226

 

 

 

コスタリカやキューバの今を伝える

 

伊藤千尋著「凛とした小国」を読む 

 

 福山 瑛子

 

              

 

 七月初め、「しんぶん赤旗」の広告で「凛とした小国」の出版を知ると、私は近くの本屋へ走った。かつてキューバを二度訪ねたせいもあり、同国に無関心でいられないのだ。

 

本屋にその本がなく、取り寄せてもらったのは二週間後だった。「あとがき」を読み伊藤氏がこの本を今年四月に書き上げたこと、キューバなどの最新事情を伝えていることが分かった。

 

 同書では、第一章「平和憲法を活用するコスタリカ世界で最も幸せな国」から始まり、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーの四カ国を取り上げている。(ここでは、第一と第二章を紹介する)

 

著者はコスタリカを数回訪ねているが、今年も行ったのだ。コスタリカは日本同様、平和憲法をもつ国である。日本と違うのは、自主的に軍隊をなくし、国家予算の中から軍事費をなくし、「兵士の数だけ教師をつくった」ことだ。二十世紀に入り、大統領選挙の不正をめぐって二ヶ月の内戦が起きたが、それが終わると反省して軍隊をなくしたのだ。現在の与党市民行動党の創立者、O・ソリス国会議員は、「選挙で再軍備を主張する候補者がいたら、一票も入らないだろう」と自信をもって話したそうである。

 

同国では移民を受け入れており、最近まで人口約四百万人だったのが、現在は五百万人を超えているという。

 

第二章の表題は「キューバは今米国との国交を回復して」である。オバマ大統領がキューバと国交を回復してから、旅行者がそれまでの三百万人から三百五十万人に増えたそうだ。うちカナダ人が最も多く、百三十万人に達し、毎日、キューバとカナダの間を十五便がつないでいるという。

 

サンタクララに建つチェ・ゲバラ霊廟は、観光の目玉になっていて訪問客で溢れているそうだ。高さ六メートルのゲバラ像が立つ霊廟の下は博物館になっているそうだ。伊藤氏は革命時、ゲバラの部下だったオスカル・フェルナンデスさんに会い、二時間にわたってゲバラについて、話を聞いている。八十四歳のフェエルナンデスさんは、ゲリラ戦士司令官、革命軍将軍の肩書きをもち、ゲバラとアフリカのコンゴでも一緒に戦った後、ハバナ市長を十年間勤めた人なのだ。彼は「ゲバラは正直で誠実な人間だった。革命後に親たちがアルゼンチンからキューバに来た時、政府が飛行機代を出そうとすると『個人のために国の金を使うべきでない』と言って拒んだそうです」などと、ゲバラの思い出話を伊藤氏に聞かせた。

 

伊藤氏は、「キューバでは経済状態が国民の体格にそのまま反映する二〇一六年一月は特段に肥っていた。(中略)街にレストランが増えた」と書き、配給制度がとられているが、「米の値段は五十年前から大して変わらず、日本円に換算して一キロが約二・五円。市場には豊富な品が並び、ここでは米一キロが六十円から九十円しているが、日本に比べれば格安だ」、と書いている。彼は「キューバが世界に誇るものが二つある」として、幼稚園から大学までの教育と医療費の無償を挙げている。現在、医科大学が二十三あり、医療専門家は約九万人もいるのだ。

 

フィデル・カストロは昨年十一月二十五日に亡くなったが、彼は遺言で火葬にするよう言い残し、昨年十二月、弟ラウルの手で遺骨は墓地の墓に埋葬されたそうだ。墓石にはFIDELと刻まれているだけだという。フィデルは自分が死後、神格化されるのを拒んだのだった。現在、ラウルがフィデルの後を継いだ形になっているが、彼自身、世襲制に反対しており、「二〇一八年に退陣する」と明言しているという。

 

フィデル・カストロが国民の幸せを願って革命を成功させてから五十八年経った。キューバは様々な難題を抱えながらも、革命の成果を守っていることを、私はこの本から感じとることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 225

 

「文章を磨くとは?」「小説の知恵とは?」と考え込む今日この頃     

 

               福山瑛子

 

 最近の私は老化が進んでいるせいか、若い頃に比べると、書く速度が落ちている。そのせいで、地域の共産党後援会が発行する会報に原稿をたのまれたりすると、短い文(四百字程度)なのに、二、三日かかったりしている。

