二〇一七年一一月)。こうした明治時代を讃える明治美化論を、安倍首相は憲法を変える力にしようとしています。【資料2】の文章を書いた山田朗は日本近代史の研究者です。二〇〇九年に、学びなおしのため通った明治大学の大学院で、私は一年間お世話になりました。読んでみます。「明治時代に対して高い評価をする歴史認識が、戦後の民主主義に対して低い評価をする歴史認識を支え、改憲への強い志向性をもたらしている。つまり、あえて言えば、改憲問題とは、つきつめると歴史認識問題とまとめることができる」(『日本の戦争 歴史認識と戦争責任』新日本出版社、二〇一七年)。

 

この明治美化論には、明るい明治、暗い昭和、明治は良かったが昭和に入って駄目になったというという説もあります。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などの歴史小説の作者である司馬遼太郎の考え方でしたので、司馬史観ともいわれます。司馬遼太郎は、明治の国家はよかったが、「昭和ヒトケタから同二〇年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だった(中略)あんな時代は日本ではない、と理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある」(『この国のかたち 一』文藝春秋、一九九〇年)とまで言い切っています。この激しい怒りは彼の兵士としての戦争体験からくるものでしょう。しかし、こうしたとらえ方は正しいのでしょうか。

 

今月と来月の二回にわたって、明治とはどんな時代だったのか、日本の近代化とは何だったのか、明治と敗戦までの昭和前期はつながっているのかいないのか、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。その際に、明治美化論に欠けている、民衆・アイヌ・女性、そして何よりもアジアの視点にたって、深めたいと思います。

 

それでは本題に入ります。

 

 

 

 

 

 232

 

     ショパンを聴く

 

後藤守彦

 

 

 

三月一日は、ショパンの誕生日である。一八一〇年、フランス人の父とポーランド人の母のもと、ワルシャワ郊外のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。かつて高校で世界史の授業を担当した際、事件や人物の物語プリントを作成していた。一八三〇年、フランスでは七月革命が、ロシアなど三国に分割支配されていたポーランドでは独立運動が起こる。次は、その単元で用いたショパンと題した物語プリントの前半部である。

 

 

 

二〇歳のショパンは一八三〇年の冬、恩師や親しい友人に見送られてポーランドを発ちます。ショパンは祖国の土で満たされた銀杯をはなむけに受け取っていました。一一月二九日、ワルシャワにおける独立蜂起の報道を耳にします。ショパンと友人は、ポーランド人が立ち上がったことに熱狂し、武器を取るためにウィーンから帰国しようとしました。翌日、友人は出発し、ショパンは心に決しかねて苛立っていましたが、早馬で友人の後を追いました。しかし、追いつくことができず、途中で引き返さなければなりませんでした。父は、帰国せずに音楽に命をかけるよう手紙でなだめてきました。ショパンは一八三一年七月、ウィーンを去ってパリに向かいました。シュツットガルト市に入った九月上旬、ワルシャワがロシア軍によって陥落させられたことを知ります。ポーランドの革命に期待していたショパンの失望は、大きいものでした。エチュード(練習曲)第一二番はこの時作曲されたものとされ、革命のエチュードといわれています。

 

 

 

プリントはさらに作家ジョルジュ・サンドとの出会いからショパンの死へと続く。勿論

 

エチュード第一二番〈革命〉を、教室に持ち込んだプレーヤーで生徒と一緒に聴く。このプリントは大筋では問題はないが、ショパンがエチュード第一二番〈革命〉を作曲した時期は勇み足だったようである。決定版といわれるショパンの伝記を書いたバルバラ・スモレンスカ・ジェリンスカは、ワルシャワ陥落の報に接して書いたとするのは伝説で、曲想からみても、「まだ蜂起勢力の奮闘が続く間にウィーンで書いた可能性が最も高い」と、結論付けている(『ショパンの生涯』音楽之友社、二〇一〇年)。

 

平野啓一郎は小説『葬送』(新潮社、二〇〇二年)で、画家ドラクロワをもう一人の主人公にしてショパンを描いた。さらに、一一年後、『ショパンを嗜む』(音楽之友社、二〇一三年)で、新しい研究成果を取り入れショパン論を展開している。平野は、ショパンの最高傑作は「舟歌」としながら、「ショパンをより深く知ることで、人は、バラード第四番を聴き、作品五九の三つのマズルカを聴きながら、何を問うてみるべきかがわかるようになるだろう。そうした質問者にだけ、ひそかな打ち明け話をしてくれるのが彼の音楽である」とも述べている。

 

ところで、ショパンの友となったドラクロワは二八歳のショパンを描いている。もともとはピアノを弾くショパンと聴き入っているジョルジュ・サンドを描いた一枚の絵であり、後に二つに割られたのであった。恍惚の表情との解説もあるが、私は明るい表情とはどうしても思えない。「青ざめた顔。神経質そうに翳った表情と、憂いを帯びたまなざし」(加藤浩子『音楽で楽しむ名画』平凡社、二〇一六年)との解釈を支持する。この有名な肖像画が収蔵されているルーヴル美術館を私は二度訪ねているのだが、残念なことに見た記憶がない。

 

作家のショパン論をもう一つ。一九八四年に芥川賞を受賞した高樹のぶ子も、ショパンがジョルジュ・サンドと一九三八年の冬を過ごした、地中海に浮かぶマヨルカ島、サンドの館のあったノアン、ショパンが暮らしたパリを旅して、ショパンに寄せる思いを詩的な文体で綴っている。それが『ショパン 奇跡の一瞬』(PHP研究所、二〇一〇年)である。高樹は、ショパンには「サンドのように、気持ちを言葉で表現する力がない。自分の言葉を追いかけて佇むしかない。複雑な思いを放出するためには、ピアノに向かうしかないのだ」と見る。そのうえで、「多様な感情を鍵盤だけで、極めて求心的に表現した」ショパンの音楽は、「現代人の心を、切なく和らげ、高揚させ、愛について考えさせ、これらの果実に結果的に寄与した」と評価する。

 

ショパンが亡くなったのは、一九四九年一〇月一七日だが、前日にショパンは、葬儀でモーツアルトのレクイエムを演奏知るように指示している。茨木のり子の詩「モーツアルト」は「鬱病の治療には/最近/モーツアルトをきかせる方法もある/と精神科の医師が語った」で始まる(『歳月』花神社、二〇〇七年)。癒しの音楽の筆頭にモーツアルトがあげられ、中でもレクイエムが最高だといわれている。私もモーツアルトのレクイエムをよく聴くが、ショパンにも癒される。

 

最後に、ショパンの楽曲をめぐって、前述したエチュード第一二番〈革命〉や舟歌など以外の作品について少しふれてみたい。前掲『葬送』は、一八四九年一〇月三〇日、パリのマドレーヌ寺院で、三九歳で亡くなったショパンの葬儀が行われる直前の場面から始まる。この葬儀では、ピアノソナタ第二番〈葬送〉の第三楽章がオーケストラによって演奏された。ショパンのピアノソナタは三曲あるが、私は第三番、中でも第三楽章中間部の甘い旋律に心震わす。

 

ノクターンは夜想曲と訳されているように、静かな夜の気分を表す、抒情的な小品である。テンポは緩やかで、メランコリックな雰囲気を感じさせる。第一番と第二番の人気が高い。二〇〇二年に公開された映画『戦場のピアニスト』の冒頭シーンは衝撃的だった。一九三九年九月一日、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まる。ピアニストが放送局で第二〇番を弾き始めて直ぐに、ドイツ軍の砲撃音が聞こえてくる。このショパン最後のノクターンは美しくはあるが、哀しみがにじみ出ている。

 

ピアノコンチェルトは二つしかない。ともに、ポーランドを出国する前にワルシャワで初演されている。ピアノの独立した音もいいが、オーケストラをバックにした、オーケストラが引き立て役となって響いてくる音もいい。第一番第二楽章の導入部と終結部のゆったりと奏でられるパート。どこから音が降ってくるのだろうか、どこから音が湧いてくるのだろうか。

 

冬の夜、ふと窓外に目をやると小雪がひらひら舞っている。いつのまにか雪片が音の粒子となって私に注ぎはじめ、私の奥深くに浸みこんでくる。そんな幻想に酔いしれショパンを聴く。

 

 

 

 

 

 

230

 

 歌詠み二人

 

                後藤守彦

 

 

 

私の妻は俳句を詠む。妻の句づくりの姿を見て、言葉にこだわり、言葉を大切にしていることを強く感じる。俳句と並ぶ短詩型文学である短歌もそうだろう。その短歌を詠む、不思議な筆名をもつ歌人を最近知った。その名は鳥居。彼女は本名を公表していない。年齢も不詳である。偶然だが、私と同じ北広島九条の会の事務局員に同名の女性がいる。夫の姓だが、夫婦とも愛知県出身である。鳥居という名は、都道府県別では、愛知県が一番多い。いずれにしても珍しい名だろう。

 

鳥居は、現実世界と非現実世界の境目にある。歌人鳥居は、作品の中でこの二つの世界を行き来する。彼女の歌集『キリンの子』(KADOKAWA、二〇一六年)の、歌人吉川宏志の解説は「さまざまな偶然によって、孤独で凄惨な生き方をしなければならない人がいる。鳥居もその一人だった」で始まる。

 

二歳の時に両親が離婚し、小学校五年の時には母に目の前で自殺される。

 

 

 

透明なシートは母の顔覆い

 

涙の粒をぼとぼとと弾く

 

 冷房をいちばん強くかけ

 

母の身体はすでに死体へ移る

 

 

 

事実が発生した後、かなり時間が経ってから詠んだものだが、リアルで臨場感が漂っている。作者が事実に入り込んでいる最初の歌に対して、二つ目の歌は、事実と少し距離をおいている。「死体へ移る」という表現には冷徹さも見出すことができよう。

 

 その後養護施設で暮らすが、虐待を受け、小学校も卒業していない。その間、すさまじいイジメを受けている。

 

 

 

  全裸にて踊れと囃す先輩に

 

囲まれながら遠く窓見る

 

 

 

作家の柳美里も、「昼休み、校庭で数十人の生徒に取り囲まれて「脱がせコール」を掛けられ、わたしは全裸にされました」と、小学校時代のイジメ体験を語っている(『国家への道順』河出書房新社、二〇一七年)。

 

鳥居は自殺未遂、ホームレス生活も体験し、拾った新聞などで文字を覚え、独学で短歌を学ぶ。そして、自分の言葉を獲得していく。

 

 

 

 助けられぼんやりと見る灯台は

 

ひとりで冬の夜に立ちおり

 

 植物はみな無口なり自死できず

 

眠ったままの専門病棟

 

 

 

非現実世界、死の世界にいる母を、現実世界、生の世界にいる鳥居は美しく哀しく歌う。

 

 

 

 目を伏せて空へのびゆくキリンの子

 

 月の光はかあさんのいろ

 

 母は今 雪のひらひら地に落ちて

 

人に踏まれるまでを見ており

 

 

 

義務教育を受けられないまま大人になった人たちがいることを表すため、鳥居はいつもセーラー服を着用している。

 

もう一人の歌詠みも女性で、その名は金子文子。間もなく出版される、私が訳したキム・ビョラの小説『熱愛(原題)』の「訳者のあとがき」で、文子が関係した事件について短くまとめた。「一九二三年、関東大震災の発生から二日後、朴烈と妻の金子文子が保護検束され、その後、東京地裁に治安警察法違反、爆発物取締罰則違反容疑で起訴された。ついで、皇太子などの暗殺を謀ったとして大逆罪をでっち上げられ、一九二六年二月から大審院で公判が開かれた。二人は大逆罪を認めるかわりに、法廷で朝鮮を植民地化した天皇制政府の不当と不正を糾弾しようとした。死刑判決が出たものの、無期懲役に減刑される。朴烈は敗戦の年まで約二十年下獄するが、減刑を受け入れなかった文子は、一九二六年七月三十一日、宇都宮刑務所栃木支所で縊死したとされている」。

 

キム・ビョラは、死刑判決後、獄中で「文子は歌を詠み始めていた。歌は生を讃美するのに最もふさわしい表現形態だった。そして、鼻の先でむずむずする死を見つめるのに、よりふさわしい表現形態だった」と描き、作品の中で文子の歌を七首取り上げている。朴烈を「ニヒリストB」として詠んだ五首と次の二首である。

 

 

 

  指に絡む名もなき小草つと抜けば

 

かすかに泣きぬ「我生きたし」と

 

  手足まで不自由なりとも死ぬという

 

只意志あれば死は自由なり

 

 

 

二つ目の歌は、拙著『只、意志あらば――植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)のタイトルにも使い、同書で批評した。「自分の意志であれば、自分自身の選択であれば、死も生である。死刑は死の強制だが、自分の意志でそれを選ぶなら、それは死でなく生である。生への執着を断ち切るべく、こう自分に言い聞かせていたのだろう」。

 

文子も鳥居と同様、歌を詠むことを他者から学んだわけではない。

 

 

 

 歌詠みに何時なりにけん誰からも

 

学びし事は別になけれど

 

 

 

 自分を真摯に見つめる過程で歌と出合い、自分が獲得し自分のものとした言葉で自分を必死に表現したのである。

 

 

 

230

 

『死ぬ』で始まる二つの読書論

 

後藤守彦

 

 

 

 伊藤忠商事の社長を経て、民間出身初の中国大使を務めた丹羽宇一郎が展開する読書論(『死ぬほど読書』幻冬舎新書、二〇一七年)に、大いに共感した。読書で得られものとしてあげたものが、私の考えと完全に符合している。それは「「無知の知」を知る」ということである。「無知の知」は、プラトンの『ソクラテスの弁明』に出てくる、ソクラテスの有名な言葉だが、自分が無知であることを自覚することによって、真の知に至るという考え方を表している。本を読んで今まで知らなかったことを知る、それは喜びであるが、自己反省でもある。もっと他にも自分が知らない真実があるのではないか、と新たな探求を始める。つまり「無知の知」は、認識の出発点となるのである。さらに言えば、「無知の知」は、知識に限らず、人間や社会を理解する上での謙虚さにつながっていくのではないか。

 

