228号

 

 

NHK大河ドラマ

 

動乱を生きた男たち④「龍馬伝」

 

               泉  脩

 

 

 

二〇一〇年に放映された大河ドラマ。主人公を演じた福山雅治の魅力もあって、とても興味深い。三菱財閥を創始した岩崎弥太郎の語りという形式で進行し、明治維新を成し遂げた英傑たちが大勢、登場する。

 

土佐(高知)の最下層武士、地下浪人として生まれた岩崎(香川照之)は、同じ下士ながら、やや上の郷士の生まれの龍馬を妬む。最初から最後まで、「大嫌いだ」の連発である。ところが龍馬の方は、岩崎を友として扱い、けして差別しない。

 

土佐は、関ヶ原の合戦(一六〇〇)以来、山内家が支配し、旧領主、長宗我部の家臣を下士として徹底的に差別してきた。下士は上士に出会うと、土下座して頭を下げなければならない。だから下士同士が対立してはいられないのである。

 

坂本龍馬は本家が裕福な商人であり、父は藩主の墓地の警護をしている。龍馬は次男なので気楽であり、剣道一筋で成長してきた。剣道の師は、彼のことを「大きな男だ」と言う。龍馬は、「自分は何ができるのだ」「世の中はどうなっているのか」という疑問にとりつかれ、江戸に修行に行くことを願い出る。彼を末っ子としてかわいがっていた父は、彼の願いを受け入れ、藩の許可を得る。

 

こうして龍馬は、剣術修行の名目で江戸に赴き、千葉道場で腕を磨く一方、多くの優れた人物に出会って目を開かされる。たまたま黒船の来航(一八五三)から、日本のあり方にまで考えを拡げていく。

 

二度目の江戸修行から帰ったとき、土佐では、武市半平太を中心に下士が結集し、尊皇攘夷を目指す動きが起きていた。幕府による開国政策に反対する動きに、藩全体を巻き込もうとしていたのである。

 

半平太と幼な友達の龍馬も、半平太が作った勤皇党に加わるが、運動の進め方に疑問を持ち、脱藩して違った道を目指し、ついに勝麟太郎(武田鉄矢)に出会う。幕府の海軍奉行並の勝は、欧米文明を学び、強力な海軍を作り、欧米諸国による日本侵略を防ごうとする。龍馬は勝の考えに全面的に同意し、弟子になって海軍伝習所を作りに協力する。

 

土佐では、武市らが藩政を動かすまでになるが、大殿、山内容堂に捕らえられ処刑される。龍馬は勝の失脚後に長崎で海援隊を作り、海運業の傍ら、長州藩を助け、薩長連合を実現し、倒幕に突き進む。

 

 その後、日本人同士が戦って欧米の介入を受けるのを防ぐため、「大政奉還」という無血革命を成し遂げる。そして、その直後に暗殺されてしまう。

 

 この龍馬の大事業を傍観しながら、自分の商業活動を進めてきた岩崎弥太郎がライバルとも言うべき龍馬の生涯を語るのである。

 

 この壮大なドラマのおもしろさは、坂本龍馬という飛び抜けた日本人の、人間的魅力である。彼は幕末の数々の思想家や志士の優れた考えを学び吸収して、時代を飛び越えた民主主義の思想を作り上げた。

 

 同時に、桂、上杉、西郷らの志士と手を組み、倒幕を成し遂げてしまう。彼がいなければ、明治維新は数十年遅れ、欧米諸国の介入を招き、近代日本は生まれなかったかもしれない。

 

 彼が、もし、非業の最期をとげなかったら、薩長藩閥による専制政治という歪んだ日本にはならなかったかもしれない。残念なことである。

 

 なお、このドラマでは龍馬を愛する女性がたくさん登場し、彩りと深みを加えている。

 

 母の幸(草刈民代)は、上士の無礼討ちにあいかけた幼い龍馬をかばい、雨の中、土下座をして命乞いをした。彼女は、これがもとで病気が悪化して死去した。「憎しみは何も生み出さない」という母の教えを龍馬は生涯守る。

 

 姉の坂本乙女(寺島しのぶ)、寺田屋のお登勢(草刈民代)、加尾(広末京子)、佐那(貫谷しおり)、お龍(真木よう子)、お元(蒼井優)など、実に魅力あふれる女性たちである。龍馬は幸せ者だった。

 

 

 

 

 227号

 

  NHK大河ドラマ

 

      動乱を生きた男たち③

 

   「真田太平記」―心を打つ兄弟愛

 

                泉  脩

 

 

 

 NHKの大河ドラマだがウイークデイに放映したらしい。二〇年以上も前の作品で、役者達が若々しく、特に真田幸村(草刈正雄)が魅力的である。父親の真田昌幸(丹波哲郎)と長男の信幸(渡瀬恒彦)との三人がぴったりの演技で、この大作を盛り上げている。

 

 最初から最後まで出てくるお江(こう)(遙くらら)が女忍び(草の者)として大活躍する。幸村と恋仲になり、彼に付き添うように一貫して支えている。彼の死後は兄・信幸を助ける。幸村の忠実な家来、佐平次の子供が佐助であり、若い忍びとして活躍する。

 

 戦国時代の終わり頃(十六世紀後半)、信玄亡き後の武田家の滅亡から物語が始まる。信玄に仕えていた真田昌幸は、信州(信濃=長野)の小大名であり、武田家滅亡の後、孤立してしまう。北に上杉、南に北条、徳川、そして西からは織田が迫ってくる。

 

 やむなく真田は織田に臣従するが、まもなく本能寺の変で織田信長が死んでしまう。後を継いだ羽柴秀吉と対立した徳川家康が旧敵真田を討つため大群を差し向ける。昌幸は上杉と和睦し、見事に上田城で徳川軍を打破し、真田の武名は天下に知れわたる。

 

 この時、父を助けて信幸、幸村兄弟も奮戦し、三人の結束はさらに強まる。しかし、昌幸は、長男信幸のあまりの才能がけむたくなり、人柄の良い次男幸村を愛するようになってくる。

 

 やがて秀吉と家康が和解し、豊臣の天下になり、徳川四天王の一人、本多平八郎の娘が信幸と結婚する。こうして信幸は徳川との結びつきが深まり、後の真田家分裂の種がまかれる。この後、北条家滅亡による天下統一、朝鮮侵略の失敗、関ヶ原の戦い、徳川幕府の成立、大阪冬の陣、夏の陣と激動がつづき、石田三成の西軍に加わった真田本家は滅亡し、兄の努力で命を長らえた幸村は、大阪城に入って、大奮闘して命を落とす。兄信幸の真田分家は、将軍秀忠の迫害をくぐり抜け、最後は上田から不利な国替えを命じられる。

 

 このドラマの原作は池波正太郎である。テレビドラマ化された「鬼平犯科帳」「剣客商売」も面白いが、私は「真田太平記」が一番好きである。原作とテレビドラマを三回ずつ味わっている。特に信幸、幸村兄弟の仲の良さ、尊敬と信頼は素晴らしい。大阪冬の陣と夏の陣の合間に、家康の密命で二人が京都の小野の屋敷で会う場面は、何回見ても胸をうたれる。そして幸村の死を知った信幸の悲しみ。こんなに心の通った兄弟が他にあるだろうか。「貴奴は、ともかく明るい。人の心をなごませる」という信幸の言葉は、実にぴったりである。

 

 私は十年前、長野県を訪ね、上田城を見てきた。幸村が愛した別所の湯の湯にも入ってきた。「真田太平記」記念館も見学してきた。時間がなくて、真田の里には行けなかった。

 

 またいつか、いけるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 226号

 

 

 NHK大河ドラマ

 

   動乱を生きた男たち②

 

   「徳川家康」平和への意志

 

              泉  脩

 

 

 

 一九八三年に放映されたNHK大河ドラマ。原作は山岡荘八、脚本、小山内美枝子で見事な傑作である。原作初出は新聞小説で二七巻の世界一長い小説である。戦後間もなく書かれただけに、天下太平を目指す主人公のたゆまぬ努力が、平和を望む国民感情とぴったり一致したのだろう。

 

 脚本の小山内美枝子は、「金八先生」のシナリオライターだが、やはり平和への強い信念を持っている。同時に、戦国時代における女性の果たす役割をしっかり書いている。特に家康の母、お大(大竹しのぶ)の心が幼い家康の危機を何度も救った。成人してからも同じである。

 

 ほとんどのドラマで悪女とされている淀君(夏目雅子)についても、気は強いが情感のある女性として、やはり母の心を書いている。

 

 戦国時代の中世期中頃、三河(愛知県東部)の小領主松平広忠は、強力な今川、織田に挟まれて苦悩の日々を送っている。同じような立場の娘お大と政略結婚をし、竹千代が生まれる。

 

 しかし松平は今川に水野は織田に服属することになり、お大は離別される。しかも竹千代は今川に人質に出され、十数年の苦しいときを過ごす。

 

 今川義元は上洛し天下を支配して野心を持ち、そのために強力な三河武士を利用しようと考える。

 

 成人した竹千代は元康と名乗り、義元の姪と結婚させられ、戦いにかり出される。

 

 元康(家康)の帰国を待ち望む三河武士たちは、彼の指揮のもとで勇猛に戦い、義元が桶狭間で織田信長に討たれると岡崎城に入って独立を実現する。

 

 この後、徳川家康と改名して信長と同盟して、今川、武田の旧領を併せて大領主になる。信長死後に天下をにぎった豊臣秀吉には従い、関八州に移され、江戸を本拠に強大になる。そして秀吉の死後に天下をにぎる。

 

 誰もが知っている成り行きだが、このドラマは、この間の家康の心情を克明に描く。百年もの戦乱を終わらせるため、あらゆる辛苦を堪え忍び、私情を殺し、ついに世界でもまれな三百年の平和を実現するのである。

 

 家康を演じた滝田栄が好演であり信長の役所広司、秀吉の武田鉄矢も同じである。その他多くの名優たちが、ドラマの内容に共感して見事に演じている。原作、脚本の良さが、大きな力になっているようである。

 

 私は「真田太平記」とともに、このドラマが大好きで、原作ともども何回も観てきた。どちらも大河ドラマの傑作だと思う。幕末物では「獅子の時代」がすごいと思う。

 

 私は西洋史を学び、高校では世界史を中心に教えてきた。しかし、日本人として日本史にも大きな関心があり、現在はテレビドラマで楽しみながら学んでいる。

 

 様々な歴史観があるにせよ、平和と正義は大切である。

 

 

 

225号

 

 吉田たかし

 海峡の少年1945年・真岡・ホムルスク

 

泉  脩

 

 

 

一九四五年二月のヤルタ会談で、米・英・ソの首脳が第二次世界大戦の最終方針を討議した。アメリカのルーズベルト大統領がソ連のスターリン首相に、ソ連の対日参戦を求めました。アメリカだけで日本を占領するのは困難で、多くの死傷者が予想されたからです。

 

 

 

スターリンは、ドイツの降服の三カ月後に日本に宣戦することを約束し、その代償として、樺太南部と千島列島を要求しました。米・英は承諾し、日本の運命は確定しました。樺太南部は日露戦争(一九〇四~五)で、日本が帝政ロシアから奪った領土であり、ソ連がこれを取り返すのは当然です。しかし千島列島は、一九七五年の樺太・千島交換条約で日本が得た領土で、これを奪うのは不当なことです。連合国は、ドイツ・日本などの枢軸国から侵略で奪った領土は没収するが、個有の領土は取り上げないと、カイロ宣言(一九四三)などで宣言しているからです。(ポツダム宣言でも確認している)