 

七月初め、地域の九条の会から会報の書評欄に原稿を頼まれた。読んでいたプロレタリア文学集の中から作品を選ぼうか、と思ったが、その本を持っている人は少ないと思い、取り上げる本を探しに本屋に出かけた。書棚に新刊の池上彰・竹内政明著の「書く力――私たちはこうして文章を磨いた」(朝日新書・七二〇円)があった。

 

私の周りには、書くのが苦手の人が多い。そういう人たちのために、この本を取り上げることにした。竹内氏を知らなかったが、彼は読売新聞社の記者で「編集手帳」というコラムを執筆している人だった。

 

この本は池上・竹内両氏の対談で構成されていて、竹内氏執筆の読売新聞掲載の「編集手帳」が多数引用されている。目次には「まずはテーマを決める」に始まり、「わかっていることを、わかっている言葉で書く」「とにかく『削る』練習をする」、「名文を『書き写す』意味」などの表題が並んでいる。

 

読み終えて、「私は文章を磨いてきただろうか?」と自問していた。何時も「できるだけ簡潔に」と心がけて書いてはいるが、文章を磨こうと意識したことはない。私は新聞記者生活が長かったせいで、書き馴れてしまっているのか、と考え込んだ。  

 

八十代半ばにきている私に「これから文章を磨くには、遅すぎる」と思った。年をとるということは、心に芽生えるいろんな希望に目をつぶりがちになることのようだ。

 

体調が悪く、六月例会を欠席した私は、「通信」の冒頭に載っていた松木新さんと馬場雅史さんの大会参加報告を読み、刺激を受けた。松木さんは大会後、大江健三郎の「人生の習慣」を再読していて、クンデラが講演の中で「アンナ・カレーニナ」を書いた時、姦通したアンナをよくないと思いながら、魅力的な女性に変身させたのは、「小説の知恵」であると指摘しているのに出合い、「小説の知恵」に注目している。私も「小説の知恵」について考えさせられた。

 

馬場さんは、大田努さんが「プロレタリア文学は支配階級を書かなかった」と述べた松本清張の批評(不破哲三講演)に共鳴し、「新しい時代に向かう想像力のかたち」を追求しようとしている。その意欲に拍手を送りたいと思った。

 

このところ、友人の訃報が届くことが多い。最近、毎日のように著名人――海老蔵の妻、野際陽子、砂川啓介、日野原重明らの死が伝えられている。私は五年前の八月に乳がんを患い、一時期「死」を想定する日々を送っていたが、発病以来もう直ぐ五年を越えるので、再発はしないだろう、と最近は楽観的になっている。書きたいテーマがいくつもある私は、できればそれらを書き上げた後で、この世におさらばしたいと思っている昨今なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

220号

 

童話作家の本で

 

米軍下の沖縄の実態を知る

 

福山瑛子

 

 

 

私は十七年前の二〇〇〇年に三泊四日の観光旅行で沖縄を一周したが、最近、童話作家・加藤多一著「兄は沖縄で死んだ」を読み、さらに地域の「九条の会」二月例会で、映画「いのちの森 高江」を観て、自分の沖縄理解の浅薄さを痛感させられた。

 

 今、アメリカ言いなりの安倍政権が辺野古新基地建設を進め、高江などにオスプレイが使うヘリパッドを建設している。映画でさえ、オスプレイは想像以上にひどい騒音をたてて低空飛行していた。

 

 筆者(加藤多一)の次兄輝一(筆者は十人きょうだいー男五人、女五人の四男)は沖縄で亡くなったが、どういう死に方だったか、分かっていない。

 

「色が白く目が大きく、何時もニコニコ笑っている」次兄を家族は「コウちゃん」と呼んでいた。輝一は、一九四二年に生地北海道紋別の実家から満州に召集され四四年の夏、沖縄へ送られたのだ。

 

兄の死の真相を探るため、筆者は二〇一五年までに七回も沖縄を訪れ、都道府県の数だけあるという死者を弔う沢山の慰霊塔や慰霊碑を見て回り、地元の人たちと交わり、沖縄戦の実態を探った。

 

筆者は四五年六月二十三日に牛島司令官は「最後の一兵となるまで戦え。生きて捕虜になるな」の遺言を残して自分は自殺してしまったことを知り、兄輝一は、六月二十三か四日に自殺したか殺されたのではないかと推測する。