 もう一つは、久しぶりに書名に惹かれて読んだ『死ぬ前に後悔しない読書術』(KKベストセラーズ、二〇一六年)である。著者は作家で哲学者の適菜収。彼の名前を衆議院選挙投票日の『しんぶん赤旗』紙上で発見し、正直驚いた。ツイッターに「私は共産主義に否定的です。にもかかわらず比例で共産党に投票を呼び掛けているのは、共産党の政策が安倍政権よりはるかに保守的で真っ当だからです」と投稿したとのことだった。

 

適菜の読書論には、首肯し難いところもあったが、引用に関する次のような主張にはわが意を得た思いだった。「私が書く本は引用が多い。なぜか?私が書くべきことなど一行もないからです。(中略)大事なことは言い尽くされています。新しいことを言うのは、それを消化した後でいい」。引用は根拠の提示であるが、既にそう述べている人がいることを執筆者が知っているならば、伏せるべきではない、と常日頃から思っている。

 

 濫読ではなく精読を、それも古典とじっくり向かい合うことを勧める適菜が、「世界で一番すごい本」と認めるのが、ドイツの作家エッカーマンが記録した、ゲーテの発言集である。恥ずかしながら未読だったので、岩波文庫三巻からなる『ゲーテとの対話』の世界に大急ぎで入り込んだ。ゲーテを敬愛する若きエッカーマンと、彼を慈愛で包むゲーテとの魂の交流。そこは珠玉の言葉が溢れる泉だった。前述した、引用に関連する言葉を二つ紹介したい。

 

「われわれが最も純粋な意味でこれこそ自分たちのものだといえるようなものは、実にわずかなものではないか。われわれはみな、われわれ以前に存在していた人たち、およびわれわれとともに存在している人たちからも受け入れ、学ぶべきなのだ」

 

「私は自分の作品を決して私自身の知恵ばかりに負うているとは思っていない。そのために材料を提供してくれた、私をとりまく無数の事物や人物にも負うていると思っている」

 

 その芸術・思想が後世に与えたはきわめて大きい、と評価されているゲーテ、偉大なるゲーテのこの謙虚さには頭が下がる。ゲーテの読書論も見てみよう。

 

「人はあまりにもつまらないものを読みすぎているよ。時間を浪費するだけで、何も得るところがない。そもそも人は、いつも驚嘆するものだけを読むべきだ」

 

 昨年末、東京の猫本専門店に寄り、文庫本を買った。それにつけてくれたカバーには勿論猫が描かれていた。平積みされた十五冊ほどの本の側で、猫が椅子に座って本を開いている。その横に英語の短文が添えられていた。So many books, So little time、時間が無いのだから、やはり良書を読まなければならないのである。ところが、その書店で私が買ったのは、森村誠一の文庫オリジナル『ねこの証明』(講談社文庫、二〇一七年)で、これはゲーテの言う「つまらないもの」に該当するだろう。実行はなかなか難しい。

 

 

 

 

229

 南京事件を考える

 

               後藤守彦

 

 

 

八〇年前の一九三七(昭和一二)年一二月一三日、日本軍は南京を占領した。「敵国首都南京陥落」を祝って、日本各地では旗行列や提灯行列が繰り広げられた。その南京で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で二〇万人以上とされた虐殺と強姦、略奪、放火が行われた事実を、国民は知らされなかった。政府や軍が知らせるはずはないのだが。筆舌に尽くしがたい地獄絵図が日本軍によって描かれた事実を、ほとんどの国民は知らなかったのである。日本・中国・韓国三国共同編集の共通教材は「虐殺の方法と被害者数からみて、南京大虐殺事件は日本による組織的な行為だったといえよう」(『新しい東アジアの近現代史』(日本評論社、二〇一二年)と明言している。同年の七月七日の盧溝橋事件により、日中戦争が始まったので、間もなく終わろうとしている今年は、日中戦争開戦八〇年となる。毎年この日には「七・七平和集会」が札幌で開かれているのだが、私が事務局員となっている北広島九条の会は、昨年から実行委員会に参加している。

 

ところで、アジア・太平洋戦争が日中戦争の延長線上にある、とどれだけの日本人が認識しているであろうか。日本近現代史研究者の山田朗は、指摘する。「多くの日本人の戦争認識・歴史認識は、戦争といえばアメリカとの戦争ということに収斂するが、あらためて日中戦争を中心に据えた戦争認識・歴史認識へと再構築することが、私たちに求められている」(「日中戦争開戦八〇年にあたっての歴史認識の再構築」『歴史地理教育』二〇一七年七月号)と。そうした視点に明確に立った労作が今年誕生した。それが笠原十九司『日中戦争全史』(高文研、二〇一七年)である。序章の冒頭で、戦争を大量殺人と言い換えるべきだ、という歌手美輪明宏の言葉を引用して始まる、日本の中国侵略戦争の優れた通史となっている。江口圭一『十五年戦争小史』(青木書店、一九九一年)が今も高く評価されているが、刊行されてから、約三〇年後に、それを乗り越えたと言えよう。笠原は南京事件研究の第一人者であり、虐殺の犠牲者総数を「十数万以上それも二〇万近いかあるいはそれ以上」としている(『南京事件』岩波新書、一九九七年)。

 

残念なことに、南京大虐殺はなかった、とする言説は依然として消えていない。学問的には破綻しているのだが、「日本人がそんなことをするはずはない」という根拠のない感情論も存在する。否定論に明確に対峙する、最近の著作が清水潔の『「南京事件」を調査せよ』(文藝春秋、二〇一六年)である。戦後七〇年の年にあたる二〇一五年一〇月に日本テレビでドキュメンタリー番組「南京事件 兵士たちの遺言」が放映されたが、清水はその制作の中心にいた。清水は緻密な調査と取材に基づき、南京大虐殺は事実であり、「国にとって、自分にとって、都合の悪い過去に触れたら「自虐史観」だとか「顔向けできない」からと、事実を押しやってさえしまえばそれでいいのか?過去を封印してしまうことが国益で愛国心なのか?冗談ではない」と言い切っている。

 

加藤周一は、日本の土着的世界観の基本としてとして、現在主義と集団主義をあげているが、現在主義とは、「過去を水に流す」という諺に象徴されている考え方で、「現在の生活を円滑にするために、過去に拘らぬことを理想とする傾向」を意味する。「ドイツ社会は「アウシュビッツ」を水に流そうとしなかったが、日本社会は「南京虐殺」を水に流そうとした。その結果、独仏の信頼関係が「回復」されたのに対し、日中国民の間では信頼関係が構築されなかったことは、いうまでもない」(『日本文化における時間と空間』岩波書店、二〇〇七年)と、加藤は批判する。蛇足ながら、「水に流す」は『広辞苑』では「過去のことをとやかく言わず、すべてなかったことにする」と記述されている。

 

 一〇月二八日、北見市留辺蘂町で講演会があった。木村玲子さんが中心になって取り組まれている、イトムカに強制連行され犠牲になった中国人・朝鮮人の慰霊碑を建てようとする運動の一環として行われたものである。五〇年以上前、少年時代の三年間を留辺蘂町で過ごしたこともあって、私は「日本の戦争とアジア」との演題で一時間ほど話す機会を与えていただいた。一八七四年の台湾出兵からのアジア侵略史を「七〇戦争」ととらえて語り、レジュメのおわりに、前掲『「南京事件」を調査せよ』から一文を引用した。

 

日清、日露、日中戦争。私の生まれた国は、海を渡ってこの大地へ何度も攻め込んだ。(中略)多くの人が死んだ。多くの人たちを殺した。その「事実」は決して変わることはない。そして忘れてはならない」

 

そして、慰霊碑は事実を忘れないための記憶の場となる、と講演を結んだ。

 

 

 

 228

 

 

 

 戦争と野球

 

               後藤守彦

 

 

 

七月八日から約三カ月間開催された、北海道博物館の特別展『プレイボール北海道と野球をめぐる物語』を見た。「ベースボールがやって来た」「球児と学生たちの夢」「強者ぞろいの社会人野球」「プロ野球を観に行こう」「くらしの中の野球」の五部構成になっていたが、北海道の野球史にとって最も感動的な出来事は二〇〇四年、夏の甲子園での北海道勢初優勝だろう。翌年も優勝しただけでなく、その次の年も実質優勝と言っていい決勝再試合まで戦った駒沢大学付属苫小牧高校の活躍は、道民の脳裏に今もはっきりと焼き付いているにちがいない。 

 

 私は二年前まである専門学校の教壇に立っていたが、高校時代まで野球部員として練習に明け暮れ、野球といえば「どろどろのユニフォーム」を連想する、と言った学生がいた。彼は「野球は好きですが、プロ野球は見ません。常に全力疾走だった私には、あのゆるい感じが許せないからです」と強い口調で語っていた。

 

 確かに、「ゆるい感じ」のプロ野球だが、シーズンが始まると、私の心はやはり騒ぐ。ファイターズのエースだったダルビッシュ有がアメリカに渡り、イーグルスの日本一に貢献した田中将大もヤンキースに入り、日本のプロ野球はつまらなくなった、そんな声が聞こえてきた。私も同感だが、大谷翔平というニューヒーローが誕生し喜んでいた。彼のピッチングとバッティングを見に、札幌ドームに時折足を運んだ。が、その彼も大リーグ入りすると言われている。

 

 十月四日、大谷の日本でのラスト登板になるであろう、対オリックス戦。平日の夜にもかかわらず、ほぼ満員に近い約四万人が札幌ドームにつめかけたが、私もその一人だった。例年複数回ファイターズの試合を見に行くのに、今年はこの日が最初で最後となった。彼は二刀流の完結形の「四番投手」として先発出場した。途中で交代すると思ったが、何と完投、それも完封したのだから、驚くしかない。一二四球をなげ、七球が一六〇キロ台だった。最速は自己ベストの一六五キロには及ばなかったものの一六二キロを出した。被安打二、奪三振十。打者としては一安打だったが、鋭くセンター前に打ち返し、先制のホームを踏んだ。いい試合を見ることができたと思っている。

 

 プロ野球については、一度書いている(『札幌民主文学通信』二〇一二年一〇月号)が、「現在の輝かしい日本野球は、戦争に翻弄されながら、受難時代に細々と野球を守ってきた先人たちの努力のうえにある」(山室寛之『野球と戦争―日本野球受難小史』中公新書、二〇一〇年)ことは間違いない。七〇名ほどにのぼる、戦場に消えたプロ野球選手の一人として先ず名前があがってくるのは、ベーブ・ルースから三振をとった沢村栄治である。一九四四年一二月、彼が乗った、フィリピンに向かう輸送船がアメリカの潜水艦に撃沈され、二七歳で亡くなった。戦後、彼を記念して設けられた沢村栄治賞は、最優秀投手賞ともいえる名誉あるもので、前述したダルビッシュ・田中将大も当然受賞している

 

アメリカ野球学会が野球関連の優れた書籍に贈るシーモア・メダルを受賞したロバート・K・フィッツ『大戦前夜のベーブ・ルース野球と戦争と暗殺者たち』(原書房、二〇一三年)は一九三四(昭和九)年に来日した、ベーブ・ルースを筆頭とする大リーグ親善選抜チームの動きを追っている。自分を歓迎した日本人の熱狂ぶりから、日本遠征で日米戦を未然に防ぐことができたと確信したベーブ・ルースが、真珠湾攻撃を知り激怒したことも紹介している。沢村栄治についても「沢村の悲劇――三度の徴兵と死」と題する章をもうけて詳しく描いているが、戦争の犠牲者としてのみ扱っていない。沢村はアメリカ嫌いで、日本の侵略行動を全面的に支持していた。「日本の何百万もの軍人や民間人が、家族や生活を犠牲にして国のため戦った。沢村はまさにその象徴だった。だが戦後になると、沢村の人生には違う意味が付与されるようになった。積極的な戦争支持者としてではなく軍国主義の犠牲者として、戦争で夢や生活を打ち砕かれたあらゆる世代の国民の象徴となったのである」。さらに、沢村が召集された第一六師団歩兵第三三連隊は、一九三七年の南京大虐殺に関わったことにも言及している。沢村自身は翌年一月に最初の召集令状を受け取ったので、この虐殺事件に直接かかわってはいないが。

 

沢村栄治に関しては、昨年も本が出版された(山際康之『兵隊になった沢村栄治戦時下職業野球連盟の偽装工作』ちくま新書、二〇一六年)。著者はあとがきで「さまざまな方法を駆使しながら軍を欺き、職業野球の存続にかける野球連盟の男たち」を描いた、と述べているのだが、説得力が不足しているのではないだろうか。

 

巨人で沢村の球を受けた捕手の吉原正喜も戦死している。高校時代は熊本工業で川上哲治とバッテリーを組み、二度甲子園に行き、一九三八年巨人に入団した。一九四四年のインパール作戦で戦死したが、その直前ビルマで会ったのが川崎徳次である。彼は無事帰還し、巨人、西鉄で活躍し、二度の最多勝に輝いたが、自伝(『戦争と野球兵隊にされたプロ野球選手』ベースボールマガジン社、一九九七年)の中で、会った時の吉原の言葉、「お互い死んじゃつまらんぞ。身体に気をつけて絶対に東京に帰るぞ」を伝えている。

 

特攻隊を書いた拙著(『特攻隊と北海道』溶明社、一九九四年)では、スポーツ選手として、スキージャンプの久保登喜夫さんを取り上げたが、特攻隊員として死んだ野球選手もいる。神風特別攻撃隊員として戦死した、唯一人のプロ野球選手が石丸進一である。彼は、一九四五年五月海軍鹿屋基地で同僚とキャッチボールし、一〇球投げたところでグローブを放り投げ、沖縄に向かって出撃した(牛島秀彦『消えた春―名古屋軍投手石丸進一』第三書館、一九九五年)。

 

広島カープのフランチャイズの広島市民球場では、毎年、八月六日八時一五分を語り継ぐ「ピースナイター」が開かれている。今年は八月二日で一〇回目となる。球場内には折り鶴を折るコーナーも設けられていた。平和の折り鶴が飛ぶ。野球と戦争は、スポーツと戦争は決して両立しない。

 

 

 

 

 

 

227号

 

音楽ミステリの愉楽(その三)

 

後藤守彦

 

 

 

