226号

 

 

女性の嫉妬の犠牲となった佳人夕顔

 

              生駒多津子

 

 

 

夕顔は光源氏の愛した女性の一人で、しかも相手の身分も判らず行きずりの恋のような

愛し方で、僅かな交際のあと、同じ褥の中で妖怪に襲われ劇的な死に方をしました。

 

 光源氏の恋の相手となる他の数々の女性と異なり、静かで控えめな性格上、慣れ親しむ

 

期間が短かった点が、逆に源氏には終生忘れえぬ女性となりました。

 

 彼女は光源氏と会い知るまえ、光源氏の正妻の兄、頭中将の愛人となり、一人の子を生みました。

 

 「玉鬘」の主人公「玉鬘」です。玉鬘は母と別れて九州で生育死、夕顔はなにかの事情からいつの間にか居なくなり、頭中将は方々探したが見つかりません。

 

 彼女は頭中将と別れてから、五条あたりの下町で侍女とひっそりと住んでいたようです。

 

 その家の隣が、源氏の従者・惟光の実家で、惟光の母は源氏の乳母でしたが、そのときは尼になっています。

 

 この尼が重病だと聞いて、源氏は惟光の案内でお見舞いに出かけ、その家の前で待っているあいだ、ふと隣の家をみると、垣根に白い花が、夕暮れに笑っているように咲いていました。

 

何の花かと尋ねると、従者が、夕顔と言い、人間のような名であるが、こうした卑しい家の垣根に咲くものだと答えます。

 

花を折りにやらせると、中から童女が出てきて、香を薫きしめた白い扇に夕顔の花を載せて源氏に捧げました。

 

尼を見舞ったあと、扇をよく見ると一首の歌が上品に書かれていました。

 

 

 

心あてにそれかとぞ見る白露の

 

                             光添えたる夕顔の花

 

 

 

源氏は、

 

 

 

寄りてこそ其れかとも三メ黄昏に

 

   ほのぼのと見つる花の夕顔

 

 

 

と返歌しました。

 

これが新しい源氏と夕顔の出会いです。その後、惟光の手引きで夕顔に逢い、以後忘れられない女人となります。

 

(「源氏物語」夕顔の巻)              謡曲「夕顔」の物語はこのあたりから始まります。型のごとく旅の僧(ワキ)が現れ、豊後の国より都見物に来た僧で、今日は雲林院賀茂神社を訪ね、さらに在原業平が

 

 

 

月やあらぬ春や昔の春ならぬ

 

   我が身一つはもとの身にして

 

 

 

と詠んだ恋物語の場所である五条のあたりにやってくると、貧しげなる家の内から、

 

 

 

山の端の心も知らで行く月は

 

   上の空にて影やる色えなん

 

 

 

と夕顔が河原の院で詠じた和歌を朗詠する女人(前シテ)の声がします。

 

そしてここから昔,融の大臣が生まれた河原の院の跡で、その後、源氏の君と夕顔がかりそめの逢瀬の場所としたところとを謡います。僧は、私は夕顔の娘玉鬘の塚のあるところだから、夕顔の露と消えた拾いし時のことを詳しく語ってほしいといいます。

 

当時、光源氏六条の御息所と深い仲でしたが、六条へ行く途中の五条あたりで、前述のように偶然の機会から夕顔を知り、忘れられない仲となりました。これが嫉妬深い六条の御息所の怒りをかいました。

 

ある日、二人が今は廃屋に等しい河原の院で過ごした夜,灯火が消えたと思う間もなく、六条御息所の嫉妬が鬼の姿と変じ、あっという間に夕顔はこの世人でなくなってしまったと語り、女は消え失せます。

 

ここで侍謡となり、僧たちは、夜すがら法華経を唱えていると、夕顔の壷(後シテ)が現れ「見給えここも自ら気疎き秋の野良となりて池は水草に埋もれて古りたる松の影暗くまた泣き騒ぐ鳥の泣き声身に染み渡る折から」と事故のあった院のものすごい景色を再現して見せ、御僧の弔いを受けて成仏できたことを喜び、暁暗の空にまぎれ、消え失せまた。

 

夕顔が源氏の君と最後の夜を過ごした河原の院跡は、現在の五条通りより下一帯と考えられてり、五条大橋の南西高瀬川を下った所に河原の院跡の碑があり、この辺一帯が昔の河原の院の垣根に囲われた庭にあたります。