 

 

 

この作品は、敗戦から45年経った頃、東京に住む60才の吉見隆介が、過去を振り返るところから始まる。一九四五年八月八日、ソ連が日本に宣戦布告した時、彼は樺太西海岸の真岡の中学生だった。勤労動員で近くの鉱山で働いていたが、八月十五日の玉音放送で日本の降服を知り、クラス全員が帰宅を命じられる。

 

真岡は人口三万の港町で、王子製紙などの工場もあった。吉見隆介は父母と三人の姉と暮らす末っ子で、真岡中学の二年生だった。帰宅後の八月二〇日、ソ連軍の攻撃が始まり、真岡は海上から艦砲射撃を受けた。吉見一家は防空ごうにかくれたが、隆介は一人で山に逃げた。そして多くの避難民と共に、山道を中心都市、豊原に向った。途中でソ連機の攻撃を受け、多くの死傷者が出た。

 

やっと豊原に着くと、各地からの避難民でごったがえしていた。近くの大泊り港からの本土帰国も中止していた。隆介は山道を逃げる時から道連れになった同じ年頃の少年、砂金(いさご)と共に、あちこちに身を隠し、ソ連軍による占領を迎えた。一部のソ連兵による乱暴があったが、隆介と砂金はなんとか生き延びた。やがて二人は、再開された鉄道の無がい車で真岡にもどった。

 

 

 

真岡はひどい被害を受け、ソ連兵による乱暴も続いていた。しかしそうでもない兵士も多く、なんとか平常にもどっていた。吉見一家は無事であり、隆介の帰宅は大歓迎された。ただ、姉の一人は結核がすすんで、まもなく亡くなった。

 

最後まで通信を続けた真岡郵便電信局の九人の女子局員が青酸カリで自殺していた。知り合いの教師や生徒の家で、家族全員の自殺があった。隆介は家族と共にこれらの家を訪ね、死者を悼んだ。

 

 

 

帰国ができないまま一年が過ぎた。ソ連兵の監視下、工場・商店・市場が再開され、日本人は協力しながら生き抜いた。隆介は避難を共にした砂金を探したが見付からず、再開された中学に戻ったが、アルバイトにも力を入れて家族の生活を助けた。若いソ連兵と仲良くなり、ソ連人の家族とも親しくなり、敗戦一年後には盆踊りも許可されて、日ソ入り交じって楽しく過ごした。

 

秋になってやっと帰国が再開され、吉見一家も樺太を離れたのである。

 

物語は敗戦45年後にもどり、東京で教員生活を続けてきた吉見隆介が、かつて生死を共にして逃げまわった砂金のことを思いだし、めずらしい名前の友人の消息を求め、北海道に住む二人の姉の協力もあって、やっと見つける。

 

砂金は青森県で僧侶になっていて、隆介との電話での会話で、東京での再会を約束したのである。

 

 

 

45年ぶりの再会はおだやかに行われた。砂金は記憶が定かでなく、わずかに隆介との逃避行を思い出した。45年の激動の才月は重かった。隆介も多くは求めず、彼と別れた後、やっと戦争が終わった・・と思ったのである。

 

後書きの中で、筆者は「この本は一人の軍国少年の体験と思考であり、戦争の誤りの反省である」と考えている。この作品が書かれた約30年前は、日本における軍国主義復活とソ連の崩壊の時期だった。

 

筆者は定年退職後、北海道に移り、反戦平和の運動に加わったという。札幌民主文学会に加わり、カラフトについて、北海道における民族差別について、多くの作品を書いてこられた。最近は高齢のせいか、あまり例会には出席されていない。

 

 

 

この作品は、あまり知られていない樺太について、特に敗戦後のありさまについて、リアルに書かれていて、とても興味深く、よい勉強になった。私は歴史を学び教えてきた者として、貴重な本だと思う。

 

 

 

疑問に思うことは、樺太南部は、日本が侵略で得た領土(植民地)であるということである。中国と朝鮮からの引揚げ者には、多少とも植民地支配への反省があるが、樺太からの引揚げ者には押しなべてこの反省が感じられない。これはどうしたものだろうか。同じことが北海道に住む私たちにも言えるのだが。北海道は元々アイヌ人の住む土地であり、私たち和人は侵略なのだが。

 

第二の疑問は、文中の会話の中で〈ロスケ〉という言葉がくり返し使われていることだ。当時は普通であり、降服した日本に、海と空と陸から武力攻撃をしたことへの怒りもあったのであろう。

 

しかし、民族差別であり、今となっては使うべきではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

224号

 

 

NHK大河ドラマ

 

   動乱を生きた男たち①

 

              泉   脩

 

 

 

   平清盛

 

 

 

 源頼朝の語りで進む、平清盛の生涯を描いた大河ドラマ。一一八五年の壇ノ浦の戦いの勝利が鎌倉に届き、人々が喜びでわきかえる中、頼朝は「清盛なくして武士の世はなかった」と言って驚かす。

 

 彼にとっては二〇年前の平治の乱で父義朝が清盛に敗れ、捕えられた十四歳の頼朝が、清盛に会った時の印象が強烈だったのだ。

 

 彼は清盛の母(育ての)の嘆願で、やっと助命され伊豆に流されたのだ。

 

 平安の都ができて四百年、武士は「朝廷の番犬、王家の犬」とさげすまれ、天皇や貴族に仕えて生きてきた。

 

 武士でもっとも有力な平氏は、平忠盛の代になって数々の功績を挙げて四位になり、ついに昇殿を許されるまでになった。中井喜一の演じる忠盛はいかにも律儀で辛抱強く、立派な平氏の棟梁である。彼は白河上皇の落し子を引きとり後継ぎとして育てる。

 

 しかし成長して清盛(松山ケンイチ)と名付けられた子供は、自分の生まれに疑問を持ち、荒れ狂って一族の鼻つまみになるが、忠盛は彼を見捨てない。「私は王家の犬にとどまらず、武士の世を目指す」と清盛に言って励ますのである。

 

 この頃、もののけと恐れられた白河上皇(法皇)は、孫の鳥羽天皇にまつりごとをさせず、天皇の妃とした養女珠子に自分の子供を産ませる。そしてその皇子が五歳になると崇徳天皇として即位させてしまう。

 

 鳥羽上皇は白河法王の死後、やっと実験を握り、不仲な崇徳天皇を差別し、ついには自分の皇子を即位させる。

 

 こうして王家の内紛が、貴族や武士を巻き込み、保元の乱、平治の乱に発展し、最後に平清盛が勝利者になる。

 

 彼は後白河上皇を生涯のライバルとして、武士として初めて三位に昇り公卿となり、ついには太政大臣にまでなる。長子重盛ら一族も次々と公卿になり「平氏でなければ人でない」とまでいわれる。

 

 粗暴だが実行力のある清盛を松山ケンイチが見事に演じ、松田龍一の後白河上皇(法皇)との権力争いも凄まじい。今様(流行歌)と双六(すごろく)遊びが、一貫して二人の争いを象徴して用いられる。

 

 清盛が目指す武士の世は、平氏一族の武士と財力によって支えられている。財力の元は広大な領地と中国(宋)との交易である。そのために清盛は海に近い福原(後の神戸)に港をつくり、宋船を直接福原の港に入港させ、巨利を得る。

 

 清盛の野心は留まることを知らず、娘徳子を高倉天皇の妃として、生まれた皇子を三歳で即位させる。安徳天皇である。さらに都を福原に移し、清盛の世を実現してしまう。

 

 しかし、租税の増大もあって源氏の生き残りによる反乱が各地で起こり、清盛の死をもって平氏の没落は決定的になるのである。

 

 重厚で迫力のあるドラマである。

 

 

 

 

 

 

 

223号

 

 

 NHKテレビドラマで描かれた女性たち④

 

   女性は偉大なり

 

              泉   脩

 

 

 

 幕末から明治にかけて活躍した、実在した三人の女性について書いた。テレビドラマの女主人公だけに創作された部分もあるだろうが、それでも私は大きな感銘を受けた。女性が捨て身になると、男以上の力を発揮するのである。

 

 大河ドラマで女性主人公が活躍したのは、「女対太閤記」「利家とまつ」「功名が辻」そして「江」である。天下統一を目指して戦う夫を励まし、女同士助け合い、大きな成果を得た。

 

 ねねを演じた佐久間良子、まつを演じる松島菜々子、山内一豊の妻を演じる仲間由紀恵、そして徳川秀忠の妻を演じる上野樹理は、いずれも見事な演技である。幕末の三作に出演した三人より一世代前の女優だが、私は心から感銘を受けた。それにしても、彼女たちに励まされ奮起する男たちの剛健だが他愛の無さには笑ってしまう。特に秀吉の晩年は見るに耐えない醜さである。

 

 朝ドラは、朝放送されるので、全て女性向のドラマで、すべて女主人公の物語である。男たちは影が薄い。

 

 時代は明治、大正、昭和で、最近では平成に及んでいる。何といっても「おしん」が大傑作で、世界的にも第ヒットした。

 

 明治から昭和にかけては、日本は多くの侵略戦争を行ってきた。多くの男たちが召集されて戦病死(太平洋戦争では餓死!)、女、子供も沖縄、本土、そして満州やカラフトで死んだ。

 

 そのため、朝ドラは全て反戦、平和を基調にし、それでなければウソになってしまう。

 

「おしん」は、反戦平和を正面に掲げ、戦前の日本を支配していた不在地主制度を真っ向から否定している。

 

 おしんを演じた三人の女優はいずれも熱演したが、特に老年の乙羽信子は貫禄十分だった。女性はひたすら働き、子供を産み育て、家族を愛し抜く。男たちのように地位、権力、名誉を求めず、ただ家族を愛し社会的不正や戦争に反対する。実に偉大な存在なのだとおもう。

 

 朝ドラの女主人公たちは、このような女性ばかりであり、だからこそ大きな支持を得てきたのだろう。NHKはこの道を守ってほしい。

 

 

 

 

 222号

 

   評論

 

 田島一『争議生活者』

 

(「民主文学」四・五月号)

 

     ―ハケン切りとのたたかい

 

 

 

               泉  脩

 

 

 

1.時代背景

 

世界恐慌(一九二九年)の後、アメリカで民主党のルーズベルト大統領が当選し、ニューディール政策を開始した。経済の国家統制である。工・農・畜産の生産制限、公共事業による失業救済、保護貿易、労働組合の承認などである。

 

 恐慌は次第におさまったが、政府の強大化、重税、国際関係の激化・・が生じた。

 

 大戦後も、この国家独占資本主義が続いたが、アメリカのシカゴ大学を中心に、新自由主義経済の主張が強まり、一九八〇年の頃から、共和党政権がおし進めるようになった。イギリスのサッチャー首相も信奉者だった。

 

 国営企業の民営化、経済のグローバル化、大型合併、規制かん和、貿易自由化がすすめられた。

 

 アメリカの圧力のもと、日本もこの方向に進み、国鉄の民営化が強行された。(のちに郵政も)一九八六年には、労働者派遣法が成立した。戦後禁止されていた間接雇用の再開である。民間の派遣会社を通じて、非正規雇用の労働者が企業で働くようになり、二十一世紀の初めには、小泉内閣のもとで製造業でも解禁された。派遣・偽装請負、期間工など、さまざまな形態で、不安定な非正規労働者がぐんぐんと増加した。若年労働者の過半数を占め、全体で二千万に、たっしている。