 過去二回(二〇一七年二・六月号)では収まらなかったので、もう一度、音楽ミステリについて論じたいと思う。それも一つの楽曲にこだわって。その名は「スターバト・マーテル」。この曲は、十字架にかけられたイエスの死を悲しむ母マリアを表現している聖歌で、詩は一三世紀に作られた。詩は三行詩二〇節で構成され、第一節は『音楽大事典』(平凡社、一九八二年)によると、「悲しみに沈める御母は涙にむせびて/御子の懸り給える/十字架のもとにたたずみ給えり」となっている。「スターバト・マーテル」の意味は、第一節で象徴されているように「御母はたたずんでいた」である。この詩に多くの作曲家が曲をつけた。その数は六〇〇以上あるといわれるが、最も有名なのはロッシーニとドヴォルザークのものである。

 

先ず近藤史恵『スタバト・マーテル』(中央公論社、一九九六年)がある。第一章で主人公りり子が歌うのは、二六歳で亡くなった、イタリアのペルゴレージが、最晩年の一七三六年に作曲したもので、「メロディのもの悲しさ、荘厳さで際立っている」。それを聴き感動した大地とりり子は愛し合うようになった。ところが大地と過去に関係した女性たちが精神異常になったり、事故死したりした事実が次々と明らかになる。りり子も深夜侵入した男に襲われる。背後に何があるのだろうか、何か凶悪な意思が潜んでいるのだろうか。そこに「御母」の影が見え隠れしている。エピローグには「歪んだ愛といえど、一生を愛するためだけに消費した彼女もまた、聖母なのかもしれない」とある。

 

題名にカノンなどの音楽用語を用いることが多い篠田節子も『スターバト・マーテル』(光文社、二〇一〇年)を書いている。乳癌の手術後、夫に勧められてアクアクラブに通い始めた彩子は、プールで泳ぎながら、最近、「死の世界はおそらく黒ではなく、こんな透明な青だろう」と思うようになった。そこは、「浮遊感に包まれた、孤独な世界」。そのクラブで、三十年ぶりに、中学時代の同級生光洋と再会する。自宅に送ってもらうことになるが、車内に流れたのは、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」。クラシックが特に好きなわけでもない彩子だが、「ただこの曲だけは初めて聴いた十代の終わり頃、その全編に漂う、きやびらかな死の気配に心を絡め取られた」のだった。子どもに自殺され、武器輸出の犯罪に関わり警察に追われることになった光洋への思いが深まっていき、ついに東京を離れ札幌にいる光洋のもとへ向かう。「自分の空洞よりも、さらに深い漆黒の闇を胸に秘めた男を求めて」二人は結ばれるだが、凍結した冬道を走るラストシーンのキーワードは、冒頭と同じく死である。

 

海外の作品としては、イタリア最高の文学賞であるストレーガ賞を受賞したティツィアーノ・スカルパ『スターバト・マーテル』(河出書房新社、二〇一一年)がある。これはミステリから外れるのだが、あえて取り上げることにする。著者はあとがきで、「私は長いこと、もっとも好きな作曲家と寂しい境遇にあった弟子たちにオマージュを捧げたいと思っていた」と、執筆の動機を語っている。作品には、実名や地名が出てこないが、作品の舞台が、ヴェネティアにあった、親に捨てられた少女たちを世話したピエタ養育院であり、その施設の教師がヴィヴァルディであったという史実が推測される。「寂しい境遇にあった弟子」の一人チェチリアが、会ったこともない母親あてに手紙を書くというスタイルでこの小説は進む。書簡体小説といえようが、日記と言えなくもなく、独白、呟きが続く。手紙には日付もなく、章分けもされていない。この施設では才能が認められた少女たちに楽器を持たせ、楽団が結成される。チェチリアは優れたヴァイオリニストになる。チェチリアは「言葉と考えを調和させる能力がほしい。頭に浮かぶことと自分の書くことを調和させられるように。楽譜に書かれた音符と奏でられた音とが完璧に呼応するように、考えを書けるようになりたい」と願いながら、書き続けていたが、やがて、「文字が音符に変わっていく」「話として生まれた考えを書き写していくうちに、それが音になっていく」ことに気づく。チェチリアはヴィヴァルディが嫉妬するほどの高みに達したのだった。薄幸の少女が見たヴィヴァルディはどのような音楽家であったのか。この作品はあくまでも美しく哀しい。

 

東日本大震災直後の四月の札幌交響楽団定期演奏会で、チェコドヴォルザーク協会会長のエリシュカが、ドヴォルザークの「スターバト・マーテル」を指揮した。ドヴォルザークは、長男と二女をつぎつぎと喪った一八七七年に作曲している。このプログラムは前年に決まっていた。だから、エリシュカは「この悲しみと痛みに満ちた宗教曲を、日本の悲劇に捧げることになろうとは、当時誰が想像できたでしょう」と述懐している。涙を流しながら聴いていたのは私だけではあるまい。ドミニコ修道会の元総長ティモシー・ラドクリフは「私たちが神の国を希望することを表明するにも音楽を使う」「音楽は最も体と繋がったもの」(『なぜクリスチャンになるの』教文館、二〇一六年)と述べているが、振り返ってみれば、演奏会場のキタラでそれを少しだけ実感していた、とあらためて思う。残念ながら、そのエリシュカの、柔らく熱い指揮ぶりを、今月二八日の札幌交響楽団定期演奏会を最後にもう見ることはできない。

 

 

 

 

 

  226号

 

  解説の解説を書く

 

後藤守彦

 

 

 

解説の解説を書くのはしつこいことかもしれないが、躊躇せず書くことにした。対象としたのは、『新訳 チェーホフ短篇集』(集英社、二〇一〇年)で、解説者は新訳に挑戦した、ロシア文学を専門とする沼野充義東大教授。「女たち」「子供たち」「死について」「愛について」と題する四つの章に、一三の短篇を振り分け、作品毎に解説を書いている。

 

読もうとしたのには二つの理由があった。一つは、七月例会での、松木さんの提起による短篇小説論議に触発されたからである。沼野も、短篇は「登場人物の人生の一局面や一つのエピソードを中心に鮮やかに造形される」ものと定義している。もう一つは、現在小説の翻訳中なので、参考になるものを求めたからである。

 

当然ながら、解説では、個々の作品を丁寧に読み解き、豊かなチェーホフ論を披歴しているのだが、関連してというか、脱線してというか、ともかく、そこで沼野が展開している、ロシアに焦点をあてた人間論、文学論、文化論、言語論、歴史論、これが実に興味深い。それに倣って、私も沼野の解説に関連して語っていきたい。

 

「中二階のある家」には、語り手である画家と彼が愛したミシュス、そして彼女の姉リーダが登場する。若く美しいリーダは良家の娘でありながら教師の給料で暮らし、貧農を救済するため運動している女性だった。一九世紀半ばごろから、リーダのような女性の社会運動家・革命家が出現したが、その多くが貴族階級出身だった。その一人として皇帝アレクサンドル二世暗殺の企てに加わったソフィア・ペロフスカヤが取り上げられている。詳述されていないので付言したい。一八八一年、皇帝の暗殺は成功するが、彼女は逮捕され、二七歳で絞首刑となる。クロポトキンは『一革命家の思い出』で「ペロフスカヤは心の底からの「人民主義者」であり、同時に本当の鋼鉄の革命家であり闘士であった」と熱く語っている。クロポトキンが紹介している、彼女の言葉が胸を打つ。「私たちは大きな仕事を始めたんです。おそらく、私たちとその次の世代とはこの仕事のために倒れるでしょうが、それでもやりとげなくてはならないでしょう」。沼野が言及していない、一八二五年に自由を求め蜂起した、デカブリストと言われる青年将校たちの妻も忘れてはならないだろう。ネクラーソフの長詩「ロシアの女たち」は、彼女たちの気高さ、健気さを感動的に歌い上げている。流刑となった夫を慕ってシベリアに向かったのは、極寒の地で約三〇年間暮らし、老婆となって都に戻った公爵夫人ヴォルコーンスカヤなど九人だった。

 

沼野は、辻橇の御者の内面を掘り下げた名作のタイトルを変えた。ずっと使われてきた「ふさぎ虫」から「せつない」へ。勿論、そのほうが原題に近い、と判断したからである。原題はロシア語で「トスカ」といい、憂鬱、煩悶、不安が渾然とした精神状態を指すのだが、訳するのがとても難しい単語と言われている。沼野は、ロシア語の「トスカ」のように、「各民族、各言語、それぞれ固有の概念や感情を表す語彙がある」と述べ、その一例として朝鮮語の「恨(ハン)」をあげている。愛用している小学館版『朝鮮語辞典』は、ただ「恨み」としているだけで実に素っ気ない。「恨」についての説明した文献にもあたったが、わかったと自信を持って言えない。むしろ、安易にわかった気になってしまうのは危ういことだろう。わかろうと努めること、そこに意味があるのではないか。今、朴烈と金子文子の愛と革命の生涯をテーマとした、キムビョラの『熱愛』を翻訳中だが、語彙のみならず文章でも直訳しただけではどうしても理解できないところがあり、市内在住の韓国出身者に助けて貰っている。

 

ところで、チェーホフは「ぼくはやっぱりあと七年だけしか読まれないだろう」と予言したのだが、チェーホフは死後一〇〇以上経った今も、全世界で読まれている。一九二六年の二月二六日、朴烈とともに大逆罪で訴えられた金子文子が大審院の法廷に入った。その際、彼女が携えていたのが、チェーホフの短篇集だった。前掲の『熱愛』には、文子が獄中でチェーホフの短篇二作を読む姿が織り込まれており、その一つ「賭け」については、あらすじまでかなり詳しく叙述されている。銀行家との賭けに敗れ、一五年間監禁された、若い法学者の、「何もかもが、かげろうのようにはかなく、空しく、かりそめであり、偽りに満ちているのです」から始まる言葉に接した文子が涙を流す。このシーンは作者の創作だろうが。

 

最後に、チェーホフの死について一言。結核持ちのチェーホフは四四歳で亡くなった。沼野は「その小説や戯曲がすべて死の縁で書かれたというのは、なんとも壮絶なことではないか」と述懐している。夭折した人びとの足跡を知る度に、彼らよりはるかに多く時間を与えられた自分は、いったい何を刻んできたのだろうか、と情けなくなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

225号

 

 

 北の国から来た猫第七章

 

後藤守彦

 

 

 

 先ず、朗報をお伝えしよう。といっても全く個人的なことだから、無視されてもかまわない。我が家では私にしか抱かれない飼い猫ミーは、月一度ほどやってくる孫が近づいたら、今まで「シャー」と威嚇し続けていた。しかし、五年半かかったけれども、ついに友人関係が実現した。私がミーと猫じゃらしで遊んでいたら、孫がやりたいというので、やらせてみた。驚いたことに、何と猫が嫌がらず、まるで孫と遊んでやっているかのように、戯れたのであった。とはいえ、猫アレルギーは解消されておらず、孫の目が赤くなることが依然としてある。だから、孫が遊びに来るとなったら、猫の毛を少しでも除去しようと掃除と換気を徹底して行うことになる。

 

 悲しい知らせもあった。我が飼い猫と同時期に、同じ富良野の農家から貰われてきた、知人の猫が最近亡くなった。猫の年齢では一三、人間に換算すると六八。猫の平均寿命の一二歳をこえているので、早死にではないのだが、抱けば抱くほど長生きする、との教えに従って、我が飼い猫を一層可愛がらなければならない、と改めて思っている。

 

 さて、毎年一回、飼い猫の動静とネコ本を紹介してきたが、ネコ本の発行量はすさまじく、在庫一掃どころか、新刊本についても悔しいことにほんの一部にしかふれることができない。

 

 昨年末、猫が詠まれた、約二四〇〇の歌や句と猫に関する言葉を集めた『俳句・短歌・川柳と共に味わう猫の国語辞典』(三省堂、二〇一六年)が出た。この辞典は次のように表記されている。

 

 

 

あまえねこ【甘え猫】そっと人の心模様に添って、猫は甘えの達人。

 

夕闇の猫がからだをすりよせる 種田山頭火

 

猫のさみしうて鳴いてからだすりよせる 種田山頭火

 

 

 

小林一茶や正岡子規の句が多く採用されているが、例示したように種田山頭火の句がいい。「どうしようもない私が歩いている」と認識しながら、放浪の旅を続けた山頭火だから当然だが、捨て猫、野良猫の項にも登場する。「こんなに晴れた日の猫が捨てられて鳴く」「山里にのぼりきて捨猫二匹」「捨てられて仔猫が白いの黒いの」「野良猫が影のごと眠りえぬ我に」など。山頭火からの句からは、深い哀しみがにじみ出てくる。

 

今年早々読んだのが、夏川草介『本を守ろうとする猫の話』小学館、二〇一七年)である。帯封に「二一世紀版『銀河鉄道の夜』」とあった。主人公は、古書店を経営する祖父と暮らす、ひきこもりがちな高校生の少年。本の世界に逃避する少年に、祖父は「お前はただの物知りになりたいのか」と静かに問う。そして「本には力がある。けれどもそれは、あくまで本の力であって、お前の力ではない」「どれほど多くの知識を詰め込んでも、お前が自分の頭で考え、自分の足で歩かなければ、すべては空虚な借り物でしかない」と語りかける。祖父が亡くなった後に、人間の言葉を喋るトラ猫が出現し、本を守る旅に少年を連れ出した。旅を終え、「〈人を思う心〉、それを教えてくれる力が、本の力だ」と確信した少年は足を一歩踏み出していく。本好きの私を喜ばせてくれたファンタジーである。

 

「小さな町に奇跡を起こした2匹の物語」とサブタイトルがついた『図書館ねこベイカー&テイラー』(早川書房、二〇一六年)は、図書館司書のジャン・ラウチが書いたエッセイ。子どものころから活字中毒といっていいほど本好きだったジャンが、心から愛したもう一つが動物である。「裏庭で本に読みふけっているわたしのかたわらを猫や犬がうろうろしていて、手を伸ばして毛の生えた頭をなでながら、読書がもたらす世界に浸る」のがジャンの至福の時だった。ジャンが勤めていた、アメリカ西部ネヴァダ州ミンデンの小さな図書館に、可愛い折れた耳をもつ二匹のスコチッシュフォールドの猫がやってくる。図書館の利用者からも職員からも愛された二匹が図書館を変え、ジャンを変えていく。ジャンは思う、「家でも猫がいて、仕事場でも猫たちがいた。どちらの場所でも本に囲まれていた。わたしの考えるまさに天国だ。人生でひさしぶりに悩みがなくなった」。羨ましい限りである。

