227号

 

 

 

閑話二題―「恨」、「社会主義リアリズム」

 

               松木 新

 

 

後藤守彦さんが、「通信」226号の「解説の解説を書く」の中で、チェーホフの新訳に挑んだ沼野氏に言及して、次のように書いていました。

 

「…その一例として朝鮮語の「恨(ハン)」をあげている。愛用している小学館版『朝鮮語辞典』は、ただ『恨み』としているだけで実に素っ気ない。『恨』についての説明した文献にもあたったが、わかったと自信を持って言えない。むしろ、安易にわかった気になってしまうのは危ういことだろう。わかろうと務めること、そこに意味があるのではないか」

 

「わかろうと務めること、そこに意味があるのではないか」ということにはまったく同感なので、そのひとつの試みとして、李恢成のエッセーを紹介します。

 

一九九四年に崔吉城『恨の人類学』が、真鍋祐子訳で平河出版社から刊行されました。李恢成がこの本についてコメントしたのが「『怨』との違いを説く『恨の人類学』」(「朝日新聞」一九九四年十月十六日―『時代と人間の運命 エッセー篇』所収)です。

 

釧路に出かけた李恢成は、ある市民から「日本人にも『恨』があると思うか」と質問される。李恢成は「あると思う」と答え、「どの民族であれ、その社会が差別や偏見の構造をもつ限り、抑圧された人間による『恨』の感情は蓄積される。日本で単一民族論が幅を利かす間は民族的少数者は浮かばれないのである」と書いています。

 

『恨の人類学』で李恢成が注目しているのは、次の点です。

 

「民衆の怨霊(おんりょう)信仰を見つめる著者の目は温かく、優しい。たとえば、韓国のシャーマニズムが女性を中心に営まれてきたのは彼女たちの迷信の深さのせいではなく、儒教的な男尊女卑に抗(あらが)う構造をひそめているばかりか、巫俗(ふぞく)を通じて『恨』を表出しているのだという。それは、この世の怨みを復讐行為によって晴らすのではなく、沈殿した『恨』を巫俗によって解きほぐすものだが、さりとてこの恨の民俗は時には東学党の乱(一八九四年)のようにその触媒にもなり得るダイナミズムを内在させているという」

 

李恢成は、著者がこの恨の作用を、「生命力を持った力学的現象と言っているが、従来の民族主義的な伝統解釈では、この巫俗にあらわれる女性の恨は去勢され、クッ(儀礼)と民衆との心の繋がりは軽視されてきた」と強調しています。

 

李恢成は、「『在日』にとって日本は今や根生いの土地だが、残念ながら『恨』は解けていない」こと、その上で、日本の文壇に見られる欧米中心主義の批評に、「文学に現れたアジアの『恨』、或いは『在日』の『恨』が、果たして構造主義派の新批評では見えているのかどうか」と、苦言を呈しています。

 

訳者の「あとがき」によると、「韓国はうらみの国」と表現するような誤謬がマスコミ等に見いだされるのは、〈恨〉と〈うらみ〉の混同があること、〈怨〉は憎悪と復讐を増幅させるだけだが、〈恨〉は自分自身の内部に沈殿した情念であり、復讐の対象を具体的には持たない、という。

 

ともあれ、「『恨』は『怨』ではない。この両概念の混同を避け、人類の共生をめざす生き方を選ぼうとする人々にとって、この『恨の人類学』はよき道づれになるであろう」という李恢成の意見は間違いないようです。

 

 

 

先日、浦 雅春「社会主義と文学―社会主義リアリズムの消滅―」(川端香男里・中村喜和・望月哲男編『スラブの文化』弘文堂、一九九六年)を読んでいたら、面白い箇所に出会いました。

 

「社会主義リアリズム」という語を提案したのはスターリンであることは「定説」であり、それはたとえば、ソ連科学アカデミー研究所編『マルクス・レーニン主義美学の基礎』(一九六〇年版、啓隆閣、一九六九年)では、次のように書かれています。

 

「ア・エム・ゴーリキーの住居でおこなわれた作家会議(一九三二年十月二十六日)は、重要な文学上の諸問題とともに、創作方法の問題についても討議した。その会議に出席していたイ・ヴェ・スターリンは、創作方法についての自分の見解を明らかにした。かれはつぎのようにいった。もしも芸術家が『われわれの実生活を正しく描きだすならば、かれは、われわれの実生活を社会主義へと導いているものを認めざるを得ないし、描きださざるをえない。それが社会主義的芸術となるであろう。それが社会主義的リアリズム(傍点ありー引用者)となるであろう』、と」

 

浦論文の関連する箇所は、次の通りです。

 

「この語(「社会主義リアリズム」―引用者)をはじめて公の席で口にしたのは、イズヴェスチャの編集長を務め、文化行政を一手に担当していたグロンスキーであった。彼は五月十九日(一九三二年―引用者)、会議の席上でこの語をはじめて使用し、その発言が五月二十三日付けの「文学新聞」に掲載され、一般の人々の目にもふれるようになったのである。

 

ところで、この語がだれの考案になるものかは長いあいだなぞだった。スターリンその人だという噂がたえぬ一方、それは神話にすぎず、グロンスキーだという説も根強かった。西側の研究者の大半もグロンスキーの発案だと考えていた。だが、ようやく最近になって(太字―引用者)このなぞが解かれた。解答を与えたのは他ならぬグロンスキーである。ある研究者の質問に答えた手紙のなかで、彼はこの語がスターリンの提案であることを明らかにしたのである。

 

社会主義リアリズムという用語に固まるまでには紆余曲折があった。さまざまな候補が提案された。『モニュメンタル・リアリズム』、『ロマンティック・リアリズム』、『ダイナミック・リアリズム』、『プロレタリア・リアリズム』、『ヒロイック・リアリズム』云々……。グロンスキー自身も『プロレタリア・社会主義リアリズム』もしくは『共産主義リアリズム』といった案を考えていた。その案をスターリンと検討していると、スターリンはこのように語ったという―『君は問題の正しい解答を見いだしたが、その定式化はあまり成功しているとは言えない。ソビエト文学、芸術の創作方法を社会主義リアリズムと名づけてみてはどうか。この定義がすぐれているのは、まず第一に、短いこと(たった二語)、第二に、分かりやすいこと、第三に、文学の発展の継承関係を示していることにある』と」

 

グロンスキーのこの「手紙」が、「ようやく最近になって」明らかになったということは、この論文が一九九六年刊行本に収録されていることから、ゴーリキーの住宅で行われた作家会議でのスターリンの発言という「定説」は、九〇年代後半まで生きていたことになります。

 

スターリンが論拠付けている三つの理由のうち、まともなのは第三くらいです。「短い」、「分かりやすい」などは、まともに論議するには値しない、いかにもスターリン的な発想です。

 

一九三二年四月のソビエト共産党中央委員会決定「文学・芸術団体の改編に関して」は、①プロレタリア作家組織(ラップ、ヴァップ)の解体、②ソビエト政権の綱領を支持する…単一の作家同盟の結集を指示していました。これに基づいて、一九三四年九月にソビエト作家同盟が結成されたわけですから、作家同盟の主な目的が当時、共産党と対峙していた唯一の文学団体であったラップ(ロシア・プロレタリア作家協会)を潰すことにあったことは「いまでは文学史の常識」(浦論文)のようです。

 

この点については蔵原惟人も戦後、「ところが当時ソビェトの文学界で大きな勢力をもっていたロシア・プロレタリア作家同盟(ラップ)の一部の指導者たちは、このことを理解せず(「同伴者作家」を組織すること―引用者)、一部の共産主義作家をその他の作家と対立させ、『敵か味方か』の誤ったスローガンをかかげて、自分たちのセクト的な一団によってソビェト文壇を独占しようとした。ここにおいて党は一九三二年にラップを解散し、すべての資格あるソビエト作家同盟の創立を決定したのであるが、その発議者はスターリン自身であったといわれている」(「スターリンと文学」、一九五三年)と書いています。

 

ラップ潰しが第一の目的であれば、創作方法は二の次ということになります。ラップの「唯物弁証法的創作方法」に対抗する創作方法として考え出された「社会主義リアリズム」の成立過程が、スターリンとグロンスキーとの会話に見られるような安直なものであった理由は、このあたりにありそうです。

 

ラップが当時のすぐれた作家・詩人―ゴーリキー、マヤコフスキー、エセーニン、アレクセイ・トルストイなどを、非プロレタリア作家であるという理由から執拗に攻撃していたことも浦論文は指摘していますが、ラップが攻撃した作家にゴーリキーが入っていたことは、驚きでした。

 

たしかに蔵原惟人も、戦後、「プロレタリア作家同盟の一部の極左的批評家たちは、ゴーリキーが国外にあって創作に従事していること、彼が当面の問題を作品のうちに取りあげていないことを非難し、彼を小ブルジョア・インテリゲンチャの作家であるとした」こと、一九三〇年になっても、ベスパーロフが『文芸百科事典』のゴーリキーの項に、ゴーリキーが描いている抗議は、「生活を改造する行動に、大衆的運動に、たたかうプロレタリアートの行動に基礎をもっていないために、―それはまだ行動する人間のではなくて、思索する人間の抗議、説教になっている」と書いている状態だったと述べているので(「社会主義リアリズムの開花」、一九五一年)、浦論文の指摘は正しいのだと思います。

 

ぼくが「通信」225号の「ゴーリキー『母』と音楽」の中で、多喜二が『母』に目を通した気配がないのは、「蔵原がリアリズムとの関わりで『母』について論究していなかったからではないか」と書きました。何故、蔵原は『母』について言及しなかったのか。彼が戦後、『母』を「『社会主義リアリズム』の文学の最初の古典」(「ロシア革命と文学」、一九四九年)と評価しているだけに、解せない態度でした。

 

この疑問は、ゴーリキーがラップの批判対象者だったという事実で、氷解しました。

 

蔵原惟人は一九三一年に「芸術的方法についての感想」を発表し、プロレタリア文学運動に大きな影響を与えました。この論文では、ラップの「唯物弁証法的創作方法」が、プロレタリア・リアリズムの発展として強調されていました。ラップの思想と行動を継承した蔵原が、ゴーリキーなど非プロレタリア作家たちへのラップの攻撃もまた受容したと考えるのが自然だと思いました。戦前の蔵原が、『母』に言及しなかった所以です。

 

 

 

 

226号 

 

 明けない夜はない 

 

    和合亮一/村山ひで/シェイクスピア

 

              松木  新

 

 

 

和合亮一『詩の礫』(二〇一一年刊行)のフランス語訳(二〇一六年刊行)が、現地文学賞「ニュンク・レビュー・ポエトリー賞」を受賞した。

 

「福島の原発災害という悲劇的な状況の中で湧き上がる詩的言語の奥深さと清さ。そして、外に向けて発信し、状況を伝え、そして現実/歴史を証言する緊急性がツイッターという手段と相まっている」というのが、受賞理由だ。

 

和合は三月十一日の直後、十六日4時23分から五月二十六日6時08分まで、最も放射線数値の高い福島市のアパートの二階から、ツイッターで詩を発信しつづけた。最初のフォローは171人、翌日550人と反響を呼び、五月には1万4000人を超えた。そのツイッターをまとめたのが本書だ。

 

「放射能が降っています。静かな夜です/ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか」と、絶望の中で言葉と向き合う和合は、希望を捨てずに、「2時46分に止まってしまった私の時計に、時間を与えようとおもう。明けない夜は無い」と歌い続ける。

 

 

 

村山ひで『明けない夜はない』(一九六九年刊行)は、一九四〇年二月、生活主義綴方運動事件および「生活学校」事件で検挙され、治安維持法違反で二年の実刑を言い渡された村山俊太郎との出会いから、一九六六年の東北民教研東根大会の頃までを描いた自伝だ。

 

「厳しくても、どんなに苦しくても、庶民たちは、それぞれの仕方で、迫害されて苦しむわたしたちに、力をかしてくれていたのだった。

 

