239号

 

民主文学に関わっての六十余年を振り返る(九)            福山瑛子

 

 

 

一九九五年に「嫁入り道具」を書いた後、それから二年後の九七年八月号に、私は評論「岡本かの子『鶴は病みき』」を書き、十一月号に小説「甥離れ」を書いている。

 

「甥離れ」も私の体験を再現した作品で、きょうだいの中でも、一番気が合った弟(次男・国男)の一人息子(久志)が生まれると、叔母の私(杉本昌子)は、彼を可愛がり、成長に見合った本を送り続けた。彼は高校卒業後、二浪した末やっと東京の大学に受かり上京してくる。離婚したばかりの私は彼の世話をやく。

 

当時、私は辞書をつくるT社で週三日アルバイトをしていた。時給が千五百円だったので、隔日勤務でも月十数万円の収入を得ていた。私はよく甥にご馳走していた。その頃、彼と同じ年齢の青年(多賀)がT社に入り、私の前の席に就く。彼は作家を目指して創作に打ち込んでいた。ある日、彼を寿司屋に誘い、ご馳走する。彼は「芸術を解さない人間を軽蔑する」などと語る。私は甥離れができないでいる話をする。帰り道、「私たち、仲のいい親子に見えるかも、ね」と言うと。多賀に「叔母さんと甥に見えるかも知れませんよ」と返され、思わず大笑いするーーというのが、おおまかなストーリーである。

 

この作品のあと、私は翌九八年十二月号に評論「アラゴン『オーレリアン』」を書いている。当時、「わたしの世界文学」の連載があり、その月は私が担当したのだった。

 

九九年三月号に、私は小説「痛みの道程」を書いている。

 

――主人公、松本友子が帯状疱疹にかかり、その後遺症で背中の神経痛に悩まされる。近くの県立病院で診てもらうと、「痛みをなくすには神経ブロックが必要です。うちではできないので、防衛医大病院に行って」と言われる。その病院の構内に最近、防衛医学研究センターが建てられたことを「赤旗」紙で知った友子は、戦争につながる病院に行く気になれない。しかし、背中の痛みは増すばかり。仕方なく防衛医大病院に行くと、若い医師が「入院して常時、麻酔液を背中に注入する必要がある」と言われ、仕方なく入院する。病院の窓から米軍所沢通信基地が見渡せ、その一角に「防衛医学研究センター」が眼に入る。入院患者たちの間で、その「センター」が話題になる。病室の教師の女性が、「あそこで日米共同で有事医学研究をしているのよ」と話す。友子は「この病院の医者の中に、七三一部隊員だった人がいるんじゃない?」と頭をよぎったことを口にする。

 

退院後、友子は地域で開かれた民主団体主催の講演会で、「政府が周辺事態措置法案を準備していて、その法案が通れば、空港・港湾の軍事利用、米兵の公立病院の利用、米軍基地への優先的な給水、送電の協力をしなくてはならなくなる」という話を聞く。友子は入院中、よくお喋りした隣のベッドの若い女性に手紙を書き、その話を伝える。

 

私が帯状疱疹で高度の医療設備を備える防衛医大病院に入院したのは事実だが、病室での患者との会話や講演会のことなどは、作り事だった。

 

その月の「作者と読者の会」(民文編集室で開催)で、「作り事を入れない方がよかった」という人と「入れてよかった」という人に分かれたので、私は困惑した記憶がある。

 

当時、私は民文埼玉県西部支部に所属し、毎月例会に出席する他、年一回開く県研究集会にも参加していた。一九九八年十一月に第一回研究集会が秩父支部担当で右遠俊郎さんを講師にして開かれた。西部支部が担当したのは、第四回(九一年十月)に講師佐藤静雄さん、第十回(九七年十一月)に、講師津田孝さんを迎えての二回だった。

 

私は年一回発行した支部誌「さきたま」第一号(九二年刊)に「裸足(はだし)」を書いている。高校三年の時、東京の空襲で焼け出されて旭川に転校してきた小野拓也との三十数年ぶりの再会を描いた作品である。彼は高校時代、困窮生活のせいで、零下三十度にもなる真冬の旭川で裸足だったのだ。

 

毎年「さきたま」に一作書くことで、私は創作修行をさせてもらった。「さきたま」に毎年作品を載せたが、二〇〇四年三月に札幌に転居してからは、その年の十月、「北海道民主文学」に「ロシア、十二月の旅」を載せてもらい、以後、「奔流」と交互に書き続けている。

 

 

 

 

 

 238号 

 

民主文学に関わっての六十余年を振り返る(八)

 

                福山瑛子

 

 

 

 私は「民主文学」一九九四年十月号に「白い花」を、翌年の八月号に渡辺千恵子さんを取材して書いた「嫁入り道具」を書いている。

 

「白い花」のストーリーを紹介する。

 

ルポライターの山野八重が、A雑誌社から「原爆の子」に手記を寄せた生存被爆者のルポ記事をたのまれる。広島と長崎に原爆が投下された時、女学校の一年生だった八重は、同じ年齢の片山浩二を選ぶ。彼は「――巨大なセルロイドの塊に一度に火をつけたかのような鋭い閃光を見たと思った瞬間、僕は校舎の下敷きになっていた」と手記を書き出していた。A社に片山について調べてもらうと、彼は東京在住で原宿駅近くに仕事場をもつグラフイックデザイナーと分かる。八重は仕事場に直ぐに電話した。取材を申し込むと、彼は了承し、「おどろかせてはいけないので、言っておきますが、僕は被爆して数年後にあごに癌を発症し、手術をしたため左あごがないんです」と言った。「そのことを含めてお話を聞きたいです」と、八重は二日後の午後に伺うことにした。

 

その日、八重は朝起きると、眼やにで左眼が開かなかった。「ものもらい」ができたのだった。朝食後、直ぐに近くの眼科を受診すると、左眼に眼帯をかけられた。眼が大きい八重は片山に会うには、片眼の方がいいと思って出かけた。

 

片山は正面を向くとグロテスクとしか言いようのない容貌だが、横向きなら鼻梁が高くハンサムと言えた。彼は週に一回、京都の立命館大学でグラフィックデザインの教授を務めていた。彼は八重の質問にてきぱきと答えた。彼の机の上の瑠璃色の花瓶に白いストックの花が活けてあった。「いい香り」と八重が呟くと、彼が「僕は白い花が好きなんです」と言った。帰り際に片山が「手記に市役所勤めの父が職場で原爆にやられたことを書いていないんです。父のことも書いて欲しいな」と言った。八重は面食らい、無言で部屋を出てしまった。しかし、家に戻ってもそのことが気になり、電話して「明日、お父さんのこと、聞かせてください」と頼んだ。翌日、八重は花屋で鈴蘭の花束を買って行った。片山はストックを捨てて鈴蘭に入れ替え、花に顔を寄せてにっこりした。

 

彼は広島市役所勤めだった父親の最期について、次のように話した。

 

「父が夕方になっても戻らないので、母に頼まれ市役所に行くと、死体がごろごろしてました。朝、着て出たグレイのワイシャツで無数の死体の中に父を確認したのですが、遺体は胴だけで頭はなかったのです。母が被爆した兄の看病に忙殺されていたので、母には父の頭がなかったことを、あえて話しませんでした。兄はその三日後に死にました」

 

 

 

「嫁入り道具」が載った「民主文学」は、「戦後五十年・文学同盟創立三十周年」記念増大号で、十一作品を載せている。私の作品は四番目に載った。ストーリーを紹介する。

 

主人公井沢久実は赤旗記者。長崎に住む被爆者、渡辺千恵子さんがジュネーブでの軍縮会議(一九七八年春)に発つ前に、長崎に取材に出かける。(渡辺さんは渡部千枝子の名で登場する)

 

