230号

 

 中国の旅から  その2

 

               泉 恵子

 

 

 

武漢(湖北省)からケイ台、定州(河北省)へ

 

 三日目は、湖北省の武漢を離れて、これから訪ねる受害者王連喬さん、遺族の宋殿挙さん、楊福庄さんの住む河北省へと向かう。 新幹線の駅は昨日とは異なる「漢口」駅。そこまでは地下鉄に乗ってゆく。昨日も驚いたが武漢の地下鉄のきれいなこと。新しいということもあるのだろうが、ホームにはガラス張りの上から下までのゲートができていて、線路には入れないようになっている。同行のK夫人は「名古屋の古い地下鉄とは比べ物にならない」と、感嘆していた。もう一つ驚いたのは、地下鉄も新幹線もすべてにセキュリティがあることだった。すべての荷物と身体を通すことになっているから、地下鉄駅前は常に行列を作っている。今や十四億人プラス無戸籍人一~二億人?ともいわれる中国の人口を統括することの大変さ、難しさを思ったことだった。

 

 

 

 新幹線の列車の中で、昨夕武漢のスーパーで若者たちと一緒に仕入れてきたパンやミカンの昼食をとる。私は朝食のバイキングで食べ残した餅パンを忍ばせていて、それも昼食とする。窓外に見る田園風景は初めて訪れた二〇年前とは異なり、ほとんど人影がない。その当時はたくさんの人がクワなどの道具で働いている光景があったが、このようなところにも機械化が進んでいることを感じさせた。今回は六回目の訪中で、度毎に近代化の波を感じてはきたが、この度はその急速さに目を見張るものがあった。大都市の周辺のマンションと思われる高層建築は三〇~四〇階建てで何棟も立ち並んでいる。東京は一二〇〇万人といわれるが、二〇〇〇万人以上の大都市がいくつもある中国である。二年前武漢を訪れた時は一〇〇〇万都市と言われたが、二年後の今年は一三〇〇万人に膨れていた。

 

 走行中更に驚いたのは、太陽光発電のパネルがどこまでも続いている光景だった。広大な大地の一角が果てしなくパネルで覆われていて、向こう端が見えないのだ。日本とはすべてが「けた違い」の中国を見る思いだった。

 

 

 

 お昼過ぎにケイ台市(ケイの漢字は刑の右がオオザト)に着く。新幹線の駅はどこも郊外にあり、街中のホテルまではタクシーで行く。皆大きなスーツケースを持っているので、荷台に一個、後部座席に一個載せると一台に二人しか乗れない。幸い駅前には何台ものタクシーが留まっていたが、後に北京ではタクシーが拾えず大変な目にもあった。

 

 三〇分余りも走って「金牛大酒店」と呼ばれるホテルに六台のタクシーが次々に到着した。中都市と思われるケイ台市は、広々とした道幅を持つ、ゆったりとした雰囲気の街だった。

 

 三時ころからホテルの会議室にて、ここまで来ていただいた王連喬さんと、宋殿挙さんとの「聞き取り」が始まった。先に王さん、一時間後に宋さんの予定だったが、お二人とも予定より早く、ご家族や、地元の新聞記者と共に訪れていた。

 

 

 

王連喬さんとともに

 

 赤いチャイナ服がよく似合う王さんは、今年八九歳とのこと。長く地元の校長先生を勤めていたとのことで、ゆったりふくよかな雰囲気を持つ人だった。隣に甥御さんが付き添って座った。

 

 

 

一、名古屋の近くにいた時のことを教えてください。あなたはどんな仕事をしていましたか?

 

  自分は歳が若かったからか、事務所の仕事をさせられた。他の労工たちは、北海道でも名古屋でも、山を切り開いて平地にし、掘った土や石や木を運んでいた。(ということを仕事をしていた人から聞いた)

 

 

 

二、山を切り開く場所と、事務所との位置関係を覚えていますか?

 

  事務所からは見えなかったのでよくわからない。自分は専ら事務所で、日本人のために暖を取る火を焚いたり、飲み水を沸かしたり、ご飯を作ったりした。夜になると、中国人の労工たちと話す時間があったので、彼らが何をしていたかが分かった。

 

 

 

三、日本人に暴力を振るわれたことはあるか?

 

  日常的に罵られたり、蹴られたりもした。現場で働いていた人は手押し車をぶつけられる等もあったそうだ。

 

 

 

四、「高麗棒子」(ガオリーバンズ)という言葉を聞いたことがあるか?(朝鮮人を蔑視して言う言葉)

 

  聞いたことがある。この言葉で叩かれているのは朝鮮人だったようだ。日本人とよく似ているのでわからないが。

 

 

 

五、事務所には何人の日本人がいたか?

 

  日本人と朝鮮人との区別がつかないのでよくわからない。

 

 

 

六、大府では飛行場の拡張工事をしていたと思うが、見ていたか?

 

  見たことがないのでわからない。

 

 

 

七、一番つらかったことはどんなことか?

