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Anthology/作品集HP版

豊村一矢・松木新・進藤良次・泉脩氏の

作品掲載中

 

 

 

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朔 雪   松木 新

ログハウスの珈房イーハトブは駅の真ん前にあった。この店のモカブレンドがとても気に入って、私はいつしか常連の一人になっていた。都会生活に見切りをつけてこの地に逼塞している私にとって、唯一、過去の栄光に思いを馳せることができる場所でもあった。実際、一日に数本の列車しか停車しないこの山間の町には、イーハトブはとても不釣り合いだった。その違和感がいまの私の心根になぜか優しく感じられた。

年の瀬が迫ったその日も、少女は窓際に座っていた。白いレースのカーテンを背にして文庫本を読んでいる姿は、いつもと変わらなかった。私は夜も七時頃になると、切らしたたばこを買いがてらイーハトブに寄るのを日課にしていた。少女に気付いたのは五日前だった。

零下一〇度までにしばれてきている雪道に雪駄の音を響かせながらイーハトブの前まで来ると、窓越しに少女が見えた。初めて見る顔だった。ほどよく暖房の効いた室内に入って、曇るめがねを手で拭きながら、私はあらためて少女を観察した。色白でまつげが長く、瞳は深い藍色に沈んでいた。モスグリーンのセーターの上に真っ赤なちゃんちゃんこを着ていた。テーブル飾られているバラの花弁が、少女の頬に反射していた。八時の最終列車が通過すると、決まったように少女は静かに席を起った。私はひそかに少女を観察しながら、不埒な想像をたくましくしていた。いつの間にか、私は少女との出会いを楽しみにしてイーハトブへ来るようになっていた。

最終列車の汽笛が寒空を切り裂き、まばらな人影が駅前に散った。いつものように窓の外を眺めていた少女が、突然立ち上がると、レシートをわしづかみにしてレジへ向かった。開け放たれたドアーから、勢いよく寒気が押し寄せてきた。BGMの月光ソナタに聴き惚れていた私は、ハッと我に返り、少女の姿を目で追った。

白々とした月明かりの中を、上背のある男の手にぶら下がるようにして少女が歩いていた。大きなリュックを担ぎ、両手にミカン箱と蛸の頭を持った男は、時折、不自由な手で少女の頭をなでながら、森の奥へと去って行った。新雪の上に残された入り乱れた足跡が、夜目にも鮮やかだった。

少女が座っていたテーブルの上には、開いたままの文庫本が残されていた。私は何気なく手に取った。『啄木歌集』だった。赤い線を引かれた一首から、私は目を上げることができなかった。

 

森ゆけば酒息すなる白髪の蝦夷(あいぬ)に逢ひぬ月の光に

 

 

風は死なない   松木  新

 

暮れなずむポロトコタンに、風が出てきた。樽前山の残映が、湖面で砕け散った。

チセの中には、観光客が引き上げた後の乱雑な倦怠感が、まだ残っていた。

「こんばんは。ご無沙汰しています」

帰り支度の老婆が、怪訝そうな面持ちで,ゆっくりと振り返った。

「順ちゃんか。佐藤の順ちゃんか」

「タッちゃんが亡くなった時に顔を出せなくて。

 いま家に寄って線香をあげさせてもらったら、こっちだっていうもんだから」

「達也が死んじまってから、まるでいいことなしさ。手前の不注意が原因だもんだから、日通からは涙金しかでないしさ」

「溺れて死に損なった人間が、こんなふうに生きてきて、助けてくれたタッちゃんが、十九や二十であの世へ行ってしまうんだから・・・・・・」

「七十過ぎても、こうやって踊らなけりゃ喰っていけないんだから、達也も親不孝な奴さ。それでもオレらは地元だからいい。二風谷くんだりから半年も出稼ぎにきている踊り手が、何人もいるんだ・・・・・・」

開け放たれた窓から、夜気が迫ってきた。老アイヌのくぐもった声が、夕闇に消えていった。

 

遅くまで続いた宴会が、やっと終わった。飲み過ぎたのだろうか,胃がシクシクと痛みはじめた。

あの時もそうだった。

小学校の学芸会とはいえ、初めての大役に、その前夜、胃がいうことを聞かなかった

四年のリヤ王、五年のハムレット、そして卒業公演がオセローだった。たった四十人のクラスとはいえ、いつも端役だったのが、とうとう主人公のオセローに当たってしまった。褐色に塗り潰された顔は、なんとも惨めだった。デスデモーナ役の風子の、透き通るような白さが、まぶしかった。

 

“おそらく俺が色が黒くて、

  やさ男どものような上品な

  応待ができんので、あるいはまた俺の年齢がもう傾きかけて来たので―といっても大したことはないのだが―

あいつは俺を棄てたのだ ”

 

よく分からないままに暗唱したセリフが、朦朧とした記憶の底から浮上してくる。

「黒人将軍の悲劇か・・・・・・」

ビールを手にした男の脳裏で、いつしか、オセロー将軍の幻像と、コシャマイン、シャクシャインの幻像とが、重ね合わされていた。

 

昭和二十年代、泥にまみれたコタンの小学校は、いつも活気にあふれていた。前浜に打ち上がった鯨を見に教室を抜け出し、イワシの群を追って、波打ち際を駈けまわった。それらの多くの日々、風子はいつも中心にいた。殴り合いをしても、男の子には一歩もひけをとらなかった。エカシの愛娘として悠々と育ってきた奔放さが、周囲の子どもたちを威圧していた。

たしかに、デスデモーナは適役だった。

昭和四十年、コタンがポロト湖に移転したとき、観光で生きようとする同族の姿勢に反発して、風子は二風谷へ去ったという。音信はそこで途絶えていた。

 

「あるいは来るかもしれない・・・・・・」

同窓会の通知を手にしたとき、かすかに心が疼いたことが、気恥ずかしく思い返された。

わずかな期待は泡となって、ほろ苦さだけが口の中に広がった。イヤゴーも、キャシオも、いまはだらしなく眠りこんでいる。男には、コタンの学校も何もかもが、あのオセローのセリフに凝結しているように思われた。

虫の声が止んだ。月の光がガラス越しに揺れている。風が止んだのかもしれない。

翌朝、静かな湖面を海霧が渡りはじめた。コタンコロクルの巨像も、チセの群も、瞬時に、乳白色の中に没してしまった。かつてポロト湖が大沼と呼ばれていた頃のあの優しさが、その表情を見せはじめた。タチギボウシの紫の花弁が、見る間に水滴で濡れていく。

かすかにムックリの音が聞こえた。

低い風が足下を通り過ぎた。海霧が吹き払われた。

その場所に、やはり風子はいた。大きく見開いた瞳が、昔のままに青く潤んでいた。甲高い水鳥の音が、四囲にこだましていく。

声をかけることはできなかった。

すべての感傷を拒絶するほどの沈黙が、あたりを制していた。

男はいつまでも立ちつくしていた。