新築間もない彼女の家の門を入ると、千枝子が車椅子で出迎えてくれた。部屋に入ると明るい藍色に花柄もようの応接セットに久実は眼を見張り、「素敵ですねえ」と言うと、「兄はこれを買う時、『贅沢過ぎる』と反対したの。でも、わたしが『一生に一度のわがままよ。わたしの嫁入り道具と思って買ってちょうだい』と言うと、兄はもう何も言わずに買ってくれたの」と説明した。彼女は部屋の奥の台所に車椅子で行くと、コーヒーを淹れ始めた。久実が手伝おうとすると、「独りで大丈夫」と言う。この家に住むまで、千枝子は母親の世話になっていた。しかし、彼女は八十を越えた母親の手を煩わすまいとして、何でも自分でしようとしていた。取材を終えると、千枝子が「軍縮会議に帽子をかぶって行きたいの」と相談をもちかけてきた。久実は「私が帽子をプレゼントします」と言い、ベージュ色のつばの広い帽子を買って彼女に贈った。ジュネーブから東欧諸国も歴訪して帰国した千枝子は、帽子のお返しにルーマニアで買った素敵な手提げ袋を久実に送ってくれた。

 

 その後も渡辺千恵子さんは度々、日刊「赤旗」に登場したが、何時も私が贈った帽子をかぶっていて、私を微笑ませたのだった。

 

「白い花」も「嫁入り道具」も、私の取材体験をそのまま作品化していた。しかし、取材したのは、私が四十六歳から四十七歳の「赤旗」記者の時であり、書き始めたのは一九八一年(四十八歳)に記者を辞めて数年後の五十代半ばに入ってからだった。

 

 

 

 八月中、私はお墓参りやサークルの行事で出かけることが多かった。その上、支部誌が届くと礼状を書くため、送り主の作品を読むのに追われた。今月は「日本プロレタリア文学集」の中の「『戦旗』『ナップ』作家集」所収の渋川驍の短編「倉庫を渡る少年」を読むにとどまった。

 

 

 

 

 

 

 237号 

  民主文学に関わっての六十余年を振り返る(七)      

                     福山瑛子

 

 

 

一九八八年六月号の「白い封筒」の後、私は翌八九年八月号に「閃光のあと」を書いている。

 

「白い封筒」を全くの虚構で書いたのに、「閃光のあと」は事実に添った作品である。広島、長崎の原爆写真を撮った岡が主人公であるが、彼は実在のカメラマン、林重男さんその人なのだ。彼は一九七八年に出版された写真集「広島・長崎―原子爆弾の記録」に沢山の写真を載せている。

 

「閃光のあと」のストーリーを紹介する。

 

 赤旗日曜版記者の里子が岡に取材を申し込むと、最初、彼は「政党に関わりたくないんですよ」と言って応じなかった。しかし、二度目の電話で、「三十分でいいので」と言うと、やっと取材に応じてくれた。企画して半月後の一九七八年三月末になっていた。岡は闘士然とした赤旗記者を想像していたらしく、意外そうな表情を見せて、花柄もようのワンピース姿の里子を迎え入れた。

 

彼は数十枚の写真を出してきて見せながら、「あの時のことを思うと、どうしても涙が出てきてしまうんですよ」と言い、眼を潤ませ、里子に説明しながら涙をこぼした。

 

  岡は三年間戦地へ行き除隊になって帰国後、直ぐに見合い結婚し、長男が生まれた時、敗戦になる。広島へ向かったのは、敗戦五十日目だった。原爆投下から一ヶ月半以上経っているのに、被爆地の惨状のすさまじさに彼は息を飲む。岡の撮った写真を見せられ、里子の目にも涙が滲む。

 

  里子は岡さんの語った被爆の実態を再現するため四苦八苦し、半徹夜して記事を書き上げた、それは七八年四月上旬の日曜版に載った。里子は長崎の城山小学校の崩れ落ちる校舎の傍に生徒たちの頭蓋骨が散らばる岡さん撮影の写真を記事に添えた。彼女は「ネガの保存には、湿度と温度が一定にした部屋に置く必要がある」ことも書き加えた。その掲載紙を持って再度、岡の家を訪ねると、彼は記事を読み「よく書けているなあー。友だちにも読ませたいから、あと数部、欲しいな」と言った。里子は翌日、掲載紙を数部持参し、ついでに「日曜版を読みませんか?」と購読を勧めた。彼は最初渋っていたが、横にいた夫人が「私、読みたいわ」と言ったこともあり、最後に「とりましょう」と言ってくれた。

 

岡さんは、その年の五月二十三日開催の第一回国連軍縮特別総会に出席することになり、記者会見に臨んだ。その席に里子も駆けつけ、インタビューの様子も記事にした。

 

岡は最初、単身ニューヨークに行くつもりだったが、夫人が「私も行きたい」と言い、その場に居合わせた里子が「賛成!」と言ったこともあり、夫婦そろっての訪米となった。岡はニューヨークの国連のロビーに被爆の惨状を示す彼の写真を展示したのだった。

 

 

 

林重男さん夫妻には、私が二〇〇四年三月に札幌に転居するまで、時々、会っていた。彼は都内の各地で原爆写真展を開いていたが、その知らせが入ると、里子は直ぐに駆けつけていた。それは林重男さんが二〇〇二年九月に八十四歳で亡くなる数年前まで続いたのだった。

 

 

 

思い返せば、八七年四月に私の父が九十歳で亡くなり、葬儀に始まり、四十九日の法要や墓への納骨のため、その年、私は何度も札幌へ飛んでいた。その頃、私は、妻子ある日曜版編集長と恋に陥り、夫に事実を打ち明け九月に離婚する事態になった。それからの二年余、私は創作に集中できず、九〇年五月号の「民主文学」に「第四十三回アンデパンダン展」評を、七月号に「ブリューゲルとネーデルラント風景画展」を観た感想を書き、同じ年の十月号には、小森香子詩集「愛するならいま」の書評を書くにとどまった。

 

空白期間を経て小説「白い花」を書いたのは、九四年になってからで、この作品はその年の「民主文学」十月号に載った。(次回はこの作品を)

 

 

最近の私は、先月の「プロレタリア文学集」第三十巻の「細田民樹」に続き、第十九巻「『戦旗』『ナップ』作家集」を取り出し、三好十郎の「ごくつぶし」を読んだ。足が悪く歩行困難な坑山労働者、仁太郎が主人公で、坑山の組合活動を弾圧する警察、会社、暴力集団の金による支配に巻き込まれ、妹も死産の憂き目に遭う。妹に何もしてやれなかったが、仁太郎は、最後には組合の側に立つというストーリーである。この巻には三好の他、私の知らない十四人の作家が、全部で三十近い短編を載せている。時間をやりくりして、読みすすもうと思っている

 

 

 

 

 

 236号

  民主文学に関わっての六十余年を振り返る(六)            

 

福山瑛子

 

 

 

 前回、私は一九八七年に書いた作品を取り上げたが、「民主文学」八四年十月号に、「リリアン・ヘルマンの死を悼む」という短文を書いたのを見落としていた。前後するが、この文に触れさせていただく。

 

当時、私はアメリカの女流劇作家、リリアン・ヘルマンの作品が映画化されたり、劇場で上演されると直ぐに観に行き、彼女に傾倒していた。ヘルマンの作品「眠れぬ時代」が出版されると、直ぐに買い求めて読んだ。

 

 その本には、彼女の夫ダシール・ハメットがアメリカ共産党に入党するが、リリアンは入党しなかったことが書かれていた。彼女は「アメリカ共産党の対ソ追随路線」に反対だったのだ。リリアンはソ連を旅したり、ユーゴスラビアのチトー大統領にインタビューをした経験から、アメリカ共産党に批判的だったのだ。

 