 

また、現在の東本願寺別邸となっていまの枳穀邸も河原の院の一部だったようで邸内の池に源融供養塔が建てられています。

 

 

 

 

 

 221号

 

 

錦木(にしきぎ)伝説

 

              生駒多津子

 

 

 

 秋田県鹿角市錦木地区は昔、狭布の里と呼ばれ、幅のせまい特殊な麻布の産地として知られた。狭布は音読みすれば「ケフ(きょう)」、訓読みすれば「せばぬの」。それで京の貴人は「けふのせばぬの」といい珍重したといわれます。布がせまいため胸に合わずということで、失恋を意味し、歌枕として中世の歌人が好んで使ったともいいます。

 

 また恋文の代わりに、愛する女性の門に求婚のしるしに、美しい布で包んだ錦木を立てる風習があり、この錦木にまつわる恋物語りの伝説があります。

 

 むかしむかし狭布の里の郡司狭名の大海に政子姫という美しい姫がいて、狭布の細布を織ることが巧みでした。

 

 一方、草木(鹿角市草木)という所に錦木売りの青年がいて、垣間見た政子姫の美しい姿に心を奪われ、毎日毎日政子姫の門前に錦木を立てました。

 

 当時は女の門前に錦木を立て、中にとりこまれると、男の気持ちを受け入れたとする風習がありました。女にその気持ちがなくとも、千本の錦木を立てられたら、男に気持ちを受け入れるしきたりでもありました。

 

 若者は雨の日も風の日も雪の降る日も欠かさず錦木を運んだのです。

 

 姫も何時か憎からず思う様になったのですが、姫には若者の心を受け入れられない事情があり、あと一日で千本という日、若者は力つきて門前の降り積もった雪の中で帰らぬ人となりました。

 

姫もそれから二、三日後、若者の後を追うかのごとくこの世を去りました。

 

父の大海は二人を哀れに思い、千本の錦木とともに一つの墓に夫婦として葬りました。

 

今も若者が草木村から通った径は、若者の熱がこもり、霜も降りないといいます。

 

平安の歌人は、この哀話には感動を覚え数々の歌を残し、狭布の里は、「けふのほそ布」「錦木」の二つの歌枕の里として都の歌人達に知られるようになりなりました。

 

 

 

錦木はたてながらこそ朽ちにけれ

 

   狭布の細布胸あはじとや

 

             能因法師

 

 

 

思ひかね今日たちかへる錦木の

 

   千束にたらであふよしもがな

 

             近江匡房

 

 

 

錦木の千束の数に今日みちて

 

   けふの細布胸やあふべき

 

             藤原俊成

 

 

 

 後の室町の初期、世阿弥(観世元清)は、このみちのくの歌枕を本に謡曲錦木を作りました。

 

 錦木と一緒に二人を葬った錦木塚はJR花輪線十和田南駅のすぐ近くにあります。

 

 生い茂った木立のなかの僅かばかりの盛り上がった草むらに、菅江真澄という人が犬の放せる如き、と表現した、二メートルぐらいの大きさの黄褐色の自然石があり、傍らに「錦木冢」と刻まれた標識が立てられ、そばに二世のいちょうが大木になっていました。

 

 錦木は、うちわかえで、まゆみ、ぬるで、かばざくら、にがき、この五種類の木の枝を三尺あまりにして束ねたもので、仲人木といったとしています。

 

 錦木センターの前庭に錦木の材料とされる五種の木が植えられ、どの木も美しく紅葉し始めていました。私もしばし未だ見ぬ錦木に思いをはせました。

 

 江戸時代後期の国学者、紀行家で晩年は秋田藩領内に住み鹿角には三度も足を運んだ菅江真澄(一七五八~一八二九)の著書「けふのせばぬの」に図入りで錦木のことを紹介しています。

 

 「狭布の細布」にも色々な説があり、巾六寸(十六㎝)長さ二丈六尺(七・八m)の麻布で、一般には使用されることなく、主として武士や公家の鳥帽子、神主の冠としてウルシで固めて使用されました。未婚の女子が精進潔斎して仕事にかかり、用をたした時は不浄として作業を中断したといいます。鳥の羽などとともに織った防寒用の布で毛布(けふ)というものもあります。資料室には雀の毛と混織した布でアイヌの衣類も飾られていました。