 

 年間収入は正規労働者の三分の一、退職金、年金、健康保険はなく、あるいはすべて自己負担になった。身分も不安定で、いつ解雇されるかわからず、そのため結婚難と少子化がすすむようになった。

 

 

 

2.リーマンショック

 

二〇〇八年にリーマンショックがおこり、世界的不況が拡がった。アメリカで金融工学の名のもとに、多くの怪しげな金融商品が売り出され、その一つのサブプライムローン証券が不渡りになってリーマンブラザーズ証券会社が倒産した。この証券は世界中に普及していたので、大不況がおきたのである。

 

 日本では減産を名目に、トヨタを先頭に大企業各社が一斉に、いわゆる「ハケン切り」を強行した。その数は十万人に達し、五千人が労働組合に入って反対のたたかいが始まった。

 

 年末だったので、「年越派遣村」が作られて、社会的話題になった。

 

 田島一「時の行路」の三ツ星自動車では、関東平野の二県の二工場で、全派遣社員千四百名が解雇され、十二名が全日本金属情報機器労働組合(JMIU)に加入し、三ツ星支部を作ってたたかうことになった。

 

 この小説は、リアルタイムでこのたたかいを描き、「民主文学」に「二つの城」「争議生活者」をのせて完結したのである。現在「ハケン」の映画化がすすんでいる。

 

 

 

3.作品の内容

 

この作品の主人公は、契約社員として解雇された五味洋介である。彼は青森県の八戸で、靴販売チェーン店をリストラされ、自分で靴販売をして失敗した。借金のため妻 夏美と偽装離婚し、二〇〇五年に三ツ星に就職した。解雇されるまでの三年間、毎月十五万円の仕送りをして、妻と三人の子供の生活を支えた。

 

 やっと安定してきた生活を一方的にこわされた怒りから、個人加入の全国金属情報機器労働組合(JMIU)に加入し、争議団の一員になったのである。

 

 物語は、争議を始めて六年目をむかえた五味洋介が、三度目の帰郷をはたす時から始まる。一度目は娘が胸の腫ようの手術を受けた時。二度目は妻が乳がんの手術を受けた時である。幸い、娘は良性で助かったが、妻のガンは脳に転移し、今回はその治療の見舞のためである。放射線放射で、脳の腫ようが消えたと聞いて、洋介は胸をなで下ろした。

 

 三度の帰郷は、いずれも彼のたたかいを支援する人々のカンパで実現し、今回は五十万円もの見舞金をもらって、妻は感動して洋介にすがりつく。妻 夏美と三人の子供は、実家の世話になり、肩身のせまい思いをしていたのである。

 

 東京にもどった洋介は、忙しい争議生活にもどるが、三ツ星の十二人の争議団は、生活のための短期就職・アルバイト・心の病気などで、実際に動けるのは、洋介と佐伯良典の二人だけになっていた。二人は病気で働けず、生活保護を受けながら、やっと活動していたのである。

 

 洋介は心臓が悪く、休み休みに動き、佐伯は胆石になり血糖値も高くなって入退院をくり返していた。この二人が争議の見通しについて話し合う場面は、とても重い深刻な場面である。

 

 すでに東京地裁の一審で敗訴し、東京高裁に上告中、首席裁判官のあまりの会社よりの進め方に、裁判官交代の申し立てをして、一年も裁判が中断していた。

 

 佐伯は、全国各地で同じたたかいの敗訴が続き、唯一勝訴した山口地裁におけるたたかいも、高裁が主張した和解を受け入れたことを話し出した。この和解も解決金による解決だった。だから佐伯は、自分たちの高裁における逆転勝利はむずかしく、労働争議としての解決、つまり和解しかないのではないかと言うのである。洋介は応えようがなかった。

 

 二〇一四年の末、八戸の長男から、母親の容態が悪いと連絡があり、翌年の元旦には死去の電話が入った。洋介は翌日八戸に帰ったが、妻の姉から離婚しているからと葬儀の出席を断られた。

 

 この年の三月、高裁でも敗訴し、二〇一五年には、最高裁でも上告を却下される。組合は全国金属情報機器労働組合(JMIU)の指導のもと、すでに、会社側と和解交渉に入っている時だった。

 

 

 

4.非正規雇用のたたかい

 

労働者派遣法は改悪を重ねられて来たが、基本的な部分では長所を持っていた。非正規雇用は一時的、臨時的なものであって、三年続けば正規雇用にしなければならないという点である。財界は様々な抜け道を考え、違法すれすれの方法で、非正規雇用をぐんぐんと拡げてきた。格差と貧困の増大である。

 

 争議団は、裁判と宣伝活動で、会社側の違法行為を明らかにした。ところが最高裁がこの違法行為も会社の解雇無効には及ばないという、不当な見解を出した。このため、ほとんどの下級裁判所が、「違法は認めるが解雇無効は認めない」という判決を出したのである。政府、自民党も、労働者派遣法を完全に骨抜きすることを企て、ついに二〇一五年に安倍内閣のもとで成功してしまう。

 

 

 

5.この作品の意義

 

作者 田島一は、「時の行路」(二〇一〇年)以来、いわゆるハケン切りに反対するたたかいの小説化に全力を注いできた。実際の争議団のたたかいに参加し、苦楽を共にしてきたのである。五味洋介を八戸に帰すカンパ呼びかけの檄文を、みずから執筆している。「時の行路」が、新聞「赤旗」日刊紙に二回に渡って連載されたことも、大きな役割をはたした。

 

 この作品は、暗い重い内容なのに、とても感動的である。私自身もどれだけ涙を流し、体をふるわせたことだろう。

 

 たとえ首を切られた労働者の一%以下の労働者しか争議に加わらなくても、そして長期化して争議参加者が活動できなくなっても、それでも目覚めた労働者がいかに立派であることか。そして、この争議に励まされて、いかに多くの人々が支援の輪に加わってくるか。洋介の妻 夏美の死去にともなう香典が90万円を超え、葬儀の費用と墓の建立に役立ったのである。

 

 洋介の家族がたたかいの意義を理解して協力し愛を、とりもどす場面は胸を打つ。洋介自身も大きく成長し、佐伯と共に共産党に加入し、広い視野を持つようになる。負けても勝ったのである。

 

 二〇一五年の夏、安倍内閣の戦争法に反対する運動が空前の規模でもえあがり、国会を包囲する大集会に洋介も参加する場面は、日本の未来をさし示す

 

すばらしい場面である。特に若い人々の参加がめざましい。

 

 この作品は、私が読んできた田島作品の中でも出色の作品と言えると思う。

 

 なお、「争議生活者」のタイトルは、洋介と佐伯が、小林多喜二の「党生活者」を読んで感動し、自分たちのことを「私たちは争議生活者だな」と話合ったところからきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 221号

   

  NHKテレビドラマで描かれた女性たち③

 

   「あさが来た」

 

               泉  脩

 

 

 

 二〇一五年に放映されたNHKの連続テレビ小説。いわゆる朝ドラでは、初めて幕末から始まる。

 

 京都の両替商の娘として生まれたはつ(宮崎あおい)とあさ(波瑠)は、まったく性格がちがう。はつはしとやかで芸事に熱心、あさはおてんばで木登り、ちゃんばらが大好き。

 

 二人とも生まれてすぐ大阪の両替商の息子の許嫁になる。あさの相手の白岡新次郎が、あさにそろばんを贈ったので、あさはそろばんが上手になる。

 

 二人が成長して嫁入りしてまもなく、幕末の動乱が始まる。はつの嫁入り先は大名貸しが返済されずに潰れ、一家は夜逃げする。あさの嫁入り先の加賀屋は、あさの奮闘でなんとか生き残る。借金に来た新選組に、あさが立ちまわって斬られそうになる。あさ自ら大名屋敷を回って、少しでも返済させる。この中で知り合った薩摩藩士五代から助言を受ける。

 

 こうして明治に移り、あさは石炭事業にのりだし、九州の炭鉱を自ら出かけて採炭し、利益をあげていく。

 

 両替商は成り立たないと知り、銀行に転換するよう根気よく説得する。あさの手腕が次第に認められ、ついに銀行を創設し、何回かの危機もあさの決断で乗り切ることができ、さらに生命保険にも手を延ばすことになる。

 

 この間、五代を始め、渋沢、大隈といった政財界の大物の協力を受け、女性実業家としての地位を確立した。あさの最後の事業は日本初の女子大学の設立だった。女性にも教育の機会を与え、女性の社会的地位を高めることが、あさの心からの願いだったのである。

 

 女性差別の根強い日本で、さまざまな迫害を受けながらも、あさは見事に女子大学設立に成功し、多くの人材を育て上げていくことになる。最初の卒業生の中には、女性解放運動の闘士、平塚雷鳥もいた。

 

 あさは実在の人物であり、目の覚めるような活躍をした。

 

 日本最初の西洋医師萩野吟子、初の女流作家樋口一葉、近代短歌の与謝野晶子などとならぶ、明治が生んだすぐれた女性である。

 

 なお、姉はつは、紀伊の山中でみかん作りにつとめ、妹のあさと励まし合って自分の道を拓いていく。宮崎あおいが好演している。

 

 

 

 

 

 

 

 浜比寸志「彼岸花」

 

  悪性リンパ腫とたたかいながら

 

               泉  脩

 

 

 

 小樽に住み、最近亡くなった浜比寸志さんの最後の作品「彼岸花」が「民主文学」三月号に載った。淡々と書かれた胸をうつ闘病記である。

 

 浜さんは高校教師を退職後、民主文学会小樽支部長になり、文学運動、地域活動に努め、毎年二月に行われる小林多喜二祭の実行委員をしてきた。小説を書くかたわら、短歌を作ってきた。

 

 この作品は、主人公深沢悠介が脇の下のはれ物に気づき、市立病院で手術と検査の結果、悪性リンパ腫のステージⅡとわかる。

 

 彼は十分に生きた人生だと達観しながらも、化学療法などの治療を受ける。

 

 最初の入院のとき、六人部屋で佐々木という患者と知り合う。彼は近隣の町の漁師で、息子に仕事を譲ったあと食道がんになった。治療を受け、医師に急かしてまでして退院し家に帰った。

 

 悠介も最初の治療を終えて退院したが、腸に腫瘍が見つかりステージが進み再入院になった。元の三一八号室に入り、隣のベッドの小畑と親しくなった。彼は胃がんの再入院で、すでに成人の二人の息子の父親だった。悠介より早く退院した佐々木が、重症患者の多い五階の病室に再入院していて、容態が悪いとの事だった。

 

 小畑が移動テーブルで細工物に励むので、何を作っているのかたずねると、彼岸花だという。事故死した長男の三回忌に供えるという。次男は仙台で働き、妻子もいて幸せに暮らしているという。

 

 冬のある日の午後、突然地震が起こり激しく病室がゆれた。悠介がテレビのスイッチを入れると、東北から関東にかけて、かつてない大地震が起こり津波も押し寄せ、悲惨な映像が映し出された。

 

 小畑が病室を飛び出して行った。やがて戻ってきて仙台の次男から自宅に電話が入り、全員無事との事で、病室のみんながほっと一息ついた。

 

 やがて悠介が再び退院するとき、小畑に頼んで手造りの彼岸花を一本わけてもらった。

 

 この短篇小説はここで終わっているが、佐々木と小畑がその後どうなったかは書いていない。作者の浜さんは入退院を繰り返しつつ、さまざまな活動をしてきた。

 