そしてわたしは、村山のような人をとらえてしまう世の中が、そう長くはつづくはずはないと思った。その世の中は、だれも、本当のことがいえず、人間らしさを失っている。かならず、かならず、こんな世の中はくずれる。真実は必ずとおる―それがわたしの支えだった。

 

わたしは『明けない夜はない』と夫をはげまし、子どもたちに明るい希望をもたせて歩きつづけて敗戦をむかえた」

 

生活綴方教育運動への弾圧を描いた小説に、三浦綾子『銃口』(北海道)、高井有一『真実の学校』(秋田)、森与志男『炎の暦』(東京)があることも忘れられない。

 

『銃口』では、旭川警察署で竜太と再会した坂部先生が、「竜太、苦しくても人間として生きるんだぞ、人間としての良心を失わずに生きるんだぞ」と、憑かれたようにいう。『真実の学校』では、北方教育運動の理論的指導者佐々木太一の死を高井有一は、「憤りに似た哀しみが噴き出して来た」と書き、『炎の暦』では、「教師たちは、どんな狂気のなかでも、明日を準備している」と、同僚の喜和に言い残して、高群學は殺された。

 

村山俊太郎を弾圧した予審判事・長尾信は、松川事件第1審で裁判長として、5人死刑、5人無期懲役という異常な判決を下した。

 

 

 

シェイクスピア『マクベス』の〈第四幕第三場〉に、次のセリフがある。

 

「長い夜(よる)にも必ず夜明けは来る」(木下順二訳)

 

「どんな長い夜でもかならず明けるものだからね」(小津次郎訳)

 

「どんな長い夜でもやがて朝が来ますからね」(三神 勲訳)

 

イングランドに逃れてきたスコットランドのダンカン王の息子マルカムと、スコットランドの貴族マクダフが、父ダンカンを暗殺したマクベスを討ち果たし、王位を奪還するために打ち合わせをする場面だ。

 

「残忍、好色、貪婪、陰険、不実、無謀、奸悪、罪と名のつくあらゆる臭いにまみれている」とマクベスを糾弾するマルコムは、次のように言い放つ。

 

「マクベスはひとゆすりで落ちる熟れ切った果実だ。天の神々も励ましてくれていられる。

 

出来る限りの元気を出そう。長い夜(よる)にも必ず夜明けは来る」

 

 

 

核災棄民政策、天皇制ファシズム、血塗られた暴君による圧政―これらと対峙し「個人の尊厳」を守るたたかいは、間違いなく明日を準備する。「明けない夜はない」のだ。

 

 

 

 

 

 

225号

 

 

 

ゴーリキー『母』と音楽

 

             松木  新

 

 

 

「通信」223号に後藤守彦さんが、「音楽ミステリーの愉楽(その二)」を書いています。これに誘発されたわけでもないのですが、ゴーリキーが『母』の中で、ピアノの音色に触れた魅力的な文章があるので、紹介します。

 

「『さあ聞いてちょうだい、ニコライ!これは―グリークよ。きょう持って来たんだけど……窓を締めて。』

 

彼女は楽譜を開いて、左手で軽く鍵盤(キイ)をたたいた。張線(ガット)が、うるおいのある太い音をたてて鳴り始めた。豊かな響きを持ったもう一つの音調が、深くため息をついて、それに流れ合った。右手の指の下から、張線の不思議に澄んだ叫びが明るく鳴り響きながら、不安な群れになって飛び立ち、低い音調のほの暗い上をおびやかされた鳥のように、揺れ動き、ぶっつかり合った。(略)

 

音楽は母にとって快いものになった。音楽を聞いていると母は、暖かい波が胸を打ち、心臓の中に流れ入り、心臓はずっとなだらかに鼓動し、たっぷりと水分を含み、深く耕された土地の中の穀粒のように、心の中で考えの波が、すくすくと元気よく伸びて、音響の力に目ざまされた言葉が、たやすく美しく花咲くように感じた」

 

 

 

『母』にかかわることですが、日本のプロレタリア文学の中で、この小説は正当に扱われてこなかったのではないかという疑問を、最近になって抱くようになりました。

 

蔵原惟人は、「芸術的方法についての感想(後編)」で、芸術的タイプを過去の外国文学から学ぶ必要があることを強調し、三十人近くの作家の名前を挙げ、そのなかで、『母』を紹介していますが、リアリズムとのかかわりで特に強調されているわけではありません。社会主義リアリズムが云々されたのは、蔵原や宮本顕治が検挙されたあとですから、やむを得ないとも思います。

 

しかし、戦後になって蔵原惟人が『母』を、「社会主義リアリズムの文学の最初の古典」(「ロシア革命と文学」一九四九年)と位置づけているように、リアリズムを考える上で、この作品は重要な役割を果たしています。

 

第一次ロシア革命を舞台にしたこの作品を、ゴーリキーは亡命先で執筆、一九〇七年にロシア語版、ドイツ語版、英語版が出版され、日本語訳は一九二九年、「蟹工船」が発表された年に、村田春海訳でマルクス書房から刊行されています。

 

多喜二の日記などによると、一九二六年に「どん底」、「わたしの道づれ」、「ある秋のこと」、「チェルカッシュ」、「カインとアルテルム」、「二十六人と一人の娘」を読んでいることがわかります。また、一九二七年の手紙では、「レーニンのゴーリキーへの手紙」に目を通していたようです。この手紙の内容は不明ですが、『母』についてのレーニンの意見として有名な手紙があるので、もしかしたら、それかもしれません。いずれにしても、多喜二が『母』を読み、影響を受けたという資料が見当たりません。

 

リアリズムにこだわっていた多喜二だけに、なぜ翻訳本に目を通さなかったのか。蔵原がリアリズムとの関わりで『母』について論究していなかったからではないかと推測はできますが、不思議でならない、というわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

224号

 

 

 

『稲の旋律』の面白さ       

 

松木 新

 

 

 

   1

 

小説は、「人間の知性と感性ともに訴える意味伝達の道具」(ノーマ・フィールド『小林多喜二―21世紀にどう読むか』)なのだから、作家は多様な創作方法・手法を駆使して、人間の精神に働きかける。面白く読んでもらうためにどのような工夫をするかも、そうした働きかけのひとつだ。

 

蔵原惟人によると、「創作方法とは作家の生活態度、作家の物の見方、考え方、感じ方と密接に結びついた創作上の基本的態度である。もちろん或る作家の創作方法という場合にはその作家の創作上の手法ないし技法を含むわけであるが、しかしこのことは一つの創作方法が一つの手法をしかゆるさないということではない。創作方法は一定の方向の作家に共通のものでありうるが、創作上の手法ないし技法はより個性的なものである。もちろん或る創作方法により適した手法ということはありうるが、この手法を取らなければならないということはない」(「私小説私観」)。 

 

トルストイの『芸術とはなにか』に面白さの根拠を求めた桑原武夫の『文学入門』を参考に、小説の面白さについて考えてみたい。

 

トルストイは『芸術とはなにか』のなかで、「感染力」をとくに重要視している。読者が作者の精神状態に感染して孤独から抜け出し、作者や他の人たちと自分とがひとつになったと感じる場合に、この状態を表すものが芸術だという。芸術の感染力を左右する条件としてトルストイは、作者の心持ちが独創的であること、心持ちの表し方がはっきりしていること、作者の誠意をあげている。

 

桑原はこの三条件を「芸術品に不可欠の資格」とみなし、次のようにいう。

 

「すぐれた文学とは、われわれを感動させ、その感動を経験したあとでは、われわれが自分を何か変革されたものとして感ぜずにはおられないような文学作品だ、といってよい。感動しうるためには、その作品はわれわれにとって再経験しうるものでなければならない(明快さの必要)。またそれがわれわれのインタレストをひき、感動させるということは、作者自身が切実なインタレストをもって創作経験をしていることであり(誠実さの必要)、また、その経験が模倣的惰性的ないとなみでなく、苦悩にみちた真正の新しい経験だからである(新しさの必要)」

 

桑原は「明快さ」について、「明快でない作品は人を喜ばさない」といい、「誠実さ」とは、作者が対象にたいして全人的に興味・関心を示すことだという。「新しさ」については、題材の新しさだけでなく、発見を重視している。

 

あえて付け加えるとすれば人物描写も重要だろう。登場する人物の個性が生きいきと描き分けられている小説は面白いし、読みやすい。筋の面白さも大事だ。物語(ストーリー)と筋(プロット)についてはいろいろな論議もあるが、小説の基礎である物語が、「時間の序列によって整理された諸事件の叙述」であるのに対して、筋も諸事件の叙述だが、「重点は因果関係」にある(フォスター『小説の諸相』)。

 

「明快さ」、「誠実さ」、「新しさ」、「人物描写」、「筋」が、小説の面白さを決定づけている。

 

 

 

   2

 

旭爪あかね『稲の旋律』は、「しんぶん赤旗」に二〇〇一年九月から翌年二月まで連載され、同年四月に新日本出版社から刊行された。とても面白い小説だからこそ、同書は版を重ね映画化された。

 

なぜ面白いのだろうか。

 

藪崎千華は対人関係を築くのが苦手で、大学も中退しアルバイト先を転々としているうちに、いつしかひきこもり状態になってしまう。三十歳になる年の夏、稲の美しさに魅せられてふと立ち寄った千葉県三喜町で、千華は「誰か私を助けてください」と書いたSOSの手紙をペットボトルに入れ、田んぼの片隅に置いてしまう。稲作農家で野菜も作っている四十六歳の独身広瀬晋平がそれを見つけたところからこの物語は始まる。

 

三喜町での農作業体験や農村で出会った人々との交流を通して、千華は少しずつ自分を取り戻していくのだが、その経緯が、千華と晋平とがやりとりした手紙五十四通と、千華と母親との手紙十三通とで詳細に語られていく。

 

 

 

〈明快さ〉

 

この作品では二〇〇〇年七月三十一日の第一信から、二〇〇一年九月十日の最後の手紙までを扱っている。この時代、完全失業者は約三五〇万人で戦後最悪を記録し、高卒無業者が三五%近く、大卒無業者も二七%に達していた。若者たちが社会の歪みにもろにさらされていた。

 

「優しい子」を演じてきたことの苦しみ、明け方に眠りにつくような生活を送っている自分に対する嘲りと罵り、この先どうしたらよいのか分からないことからくる不安な焦り、両親との葛藤。千華の一挙一動が、呻吟する若者たちや、その親世代の人々と共鳴しあい、多くの読者を魅了した。

 

千華と母親との関係も、読者にとっては人ごとではない。「希望の星」である娘に自分の夢を託してきた母親の姿は、この世代の親ならば、思い当たるふしがあるだろう。それまでの生き方を否定され、娘にどのように接して良いか分からないからと、恥じらいながら笑顔の練習をする母親の姿に胸を突かれるのは、ひとり千華だけではないはずだ。

 

千華や母親の心情を読者にていねいに伝えるために、作者は書簡体小説として、この物語を紡いでいる。近頃では珍しい形式だが、この作品では書簡体小説の利点が十分に生かされている。千華や母親の告白を読むことによって、読者は抵抗なく彼女たちに感情を移入できるからだ。読者が作中の人物とひとつになったと感じ、追体験できるところに、この作品の面白さがある。 

 

〈誠実さ〉

 

作者は、自分はこれまで主人公がなぜひきこもってしまったか、を書いてきたが、『稲の旋律』では、「どうすればそこから抜け出せるのかを主題にしました」(「農民」二〇〇二年四月二十二日付)と語っている。

 

千葉県柏市の田園地帯で育ち、大学の農学部に入った作者は、進路を決定するときに初めて挫折する。部屋にこもり将来を思い悩んで田園地帯をさまよい歩いていた作者は、稲の美しさに圧倒される。「田んぼの稲を見ているときだけ、自分にもまだ何かやれることがある、と思うことができた」(『小説の心、批評の目』)という。