 

 鹿角郡毛馬内の俳人馬淵○○という人が詩歌集『錦木州集』を編んでいます。寛政から文化年代(一七八九~一八一七)の僅か二十年の間に訪れた文化人の漢詩、和歌、俳句あわせて二一〇首が収められていました。

 

 秋の日は早く暮れて急ぎ足で錦木冢をあとにしました。

 

 

 

 217号

 

 

 西美濃の史跡を訪ねて

 

              生駒多津子

 

 

 

京都を発ち、大垣よりだれも乗っていない支線のローカル線に揺られ、遠くに思えた美濃赤坂で下車。

 

濃尾平野の西麓に抱かれた静かな境内は、昔を偲ばせる苔むす長い石段が雨に打たれていました。緩舒な大地に咲く白梅が雨に煙って、心打つ一幅の絵になっていました。

 

石柱に西美濃三十三観音霊場之三十二番札所。天台宗篠尾山円光寺と刻む。本尊は木像聖観世音菩薩、桧材一木造り、像高四尺五寸(一四〇センチ)、別名石上観音とも申しますそうで、天正二年(一五七四)織田信長の兵火にあって悉く焼失した際、観音像だけは遙か彼方の谷間に南を逃れたという不思議なお話がございます。国指定重要文化財、「今様」歌謡集の『梁塵秘抄』に出てくる「乙前」の縁故地であります。「今様」は七五調四句です。

 

一方、朝長は鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄で、「郷土資料」によれば、平治の乱に敗れた父義朝は、十二月二十八日、激しい吹雪の中、都を離れて美濃国に落ち延びました。

 

その時、義朝に従ったのは長男の義平、次男の朝長、家臣の佐藤重成・平賀義宜・鎌田正清・金正丸(後の土佐坊昌俊)のわずか六名でした。

 

この他に頼朝と義経兄弟も父義朝に従っていたのですが、猛吹雪のため幼い二人は関ヶ原ではぐれてしまい、それが幸いして、後に殿上人となりました。

 

義朝一行が笹尾ヶ原に逃れてきたのは、源氏の有力な家臣、大炊氏を頼ったもので、その娘「延寿」が義朝の寵愛をうけ、二人の間には夜叉御前という十歳の娘がいました。朝長は平家の放った矢に深手を負い、辛うじて青墓までたどり着いたのですが身動きができない状態でした。そこで父義朝は、平家に討たれるよりはと、涙ながらにわが子を殺して当地に葬ったということでした。ときに、享年十六歳、法名は「中宮院殿良円太居子」と号しました。当時の円興寺住職が手厚く葬り、その法座には嵯峨野清凉寺の僧も随供していたとも伝えられ、お墓は麓寺より一、五キロほど離れた山腹に寂然と三基ならんで建っていました。その横に朝長を慕って殉死した三名の家臣が眠っています。

 

青墓の由来について、平家の追討を恐れた円興寺の和尚が朝長の携えていた薄緑の太刀と、凛々しい若武者を青竹に見立てて墓所の印としたのが地名に転じたのではと、推測の域を出ないのですが、あながち牽強付会でもないと思いました。

 

 

 

たつねはや いづれの苔の 下ならむ

 

  名は大かたの青墓の里    

 

鴨長明 

 

 

 

翌朝、義朝は青墓を脱出、養老を経て柴舟に身をひそめ尾張国の知多半島に逃れて、家臣、鎌田正清のもとを頼りましたが、舅にあたる長田忠致の裏切りにあって入浴中に暗殺されました。享年三十八歳、野間大坊にお墓があります。

 

 後年、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、兄朝長のため山頂に七堂伽藍を建立、寺領五千石を付して円興寺を庇護したとのことです。

 

 然るに天正年間の兵火により焼失、万治元年(一六五八)、麓に堂宇を移して再建しましたが、旧観までには成らず現在に至ります。

 

 境内に建つ松尾芭蕉の句碑に、

 

   苔埋む蔦のうつつの念仏かな

 

 と刻まれています。

 

 この他に、梁塵秘抄の一節を刻む石碑がありました。

 

 取材を終えて一時間半、長い待ち時間をあちらこちら眺めながら、ゆっくりと現在に戻り、旅を終えました。

 

 

 

朝長の菩提とむらう白梅の

 

  雨は無念の父の涙か   

 

(生駒詠)

 

 

 

