193号

 

 近況のこと(その二)

          石川 弘明

 

 再び同じ表題でこの文を綴ることに恥じらいを感じます。

 二〇一四・四・三〇日に報じた如く、退院した小生は酒を断って残滓のない温野菜中心の食生活に入りました。酒はたまに五十CCのグラス一杯のみと決めて、五月の休肝日は二十四日、六月は十九日、七月は十六日間、八月は十九日となり九月はとうとう十五勝(休肝日)十五敗(飲酒日)としてしまいました。

     *

 勤務していた五十代の初めの頃、定期検診の医師に「酒はどのくらい飲んでいますか?」と訊かれて、考えた末に「週六日、一日平均四合」と答えた。わたしは正直に答えたつもりであったが、医師はあきれ顔であった。「通常は酒はたしなむ程度と答える人が日に平均一合、飲んでいますと答える人が日に平均二合、相当の呑ん兵衛で自称一日三合と答える。医師に一日に四合飲んでいると答えるのは非常識だ」と叱られた。

 当時は酎ハイブームの時代だったが、焼酎の旨さが判らない私は冷酒一本槍だった。若い社員たちと飲むときは殆んどがわたしの奢りで「一人当たり三本ずつでやめとこうな」と三百CCの冷酒を一人三本ずつ計計九百CC(五合)と決めて、二~三時間くらいは飲んだ。それでもときには五人で十五本飲んだ後で「〆にあと二本だけ追加しよう」となる。それが相手が変っても月曜から金曜まで続いて、自宅で晩飯を食べることはなかった。

 土・日は休肝日にしたいのだが、妻はお造りかてんぷらを用意するので、土日のどちらかでも三合くらいは飲むことになる。つまりは週に二升八合を飲むことになるのだから、七日間で均して一日平均四合というのが、わたしの正直な申告であったが、実際には土曜も日曜も飲むのが正直なところであった。

 二〇一四年十月五日早朝腹痛と吐き気、それに高熱も出てきた。去年の八月二二日の症状(この日は熱中症も併発していた)と二〇一四年二月十八日の症状とまったく同じで、身動きもできなくなり、JR札幌病院に搬送される。CTスキャンによると胆石が一個あるのが判明して、去年の秋の七個に比べると僅か一個ではあるが、心電図・レントゲン診断の結果、十月九日逆行性胆管膵管造影を受けて、翌十日砕石術・採石を受ける。結果は胆石一個だけで後は泥状態。エコー診察では胆石膵臓の表面の灰化を発見しただけで、内視鏡で総胆管の表面に潰瘍らしきものをみつけただけである。その後、腹痛は皆無、平熱のままで「五分粥百グラム、低脂肪A・塩分制限四グラム、生野菜禁の食事が始まり、十五日からは七分粥となった。

 担当医に言わせると黄疸の症状は出ていないし、全てを胆石、胆嚢のせいにするわけのもいかない。酒がよくないのは第一で、脂肪もだめ、甘いものもだめ、炭水化物がよくない、では蛋白質のチーズはどうかと聞けばそれもだめだと言う。そう言われてしまうと食べるものは温野菜しかなくなる。

 わたしは体質的に食べたものが残滓となって残り、それが硬化腸内に壁のように付着して、やがて砂、泥状となって総胆管結石となるらしい。だからといって、良質の赤身の肉と温野菜と果物だけに食物を限るのも難しいことである。アルコールが最もよくないと医者に言われるのであれば断酒もやむなしである。

 胆嚢腫大・膵委縮・脂肪膵・脂肪肝・動脈硬化・石灰化・胆嚢内浮遊物(浮遊胆石)と病状を並べられて一三年八月のように結石七個の場合も一四年二月のように砂泥が詰まっただけでも、また今回のように結石一個だけであっても、発熱・嘔吐・痛みがきつくてその度ごとに多発性脳梗塞を発症しているようでは危険すぎるというものである。これでは医師が勧める生活改善(アルコールの禁止・食事の制限・運動)勧告を受け入れざるを得ない。

 

 でも覚悟をきめた。節子に迷惑をかけるのはもう止しにしよう。節子を早くに未亡人にするのは忍びない。

 そういうことで、二〇一〇年以降、休肝日を二〇一〇年八二日だったのを二〇一一年一〇一日、二〇一二年一二八日、二〇一三年一五二日と増やし続けてはきたものの

二〇一四年一〇月〇五日を限りとして断酒することを宣言する。これでことしの休肝日は二五九日となり、この後は暦の全日が休刊日となる。

 酒席でのお付き合いは悪くなるが、会合は断わるまい。末永くご交友をお願いするばかりである。

   二〇一四・一〇・二七 記

 

 

 

 

 

 187号

 

   近況のこと

              石川 弘明

 

 本人だけは生きているつもりであるが、周囲ではあの悪たれも死にくたばりやがったと噂しているかもしれない。

二月十八日早朝吐いて腹痛に耐えられず、かかりつけの医院に行って点滴を受ける。熱が出だして、足取りも危うくなって階段の上り下りも苦労する。昨年八月の熱中症と併発した時の症状に似ているので、昼ごろ救急車を依頼してJR札幌病院に入院する。これでこの病院には二〇一〇年以来四度目の入院である。