 私は何回かの文学研究会でお会いし、物静かな人だと思ってきた。浜さんのいくつかの作品を巡って討議し、厳しい内容に胸を打たれた。同じ高校教師をし、組合や文学のような活動をし、同じ思想を持つ同志だった。

 

 一昨年、私の「姉さん女房」を読んでくださり、実に丁寧な手紙を貰った。私の妻が病に苦しみ、その気持ちを短歌にこめたことに強い共感をしてくれたようだった。病と闘う人同士の理解と連帯だろう。私にはうれしい手紙だった。

 

 昨年秋、民主文学会北海道研究集会が開かれ、浜さんの「転げた造花瓶」(「彼岸花」はこれの改題改稿作品)を同じ分科会で討議した。浜さん自身の体験が元になっているだけに緊張したひと時だった。札幌支部長の松木さんが「一番よい作品だった」と私に言った。

 

 私は浜さんの元気そうな姿を見て、病気が治ったのだろうと思い、うれしかった。

 

 このとき私の次の本「妻が逝く」を浜さんに差し上げ、やはりとてもよい手紙を貰った。私の妻の方は入院十一年目に亡くなったのだが、まさか浜さんが数ヶ月後に亡くなるとは思いもしなかった。

 

 浜さんの「白鳥の歌」ともいうべきこの作品が「民主文学」に載り、全国の多くの人に読まれることはうれしいことである。

 

 同じ年頃の私は、もう少しだけ生きて、文学の志をさらに追及していきたいと決意している。

 

 

 

 

 220号

 

  にしうら妙子「淡雪の解ける頃」

 

          抒情性と強い意志

 

                泉  脩

 

 

 

 西浦さんの第一作品集を読んだ。視力が低いので読んでもらったのだが、二人とも心を打たれた。文章が美しいうえに、しみじみとした内容だからである。

 

 第一部「青春」は、4篇で、どれもロマンチックでしっかりした芯がある。情に流されず、正しい生き方を探求している。

 

 「淡雪の解ける頃」は、教育大旭川分校に進学した女主人公が教科研サークルに力を入れ、4年の時に会長になっている。そして全道研究会の準備に力を入れる。

 

 彼女には先輩の恋人がいるが、本州に就職したために、遠距離恋愛になっている。サークルの1年生の男子学生が彼女を助けて努力し、彼女を愛するようになる。

 

 彼女も心が揺らぐが、接近を許さず、へき地校の教師の道を選ぶ。

 

 若者たちが愛と進路のはざまに悩み、それでもしっかりと自分の生きる道を選択するのである。

 

「土鈴」は、京都の大学で学ぶ女性が、友人の実家のある金沢を訪ね、観光バスに乗ってカナダ人の留学生と親しくなる。彼は日本で建築を学び、カナダで親の仕事を継ぐ決心をしている。

 

 二人はすっかり打ち解けるが、彼女は自分の連絡先を教えず、一年後に金沢で再会しようと約束して彼と別れるのである。

 

 旅先の一時の恋心に溺れない、しっかりした理性が感じられる。

 

「ゆずり葉」は、十勝の大樹町の父の家に、大雪に迷った車が立ち寄る。帯広の勤め先から戻っていた娘の尚子は、車から降りた中年の男が高熱なのに驚いて、泊まらせて看病する。大学に勤め、十年前に登山中に妻を失った彼は、彼女の親切を忘れられず、プロポーズをするようになる。

 

 彼女は大病院の後継ぎの医師からも結婚を迫られていたが、地味な研究と自然保護の運動に打ち込み、幼い一人娘と暮らす男を選ぶのである。

 

 地位や財産よりも、人柄と考え方のほうを選ぶ、さわやかな愛の物語である。

 

「さとうきび畑」は、沖縄を訪ね、ガマ(地下通路)で死んだ祖父の足跡を求め、道に迷った女性を一人の青年が助ける。二人は親しくなり、戦没者の遺跡を一緒に訪ね歩き、更に心が接近する話である。

 

 悲惨な沖縄戦の中で、日本軍国主義、帝国主義の罪悪が明らかになったのだ。若い世代の、率直でくもりのない感受性が書かれていて気持ちが良い。

 

 第二部の「十勝大樹町」は、西浦さんが四十年以上も暮らした町を舞台にした3作品である。どれも力のこもった優れた作品で、『民主文学』に一年のうちに載った作品である。

 

「桐子の門」は、流産で初めての子供を失い、今後7出産を望めなくなった女性の話である。

 

 彼女は失意のあまり教職を辞し、自宅で雑誌の校正や庭仕事で過ごしている。ある日、垣根のすき間から顔をのぞかせた少女が、庭仕事をしていた彼女に声をかける。

 

 彼女はその少女―桐子に手伝ってもらい、終ると家にあげてジュースとプリンをご馳走する。桐子は東北の大震災のあと、父親の実家にあずけられ、隣の家で暮らすようになったのである。

 

 まだ、小学校入学前の桐子は、毎日やってきて二人は仲良くすごす。彼女は我が子のように桐子をかわいがり、夫も遊んでやるようになる。お礼に来た祖母の話では、桐子の母親は保育園の保母で、園児とともに津波にさらわれたという。父親は娘を実家にあずけて、病院職員の仕事に打ち込んでいるとのことである。

 

 彼女は桐子を養子にしたいと、彼女が肺炎で入院中に、父親が桐子を連れて帰り、母方の祖父母と相談していると言う。失意の彼女は気力を失ってしまう。

 

 しかし、夫が桐子の父親からの連絡で、桐子がもどってくる知らせをもってくる。息を吹き返した彼女は、夫と迎えに行くことにし、庭の垣根のすき間を拡げるのである。

 

 私はこの作品が好きで、最初に読んだ時、落涙してしまった。もっとも西浦さんらしい作品だと思った。

 

 「夕映えの街で」は不注意で子供を死なせ、夫まで失った女性の贖罪の話である。「冬子さんのこと」は、全盲で鍼灸の仕事に勤める冬子さんを思わぬことから知った女主人公が、盲人を手伝う仕事をするようになる話である。

 

 第三部「残影」は、十勝の歴史に係る三つの作品である。特に「鳩時計」は、一九五〇年第、米軍演習地をめぐる反対の闘いを書いた、印象的な作品である。高校二年の女生徒が登校拒否になり、祖父の頼みで大津村の出来事を調べることになる。近くの道立図書館で調べるうちに過去の見事な闘いを知り、歴史に目覚めていくのである。そして自分の意志で勉強することの大切さを知り、新しい生き方をすることとなる。力のこもった力作である。

 

 この本全体を通じて、西浦さんの抒情性と同時に凛とした意志の強さを感じることが出来る。文学少女として出発し、教師、町議会議員、そして介護の仕事と懸命に生き抜いてきた。同時に文学サークルで創作の仕事をたゆまず続けてきた。

 

 こういった西浦さんの生き方がこの作品集に結実していると思う。現在は心臓病の病気を抱えながら、美唄で夫と二人で暮らし、あと二冊の作品集を作ることを目指しているとのこと、これまで書いてきた原稿がたくさんあるのだろう。あるいは、まだ書きたいテーマがたくさんあるのだろう。

 

 私は似たような人生を送り、十年前に民主文学会札幌支部に加入した。そして研究会で西浦さんに出会い、特に深川西高校の「あゆむ会事件」という共通の出来事をめぐって親しくなった。なんとも不思議な出会いだった。

 

 私は創作をしないが、評論に携わってきたので、西浦さんの力量が理解できる。今後の前進を期待してやまない。

 

 

 

 

NHKテレビドラマで描かれた女性たち⓶

 

   「八重の桜」

 

               泉  脩

 

 

 

 二〇一三年に放映されたNHK大河ドラマ。東北大震災で苦しむ東北地方の人々を励ますための、福島県の会津を舞台にしたドラマである。

 

 幕末、薩摩藩とともに最強の武士団をもつ会津藩は、幕府に頼りにされる。

 

 藩主松平容保は、もっとも有力な親藩の藩主である。

 

 

 

 主人公八重(綾瀬はるか)は鉄砲組頭の家に生まれ、子供の時から鉄砲に興味を持った。父親は、とんでもないと叱り続けたが、ついに根負けして後を継いだ兄に鉄砲を学ぶことを許した。

 

 会津藩は尊王攘夷で、あれる京都の守護職を幕府から命じられ、容保は多くの藩士をつれて京都に赴く。そして浪士を集めた戦線組がその支配下に入る。

 

 容保は孝明天皇の信頼も得て辞めることもできず、十年も京都守護職を続ける。しかし、薩長同盟を中心に討幕運動が激化し、一八六八年、明治維新が成功する。京都を追われ、鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩は、会津に逃げ帰り官軍に攻撃される。

 

 鉄砲の名手になっていた八重は、行方不明の兄に代わって鉄砲組を指導して大活躍する。会津城(鶴ヶ城)は二ヶ月持ちこたえ、ついに力尽きて降伏する。

 

 八重の兄は京都で捕らわれの身になっていたが、その見識を認められて、京都府知事のもとで働くようになり、母、妹を呼び寄せる。

 

 八重は京都の女学校で働くようになり、キリスト教牧師新島襄に求婚されて結婚し、牧師夫人として活躍するようになる。そして、夫の目指すキリスト教大学(同志社大学)の創立を成功させる。

 

 このような八重のけなげな姿は、見ていて実に気持ちがいい。特に会津戦争の悲惨な様子は「獅子の時代」とともに実にリアルで身に迫る思いである。

 

 私はこのドラマ放映の翌年、古い友人たちと会津を訪ねた。ジャンボ観光タクシーの運転手がガイドも兼ねて説明してくれた。

 

 当時の官軍の非道なやり方が、最近になってやっと公にされるようになったという。声を震わせた説明を聞くうちに、会津の人々の心の傷の深さを知らされた思いだった。

 

 彼は八重の話になると、とても誇らしげになった。そして綾瀬はるかが、今でも行事に招かれていると言う。

 

 自分がこの車に乗せて移動したと言う。彼が会津で一番の運転手でありガイドだったのだろう。私が三日間座った席が綾瀬はるかの席だったと言われて、私は彼女のファンとしてとてもうれしかった。思いがけないことだった。

 

 官軍が会津藩の恭順を認めず、連日千発もの砲弾を城に撃ち込んだのは、新選組によって無数の志士が殺されたからだろう。

 

 それにしても降伏後三か月も戦死者の埋葬を許さず、鳥や野犬に喰われて無残な姿になったという。最大の賊軍とされた会津藩への憎しみの大きさを知る思いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 219号

 

 

 動乱を生きた女性たち

    幕末から明治にかけて

               泉  脩

 

  テレビドラマで描かれた幕末から明治にかけて、何人かの優れた女性がいる。男たちに負けない見事な活躍をした。私は心から感銘を受け、女性の偉大さを改めて知った。

 

 

    篤姫

 

 二〇〇八年に放映されたNHKの大河ドラマである。原作宮尾登美子、脚本田渕久美子、主演宮崎あおいと、すべて女性による力作である。

 

 第十三代将軍徳川家定が暗愚とあって、次の将軍を誰にするか幕府内は大揺れした。保守派と大奥は、紀伊家から若い家茂を迎えようと考える。改革派は、水戸藩主斉昭の息子一橋慶喜を迎えようと考える。斉昭は尊王攘夷の熱烈な信奉者で慶喜は若いが英明と噂されていた。

 