210号

 

謡曲の世界へのご案内(三回目・最終回)

 

              生駒  多津子

 

 

 

  

 

 謡曲(ようきょく)とは「能」の詞章(ことば・文章)のことであり、演劇における脚本に相当するものです。本来、「謡(うたい)」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになりました。

 

 これから述べる三つの謡曲(物語)は当時(平安時代)の女性の愛情や怨念等を描いたもので、わたくしの実生活の中での史跡学習で得たものです。謡曲の世界の一面をうかがい知ることが出来ればとご紹介いたします。

 

(この「序」の前置きは初回と前号の再録))

 

 

 

 

 

  通小町(かよいこまち)

 

 

 

 昔から美人の代名詞とされた小野小町は、九世紀平安初期の歌人、六歌仙並びに三十六歌仙の一人で、後世に残る歌も多く、古今和歌集にも十八首採られているにもかかわらずその生涯については不明の点が多い。

 

 反面非常に沢山の伝説に彩られる女性であり、絶世の美女なるがゆえに、慕い言い寄る男が沢山あったはずだし、沢山の恋の歌も作っています。同時代の有名歌人在原業平・文屋康秀・僧偏昭等とも贈答歌残していますが、誰かと結ばれた形跡は全くありません。色好みだけれど最後には男を冷たく突き離すのが、小野小町の得意芸だったようです。

 

 そういうことから後世、江戸川柳に性的欠陥のある女性のごとき風刺をされるようになったと言われます。謡曲「通い小町」もまた深草の少将の百夜通いの激烈凄惨な女性として描かれています。

 

 

 

 まず、ワキの僧が登場する。八瀬の山里で夏安居を続ける僧ですが、美しい女性が毎日木の実や柴を持って来てくれるが、今日も来るようだったら、どういう人かと尋ねてみようと述べます。続いて噂の女性ツレが現れ、拾ってきた木の実の説明をしたあと、わたしの名は小野小町と言いかけて言葉を濁し、薄生いたる市原野に住む女であるといい、かき消す様に姿を消してしまいます。僧は不思議に思いましたが、

 

 

 

 秋風の吹くにつけてもあなめあなめ

 

 小野とは言わじ薄生いけり

 

 

 

 上の句は小野小町の髑髏(どくろ)が詠じ、下の句は在原業平が作ったという古歌を思い出し、女が小野小町の化身と推察し、市原野に行き小野の霊を弔います。夜更けに美しく装った小野の霊と深草の少将の霊が揃ってあらわれます。

 

 

 

 小野 有難いお僧のお弔い、どうか戒を授け成仏させてください。

 

 少将 いやだ小野の戒を授け給うなら、私はうらむ。はや帰り給え、お僧。

 

 小野 たまたまこのような得難い機会を逃しては、又もや苦患を見るではないか。

 

 少将 御身一人成仏すれば、残された私はなお一層憂き目を見るだけ。はや帰り給えお僧達。

 

 僧  如何に迷うとも戒力にひかれて成仏できる。どうか二人そろって戒を受け給え。

 

 小町 人は知らず、私はお僧の弔いを受けたい、と薄を押し分けて行こうとする。少将も穂かげから現れ、今は煩悩の犬となって打たれようとも話すまいと、小町の袂をとって引きとめる。引くも引かれるも共に涙。

 

 僧  さては小野小町四位少将のお二人か。とてもの事に百夜通いの状況を再現して見せよ。

 

 小町 わたしは何も知らなかった。少将にそんな迷い、苦しみがあったとは。

 

 少将 百夜通えと偽られ、嘘とも知らず忍び車で通ったが。

 

車では人目につく。姿を変えよという。

 

木幡の里には馬はあれども、君を思えば徒(あだ)裸足。笠に蓑。竹の杖の哀れな姿。雪の日は袖打ち払い。雨の夜は鬼一口に食われそうな恐ろしさ、雨は降らずともわが身一人は泪の雨、月夜彼女は月を待っても私を待ってくれない。

 

 

 

 かくして九十九夜通い最後の夜になりました。少将は風折鳥帽子、花摺衣(すりぎぬ)の色重ね、裹紫の藤袴、紅の狩衣、衣紋けだかく装い、今夜こそはといそいそと出かけます。しかし訪ねる恋しき人はいずことも知らず身を隠してしまっていました。哀れ少将は小町の門前で精根尽きて息絶えました。手には九十九個の榧(かや)の実を握ったまま息絶えていました。