 

猫の話題から外れるが、本と図書館を愛するジャンが憤慨したことを二つ取り上げる。本を傷めるもの、例えばアイスキャンディーの棒やバナナの皮がしおりとして使われたこと、そして、ホロコースト否定者が「ホロコーストは絶対に起きなかった」と表紙に書いてあるパンフレットを棚に並んでいる沢山の本に勝手に挟んでいたこと。

 

 『北海道新聞』の書評欄に、「画家で絵本作家の著者が子猫から育てた白いオス猫・鉄三の奇妙で笑える行動の数々を、特徴的な絵で紹介している」とあったので、早速購入したのが、ミロコマチコ『ねこまみれ帳』(ブロンズ新社、二〇一六年)である。前掲『図書館ねこベイカー&テイラー』は図書館で借りたが、他はすべて買ったものである。だから、きりがないとカミさんに叱られてしまった。ミロコマチコを全く知らなかったが、日本絵本大賞など数々の賞を受けている実力者らしい。愛猫には、四六時中、ミロコマチコの視線が注がれ、コメントが添えられた絵になっていく。「朝ごはん欲しくて起こしに来るよ。目を開けほしいからって、まぶたをなめるから、めちゃくちゃ痛いんだよ」から始まり「下くちびるに爪をひっかけて、引っぱって起こす技も持ってるよ」と続く。

 

 今回はここまでにしておこう。在庫を一掃したいのだが、また新入荷ネコ本を捌くだけで終わったしまった次第。

 

 

 

 

 

224号

 

 

ただ今翻訳に挑戦中

 

後藤守彦

 

 

 

 吉井森一「変容する韓国文学」(『民主文学』二〇〇九年九月号)で、金子文子を描いたキム・ビョラの小説『熱愛』を知り、拙著『只、意志あらば植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)に、はしがきの冒頭部分を引用した。邦訳はされていなかったので、拙訳で。

 

「アナキストであると同時に虚無主義者、テロリストでありながら詩人であり、一人の女を限りなく愛したが、結局失わざるをえなかった男がいた。虐待された少女時代の心の傷のため、苦しみと絶望に身悶えした末、一人の男の中に命と愛が一つになっていることを発見したが、最も輝くその瞬間に、夜明けの露のように地上から消えてしまった女がいた」

 

男は朴烈、女は金子文子のことだが、読みなおしてみると、気になる点がある。金子文子は獄中で亡くなったのだから、「失わざるをえなかった」ではなく、「喪わざるをえなかった」とすべきだった、これが一つ。それよりも、「一人の男の中に命と愛が一つになっていることを発見した」は逐語訳すぎて、意味不明ではないだろうか。作品全体をしっかりと読まなければ、正しい訳に近づけないはず、そこで三二〇ページの長編小説で私の朝鮮語の能力をこえているかもしれないが、一行一行を丁寧に訳し綴っていこう、と決めた。

 

しかし、作業は何度も中断して、遅遅として進まなかった。そんな時に意気阻喪させられるような文に出合った。それが大逆事件で国家権力に命を奪われた幸徳秋水の翻訳に関する小文である。名文家として知られる秋水は英語をマスターしており、『共産党宣言』やクロポトキンの『麺麭の略取』を初めて邦訳している。「兆民先生は曽て、ユーゴーなどの警句を日本語に訳出して其文勢筆致を其儘に顕そうとすれば、ユーゴー以上の筆力がなくてはならぬ、総て完全な翻訳は、原著者以上に文章の力がなくては出来ぬと語られた」(「翻訳の苦心」『文章世界』三巻四号、一九〇八年)。秋水の師である中江兆民はルソーの社会契約論を『民約訳解』のタイトルでフランス語から邦訳している。秋水は、「古来文章の大家は皆な実に一字の為めに苦心した、一字の適否が文章全体の意義勢力を軽重すること甚だ大なる故である」とも述べている。さらに、ドイツ文学者の池内紀は「文学作品の翻訳そのものが不可能である。原作をそっくり、匂いや、ぬくみや、色つやまで失わず他の言葉に移すなどありえない」(「ひとり二役」『翻訳家の仕事』岩波新書、二〇〇六年)と語る。ここまでいわれたら、翻訳どころか、文章を書くことすら躊躇してしまう。

 

最近、書評集『雑な読書』(シンコーミュージック・エンタテイメント、二〇一七年)を上梓した英米文学の翻訳家古屋美登里は、「翻訳は日本語の砦」と断言しており、昔、日本の国語をフランス語にしよう、といった志賀直哉の作品は一切読まない、と宣言している。古屋は村上春樹の「翻訳というのは極端に濃密な読書だという言い方もできる」という考えに共感したと述べているが、これは古屋自身の言葉、「翻訳家は、作品をいちばん深く理解しなければならない読者である」に通ずるといえよう。村上は小説の執筆と海外文学の翻訳に交互に取り組んでいる。ハードボイルドの巨匠といわれるレイモンド・チャンドラーの『高い窓』(早川書房、二〇一四年)の訳者あとがきで、村上は「レイモンド・チャンドラーの作品を翻訳していて何より嬉しいことは、ところどころではっと息を呑むような素敵な文章に出会えることだ。もちろんそういう部分は読むだけでも十分楽しいわけだけれど、それを自分の手で、自分の言葉で日本語に移し替えられるというのは、「楽しい」という表現ではとても追いつけない格別の喜びとなる」と語っている。奥書を見ると、村上の肩書は「小説家・英米文学翻訳家」となっている。また、二〇〇一年に札幌で出版社柏艪舎を設立したプロの翻訳家山本光伸は、文芸作品の翻訳についての持論「小説を書くように訳せ」を繰り返している(『誤訳も芸のうち』柏艪舎、二〇一三年)。

 

一方、次のような理解もある。「そもそも若いころから私は滅法翻訳の仕事が好きだった。それは自分をさらけ出さないで、したがってある種の責任をとらないで、しかも文章を作ってゆく楽しみを味わえたからではないか」(須賀敦子『ミラノ 霧の風景』白水社、一九九〇年)。この一文に接し、なるほど、と励まされたような気持になった。須賀はイタリア文学の邦訳、日本文学のイタリア語訳、この両面での翻訳で活躍しただけでなく、優れたエッセー風の小説を書いている女性で、かつて論じたことがある(「『生きる哲学』から始まって」『札幌民主文学通信』二〇一四年一〇月号)。

 

このように迷いながら翻訳作業を重ねてきたが、やっとゴールが見えるところまで辿り着いた。そう遠くない時期に形にしたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 223号

 

 

音楽ミステリの愉楽(その二)

 

後藤守彦

 

 

 

 前回(二〇一七年二月号)は海外の音楽ミステリを紹介したが、今回は国内編となる。初めに、最近久しぶりに引き込まれるように一気に読んだ小説について語りたい。それが、書評に触発されて購入した『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎、二〇一六年)で、今年一月の直木賞に続いて、四月の本屋大賞とダブル受賞になった。作者は多様なジャンルの作品を書いている恩田陸。彼女は、『ユージニア』(角川書店、二〇〇五年)で日本推理作家協会賞を受賞しているので、ミステリ作家として見ることもできるが、『蜜蜂と遠雷』はその枠を超えた音楽小説といえよう。ミステリのような吸引力はあるが。世界は音楽に満ちているとの作者の思いが伝わってくる、この作品自体も全編音楽であふれており、「音楽は素晴らしい。それは絶対的真実だ」「命の気配、命の予感。これを人は音楽と呼んできた」と、音楽賛歌が繰り返される。国際ピアノコンクールが舞台で、エントリーから始まって、第一・第二・第三次予選、本選までを競い合う四人の人物を軸にストーリーは展開するが、数多のピアノ曲の曲想、作曲家像、奏者の所作や内面が細やかに描かれていく。

 

ところで、日本の音楽ミステリには、著名な作曲家の名がタイトルに使われているものが目立つ。中里七里による、ピアニストの岬洋介が事件を解決するシリーズは、『さよならドビュッシー』(宝島社、二〇一〇年)から始まって『おやすみラフマニノフ』(同、二〇一〇年)、『いつまでもショパン』(同、二〇一三年)、『どこかでベートーヴェン』(同、二〇一六年)と続く。どの作品でも、曲想・奏法と奏者の内面を交錯させながら演奏シーンが見事に描写されている。第三作でみてみよう。ショパンコンクールに出場した岬はファイナリスト八人の一人となる。決勝ではピアノ協奏曲の第一番か第二番を弾くのだが、岬は第二番を選ぶ。優勝したポーランド人ヤンは第一番だが、その第一楽章のピアノソロに入るパートは次のように叙述される。「オーケストラが再び第一主題を奏で始める。これがピアノ誘導の合図だ。ヤンはその旋律を受け継ぐ形で独奏に入った。和音を加えた両手オクターブのフォルテシモ。このメロディは十六小節しか続かないが、だからこそ威風堂々と歌わなければならない。惜別の哀しみを背後の弦が優しく包む。それでもヤンの魂は到底鎮まるものではない。指がやり場を探して狂おしく躍る。千々に乱れる心が鍵盤を掻き鳴らす。オーケストラが絡んでくると、ヤンは上下向を繰り返しながら装飾音を加えていく」

 

奥泉光『シューマンの指』(講談社、二〇一〇年)は、精緻な楽曲分析に基づくシューマン論といってよい。そこでは「シューマンの音楽には、闇が全体にねっとりまとわりつくような印象がある。喜びと悲しみが、交わり合い、重なり合うのではなく、喜びがそのまま悲しみであるような音楽。平穏無事の世界に不吉な影が忍び寄るではなく、平穏さそれ自体に、そのまま不吉なものへと反転していく予感が孕まれている」と評されている。確かにミステリだから殺人事件が起こる。女子高生が卒業式の夜に学校内で殺害され、犯人探しが始まるが、未解決のまま時が流れていく。シューマンが指の一部の麻痺によって、ピアニストの道を断念せざるを得なくなった、という史実が事件の背景になっているのだが。

 

江戸川乱歩賞を受賞した森雅裕『モーツァルトは子守唄を歌わない』(講談社、一九八五年)と『べートーヴェンな憂鬱症』(同、一九八八年)は、ベートーヴェンと弟子のチェルニーを探偵役とした、一九世紀のウィーンを舞台とするミステリである。歴史ミステリに入れたいところだが、史実をいじくりすぎているとの批判があるとおり、歴史を利用したフィクションというべきだろうか。

 

松本清張も作曲家名をタイトルに使った作品を一つ残している。それが『モーツァルトの伯楽』(文藝春秋、一九九一年)である。伯楽とは、モーツァルトの歌劇「魔笛」を初演した、ウィーンの劇場主で「魔笛」の脚本を書いたシカネーダーをさす。シカネーダーは俳優・歌手でもあり、「魔笛」では鳥刺しパパゲーノ役を演じた。モーツアルトにとってシカネーダーの存在が大きかった、と考えている著述業の「男」が、モーツアルトが埋葬されている墓地などを訪ね、モーツアルトとシカネーダーの関係、そしてモーツアルトの妻コンスタンツェの役割を探ろうとする。男が雇った案内役はウィーン在住の日本人の「女」で、オペラ歌手を目指したものの挫折したのではないか、と「男」は想像する。松本清張らしく丁寧に調べて書いていることがよくわかる作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 222号

 

 

加藤虎之助を知る

 

後藤守彦

 

 

 

最近の嬉しい出来事の話である。道産子だが京都で職に就き、京都出身の女性と結婚し、京都市左京区でずっと暮らしている弟を通して、京都市在住の彫刻家柏木みどりさんが、拙著(『只、意志あらば――植民地朝鮮と連帯した日本人』日本経済評論社、二〇一〇年)を求められた。上梓してから六年も経つのに、ありがたいことである。早速、送ったところ、折り返し、彼女が書いた『あのころひとりの医師がいた』(せせらぎ出版、二〇〇〇年)が届いた。添えられた信書には「なんとしても知ってほしい、と若いころからよんでもらえる作品にと、小説で書いたものです」とあった。「ひとりの医師」とは加藤虎之助のことだが、こうした人がいたことを特に若者に知ってもらいたいとの作者の思いが、心のこもった平易な文章を通して伝わってきた。

 

彼女の弟功がまとめた「加藤虎之助と三島無産者診療所」(『治安維持法と現代』二〇一五年春季号)をもとに、虎之助の足跡を辿ってみることにする。伊豆の下田に生まれた虎之助は、一九二七(昭和二)年、静岡高校から京大医学部に進む。社会科学研究会のもとで読書会のリーダーをつとめ、京大付属病院の看護婦のストライキを指導した。この間、虎之助は何度か検挙されている。卒業後の一九三一(昭和六)年、大阪吹田の三島無産者診療所の初代所長となり、ひとりで外科・内科・小児科を受け持ち、貧しい人たちの治療にあたった。日本無産者医療同盟の中央委員にもなる。約二年召集された後、診療所に復帰した。弾圧が激しくなる中、盲腸炎の悪化を知りながら、往診に出かけた途中で倒れ、病院に運びこまれたものの亡くなってしまう。一九三四(昭和九)年の一月のことである。二九歳の小林多喜二が特高警察によって虐殺されてからほぼ一年後、虎之助は二八歳で未来を絶たれた。若い死は本当に悔しい。読書会に参加していた松田道雄は「まさに聖者だった」(『私の読んだ本』岩波書店、一九七一年)と虎之助を称えているが、それにしても、まだまだ私が知らない高潔な人がいたのだ、としみじみ思う。

 

三島無産者診療所のスタッフとして活動した、柏木姉弟の父茂弥も、こうした高潔な人の一人であった。キリスト教徒の社会主義者だった茂弥は、一九三八(昭和一三)年、日本共産主義者事件で検挙され四年間獄につながれている。

 