 

訪れた北霊碑は、北海道連合遺族会{会長堂垣内尚弘)が設置し管理している碑である。ここには四〇、八五〇の戦没者が祀られ、うち三万が南方諸地域戦没者で、一〇、八五〇が北海道人戦没者なのだ。筆者は「沖縄戦で戦死した兵の六分の一が北海道人である」と記している。

 

「遺骨収集も自治体や国のレベルになると、戦争への反省がうすれ、戦死者顕彰の方向に利用されている」と筆者は歎く。

 

 筆者が言いたいのは、欧米では戦地で全軍の三分の一に達したら、戦闘を断念して降伏するのが軍隊の当たり前なのに、日本では「軍人勅諭」で降伏を禁じられ、死に絶えるまで戦う、つまり玉砕を強いられていたという理不尽さである。

 

筆者は「沖縄での戦死者の場合、家庭の拝所で祀られ、墓で祀られ、町村の慰霊塔で祀られ、平和の礎で祀られ、沖縄県護国神社で祀られ、ついに靖国神社へ。ラストの神社が一番、疲れると死者は言っている」と書く。軍隊内にはアイヌ兵もいたから、「軍隊内でアイヌ差別があったことは容易に想像できる」と書き、当時の政府が、沖縄(琉球)と北海道(外地)の兵の命を本土の兵の命より軽視していたと指摘。天皇が「軍人勅諭」を発し、宣戦布告したその責任の重大さも指摘する。

 

映画「いのちの森 高江」を見て、高江の緑豊かな自然の美しさに触れた私は、沖縄が戦後七十一年経ってもいまだに米軍の管理下に置かれていることに憤りを禁じ得ない。

 

 

 

 

 

 205号

 

山と花の歌人、

戸塚新太郎を知る

          福山 瑛子

 

十一月初旬、市立小樽文学館で開かれていた「没後50年・戸塚新太郎・山と花の歌人」展(9月12日~11月29日)を見に行った。

同展に行くきっかけは、十月下旬、私の義兄(姉の夫)の十三回忌の法事に戸塚新太郎の長男、守夫氏(義兄の姉の夫で医師)も出席していたからだった。彼が姪M子に同展の案内状を渡したので、私は「花の歌人」に惹かれ、登山家のM子は「山の歌人」に惹かれて小樽まで出かけたのだった。

案内状には「戸塚新太郎(一八九九年~一九六五年)は、北海道における代表的歌人の一人。群馬県生まれで、一歳の時、両親と小樽に移住、生涯をこの地で送った。十八歳頃から作歌を始め、小樽の青年歌人兼田駿一らと歌誌『くろばあ』を、二六年に歌誌『新樹』を創刊。二七年に小林多喜二ら小樽商出身者が興した『クラルテ』にも参加、同年『原始林』(第一次)創刊に伴い、『新樹』を合併し、翌年、編集責任者に。戦後、再び第二次『原始林』立ち上げ後も中心メンバーになり、北海道の短歌界を牽引した」とあった。

展示には短歌の他、登山した山々や、高山植物を含む色彩豊かな花々の写真があって、それらを見るだけでも楽しめた。写真の戸塚は眼が大きく、守夫氏は眼元が父親に似ていた。(彼は法要後の食事会で、私と同じテーブルで向かいに座っていた)

 

延齢草の花も実となる

この沢に

はやたちこもる夏の匂ひは

 

枝先にいまだも落ちぬ

赤き実のみやまななかまど

風に鳴りいる

 

レモン色の灯をともせるは

エゾキスゲ

花原どこも明るく映えて

 

短歌にある延齢草ヤエゾキスゲなどの花々を、私は展示の写真で知ることができた。

展示品の中には、彼の所持品もあり、共産党関係のパンフレット(「インターナショナル」、「労農ロシアの日常生活」、蔵原惟人著「ソビエト連邦の教育」etc)や小林多喜二編の「クラルテ」第一~第五、花々の自筆カットや数点の油絵もあった。絵の才能もあり、カットも油絵の色彩も観ごたえがあった。

戸塚はオリーブ短歌会に参加し、庁立小樽商業高等学校の小林多喜二、島田正策らと知り合っており、「クラルテ」に「芸術の客観性に就いて」という論文を書き、「偶語」と題して「くろばあ」に、四回にわたって短歌をめぐる評論も載せていたる。