 

 謡曲ではこの後唐突ですが、急転直下二人とも成仏して一曲が終ります。この曲の前場は八瀬の里、後場は市原野で、市原野は蔵馬街道の上賀茂神社と鞍馬寺の中程にある集落で、薄おいたる風情はもうないのですが、ここに小町寺があり、小町と少将の墓があります。

 

 小町の方は立派ですが、少将の方はとても小さい。小町は華やかな宮廷生活の後、落籍して一時近江の関寺あたりに隠棲し、最後にこの市原野の小町に来て亡くなったといいます。したがって、百夜通いの場は伏見深草です。深草小野の里に随心院という門跡寺院があります。絶世の美女小町の縁につながる上品で静かで、見所の多い何度も訪ねたくなる様なお寺です。このあたりが小町の若き日の居住跡といわれ、小町化粧に井、小町文塚の遺跡もあります。浅草の少将は毎夜この小町里の小町屋敷を訪れ、入れてもらえず、榧の実を一つずつ置いて帰りました。小町はその実に穴をあけて糸を通して数を数えていました。満願の夜少将は手に榧の実を握ったまま小町の門前で力尽きて息絶えていたのです。

 

 

 

 榧の実に愛を託した少将の

 

       想い悲しや深草の里

 

 

 

 小町は後に実を小町の里に撒き、九十九本の榧の木が成長しましたが、現在一本が残って大木になっています。

 

 深草の少将の邸宅は、地図の上では直線距離で小野の里から約七キロ西方京阪電車墨染駅近くの欣浄寺だといいます。野越え山越え百夜通いはさぞかし大変だったことと胸が痛みました。

 

 欣浄寺には深草の少将の墓、清涼院蓮光浄輝大居士、とありました。並んで小町のお墓もあり、随心院にはありません。小町姿見の池もあり、小町も少将の屋敷を訪ねたことになるとしますと、小町と少将は相愛の仲だったかも知れず、そう考えれば少将の悲恋も少しは救われる想いがします。

 

 夕暮れの随心院のお庭に小さな背の低いりんどうの花が、一面に咲いて風に揺られていました。

 

 

 209号 

謡曲の世界へのご案内(つづき)

 

             生駒 多津子

 

 

 

  

 

 謡曲(ようきょく)とは「能」の詞章(ことば・文章)のことであり、演劇における脚本に相当するものです。本来、「謡(うたい)」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになりました。

 

 これから述べる三つの謡曲(物語)は当時(平安時代)の女性の愛情や怨念等を描いたもので、わたくしの実生活の中での史跡学習で得たものです。謡曲の世界の一面をうかがい知ることが出来ればとご紹介いたします。

 

(この「序」の前置きは前号の再録))

 

 

 

 

 

 女郎花(おみなめし)

 

 女郎花は現在の言葉では「おみなえし」と振り仮名するのが一般的と思われますが、謡曲「女郎花」では「おみなめし」と振り仮名されます。それは男の変心を恨んだ女が川へ身を投げて死に、男は不憫に思い、をみな(女)の召した着物を土中に埋めたところ、そこから女郎花が咲いたので、女郎花を「おみなめし」と発音するというのです。

 

万葉の昔は「おみなへし」と発音されました。「万葉集」では「をみな」は美女を意味する言葉で「へし」には脇におしやるとか力を失わせるという意味があり、この花の美しさは美女もまけるということから「をみなへし」と名付けられたそうです。

 

女郎花は古来万葉集を始め数多くの歌人により、その美しさを詠まれていて、男山の女郎花は悲恋の伝説から、特に歌の名所として知られていました。

 

 曲の概要は、まず旅の僧「ワキ」の名乗りから始まり、九州松浦潟より出た僧が都見物を思い立ち、旅の末山崎に着き、これから石清水八幡宮に参ろうと述べ、折しも付近一帯に咲き乱れている女郎花を観賞、家の土産にと手折ろうとします。するとそこへ「シテ」の老人が現れ、男山の女郎花という名のある花を折るとは心ない旅人と叱る。

 

 僧はこれほど咲き乱れているのに、何故惜しむのかと反問します。老人は、惜しむのではない、私はこの野辺の花守である、例え出家の身であろうと、仏に進ぜるためであろうと、この花を折るのは誤りと、古歌を引用して反論します。僧は致し方ないと、もと来た道を帰ろうとします。老人はひき止めて一本だけ折らせてあげようと言い、風流心を賞でて八幡宮に案内します。