 

 どうすれば引きこもりから抜け出せるかという主題は、作者にとって最も切実な関心事だ。稲の美しさに圧倒された実感を主題に生かし切ろうと考えた作者が、引きこもりから脱出する方途を米作りに求めたのは当然だろう。土に生きる千華を描くことで、作者はこの主題に挑戦した。千華を米作りの現場に投げ込んだのは、作者の切実な創作経験に裏打ちされており、そこにこの小説の面白さがある。実験田の田植えで、泥にまみれる千華の姿がとても印象的だ。

 

「いまでもまだ私は転ぶことが怖い。でも、転べるようになりたいのです。人間は転んであたりまえなのですから。転んだって、人間はそうそう簡単に壊れはしないのですから」

 

田んぼの中で転んでしまったことが、その後の千華に大きな影響を与えていることを考えると、この場面を作者は周到に準備したことが想像できる。すぐに思い出すのは宮本百合子「貧しき人々の群」だ。今度倒れたら死んでしまうかも知れないと危惧しながらも、行かずには済まされない、「ほんとうにドシドシドシドシと、真の『自分の足』で歩き、真の『自分の体』で倒れ、また自ら起き上られる者の偉さは、限り無く畏るべきものではございますまいか」と主人公はいう。千華の「転べるようになりたい」という願いには、「自ら起き上られる者の偉さ」への希求がある。

 

それにしても、稲の美しさの描写は秀逸だ。田植えの後の水田風景を見よう。

 

「畔で区切られた幾枚もの長方形の大きな鏡が、どれもこれもぴかぴかに磨き上げられ、天を見上げてその身を横たえています。刻一刻と移り変わる上空の色彩が、地面いっぱいに並べられた鏡の表に、微妙に異なった色合いと光の調子をもって、静かに止むことなく投影されていきました」

 

稲の花が咲いている光景も見事だ。

 

「十五センチほどに伸びた稲の穂のてっぺん近くで、黄緑色をした小さな籾が割れ、細い白い糸のようなものが数本飛び出しています。この糸は雄しべ。その先にくっついて風に震える、わずかに卵色を帯びたアイボリーのものは、花粉です。車に戻り窓から眺めた光景は、まだ柔らかそうな穂の先があちこちでちょこちょこと毛羽立って、田んぼ全体に細かい白い粉をまぶしたようでした」

 

稲の美しさに圧倒され、「田んぼの稲を見ているときだけ、自分にもまだ何かやれることがある、と思うことができた」という作者の思いが、このような描写として結実したといえる。

 

 

 

〈新しさ〉

 

稲の美しさと音楽とを結びつけたところに、この小説の新しさがある。千華の頭の中には不思議な装置があり、精神状態が良好なときには、彼女だけに聴える音楽を奏でる。

 

千華は会社に行けず逃避行のようにして、銚子行きの電車に乗る。車窓一面が稲で覆いつくされ、稲のオーケストラの気配を感じた千華の耳に、数年ぶりに、イ・ムジチ合奏団の演奏するパッヘルベルの「カノン」が聴えてくる。風に揺られる稲たちをもっと身近で見たい、茎や穂に触ってみたい、匂いを嗅いでみたいという衝動に駆られて降り立ったのが三喜駅だ。「カノン」が、千華と晋平との運命的な出会いを準備した。

 

実験田で田植え機と悪戦苦闘していた千華は、つんのめるようにして田んぼのなかに膝から転がってしまう。物心ついてから、人前でこれほどあからさまに転んだことがない千華は、仲間たちと爆笑するのだが、その時ふたつの感覚が重なり合って胸の奥からせり上がってくるのを実感する。(自分はちっぽけな存在なんだ)という感覚と、(自分の存在は、たしかでがっちりしている)という感覚だ。この二つの感覚は、千華が自分を取り戻していく営みの土台にしっかりとすえられていく。

 

その時、千華の耳に聴えてきたのが、グレン・グールドの演奏によるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」だ。新しい明日へ向けて一歩を踏み出した千華への、それは応援歌でもあった。圧巻は、実験田の稲刈りの前に行われたコンサートの場面だ。

 

晋平と逸子との恋を告げられた千華は、遣り場のない憤りと哀しみに苛まれるものの、「私が私でいられる場所」は三喜町しかないことに気付き、田んぼのコンサートに母と一緒に参加する。母の三喜町行きは、夫に対する初めての反抗だった。

 

実験田の稲を眺められる農道に置かれたグランドピアノで、千華は「カノン」と「ゴルトベルク変奏曲」を演奏する。ピアノを弾きながら千華は三喜町での日々に思いを馳せる。

 

「みんなはいつも私の言葉に耳を傾けてくれました。立ち止まっては後退する遅々とした私のペースを、ただ黙って見守ってくれた。信頼して、任せてくれたのです。そして転んだら、またやり直す機会を与えてくれました。それらは私にとって、どんなに必要なことだったでしょうか。田植えで泥のなかに転がったあのときから、私に見える世界の姿は少しずつ変わりはじめました」

 

千華は最後の一曲として、母にとって思い出の曲である「故郷を離るる歌」を、いつしかピアノのそばに来ていた母と連弾する。二人にとって確執の元凶であったピアノ演奏を、和解の象徴として描いた作者の企みは見事だ。

 

曲の二番からは、演奏に合わせて奈緒や逸子などが歌い出す。

 

〈土筆摘みし岡辺よ 社の森よ

 

 小鮒釣りし小川よ 柳の土手よ

 

 別るる我を憐れと見よ

 

 さらば故郷〉

 

彼女たちの歌声を聞きながら、千華は「我が身を『憐れ』だと思うのはナンセンスだと、何度も自らを戒め」る。母との連弾が傷心をいやしたのだ。

 

それから二十日ばかり後、千華は稲の旋律が聴えてくるようで耳をすませながら、「私は、信じて待つことのできる人間になりたいと思いました。自分のことも。他人のことも」と手紙に書く。どうすれば引きこもりから抜け出せるかの方途を見出した千華の強い決意だ。

 

作品世界では、晋平の手紙を通じて為政者たちによる農業破壊の実態が解明されている。

 

食糧自給率が四十パーセントにも満たないのは、農家だけでなく国民全体にとって危機的だ、生産調整というが、稲作農家にとって転作はさまざまな面でじつに困難だなど、晋平の言説は一つひとつ重要だが、読者を引きつけるのはそのこと以上に、米作りの実際だ。

 

「塩水選」、「燻炭」、「元肥」、「ぼかし肥」、「代かき」、「畔塗機」、「追肥」、「米糠除草」、「分けつ」、「穂肥」、「空散」、「中干し」などは、多くの読者にとっては多分、初めて目にする用語だろう。それらが、毎日食べている米とじかに結びついていることを知ることはひとつの発見であり、そこに面白さがある。

 

 

 

〈人物描写〉

 

この作品では、千華や晋平など主な登場人物の社会的、個人的な性格つまり個性が、生き生きと描き分けられているために、読みやすいし面白い。

 

とくに目立つのはセリフのうまさだ。とりわけ脇役たちのセリフが、それぞれのキャラクターを巧みに表現している。

 

千華の父親のセリフはこうだ。

 

「働きもせんで、千葉くんだりで密造酒を飲んでるのか。どん百姓が!」

 

戦時中、農村に学童疎開したときの嫌な記憶がトラウマになっている退職校長の、効率一辺倒で農業を蔑視している姿を、このセリフは浮き彫りにしている。母親と和解した千華の、次の攻略目標だが、なかなか手強い相手だ。

 

弟の敦のセリフは痛切だ。

 

「うちはいつも姉ちゃんがいちばんだからさ。俺は、いるとこねんだもん」

 

千華を中心に動いていた藪崎家の実情を、このセリフは見事に言い当てている。それだけに、千華の挫折が両親に与えた精神的な衝撃は計り知れない。母親が、自己責任論で千華の状況をなんとか理解しようと考えてしまったのも、無理からぬことだ。

 

晋平の父親のセリフには、米作り農家の苦労が滲み出ている。

 

「麦飯は飽きるほど食った。俺はもう、死ぬまで銀シャリしか食わん」

 

八十年代半ばまで、米を農協に出荷することを供出といっていたほどに、米は農家にとって国のために作る作物だった。苦労して収穫した米のほとんどを政府に供出し、自分たちの口には入らなかった時代をくぐってきた農民の、これは痛切な思いだろう。

 

晋平の年下の友人である小林新もユニークだ。

 

晋平の身代わりで千華に平然と会うかと思うと、帰宅する千華のおみやげとして、「どん百姓」と書いたドブロクを持たせるなど、茶目っ気たっぷりの青年だ。決め科白はこうだ。

 

「これぐらいやんなきゃ、千華ちゃんの親父さんには対抗できねえ」

 

千華と小林が、今後どのような形で友情を育んでいくのかは定かでないが、千華の行く末を想像する読者には、忘れられない人物だ。

 

 

 

〈筋〉

 

この小説は、ペットボトルにSOSの手紙を入れて、田んぼの片隅に置くというミステリアスな冒頭から、読者の興味を引きつける。プロレタリア文学の名作である葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」を思い出させる出だしだ。セメント袋を縫う女工が、クラッシャーで殺された恋人の無惨な死を知らせるために手紙に書き、セメント樽の中へ入れる。手紙からは苛酷な労働の実態が露わになってくる。

 

筋では「重点が因果関係」にあることを考えると、作品世界で起こる一つひとつの事象が、千華の疑問にたいする晋平の回答、あるいはその逆という形で進行しているだけに、因果関係はきわめて明快だ。書簡体小説の利点がここでも生かされている。

 

千華と晋平それに逸子という独身男女の出会いが、愛情の問題を招来させることは自然の成行きだ。作者は二つの場面を設けることで、読者の関心に応えている。

 

第一の場面は、晋平が二度しか会っていない逸子を、さん付けで呼んだことに端を発した焼き餅事件だ。この時の千華は、以前の状態に戻ってしまう。

 

第二は、千華が晋平から逸子が好きだと告白される場面だが、今度は三喜町で出来上がった体内時計が正確に時を刻み、千華は崩れない。

 

農作業の実際が、千華の再生を後押ししたことがよくわかる、無理のない設定だ。

 

この作品でもうひとつ注目したいのは、千華の母親を、福島県の海沿いの農村出身者としていることだ。千華は三喜町で、「自分自身が惹きつけられたことに素朴にまっ直ぐに向き合って」いる。再生への熱情は農業に向けられたこの姿勢から生まれているのだが、母の場合は違っていた。

 

小学校の高学年になると、「首まである稲をかき分けかき分け、汗をだらだら流して、大きくなってもう根からは抜けないヒエやアワの穂を引っ張って取って歩」く日々だ。母にとって、それは苦痛以外の何ものでもないはずだ。背景に戦争があることを考えると、母と娘の農業に向き合う姿勢にも、侵略戦争の傷痕が刻印されていることが分かる。この国の歴史に、改めて目を向けさせていることも、この小説の面白さのひとつだ。

 

小説の面白さを決定づけている「明快さ」、「誠実さ」、「新しさ」、「人物描写」、「筋」のいずれに則してみても、この作品がそれらを十分に満たしていることは明らかだ。とても面白い小説だからこそ、『稲の旋律』は多くの人々の心をつかんだのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

223号

 

 「土人」の使用例    

 

松木 新

 

 

 

池澤夏樹が「差別語問題」についてコメントをしていますので、紹介します(『世界文学を読みほどく』二〇〇五年一月 新潮社)。

 

 

 

ポリティカル・コレクトネス(PC)という言葉があります。ここ二十年ぐらいアメリカで言われている言葉ですが、日本で一番わかりやすい言いかたをすると、「差別語問題」。つまり、「偏見、差別を助長するような表現を、なるべく避けましょう」が単純な言いかたとしてのPCです。

 