 外様の有力大名の一人、島津斉彬は、分家の娘で聡明な篤姫を養女とし、家定の正室として大奥に送り込む。彼女を通じて家定に慶喜を後継にするよう企てたのである。

 

 明るく積極的な篤姫は。夫家定に気に入られる。しかし、大奥の反対と大老になった伊井直弼の後押しで十四代将軍は家茂に決まってしまう。

 

 篤姫は若い新将軍をも味方につけ、大奥に新風を吹き込んでいく。幕末の激変の中で家茂も急死し、結局は慶喜が最後の将軍になるが、薩長を中心とした討幕が進み官軍が江戸に迫ってくる。

 

 篤姫は前将軍の正室の和宮と協力し、勝海舟と結んで最後の大仕事をする。

 

 姫時代から仲がよかった西郷隆盛に働きかけ、将軍慶喜の助命と引き換えに江戸城を明け渡すのである。こうして徳川時代は終りをつげ、江戸は戦火を免れるのである。

 

 篤姫は江戸(東京)の一隅に邸を構え、御三卿の田安家から養子を迎え、徳川宗家を存続させるのである。西郷隆盛が西南の役で死に、大久保利通は暗殺される。かつて親しかった者たちが次々世を去ったが、篤姫はひっそりと家を守り続けたのである。

 

 宮崎あおいが見事な熱演をし、女性の大切な役割を明らかにした。

 

 篤姫が子どもの時から読書に熱中し、江戸城内で水戸斉昭と日本外交史について論争し、いっぺんに彼を味方にしてしまう場面はおもしろい。また、囲碁が強く、島津斉彬と何度も対局して親しんでいく。薩摩藩の家老となり、西郷、大久保らを支えた小松帯刀とも何度も対局して意志を通わせる。碁の好きな私には、何ともたまらないシーンの連続である。

 

 夫家定とは連珠で夫婦として仲良くなっていく微笑ましい場面も忘れられない。

 

 彼女は、やさしくて賢い女性の典型だったのである。

 

 

 

 

 NHK連続テレビ小説をめぐって

 

        「ウイスキーを買う」

 

                    泉  脩

 

 

 

一昨年の九月十五日、絶好の秋晴れのもと、小樽、余市をまわるバス旅行をしました。市民サークル「リラ文学散歩の会」の年一回の日帰り旅行で、会創立以来十六年、欠かさず楽しんできました。今回の参加者は十四人でした。

 

おなじみの小林運転手の中型バスで、まず小樽のオタモイ水族館に行きました。私は家族三人で行ってから、ほぼ四十年ぶりで、内容が充実していました。幻の魚イトウの生きた姿を見るのは初めてでした。

 

セイウチのショーを見ましたが、やはり初めてでした。雄のキバが見事でした。トドの大きな太った姿は二度目でしたが、前回見たあと、私が太ると妻にトドと言われました。ペンギンのショーはかわいらしく、行進は大人気でした。旭山動物園が始め、各地に拡がったのです。

 

昼食後、余市のニッカウヰスキー工場に向かいました。「マッサン」放映以来、大人気で、予約をとるのに苦労したようです。創立が昭和九年とありましたが、私が生まれた年です。マッサン(本名、竹鶴政孝)とエリー(リタ)の夫婦が、やっとスコットランドに風土が似た余市に工場をたて、戦争の苦難を経て、見事なウイスキーを作り出したのです。私はこのドラマをDVDで集中的に見て心から感動しました。

 

自信を失いがちなマッサンをエリーがたゆまず励まし続けます。このエリーを、周囲の人々がしっかり支えます。見事な人間ドラマでした。戦時中、思いがけず海軍が助けてくれるのも不思議です。陸軍や特高よりは、ひらけていたようです。

 

ガイドに案内されて構内を歩き回りましたが、ガイドの説明は熱が入っていました。ブームにのっただけでなく、創業者夫婦の人柄にほれているのでしょう。創立当時の建物が残っていて、今は使われていませんが、実験室、第一号倉庫、そしてマッサンとエリーの家に感銘を受けました。

 

ウイスキーは原酒の熟成が大切で、現在も使われている倉庫には、たくさんの樽が並んでいます。ドラマでは、マッサンが熟成期間の違う何種類もの原酒をブレンドして、自分で試飲して理想のウイスキーを求めていました。私はドラマを見ていて、毎日試飲ばかりしていてアル中にならないか気がかりでした。

 

ガイドの話では、マッサンは酒豪で、毎晩、ウイスキーを一本飲んだそうです。七十歳になってエリーが心配するので、三日に一本になったそうです。たしかにアル中になっていたのかもしれません。なおエリーの用意したつまみが、塩辛と梅干とのことで見学者は笑いました。ウイスキーと合うのでしょうか。

 

ウイスキー博物館の見学が終り、いよいよ試飲になりました。注意する人がいないので、何杯も飲んで出来上がっている人もいるようでした。私もウイスキーとワインを一杯ずつ飲んで酔ってしまいました。広い部屋のいたるところで、機嫌よく話し合うグループが多く、わがサークルの女性たちもご機嫌のようでした。小樽、増毛、余市と三年続けて、アルコール工場の見学を続けたので、すっかりなじんでしまったのでしょう。

 

私はこの見学が決まった時、ドラマを見たこともあって、一本買って帰ろうと考えていました。アルコールは弱いのですが、最近ビールやワイン、そしてハイボールを飲むようになりました。十年も続いている一人暮らしの淋しさもありますが、なによりも料理がおいしくなるからです。

 

販売所に並んでいるウイスキーから、スーパーニッカをえらびました。二、七〇〇円で、マッサンの永い苦労を考えれば高くはありません。生まれて初めてウイスキーを買いましたが、果たして飲めるだろうか。

 

あまり文学的でない文学散歩は、小樽で生鮨の夕食をとり高速道路を通って札幌をめざしました。バスの中で俳句、短歌のコンクールがあり、私もやっと一首作りました。

 

セイウチや 

 

トドとペンギン 

 

かわいいな

 

 もちろん落選しましたが、私には歌心がないようです。季語がないうえ、子供のような川柳なのです。

 

 なお、バスの運転手の小林さんは、小林稔侍に似たしぶい二枚目です。そのうえカラオケの名手で、この日も録音されたプロ並みの歌を、車中でたくさん聴かせてくれました。文学散歩の楽しみが一つ増えました。

 

 

 

 

 

 218号

 

  木村玲子

  「イトムカからのメッセージ」

       故郷を汚した犯罪への怒り

                 泉  脩

 

 

 

この本を読んで心から感動した。一行一行渾身の力を込めて書かれ、全て心から出た文章である。

 

全三部からなり、ドキュメンタリー「ふるさとイトムカの埋もれた歴史を追い求めて」である。二〇一〇年、愛知県で行われた、中国殉難者慰霊祭に出席した木村さんが、かつてイトムカで強制労働させられた唐元鶴(トァンユァンフー)さんと対面する。唐さんはイトムカと聞くと「おお、イトムカ」とすぐ反応した。そして木村さんの質問に答えて想い出を話した。

 

船で日本に連れて来られ、長い汽車旅で約四〇〇人の仲間とイトムカに来たこと。約半年、住宅の地盤作りをさせられ、夏に山一つ隔てた置戸に連れていかれ、十一月に愛知県の大府飛行場で働き、翌年六月にまた北海道きて赤平で働き、ここで終戦を迎えたこと。着る物も食べ物も粗末で、よく生き抜いたこと……である。

 

一九四四年三月から四年にかけてのことである。木村さんは通訳を介してむさぼるように聞いた。木村さんは唐さんをイトムカに迎える決心をし、努力の末に多くの協力者を得て、唐さんの娘さんの来日、来道を翌年実現した。

 

木村さんは北見市に近いイトムカ水銀鉱山の社宅で生まれ育ち、中学三年の中頃まで過ごした。札幌の高校、大学を卒業し、札幌の私立高校で国語の教師をし、結婚して二児を得た。夫の死の前後、父母と夫の母を見送り、今は札幌民主文学会など、いくつもの会で活動している。

 

二〇〇八年、イトムカ水銀鉱山閉山四〇周年の記念誌を発行した。全国に散らばった元鉱員とその家族の協力で立派な本ができた。木村さんは最後の鉱長を勤めた方で、よい人柄で鉱員やその家族から慕われてきた。だから娘さんからの求めに応じて多くの原稿が集まったのである。

 

ところが連絡のとれた何人かの女性から、戦時中に朝鮮人、中国人が大勢働かされていて悲惨な状況だったことがわかった。衝撃を受けた木村さんは、このことを記念誌に載せようとして反対された。過去の忌まわしい思い出は隠しておこうというのである。

 

木村さんはなつかしい故郷を汚した悲惨な行為を見逃せず、生き残りの人々を訪ねては真相を質ね、自分の創作やエッセイに書き込み、ついに一冊を自費出版したのである。

 

ドキュメントの第二話に「キミさんの詩(うた)」というすばらしい文章がついている。当時十七歳のキミさんは、イトムカで炊事係として働き、朝鮮人の悲惨な姿にショックを受け、あまった食物を分けたり、自分の服を縫い直してあげたりして力をつくした。

 

キミさんは木村さんの努力を知って、まっ先に電話をかけてきて、木村さんもキミさんを訪ねて話を聞いた。

 

キミさんはイトムカから自宅に帰され、不幸な結婚で苦しみながら三人の子どもを育て、今では当別の自宅で一人暮らしていた。詩を作り絵を描き、どちらも認められた。木村さんは、何篇かの詩を紹介しているが、身体が震えるほど見事である。キミさんは癌で入院しながら、木村さんをかえって励ましてくれた。

 

ドキュメンタリーは、唐さんの娘さんをイトムカに案内したあと、今度は木村さんが訪中し、武漢に近い黄石市に唐さんを訪ね、さらにくわしい聞き取りをする話を書いている。すごいファイトである。

 

第二章は創作で、イトムカの元選鉱場の近くのため池のそばに一九四四年に建てられた石碑について書いている。水神碑と刻まれ、裏には地崎組と刻まれ、さらに個人名が刻まれているが、これはセメントで塗りつぶされている。

 

強制労働で掘られ、水銀鉱石の最後のカスを捨てたため池である。

 

働きの悪い一人の朝鮮人が殺され、池の底に人柱として埋められたという噂を、木村さん自身が子どもの時にきいたことがある。この碑は何のために作られたのか、その謎を追いながらも、木村さんに共鳴する仲間が、一回目は唐さんの娘と共にお参りし、二回目も翌年に行った。イトムカで亡くなった朝鮮人、中国人、約五十人を忌んだのである。

 

残された報告書によると、一九四三年から四万人の中国人、捕虜やら拉致されてきた人々が日本各地で酷使され、多くの方々が亡くなった。それ以前から朝鮮人、中国人を合わせるのと何十万という人々が働き、多くが亡くなったのである。日本人の男たちが召集され、その穴埋めのためだった。

 

木村さんは、イトムカから始まって全国の悲惨な事実を知り、せめて亡くなった人々の遺骨を故国に戻そうとする取り組みが早くからあったことを知った。

 

イトムカの置戸では、町をあげての運動で立派な慰霊碑が建てられている。それならばイトムカでもと考えるのは自然の動きである。

 

しかし別会社ながら水銀再利用の工場がイトムカで操業していて、留辺蘂や北見から多くの人が通勤していて、慰霊碑建設に反対が強いという。補償問題がおきたり、中小企業ではもたないからである。

 

韓国と中国は早くに平和条約を日本と結び、賠償や経済協力と引き換えに、国民の個人補償を置き去りにしてしまった。個人の訴えは全ての日本の最高裁で却下されてきた。国家の取引の犠牲になったのである。

 

木村さんの努力は、故郷を大切に思う気持ちから発して、人権を守る国際的な運動に合流しているのである。

 

最終章に、ミニコミのコラムが載っている。私よりずうっと若いのだが、登山、海外旅行、各種の集会にとタフだ!