 そんなリリアン・ヘルマンを知れば知るほど、私は彼女を研究するに値すると思い、当時、アメリカに住む友人に手紙を書き、情報を集めた。友人の返信で、私は「眠れぬ時代」が自伝の第三作目であり、一九七六年、彼女七十一歳の作であることを知った。

 

 彼女は既に亡くなっているだろう。どんな死に際を迎えたのだろう。今は空想するしかない。

 

一九八八年六月号の「民主文学」は短編小説特集をしており、私は「白い封筒」と題する小説を書いている。どんなことを書いたか、すっかり忘れているので読み返してみて、内心、おどろいた。私としては珍しく、体験を離れて虚構で書いていたからだ。

 

 

 

ストーリーを紹介すると

 

所は大阪、道頓堀の近く。社員四人の空調設備会社で働く守口信一は、経理を担当している。早川社長から三田建設から来た「白い封筒」に入った案内状を見せられる。それは、「武下昇自民党幹事長激励の夕べ」への案内で、会費三万円とあった。三田建設は従業員三百人の関西で有名な大きな会社である。早川社長と三田建設の社長は、同じ島根県出身である。そのよしみで、早川は「激励の夕べ」へ誘われたのだ。しかし、その「夕べ」は、東京赤坂のプリンス・ホテルで開かれるのだ。信一は早川から催促されて、いやいやながら、パーティに出席しないのに、三万円送る。他に、三田建設の社長から早川に「裏金をつくって五十万円の政治献金を分担してほしい」と言ってくる。早川は、飲み屋から水増しした領収書をもらい、裏金をつくることにする。しかし、それはうまくいかない。

 

信一が近所に住む共産党員、高橋に「白い封筒」に入った案内状を見せると、彼がそのコピーをとり、赤旗編集局に送った。そのせいで、「赤旗」紙に大阪での自民党幹事長の政治献金集めの経緯を暴露する記事が載った。信一が社内に持ち込んで読んでいる「赤旗」紙に、早川社長は真剣な眼差しを向けてくる。 

 

  信一は高橋から共産党への入党を奨められ、

 

すすんで入党する気になっている。

 

 

 

「白い封筒」が載った八八年の「民主文学」の目次の右裏には、第二〇回多喜二・百合子賞を受賞した宮寺精一著「和歌子・夏」と森与志男著「炎の暦」、左裏には、「日本プロレタリア文学集」(全四十一巻)の広告が載っている。私は前二冊だけでなく、多分その頃、「文学集」も購入したのだろう。

 

しかし、それを本棚の下段に並べ置いたままにして読んでいなかった。最近、その中から第三〇巻「細田民樹・貴司山治集」を取り出し、細田の長編「真理の春」を読み始めた。書き方や表現が巧みな上、登場人物も魅力的なので、ぐいぐい引き込まれて読んでいる。

 

八十五歳の私に残された時間は限られている。「文学集」の他の巻をあと何冊読めるだろうか。 

 

心元ないが、できるだけ沢山読もうと思っている。

 

 

 

 

 

 

235号

 

民主文学に関わっての六十余年を振り返る(五)        

 

福山瑛子

 

 

 

 一九八七年に入り、「民主文学」二月号で「新発掘の短編小説を読むーー書き手としての感想」と題する特集を組んでいて、私は細田民樹の「大検挙の後」を担当している。(同特集で田中恭子さんは等々力徳重「カムサッカ」を書いている)

 

「大検挙の後」は、四百字詰め原稿用紙十五枚ほどの短い小説で、大検挙は一九二八年三月十五日、千六百人もの共産党員やその支持者が検挙された三・一五事件を指す。(多喜二は「一九二八年三月十五日」で、まさにこの事件を描いている)

 

「大検挙の後」は中学を出たばかりの勉三を主人公に、医者の父親との進学をめぐるトラブルを取り上げている。勉三の兄は京大生で検挙され、そのせいで、家宅捜索されたので、父親は急にそれまでの態度を変え、息子の進学のための上京に反対する。しかし、勉三が上京する朝、あいさつする彼に寝床から起き上がって、父親は「行っておいで΀΀΀΀΀΀金は?」と訊き、彼は「胴巻きに巻いております」と答える。生まれて初めてもらった大金、百円だった。作品は「夜明けの露にびっしょりの窓の濡れた清新な汽車が、やがて勉三を乗せて、この町を去った」という詩的な文で結ばれている。細田民樹がこの作品を書いていた頃、多喜二は「蟹工船」を書いていた。

 

細田民樹(一八九二―一九七二年)は一九二七年に「労農芸術家聯盟」に加盟し、同聯盟解散後、一九三〇年にプロレタリア作家同盟に参加。その年、彼は「東京朝日新聞」に小説「真理の春」を一月から六月まで連載している。彼は商業紙に連載できるほどの実力の持ち主だったのだ。当時、彼は多額の原稿料が入ったので、多くの作家からカンパの要請を受け、細田夫人はノイローゼになったそうだ。{「真理の春」は「日本プロレタリア文学集」三十巻所収}

 

一九八七年には、「民主文学」四月号で、特集「現代文学における家族・家庭」を組んだ。私は「党員夫婦の危機をめぐって」と題して書いている。

 

当時、私は大阪におり、離婚を考え始めていた。このエッセイ風の文を読み返してみると、夫と私の感受性の違いなどをあれこれ書いている。例えば、次のような文がある。

 

「夫は人の心を覗くのを嫌い、リアリズムを好まないところがある。彼は手塚英考の『落ち葉をまく庭』を読んでいて、主人公周平の兄嫁の容貌を二度も『平べったい顔』」と書いているのに文句をつけ、『兄嫁に失礼だ』というのだった」

 

 夫は家事をよく手伝い、食料品の買い物にも気軽に出かけていた。自分の下着のことなどで、私を煩わせることはなかった。そうしたことに触れて、私は次のように書いている。

 

「自分たち夫婦は互いに党員であるせいで、何時も一緒にする党活動が夫婦の『かすがい』になっている。(中略)夫は民主的家庭づくりでは、模範的であり続けた」

 

 離婚に至ったのは、故郷大阪に永住する気の夫と大阪に永住する気のない私との隔たりだった。私は大阪弁を喋れず、そのことで悩んだ末の決断だったのだ。

 

 八七年の「民主文学」十二月号に、私は「映画『宮本百合子』を観る」を書いている。

 

これを書いた時、私は大阪を離れ、東京郊外の所沢市に住んでいた。この映画は、東京調布市で十月九日―十一日に開かれた「赤旗まつり」の会場で上映された。私は「この映画は、観る人に様々なインパクトをあたえずに置かないようである」と書き、「宮本百合子全集」を「今度こそ読破しよう、という気を呼び覚まされている」と結んでいた。

 

私は「道標」「貧しき人々の群れ」「伸子」「二つの庭」「播州平野」「十二年の手紙」など主要な作品は読んでいたが、分厚い全集の中から、机上に置いて読んだのは、「禰宜様宮田」や「風に乗って来るコロボックル」くらいで、その後も分厚い日記や評論もおさめた三十余巻の全集の殆どを書棚に置き去りにしてきた。老化がすすんでいる今、残された時間は限られている。「百合子全集」だけでなく、「プロレタリア文学集」も心して読みすすもうと思っている。

 

 

 

 

 

 

233号

  民主文学に関わっての六十余年を振り返る(四)      福山瑛子

 

 

 

「風の道」を出版するまでに三年半もかかったが、それは赤旗編集局を辞めた直後に地域の党支部の支部長をやらざるを得なくなり、その上、日曜日を除き毎日、日刊紙四十部の早朝配達をやり、支部ニュースや後援会ニュースを作り、買い入れた謄写版で刷って配布するという多忙をきわめた日々になったせいである。

 