このPCは、往々にして単に言葉狩りに終わって、空回りして滑稽なことになる。「背が低い人」と言ってはいけないというのがアメリカにあって、PC的には「垂直方向に挑戦されている人」と言うのだそうです。

 

日本では、ひたすらそれを言い換えだけですり抜けようとしてきました。言葉のレベルでしか考えず、背後にある思想に考えが至らないというのが、差別語問題全体に関わる基本の論争です。「部落」という言葉を使わなければ済むのか―、京都でこの問題を持ち出すと、なんだがリアリティがあるんですけれど―、(この文章は、京都大学文学部の夏期特殊講義の講義録―引用者)部落を集落と言い換えればいいのか。そうではないだろう。

 

ぼくが、祖先とアイヌの話を書きながら、形ばかりのパッピーエンドにはできなかったというところへ、話題を戻します。

 

ごく簡単な差別語問題から言えば、土人という言葉は今は使えない。しかしぼくはこの小説を連載中に朝日新聞の紙面で堂々と使いました。こういうコンテクストで使うんですから、使います、と。覚悟を決めて使って、結果は特に問題にならなかった。

 

つまり、当時土人と呼ばれた人を、今になって別な呼びかたをしたのでは、それ自体が誤魔化しになるし、差別になる。それでは問題の本質は捉えられないということです。

 

 

 

次ぎに池澤夏樹『静かな大地』(二〇〇三年九月 朝日新聞社)で使用されている「土人」を紹介します。この作品は、作中の文章でいうと、「もしも力の他に理というものがあるとすれば、和人がアイヌにしてきたことは理に反する。没義道のきわみだ」ということを明らかにした小説です。

 

 

 

〈そう言えば、今はもう蝦夷とは呼ばないのだ。蝦夷というといかにも日本国の外の民のように聞こえる。それはロシアに対してもよろしくないというので、今は土人と呼ぶことになっている。自分たちではアイヌと言っているらしいがな。〉

 

〈アイヌの言葉だ。ドジンの言葉だ、と次に人々はささやいた。〉

 

〈近くまで来ると、姿がよく見えるようになった。船上の人々の間にざわめきが走った。ドジンだ、ドジンだ、という声が広まった。〉

 

〈ドジンだ、と誰かが言った。アイヌだと兄が小さな声で言った。私たちは黙ったまま相手の男を見た。男はにこにこしている。〉

 

〈ドジンの子じゃ、と謙太が小さな声で言った。〉

 

〈他の家では、土人の子などと親しくしてはいけませんと親が言っていたのでしょう、と由良が橫から口を挟んだ。〉

 

〈父はともかく三郎さんは幼い頃からなかなか子供たちの中で人望があったそうです。その宗形三郎が、北海道に来てみると、自分たちをないがしろにしてドジンとばかり遊んでいる。〉

 

〈まさか侍の子がドジンの子と遊ぶわけにはいかないだろうが。親からも戒められていることだ。一度か二度は行ったけれども、家に帰ってアイヌと遊んだと話すと叱られる。〉

 

〈かかる危急存亡の折に、貴重な食糧を土人ごときに分け与えられると思うのか、このたわけ者めが。〉

 

〈他に聞いてくれる耳がなければ、私らの不満はみなあんたたちに向かう。和人たちはまた、あんたが私らに対して甘いと責めるだろう。土人の肩を持つと言いつのるだろう。〉

 

〈しばらくして棒の動きが停まった。トゥキアンテはじっと動かなかった。相手は肩で息をしている。存外だらしない奴だという思いが頭をかすめた。山で狩りをするほどの体力はないだろう。立て、土人、と相手はようやく口を開いた。〉

 

〈その送りの火は何だった。蝋燭です。西洋蝋燭か。豪儀なことだな、土人のくせに。たった一人の母ですから。〉

 

〈秋山勉蔵、元気そうだな。はい、おかげさまで。身をつつしめよ。おまえら土人のふるまいなどすべてお見通しだからな。それはもうもちろん。〉

 

 

 

 

 

 

222号

 

 「壁小説」の活用方法

 

               松木 新

 

 英訳『日本プロレタリア文学選集』の「Ⅴ武器としての芸術」は、「壁小説」を扱っている。その中でノーマさんは、「工場の壁のような公共の場所に、『壁小説』を貼りだせる場所があるかということもこのジャンルでは重要なポイントだったが、日本の書き手やそれを読む者たちが実際にどのように活用したのかについては、記録が残されていない」と書いている。そのためにノーマさんは、工場の掲示板を活用した例として、李東珪「掲示板と壁小説」(原文朝鮮語)を、この『選集』に収録している。

 

先日、笠井清『札幌プロ文学運動覚え書』(一九七六年 新日本文学会出版部)を読んでいたら、「壁小説」をビラにして活用していたことが分かった。

 

笠井は日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)札幌支部準備会の中心メンバーの一人で、この当時の活動の様子がリアルに書かれている。その中に、「壁小説」をビラにして労働者の中へ持ち込んだ例として、札幌の北海製鋼社の場合が取り上げられている。

 

『覚え書』には資料として、ナルプ札幌支部準備会の機関誌『文学部隊』第一巻第二号に掲載された、山川信夫「ぶんなぐる」(壁小説)と、三上顕治「壁小説流し込みに就いての二三の問題」(評論)が収録されている。

 

「ぶんなぐる」は六枚ほどで、この分量だと、ビラにできそうだ。三上の評論は、このビラを読んだ労働者から、職場の現実とはかけ離れた楽観主義で効果的でないから、他所でまいた方が良い、という意見に対する反論だ。当時は、ビラを「まく」、あるいは「入れる」以外に、「流し込む」と言っていたことも、この評論で初めて知った。

 

なお、同書には「壁詩」や「掌小説」についても言及がある。「掌小説」は「壁小説」と同じ概念だろう。こちらの方は一枚半くらいで、ビラにして札幌の豊平製鋼所へ「入れた」という。北海製鋼社と豊平製鋼所は同じ会社かも知れない。

 

いずれにしても、こういう形で「壁小説」が活用されていたという事実は、貴重だと思った。

 

 

 

221号

 

 『騎士団長殺し』余話    

             松木 新

 

 村上春樹の『騎士団長殺し』を、「文芸時評」(『民主文学』五月号)で取り上げ、「『第1部顕(あらわ)れるイデア編』の最終章が、物語の流れから断ち切られて、サムエル・ヴィレンベルク『トレブリンカの反乱』の引用で埋められている」と書きました。

 

その後、『トレブリンカ叛乱』(近藤康子訳、二〇一五年七月みすず書房刊)を入手し読んでみました。ワルシャワ近郊にあったユダヤ人絶滅を目的としたトレブリンカ強制収容所で反乱があり三百人が脱走、その一人が著者です。その後ワルシャワ蜂起にも参加し、戦後すぐにこの手稿を書きましたが、出版したのは約四十年後の一九八六年です。

 

村上春樹が引用した文章は、近藤訳そのものではなく、村上自身による翻訳でした。以下、二つの訳を紹介します。

 

 

 

【近藤訳】『トレブリンカ叛乱』

 

われわれが話をしているとき、一人の囚人が近寄ってきた。彼はワルシャワ出身の塗装の専門家で、(略)彼はよく詳しく仕事の話をしてくれた。

 

「絵具で描いているよ。ドイツ兵のために肖像画を。彼らは親戚や妻たち、母親、子供たちの写真を持って来る、皆が肉親の絵を欲しがる、SS隊員たちは自分の家族のことを感情と愛をこめて目や髪の毛の色を説明する。素人写真のぼやけた白黒写真から家族の肖像画を描くのだ。分かってくれよ、ドイツ兵の家族より、『野戦病院』の屍体の山の中にいる子供たちの白黒写真を彩色して描きたい。彼らが殺した人の肖像画を渡し、家に持って帰らせ、壁にかけさせたいんだ。畜生!」

 

芸術家はこのとき、特にとり乱し、狂ったように思えた。

 

 

 

【村上訳】『トレブリンカの反乱』

 

我々が話をしていると、また別の男が近づいてきた。ワルシャワ出身のプロの画家だった。(略)彼はしばしば私に、自分のやっている仕事について長々しく話をした。

 

「わたしはドイツ兵たちのために色彩画を描いている。肖像画なんかをな。連中は親戚やら奥さんやら、母親やら子どもたちやらの写真を持ってくる。誰もが肉親を描いた絵を欲しがるんだ。親衛隊員たちは、自分たちの家族のことを感情豊かに、愛情を込めてわたしに説明する。その目の色や髪の色なんかを。そしてわたしはぼやけた白黒の素人写真をもとに、彼らの家族の肖像画を描くのさ。でもな、誰がなんと言おうと、わたしが描きたいのはドイツ人たちの家族なんかじゃない。わたしは〈隔離病棟〉に積み上げられた子供たちを、白黒の絵にしたいんだ。やつらが殺戮した人々の肖像画を描き、それを自宅に持って帰らせ、壁に飾らせたいんだよ。ちくしょうどもめ!」

 

画家(アーチスト)はこのときとりわけひどく神経を高ぶらせた。

 

 

 

さすがに村上訳の方が、翻訳はこなれています。村上訳では、作品のタイトルが変更されていますがそれ以外に、「塗装の専門家」が「プロの画家」に、「子供たちの白黒写真を彩色して描きたい」が「子供たちを、白黒の絵にしたいんだ」となっています。

 

近藤訳には、男の小屋にはペンキの匂いがしたとか、看板をつくらせたとあるので、多分、こちらの方が原文に近いのでしょう。

 

村上訳は、ファシズムの犠牲者である画家の存在を明確にするためにも、また、ナチス・ドイツによるポーランド侵略の残虐性をあぶり出すためにも必要な意訳だと思いました。

 

この翻訳ひとつとってみても、『騎士団長殺し』に込められた作者の執念を感じました。

 

 

 

※原文でのルビは下の( )内に記しました。

 

 

 

 

218号

  

 閑話三題 承前

           松木 新

 

 評論に関する『民主文学』編集部とのやりとりと、土曜講座「日本文学は戦争をどう描いたか〈近代編〉」(来年三月)でとりあげる「迷路」の準備中に明らかになったことです。

 

  1. 蔵原惟人「プロレタリ・レアリズムへの道」

 

この評論は、『戦旗』一九二八年五月号に掲載されたものですが、初出は「ア」ではなく「ヤ」であると、宮本編集長が教えてくれました。早速、国会図書館から『戦旗』のコピーを取り寄せたところ、正解は「ヤ」でした。新日本出版社の校閲ミスです。

 

新日本出版社版の『蔵原惟人評論集』、『日本プロレタリア文学評論集』は「ア」のままですが、三一書房版の『日本プロレタリア文学大系』、『新潮日本文学辞典』は「ヤ」になっています。

 

ちなみに、この論文が掲載されている『蔵原惟人評論集』第一巻の発行が一九六六年十月ですから、蔵原は当然チェックできたはずです。

 

校閲の大切さ加減を改めて痛感しました。

 

  1. 『宮本顕治文芸評論選集』第一巻「あとがき」

 

作家同盟の解体に係わった鹿地亘を批判したコメントに、「プロレタリア政治と芸術運動の歴史的関係をすべて悪として否定」とあり、これを評論に引用し、出典を(『宮本顕治文芸評論選集』第一巻「あとがき」)としました。ところが宮本編集長が初出をチェックしたところ、「関係」ではなく「足跡」となっていることが分りました。

 

ケアレスミスにしては違いすぎるので、資料用のノートを見ると、『わが文学運動論』に収録されている「あとがき」からの引用でした。この本では「足跡」が「関係」に変更されていたのです。

 

「足跡」よりも「関係」の方に説得力があるので、こちらを採用することにし、引用文献も(宮本顕治『わが文学運動論』)とすることで、事無きを得ました。

 