 

 

 

 

 

NHK連続テレビ小説をめぐって

        「花子とアン」とてもよいドラマ

                         泉  脩

 

 

 

 私は子供の時、たくさんの本を読んだ。戦時中は娯楽が少なく、本を読むことが何より楽しかった。

 

子供向け世界文学全集で「王子と乞食」と「アンクル・トムの小屋」を読み、どちらにも心をゆすぶられた。「王子と乞食」は、中世のイギリスで王子と乞食が服を取り換え、顔が似ていたので本物とまちがえられる話である。王子は貧しい人々の間ですごす間に、貧しい人々の苦しみ、悲しみを知る。やがて元にもどると、貧しい人々のために尽くすようになる。

 

「アンクル・トムの小屋」は十九世紀のアメリカで、黒人の子供トムが、奴隷として売られて、苦しい生涯を送る話である。リンカーン大統領による奴隷解放の力になったという。

 

 どちらも人間は平等だという思想が貫かれていて、私に大きな影響を与えた。この二冊の翻訳者が花岡花子だということを、「花子とアン」で初めて知った。

 

 このドラマは実話だけに、とても迫力があった。山梨県の貧しい小作農の家に生まれた花子が、父親の努力で東京のミッション女学校の給費生になり、けんめいに勉強する。英語が上達して、代用教員、出版社を経て、児童文学の翻訳者になる。

 

 カナダ人の女教師から託された「赤毛のアン」の原作を、戦争中に翻訳し、戦後七年たってやっと出版するのである。そして大ヒットし、現在にいたっても名作としてよみつがれている。

 

 孤児の娘アンが、まちがって兄妹の老人の家にもらわれ、けんめいに働き、やっと養女になる。彼女の愛らしさ、けなげさで人々のアイドルになり、立派に成長していく。

 

 私は高校生の時にこの本を読み、夢中で読みふけった。出版直後のことである。

 

 自分の名前の綴りにこだわり、自分の赤毛を恥じ、そして自分の空想の世界に夢中になる。親友を求め、男の子に興味をもつ。養父母の二人に、一心に尽くす。こんなアンに心からひきつけられた。

 

「王子と乞食」「アンクル・トムの小屋」そして「赤毛のアン」は、日本中、世界中の子供、若者そして大人の心をゆさぶった名作である。翻訳者の花岡花子の功績は大きく、ドラマ「花子とアン」の感動も大きい。

 

 花子はアンと同じように、家族、友人を心から愛し、けんめいに尽くした。必然的に戦争に反対し、戦争で殺された人々を心から悼むのである。

 

 戦争が終ってからの、にわか民主主義者、平和主義者ではなく、筋金入りの民主主義者、平和主義者であることが、このドラマを通じてよくわかるのである。

 

 歌人白蓮との交友も、興味深く、胸を打たれた。とてもよいドラマだった。

 

 

 

 

 

 217号

 

 NHKテレビ小説をめぐって

 

   『純と愛』 過酷なメルヘン

 

               泉  脩

 

 

 

 理想のホテルをめざすヒロイン純が、人の心が詠める愛(いとし)の協力で奮闘する物語。母方の祖父が宮古島に作ったホテルは、孫の純にとっては魔法の国だった。宿泊客がみんな笑顔で帰るからである。

 

 ところがホテルを受け継いだ父親は、もうけ主義で失敗し、あげくにホテルを観光資本に売却してしまう。反対した純は勘当され、大阪の一流ホテルに勤めて努力する。愛と出会い、彼の協力で、次々とピンチを切り抜ける。二人は結婚するが、人の心が読めるために人の顔が見られない愛は、次々と勤めに失敗し、主夫の役目を引き受けることになる。

 

 純が働くホテルが外資にのっとられ、純を理解する社長が解任され、純はやめてしまう。苦しむ彼女を救ったのは、沖縄人が集まる木造ホテルの女将で、彼女はここで働くようになる。奇妙なホテル仲間や宿泊人たちは、純の働きでよみがえり、理想のホテルに近づいてくる。

 

 しかし宿泊者の失火でホテルは焼滅し、またもや振り出しに戻ってしまう。

 

 純と愛の間もぎくしゃくするが、ホテルの客だった笑顔を失った女性デザイナーから宮古島の別荘をゆずられ、再スタートすることになる。愛・母・兄夫婦、そして純を慕うホテル仲間が協力することになる。

 

 別荘をホテルに改装し、島の人々の協力も得て、オープンの日が近づく。ところが次々と困難に襲われる。母の認知症が進み、愛が脳腫瘍で手術を受け、台風でホテルが荒れてしまう。

 

 オープンを延期した純は、ひたすら愛の意識が戻るのを待ち、希望を失いかける。駆けつけたかつての仲間たちに励まされ、やがて気力を取り戻した純は、愛の看病のかたわら、オープンを決心する。

 

 なんとも過酷なシリアスなドラマであり、スーパーウーマンと超能力者の織りなすメルヘンらしくない。リーマンショック(二〇〇八年)による大不況を反映した、リアリステックなドラマである。

 

 純を演じる夏菜が、一本気なヒロインをよく演じている。かつて「金八先生」で不気味な引きこもり男を演じた風間俊介が、愛を好演している。武田鉄矢がめずらしく悪役の父親を演じている。

 

 朝ドラにはめずらしい、深刻に考えさせる作品だと思う。あまり楽しくなかったが、観てよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『寂しくても悲しくてもネギ刻む』

 

               泉  脩

 

 

 

 昨年この作品が「奔流」に載り、札幌支部合宿研で討議した時、次のように発言した。

 

「小説のテーマとして私が好きなものが三つある。男と女が愛し合い家族をつくること。病気が治る話。そして子ども達が集団的に成長する話。この作品は三番目にあたり、とても感銘を受けた……」

 

 札幌の公立高校で、いわゆる「進学校」でない、周辺の高校が舞台である。私はこのような高校にも入れない生徒たちが入学する、私立高校の教師だったので、この作品の内容がよくわかる。

 

 三年生のクラスを卒業させたばかりの山本が、また新三年の七組を受け持つよう頼まれる。やむなく承知した山本は、ほとんど知らない生徒たちに、「貧しいことは恥ずかしくない」「どんな職業に上下がない」といった最初の話をする。

 

 三七人のクラスの三分の一が片親の家庭、四割が生活保護などの貧困家庭、半分の生徒が就職希望である。新学期早々放課後に個別の進路相談を始める。トップの清水はラクビー部のキャプテンで、就職希望である。ところが彼は「私はラクビーを続けたいので、大学に行きたい。しかし母子家庭で、高校進学が近い妹がいるので、進学希望とは言えなかった」と話す。山本は、すぐにはわからないので、これからも話し合おうと言って終わりにする。

 

 次の阿部は女生徒で、「私はキャバクラ嬢になる」と言い、山本は「ダメだ」と言って事情を聴く。彼女は両親がなく祖父母と暮らしていて彼女は手っ取り早くお金がほしいのである。

 

 この二人が後で大きな役割を果たすようになる。苦境にある若者は、人や社会の真実に触れて本物の教師を見抜くのである。

 

 山本は国語の教師で現代文を教える。まず短歌、俳句を教え、石川啄木と俵万智が生徒たちのヒーローになる。生徒たちにも作らせ、授業の最後の十分間に発表させていく。阿部のこの句が生徒たちと山本の心を打つ。

 

私の心は 青い模造紙

 

   紙飛行機も飛べません

 

生徒たちが、進路相談と授業で、山本に率直に心を打ち明けるのは、なぜだろうか。

 

 生徒はよく教師を見ている。新しい担任がどんな教師なのか、いち早く先輩や友人から情報を仕入れ、悪い教師ではないと、山本に期待していたのだろう。

 

 そして「貧しことは恥ではない」「どんな職業にも上下がない」といった山本の最初の発言が、「この先生は生徒に偏見を持たず、差別をしないという印象を持ったのだろう。

 

 短歌を生徒に作らせ、順々に発表させ、みんなで感想を出し合う中で、山本への信頼と生徒同士の理解が進み、クラスの結束が強まったのである。

 

 こうなると生徒たちは自発的に動き出す。阿部がひどい遅刻をして山本がしかると、他の生徒が、阿部は定期券が買えず毎朝二時間も歩いてくると教えてくれる。

 

清水が生徒を放課後に集めて話し合うので先生も出てほしいと頼みに来る。

 

 この集まりは、クラスの男子十七人を集めて、生徒の司会でフリートーキングするのである。山本の出番は少なく、もっぱら聞き役である。三十分の予定が六十分を超え三回の予定が、毎週木曜日の放課後に行うことによる。阿部や学級委員の細谷ら女生徒も出るようになる。山本の提案でテーマを決めて、他の教師にも出てもらう。会の名前も「自立塾」と生徒が決め、あくまでも生徒が運営していく。クラブで鍛えられたスポーツマンは、夏休み以後は暇になり、体力と指導力を発揮する。なによりも良いことは、一生の進路を決めるという三年生の切実な要求にぴったりしたことである。

 

 山本や他の教師たちにとっても、生徒の本音を聞き、生徒たちを理解し、自分の専門的知識を生かすよい機会になる。

 

 私も長い教員生活の中で、まれにこのような経験をした。「青春の飛翔」「すべての生徒がドラマをもつ」という本まで出すことができた。教師が倦まず弛まず生徒に働きかけ、それが生徒たちの要求と合致した時、生徒たちは自発的に立ち上がり、すごい力を発揮するのである。多くの失敗の後の、教師としての至福の時である。

 

 この作品は、民主文学会の支部誌・同人誌の優秀作に選考委員全員一致で選ばれたという。宜なるかなである。

 

 作品の最後に、阿部と細谷が連れ立って山本を訪ねてくる場面はなんとも清々しい。

 

教え子の成長ほど嬉しいことはないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

216号

 

NHKテレビ小説をめぐって

 

 『カーネーション』      泉  脩

 

 

 

 大正時代、大阪の岸和田で、小原糸子が生まれる。呉服商の長女の彼女は、子供の時から洋服に興味をもつ。女学校を中退し、パッチ屋に勤め、初めてミシンの使い方を覚える。その後、紳士服店、布地店と変わり、二十一歳で小原洋服店を開くことになる。

 

 落ち目の呉服店をやめて、娘に店をゆずる父親の姿が見事に描かれている。この父親と、祖母、母、四人の妹をかかえて、糸子はなんとか洋服店を発展させる。

 

 親のすすめで、紳士服職人を婿にむかえ、三人の娘が生まれる。戦争が始まり、男たちは次々と出征し、戦死していく。糸子の夫も同じ道をたどり、糸子の責任はますます重くなる。

 

 三人の娘は成長するが、何ともにぎやかで、けんかがたえない。そして食糧難と空襲に苦しめられ、洋装も統制によってきびしく制限される。この中で父親も死ぬ。

 

 戦争が終ると、洋装が息を吹きかえし、糸子の大活躍が始まる。三人の娘も洋裁の道に進み、有名なファッションデザイナーになる。

 