先日、写真を整理していたら、一九八五年一月、私が大阪に転居する直前に民文足立支部が送別会を開いてくれた時に撮った写真が出てきた。平瀬誠一さん以外で、名前を覚えているのは、当時既に八十代に入っていた菅谷俊一氏だけである。写真前列中央に菅谷さんと私が並んで坐っている。会が終わり、北千住の駅で別れる時、「これが最後」の思いがこみ上げ、私は菅谷さんと互いに激しく手を振り合ったのを思い出す。彼は、その直前に「地底の水脈」(全三巻)を出したばかりだった。この三冊は、今も私の本棚に並んでいる。

 

 取り出して数頁読んでみると、全然記憶にない。忘れてしまったのではなく、これまで読まずにいたのだ。私は遅ればせながら、「地底の水脈」を読み始めた。菅谷氏は若い頃、靴工として働き、靴工組合の書記をしており、日本共産党員(自称、赤)で、一九三六年、治安維持法で逮捕され、ひどい拷問を受けていた。靴工場では三七年には軍靴をつくるようになる。彼は靴工場を舞台にした戯曲を書き始める……

 

菅谷さんを小父さんとしか見ていなかった私は、慙愧の念でいっぱいになった。彼は優れた書き手だった。「地底の水脈」は、手にした時に読むべき本だったのだ。

 

私が大阪八尾市で暮らし始めた夏、三谷秀治さんが、「火の鎖―和島為太郎伝」を出版された。三谷さんは八三年まで、共産党衆議院議員だった。「火の鎖」は部落差別とたたかった和島氏の伝記小説である。私は「火の鎖」出版祝賀会に民主文学の仲間とともに出席した。祝賀会で、大阪市議会議員だったT氏から声をかけられたが、彼は「民主文学」の読者で、話が弾んだ。

 

「民主文学」八六年二月号が「総特集=宮本百合子と現代――没後三十五周年記念特集」をやり、座談会の他、「百合子を読み直す」と表題のもと、私は「『伸子』を読んで」を書き、松木新さんが「『風知草』から学ぶもの」と題して書いている。当時、私は松木さんを知らなかったと思う。

 

「最後の贈物」の次に私は「ちいさな庭」を書いたが、これは、一九八六年十月号に載った。大阪にいる時に書いたもので、テーマは天皇制比判である。私が「赤旗」紙の集金を担当していた二十余人の読者の中に戦争未亡人、原田牧江がいた。牧江は市営住宅に住み、そのちいさな庭にはチューリップなどの花が咲き、月桂樹の木があった。彼女は花だけでなく、「スープに入れるといい香りがする」と言って、月桂樹の葉を何枚も採ってくれた。彼女は俳句をたしなみ、玄関の横の壁に自作の短歌を額に入れていた。そこに「帰らぬ人と知りながら仰ぎ見る南の空に星の流れる」と書かれていた。私が「『帰らぬ人』って、もしかしてご主人?」と訊くと、「そうですねん、戦争で殺されましてん」と答えた。正面に秋の野辺を描いた素敵な絵が額に入っていた。「ご主人が描かれたの?」と問うと、牧江は頷いて「多趣味な人でなあ、私に短歌の手ほどきをしてくれたのも主人でしてん」と話した。ご主人は召集されて間もなく、牧江が女の子を出産したことも知らずに戦死したのだった。彼女は「せめて三ヶ月はやく戦争を終わらせて欲しかった」と言い、天皇を激しく罵った。天皇への憎しみをあらわにした彼女に私は返す言葉が見あたらなかった。私は宮城の広々とした庭と対比させて、表題を「ちいさな庭」としたのだった。

 

「民主文学」十月号のトップに草薙秀一氏の「蜜柑畑」が、「ちいさな庭」は二番目に載っている。民文大阪支部例会でこの二つの作品を取り上げて合評したが、どんな意見が出されたのだったか、もう記憶を取り戻すのはむずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

232号

  民主文学に関わっての六十余年を振り返る(三)      福山瑛子

 

 

 

 前回、私は自分の作品が八五年に初めて「民主文学」に載ったことを書いたが、それ以前に書き忘れたことがある。遡って書かせていただく。

 

 私の手元に「『民主文学』総目次―創刊から三五七(通巻四〇七)号」がある。ここに、一九六五年十二月の創刊から一九九五年までの「民主文学」に載った小説や評論が並んでいる。創刊号には、中里喜昭、奥野正男、円乗淳一、浅尾忠男、中島健蔵の小説が載っている。中島健蔵の作品は「朝風」と題して、六六年四月号まで五回連載されている。その頃、中島健蔵氏は日中文化交流協会理事長だった。

 

六二年から、私は社員二十人ほどの日中貿易をするH社で働いていたが、国貿促労組(日中貿易商社の総合組合)が主催して、中島健蔵氏を招いて講演会を開いたことがある。話の中身は忘れてしまったが、温厚な人柄がしのばれる話ぶりだったのを思い出す。

 

私はH社で労働組合を立ち上げ、委員長に推され、団体交渉で男女平等を主張したこともあり、課員三人の輸入課・課長になり、三十二歳の六五年春、中国へ五十日間、出張した。北京で商談を済ませたあと、広州で開かれた見本市でも商談に臨んだ。中国では、文化大革命が始まろうとしている時だった。秋には文化大革命が本格化し、H社の社長は共産党員だったが、離党して中国貿易を続ける一方、党員社員を解雇し始め、私も九月に首切られた。失業中、私は「赤い蕾」と題して長編小説を書き始め、入党に至る経過を追っていた。

 

 職探しをしている時、赤旗編集局から声がかかり、六六年十二月から文化部のテレビラジオ欄担当の記者として働き始めた。部長は評論家の津田孝さんだった。私と同じ日に詩人の土井大助さんも文化部に採用され、二人で健康診断を受けに病院へ行く途中、自己紹介をし合った。土井さんは中国から帰国されたばかりで、私同様文化大革命で失職されたのだった。土井さんは、十年余、楽しげに文化部の仕事をされていたが、その後、「民主文学」の編集に携わるようになった。私は文化部、婦人家庭部、外信部、と局内を移動し、最後は日曜版編集部の「世界の窓」を担当。十五年間、「赤旗」記者生活を送った。

 

 記者をしながら、私は民主文学同盟(当時)の支部活動を止めなかった。住んでいた春日部市の武里団地で、六八年に支部誌「ひとふさ」を発行し、二号に労働組合結成までを描いた「足音」(百六十枚)を書き、三号に「元旦の客」を書いた。三号で澤田章子さんが、「『足音』について」と題して、評論を書いてくださった。

 

八一年春、「創作に打ち込むためには、赤旗編集局を辞めるしかない」、と考え、上田耕一郎編集長に辞職願を提出した。辞める理由を訊かれ、「長編小説を書きたいのでͰͰͰ」と答えると慰留されたが、私の気持ちは変わらなかった。退職後、直ぐに執筆にかかったが、完成までに四年近くかかり、八四年十一月に「風の道」と題して自費出版することができた。「風の道」は、K先生との初恋からFとの結婚までを描いた三百枚の青春物語である。

 

(二月の「通信」で、「記者になった六〇年」と書き出しましたが、六六年に訂正します)

 

 

 

 

 

 

 231

 

   民主文学に関わっての六十余年を振り返る(二)

 

           福山瑛子

 

 

 

 私が赤旗記者になった六〇年の一月に、私たち夫婦は埼玉県春日部市の武里団地に移り住んだ。ここに澤田章子さんが住んでおられて、「新日本文学」の読書会を澤田宅や私の家で開いた。会には隣の越谷市に住んでいた鶴岡征雄さんも参加され、彼はちいさな女の子連れのこともあった。六五年からは「民主文学」の読書会になった。

 