又、春から夏にかけては自宅の庭で花々を栽培する他、二百鉢もの植木鉢に高山植物を含む花々を植えていたという。その庭は戦後、昭和天皇が小樽を訪問された時、市長の要請もあり、ご覧に入れたそうだ。

小樽の花園公園には、彼の歌碑が建立されており、「森にひそむかの妖精もいでて遊べ 

木漏れ日うごく羊歯の葉の上」が刻まれているという。

戸塚新太郎は食道がんのため、六十六歳で、この世を去っていた。

展示を通して、花を愛し、山を愛し、人間を愛し、多喜二とも親交があった彼の建設的で精神的に豊かでロマンチックな戸塚新太郎を知ることができて、私はうれしかった。

館を出た後、祝津まで車を走らせ、海辺の食堂で昼食に「ほっけ丼」をいただき、食後、直ぐ近くの丘の上の鰊御殿を見学した。鰊が大漁だった頃、大勢の漁夫を率いる親方が贅沢な暮しをしていたことが見て取れた。鰊御殿から海のかなたに、二重につらなり霞む山並みが一望でき、久しぶりに美しい風景にも出合えた。

私はこれまで数回、小樽を訪ねていて、二○○三年に浜林正夫さんを団長に東京から二十人余で「小林多喜二の足跡を辿る旅」をしたが、その時、多喜二が働いていた元拓殖銀行だったホテルに二泊した。二日目の自由行動の時、私は札幌の病床にいた弟を見舞ったが、多くの人が鰊御殿を見に行った。私も何時か行ってみたいと思っていたが、今回その願いが叶ったのだった。

後でM子が戸塚宅に電話して、第一歌集「樹海」、第二歌集「雄冬岬」以外の第三歌集「石狩湾」、随筆集「北の植物」、第四歌集「寒原」は、父親の没後に守夫氏が刊行したこと、展示の花々の写真は彼が撮ったことが分かった。私は息子の父親への愛の深さに打たれた。法事で同席しながら、戸塚守夫氏と一言も言葉を交わさなかったのが悔やまれた。

 

 

 

  199号

 

  バッシングとたたかう植村さんをアメリカでノーマさんが世話

                          福山 瑛子

 

 元朝日新聞記者で現在、北星学園大学講師の植村隆さんは、日本軍慰安婦の記事を初めて書いた人だが、読売新聞などから「ねつ造記事を書いた」と不当に非難され、昨年来、脅迫まがいの電話やメールによるいやがらせを受けている。

 私は元記者として、この件に無関心ではいられずに、昨年十二月に彼が出席したシンポジュウムに参加し、五月十六日には、「私は慰安婦ねつ造記者ではない 私は不当なバッシングに屈しない」と題する講演を聞きに行った。

 おどろいたことに、今なお彼へのバッシングが続いており、昨年夏には「娘を自殺まで追い込む」と言ってきたが、今年二月には五回目の脅迫状で「娘を殺害する」と書いてきたという。

 植村さんは今や世界の言論界から注目を浴び、BBCをはじめ、各国の放送局からインタビューを受けるだけでなく、アメリカの学者グループから招待されて四月二十八日から五月九日まで訪米し、シカゴ大、ニューヨーク大、プリンストン大など六大学で講演した。なんと、アメリカで彼を出迎えたのは、ノーマ・フイールドさんで、彼女が車を運転して彼を大学へ案内し、講演会では通訳をしてくれたのだという。ノーマさんの世話やきぶりを知り、私は彼女が日本滞在中、私たちの例会に毎月参加し、合評の後、飲み屋で語り合ったことを久しぶりに思い出させられた。

ノーマさんをふくむアメリカの日本研究者ら百八十七人が五月五日に声明を発表(八日付で紙面に)し、「慰安婦問題などの史実に向き合い、責任を率直に認めるよう」訴えたことが報じられた。五月二十日には、同声明の署名者が四百五十六人に増えたという。

日本の学者からも戦争立法成立へと暴走する安倍首相への批判と右傾化する日本を憂慮する声が上がっているが、アメリカからも同じような批判の声が上がっていることを私は心強く思うと同時に、こうした事実を知らない周囲の人たちへ伝えていかなくてはと思っている。それで私は今、地域政治新聞「ひろば」6月号の記事づくりにいそしんでいる。

 

 

 190号

 

  集い「詩のピースウェーブ」に参加して            

            福山瑛子

 