すでに発表した作品を再録する場合、加筆・訂正をすることがよくあり、その旨のコメントが付記されていますが、『わが文学運動論』「まえがき」では、「もちろん内容は発表当時のものである」と書かれているだけで、訂正については言及されていませんでした。そのために、修正に気付かなかったわけです。

 

文献を引用する場合には、細心の注意を払わなければならないことを実感しました。

 

  1. 『野上彌生子全集』第Ⅱ期第二十九巻「補遺2」

 

この巻は彌生子没後に出版されたもので、「母の歌」が収録されています。全集担当の編集者宇田健の「後記」によると、「昭和十七年十二月三十一日刊の『初等科音楽三 文部省』に収録。作曲は下総晥一である」とのことです。

 

  

 

「母の歌」 

 

         文部省唱歌

 

一 母こそは、命のいづみ。

 

  いとし子を胸にいだきて

 

  ほほ笑めり、若やかに。

 

   うるはしきかな 母の姿。

 

二 母こそは、み国の力。

 

  をの子らをいくさの庭に

 

  遠くやり、心勇む。

 

   ををしきかな 母の姿。

 

三 母こそは、千年(ちとせ)の光。

 

  人の世のあらんかぎり

 

  地にはゆる天つ日なり。

 

   大いなるかな 母の姿。

 

 

 

彌生子が、『迷路』第一部/第二部「はしがき」に、「今度の不幸な戦争を頂点とする日本の十数年の歩調には、一度も歩調を合はせた覚えはない」と言い切っているだけに、この「母の歌」の第二連には、正直、違和感を覚えました。

 

実際、一部の研究者は、この「母の歌」の第二連を論拠にして、「戦争協力はしなかったと戦後、胸を張って何度も発言しているが詳細に見るとボロボロンと出てはくる」(「週刊読書人」二〇〇三年五月二十三日)と批判している始末です。

 

ところが狩野美智子が、作曲者である下総晥一が保存していた自筆楽譜を見つけ、『野上弥生子とその時代』に、その写真を掲載しています。そこには、第二連がなく、歌詞は第一連と第三連だけなのです。つまり、彌生子は第二連を作詞していなかったのです。戦意高揚のために時の政府が捏造したとしか考えられません。

 

天皇制ファシズムによる言論・表現の自由にたいする弾圧は、伏字と削除が常套手段だと思っていましたから、捏造という方法もあったのかと、驚いてしまいました。

 

活字になっているものでも、特に、著者没後のものについては、慎重な判断が求められていることを、改めて強く感じました。

 

 

 

 

 

 

217号

 

 閑話三題

                    松木 新

 

 

 

十一月八日に、評論「アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』を読む」を『民主文学』誌に投稿して、一息ついたところで読んだ本の感想です。

 

 

 

 

 

➀岩橋邦枝『評伝野上彌生子 迷路を抜けて森へ』(新潮社)

 

野上彌生子の郷里である臼杵の郷土料理に、茶台寿司というものがあることを知りました。寿司ネタには魚を使わず、卵焼きや野菜を使うというものです。九十歳を過ぎた彌生子が、北軽井沢の山荘を訪れる客のために作ったというのですから、よっぽどおいしいものだと思い、早速、挑戦してみました。ネタは、卵焼き・シイタケ・タケノコ・ニンジン・キュウリ・オオバ。

 

キュウリとオオバ以外は、醤油と砂糖で味をつけておきます。寿司飯の上下に異なったネタを乗せ、細く切ったのりで巻き付けます。それを交互に皿の上に並べていくと、眼にも鮮やかな茶台寿司のできあがりです。食べてみると、酢と野菜の味が調和して、口の中がまろやかになり、何ともいえない幸福感に浸ることができました。

 

 

 

 

 

②宮木あや子『校閲ガール』(角川文庫)

 

「朝日新聞」の「天声人語」だったと思いますが、この小説を原作にしたテレビが始まることを知り、「校閲」に興味があったので見ました。石原さとみの芝居がとてもうまく、面白い内容だったので、早速、読んでみました。

 

ぼくらは普段、「校正」には気をつけますが、なかなか「校閲」までには踏み込むことができません。

 

※こうえつ【校閲】 《名》文書や原稿などの誤りや不備な点を調べ、検討し、訂正したり校正したりすること。「専門家の―を経る」「原稿を―する」         

 

『大辞泉』より

 

印刷会社で校閲部を持っているところは、北海道ではありません。出版社では、北海道大学出版会ぐらいではないでしょうか。それだけに、道内で書いているぼくらは、「校閲」までをふくめて、すべて、自分で責任を持たなければならない、という状態に置かれているわけです。

 

 

 

 

 

③ジョン・ル・カレ『われらが背きし者』

 

(岩波書店)

 

 池澤夏樹、べた褒めのミステリーです。この手の本なら、普通は早川書房からでるのですから、岩波というのも異色です。

 

洋物のミステリーはこの十年ほど、ほとんど読んでいないのですが、この本には堪能できました。国際的なマネーロンダリングが主題で、ロシアとイギリスの諜報機関とが入り乱れてのたたかいですから、スケールの大きさにビックリしてしまいます。

 

この小説を原作にした映画が現在、上映されています。先日、観てきたのですが、満足できました。複雑な小説のストリーを簡潔にまとめあげたシナリオと、カメラワークの勝利だと思いました。

 

 

 

 

 

214号

 

 

『羊と鋼の森』と原民喜

 

松木 新

 

 

 

北海道研究集会用の原稿を書き上げ一息ついたところで、積んどいた本に目を通していたら、宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)に意外な発見をした。

 

道東を舞台にした今年の本屋大賞受賞作で、自然描写がとてもよく、ピアノ好きには読み応えのある小説だ。作中、ピアノ調律師である主人公が、自分が目指す「音」はこれだとして言及しているのが、原民喜の文章の一節だ。

 

 

 

「『明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛へている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体』

 

何度も読んで暗記してしまった原民喜の文章の一節を思い出す。それ自体が美しくて、口にするだけで気持ちが明るむ。僕が調律で目指すところを、これ以上よく言い表わしている言葉はないと思う」

 

 

 

先輩の調律師から原民喜の文章を教えられ、「文体」を「音」と置き換えることで、自分が目指す「音」をつかんだ主人公の述懐だ。

 

原民喜のこの文章は初めて目にするもので、出典もわからない。手元にある岩波文庫や新潮文庫にも見当たらず、ようやく『日本の原爆文学①原民喜』(ほるぷ出版)所収の「砂漠の花」にたどり着いた。

 

初出誌未詳のこのエッセイは、原がまだ一度も会ったことのない堀辰雄から署名入りの『牧歌』という小作品集を贈呈された時に書いたものだ。この本を読み、「荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた」原が、「ふと文体について私は考へさせられた」と書いたのが、『羊と鋼の森』で 引用されている文章だ。

 

 

 

「明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体・・・・・・私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないだろう」

 

 

 

文学する者としては、「文体はそれをつくりだす心の反映でしかないだろう」というところが肝要だと思うのだが、それにしても、原のこの文章には考えさせられた。

 

ついでに、文体についてのサルトルの見解を紹介しておく。

 

 

 

「人は、ある物事を語ることをえらんだから、作家なのではなく、その物事をある仕方で語ることをえらんだから、作家なのである。そして、文体は、もちろん、散文の価値にちがいない。しかし、文体は気付かれずに過ぎるようなものでなければならない。言葉は透明であり、視線は言葉を横切るのであるから、そのなかにすりガラスをすべりこませることは、馬鹿げていよう。美は、ここでは、軟い、感じられないような力にすぎない」(『文学とは何か』)

 

 

 

ともかく何よりも驚いたのは、宮下奈都が一九六七年生まれだ、ということだ。この世代に、原民喜がこういう形で根付いていることに、何か明るい未来を感じた。

 

 

 

 

 

 

 211号

 

 

『プラハの墓地』が面白い

 

              松木  新

 

 

 

二月に出版されたウンベルト・エーコ『プラハの墓地』(東京創元社)を、遅蒔きながら読了。ガリバルディによるイタリア統一も前半にはあるが、パリコミューンとドレフュス事件を見事に再現した後半部分がとてつもなく面白い小説だ。

 

祖父から反ユダヤ主義の教育を受けた主人公のシモーネ・シモニーニは、稀代の美食家で、高度な文書偽造の技術を持っている。彼は各国の秘密情報部と接触しながら、反ユダヤ主義の策謀を画策する。最後には、プラハの墓地でユダヤ人の集会がもたれ、その場で書かれたという史上最悪の偽書といわれる「シオン賢者の議定書」の偽造だ。

 

ヒトラーが『わが闘争』で、「この民族の存在が絶え間ない嘘の上にあることは有名な『シオン賢者の議定書』に書かれている。(略)この本が民族すべての共通の財産となった時に、ユダヤの脅威は排除されたとみなせるだろう」と書き、ホロコーストに突き進んだのは有名な話だ。

 

作者によると、この小説ではシモニーニだけが架空の人物で、他はすべて実在しており、発言内容や行動も事実に基づいて再現されているとのことだ。このことも、面白さの要因の一つになっている。

 

細部のリアリズムが臨場感を高めており、読む者の想像力を豊かにしてくれた。

 

パリコミューンでは、包囲された市民の側の悪化した食糧事情が描かれている。

 

 

 

「実際に、しだいに金魚をフライにしなければならない家が出てくるようになり、馬肉好きは軍が放置している馬をかたっぱしから襲撃し、(略)肉屋はもう恥も外聞もなく、まずはよく肥えた猫を、それから犬を店頭に並べるようになった。動植物園の輸入動物がすべて食用にされ、クリスマスの夜、金を使う余裕のある人のために《ヴォワザン》では豪華なメニューが提供された。象のコンソメ、ラクダのロースト・アングレーズソース、カンガルーのシチュー、熊のロース・ポワヴラードソース、羚羊のテリーヌ・トリュフ添え、それから猫に乳飲み仔ネズミの付け合わせ」

 

 

 

このような描写は大佛次郎の『パリ燃ゆ』にもなかった描写で、あっけにとられてしまった。

 

ユーゴ、ゾラ、ドストエフスキー、メンデルスゾーンなど、馴染みの人たちの登場も魅力的だ。なかでも、この時代を代表するマルクスについての言及は、一読に値する。

 

「共産党宣言」について、「共産主義者の宣言が出されたという噂さえ学生仲間のあいだで流れた。そのことには学生だけでなく工員や貧困層も熱狂し、最後の国王のはらわたで最後の司祭を絞首刑にすることになると誰もが信じていた」と書く。ブルジョア誕生の文章には讃辞を惜しまない。

 

 

 

「階級闘争としてのブルジョワを取り上げた文章は息を呑むほどだ。マルクスは、地球全域に広がる阻止不可能なこの新しい勢力を、『創世記』の冒頭にある神の創造の息吹のように示している。そしてブルジョワの賞賛が終わると(本当に、マルクスは感嘆しているのだ)、ブルジョワの勝利に呼び起こされて地下に潜んでいた勢力が登場する。つまり資本主義の胎内からその埋葬人となるプロレタリアが吐き出されて、声高に『今や、我々はおまえたちを破壊して、おまえたちのものをすべて奪い取ってやる』と宣言する。素晴らしい」

 

 

 

シモニーニが「シオン賢者の議定書」に記した次の文章は、まるで今の安倍政権が指針にしているようだ。

 

 

 

「政治においては純粋な力だけが勝利し、暴力が根本原理であるべきだ。狡猾さと偽善が、取るべき方針でなければならない。悪は善に達するための唯一の手段なのだ。腐敗、欺瞞、裏切りを前にして我々はためらうべきではない。目的は手段を正当化する」

 

 

 

 

『日本プロレタリア文学選集』の刊行が意味するもの

 

                          松木 新

 

 

 

「しんぶん赤旗」(6月8日付)にノーマさんが、この二月にシカゴ大学出版局から刊行された、ヘザー・ボウエン=ストライク ノーマ・フィールド編『尊厳、正義、そして革命のために 日本プロレタリア文学選集』についてのエッセーを寄稿している。

 

「あの時代を生きた書き手たちの知性と感性と無謀にすら思える勇気を、海を隔ててわたしたちはいかに受け継ぐことができるのだろう」という問いかけは重い。

 

松田解子HPに目次が紹介されていたので、この『選集』と、手元にある新日本出版社版『日本プロレタリア文学集』1~31、三一書房版『日本プロレタリア文学大系』序~8との違いを調べてみた(新日本出版社版には、同社で多喜二全集、百合子全集を出版しているので、百合子の初期の作品しか収録されていない)。

 

 

 

 

 

 

 

目次
Ⅰ 個人的なことは政治的なこと
  
1 同志田口の感傷

 

(小林多喜二 1930年)
  2 赤 (中本たか子 1929年)
  3 母親 (若杉鳥子 1931年)
  4 正宗白鳥氏の批判に答え所懐を述ぶ   

 

(青野末吉 1926年)
  5 年譜 (小林多喜二 1931年)


 

Ⅱ 労働と文学
  
6 淫売婦 (葉山嘉樹 1925年)
  7 林檎 (林房雄 1926年)
  8 祈祷 (佐多稲子 1931年)
  9 自然成長と目的意識 

 

(青野末吉 1926年)
  10 調査見学的? 