澤田さんが離婚されて、都内に転居されてからは、春日部在住の瀬戸井誠、塚原理恵夫妻らが加わった。この武里団地に、私は十七年間も住んだ。

 

 七七年一月、私は東京都足立区に建った新しいマンションに移り住んだ。足立区には平瀬誠一さんがおられ、民文足立支部の支部長をされていた。北千住の喫茶店で毎月例会をもち、八二年に支部誌「葦立ち」を発行した。私は創刊号に小説「明日葉」を、二号に、「ギリシャ甕のうた」というエッセイを載せている。

 

 私の作品が初めて「民主文学」誌に載ったのは、一九八五年の七月号で表題は「最後の贈物」。その年の一月、夫が彼の兄に懇請され、兄の会社を手伝うことになり、私たちは大阪の八尾市に転居していた。

 

二月初め、旭川在住の高校時代からの親友Y子が危篤という電報が来て、急遽、私は大阪から旭川へ飛んだ。私はその前年にルーマニアを旅して買った人形を持参していた。駅から病院へ直行して、私はベッドに横たわるY子に人形を手渡した。しかし、その翌日、彼女は息を引き取った。彼女はクリスチャンで、葬儀は教会で行われた。彼女の夫に頼まれて、私は友人代表で弔辞を読んだ。大阪に戻ってからも、にっこり笑って人形を手にした時のY子の顔を思い浮かべたりして、しばらく、彼女との思い出に耽った。そのうちに、彼女とのことを作品化しようと思うようになり、「最後の贈物」を書いたのだった。七月号には、私のこの作品と平瀬誠一氏の「笹笛」が肩を並べて載っている。

 

その頃、私は、「民主文学」大阪支部の例会に毎月、欠かさず出席していたが、会は支部長で詩人の犬塚昭夫さんの自宅で開かれていた。私は数冊、彼の詩集を買ったが、詩が好きな友人にプレゼントしたため、今、私の手元には、彼が編集した「反核平和詩集」全五巻があるだけだ。犬塚さんがあとがきを書き、彼の家が「核戦争に反対する関西文学者の会」の所在地になっている。彼は各巻に詩を書き、第五巻に「たんぽぽの歌」と題し、放射能で巨大化したたんぽぽの葉を悲しむ詩を載せ、核戦争を憎む思いをあらわにしている。

 

彼はご自分の詩の一節を色紙に独特の筆跡で書き、額に入れて売っていた。私が買ったのには、「ここはおれの土地 そこはおまえの土地と 言いはじめたときから 鴉は自由でなくなった」と書かれている、彼は二〇〇三年、六月に六十四歳で亡くなった。

 

 

 

 

 

230

 

 民主文学に関わっての

 

六十年余を振り返る

 

               福山瑛子

 

 

 

私は女子大でサークルの一つ、近代文学研究会の会員になった時(一九五一年、十八歳)から、チューターの新日本文学会会員のK先生に奨められて、「新日本文学」を読み始めた。現在、新日本文学会は消滅しており、「新日本文学」も廃刊になっているが、当時は宮本百合子が「歌声よおこれ」と呼びかけ、その中で、「民主なる文学ということは、私たち一人一人が社会と自分の歴史のより事理にかなった発展のために献身し、世界歴史の必然な働きをごまかすことなく映しかえして生きてゆくその歌声という以外の意味ではないと思う」と書いた。

 

当時、「新日本文学」には、霜多正次や佐多稲子らが小説を、佐藤静雄やK先生らが、評論を書いていた。

 

私は女子大卒業後、K先生にフランス語を習い、二年ほど先生の家に出入りした。一九五五年から七年にかけてだった。その頃の私はK先生に恋をしていた。

 

 リアリズム研究会(以後、リア研)が発足したのは、一九五七年である。今、手元に参加者全員で撮った写真があるが、会場正面に「現実の変革を目ざす新しいリアリズム文学の創造」、「リアリズム研究会第一回全国研究集会」の二枚の大看板が掲げられている。私はこの第一回全国研究集会に出席した。リア研は新日本文学会が主催する研究会だったのだ。

 

その頃の私は、独身で東京都杉並区西荻窪に住んでおり、杉並区在住の新日文のメンバーと連絡をとり、三、四人で読書会を開いていた。その中の一人にプロレタリア文学の作品を書いていた作家の山田清三郎さんがいて、そば屋の二階で膝を突き合わせて話し合った記憶がある。

 

私は安保条約反対運動が高揚した六〇年一月、共産党本部勤務員だった福山と結婚した。彼も西荻窪に住んでいて、私も参加していた近代史研究会のメンバーだった。(K氏との恋愛から福山との結婚までの経緯を私は、長編小説「風の道」(八四年十一月刊)に書いている。結婚した年の十二月に私は赤旗編集局で記者として働くようになった。

 

六四年三月、新日本文学会が、部分核停条約支持を会員全体に押し付ける対ソ盲従のセクト的な運動方針をとり、共産党員であった会員の霜多正次氏や津田孝氏を不当に排除した。この二人を含め新日本文学会から排除された会員たちが、翌六五年に日本民主主義文学同盟を発足させた。私も同盟員になり、三月の第一回大会にも出席した。その頃、民主文学同盟の事務所で開かれた月例会には、私も記者活動の合間を縫って参加した。(つづく)

 

 

 

 

 

 

229

 新船海三郎著

 

『戦争は殺すことから始まった』を読んで         

 

福山瑛子

 

 

 

 本の表紙の帯に「世情がきな臭く動くなか、もう一度、あの戦争が何だったのかを考えたい。日本軍が何をしたか、文学はどうえがいてきたか」とある。

 

 新船氏は「序 戦争体験は語れないが」で、「戦後七十年」の二〇一五年に出版または再刊された本として、大城立裕「対馬丸」、石川達三「風にそよぐ葦」、堀田善衛「時間」吉村昭「昭和の戦争」などを挙げ、阿川弘之や野坂昭如の訃報に接し「雲の墓標」、「火垂るの墓」を読み返している。

 

 著者は一九四七年の戦後生まれ。「戦争体験者は高齢のうえにも高齢であり、早晩、いなくなる」という状況の中で、「戦争体験をどう引き継いでいくのかという課題に私たちは直面している」と述べている。

 

 私は一九三三年生まれで、新船氏より十四も年上。彼に比べれば、戦争体験があり空襲の怖さも経験している。「戦争はいや」の思いを込めて、この本を紹介する。

 

本書は四章から成り、第一章「それを見た作家たち」の中では、石川達三「生きている兵隊」には伏せ字が多かったこと、火野葦平は自分の兵隊体験を小説化したことなどを紹介している。

 

 第二章の「もう鬼子とは呼ばない」では、堀田善衛の「時間」と田村泰次郎の「裸女のいる隊列」を、第三章は「かんにんしとくなあれ」と叫ぶ兵で詩人井上俊夫を取り上げ、詩と長編の回想記録「初めて人を殺す」を紹介している。また、藤枝静男の「犬の血」を挙げ、軍医が犬の血をスパイとされた「満人」に輸血するてんまつを記している。また、この章で三千人をこえる中国人捕虜を「マルタ」と呼び、二日に三人の割合で殺害した七三一部隊が、敗戦を間近にして「マルタ」全員を毒ガスで殺害し、骨灰は松花江に流して証拠隠滅をはかったこと、七三一部隊を発案し主導した石井四郎のことも記している。それを「悪魔の飽食」に作品化したのは、森村誠一だった。

 

 第四章「「後尾収容斑」なる殺害部隊」の第一項では、殺したのは「敵」だけではなかった例として、トラック島で亡くなった受刑者の半数は栄養失調や逃亡の刑で撲殺されたことを挙げ、この島に居た窪田精が、敗戦後、「流人島にて」で、その詳細を伝えた。第二項の「戦いすんで、それでもなお΀΀Ͱ」では、沖縄戦を取り上げ、住民死者は九万四千人で、集団自決による犠牲者は、その一%強とされているが、今も正確につかめていない、としている。