二〇一〇年六月に発症した「狭心症・心不全」で心臓血液科に入院したがカテーテル検査の結果は「心臓弁膜症」と判明して、札幌市立病院で弁の取替え手術を行って帰宅したのだが、名医のお蔭で痛みも知らず縫合跡もきれいで、生還した嬉しさで旬のサンマのつくりとイクラ漬けでついつい飲みすぎてしまったらしく受診すると「肺水腫」の疑いもあり即入院を命じられて、この年は都合三回四十六日の入院生活を送ったことになる。

翌二〇一一年二月、今度は妻の節子が「狭心症」で同じJR病院に入院する。診断は「たこ壺心筋症」と「異型狭心症」であった。治療不可能で三月九日に退院したその二日後が「東北太平洋大地震」「大津波」「福島第一原発事故」である。テレビ画面を見ていた節子が津波が押し寄せてくる様子を見て心臓が苦しいと言い出した。その年の暮れ節子はかかりつけの医院が呼んでくれた救急車で麻生脳神経外科に運ばれるが何事もなく三時間ほどで帰宅した。要するに夫婦揃って七十代となり健康問題ばかりが身に迫ってくる年齢になっているということである。

二〇一三年後半は無事だったお蔭で、私の飲酒は度が増してきていたらしい。それが二月の入院では担当主治医が酒もコーヒーも飲まない堅物なので厳しく諌められた。私も痛みと入院生活の不便さには懲りたので、大学に入学した十八歳の時から六十年間飲み続けてきたというような豪語は差し控えた。七月から九月の五十日間の入院で六キログラムの減量となり、更に自戒して二キログラム減、今回の三十八日間で更に六キログラムも体重が減ってしまった。こうなると肋骨の間に洗面器が嵌りそうだし、膝はガクガクとなってふらつくようになった。

そのような次第で、四月五日の民文札幌は又も欠席となってしまった。五月三日は節子の亡母の七回忌で一族が釧路に集結して、生田原のホテルまで旅をすることに決まっており、夫婦共々参加する予定なので又も欠席にとなってしまい申し訳なく思う。

というような次第で病状報告の一文を綴った次第である。

まあもう暫くの間は憎まれながら悪文を綴ることに専念してみようと考えているところである。   四月三十日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

185号

 

自我の確立とオリジナリティ

 

          石川 弘明

 

 

 

選挙の投票所で本人の名前と生年月日の確認を要求される。その名前はひとつに限られていて、たとえ気に入った候補者がふたりいるとしても投票用紙は一枚しか交付されない。そこでは個人は一個の人格として固定されているからである。

 年賀状を頂戴してどなたからのものなのか心当たりのない名前なので、「民文」、「奔流」を曳っ張り出して執筆者名簿の住所欄を確認するのだが、名乗られたこともないのでご尊名と日常の顔が重なりにくいのが困る。

 源氏名、芸名、ペンネームというものがけしからないのである。この場合はこの顔とこの人格で、この別名はこの職業この人格でと言われても判りにくい。その意図が、サングラスをかける動機に似ているので私は嫌いである。サングラスの奥から覗く人生は、己の眼の動きを察知されずに、てめえのほうは相手をしげしげと観察しよういう魂胆が見えなのである。

 選挙の投票行動の際に候補者の意見に同調するのはよいとしても、傾注し過ぎてしまって批判精神ゼロで自己の主張が皆無になるのは困る。監禁拘束を受けている人間の全服従の姿そのものであり、宗教の盲者にも似ていて私には承服しがたい。そういう人の自我の存在を疑うし、人格もゼロであると断定したい。

 他人の意見、主張を鵜呑みにして、それをあたかも自分の意見、主張の如く喋る輩がいる。その上に文章にして自分の署名をして発表するのは許しがたい行為である。署名することの責任の重さを自覚すべきなのである。

 最近の作曲の衝撃的な話題である佐村河内守と新垣隆の二者の卑劣な行動は、芸術を冒瀆するものとして許し難い事件である。有名画家の偽作騒ぎは名声に眼がくらんでいる買い手が悪いのであって、その偽作市場を目当てにして描く偽作家共々両者は金銭盲者の愚者同士のかけひきの化かし合いである。それに比べて佐村河内と新垣の問題は異質であって、自我を失って自分の名を偽って売り、他人の作品に自分の名を付して発表した非は大きくて、両者の名は永久に音楽界から追放すべきであると考える。

 文学を寛大にとり扱ってくれる札幌民文については前号「札幌民文通信一八四号」でも触れたが、そうではあっても私自身では納得しがたい点も多い。私信である手紙、恋文、日記、日常のありふれたことの記録、事実のみの平板な記録、それらの文章の全てを文学であるとは言えないと考えるからである。芸術とは出来事、事実の奥にある物に迫って、それを抉り出して創作して真実に見せかけて、その創作された真実が読む人の感動を呼ぶのである。当然のことながらオリジナリティを有していなければならない。事実をただ書き並べるだけではそれは記録であって、創作でも芸術でもないというのが私見である。

 そういう点で私は頑固であり、その信念で六十年間文学を追求して創作に専念した意志を曲げたくはない。   二〇一四・二・一一