 

(中本たか子 1930年)

 

Ⅲ リアリズムの問題
  
11 一九二八年三月十五日 

 

(小林多喜二 1928年)
  12 通信工手 (片岡鉄兵 1930年)
  13 プロレタリア・レアリズムへの道 

 

(蔵原惟人 1928年)
  14 プレタリヤ作品の類型化について 

 

(平林たい子 1930年)
  15 本質の上にかけられた覆い 

 

(佐多稲子 1932年)

 

Ⅳ こども
  
16 地獄(鹿地亘 1928年)
  17 こおろぎの死 (村山壽子 1929年)
  18 ぞうと ねずみ 

 

(村山壽子 1930年)
  19 鉄の話 (中野重治 1929年)
  20 童話に於ける「現実」「非現実」の問題   

 

(槇本楠郎 1928年)

 

Ⅴ 武器としての芸術
  
21 ビラ撒き (佐多稲子 1929年)
  22 テガミ (小林多喜二 1931年)
  23 ショール (徳永直 1931年)
  24 掲示板と壁小説 (李東珪 1932年)
  25 百姓鑑 (細野孝二郎 1932年)
  26 チチハルまで (黒島伝次 1932年)
  27 工場の一日 (長野加代 1932年)
  28 報告文学の書き方 

 

(山田清三郎 1932年)
  29 壁小説と「短い」短編小説 

 

(小林多喜二 1931年)
  30 小説作法 小説の書き方 

 

(小林多喜二 1931年)
  31 創作活動の成果 (徳永直 1932年)


 

Ⅵ 反帝国主義と国際主義
  
32 ある戦線 (松田解子 1932年)
  33 餓鬼道 (張赫宙 1932年)
  34 反戦文学論 (黒島伝次 1929年)


 

Ⅶ 弾圧、転向、そして社会主義リアリズム
  
35 白夜 (村山知義 1934年)
  36 乳房 (宮本百合子 1935年)
  37 否定的リアリズムについて プロレタ

 

リア文学の一方向 

 

(川口浩 1934年)
  38 プロレタリア・リアリズムと「社会主義

 

的リアリズム」―文学の方法についての研究  (森山啓 1935年)

 

39 社会主義的リアリズムか×××リアリ 

 

ズムか  (金斗鎔 1935年)
  40 冬を越す蕾 (宮本百合子 1935年)


 

とりあえず創作に絞って比較してみると、日本版に収録されているのは次の七作品だ。

 

 

 

6 淫売婦 (葉山嘉樹 1925年)

 

7 林檎 (林房雄 1926年)

 

 

 

11 一九二八年三月十五日 

 

(小林多喜二 1928年)

 

 

 

12 通信工手 (片岡鉄兵 1930年)

 

19 鉄の話 (中野重治 1929年)

 

22 テガミ (小林多喜二 1931年)

 

36 乳房 (宮本百合子 1935年)

 

 

 

シカゴ版の特徴をいくつか書いてみたい。

 

 

 

第一、章立てがユニークだ。

 

 

 

Ⅰ 個人的なことは政治的なことという発想は、従来の研究では思いもつかなかったことだ。どの研究者も、多喜二の「年譜」を、作品として考えたことなどはなかったと思う。

 

 

 

Ⅳ こどもを特別に重視していることだ。「鉄の話」は日本版でも取り上げているが、それは「こども」という視点からではない。村山籌子の作品が二つも採用されているのも驚きだ。

 

 

 

Ⅴ 武器としての芸術」として、壁小説、掌編小説に着目していることは、従来の研究の空白部分を埋めるものだ。これまでは、どちらかというと、このような作品への評価は低かっただけに、新しい発見があるかも知れない。

 

 

 

第二、女性作家の抜擢だ。

 

 

 

宮本百合子や佐多稲子、平林たい子,松田解子は、日本版でも別の作品で取り上げられているが、中本たか子、若杉鳥子、村山籌子、長野加代は初登場だ。

 

シカゴ版の編者が女性だからということでは見過ごせない問題を感じる。プロレタリア文学運動における女性作家の役割を再検討する作業が、客観的に要請されていると思うのだ。

 

 

 

第三、朝鮮人作家に光を当てたことだ。

 

 

 

多喜二が作品の中で、朝鮮人の存在に注目していたことは知られているが、日本のプロレタリア文学運動の中での植民地作家の位置づけには、従来、弱さがあった。日本版では、三一書房版が、金史良「光の中に」を収録しているだけだ。

 

李東珪、張赫宙、金斗鎔について、ぼくはまったく知らなかった。後藤守彦さんに教えてもらったので、近いうちに、「餓鬼道(張赫宙 1932年)」に目を通したいと思っている。

 

 

 

以上、思いつくままに列挙したが、シカゴ版が日本のプロレタリア文学研究に、斬新な視点を提供していることは間違いない。シカゴ版の日本での一日も早い刊行が待たれる。

〈追記〉

この文章を執筆後、ノーマさんより、新日本出版社版は四十巻あり、第二十一巻に若杉鳥子「母親」、中本たか子「赤」が収録されているとの指摘がありました。

 

 

 

 

 206号

 

 ラディカルな文学

           松木 新

 

 

 

昨年十二月の幹事会で次のような発言をしました。

 

現実が激しく揺れ動いています。この現実に向き合う文学はどのような内容のものだろうか。参考になるのが、歴史の教訓です。

 

スペイン人民戦線のたたかいは、アメリカで『誰がために鐘は鳴る』を、フランスではマルローの『希望』を生み出しました。フランスのレジスタンス運動は、アラゴンの『フランスの起床ラッパ』、『愛と死の肖像』や、モルガンの『人間のしるし』など、ヒューマニズムの格調高い文学を生み出しました。

 

「個人の尊厳」をキーワードに、統一戦線の萌芽らしきものも見え始めている今は、まさに政治に季節です。この現実を正しくすくい取る文学がぼくらの民主文学ではないか。まさに出番の時を迎えているのです。

 

 

 

新年の挨拶の中で、ノーマさんが「現実とラディカルについて考えている」という意味のことを言っていました。幹事会での発言もあって、すこしばかり、「現実」について調べていたら、面白い文章に出会いました。孫引きですが紹介します。

 

 

 

「君がどれほどラディカルであるのか、また私がどれほどラディカルであるのか、私にはわからない。きっと私は十分にラディカルではないだろう。人が十分にラディカルであることなど決してあり得ない。それはつまり、人は現実そのものと同じだけラディカル(as radical as reality itself)であろうとつねに勤めなければならない、ということだ」(白井聡『未完のレーニン』二〇〇七年五月)

 

ここでの「私」は、チューリッヒで亡命生活中のレーニン、「君」はルーマニア出身の若い詩人だそうです。

 

 

 

ぼくが注目したのは、「人は現実そのものと同じだけラディカル(as radical as reality itself)であろうとつねに勤めなければならない」というくだりです。

 

ぼくらが直面している「現実」がラディカルであることは、たとえば、共産党の志位さんが、今日の状況を「市民革命的」と形容していることからもうかがえます。

 

だとするならば、文学する者が、「現実そのものと同じだけラディカル」であることは可能なのか、ラディカルな文学は可能なのかが、鋭く問われている気がするのです。

 

 

 

205号

  

  『鬼平犯科帳』読了   

             松木 新

 

  文春文庫版全二十四巻の第一巻を三月十三日、第二十四巻を七月二十九日に読了しました。時代小説の長編は、『大菩薩峠』(富士見書房版全二十巻)以来です。理由は異なりますが、二作品とも未完というところが、なんとも情緒を掻き立てます。

 

池波正太郎の作品は、直木賞を受賞した「錯乱」しか、読んだことがありませんでした。以前、仕事の関係で上田市の信州大学を訪問した帰りに、「池波正太郎真田太平記館」を訪れ、買い求めたのが「錯乱」でした。緊張感のある上質のミステリーという印象を持ったことを覚えていますが、それ以上には進みませんでした。

 

中村吉右衛門ファンなので、テレビの「鬼平犯科帳」はほとんど欠かさず見ていましたし、それで十分でした。活字は映像には勝てないだろう、という思い込みがあったのです。

 

ある時、例会の二次会で、泉脩さんや後藤守彦さんが「鬼平犯科帳」の愛読者であることを知り、認識を新たにしました。会社の若い連中の中にも、テレビよりも小説の方が面白い、という者がいました。

 

というようなわけで、今年になってから、アマゾンで大枚三千円を出して全二十四巻を手に入れました。

 

読み始めると、確かに面白い。小説の活字とテレビの映像がダブってきて、言うに言われぬ世界を創り出すのです。

 

新発見は、江戸が水の都だったことです。テレビでも、船宿が重要な役割を担っていることは分るのですが、いまいち、ハッキリしませんでした。至る所に水路を張り巡らした水の都ということで、疑問が氷解しました。

 

文体にも学ぶものがありました。内面描写を極力排して、セリフと行動描写で物語を展開していくという手法は、たとえば、佐々木譲の最新作『犬の掟』にも引き継がれていることが、よく分かります。

 

「鬼平犯科帳」読了後、その余韻に浸って、『雲霧仁左衛門』を読みました。これも、仲代達矢主演の映画の影響です。来年は、『真田太平記』と『剣客商売』に挑戦しようと、考えています。

 

 

 

 

 

 

202号

 

 

「当別歴史探訪の旅」参加記

 

              松木 新

 

 

 

八月十四日、民主文学の牛久保建男さんに誘われて、豊村一矢さんと本庄陸男『石狩川』の舞台である当別の「旅」に参加してきました。

 

河地良一(当別歴史ボランティアの会アドバイザー)、東前寛治(当別町歴史研究専門員)両氏との懇談、両氏の案内によるフィールドワークなど充実した一日でした。

 

戊辰戦争の敗北によって領地を没収されたために北海道に移住せざるをえなかったというのではなく、実際には岩出山領の領地は新仙台藩の領地内にとどまったというのですから、仙台藩岩出山領伊達邦直主従の北海道移住には、それほど緊急性がなかったという史実には大いに興味が引かれました。

 

それではなぜ移住したのか。

 

懇談のなかでだされたのが、明治維新の改革を拒否し、幕藩体制を維持した新たな国づくりの構想を伊達邦直が抱いていたのではないかという説でした。これは刺激的な仮説で、本庄の考えとも通底するものでした。

 

『石狩川』第三章十一に次の記述があります。

 

 

 

「蝦夷は化外の地であるといふ昔の観念が頭のなかに残ってゐたのである。化外の地の原始林にはいった彼らには、捨てて来たあちらの土地に起った変化は関係ないものと考へたかった。或ひはみづから求めて曠野を跋渉した意気のなかには、彼らの主君である邦夷を中心として、封土と人民を私有した古い関係を、新しく再現し得るかも知れぬといふ幻想があったのかも知れない」