前述した松田道雄は小児科医として高く評価されている。娘が出産した後すぐに、子育ての参考にしてほしいと願って、松田の名著『最新育児の百科』(岩波書店、一九八七年)を贈った。それだけではない。松田道雄は医学の領域をこえて活動しており、私は社会思想家として位置付けている。社会主義の文献も原語のドイツ語やロシア語で渉猟している。河出書房版全二四巻の『世界の歴史』シリーズでは、歴史学者にまじって、異色の執筆者として『ロシアの革命』(河出書房新社、一九七〇年)を担当した。文庫本のあとがきでは「引き受けたのは、日本のマルクス主義がロシア製であることと、十月革命が歴史的必然でないことを、いいたかったからだ」と言い切っている。これは、ソ連邦解体の二〇年ほど前のことである。また、「スターリンという異常犯罪者があらわれてレーニンの成功させた革命をねじまげてしま」ったのでなく、既にレーニンの段階で「秘密警察の暴力によって維持されている国家体制」がつくられていた、と指摘している(「なぜ革命を信じたのか」『わが生活わが思想』岩波書店、一九八八年)。

 

だが、革命運動の指針に誤りがあったとしても、特高警察のテロルにさらされるなか、若者が革命のため闘ったことを決して否定はしない。松田はこの稿を次のように結んでいる。「私たちが私たちの青年の日を悔いないのは、不足した情報のなかで知的にあやまった選択をしたとしても、心情としてあやまたなかったことを信じるからである」加藤虎之助たちのような、苦しんでいる人びとのために命をかけた献身を忘れてはならない。

 

 

 

 221号

 

   二人の宗教者が語ったこと

                 後藤守彦

 

  三月五日、偶然同日に、宗教が異なる二人の宗教者の講演を聞く機会を得た。午前は、北広島カトリック教会で松浦悟郎名古屋教区司教が、午後は、北広島九条の会例会で藤田憲昭浄土真宗本願寺派興徳寺住職が多くの人たちに平和を訴えかけた。

 

松浦司教は日本カトリック教会難民移住移動者委員会委員長、ピース9の会の呼びかけ人で、「福音と平和――今、私たちにできること」を演題に選んだ。参会者の中に、教会に併設されている修道院のシスターたちがいた。一昨年、北広島市で初めて行われた戦争法反対の市民集会・パレードに参加した、彼女たちの修道服姿が鮮やかに蘇る。

 

松浦司教は、教皇フランシスコの言葉、「私たちは今、「散発的な世界大戦」に直面しています」(『第五〇回世界平和の日教皇メッセージ』二〇一七年)を引用し、自国(自民族)第一主義、軍備、格差、差別といった負の要因が増大、拡大しており、今世界は危機にあると強調した。そして、今なすべきこととして、教皇フランシスコの呼びかけを提示した。その一つが、「情報の蓄積や好奇心の満足ではなく、むしろ、痛みをもって気づくこと、世界に起こっていることをあえて自分自身の個人的な苦しみとすること、そして、一人ひとりがそれについてなしうることを見付け出すこと」(『回勅「ラウダート・シ」』二〇一五年)である。「なしうることを見付け出すこと」にはアンダーラインが引かれていた。見えない壁に囲まれた中にいる自分・家族・自国の幸福だけを求め、壁の外にある不幸や苦しみを風景としてみる無関心を乗り越えて、行動することである。

 

もう一つは、「積極的な非暴力に基づく生き方を実践」(前掲『第五〇回世界平和の日教皇メッセージ』)することである。『マタイ福音書』にある「だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい」について、松浦司教は解き明かした。それは、暴力に対する非暴力の、積極的な意志表明であると。三浦綾子も、右の頬を打たれて左の頬を向けることができるのは、「相手の悪意に引きまわされない自由な精神の持ち主」「積極的に生きていく力のある者のみ」と指摘している(『新約聖書入門』光文社、一九七七年)。

 

松浦司教が講演の結びで紹介した本を会場で購入した。その一つの、帯封に「信徒が抱く「なぜ」に答える」とあった『なぜ教会は社会問題にかかわるのか』(カトリック中央協議会、二〇一二年)には、三三の問答が載っている。松浦司教の講演でも言及された問答を二つみてみたい。「秘跡にあずかり、祈ることこそ信者にも求められることであり、信者にできることは「平和」を「祈る」ことではないのですか」という問いへの答えは次のようなものであった。「(前略)飢えてる人、のどの渇いた人など、困っている人への実際の手助けが必要なのです。祈りだけでなく、行動が必要であることは新約聖書を貫く考えです。祈りが伴わない社会的かかわりはもろいものとなり、行動が伴わない祈りは誠意に欠けるものになるでしょう。祈りと行動の両方が必要です」。また、「司教団は憲法九条の大切さを訴えています。それは政治的立場の表明ではないのですか。異なる立場の信徒はどう考えればいいのでしょうか」との問いには、信徒それぞれが九条についてどう考えるかは自由だが、「日本国憲法は、その前文と九条によって、世界にあっても類まれなほど明確に、個人の尊厳(人権)と非暴力によって建設される平和の大切さを訴えています。この思想は、まさに福音そのものといえます」と明言している。

 

念仏者九条の会の会員で北広島市民連合の世話人である藤田住職は、「犠牲と追悼」という演題で、淡々と説くように話した。浄土真宗は鎌倉時代に親鸞が、法然の浄土宗を発展させて開いたものである。戦国時代には、一向一揆を起こし権力者と対決したが、敗北。後継者争いに介入した家康の画策により東本願寺と西本願寺に分裂させられた。そうした歴史を概観したが、多くの時間を割いたのは、アジア・太平洋戦争時の戦争協力のことであった。従軍僧の多くは浄土真宗の僧侶であったし、教団として信徒に戦争協力を促した。戦時教学として「真俗二諦」論があった。「真俗二諦」は明治以降成立したが、諦は真理の意味で、真諦は悟りに関する真理、絶対的真理、俗諦は世間的真理、世俗に合わせる真理を意味する。戦時下、教団は「真俗二諦」を、あの世では阿弥陀仏の下で暮らす、この世では天皇の臣民として戦う、ことだと信徒に教えた。つまり、天皇に帰依することが仏に帰依することであるとされたのであった。しかし、戦後の教団としての戦争協力への反省、戦争責任のとり方は曖昧である、と批判した。そのうえで、人間は楽だから都合のいい方に流れる、大勢に順応していく、そうした人間の弱さを考えなければ、宗教ではない、とも述べた。藤田住職が最後に強調したのは、何事も自分の問題として考えていくことが人間として大切であるということだった。その点は、期せずして松浦司教の語りと一致していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 220号

 

 いつまでも中島みゆき

 

               後藤守彦

 

 

還暦を過ぎても歌姫として活躍している中島みゆきについては、一度書いている(「としをとるのはステキなことです」『札幌民主文学通信』二〇一二年一月号)。中島みゆきの曲との最初の出合いは、大雪青年の家で女子高校生たちがギター伴奏で歌った「世情」であり、学び直しで上京した二〇〇九年に、何とかチケットを入手し念願の夜会コンサートに行けたことなどを語った。

 

昨年、NHKBS放送の「中島みゆき名曲集」を見た。冒頭で、一九七〇年代には「わかれうた」、一九八〇年代には「悪女」、一九九〇年代には「空と君のあいだに」、二〇〇〇年代には「地上の星」で、シングルヒットチャート一位となった、四つの年代で一位を獲得したのは、中島みゆき唯一人である、と彼女のすごさを紹介していた。その番組は、八人の女性アーティストが中島みゆきに寄せる思いを語った後、大切にしている曲を歌うという構成となっていた。歌うシーンは、二〇一五年に東京で行われた「歌縁(うたえにし)中島みゆきRESPECT LIVE2015」というコンサートで撮ったものである。  

 

なかでも三人の歌いぶりが印象的だった。〈流れるな涙〉と目を潤ませながら、芝居しているかのように「化粧」を歌う大竹しのぶ。自身の数多く体験した別れを思い、〈雪 気がつけばいつしか/なぜ こんな夜に降るの/いま あの人の命が/永い別れ 私に告げました〉で始まる「雪」を歌う坂本冬美。〈シュプレヒコールの波〉の中で〈戦うため〉と応援歌として「世情」を歌うクミコ。

 

その「歌縁」コンサートが一月二九日にニトリ文化ホールであると知り、私と同じくファンの妻と娘が期待に胸膨らませて出かけた。大竹しのぶ・坂本冬美・クミコの他に、研ナオコと中村中が舞台に立ったとのこと。二人は帰宅後、大竹しのぶや坂本冬美が歌った時には、感動して涙を流して聴いた、と興奮して話していた。紛い物だから、とうそぶいて行かなかったことを私は少し悔いた。

 

その代わりというわけではないが、昨年行われた、「一会」と題した本人による全国ツアーの映像を見に行った。二月二日のシネマフロンティアでのフィルムコンサートというわけである。料金は通常の映画料金の三倍近い。観客の中には三、四組の夫婦がいたが、終演後その一組の妻が、「とてもよかったけれど、知らない曲が多かったね」と夫に語りかけているのが聞こえた。歌われた全二〇曲の中には、NHKのテレビドラマ『マッサン』の主題歌「麦の唄」もあったが、よく知られている曲は確かに少なかったかもしれない。

 

中島みゆきは優れた歌い手だが、詩人としての彼女を高く評価したいと思う。そこで歌詞にふれながら、コンサートで聴いた幾つかの曲について語ることにする。

 

最も古い曲は、前述した「雪」とともに、一九八一年のアルバム『臨月』に収められている「友情」だった。〈悲しみばかり見えるから/この目をつぶすナイフがほしい〉で始まり、次のフレーズが三回も繰り返される。〈この世見据えて笑うほど/冷たい悟りもまだ持てず/この世望んで走るほど/心の荷物は軽くない/救われない魂は/傷ついた自分のことじゃなく/救われない魂は/傷つけ返そうとしている自分だ〉。他人に傷つけられたことよりも、他人を傷つけたことが多かった、と自分の来し方を思う。

 

アンコールの第一曲「浅い眠り」も古い時期の作品である。〈浅い眠りにさすらいながら/街はほんとは 愛を呼んでいる〉、これが何と五度もリピートされる。この曲を聴くと、私が最も好きな作家の一人で、昨年亡くなった高井有一が書いた『浅い眠りの夜』をいつも思い起こす。主人公が抱いた「確かに孤絶の感覚に違いなかったが、淋しさはなく、却って解き放たれたような感じ」に共感した。

 

沖縄をイメージした「阿檀の木の下で」では、アルバムと違って、バックに爆音が流されていた。阿檀は沖縄・台湾に自生する熱帯性の低木で、葉はパナマ帽などの材料となる。〈遠い昔にこの島は戦軍に負けて貢がれた/だれもだれも知らない日に決まった〉、戦軍には「いくさ」とルビが付されており、沖縄戦とその後の沖縄の苦難が意識されていると思う。「世情」もそうだが、中島みゆきは社会への視点を失ってはいない。

 

最も心に響いたのは「命の別名」だった。別名とは何か。この曲は〈命に付く名前を「心」と呼ぶ/名もなき君にも 名もなき僕にも〉と結ばれる。「命の別名」は、このコンサートでは歌われなかった「永久欠番」につながる。〈人は永久欠番〉と叫ぶ「永久欠番」を作詞した動機を中島みゆきは、「生きてたってことが別に自分じゃなくてもよかったんだと、それじゃあ、はじめからいなくてもよかったんじゃないかというんじゃあ、悲しいことだと思う」と語っている(『月刊カドカワ』一九九一年一一月号)。

 

 いつまでの中島みゆきの世界が続いてほしい、と切に願う。

 

 

 

 

 

 

 219号

   

 

音楽ミステリの愉楽

 

後藤守彦

 

 

 

 芥川龍之介の「ピアノ」から始まるアンソロジー『音楽小説名作選』(集英社文庫、一九七九年)を読んだのは、三五年ほど前のことだった。ついで、鮎川哲也が編集した『戦慄の十三楽章―音楽ミステリ傑作選』(講談社文庫、一九八六年)に出合った。タルティーニが作曲したヴァイオリンソナタがタイトルになっている氷川瓏「悪魔のトリル」をはじめ、一三作中六作がヴァイオリンに関わっている。

 

 最近読んで印象に残った作品もヴァイオリンが絡んでいる。それが、ポール・アダムの『ヴァイオリン職人の探求と推理』(創元推理文庫、二〇一四年)と『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』(同、二〇一四年)である。ポール・アダムはイギリスの作家だが、イタリアを舞台に選んでいる。主人公ジョヴァンニは優れた技術をもつ実直なヴァイオリン職人。自身もヴァイオリンを弾き、友人と弦楽四重奏団を結成している。一緒に事件を解決するのが刑事アントニオ。彼も弦楽四重奏団の一員でチェリストである。謎解きの対象となるのは、第一作では楽器、勿論ヴァイオリンで、一七世紀に作られたストラディヴァリやグァルネリなどの名器が中心となる。名器の音色をジョヴァンニは次のように聴く。「そのパワーは圧倒的で、響きはゆたかで暗く、いま情熱にあふれていたかと思うと、次の瞬間には苦しみにすすり泣き、今度は喜びに声をあげ、人間感情のすべてがこの驚くべき、聞き手を高揚させる音に含まれていた」「聞こえるのは天使の声ではなく、神そのものの声だった」第二作もヴァイオリンが関係するが、直接的には楽譜である。

 

 同じくヴァイオリンが焦点となる作品に、ドイツの精神科医でもあるクリスティアン・ミュラーが書いた『謎のヴァイオリン』(新潮社、一九九九年)がある。名器グァルネリそれもストラディヴァリとならぶグァルネリ・デル・ジェズが主人公である。麻薬犯罪の捜査の過程で暗殺されそうになり、命は助かるものの足が不自由となったベルナルディは刑事を辞め、今はヴァイオリン鑑定家として活躍している。「ヴァイオリンこそ、人間の手になるもののなかで、芸術と技術の両面において絶対的な完成度に到達した魔法の存在である」と、彼は認識している。優秀な刑事であったこととヴァイオリンに関する専門知識の持ち主であることから、乞われて難事件の解決にあたる。

 