 

 二人は8月一五日の月に映し出される男山の景色を賞でながら八幡宮に詣でます。

 

 日も暮れかけたので老人が帰ろうとすると、僧は男山の女郎花について質問します。老人は男山の麓にある男塚・女塚に案内し、女塚は都の人、男塚はこの男や間に住む小野頼風の墓であると告げ、自分がその頼風であることを仄めかして月の木陰に消え去ります。

 

 待謡となり、僧は終夜二人の霊を弔うため読経していると、後シテ頼風とその妻後ツレ二人の霊が連れ立って現れ過去の経緯を交々に語ります。

 

 

 

 妻・私は都の女、頼風と深く契ったのに。

 

 夫・しばらく訪れなかったので捨てられたと勘違いし。

 

 妻・女心の儚さ、思いつめて放生川に身を投げる。

 

 夫・騒ぎを聞きつけ行ってみると妻ははや

 

   死骸となっていた。

 

  ・泣く泣く死骸を男山の麓に埋め。

 

 夫・その塚より女郎花が一本生い出でた。さては女郎花になったかと、傍へ寄ろうとすると逃げる。

 

   立ち退くともとのところへ戻る。

 

これを見て頼風は、妻の死は自分の責任と同じ川に身を投げ、男山の麓、男塚に葬られる。

 

 

 

今なお邪淫の罪のため剣の山の地獄に落とされ、連日連夜責め苦に苛まれている様子を語り、僧に助けを求め成仏を願う、この伝説から八幡山を男山といい、八幡宮も男山八幡宮と呼ばれます。

 

 八幡宮は男山の山頂にあり、行教和尚が宇佐八幡宮に詣で、神に感応して勧請し、貞観元年、八五九年当地に建立されたといわれます。源氏の氏神とされ、八幡づくりといわれる朱色の壮麗な社殿です。現在の建物は徳川家光の時代に造営され神域の周囲は昼なお暗い竹藪に囲まれています。

 

 この竹藪はエジソンが発明したテングステン電球の芯に使われたことで有名だとのこと、現在は麓一帯に住宅が建ち並び、女郎花が咲いた面影はありません。男山の東側に「じばん宗」というお饅頭屋さんの裏の空き地にある五輪塔が頼風塚で、ここに生えている葦は常に恋しい女塚の方ばかり向いているので、かた葉の葦と呼ばれているとか。

 

 女塚は男塚から二、三キロ南の松花堂庭園の中にあり、美しい環境の中で管理されています。松花堂庭園は寛永の頃、男山八幡宮の社僧松花堂昭乗の隠居所のあとで今も広大でよく手入れされた庭に当時の建物が保存されています。彼は、書画・和歌・茶道に秀で、ここで石川丈山・小堀遠州等、当代の文化人墨客と交わり、また懐石料理を器に盛り、弁当とする松花堂弁当は彼の考案によるものといわれています。

 

 頼風が女が身を投げた放生川は男山の東麓を流れ、毎年八月一五日供養のため魚を川に流す神事を、放生会・葵祭の北祭りに対して八幡宮の南祭りといい、昔は京都の人に馴染み深かったといわれています。残念ながら今はあまりきれいではないけれど、岸から眺めますと多数の魚形が見えます。

 

 昔、水が澄んでいた岸辺に、

 

 

 

  石清水清き流れの絶えせねば

 

  宿る月さえくまなかりけり

 

 

 

 能因法師「千載和歌集所載」の歌碑が建てられています。頼風塚案内板には、頼風は泪川に入水したとあります。

 

 土地の人のお話では、昔、泪川という川があったと、また、八幡町の図書館内の古い地図には泪川が記載され、放生川にそそいでいます。

 

 

 

  いかばかり妹背の仲を恨みけん

 

  浮き名流るる泪川かな

(次号につづく)

 

 

 208号

  謡曲の世界へのご案内

 

           生駒 多津子

 

 

 

  

 

 

 

 謡曲(ようきょく)とは「能」の詞章(ことば・文章)のことであり、演劇における脚本に相当するものです。本来、「謡(うたい)」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになりました。

 