 

 本書には、付記で「一九三〇年代の抵抗線――武田麟太郎と「人民文庫」の場合」が収まっている。当時、日本でも、スペインやフランスの人民戦線に鼓舞されて、唯物論研究会が発足し、ここに集う文筆家は、「社会評論」、「世界文化」「学生評論」などの雑誌に寄稿して時勢に抵抗していた。武田麟太郎が主宰し、本庄陸男が編集長をつとめて一九三六年に発刊した文芸誌が、「人民文庫」だった。

 

 新船氏は武田を評価し、その生涯について紹介しているが、彼は蔵原惟人らの「前衛芸術家同盟」が提唱した「日本左翼文芸家総連合」の創立総会に参加し、書記として働いた。武田は二九年二月の「日本プロレタリア作家同盟」結成後は東京支部江東班に配属され、松田解子らと文学サークルをつくって活動した。山本宣治の葬儀に出席して警官に追われ、身を隠すが、亀戸署に拘留される。そうした体験をもとに「暴力」、「反逆の呂律」など、次々にプロレタリア小説を発表する。作品は、「文芸春秋」、「中央公論」などに発表された。

 

 私は武田麒太郎の作品を読みたくなり、書棚の「初期プロレタリア文学集」を取り出して探したが、彼の作品は見当たらなかった。新船氏に問い合わせると、講談社文芸文庫で、「日本三文オペラ」が出ていて、ここに「市井事」、「井原西鶴」などが入っているそうだ。

 

 安倍首相が憲法改悪に乗り出し、平和が脅かされようとしている今、新船氏のこの本の一読を奨めたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 226

 

 

 

コスタリカやキューバの今を伝える

 

伊藤千尋著「凛とした小国」を読む 

 

 福山 瑛子

 

              

 

 七月初め、「しんぶん赤旗」の広告で「凛とした小国」の出版を知ると、私は近くの本屋へ走った。かつてキューバを二度訪ねたせいもあり、同国に無関心でいられないのだ。

 

本屋にその本がなく、取り寄せてもらったのは二週間後だった。「あとがき」を読み伊藤氏がこの本を今年四月に書き上げたこと、キューバなどの最新事情を伝えていることが分かった。

 

 同書では、第一章「平和憲法を活用するコスタリカ世界で最も幸せな国」から始まり、キューバ、ウズベキスタン、ミャンマーの四カ国を取り上げている。(ここでは、第一と第二章を紹介する)

 

著者はコスタリカを数回訪ねているが、今年も行ったのだ。コスタリカは日本同様、平和憲法をもつ国である。日本と違うのは、自主的に軍隊をなくし、国家予算の中から軍事費をなくし、「兵士の数だけ教師をつくった」ことだ。二十世紀に入り、大統領選挙の不正をめぐって二ヶ月の内戦が起きたが、それが終わると反省して軍隊をなくしたのだ。現在の与党市民行動党の創立者、O・ソリス国会議員は、「選挙で再軍備を主張する候補者がいたら、一票も入らないだろう」と自信をもって話したそうである。

 

同国では移民を受け入れており、最近まで人口約四百万人だったのが、現在は五百万人を超えているという。

 

第二章の表題は「キューバは今米国との国交を回復して」である。オバマ大統領がキューバと国交を回復してから、旅行者がそれまでの三百万人から三百五十万人に増えたそうだ。うちカナダ人が最も多く、百三十万人に達し、毎日、キューバとカナダの間を十五便がつないでいるという。

 

サンタクララに建つチェ・ゲバラ霊廟は、観光の目玉になっていて訪問客で溢れているそうだ。高さ六メートルのゲバラ像が立つ霊廟の下は博物館になっているそうだ。伊藤氏は革命時、ゲバラの部下だったオスカル・フェルナンデスさんに会い、二時間にわたってゲバラについて、話を聞いている。八十四歳のフェエルナンデスさんは、ゲリラ戦士司令官、革命軍将軍の肩書きをもち、ゲバラとアフリカのコンゴでも一緒に戦った後、ハバナ市長を十年間勤めた人なのだ。彼は「ゲバラは正直で誠実な人間だった。革命後に親たちがアルゼンチンからキューバに来た時、政府が飛行機代を出そうとすると『個人のために国の金を使うべきでない』と言って拒んだそうです」などと、ゲバラの思い出話を伊藤氏に聞かせた。

 

伊藤氏は、「キューバでは経済状態が国民の体格にそのまま反映する二〇一六年一月は特段に肥っていた。(中略)街にレストランが増えた」と書き、配給制度がとられているが、「米の値段は五十年前から大して変わらず、日本円に換算して一キロが約二・五円。市場には豊富な品が並び、ここでは米一キロが六十円から九十円しているが、日本に比べれば格安だ」、と書いている。彼は「キューバが世界に誇るものが二つある」として、幼稚園から大学までの教育と医療費の無償を挙げている。現在、医科大学が二十三あり、医療専門家は約九万人もいるのだ。

 

フィデル・カストロは昨年十一月二十五日に亡くなったが、彼は遺言で火葬にするよう言い残し、昨年十二月、弟ラウルの手で遺骨は墓地の墓に埋葬されたそうだ。墓石にはFIDELと刻まれているだけだという。フィデルは自分が死後、神格化されるのを拒んだのだった。現在、ラウルがフィデルの後を継いだ形になっているが、彼自身、世襲制に反対しており、「二〇一八年に退陣する」と明言しているという。

 

フィデル・カストロが国民の幸せを願って革命を成功させてから五十八年経った。キューバは様々な難題を抱えながらも、革命の成果を守っていることを、私はこの本から感じとることができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 225

 

「文章を磨くとは?」「小説の知恵とは?」と考え込む今日この頃     

 

               福山瑛子

 

 最近の私は老化が進んでいるせいか、若い頃に比べると、書く速度が落ちている。そのせいで、地域の共産党後援会が発行する会報に原稿をたのまれたりすると、短い文(四百字程度)なのに、二、三日かかったりしている。

 

七月初め、地域の九条の会から会報の書評欄に原稿を頼まれた。読んでいたプロレタリア文学集の中から作品を選ぼうか、と思ったが、その本を持っている人は少ないと思い、取り上げる本を探しに本屋に出かけた。書棚に新刊の池上彰・竹内政明著の「書く力――私たちはこうして文章を磨いた」(朝日新書・七二〇円)があった。

 

私の周りには、書くのが苦手の人が多い。そういう人たちのために、この本を取り上げることにした。竹内氏を知らなかったが、彼は読売新聞社の記者で「編集手帳」というコラムを執筆している人だった。

 

この本は池上・竹内両氏の対談で構成されていて、竹内氏執筆の読売新聞掲載の「編集手帳」が多数引用されている。目次には「まずはテーマを決める」に始まり、「わかっていることを、わかっている言葉で書く」「とにかく『削る』練習をする」、「名文を『書き写す』意味」などの表題が並んでいる。

 

読み終えて、「私は文章を磨いてきただろうか?」と自問していた。何時も「できるだけ簡潔に」と心がけて書いてはいるが、文章を磨こうと意識したことはない。私は新聞記者生活が長かったせいで、書き馴れてしまっているのか、と考え込んだ。  

 

八十代半ばにきている私に「これから文章を磨くには、遅すぎる」と思った。年をとるということは、心に芽生えるいろんな希望に目をつぶりがちになることのようだ。

 