前掲『ヴァイオリン職人と天才演奏家の秘密』と『謎のヴァイオリン』では、ともにパガニーニと彼の愛器である、グァルネリ・デル・ジェズの「カノン」が話題になる。パガニーニは六つのヴァイオリン協奏曲でも知られるように作曲もしたが、何よりも天才的なヴァイオリン奏者であった。彼の生地ジェノバには、パガニーニの愛器が保管されており、ジェノバで行われる国際ヴァイオリン・コンクールの優勝者には、愛器で披露演奏する名誉が与えられている。私が住む北広島で昨年五月三一日にコンサートを開いた庄司紗矢香は、一九九九年に日本人で初めて、それも史上最年少の一六歳で優勝した。

 

ジュール・グラッセ『悪魔のヴァイオリン』(早川書房、二〇〇六年)は、「数百年を経た身廊のドームの下のひんやりした空気につつまれて、信者たちはヴァイオリンのすすり泣きに聞き入っていた。それは音楽以上のもの、おそいかかる日々の有為転変を束の間忘れさせる力を持つものの愛撫であり、優しい、心のなごむ、ちっぽけな幸せである」で書き出される。美少女の奏者が弾くヴァイオリンはストラディヴァリ、曲は「悪魔のトリル」。彼女をめぐって殺人事件が起こるが、真犯人を探り当てるのがパリ警視庁のメルシエ警視。彼のキャラクターはシムノンの創造したメグレ警視と重なる。

 

ピアノが絡むミステリとしては、探偵役を天才老ピアニストが務める、ロベルト・コトロネーオ『ショパン 炎のバラード』(集英社、二〇一〇年)がある。二〇世紀を生きたピアニストが解く謎は、ショパンが晩年に作曲した「バラード第四番」フィナーレの手稿譜に込められた、ショパンの秘密である。だから、これは音楽ミステリであるとともに歴史ミステリでもあるといえよう。何といっても、著者の、大学で哲学を音楽学院でピアノを専攻という経歴を反映した、音楽への深い理解と精緻な論理展開には圧倒された。

 

クラシック狂の私立探偵を主人公にした『レクイエム』(早川書房、一九八五年)がジェイムズ・エルロイによって書かれている。元警官の私立探偵ブラウンが黒幕の警部を私的に制裁する、まさにハードボイルドである。ブラウンによって殺された警部はブルックナーの愛好者。ブラウンが「生まれて初めて音楽を、心に残る音楽を聴いた」のは二一歳の時で、曲はベートーヴェン交響曲第三番「英雄」だった。彼は一人になった時にはいつでもどこでもクラシックを聴く。それだけではない。現実に曲が流れていなくても、彼には音楽を感じる時がある。ブラウンが愛した女性はジュリアード音楽院に通うことになるチェリスト。このように音楽に溢れたこの作品は「私はなおも大量の音楽を聴く」で結ばれている。

 

なお、音楽家によるミステリ論として青柳いづみこ『ショパンに飽きたら、ミステリー』(国書刊行会、一九九六年)がある。彼女はピアニストだが、「クラシックの演奏家には、ミステリー・ファンが多い」と述べている。いずれにしても良質の音楽ミステリからは音楽が聞こえてくるような気がする。つまり、読むことが聴くことになるような気がするのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 218号 

 

テッサ・モーリス=スズキの試み

 

後藤守彦

 

 

 

思いがけず、昨年、テッサ・モーリス=スズキの話を、短時間ではあったが、直接聞くことができ感激した。時は八月二二日、場所は本願寺札幌別院。強制連行された朝鮮人の遺骨を韓国に奉還する運動を推進した殿平善彦が司会を務めたシンポジウム「東アジアの記憶と未来」で、彼女が特別発言者となったのであった。

 

テッサ・モーリス=スズキは、一九五一年にイギリスで生まれ、日本人男性と結婚し、オーストラリアで暮らす、日本と東アジアの近現代史を専攻するオーストリア国立大学教授である。ほぼ重なるテーマを追う私にとっては、彼女の切れ味鋭い論稿には学ぶところが多い。だから、彼女の言葉を使うことも少なくない。一昨年から昨年にかけて五回、北広島九条の会主催の、明治以降の日本の戦争と平和をテーマとする連続学習講演会で、私は多くの方に語りかけることができた。第一回のプロローグでは、レジュメに載せた彼女の言葉、「現在、世界中どこでも、政治的決定の基盤は歴史の理解である。すべての戦争は過去の解釈の差異をめぐって戦われる」(『過去は死なない――メディア・記憶・歴史』岩波書店、二〇〇四年)を読み上げた上で次のように続けた。「ヒトラーは第一次世界大戦でドイツが負けたことを屈辱の歴史と理解し、第二次世界大戦を起こしました。安倍首相は、民主主義がなく戦争が繰り返された戦前の日本を否定していません。そうした歴史の理解に立って、日本を戦争する国に変えようとしているのです」

 

テッサ・モーリス=スズキは研究室に留まっていない、行動する研究者である。最近北朝鮮にも行き、優れたルポルタージュを書き上げている(『北朝鮮で考えたこと』集英社、二〇一二年)。あとがきには、「長生きして、平壌からの観光客が東京スカイツリーにバスで乗りつけてエレベーターの前に長蛇の列をつくっている光景を、冒険好きな日本のバッグパッカーが新しく友だちになった北朝鮮の若者と金剛山でピクニックをしている光景を、この目で見とどけなくてはならない」とあり、彼女の熱い思いが伝わってくる。

 

北朝鮮訪問以前に、一九五九年から一九八四年まで続いた帰国運動・事業の意味について、テッサ・モーリス=スズキが丹念に追究したことを高く評価したい。日本政府の狙いは治安対策と生活保護費削減であり、北朝鮮政府の意図は労働力確保とプロパガンダであった。だから、この事業・運動は「策略と欺瞞と裏切りの物語」(テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる』(朝日新聞社、二〇〇七年)であった、と彼女は言い切っている。

 

テッサ・モーリス=スズキは全八巻からなる『岩波講座アジア・太平洋戦争』(岩波書店、二〇〇五~二〇〇六年)の編者の一人にもなった。論文も、第一巻に「暴力を語ることは可能か」、第七巻に「帝国の忘却」を載せている。後者で彼女は、日本における脱植民地化によって引き起こされた忘却について、「敗戦という不愉快な記憶」「この事実が」「帝国からの撤退のプロセスについての歴史的記憶喪失を促すと同時に、日本社会の内部と、より広範な東アジア地域の内部に長く残存した、植民地主義と脱植民地化の遺産と向き合うことへの忌避観を生み出すことになった」と明快に指摘している。

 

最近では、テッサ・モーリス=スズキは、私が大学時代に受講した文化人類学者石田英一郎や、和辻哲郎、梅棹忠夫などの言説を批判的に検討したうえで日本論を試みている。それが『日本を再発明する――時間、空間、ネーション』(以文社、二〇一四年)である。膨大な文献を渉猟していることは分かるが、残念なことに理解に苦しむ文章が散見する。直訳的なぎこちない訳文のせいもあるだろうが。だから、私の捉え方が正しいか不安がないわけではない。そう断ったうえで、同書での彼女の問題提起を次のように受け止めたい。まず、彼女は、一九九〇年代が分岐点にあったとする。一方は「より開かれた日本に向かう道」であり、多文化主義の認識が高まり、アジア諸国をはじめとする他国との結ぶつきが強まる方向で、他方は「閉ざされた日本に向かう道」で、ナショナリズムが高揚し、軍備が増強され、近隣諸国との摩擦が増していく方向である。今の日本は後者の道を歩んでいる、と明言する。この懸念といってもいい問題意識が根底にある。そして、日本・自然・文化・人種・民族をキーワードに議論を展開していく。彼女が批判している見解を列記してみよう。明治に入っての空間から時間へ認識の転換が行われ、アイヌや沖縄社会の異質性を時間の枠組みで捉え、発展が遅れた、文明化されていない社会と規定するようになった。アニミズムを核とした自然に優しい姿勢が日本の自然思想である。天皇の存在と結び付け日本人の純潔性が説かれる一方で、雑種性が日本の特徴で、人種間の上下関係を否定する見方も出された。それなのに、日本がアジアのリーダーとなれるのはなぜか。それは経済が発展し近代化が進んでいるからである、など。これらの論を丹念に検証し、彼女は、日本を際立たせない、日本を安易に定義しない日本論、日本を越える日本論を提示しているといえよう。彼女は一貫して「「日本」という枠組みの解体」(『批判的想像力のために――グローバル化時代の日本』平凡社、二〇〇二年)を唱えていたのだから。

 

終わりに、テッサ・モーリス=スズキのメッセージを一つ紹介したい。安倍政権下、表現の自由度が一層低下している状況に抗して、「繁華街のゲーム・センターに置かれた「モグラ叩き」のモグラのように、叩かれても叩かれてもまた頭を出していく「ソフトな対抗」が必要なのではなかろうか」(「叩かれても叩かれても、また頭を出すモグラのように」『これからどうする――未来のつくり方』岩波書店、二〇一三年)。私も小粒ながらもモグラであらねばならない、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 217号

 

 

 

『長生きしても報われない社会』という現実

 

               後藤守彦

 

 

 

民生委員を一期三年で終えようとしたが、もう三年務めざるをえなくなり、第二期目が一二月一日から始まった。民生委員は正式には民生委員児童委員という。だから、小中学校の入学式などにも出席したりするが、一人暮らしの高齢者宅などを訪問したりして、自身の老いを見つめながら他者の老いと向き合う、というのが活動の基本になっている。訪問対象者は変動する。入院した人、施設に移った人、亡くなった人、それも看取られずに亡くなった人、連れ合いを喪った人、さまざまである。

 

 そこで、老いにまつわる諸問題を学ぶために、講演会や講座にでかける機会が多くなる。最近では、尊厳死協会主催の看取りをテーマにした講演会や、私の住む北広島市にある道都大学社会福祉学部の学生が中心になって初めて開いた認知症カフェにも参加している。認知症カフェは一九九七年オランダで始まり、認知症の人や家族、専門職、地域住民が悩みを語りあい、情報を交換する場となっている。当日は三〇名ほどが集い、三年の男子学生が認知症の基礎知識をレポートしていた。

 

勿論、本も学びの対象である。最近読んだ山岡淳一郎『長生きしても報われない社会――在宅医療・介護の真実』(ちくま新書、二〇一六年)は、現代日本の老いに関わる問題を包括的に理解させてくれた。現場への取材に基づき、超高齢社会といわれる日本の現実が多角的に描かれている。

 

第一章「在宅医療の光と影」、何年も介護した末、家族が家族に手をかける、無理心中を図って死にきれなかった介護者は殺人罪に問われる、こうした事件が後を絶たない。在宅医療は広がっているが、在宅医療・介護での家族の負担は大きい。第二章「なくなる場所が選べない」、多死社会に入った日本、理想は在宅での看取りだが、このままでは看取り難民が大量発生する。人生の終末においても現実を受け入れつつ、前向きに生き切る支えとは何なのか、これは普遍的で重いテーマである。第三章「認知症と共に生きる」、超高齢化社会は認知症の人たちとの共生が試される社会である。家族が困ったら、身体拘束や向精神薬の過剰投与が行われる精神科病院に入院させる、そうではない認知症ケアはある。第四章「誰のための地域包括ケアなのか」、病院・介護施設・訪問看護ステーション・NPO・自治体などのネットワークを地域包括ケアシステムと称して、厚労省は盛んに推奨している。介護報酬を引き下げておきながら、何を実現しようとしているのか。第五章「資本に食われる医療」、介護保険料は引き上げられるが、介護サービスは削られる。医療財政の危機が叫ばれるが、多国籍化した製薬会社が超高額の医薬品を売り出し、莫大な利益を得ている。TPPは医療費にとっても危険である。

 

このように著者は問題の核心を抉るだけでなく、「長生きしても報われない」のはおかしいと思い、人間の尊厳をそこなうことのない医療や介護を目指して苦闘する医師・看護師・介護関係者などの姿を紹介している。だから、読者は少しかもしれないが希望を見出すことができる。

 

福祉の世界で使われる言葉に、自助・互助・共助・公助がある。自助は本人の健康管理や家族の支え、互助はボランティア・住民組織の活動、共助は介護保険などの社会保険制度、公助は生活保護などを示す。この共助・公助を後退させ、自助に向かわせようとする国の姿勢は許すことができない。

 

 そのうえで、四苦の一つの老いに絡む、人間としての根源的な問題を考えたい、とも思う。それを強く意識させられたのは、韓国の、両親がパルチザンであった鄭智我の短編小説集『歳月』(新幹社、二〇一四年)であった。かつてパルチザンとして闘い、過酷な月日をともに生きてきた夫が、年老い記憶を失っていく。その夫と暮らす妻が心の裡をさらけ出す。「これまで生きてきてわかったような気がするんだよ。生命というものの哀しい運命を。革命なんぞで説明できるもんじゃない。生きるということは、それ自体つらいもんだねえ。哀しくて切なくて胸が張り裂けそうになる」

 

 どんな人間も老い、そして独り逝く。それは必然である。この真理をどのように受け入れるのか。自分を越えた存在や世界を信じることによって救済されるのか。来世にいけるので死は怖くない、と言い切る人を羨ましく思いもする。そして、終焉までの残された時をどう刻むのか。ちっぽけな自分でも何かのこすことができるのか。考えを深めていきたいと思う。

 

 

 

 

 

 216号

 

 

 やはり「メモリー」か  後藤守彦

 

 

 

一一月六日が千秋楽の、『オズの魔法使い』の設定を借りたミュージカル『ウイキッド』を見に北海道四季劇場へ家族で出かけた。最も高いS席は九八〇〇円もするのだから、暴利という批判があってもおかしくはない。「四季の看板は輸入ミュージカルだ。本場ニューヨークのブロードウェイやロンドンのウエストエンドの演劇街で人気が高い作品を、頭を金髪で染めるなどして日本人の俳優とスタッフが忠実に再現する。だから物真似ショー、コピー劇」(紺野一彦『劇団四季の謎』KKベストブック、二〇〇三年)だと揶揄もされる。確かに、本場と違ってオーケストラも用意されていない。

 

しかし、現実に見た観客の反応は熱狂的であり、ファンタジーの世界に酔っているように見えた。私も例外ではないのだが。観客動員数も来年三月札幌で再上演される『ライオンキング』は一〇〇〇万人を越えている。