  七月初めに、「集いで話をしてもらえないか」と相談を受けた。体調が悪く、気がすすまなかったが、「道詩人会議」と「平岸の郷土と平和を語る会」主催で「詩のピースウェーブ詩と音楽を平和の花束にして」と題する集いと知り、心が動いた。

 引き受けることにして、話のテーマを「作品にこめた平和への願い」に決め、「民主文学」に書いた十三作品の中から、二十年近く前の古い三作品を選び、それをめぐって話をすることにした。いずれも「原爆ノー、戦争ノー」の思いを込めて書いた作品である。 

 集いは八月十七日午後、私の話から始まり、南米の衣裳をまとったヤチシンコスのみなさんによるフォルクローレ演奏、最後に詩人会議のみなさんによる、詩の朗読と続いた。

 私に与えられた時間は二十分なので、広島・長崎の被爆の惨禍を現地で撮った写真家、林重男さんを主人公にした「閃光のあと」と長崎の被爆者で下半身不随の渡辺千恵子さんを主人公に据えた「嫁入り道具」は、おおまかなストーリーの紹介にとどめた。

 私は「白い花」と題した作品を中心に話した。登場人物は長田新編著「原爆の子」に手記を書いた片山浩二と彼と同年齢のライターの山野八重だけである。片山は原爆投下で中学の校舎の下敷きになり、満身の力で這い出し、旧友たちの変わり果てた悲惨な姿を見、二日後に兄の死、父親の死に遭ったことを手記に書いていた。原爆の子の現在を追う記事を書くため、八重は片山の所在を調べ、取材を申し込む。片山は工房を構えるグラフィックデザイナーで名古屋の大学の図案科の講師もつとめていた。最初、彼は「取材に応じたくない理由があるんです。僕、左あごがないのです」と言った。「知らないでごめんなさい」と言う八重に「手記を書いてから十数年後にかかった病気ですから」と言い、「同年のよしみで、なんとか」とねばる八重に終に取材に応じてくれた。

 八重が工房を訪ねると、右面を見せて絵を描いていた彼はハンサムだったが、正面を向くと途端に変貌し、グロテスクといっていい顔になり、八重は思わず眼を逸らしそうになる。彼は「戦争に関係する職業に就きたくないと思い画家を目指したが、それでは母親を養えないので、東京芸大の図案科で学び、デザイナーになったこと、大学の同級生と結婚したが、妻が被爆二世を生むのは怖いというので、子がいないこと」などを語った。「あなたは、お子さんは?」と訊かれ、八重は夫の病気のため「子がいない」と答えると、「残念ですねえ」と言い、それから打ち解けてきた。彼は母親が癌で逝った翌年に自分もあごの癌にかかったことを明かし、最後に「僕たち家族は家を焼かれ、郊外に住む祖父母の家に逃れたのですが、市役所職員だった父親が帰って来ず、母にたのまれて僕が捜しに行きました。父を見つけたのですが、首から上はなかったのです」と言った。八重は驚きのあまり、言葉が出ずに逃げるように工房を出た。しかし、帰宅すると直ぐに電話で再度の取材を願い出た。「あなたを驚かせた僕が、悪かった」と言い、彼は快く二度目の取材に応じてくれた。片山は首から上がない父と同じような屍体を多数見、母にも祖父母にも父のことをしつこく訊かれたが、「死んでいたんだ」としか答えなかった。顔がなくなっていた父のことは、手記にも書かず、四十五歳になるまで独り自分の胸にしまってきたのだ。最後に片山は八重に「父のことを是非書いてください」と言ったのだった。

 私がこの小説に「白い花」という題をつけたのは、工房の片山の机の上に白いストックの花が活けてあり、彼が「僕は白い花が好きなんです」と言ったので、二度目の取材の時、八重が鈴蘭のちいさな花束を彼に贈ったことに由来する。

 私は三つの作品の主人公がいずれもみんな天国にいることを思い、若くして命を奪われた原爆や戦争の犠牲者に比べれば、私はなんと長生きしたことか、と思った。それまで乳がんの再発を怖れていたのに、急に私はもう十分に生きたと思い、もう何が私の身に起きても受容しようという心境になった。集いを機にした、忘却のかなたにあった自分の古い作品の読み返しが一つの転機になり、私の心に一種の安らぎを与えてくれることになったのだった。