 私は洋裁のことはわからないが、おしゃれをし、自分を輝かせたいという女性の気持ちは理解できる。パリを中心に拡がる流行の力もだんだんわかってきた。そして三人の娘にデザイナーとして取り残され、シルバー向け洋裁の道に活路をみつける糸子の苦労と努力もよくわかった。

 

 おとなしい三女に岸和田の店を継がそうとしたが、末娘もまたイギリスに行って、ロンドンに店をもつようになる。それでも八十代になった糸子は店を守り、ついには高級既製服にまで手をのばす。かけつけた三人の娘に支えられて、糸子の新しい門出が盛大に祝福されスタートする。

 

 ドラマは、最晩年の糸子の感動的エピソードを紹介して終る。

 

 家出してきた孫娘を自分の生きざまを見せることでよみがえらせる。自分が通院する大病院で、ファッションショーを行い、患者たちや病院職員をふるいたたせる。そして中年になって禁断の恋をした相手の死を知ってショックを受け、涙を流す。

 

 全体を通じて、小原糸子が、どなり、しかり、説得する岸和田弁がとてもおもしろい。そして勇壮なダンジリを引く岸和田祭が見事である。

 

 

 

 214号

 

 

感動のドキュメント⑥

 

    現実は小説より奇なり

 

                泉  脩

 

 

 

 小説は、作家が虚構(フィクション)を通して、真実を表現するものである。読者はその虚構や物語の書き方のおもしろさを楽しみながら、知らず知らずに真実を学ぶのである。私は高校、大学時代に、主としてヨーロッパの小説を読んで多くのことを学び、自分の生き方を探求した。

 

 ドキュメントは、筆者の実体験や実践が書かれ、これを読んで多くを学ぶのである。現実は小説より奇なり言葉どおり、迫力があり、大きな感動を受ける。人間の生き様ほど、人を変える大きな影響を持つものはない。

 

 これまで取り上げてきた5篇のドキュメントは、私に大きな感動を与えてくれた。どれも私心のない、捨て身の実践であり、繰り返し読んでも感銘を受けた。こんな生き方もあるのかと、目が見開かされる思いだった。

 

 この他にも、いくつかの勝れたドキュメントを簡単に紹介したい。

 

 

 

 田村宣征「海に鳴る序曲」

 

 小樽昭和高校の田村先生の、学級担任としての努力が書かれている。私立の底辺の学校で、荒れる女生徒を、まず集団遊びで惹きつけ、学校行事で結束を強め、立派なクラスを作っていく。

 

 私の尊敬する友人の田村さんの力量が実によくわかる。同じような私立高校の教師だった私にとってはバイブルのような本だった。

 

 

 

 及川一男「村長ありき」

 

 戦後まもなく、岩手県の山村で、新任の村長が取り組んだ改革。まずブルドーザーを後払いで手に入れ、豪雪地帯の道路の除雪をする。次に保健婦を多く採用し、家庭訪問で病気の予防に努める。  

 

この上で、日本で最初に六〇歳以上の医療費無料化を実施し、全国の自治体に大きな影響を与えた。

 

 

 

道下俊一「霧多布人になった医者」

 

 道東の漁村に、短期の医師として派遣された著者が、村人の支持を得て、慣れない外科や産科まで手を出し、ついに住みついてしまう物語。「ルパン三世」を描いた漫画家も、子供の時に患者だった。

 

 

 

 カッパブックス「丸山ワクチン」

 

 日本医大の丸山先生が副作用のない癌治療薬を作り出した話。その使用例や開発のいきさつを書いている。高価で効きめのない制癌剤で巨利を得る学者、製薬会社、そして厚生省の妨害を受け続けている。実に説得力がある本である。

 

 

 

 小澤征爾「ボクの音楽武者修行」

 

 世界の小澤として活躍してきた大指揮者の自伝。二四歳から二年間、ヨーロッパとアメリカを回り、三つの指揮者コンクールに優勝する。この縁で、ミンシュ、カラヤン、バーンシュタインの弟子になる。痛快な冒険物語。

 

 今後とも勝れたドキュメントがたくさん書かれるにちがいない。大いに期待したい。

 

 

 

 

 

 

 212号

 

 寺内タケシ「愛のエレキ ロシアを翔ぶ」

 

                 泉  脩

 

 

 

 感動的で読んで涙が出た。

 

 一九七四年(昭和四九)、日本のエレキギターの元祖、寺内タケシの事務所に、ロシア語の手紙が届い感動のドキュメント④

 

た。シベリアのノボシビルスクの八歳の女の子からのファンレターで、父親からもらった寺内タケシのレコードを聴き、とても好きになったと書いてあった。

 

 やがて父親からも手紙が来て、娘は白血病で助からない。寺内さんにノボシビルスクにきてほしい、と書いてあった。寺内はすぐ決心をし、ロシア側と交渉し、一九七六年に行くことが決まった。

 

 彼が率いるブルージーンズは、メンバー八人で、スタッフが八人だった。山のような電気機器とともに日本海を船で渡り、飛行機でノボシビルスクに飛んだ。

 

 病院に入院中の少女エリーナとの面会は、涙、涙だった。日本中から寄せられた土産が渡された。

 

 ノボシビルスクでの三日間の公園は大成功し、三日目にはエリーナも出席した。第二部の途中で、エリーナから寺内に花束が渡され、二人は得ついしっかり抱き合った。七千人の聴衆は総立ちになり、二〇分も拍手を送った。

 

 ブルージーンズがなぜ来たか、そのために三千万円の借金をしたことを知って感動した。

 

 こうして五十二日間、四十二回の公演が始まった。どこでも野外劇場、競技場が使われ、数万人の人々が集まった。ロシア人は世界一の音楽好きであり、ブルージーンズの演奏には圧倒的な迫力があった。第一部は民謡など日本の曲、第二部は世界の名曲だった。

 

 さまざまなハプニングがおきた。ロシア側の官僚主義がひどく、怒った寺内は「日本に帰る!」と怒鳴った。民衆の圧倒的支持があるので、役人たちも無理押しできなかった。

 

 単調なロシア料理に飽きて、日本から持って来たインスタントラーメンが貴重品になった。オデッサで女子大生がメンバー一人を恋して、どこまでも追ってきた。メンバーとスタッフは二人をかばって、二人の恋を守り通した。このジーナは、帰国のジェット旅客機がモスクワ空港を離陸した時、滑走路まで走り出て追ってきた。

 

 最大の困難は、ミグ25戦闘機の日本への亡命事件だった。日本とロシアの関係が悪化し、ロシア在住の日本人は危険になった。それでもコンサートは続き、どこでも超満員だった。民衆には政治より音楽の方が大切だったのである。最後の公演は首都モスクワで三日間行われた。寺内はある決心をした。一日目の昼と夜の公演の間に、リハーサルと称して、会場にスポーツ宮殿を借りた。そこで在モスクワの日本人三〇〇人を集めて、彼らを励ますミニコンサート開いた。

 

 ブルージーンズの伴奏で、まず母親たちをステージに上げて合唱させた。「赤とんぼ」から始めたが、すすり泣きで途切れがちだった。子どもたちには「たいやきくん」から始めたが、小さな子どもたちが走り回るので学芸会と運動会がごちゃ混ぜになった。父親の合唱は「柔道一代」だが、大の男が号泣し出した。最後の全員合唱は「ふるさと」だったが、歌にならなかった。

 

 ミニコンサートが終ると、寺内は全員に夜の公演のチケットを渡して、必ず来てくれるよう頼んだ。彼は大胆な行動をする決意をしていたのである。

 

 一万八千人の超満員の会場で第一部が終って大いに盛り上がると、寺内はマイクに向かってスピーチを始めた。

 

「今、二つの国の対立が起きています」とミグ25亡命について話し始めると会場は異様に静かになった。寺内はロシアに来た経過を話し「二つの国の対立と私たちの善意の行動とどちらを信じるか、もし私たちを信じる人はピースのサインをして立ち上がってくれ」

 

 すると全員が指をVの字にして立ち上がり歓声を挙げた。日本人は万歳を叫んだ。

 

 この瞬間からモスクワの空気が一変し、残りの公演も大成功し日本人の女性はおにぎりの差し入れに励んだ。そして全員が帰国の途についたのである

 

 寺内タケシは、私の人生でもっとも中味の濃い五〇日間だったと述懐している。

 

 この後、エリーナはロシアの面子をかけた全力の治療で、「愛のエレキ ロシアを翔ぶ」が出版された時も存命していたという。

 

 

 

 

 

 211号

 

 感動のドキュメント③

 

  田村京子「北洋船団 女ドクター航海記」

      「捕鯨船団 女ドクター南氷洋を行く」

 

泉  脩

 

 

 

 この二冊は、実に痛快なドキュメントである。一九八三年に北氷洋のサケ・マス船団に、一九八四年には南氷洋の捕鯨船団に、女一人で乗り込む話である。どちらも五〇年来の操業の歴史で、初めてのことだった。

 

 田村京子は東邦大学麻酔科の四〇代の医師で、男たちが尻込みする中で、ただ一人の船医になることを承諾したのである。会社側は女医と聞いて、反対が続出したため、他に男性医師を探したが見つからない。船医がいなければ出航できず、やむなく彼女を乗せることにしたのである。

 

 最初は彼女も船酔いが心配で、病人を看る前に自分が病人になるのではないかと考えた。ところが、どんなに海が荒れても船酔いしないことがわかった。持ち前の行動力と好奇心から、彼女は乗り組んだ母船の中を歩き廻り、船底の機関室まで行った。船員たちとだれかれなしに話し合い、すぐ仲良しになった。高級船員扱いなので、船長ら幹部と毎日会食し、すぐ友達になった。大切な漁業会議まで顔を出し、あれこれと口を出してあきれさせた。

 

 船団は母船と十数艘の小型船からなり、サケ・マスの船団では独航船、捕鯨船団ではキャッチャーボートと呼んだ。乗組員は全部で千人をこえた。船医は全員の健康維持に責任を持ち、中年以上が多いので持病持ちが多かった。

 

 彼女は医師として優れていて、どんな病気も治療した。最新の麻酔機器を積み込んだので、手術までおこなった。機会に手をいれて怪我をした船員も何とか手術した。次の日、彼女に付き添われて船上を散歩する船員の姿を見て、みんなびっくりしたという。虫歯の抜歯までした。思い切って抜くと、「ギャッ」と叫んだが、抜いた歯を喜んで仲間に見せて歩いたそうである。

 

 独航船で病人が出ると、無線室まで行って、直接病状を聴き取り、備え付けの薬の服用を指示した。ズーズー弁の船員が多く、おかしな会話になり、他の船の無線にも入っておもしろがられたという。こんなことは初めてのことだったので、彼女の評判はとても良くなった。

 

 彼女は物怖じせず、おしゃべりでだれかれなく話し合った。船内のリクレーションには全て参加し、特に大荒れの日に卓球をするのをおもしろがった。ピンポン玉が空中で漂ったり、あらぬ方向に流れるのである。

 

 子供の時、床屋で育ったので、鋏や櫛をおもちゃにして遊んだという。彼女は船員たちの髪を切り、長髪の幹部を追い廻して短髪にしてしまった。帰国したら女房に怒られるとぼやいていた。

 

 このようにして、彼女はドクターとして尊敬され、人柄と唯一の女性として、全船団のアイドルになった。誕生日には、長い心のこもった祝電が集中し、帰国が近づくと、お別れと感謝の電報がつづいた。彼女は涙を流して感激し、生まれてから最初で最後のモテ方だと書いている。

 