 

初めて見た四季の舞台は『オンディーヌ』。漁師の娘、実は水の精オンディーヌと王子ハンスの悲恋を描いた作品である。オンディーヌは三田和代が演じていた。次は、ブロードウェイに生きる無名のダンサーたちの厳しいオーディション風景がメインの『コーラスライン』。迫力満点のダンスシーンをリードしていた前田美波里の踊りに圧倒された。前述の『ライオンキング』は、二〇〇九年に、再び大学に通っていた東京で観劇した。上京した家族と一緒にJR浜松町駅近くの四季劇場「春」で見たのだが、家族連れが多かった、と記憶している。『ライオンキング』は、アフリカの大草原をバックに、王国を追われたライオンの王子が、殺害された父の復讐を果たし王となる話である。

 

ミュージカルだから当然観客の心をつかむ歌が求められる。その点では、ブロードウェイを席巻したロンドン・ミュージカルの旗手アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲した歌が群を抜いている。四季の公演で日本語で歌われるのを聞き、それはそれでよかったが、本場の舞台で演じた歌い手が英語で歌うCDを手に入れ、時折雰囲気にひたっている。特に気に入っている五曲を上演順に紹介してみたい。

 

ロックオペラといってもいい『ジーザス・クライスト・スーパースター』。イエスの最後の七日間を裏切ったユダの視点から描いている。マグダラのマリアがイエスへの愛を歌った「私はイエスがわからない」(原題を忠実に訳すと、「私は彼をどう愛していいかわからない」となる)が最高だろう。

 

『エビータ』の主人公は、アルゼンチンの大統領夫人となって権力をふるったエヴァ・ペロン。彼女が大統領宮殿のバルコニーから民衆に呼びかけて歌う「アルゼンチンよ泣かないで」が耳に残る。

 

登場するのが猫だけの『キャッツ』は大ヒットした。月が明るく照る夜、ロンドンの場末のゴミ捨て場に猫たちが集い、年に一回の舞踏会が開かれる。自分をアピールする猫たちから選ばれた一匹が、天に昇っていき永遠の命を与えられることになる。選ばれた娼婦猫グリザベラの歌う「メモリー」が心に沁みた。劇団四季の創設者浅利慶太の訳詞は直訳ではないが、それによると「メモリー/思い出をたどる/美しく去った/私の日々/過ぎゆく/幸せの姿よ/甦れ永遠に」のパートがいい。

 

『オペラ座の怪人』は「アンドリュー・ロイド・ウェバーの畢生の傑作」(小山内伸『ミュージカル史』中央公論新社、二〇一六年)と高く評価されている。ブロードウェイでの初演が一九八八年だが、今も続演中で公演回数は一万回を越え、史上最高を更新中である。原作はガストン・ルルーの同名の長編推理小説で、パリのオペラ座の地下にある地底湖に住む醜い容貌の怪人の恋を描いている。名曲が多いが、地下の棲家で怪人が歌う「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」と、怪人が恋する歌姫クリスティーヌと彼女の幼馴染のラウル子爵がオペラ座の屋上でデュエットする「オール・アイ・アスク・オブ・ユー」の二曲をあげたい。

 

さて、この五曲中のトップはどれだろうか。迷うが、やはり「メモリー」だろう。

 

 

 

  214号

 

 

再訪無言館

 

後藤 守彦

 

 

 

美術館や美術展に出かけることが多い。最近では、一昨年、栃木県那須町に開館した藤城清治美術館がよかった。正直、彼をファンタジー画家として軽く見ていた。それがいかに愚かであったか、を痛覚させられた。気が遠くなるほどの時間をかけ、細緻な手業を重ねて、何と見事な影絵を作り上げたことか。豊かな色彩によって生み出された夢の世界に心が洗われた。テーマ性も明確であり、福島原発事故を告発する力作もあった。

 

 今年六月に再訪した無言館はそうした美術館とは少し異なる。戦没画学生慰霊美術館「無言館」を正式名称とするこの美術館は長野県上田市の郊外にある。初めて行ったのは二〇〇七年の初夏、開館十年目のことである。そこで入手した、窪島誠一郎館長が書いた『無言館―戦没画学生「祈りの絵」』(講談社、一九九七年)に寄せた序文を、澤地久恵は「絵の巧拙など問題ではない。修行途中の〈わかがき〉のういういしさ、どこまで伸び得たか未知数の才能が、戦争によって無残にねじきられた実相を、展示の作品はあなたに語りかけてこよう。絵は無言のまま、見る人の心に多くの思いを書きたてずにはいられない」と結んでいる。

 

 再び訪れた日は晴天の日曜日だった。事前には承知していなかったが、第一九回「無言忌」の日であった。着いたのは開会の一時間以上も前だったが、野外に用意された会場や館内には名札を付けた遺族の姿がちらほら見えた。戦後七一年、遺族の時の進み方はどうだったのだろう。

 

 入場料を払い入場券をもらうのは入り口ではなく出口なのだが、入場券の裏には窪島誠一郎の言葉が刻まれている。「口をつぐめ、眸(め)を開けよ/見えぬものを見、きこえぬ声をきくために」と。

 

左右二つの入り口の、私は右から同行した妻は左から入る。自然に沈黙する自分になった。最初に対面した絵は飛行兵の絵。中央に設置されている遺品展示用ガラスケースに収められている白黒写真で、キャンバスに向かう作者大貝彌太郎の後ろ姿と絵を発見する。写真の中の絵は鮮明なのだが、今展示されている絵は、絵の具が剥げ落ちぼろぼろになっている。顔を見ると目は残っているのだが。特攻隊員となった、この飛行兵は戦死したにちがいない。彼の人生はこの絵のように、無謀な戦争を始めた権力者によって壊されたのである。特攻隊基地を訪ね、特攻隊員の遺書を読み、『特攻隊と北海道』(溶明社、一九九四年)をまとめたことを思い起こす。

 

 続いて、左右の裸像を見る。左は出征直前に中村萬平が描いた妻霜子。太い描線で強調された彼女は、夫と正対して悲しみをこらえながら少し微笑んでいる。右は日高安典が描いた恋人。厳しい表情を浮かべた横顔が悲哀を伝える。裸婦といえば、佐久間修が妻静子の裸像を描いたデッサンもある。前掲『無言館―戦没画学生「祈りの絵」』の表紙には、静子の肖像画が使われているが、瞳の大きい目が印象的で、美しく初初しい。

 

 伊沢洋は戦地で「家族」を描いた。両親を含め四人が座っており、中央のテーブルには、コーヒーカップと果物が盛られた皿がのっている。そして、家族の背後では画布の前で絵筆を握る、学生服姿の本人がこちらを向いて立っている。新聞を読む父の横に座り、ただ一人正面を向いている母の慈愛のまなざし。実家は貧しい農家だったのだから、これは幸福な食卓風景を空想したものだろう。

 

出口付近には二枚の風景画がかかっている。作者の佐藤孝は、一九四三(昭和一八)年、学徒出陣で戦場に向かい、一九四五(昭和二〇)年七月二五日、ルソン島で戦死した。享年二一歳。遺品展示用ガラスケースの中には、出征直前に記したノートの、あるページが開かれておかれている。そこには「遺書には非ざる言葉」と題して、「一、」で始まる十の文章が並んでいた。一番目の「私には既に與へられた運命がある」と、二番目の「私には私丈けしか持てぬ世界がある」は太字で書かれている。五番目には「おそらく生きて帰れぬことを信じている」とあるが、こうした諦観を強いた、天皇制国家の酷さを思う。だが諦めることが完全にできたのだろうか。九番目には「作画の少なきことを残念に思ふ」とある。もっと描きたかったのだろう。

 

新たに第二無言館ともいえる「傷ついた画布のドーム」ができていた。そこに入ろうとしたら、「ふるさと」の合唱が聞こえてきた。間もなく始まる「無言忌」で歌うための練習と思われた。入館してすぐに見上げた天井は、美校で学んだ戦没画学生の習作で覆われていた。空から命が降ってくる、一瞬そう感じた。また、ドイツの戦没画家アルベルト・シャモーニの作品一五点も展示されていた。

 

昨年北広島九条の会の例会で、「近代日本の戦争と平和を考える」と題して三回連続で講演したのだが、そのはじめに話した言葉が頭に浮かんできた。「人間はいつ生まれるかを自分では選べない。もし二〇年ほど前に生まれていたら、大学生活の途中でペンを捨て、銃を持って戦場に行ったかもしれない。幸い、戦争しない日本で生活することができた。戦後七〇年は私の人生と重なるが、平和に生きることができたことに心から感謝している。次の世代にとっても、これから生まれてくる子どもたちのためにも、平和が続いてほしいと願っている」。正直な気持ちを吐露したつもりである。

 

 

 

 

  212号

 

 

メロディー・メーカー

 

             後藤守彦

 

 

 

かつての職場の同僚にヴァイオリンを嗜む数学教師がいた。コンサートに一緒に出かけた時があったが、彼は楽譜を持参し譜面を目で追いながら鑑賞していた。羨ましかった。彼とは違い、ただ聴くしかできない私だが、音楽の魅力の源はメロディー、楽曲の核はメロディー、と頑固に思い込んでいる。メロディー・メーカーという音楽用語がある。その意味を、旋律を作るのがうまい人、というよりは美しい旋律を作る人、ととらえたい。人というのは勿論作曲家を指す。該当する作曲家として、クラシックでは第一に挙げたいのがドヴォルザークである。その楽曲が映画のテーマ音楽に使われているラフマニノフもメロディー・メーカーの一人、といえよう。彼が敬愛したチャイコフスキーもあてはまる。ラフマニノフは古くさい、と批判する人がいるようだが、私は彼の編み上げたメロディーの美しさに酔いしれ、心を震わせる。

 

四月八日、私が長く会員となっている札幌交響楽団の第五八八回定期演奏会があった。演奏曲が三曲、すべてのロシアの作品だった。指揮は選曲にふさわしくロシアのドミトリー・キタエンコ。最後に演奏されたのがラフマニノフの『交響曲第二番』である。総演奏時間六十分の四分の一にあたる第三楽章のアダージョ。音楽会評では、「清澄な響きの弦楽部がうねるように歌い上げ、さらにクラリネットをはじめとする独奏陣が、哀愁に満ちた音色を聴き手の心にじわりとしみこませた」(『北海道新聞』二〇一六年四月一三日号)と高く評価されていた。

 

ロシア的な抒情あふれる主題を奏でたクラリネットの首席奏者は、私が四〇代に勤務した高校のブラスバンド部の部長であった。そして、彼の父親は同僚であった。私はわが子が通う高校に勤めるのは嫌だと思っていたが、彼の父親は違っていたようだ。彼は東京の音大で学んだ後、ドイツに留学し、最近CDも発売している。

 

二巻からなる檜山乃武『音楽家の名言』(ヤマハミュージックメディア、二〇一一年)には、ラフマニノフの言葉が五つ載っている。そのうちの二つを紹介したい。「コンサートは私の一生の楽しみなのです」。彼は優れたピアニストでもあり、演奏活動が彼の生きがいだった。「私はロシアの作曲家です。そして祖国ロシアは、私の性格とものの見方に影響を与えています。私の音楽、これは私の性格の所産です」。彼は一八七三年、ロシアに生まれ、一九一七年のロシア革命勃発後、フランスに亡命、翌年、アメリカに渡り、一九四三年、カリフォルニアで亡くなった。彼の音楽には、憂いと哀愁を帯びるロシアロマンティシズムの香りが漂っている。あまりにも有名な『ピアノ協奏曲第二番』が初演されたのは、一九〇一年、無論ピアノを弾いたのは本人である。この曲の成功で、一八九七年に初演された『交響曲第一番』の不評によるノイローゼから、彼はすっかり立ち直った。

 

この『ピアノ協奏曲第二番』を演奏する場面がクライマックスになっている小説が、中山七里『おやすみラフマニノフ』(宝島文庫、二〇一一年)である。ミステリ仕立ての音楽物語といっていいだろう。ピアニストの仲道郁代が解説を書いているが、『ピアノ協奏曲第二番』の演奏シーンについて、彼女に「心理描写と、楽曲分析と、演奏の様との交錯でもって見事に描かれていて、曲を熟知している私でも、読みながらこの曲を聴きたくなったくらいだ」といわしめている。これは、作者の音楽に関する造詣が深いことの証左だろう。過去、仲道郁代は札幌交響楽団と八回ピアノ協奏曲を演奏しているが、残念ながらラフマニノフの作品はない。

 

最近、歴史学研究会の会誌に音楽に関する論文が載った(半澤朝彦「音楽と国家」『歴史学研究』二〇一六年四月号)。珍しいことである。「君が代」などについて、演奏法や歌い方の変化について論じており、大変興味深かった。歴史を研究する者としては、中川右介『国家と音楽家』(七つ森書館、二〇一三年)のような、国家権力と対峙したカザルスやショスタコーヴィチ、バーンスタインなどの音楽家を追った史書に関心を寄せるのだか、音楽そのものの解明にも心が惹かれる。

 

 

 

211号

 

だます者とだまされる者と

 

後藤 守彦

 

 

 

前号に続いて、北広島九条の会での講演に関連して述べることにしたい。三月の講演、「戦後日本の歴史を考える」第一回で、「指導者責任観」に言及した。これは、政府・軍部にだまされ無謀な戦争に巻き込まれたとする、国民の被害者意識を示すものである。そこでレジュメに引用したのが、敗戦一年後に書かれた映画監督伊丹万作の「戦争責任者の問題」(『映画春秋』一九四六年八月号)である。「だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。(中略)だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していいこととは、されていないのである。(中略)だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。(中略)「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。たまたま、彼の言説には「現在の国民が傾聴すべきものがある」と、私と思いを同じくする投書が、講演後二〇日ほど経った三月二五日の『北海道新聞』に載った。

 