体調が悪く、六月例会を欠席した私は、「通信」の冒頭に載っていた松木新さんと馬場雅史さんの大会参加報告を読み、刺激を受けた。松木さんは大会後、大江健三郎の「人生の習慣」を再読していて、クンデラが講演の中で「アンナ・カレーニナ」を書いた時、姦通したアンナをよくないと思いながら、魅力的な女性に変身させたのは、「小説の知恵」であると指摘しているのに出合い、「小説の知恵」に注目している。私も「小説の知恵」について考えさせられた。

 

馬場さんは、大田努さんが「プロレタリア文学は支配階級を書かなかった」と述べた松本清張の批評(不破哲三講演)に共鳴し、「新しい時代に向かう想像力のかたち」を追求しようとしている。その意欲に拍手を送りたいと思った。

 

このところ、友人の訃報が届くことが多い。最近、毎日のように著名人――海老蔵の妻、野際陽子、砂川啓介、日野原重明らの死が伝えられている。私は五年前の八月に乳がんを患い、一時期「死」を想定する日々を送っていたが、発病以来もう直ぐ五年を越えるので、再発はしないだろう、と最近は楽観的になっている。書きたいテーマがいくつもある私は、できればそれらを書き上げた後で、この世におさらばしたいと思っている昨今なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

220号

 

童話作家の本で

 

米軍下の沖縄の実態を知る

 

福山瑛子

 

 

 

私は十七年前の二〇〇〇年に三泊四日の観光旅行で沖縄を一周したが、最近、童話作家・加藤多一著「兄は沖縄で死んだ」を読み、さらに地域の「九条の会」二月例会で、映画「いのちの森 高江」を観て、自分の沖縄理解の浅薄さを痛感させられた。

 

 今、アメリカ言いなりの安倍政権が辺野古新基地建設を進め、高江などにオスプレイが使うヘリパッドを建設している。映画でさえ、オスプレイは想像以上にひどい騒音をたてて低空飛行していた。

 

 筆者(加藤多一)の次兄輝一(筆者は十人きょうだいー男五人、女五人の四男)は沖縄で亡くなったが、どういう死に方だったか、分かっていない。

 

「色が白く目が大きく、何時もニコニコ笑っている」次兄を家族は「コウちゃん」と呼んでいた。輝一は、一九四二年に生地北海道紋別の実家から満州に召集され四四年の夏、沖縄へ送られたのだ。

 

兄の死の真相を探るため、筆者は二〇一五年までに七回も沖縄を訪れ、都道府県の数だけあるという死者を弔う沢山の慰霊塔や慰霊碑を見て回り、地元の人たちと交わり、沖縄戦の実態を探った。

 

筆者は四五年六月二十三日に牛島司令官は「最後の一兵となるまで戦え。生きて捕虜になるな」の遺言を残して自分は自殺してしまったことを知り、兄輝一は、六月二十三か四日に自殺したか殺されたのではないかと推測する。

 

訪れた北霊碑は、北海道連合遺族会{会長堂垣内尚弘)が設置し管理している碑である。ここには四〇、八五〇の戦没者が祀られ、うち三万が南方諸地域戦没者で、一〇、八五〇が北海道人戦没者なのだ。筆者は「沖縄戦で戦死した兵の六分の一が北海道人である」と記している。

 

「遺骨収集も自治体や国のレベルになると、戦争への反省がうすれ、戦死者顕彰の方向に利用されている」と筆者は歎く。

 

 筆者が言いたいのは、欧米では戦地で全軍の三分の一に達したら、戦闘を断念して降伏するのが軍隊の当たり前なのに、日本では「軍人勅諭」で降伏を禁じられ、死に絶えるまで戦う、つまり玉砕を強いられていたという理不尽さである。

 

筆者は「沖縄での戦死者の場合、家庭の拝所で祀られ、墓で祀られ、町村の慰霊塔で祀られ、平和の礎で祀られ、沖縄県護国神社で祀られ、ついに靖国神社へ。ラストの神社が一番、疲れると死者は言っている」と書く。軍隊内にはアイヌ兵もいたから、「軍隊内でアイヌ差別があったことは容易に想像できる」と書き、当時の政府が、沖縄(琉球)と北海道(外地)の兵の命を本土の兵の命より軽視していたと指摘。天皇が「軍人勅諭」を発し、宣戦布告したその責任の重大さも指摘する。

 

映画「いのちの森 高江」を見て、高江の緑豊かな自然の美しさに触れた私は、沖縄が戦後七十一年経ってもいまだに米軍の管理下に置かれていることに憤りを禁じ得ない。

 

 

 

 

 

 205号

 

山と花の歌人、

戸塚新太郎を知る

          福山 瑛子

 

十一月初旬、市立小樽文学館で開かれていた「没後50年・戸塚新太郎・山と花の歌人」展(9月12日~11月29日)を見に行った。

同展に行くきっかけは、十月下旬、私の義兄(姉の夫)の十三回忌の法事に戸塚新太郎の長男、守夫氏(義兄の姉の夫で医師)も出席していたからだった。彼が姪M子に同展の案内状を渡したので、私は「花の歌人」に惹かれ、登山家のM子は「山の歌人」に惹かれて小樽まで出かけたのだった。

案内状には「戸塚新太郎(一八九九年~一九六五年)は、北海道における代表的歌人の一人。群馬県生まれで、一歳の時、両親と小樽に移住、生涯をこの地で送った。十八歳頃から作歌を始め、小樽の青年歌人兼田駿一らと歌誌『くろばあ』を、二六年に歌誌『新樹』を創刊。二七年に小林多喜二ら小樽商出身者が興した『クラルテ』にも参加、同年『原始林』(第一次)創刊に伴い、『新樹』を合併し、翌年、編集責任者に。戦後、再び第二次『原始林』立ち上げ後も中心メンバーになり、北海道の短歌界を牽引した」とあった。

展示には短歌の他、登山した山々や、高山植物を含む色彩豊かな花々の写真があって、それらを見るだけでも楽しめた。写真の戸塚は眼が大きく、守夫氏は眼元が父親に似ていた。(彼は法要後の食事会で、私と同じテーブルで向かいに座っていた)

 

延齢草の花も実となる

この沢に

はやたちこもる夏の匂ひは

 

枝先にいまだも落ちぬ

赤き実のみやまななかまど

風に鳴りいる

 

レモン色の灯をともせるは

エゾキスゲ

花原どこも明るく映えて

 

短歌にある延齢草ヤエゾキスゲなどの花々を、私は展示の写真で知ることができた。

展示品の中には、彼の所持品もあり、共産党関係のパンフレット(「インターナショナル」、「労農ロシアの日常生活」、蔵原惟人著「ソビエト連邦の教育」etc)や小林多喜二編の「クラルテ」第一~第五、花々の自筆カットや数点の油絵もあった。絵の才能もあり、カットも油絵の色彩も観ごたえがあった。

戸塚はオリーブ短歌会に参加し、庁立小樽商業高等学校の小林多喜二、島田正策らと知り合っており、「クラルテ」に「芸術の客観性に就いて」という論文を書き、「偶語」と題して「くろばあ」に、四回にわたって短歌をめぐる評論も載せていたる。

又、春から夏にかけては自宅の庭で花々を栽培する他、二百鉢もの植木鉢に高山植物を含む花々を植えていたという。その庭は戦後、昭和天皇が小樽を訪問された時、市長の要請もあり、ご覧に入れたそうだ。

小樽の花園公園には、彼の歌碑が建立されており、「森にひそむかの妖精もいでて遊べ 

木漏れ日うごく羊歯の葉の上」が刻まれているという。

戸塚新太郎は食道がんのため、六十六歳で、この世を去っていた。

展示を通して、花を愛し、山を愛し、人間を愛し、多喜二とも親交があった彼の建設的で精神的に豊かでロマンチックな戸塚新太郎を知ることができて、私はうれしかった。

館を出た後、祝津まで車を走らせ、海辺の食堂で昼食に「ほっけ丼」をいただき、食後、直ぐ近くの丘の上の鰊御殿を見学した。鰊が大漁だった頃、大勢の漁夫を率いる親方が贅沢な暮しをしていたことが見て取れた。鰊御殿から海のかなたに、二重につらなり霞む山並みが一望でき、久しぶりに美しい風景にも出合えた。