 長い航海と激しい労働の日々で、彼女は荒くれた男たちの中の女神のような存在になったのである。こんなに楽しい航海は初めてだと船員たちから電報で言われ、彼女の方も、毎日ご馳走を食べ、モテモテで過ごし、またとない日々を送ったのである。

 

 かつての「蟹工船」の悲惨さと違った、実に明るくおもしろい航海記だった。ドキュメントの良さを充分味わった思いだった。

 

 今は、捕鯨船団はなくなり、サケ・マス漁は制限が厳しくなっている。

 

 

 

 

 

 

 210号

 

 感動のドキュメント②

 

 高杉良「祖国へ、熱きこころを」

 

                 泉  脩

 

 

 

 主人公和田勇は、在米日系人二世で、大戦後ロスアンジェルスでスーパーマーケットをつくり成功した人物である。大戦中は、敵性人として辛酸をなめ、戦後にやっと盛り返した実業家である。

 

 一九四九年(昭和二四)、ロスアンジェルスで行われる全米水泳選手権大会に、日本男子水泳選手団も出場することになった。和田夫妻は、自宅を宿舎に提供し、すべて私費で選手たちの世話をした。まだ小さい和田夫妻の子どもたちが、選手たちと遊び、またとないリラックスできる時間になったという。

 

 体力と精神が充実した選手たちは、大会で次々と自由形を中心に世界記録を出し、アメリカ中を驚かせた。ロスアンジェルスでは、一夜にして「ジャップ」から「ジャパニーズ」に変り、日系人は肩身の狭い思いから解放されたという。

 

 このニュースは日本でも報道され、日本中を沸き立たせた。敗戦で沈んでいた日本人が勇気と希望を持ったのである。

 

 この頃中学生だった私も、毎日ラジオや新聞が流す日本選手団の活躍に胸を躍らせ、中心になった古橋・橋爪の二人を心から尊敬した。アメリカへのコンプレックスが少し薄れてきたのである。

 

 和田勇が次に取り組んだのは、一九六四年(昭和三九)の東京オリンピックである。戦争で日本でのオリンピック開催が流れているので、敗戦国となった日本でのオリンピックは難しくなっていた。和田は愛する祖国の人々を盛り上げるために、東京オリンピックの開催を考えたのである。

 

 和田夫妻は、私費で中南米諸国を廻り、現地の日系人に支持を訴えた。どこでも熱烈な賛同を得て、協力して各国のオリンピック委員に働きかけた。貧しい国が多く、オリンピック委員のオリンピック総会への出席がままならないと知ると、現地日系人はお金を出し合って旅費をまかなったという。

 

 こうして東京オリンピックが決定され、和田たちの隠れた努力が実ったのである。大戦後の日本の復興の一つのピークである東京オリンピックは成功し、日本人は自信を持つようになった。

 

 高杉良は優れた日本人の業績を明らかにして、次々と伝記的小説を書いた。全て事実に基づいているので、ドキュメントと言ってよかった。

 

 日本興業銀行頭取中山素平、東洋水産創立者森和夫、昭和重工業技師垣下怜、そして和田勇である。いずれも私心を持たず、将来を見通して、大きな仕事をした人物である。和田勇については、「現代日本人の恩人」とまで書いている。和田勇にとっては、二つに祖国、日本とアメリカの友好こそ、在米日系人七〇万人の未来がかかっていると考えたのだろう。そして日本人が失いかけている祖国愛を、より純粋に持っていたのだろう。

 

 高杉良は、城山三郎が「小説日本銀行」「毎日が日曜日」などで作り出した経済小説を受け継ぎ、高度成長期後半からバブル崩壊後の不況期の企業の内幕を小説化してきた。その中で老醜をさらして権力にしがみつく政財界人、経済ゴロ、やくざ、右翼などを徹底して批判した。そして企業再生のために奮闘するサラリーマンを励ましている。彼は「私はサラリーマンの応援歌」を書くと言っている。

 

 高杉良の書いた「金融腐蝕列島」「呪縛」「再生」の銀行三部作は、山崎豊子の「沈まぬ太陽」と共に、二〇世紀末の二大傑作考えている。

 

 

 

 

 

 209号

 

  感動のドキュメント➀

 

 杉原幸子「六千人の命のビザ」 --人の日本人外交官がユダヤ人の命を救った―

 

        泉  脩

 

 

 

 この本を読んだ時、私は感動してとてもうれしかった。あのアジア・太平洋戦争の時、日本は悪事の限りをつくし、無数の人々の命を奪った。合計二千万人あまり、さらに日本人も三百万人以上が亡くなった。

 

 この中で、日本と日本人の名誉を救った人もいたのである。外交官の杉浦千畝(ちうね)さんである。ヨーロッパ各国の大使館員を務め、一九三九年(昭和一四年)の末に、フィンランドからリトアニアに領事として転勤した。バルト三国の一つで、当時の首都はカウナスだった。

 

 この年の九月、ナチスドイツはポーランドを侵略し、第二次世界大戦が始まった。八月に結ばれたばかりの独ソ不可侵条約の秘密条項により、ドイツ軍はポーランドの西半分を占領し、ソ連軍も侵略して東半分を占領した。翌年春にソ連はバルト三国も併合した。

 

 リトアニア領事の杉原千畝は、このような成り行きを本国に報告するのが任務でした。一九四〇年(昭和十五)七月末、日本領事館に多くのユダヤ人が押しかけました。ポーランドのドイツ占領地から逃げてきた人々で、ソ連を通って日本に行く通行許可証(ビザ)の発行を求めたのです。

 

 その数は日に日に増し、代表が杉原千畝に面会して、必死に嘆願しました。彼が本国に問い合わせると、拒否の回答でした。

 

 幸子夫人の文章によると、「私を頼ってくる人を見捨てることはできない。でなければ私は神に背く」と言い、杉原千畝はビザ発行を決意し、婦人も同意しました。夫妻はクリスチャンで、神の声として人道にかなう道を選んだのです。

 

 領事館は総出で、日夜を分かたずビザ発行を続けました。杉原千畝の手が腫れあがって食事も十分にとれなかったそうです。一か月後に外務省から引き上げの命令が来るまで、杉原一家が乗った列車が出発するまで、ビザ発行が続けられました。

 

 こうして約六千人のユダヤ人がソ連を通過して日本に向かい、さらにアメリカに渡りました。この頃、日本はソ連と中立条約を結び、アメリカともまだ戦っていませんでした。だからこのルートだけが救いの道だったのです。

 

 まもなくドイツはソ連に全面的に侵略を始め、一九四一年(昭和十六)の十二月には、日本が米英に宣戦布告をしました。世界中に広がった戦乱の中、杉原一家はルーマニアなど東ヨーロッパで過ごし、ドイツ敗北とともに連合国に捕えられました。

 

 終戦後、やっと日本に帰った杉原千畝は、外務次官から解雇を申し渡されました。「リトアニア事件」の責任を取らされたのです。戦争が終り、むしろ人道にかなった外交官として表彰されても良かったのに。

 

 杉原千畝は、家族の生活を守るために、語学力を生かして貿易商になりました。

 

 彼に命を救われたユダヤ人たちは、彼の所在を探しましたが、日本の外務省の協力が得られませんでした。やっとビザ発行から二十八年後に、最初の再会が実現しました。この後多くの人に会い、イスラエルから勲章をもらい、顕彰碑が建てられ、博物館、記念館に彼に係る品物(ビザなど)が飾られました。

 

 しかし一九八四年に彼が亡くなるまで、日本外務省は彼の名誉を回復しませんでした。政府は侵略戦争の責任を認めず、彼は国に背いた外交官なのです。戦争に反対し殺され、迫害された人々と共に、いつの日にか、名誉が回復されなければなりません。

 

 

 

207号

  心に残る大衆小説⑩(完)

 

      渡辺淳一「阿寒に果つ」

 

               泉  脩

 

 

 

 中年の作家が、自分が生まれ育った札幌に来て作品の取材を始める。高校時代のクラスメートで初恋の人、時任純子の男友達を次々と訪ねたのである。男たちは渋々と会い、重い口ぶりで語った。

 

 画家たち、新聞記者、医師……であり、だれもあまり精彩がなかった。特に画家は、二〇年前、天才女流画家とされた時任純子は、男たちにもてはやされ、恋の相手になった。芸術家ということで自由奔放な生き方が許されたのだろう。

 

 その結果、彼女の絵は荒れ、相手の男たちも生気を失ってしまった。当時、高校で彼女を恋した主人公は、放課後、図書館でのデートを楽しんでいた。修学旅行では、東京の自由行動でそれぞれのグループを抜け出し、二人で会ってホテルに入ったが、うぶな彼は何もできなかった。

 

 このころから彼女は変り始め、絵よりも文学に興味を持ち、東大出と称する若い医師と付き合うようになった。彼は釧路で診療所の医師になるが、まもなくニセ医者として逮捕される。同行していた彼女は、彼に面会後、阿寒湖畔で自殺してしまった。

 

「阿寒に果つ」はこのような内容だが、作者の渡辺淳一の生々しい体験記である。札幌南高校を卒業する寸前に恋人に自殺され、それでも北大に入学し、札幌医大を卒業して医師になる。

 

 彼は、整形外科の講師にまでなるが、かたわら文学修業に励み、「小説―心臓移植」を発表して評判になった。同じ札幌医大の和田教授が、日本初の心臓移植に失敗した話である。批判を許さない強引な和田教授を、いわば内部告発したのである。

 

 渡辺淳一は大学を追われ、プロ作家の道に進んで成功する。

 

 そして彼は、かつての恋人、加清純子の自殺を明らかにするため、「阿寒に果つ」を書いたのである。札幌南高の木造の旧校舎をそっくり再現し、教師たちも実名または本当の仇名で登場する。作者はこの作品で、自分の青春時代を埋葬し、恋人をもてあそんだ連中に復讐したのかもしれない。

 

 この小説は、私にとって実に身近で恐ろしい作品である。私は作者の一年後輩で、加清純子と同じ美術部に入っていた。もちろん渡辺淳一は知らないし、上級生の加清順子は雲の上の存在だった。もともと女性に臆病な私は彼女と一度も話をした憶えがない。

 

 私は二年の中頃から、進学の悩みから勉強が手につかず、絵を描かなくなった。そして、加清さん(当時はこう呼んでいた)と同じに文学にのめり込むようになった。はからずも、同じ生徒会誌や同人誌に、二人の文章が載るようになった。

 

 加清さんの自殺は、私にとっても衝撃だった。彼女は絵が濁ってきて、自身も妖艶な美しさに加えて孤独の影が深くなっていた。だから、ある程度は思い当たることもあったといえる。

 

 私も北大に入学し、文学部の史学科を出て高校の教師になった。文学は評論の道に進んだ。到底、プロになるどころではなかった。

 

 おもしろいことに渡辺淳一とは縁があるらしく、年上の従兄が彼の高校のクラスメートで、かなり親しかったらしい。年下の従兄が彼の札医大時代の友人になり、同じ整形外科の医師になった。だから私は、この二人の従兄から作家の裏話を聞くことができたのである。

 

 私は、この先輩の小説では、医師物以外は好きでない。加清純子の自殺から、女性不信、人間不信になったのではないかと推測している。クールなニヒリズムと私は名付けている。

 

 さらに不思議なことに、加清純子の兄が、私が三十五年勤めた私立高校の理事・理事長になっている。退職近くから言葉を交わすようになったが、なかなかの人物であり文章が見事だった。