勿論、「だまされた」自分の責任を真摯に問うた日本人が、数は少ないもののいなかったわけではない。『砕かれた神――ある復員兵の手記』(朝日新聞社、一九八三年)を書いた渡辺清もその一人である。この書は、出版当時話題になったジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』(岩波書店、二〇〇四年)で、「天皇が突然神から人へ変身したこと、聖戦における至高の象徴から「民主主義」の曖昧な象徴へと転身したことを批判したユニークなもの」と評価されている。渡辺清は少年兵として一五歳で海軍に入隊し、一九四四年のマリアナ沖海戦では、沈められた戦艦武蔵に乗り込んでいた。多くの戦友が亡くなったが、彼は生き残り、戦後の早い時期に天皇崇拝者から天皇批判者への思想的転換を遂げた。彼は天皇に裏切られだまされた自分にも、だまされるだけの弱点があったのだ、と率直に認める。そのうえで「天皇を責めることは、同時に天皇をかく信じていた自分を責めることでなければならない」、肝心なのは自分自身である。「二度と裏切られないためには、天皇の責任は無論のこと、天皇をそのように信じていた自分の自分にたいする私的な責任も同時にきびしく追及しなければならない」と結論付ける。講演のレジュメには、天皇の戦争責任を追及した一節を載せたが、彼が「だまされた」自分を徹底的に見つめたことを強調した。

 

高校生と学んでいた頃の苦い記憶がある。今も時折思い起こす。論文指導していた、難関国立大学を目指す三年生が、「憲法改正に反対している野党」という教科書の記述を読み、「改正に反対しているのだから社会党や共産党は駄目でしょう」と言ったのであった。「改正」ではなく実質は「改悪」なのだが、法律用語としては、変更することは「改正」なのである。だから、憲法「改正」を目指し、憲法を守るというのは思考停止だ、と誹謗する安倍首相の言動には憤りを覚えると同時に、危険性を感ずる。安倍首相の手法について、ヨーロッパ史の研究者の南塚信吾は、戦争法を強行成立させた後、問題点から目をそらそうとして、「一億総活躍社会」などのスローガンを打ち出す、「こうした表象による世論操作によって、安倍政権は「改革派」というイメージを広め政権を維持している」(『座談会世界史の中の安倍政権』日本経済評論社、二〇一五年)と、指摘している。だます手口は他にもあり、実に巧妙である。

 

冒頭に前掲「戦争責任者の問題」を全文掲載している『だまされることの責任』(高文研、二〇〇四年)は、フリージャーナリスト魚住昭と評論家佐高信との対談を収録したものである。二人によって白熱した議論が展開されていくのだが、魚住の言葉、「「だますものだけで戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらない」という伊丹の言葉をかみしめながら、この国を戦争へと導く流れに抗っていくしかありませんね」で結ばれている。この対談から一二年経った今、「戦争へと導く流れ」は加速されている。何としても止めなければならない。

 

 

 

210号

 

「鳳仙花」のことなど

 

後藤 守彦

 

     

 

 昨年、北広島九条の会が主催した連続学習講座の講師を務めた。三月・四月・六月の三回だったが、回を追うごとに参加者が増え感激した。テーマを「近代日本の戦争と平和を考える」とし、一八七四(明治七)年の台湾出兵以降の侵略戦争史だけでなく、それに抗した、反戦の思想と運動も取り上げた。昨年秋に行われた北広島九条の会総会の議案書では有り難いことに、「この学びが私たちの「戦争法に反対する」運動に大きな確信と勇気を与えました」と総括されている。アンコールの声がかかり、今年も三月・四月の二回にわたり、戦後日本の歩みを辿った。

 

各回とも一時間半以上は語ったのだが、休憩も兼ねて毎回音楽を取り入れた。高校生や専門学校生と歴史を学んだ時、音楽を教材として積極的に活用していた。こうした実践は珍しいものではないが、それにならったわけである。幸い好評であった。計五曲すべて歌で、そのうち三曲が朝鮮半島のものである。

 

昨年の講座の二回目では、「鳳仙花」を聴いてもらった。この歌は日本の音楽学校で学んだ洪蘭坡〈ホンナンパ〉が、一九二〇年にヴァイオリン独奏曲として作った曲に、彼の友人の金亨俊〈キムヒョンジュン〉が、後に歌詞をつけたものである。一番の歌詞は「垣根の下に立つ鳳仙花よ/お前の姿がもの悲しい/長い長い夏の日に/美しく咲く頃/かわいい娘たちは/お前とよろこんで遊んだ」で、三番まである。昔から朝鮮では、夏になると少女たちが鳳仙花の花弁で爪を赤く染める風習があった。それを背景としているこの歌は、「嘆き悲しむ一人の女性の感情という次元を越えて民族の精神を代表する歌となった」(安準模『韓国歌の旅』白帝社、二〇〇三年)。そして、植民地時代、隣国の表現では日帝時代、抗日歌として歌い継がれていく。

 

一九九〇年、戦後長く日本語による歌の公演が禁止されていた韓国のソウルで、加藤登紀子がコンサートを開いた。彼女は「知床旅情」などの持ち歌を日本語で歌っただけでなく、朝鮮語で「鳳仙花」を歌った。記者会見で、「この歌に込めた深い思いを、日本人であるあなたに理解できるのか」という韓国の記者の質問に対して、彼女は「韓国の人びとの悲しみをこの体に受けとめるために」と答えている。講演では、彼女のライブ盤が素晴らしかったのでそれにしようとも思ったが、迷った末、在日コリアンの女性歌手の澄んだ声にふれてもらった。

 

「イムジン河」は今年の第一回目の講演で用いた。イムジン河は、北朝鮮の南部を源とし、ソウルの中心を流れる漢江と合流して黄海にそそいでいる。八年前、板門店見学の途中で三八度線に沿う、茶色に濁った姿を目にした。「イムジン河」は、もともと北朝鮮で作られた歌で、イムジン河を自由に越えて故郷のある南の地に飛んでいく水鳥を見て、「誰が祖国をわけてしまったの」と分断されている民族の悲しみ・苦しみを表している。

 

一九六八年、東芝音楽工業が一部出荷していたにもかかわらず、「政治的配慮」を理由に、ザ・フォーク・クルセダーズが歌うレコードの発売を中止した。三四年後の二〇〇二年に、ようやくシングル盤としてアゲント・コンシピオから売り出されたのである。ザ・フォーク・クルセダーズに歌うよう勧めた松山猛が、この歌との出会いについてそのジャケットに言葉を寄せている。「僕が「イムジン河」という歌を初めて耳にしたのは、京都で育った中学生の頃のことだった。その頃朝鮮系の生徒と日本の若者は、ことあるごとにケンカばかりしているという現実をなんとかしたいという、純情な動機を胸に、サッカーの対抗試合を提案に出かけた時、当時銀閣寺近くにあった朝鮮中高等学校の、どこからか聴こえてきたコーラスが「イムジン河」だったのだ」。二〇〇五年公開の映画『パッチギ』でも繰り返し流れていたし、You Tubeでは、キムヨンジャ・森山愛子・都はるみなどが歌う映像を見ることができる。

 

今年の最終講演では、戦争法廃止を目指す闘いを励ましてくれる歌を流した。日本のうたごえ運動と連帯して、一七年ぶりに来日した、韓国の男性二人と女性三人で構成されているグループ、サム・トゥッ・ソリが歌う「並んで歩かなくても」。この歌は、韓国市民の抗議集会であるロウソク集会でよく歌われているとのこと。彼らの長野公演と私の講演の時間帯がたまたま重なった。二番の歌詞を見てみよう。「心 心の窓開けよう/花の 花の種まこう/手を取り 肩を組みあおう/同じひとつの空の下/肌の色も 言葉も違うけど/ほほえみあえるあなたがいるから/並んで歩かなくっても/きっときっといるから」

 

朝鮮半島における南北分断の基底的責任を負っているのが日本である、このことは今年の講演で強調した。日本の責任は、朝鮮を植民地にしたこと、アジア・太平洋戦争を始めたこと、そして戦争の終結を遅らせたこと、の三層からなっている。最後の点について補足するならば、「聖断」つまり戦争終結が早ければ、東京大空襲・沖縄戦・原爆投下・ソ連参戦とあわせて分断国家朝鮮の誕生はなかったのである。二〇一〇年に日本聖公会札幌キリスト教会で、李在禎〈イジェジョン〉元統一部長官の講演を聞いたが、冒頭で同氏が語った言葉、「戦争に負けた日本ではなくどうして朝鮮が分断されたのか」が、今も私の胸に突き刺さったままである。

 

 

 

 

 

 209号

 

パウゼヴァングのメッセージ

 

後藤 守彦

 

  戦後七〇年の年に、ドイツの児童文学者グードルン・パウゼヴァングは、『片手の郵便配達人』(みすず書房、二〇一五年)を私たちに贈ってくれた。齢八七、これには驚くというよりは感動する。パウゼヴァングは、『そこに僕らは居合わせた――語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶』みすず書房、二〇一二年)に続いて、再び、ナチス支配下のドイツの暗い歴史と真摯に向かい合った。その根底には、少女時代にナチス信奉者となった自身への痛恨の念がある。主人公の郵便配達人ヨハンはなぜ片手になったのか。一七歳で入隊したヨハンは、前線に送られた二日後、砲弾の破片で左手を吹き飛ばされてしまった。そのため除隊となったヨハンは故郷の村に戻り、再び郵便配達に従事する。一九四四年の八月から翌年五月のドイツ敗戦まで、銃後で暮らす村人の姿がヨハンの目を通して語られていく。ヨハンが村人に届ける手紙には、夫や息子の戦死を伝えるものがある。戦死の公報の後に、死んだ当人からの手紙が来ることもあった。パウゼヴァングの作品はなべてハッピーエンドで終わらないが、『片手の郵便配達人』の結末も同じで衝撃的である。

 

前掲『そこに僕らは居合わせた』は、七六歳になったパウゼヴァングが書き上げたものである。パウゼヴァングは、この作品で一〇代の少年少女から見たナチス支配下のドイツを、自分が見聞きした事実をもとに二〇の短編小説にまとめている。直接体験した実話が二作あり、その一つの第七話「おとぎ話の時間」は、教師の戦争犯罪を描いたもの。主人公の一〇歳の少女は、クラスの皆が大好きだった中年の女性教師から、毎週土曜日の最後の時間にお話しを聞いたり本を読んでもらっていたりしていた。女性教師がおとぎ話の時間と呼んでいたその時間を皆はとても楽しみにしていた。一九三八年、ドイツ全土でユダヤ人教会やユダヤ人商店が破壊・略奪された「水晶の夜」の二カ月前、おとぎ話の時間に、ユダヤ人への敵対心を植え付けるという意図のもとに、ユダヤ人がドイツ人の少女に悪事を働く話を聞かされる。それはデマ以外の何ものでもなかった。第七話の最後は、「私たちを毒することに成功した」担任の先生に投げつける言葉、「いったいあなたは私たちに何ということをしてくれたのでしょう!」で結ばれている

 

一五作目の「どこにでもある村」は恐い話。その地方で最も美しい村、人口は三〇〇人にも満たないが、小さいが豊かな村、その村にもユダヤ人迫害の事実があった。しかし、村人たちは観光産業が打撃を受けるという理由で、それを隠し、ただ一人その事実を忘れずに語ろうとする女性を排除しようとする。ラストの文章は不気味である。「もう大昔の話です。そろそろやめてもらわなくてはなりません。わざわざ自分の巣を汚す必要はないのですから・・・・・・」。日本でも跋扈している、負の史実を隠し否定しようとする勢力の言辞とそっくりではないだろうか。「過去は過去、不快な過去は忘れて前向きに、そう欺くことによって、過去の社会病理はそのまま現代へ継承されてしまう」(野田正彰『なぜ怒らないのか』みすず書房、二〇〇五年)、それが危惧される。だから記憶の暗殺者に厳しく対峙するパウゼヴァングを、記憶の伝道師と呼んでも許されるだろう。

 

パウゼヴァングの名を知ったのは、チェルノブイリ原発事故の翌年に刊行され、ドイツ児童文学大賞を受賞した近未来小説『みえない雲』(小学館、一九八七年)によってだった。ある原子力発電所で、チェルノブイリより大規模な原発事故が起こる。主人公の一四歳の少女ヤンナは原発から九〇キロ離れた町で被曝する。避難する途中で弟は死亡し、ヤンナの毛髪は抜け落ちる。ヤンナは、悲惨な被害状況を目撃した末、ようやく祖父母の家に辿りついた。一連の原発小説を論じた松木新は、終幕で、事故について大騒ぎするな、と非難する祖父と真実を語るヤンナとを対比させながら、『みえない雲』が訴えた、事実から目をそむけず真実を知ることの意義を強調している(「小説に描かれた原発」『奔流』第二三号、二〇一一年)。

 

『みえない雲』に先駆けてドイツ児童文学大賞を受賞したのが、同じ近未来小説『最後の子どもたち』(小学館、一九八三年)である。ドイツが東西の分裂状態を克服できていない段階で、パウゼヴァングは核戦争の恐怖を告発した。夏休みに、祖父母の家を目指して少年が旅に出る。そこに核爆弾が落ちてきた。生き残り、四年後一七歳になった少年の視点で、人びとの悲惨な運命が語られる。即死を免れたものの、原爆症・伝染病・飢餓により人びとが次つぎと倒れていく。主人公の家族も先ず妹が、そして姉が、ついには母が。家族全員が即死し、自分も両足を失ったアンドレス少年の自殺を主人公はやむを得ず幇助する。アンドレス少年は、静かに、だが痛烈に告発する。「大人がこんなことになるのを防ぐべきだったんだ。みんなわかっていたんだ。めちゃくちゃになるのを防ごうともしなかったんだ。ぼくらがどうなってもいいんなら、なんでぼくらを産んだんだ?」。核の恐怖には、核兵器と原発(核発電)の二つがあるのだが、その両方ともをパウゼヴァングは、文学作品として結晶化したのである。

 

パウゼヴァングのメッセージは何だろうか。それは、流される情報を鵜呑みにせず、自分の理性と感性を働かせて深く考えなければならない、ということだろう。前掲『片手の郵便配達人』に載る「日本の皆さんへ」と題したアピールで、パウゼヴァングは「日本もドイツと同じように、戦時中に周辺国において非道な行いをしました。その事実と、どのように向き合ってきたでしょうか」と厳しく日本人に問いかけている。私たちが今何をなすべきか、それははっきりしている。