 

 

 

本庄は控え目に「幻想」と書いていますが、これまであまり重視されてこなかったこの視点は、『石狩川』を分析する上では、大切な意味を持ってくると思いました。

 

『石狩川』はこれまで、転向した作家の作品という角度から論じられてきました。

 

小田切秀雄は影書房版全集第一巻の解説で、『石狩川』について次のように書いています。

 

 

 

「これは歴史小説だが、さてこの、政治的に敗れ、すべてを失い、屈辱の中で生きる道をさぐって労働のなかに新しい生をきりひらこうとする―まさにこれは、一九三四年から三六年にかけて盛行した“転向小説”の主題そのものだ、ということができるであろう」

 

 

 

『本庄陸男の研究』を執筆した布野栄一も、本庄「転向」説に与して、「本庄の『石狩川』では罪へのつぐないが、瀬戸ぎわに立つ悲壮感を生む実態となっている」と書いています。

 

 

 

本庄「転向」説をもとに作品を分析した結果、「屈辱の中で生きる」、「瀬戸ぎわに立つ悲壮感」が際立ってしまいます。そこには、積極的な生への躍動を認めることができません。

 

ところで、本庄「転向」説はまったくの謬論であることが、懇談のなかで牛久保さんから強調されました。そうすると、先に引用した「幻想」の意義が、浮上してくるのです。当別に移住した武士団は敗残者の群れなどではなく、「幻想」を具体化するための戦闘集団という視点です。「幻想」それ自体が時代錯誤であったところに、この作品の悲劇性があるのではないか。

 

牛久保さんが『石狩川』論を書くということなので、それに期待したいと思いました。

 

 

 

 

201号 

 

 

森与志男の文学    

 

松木  新

 

 

 

七月十八日、「森与志男さんを偲ぶ会」が東京で行われました。七十人が参加し有意義な集いでした。この会の冒頭、森さんの文学の特徴を二十分ほどで報告してきました。

 

札幌民主文学会の松木です。僕らの文学会は、この8月26日で、創立五〇年を迎えます。雑誌『民主文学』を毎月発行しており、これが創刊号ですが、10月号で600号になります。

 

森さんは、文学会の事務局長、『民主文学』の編集長、文学会の会長として、文学運動の中心を担ってきました。

 

ぼくが文学会に加入した時の推薦人の一人が森さんでした。当時文学会は困難な問題に直面しており、北海道の文学運動はガタガタでした。その時、森さんは事務局長として一年に二度も来道し、指導してくれました。その結果、いまでは全道研究集会を定期的に開催し、A5判、400頁の作品集を発行するまでになりました。

 

また森さんが『民主文学』編集長のとき、当時それほどポピュラーではなかったアイヌ問題に着目し、アイヌにかかわる50枚の評論を書かせてくれました。これらのことは、忘れられない思い出の一つです。

 

さて、森さんは『民主文学』一九七〇年6月号で、「転機」でデビューしました。39歳でした。以来、四十年間、多喜二・百合子賞を受賞した『炎の暦』(一九八七年)など七編の長編小説と40を越える短編小説を書いてきました。

 

森さんの小説をテーマで分けると、三つになります。第一は教育問題、第二は戦争の問題、第三はたたかいです。

 

はじめに教育の問題です。

 

森さんは高校の英語教師ですから、教育小説はすぐにでも書けそうなものですが、話題になった「春ちかき冬」(『民主文学』一九七六年五月号)が発表されたのは、デビューから六年目でした。その理由を森さんは、

 

「生徒の非行問題というとらえ方ではなく、青年におよぼされた退廃という角度で、自分の職場」をみることができるようになったからだ、と述べています。

 

「春ちかき冬」から『傷だらけの足』(一九八二年)までの五年間、教育現場で生起している退廃、非行、中退問題を主題にした作品が精力的に書かれました。

 

森さんのすぐれた点は、「青年に及ぼされた退廃」という状況が、戦時下の青年を蝕んだ退廃と同じ性質のものだ、ということを見抜いた点です。

 

戦時下の青年は、天皇制ファシズムとの関係では被抑圧者ですが、他民族に対しては加害者の立場にありました。こうした二重の歪曲が精神の荒廃に拍車を掛けました。

 

現代ではどうでしょうか。

 

彼らに共通して認められるのは、生きることにも死ぬことにも無感覚であり、いらだちと二者択一の思考です。自主性、創造性の欠如なのです。

 

戦時下の青年の精神的荒廃が、天皇制ファシズムの支持基盤となったことは良く知られています。森さんは、現代の青年を蝕んでいる精神的荒廃がファシズムに搦め捕られていく危険性に警鐘を鳴らしたのです。

 

森さんのファシズムに対する危機意識には鋭いものがあります。

 

二〇〇三年十月、卒業式での日の丸・君が代問題が、都立高校の教育現場を直撃しました。日の丸・君が代の強制に反対し、教育基本法と憲法を守るために、多くの人たちが立ち上がりました。

 

当時、森さんは文学同盟の議長でした。教育のファシズム化に反対するために、森さんはこのたたかいをリアルタイムで作品にし、「普通の人」というタイトルで「しんぶん赤旗」で発表しました。この作品はたたかう人々の注目を集めました。文学が人々の心をとらえるならば、それは大きな力になることを立証して見せたのでした。

 

今の文学会の会長は田島一さんですが、『時の行路』は大手自動車メーカーから不当に解雇され、裁判闘争を行っている非正規労働者のたたかいを同時進行で描いた作品です。森さんの文学精神が正しく受け継がれているのです。

 

次に戦争の問題です。

 

加藤周一が、「1930年代に『軍閥が国を誤った』というのは、まったく不正確であって、『大衆に支持された軍閥が国を誤った』のであり、殊に大多数の人々と異なる少数の意見を、無視し、弾圧し、沈黙させることで国を誤ったのである」(『現代日本私註』)といっています。

 

森さんは、軍閥を支持した大衆の精神構造に注目しました。

 

天皇制ファシズムを支えた庶民の精神的退廃、心の病は、どのようにしてつくりだされたのでしょうか。

 

森さんは、『炎の暦』とその続編にあたる『河は流れる』で、次の二点が解明しています。

 

第一、配給制度と隣組制度を国家が完全に掌握することによって、戦争に批判的な庶民がこの国で生きていくことを不可能にしたことです。

 

第二、庶民に対する思想的な攻勢です。

 

東条内閣の時に軍需生産体制を推進したのが、岸信介などのいわゆる「革新派官僚」でした。彼らは「新体制」、「昭和維新」という言葉で国民にロマンを与えました。国民は、自らが改革者になった気分で戦争に協力したのです。このような状況を可能にしたのが、集団主義、体制順応主義でした。

 

このような庶民の精神構造は戦後になっても払拭されていません。

 

自伝的小説『時の谷間』では、主人公の寺本慎三に、次兄が次のようにいいます。

 

 

 

「ようするに不安なのだな、人間は。なにもおやじや兄貴にかぎったことじゃない。なにか不変のものを持ちたがる、それはいろいろ形をかえてこの世の中にあるのさ。だが、不安をなぐさめているうちはいいが、それが現実の生活で力を持ちはじめる。なぜかわかるか。本当はただの蜃気楼に過ぎないのだが、安定を求める人間の集団が、それに形と力を与えるからさ。たとえそれがどんな不合理なものでも、いや、不合理だから、力を発揮するのだ」

 

 

 

ここでいわれている集団主義、体制順応主義が、一面では個人に対してある種の安定感、安心感をもたらすとともに、他面では個人に対する圧力になって、個人の権利、自由を制限しているのです。

 

第三にたたかいです。

 

戦後の歴史の転換点として記憶されているのが六〇年の安保闘争です。森さんはこの闘争を中心にすえて、『光と闇』(一九九八年)を書きました。

 

主人公である中学教師の松永にとって、安保闘争はまさに政治的季節でした。「この政治的な季節を、自己に忠実に主体性をもって生きること」、松永はそれが「安保を生きることだ」と確信していました。

 

しかし、「主体性をもって生きる」といっても、全学連指導部の本質を正確に見抜けなかったということもあって、松永は闘争のさまざまな局面で動揺を繰り返します。

 

ところが作品の最後では、松永の心情が次のように書かれています。

 

 

 

「彼が体験した安保のたたかいにしても、時が経つと歴史という年表の中に織り込まれてしまう。そこで試行錯誤し、悩み苦しみながらたたかった人々のことは、そうした歴史のワク外にはずれ、やがて忘却されてゆく宿命にあるのだ。(略)この世に一度しか生きることのできない人間を、たとえそれが如何に世の片隅の小さな存在であろうとも、そういう人々の人生の表現者に自分はなれないだろうか、と思うのであった」

 

 

 

森さんは、「人生の表現者」という魅力的な一言に、たたかいの中で大きく成長した松永を象徴させているのです。

 

なぜ松永は自分自身を変えていくことができたのでしょうか。それは共産党員の存在でした。

 

 新安保条約がワシントンで調印された時、「情勢が不透明になり、目標が霧の陰に隠れた」と動揺する松永に、共産党員である江川歌子が党の方針が載った「アカハタ」を勧めます。松永はそれを徹夜してノートに書き写すことで危機を乗り越えます。

 

新安保条約が自然承認された時、「やっぱり岸の勝ちということにならないかなあ。認めたくないけど」という松永の疑問に、「あたし、勝ったとか負けたとか、そういう考えはよくないと思う。勤評闘争のときもそうじゃない。勤評を実質において形骸化する。そういうたたかいとして継続しているんじゃない」と江川は説得します。

 

このように、松永の自己変革にとって、共産党員である江川の存在が大きく影響していることを、森さんは、適確に描いているのです。

 

森さんの作品には、共産党員を主人公にしたものはありません。さまざまな問題をかかえて登場人物たちが、共産党員たちの日常の現実に触れあう中で、次第に成長していくという手法を、森さんは採っています。この方法は、この国の庶民が、どのような経緯で共産党へ近づいていくのかを明らかにしたもので、きわめて有効です。

 

最後になりますが、自伝的小説『時の谷間』の終わりに近い箇所に、新制高校二年の寺本慎三が津田英語会で時田鋭一から英語を学ぶ場面があります。小樽高商で英語を教えていた時田は次のよういいます。

 

 

 

「諸君は、言葉の真偽を見分け、本当の言葉を見いだすことにつねに意識的であらねばならない」

 

「とにかく、さまざまなことを経験することだ。貪欲に学ぶこと、そして一生書き続けることだ。多喜二は才能もあったが努力の人でもあった」

 

 

 

寺本慎三は、時田の主張に共鳴し、

 

「飯を食えない人の糧になるような小説を書く。それには持続する志をもてばいい。まだ時間は十分にあたえられているのだ」

 

と決意します。

 

この場面に登場してくる時田鋭一にはモデルがあります。小林多喜二の友人、蒔田栄一です。

 

蒔田は、多喜二が小樽高商を卒業して北海道拓殖銀行に就職した直後に発行した『クラルテ』の同人で、東京外語を卒業して小樽高商の英語の講師になりたてでした。

 

森さんから直接聞いたことですが、森さんは蒔田栄一から実際に英語を習ったといっていました。

 

ご存じのように多喜二は、「我々の芸術は、飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ」といいました。慎三はまさに、多喜二的な生き方を選択したのです。

 

寺本慎三が辿り着いた多喜二的な生き方は、同時に森さん自身の生き方でもあったと思います。これまでの多くの作品が、そのことをはっきりと物語っているのです。

 

 

 

 

 

 

199号

 

大会報告  

 

松木 新

 

 

 

9~10の両日に東京で開催された26回大会には103人が参加、文学会創立50年にふさわしい内容でした。新役員は、副会長の丹羽さんが病気療養のために退き、事務局長を三期6年勤めた能島さんが副会長に就任しました。