私はこれまで数回、小樽を訪ねていて、二○○三年に浜林正夫さんを団長に東京から二十人余で「小林多喜二の足跡を辿る旅」をしたが、その時、多喜二が働いていた元拓殖銀行だったホテルに二泊した。二日目の自由行動の時、私は札幌の病床にいた弟を見舞ったが、多くの人が鰊御殿を見に行った。私も何時か行ってみたいと思っていたが、今回その願いが叶ったのだった。

後でM子が戸塚宅に電話して、第一歌集「樹海」、第二歌集「雄冬岬」以外の第三歌集「石狩湾」、随筆集「北の植物」、第四歌集「寒原」は、父親の没後に守夫氏が刊行したこと、展示の花々の写真は彼が撮ったことが分かった。私は息子の父親への愛の深さに打たれた。法事で同席しながら、戸塚守夫氏と一言も言葉を交わさなかったのが悔やまれた。

 

 

 

  199号

 

  バッシングとたたかう植村さんをアメリカでノーマさんが世話

                          福山 瑛子

 

 元朝日新聞記者で現在、北星学園大学講師の植村隆さんは、日本軍慰安婦の記事を初めて書いた人だが、読売新聞などから「ねつ造記事を書いた」と不当に非難され、昨年来、脅迫まがいの電話やメールによるいやがらせを受けている。

 私は元記者として、この件に無関心ではいられずに、昨年十二月に彼が出席したシンポジュウムに参加し、五月十六日には、「私は慰安婦ねつ造記者ではない 私は不当なバッシングに屈しない」と題する講演を聞きに行った。

 おどろいたことに、今なお彼へのバッシングが続いており、昨年夏には「娘を自殺まで追い込む」と言ってきたが、今年二月には五回目の脅迫状で「娘を殺害する」と書いてきたという。

 植村さんは今や世界の言論界から注目を浴び、BBCをはじめ、各国の放送局からインタビューを受けるだけでなく、アメリカの学者グループから招待されて四月二十八日から五月九日まで訪米し、シカゴ大、ニューヨーク大、プリンストン大など六大学で講演した。なんと、アメリカで彼を出迎えたのは、ノーマ・フイールドさんで、彼女が車を運転して彼を大学へ案内し、講演会では通訳をしてくれたのだという。ノーマさんの世話やきぶりを知り、私は彼女が日本滞在中、私たちの例会に毎月参加し、合評の後、飲み屋で語り合ったことを久しぶりに思い出させられた。

ノーマさんをふくむアメリカの日本研究者ら百八十七人が五月五日に声明を発表(八日付で紙面に)し、「慰安婦問題などの史実に向き合い、責任を率直に認めるよう」訴えたことが報じられた。五月二十日には、同声明の署名者が四百五十六人に増えたという。

日本の学者からも戦争立法成立へと暴走する安倍首相への批判と右傾化する日本を憂慮する声が上がっているが、アメリカからも同じような批判の声が上がっていることを私は心強く思うと同時に、こうした事実を知らない周囲の人たちへ伝えていかなくてはと思っている。それで私は今、地域政治新聞「ひろば」6月号の記事づくりにいそしんでいる。

 

 

 190号

 

  集い「詩のピースウェーブ」に参加して            

            福山瑛子

 

  七月初めに、「集いで話をしてもらえないか」と相談を受けた。体調が悪く、気がすすまなかったが、「道詩人会議」と「平岸の郷土と平和を語る会」主催で「詩のピースウェーブ詩と音楽を平和の花束にして」と題する集いと知り、心が動いた。

 引き受けることにして、話のテーマを「作品にこめた平和への願い」に決め、「民主文学」に書いた十三作品の中から、二十年近く前の古い三作品を選び、それをめぐって話をすることにした。いずれも「原爆ノー、戦争ノー」の思いを込めて書いた作品である。 

 集いは八月十七日午後、私の話から始まり、南米の衣裳をまとったヤチシンコスのみなさんによるフォルクローレ演奏、最後に詩人会議のみなさんによる、詩の朗読と続いた。

 私に与えられた時間は二十分なので、広島・長崎の被爆の惨禍を現地で撮った写真家、林重男さんを主人公にした「閃光のあと」と長崎の被爆者で下半身不随の渡辺千恵子さんを主人公に据えた「嫁入り道具」は、おおまかなストーリーの紹介にとどめた。

 私は「白い花」と題した作品を中心に話した。登場人物は長田新編著「原爆の子」に手記を書いた片山浩二と彼と同年齢のライターの山野八重だけである。片山は原爆投下で中学の校舎の下敷きになり、満身の力で這い出し、旧友たちの変わり果てた悲惨な姿を見、二日後に兄の死、父親の死に遭ったことを手記に書いていた。原爆の子の現在を追う記事を書くため、八重は片山の所在を調べ、取材を申し込む。片山は工房を構えるグラフィックデザイナーで名古屋の大学の図案科の講師もつとめていた。最初、彼は「取材に応じたくない理由があるんです。僕、左あごがないのです」と言った。「知らないでごめんなさい」と言う八重に「手記を書いてから十数年後にかかった病気ですから」と言い、「同年のよしみで、なんとか」とねばる八重に終に取材に応じてくれた。

 八重が工房を訪ねると、右面を見せて絵を描いていた彼はハンサムだったが、正面を向くと途端に変貌し、グロテスクといっていい顔になり、八重は思わず眼を逸らしそうになる。彼は「戦争に関係する職業に就きたくないと思い画家を目指したが、それでは母親を養えないので、東京芸大の図案科で学び、デザイナーになったこと、大学の同級生と結婚したが、妻が被爆二世を生むのは怖いというので、子がいないこと」などを語った。「あなたは、お子さんは?」と訊かれ、八重は夫の病気のため「子がいない」と答えると、「残念ですねえ」と言い、それから打ち解けてきた。彼は母親が癌で逝った翌年に自分もあごの癌にかかったことを明かし、最後に「僕たち家族は家を焼かれ、郊外に住む祖父母の家に逃れたのですが、市役所職員だった父親が帰って来ず、母にたのまれて僕が捜しに行きました。父を見つけたのですが、首から上はなかったのです」と言った。八重は驚きのあまり、言葉が出ずに逃げるように工房を出た。しかし、帰宅すると直ぐに電話で再度の取材を願い出た。「あなたを驚かせた僕が、悪かった」と言い、彼は快く二度目の取材に応じてくれた。片山は首から上がない父と同じような屍体を多数見、母にも祖父母にも父のことをしつこく訊かれたが、「死んでいたんだ」としか答えなかった。顔がなくなっていた父のことは、手記にも書かず、四十五歳になるまで独り自分の胸にしまってきたのだ。最後に片山は八重に「父のことを是非書いてください」と言ったのだった。

 私がこの小説に「白い花」という題をつけたのは、工房の片山の机の上に白いストックの花が活けてあり、彼が「僕は白い花が好きなんです」と言ったので、二度目の取材の時、八重が鈴蘭のちいさな花束を彼に贈ったことに由来する。

 私は三つの作品の主人公がいずれもみんな天国にいることを思い、若くして命を奪われた原爆や戦争の犠牲者に比べれば、私はなんと長生きしたことか、と思った。それまで乳がんの再発を怖れていたのに、急に私はもう十分に生きたと思い、もう何が私の身に起きても受容しようという心境になった。集いを機にした、忘却のかなたにあった自分の古い作品の読み返しが一つの転機になり、私の心に一種の安らぎを与えてくれることになったのだった。