 

  自由がなかったことだ。叩かれて、「バカヤロー」と言われた。罵られていることが分かった。(この日本語を声高に発した)

 

  それでも他の労工たちよりは自由だった。休憩時間に抜け出して、宿舎に行って、中国人の日本語通訳からいろいろ話を聞いて情報を貰っていた。

 

 

 

八、劉平さんのことを知っているか?

 

  よく知っている。自分は可愛がってもらった。

 

  (大府では労工たちの共産党組織が密かに作られて,劉平はそのトップだった)

 

 

 

九、大府と北海道とを比べて、どんな違いがあったか?

 

  大府のほうが働く人が多かった。日本人の働く人も見た。

 

  北海道では山のなかで、人数も少なく大変だった。

 

  事務所での日本人を見て、それほど良い暮らしをしていないと思った。中国人と同じように貧しい人が多いと思った。

 

 

 

十、大府では、中国人が、木に縛り付けられているのを見たという日本人がいて、水をあげたといっているが、見たことはないか?

 

  没有(メイヨウ)。(知らない)

 

  北海道では、反抗する中国人を井戸に捨てて、上から土をかぶせたのを知っている。

 

(赤平の平岸で、労工たちの内部抗争があり、数人が亡くなっている。そのうち井戸に捨てられた一人の遺体が、今も見つかっていないという。そのことを言っているのかと思われる)

 

 

 

 もっと知りたい話もあったが、残念ながら時間切れで、この後「提訴状」にサインをしてもらい、待っていた宋殿挙さんに移った。

 

 

 

 

 

 229号

  中国の旅から その1

 

              泉 恵子

 

 

 

 二〇一五年秋、湖北省黄石市に唐燦さんを訪ねて、主に私の故郷イトムカでの苛酷な労働の日々をお聞きした。その旅は、かなり個人的なものだったが、燦さんの娘元鶴さんとの交流があって実現した。その後、再び訪れることは無いのではないだろうかと思っていた。

 

 二年目の今年六月、思いがけず日中愛知からのお誘いがあり、再び中国での強制連行・強制労働の受害者と、遺族の方にお目にかかる機会を与えられた。

 

 九月一六日から二二日までの一週間の中で、生存している唐燦さんと、王連喬さん、遺族は宋殿挙さんと楊福庄さんにお会いする旅だった。湖北省武漢から北上して河北省北京に至るまでの、広大な中国の大地を新幹線で移動する旅で、愛知県立大学の樋口教授のゼミ学生八人と日中愛知のメンバー五人に札幌から参加の私が加わり総勢一四~一五人(途中参加もあり)という大所帯だった。

 

 総指揮は樋口教授で、既に何年もゼミの学生を率いて中国でのフィールドワークを行っているという。その中から育って、現在上海の大学で学んでいるBさんと、過去に中国に留学して現在は愛知の他大学の大学院生というSさんが、通訳を務めることになった。予定していた河北大学の劉宝辰教授が体調が悪く来られなくなった為である。

 

 

 

 

 

中部国際空港から北京経由で武漢まで

 

 一日目、日中愛知のメンバーと合流し、朝九時中部国際空港を飛び立って、北京経由で夕方には武漢に着くはずだったが、北京空港で、乗り換えの便に置いてゆかれてしまう!という、日本ではありえないハプニングに見舞われて、まず驚かされた。六人のうち、唯一中国語を話せる事務局長のIさんの懸命の努力で、何とか夕方の武漢行きに乗ることができ、夜の九時に学生たちの待つホテルに入ることができた。学生たちは既に中国入りし、成都、重慶を廻って五日目ということで、ビザなし旅行最長の一四日間の旅という。

 

 

 

 

 

武漢から黄石市の唐燦さんを訪ねて

 

 翌朝、地下鉄乗り換えで、武漢駅まで行き、そこから新幹線で黄石市へ向かった。私にとっては二年ぶりの、唐燦さん、元鶴さんとの再会を控えて、車中での一時間余りは心中穏やかならぬ思いだった。彼女も「好久不見了(ハウジュウブージェンラ)」(おひさしぶりです)を日本語で何と言うかなど、通訳嬢のBさんに聞いてきたという。

 

 黄石駅には唐元鶴さんが出迎えていた。思わず肩を抱き合って、再会を喜び合った。そんな場面を地元のテレビ局が撮影していた。二年前にはお会いできなかった三男の弟さんと一緒だった。そこから市街地まで更にバスで一五分ほどかかる。る。 小型バスには唐燦さんが乗って待っていた。九一歳というが、二年前とお変わりなくお元気そうだった。固い握手を交わし合うことができたことは本当に思いがけなく、嬉しいことだった。バスの中でテレビ局の方に色々質問されたが、中国語がわからない私に代わって、もっぱら元鶴さんがあれこれと答えていた。

 

 

 

 やがて昼食所に到着したが、総勢一五名に唐さんたち家族の他、報道関係の方々も交えて、二〇名余りの大人数の昼食会は唐さんの設定した歓迎の席だった。

 