 

新しい事務局長には乙部さんが就任しました。『民主文学』編集長は二期4年が決まりなので、このような配置になりました。新編集長には宮本さんが決まりました。このあたりは、いわゆるサプライズ人事だと思います。

 

 

 

会長 田島 一

 

副会長 旭爪あかね・能島龍三

 

事務局長 乙部宗徳

 

『民主文学』編集長 宮本阿伎 

 

常任幹事は全員留任です。

 

『民主文学』編集委員をふくめた専門部の構成は、後日の常任幹事会で決定されます。

 

大会発言では、後藤守彦さんの評論を取上げた原 健一さん「作品と批評」論が印象に残りました。後藤さんの評論についての韓国からの好意的な反響にもふれながら、後藤さんが朝鮮分断の真の原因を書いていること、作者の弱い点への指摘を含めて共鳴し感動したと、原さんは述べていました。札幌支部の一員として、嬉しい限りでした。その後、懇親会の席などでも、「後藤さんは何者だ」と、ひとしきり話題になっていました。

 

 

 

大会発言(要旨)

 

党を描く文学の課題     

 

年末の総選挙で共産党は大きく議席を増やし、沖縄では基地反対で共闘した「オール沖縄」勢力が完勝した。北海道でも比例区ではTPP反対の一点共闘が成功し、畑山さんが十一年ぶりに議席を奪還した。この傾向は、地方選挙でも顕著に現われた。

 

幹事会報告(案)が述べている、「変革の時代への移行の予兆」は、上げ潮に向かっている共産党の姿に、具体的に表れているといってよいだろう。

 

前の大会以降、党を描いた作品がいくつか書かれた。なかでも、なかむらみのる『信濃川』は、日本共産党員像を、衒いのない文章で真っ向から描いた力作だ。

 

六〇年安保闘争後の新しい時代に生きる三人の若者たちは、田島一が、『続・時の行路』の中で、「たたかってこそ明日はある」と書いていることを、身をもってこれを体現している。歴史の審判に耐えた生き方をしてきた三人の根底に流れているのは、国民が主人公という思想である。作者はこのことを明らかにすることによって、歴史的現在に生きる共産党員の在り様を示しているといって良いだろう。

 

今度の選挙のひとつの特徴は、青年が党候補としてたたかい勝利していることだ。しかもそこには、従来見られなかった新しい変化がある。

 

たとえば、恵庭市と江別市の市議選で当選した藤田君と斉藤君は、31歳で北星余市高校の同級生、同じ下宿で過ごした仲だ。北星余市高校は、「登校拒否・不登校」の子どもたちを全国から受け入れている高校で、平瀬誠一さんの『冬の銀河』(1996年1月)の舞台だ。恵庭市の藤田君は、大阪選出の元衆議院議員藤田スミさんの孫で、江別市の斉藤さんの父親は元自衛官。

 

藤田君が会社を辞めて候補になることを聞いた斉藤君が、「支えになるなら入党したい」と決意し、自分も候補になってしまう。そして二人とも見事当選だ。

 

党の候補となる経緯や、それを受け入れる党の側のふところの広さ、それを支持する有権者の変化などは、これまでに見られなかった特徴だ。ぼくらのように、いわゆるオールドボリシェビキには、なかなか理解しづらい現実だが、「変革の時代への移行の予兆」が、こういう形で現われているといえるだろう。

 

なかむらみのるさんの作品のように、オーソドックスな共産党員像の形象が、依然として大切な課題であることはいうまでもないが、若者たちの変化、「予兆」を発見し作品にする課題が、大きな可能性と魅力を持って立ち上がってきていることは間違いない。ここに書き手としての新たな挑戦があると思う。

 

 

 

 

 

 

 

190号

 

  アイヌ二題    

          松木  新

 

 札幌市議の某が、「アイヌ民族なんて、いまはもういない」、「100%アイヌ民族の血が流れている人がどれだけいるのか」などと発言して顰蹙を買っている。

この男の根本的な誤りは、アイヌ問題を人種問題として考察していることだ。人種問題の核になっている考えは血の問題、いわゆる純血の問題だ。人種という概念は本来人類学の分野のものであり、民族問題に適用すること自体意味がないことは、北海道ウタリ協会の副理事長をつとめた貝澤正氏の次の発言からも明らかだ。

「母には一度も血のつながった者が現れなかった。だが母は完全なアイヌになりきっていたので、生前一度も親のことに触れていない。

養父母からはよく聞いていないが、札幌生まれで、生まれるべくして生まれた児でなく、アイヌは子供を大切にするからと養子にだされた。(略)

父と母とを対照すれば、父はシャモ的、母はアイヌ的であった。母は忍従を強いられてはいたが、アイヌの伝統は守っていた。(略)

母の血の中にはアイヌは入っていない。だが母を育てたアイヌ社会はすばらしいアイヌメノコを育てた」(『アイヌわが人生』1993年岩波書店)

 

 榎森進氏が「閣議決定にみるアイヌ政策の問題点」(「しんぶん赤旗」8月19日付)を書いている。613日に閣議決定された「象徴空間」の「整備・管理運営の基本方針」にたいする批判だ。

氏は、2007年の「国連宣言」がうたった先住民族としての諸権利を認める政策が、この「基本方針」に盛り込まれていないことを理由に、「単に野外博物館的観光施設と遺骨を試料とした新たなアイヌ研究の場の創設策にすぎないことは許しがたいことである。アイヌ民族を愚弄する新たな現代的差別政策と言わなければならない」と断じている。

1997年の「アイヌ文化振興法」制定のときにも論議されたように、先住民族としての権利にもとづく新たな立法措置の必要性は当然であるが、それがないからといって、アイヌ文化博物館(仮称)や民族共生公園、慰霊施設の設置が、アイヌの文化と権利・尊厳を発信する場として有効であることを否定することは正しくない。

秋辺日出男氏(阿寒アイヌ工芸協同組合専務理事)が語っているように、「象徴空間の整備によって国民のアイヌ民族への理解を深めるべきだ」(「道新」6月14日付)というのが正論だろう。

名著『アイヌ民族の歴史』(ぼくは「赤旗」に書評を書いたことがある)の著者である榎森氏であるだけに、非常に残念な見解であった。

 

 

 

 

189号

 

明日への飛翔全国研究集会参加記 

                  松木  新

 

三浦海岸で開かれた研究集会の参加者は百十八人。関東圏での久しぶりの集会にしては、ほめられた数字ではありませんが(北海道からも珍しくぼく一人でした)、文学会の明日への飛翔を予感できるような、充実した内容でした。

第一日目は、須藤みゆきさんと久野通広さんの対談でした。

須藤さんは、「人間には格差と貧困を乗り越える力がある」ということを、書き始めてから十三年かかってようやくつかむことができた、と話していました。その過程で、文芸時評などでの批評が大変に役立ったと、例を挙げながら語っていたのが、印象に残りました。須藤さんは、自分に不都合な批評は軽く受け流すという、よい資質の持主なのだと思いました。

創造と批評は車の両輪とつねに言われながら、一方では、いわゆる「敵対関係」にあったのが現実でした。それだけに、多喜二と蔵原とが対談したら、多分、このような発言になるのだろうなあと考えながら、久しぶりにすがすがしい気分を味わいました。

執筆には通勤電車を利用し、最初はノートに書いていたが、最近ではPHSに入力し、帰宅してからパソコンにデータを移して整理する方法をとっている、という発言には驚いてしまいました。ケータイを持っていないぼくとしては、異次元の出来事のように聞いていました。

この対談を聞いて文学会の明日に期待を持つことができたのは、若い書き手が、文学の力に確信を持っていること、創造と批評の関係について、多喜二の文学精神を正当に受容していること、そして、この時代の最新の成果を駆使して(PHSを最新とは言えませんが)創作にあたっていることでした。

分散会は第五「原発にどう迫るか」でした。

風見さんがこの間に書いた原発小説を題材に、「原発にどう迫るか」を論議しました。

どうして原発小説を書く気になったかと問われた風見さんは、「一般文壇と勝負し、そして、交流と連帯をめざすために書いた」、と応えていました。この答えを聞いただけで、ぼくはこの分散会に参加してよかった、と実感しました。「一般文壇と勝負する」という言葉を実績のある作家から聞いたのは、本当に久しぶりでした。ともすれば『民主文学』の読者だけを相手にしているような内向きの議論に、ある種の閉塞感を感じていただけに、この発言は一服の清涼剤であるだけでなく、文学会の明日を示唆するものだと思いました。

風見さんは、「海洋投棄」で、この国の作家のなかで初めて、津波の災害と原発事故とを見事に結合させました。作品の最後に、「海に引きずりこまれた人々への鎮魂の捧げ物が、放射能の汚染水とはなあ。ある種の冒涜かもしれんな、これは」と庄司が語りますが、このセリフは、多分、名文として後々まで記憶されるでしょう。

行き帰りの飛行機では、先日直木賞をとった黒川博行『破門』を読み耽っていました。

 

 

 

182号

劇団千年王国

「ローザ・ルクセンブルク」讃歌 

松木 新

 

十一月二十三日、劇団千年王国の札幌劇場祭参加作品「ローザ・ルクセンブルク」を観てきました。十代半ばから虐殺されるまでのローザの半生を、四人の女優が演じた舞台は迫力満点で、圧倒されました。

十四年前に設立された千年王国は、酪農学園大学や藤女子大学演劇部のOGがメンバーです。ダンスと歌を取り入れた創作劇が特徴で、これまでに上演された日本神話や歌麿に題材を取った芝居は、色彩豊かに華やかで、観る者を非日常の世界へ誘いました。没社会性の演劇といって良いでしょう。

ところが今回は「ローザ・ルクセンブルク」です。

第一次ロシア革命、第二インターナショナル、第一次世界大戦という激変する世紀を果敢に生き抜いたローザが主人公ですから、反戦平和、階級闘争、マルクス、差別などの言葉が頻繁に飛び交います。烈しいダンスは芝居に躍動感をもたらしていました。出色はメインの歌です。それがなんと、「赤旗」、「ワルシャワ労働歌」それにメロディーだけでしたが、「インターナショナル」です。

圧巻は「赤旗」が歌われる場面でした。二階建ての牢獄を背景に、十二人の出演者全員がそこにとりつき、赤旗を振り回しながら、一番から三番までを声高らかに合唱するのです。

 

「高く立て赤旗を

 その影に死を誓う

卑怯者去らば去れ

われらは赤旗守る」

 

この場面が映画「レ・ミゼラブル」で、ラマルク将軍の葬列に突入し、赤旗を振り回しながら「民衆の歌」を歌うシーンにそっくり重なりました。「ワルシャワ労働歌」の場面では、不覚にも涙ぐんでしまいました。

 激動の時代、「勇気を出し、あきらめることなく、つねにほほえみを持って―どんなことがあろうと」と手紙に記したローザの思いが、ストレートに伝わってくる芝居でした。

 作・演出を手がけた劇団代表の橋口幸絵さんは、「なぜ今?と問われれば、メルトダウン後のこの国に暮らしている必然であったように思います」、「現代にも幾万人のローザ・ルクセンブルク達がいて、巨大なものを眼前に日々おおらかに歌っているのだとその姿をまぶしく見つめました」と語っています。ちなみに橋口さんは、生まれてはじめてのデモに参加し、パブリックコメントを書いたそうです。

「赤旗」の文芸時評にも書きましたが、『愛の夢とか』で谷崎賞を受賞した川上未映子が、震災のダメージが日を追うごとに強くなっているなかで、「今は震災の前の日である、という一点がわたしのなかから離れない」と語っていました。「三・一一後」(これは大江健三郎の表現ですが)、若い世代に明らかな変化が見え始めていることを実感した一日でした。そうした変化を民主文学はどのように受容していくかが、するどく問われているような気がします。