 これから述べる三つの謡曲(物語)は当時(平安時代)の女性の愛情や怨念等を描いたもので、わたくしの実生活の中での史跡学習で得たものです。謡曲の世界の一面をうかがい知ることが出来ればとご紹介いたします。

 

 

 

  小督(こごう)

 

 

 

 平家物語の昔、嵯峨野に身を隠した女性は祇王子で有名な祇王、仏御前の他にもう一人、小督の局がいました。彼女もまた愛欲のもつれから身を引いた薄倖の女性です。

 

 彼女は高倉天皇の愛妾でありましたが天皇の中宮徳子が時の権力者、平清盛の娘である上に、平家物語よれば小督が高倉帝に出仕する以前、歌人として有名な冷泉少将藤原隆房の愛人でありました。隆房は小督が出仕してからも彼女を忘れかね、ひそかに歌をおくっていたといいます。この隆房は清盛の娘婿であり、小督はいわば清盛の娘二人の恋敵でそういった関係で清盛に睨まれ、泣く泣く嵯峨野に身を引いたのです。

 

 天皇は愛妾に去られ嘆き悲しむのですが、嵯峨野に隠れ住んでいるらしいとの噂を耳にし、弾正大弼仲国をして彼女を探させました。仲国は御下賜の栗毛の馬にまたがり片折りの賤が屋ということだけを頼りに八月十五日満月の夜、小督の局は、多分、琴を奏でているであろうと彼女の琴の音を求めて嵯峨野へ探しに出かけます。

 

方々訊ね歩きましたが見つからず、法輪寺の近くまで来ると聴き覚えのある琴の音、しかも曲の名は想夫恋、疑いもなく小督の局とさとり、強引に屋敷の中に入り込みます。

 

小督もいったんはこのような賤が家に宣旨とは、間違いでしょうととぼけますが、侍女のとりなしもあり中に入れます。愛する帝の愛情あふれる文に涙するとともに、在りし日の愛の想い出を、漢王のその昔甘泉殿の夜の思い、唐帝の山宮の睦言になぞえられ懐かしみ、仲国の求めに応じ小督は帝への返書をしたため、仲国には酒をすすめ名残を惜しみます。仲国も喜びの舞をまい、ほどなく迎えの車が来るであろうと言い残し、小督に見送られ満月の下、勇んで都へ帰ります。

 

過日仲国が辿った嵯峨野の途を訪ねてみました。仲国が小督の琴の音に気づいたとされる法輪寺近く、大堤川にかかる有名な渡月橋は、当時、法輪寺境内にあり別名法輪寺橋ともいいました。江戸時代から十三詣りのお寺として京都の人に馴染まれ、十三詣りの帰り道、渡月橋を渡るとき渡り切るまでに振り返るとご利益が失われるという言い伝えがありました。

 

仲国が琴の音を聴き、駒を止めた駒止め橋は大悲閣千光寺への路の小川にかけられ、よほど注意しないと見過ごすところでした。また琴の音に耳を澄ましたという琴聴橋は今はなく、渡月橋北詰めに欄干だけが橋らしい佇まいを見せて残されています。

 

渡月橋から約二〇〇メートル上流に小督塚があり、小督が御所から逃れ隠れ住んだ所といわれ、小さな五輪塔があり、小さな石が三つくらい並んでいました。

 

 

 

 

 

 仲国が満月の夜、小督を探しにいくくだりは駒の段といい、名文ということで有名です。

 

 

 

もしやと思い此処かしこ、駒をかけよせ駈けよせて、控え控え聞けども琴ひ く人はなかりけり。

 

月にあくがれ出で給うと、法輪に参れば、琴こそ聞こえ来にけり。

 

 

 

 

 

峰の嵐か松風か、それかあらぬか、尋ねる人の琴の音か。樂は何とぞ聞きたれば夫を思いて恋うる名の想夫恋なるぞ嬉しき。

 

 

 

と結んでいる。

 

 

 

「黒田節」の第二節は、

 

 

 

峰の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か。駒ひき止めてたちよれば、爪音高き想夫恋。

 

 

 

 と、全く同じで、黒田節は古くから筑前今様といわれ、黒田藩の武士二川相近という国学者が作詞したといいます。

 

 謡曲「小督」は平家物語によることは周知ですが、黒田藩の場合も国学の盛んな所であったので、黒田節第二節も平家物語からとられたものといわれています。

 

            (次号につづく)