 賑やかにテーブルを囲み、おいしい中国料理に舌鼓を打っていると、あっという間に当初の予定をオーバーしてしまい、その後、場所を移動しての「聞き取り」が一時間半余りと短くなってしまった。

 

 移動した場所は「黄石市老干部活動中心」と大きな文字が建物の壁に彫られている五~六階建てのビルで、どうやらこの町の上層部の方たちの?「老人会館」のようなところだ。「黄石市老年大学」などの看板も見える。

 

 日曜日ということで、管理人もおらず、建物も鍵がかかっていたが、唐さんは勝手知ったる場所らしく、鍵を開けて中に入った。エレベーターは動いていないので、ぞろぞろと五階までの階段を上がる。唐さんも一歩一歩踏みしめながら、ゆっくり登ってゆく。広い会議室に、ぐるりと円形になったテーブルが置かれ、全員が腰掛けて、やっと「聞き取り」が始まった。

 

 

 

 いくつかの質問項目に答える形で進められた。以前にも日中愛知の調査団で質問した内容と重複するものもあったと思われるが、改めて聞き取ると、また新鮮な驚きと感慨があった。

 

 

 

一、強制連行で一番つらかったことは?という質問には、捕まった時からの経緯を話し始めた。

 

 「一九九四年、日本人に捕まった時に、中国式のムチ?でひどく打たれた。それは熱を帯びたもので、二本で体中に打ち付けられた。顔もめちゃめちゃになった状態で、刑務所のようなところに入れられた。そこで、集団で看病されて、命が助かった。一か月後、石家庄集中営に連れていかれて、逃げられないようにベルトを没収されて、ズボンも上げられない状態にされた」

 

 話しながら次第に興奮して声が高くなってゆく。所々で区切って通訳のBさんが日本語にするが、時々詰まってしまう。元鶴さんが改めてお父さんに尋ねて、助け船を出す場面も多々あった。

 

 「やがて、腕を縄で括られてチンタオ(青島)に行った。そこから船で日本に向かった。着いたところで、小さな石鹸で体を洗って、更に列車に乗って北海道に渡り、留辺蘂のイトムカに行った。

 

 そこでは、木を伐り、石を運んで平らにしていった。朝から晩まで働かされた。はだしの人もいた。寒かった。一生懸命働かないと寒くて凍えてしまう。

 

 食事は、マントウという硬い饅頭で、食べるとお腹が張って便秘になるが、食べなければ飢えてしまうし、とても苦しかった」

 

と一気に順番に話してゆく中で、いろいろ思い出すようだった。人の記憶というものは、そのようにして蘇ってくるものだろう。じっくりと向き合い、記憶を呼び覚ましてもらうのが「聞き取り」のコツだというが、時間の関係でそうした余裕がなく、用意された次の質問に移ってゆかざるを得ないという、無情な聞き取りになってしまったことは残念だった。

 

 

 

二、大府では飛行場を見たか?飛行機が発着するところを見たか?滑走路作りはコンクリートを使ったか?

 

 

 

 「名古屋でも山のようなでこぼこの土地を切り開いて平地にする作業で、日本人の女子や子どももいたようだ。

 

 滑走路の拡張工事をしていた。その地ならし作業だった。二本の滑走路を造っていたようだが、自分のやったものは土を固めてゆくものだった。もう一本がコンクリートで固めていったかどうかわからない。

 

 空襲があった。飛行機が飛んでくるのを見たが、発着は見ていない。周囲にはミカンの木がたくさん生えていた」

 

 

 

三、道具はどんなものを使ったか?

 

 

 

 「道具はクワや、スコップなどの原始的なものだった。置戸で溜め池を造った時もそのような道具だった」

 

 

 

四、どんな働き方や生活だったか?

 

 

 

 「働く時間は長く、ご飯は足りず、栄養は悪くいつもお腹を空かしていた。そして、与えられたマントウは固く便が出なくて、苦しくて、自分で出したりした」

 

 

 

五、日本政府に訴えたいことは?

 

 

 

 「ずっと前から日本政府や企業に対して訴えたかったが、どの企業で働いていたかもわからず、すぐに訴えることはできなかった」

 

 

 

 そのあと「提訴状」の三項目を認めて署名をした。

 

 

 

 この「提訴状」は、今回の旅の最大の目的で、三度目の旧地崎組(現「岩田地崎建設」)との交渉をするにあたって、新たな「提訴状」への署名をしてもらうものだった。

 

 内容は前回とほぼ同じで、企業に対して謝罪 賠償 後世への教育と記念碑や記念館を建設することを要望するものだったが、前回お名前を連ねた中には亡くなった方もおり、その方の遺族や、新たに加わって頂く方に署名をお願いして回る旅でもあった。全く新しい受害者に会うということはなく、以前に署名をしていた二名の方と、亡くなった受害者の遺族の方二名を訪ねる旅だった。