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Anthology/作品集HP版

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百人浜の真実

      進藤良次
 
 「五月会」誌三八号で、私は「砂浜の墓標」という小品を載せている。その中で「百人浜」についてあらためて興したいと書いた。この文はその続編である。
「砂浜の墓標」では、静内駅前の砂浜に墓があり、数百体の骨が埋まっていた。これは「シャクシャインの蜂起」の後、とらえられたアイヌがつかまり、虐殺され埋められた墓であろうという推論であったが、えりも町の「百人浜」もこれと全く同じ歴史的事実であろうというのが今の私の立場である。
「百人浜」というのは「南部藩が北辺の守りにつくためたくさんの兵(屯田兵)を送るため出港したが、えりも町の岬で遭難し浜に辿り着いても、餓えと寒さのため全員が死亡した」ものと伝えられてきた。
しかしそれはまっかなウソである。南部藩といえば今の岩手県であろうか。シャクシャインの蜂起といえば一六六九年(寛文九年)であり、時代的には徳川家光(三代将軍)の時代である。南部藩でも当時の記録がたくさん書かれているが、百人もの家来が出港して全員が死亡したなどという大事件は何処にも書かれていない。
では「百人浜」がアイヌの虐殺の場であるという記録がどこかにあるのだろうか。それは磯谷則吉が書いた「蝦夷道中記」(享和元年)に次のような記述がある。
「百人浜と唱ふ事は寛文年中の頃かと、シャムシャインと言う夷長津軽の金堀庄太夫といへるものを婿として党を結び辻蝦夷地、オシャマンベ辺りまでおそい来たりしが、此の事公に聞へ、南部津軽の両家へ台命ありて、松前と共に是を討せしめ、党 百人を此の浜におゐて、誅せられしより、百人濱と名付しよし也」とかかれている。
この文面に似た文書がかかれているものもあるが、この磯谷則吉の記録が一番明確である。
えりも町(旧幌泉町)は私の生まれ育った町である。私の母親はえりも岬の出身であることもあって、百人浜には何度も小さいときから足を踏み出している。それだけに私はこの「百人浜」に強いこだわりを持っている。
しかし、この百人浜の南部藩説に疑問を持ち、これを歴史的な観点から調べたのは、原田了介(日本共産党浦河町議八期、獣医師)氏である。郷土史家、畑中武夫氏(浦河高校教諭)扇谷昌康氏(えりも中教諭、のちに苫小牧高校教諭)をたずね自説について話し合いをしている。二人の先生も「原田さんの説は正しいと思います」と肯定している。
 
ここで改めてシャクシャインの蜂起について簡単にまとめておきたい。和人が蝦夷地に足を踏み入れるきっかけとなったのは次のように考えられる。
①アイヌとの交易
請負場所による漁場の設置
②鷹打ち場として沿岸から内陸部へも手を伸ばして
 行く。
③砂金採掘のため一攫千金を狙って採掘業者がどっ
 と入り込み急増していく。
この一つずつを見てもアイヌの経済基盤を突き崩ずしていくものばかりである。
アイヌとの交易では和人が持ち込んだ米と鱒との交換ひとつをとってみても一俵=四斗が一俵八升として取引している。しかも一俵八升と鱒一五束(二本が一束)。鰊に至っては一俵(八升)と六束(鰊二〇匹を一連、十連を一束という)と言ったぐあいである。
鷹は諸大名がこぞって注文し鷹打ち人がアイヌの狩猟場を直接犯すことを意味している。
砂金採取もまた同じである。鮭の遡上に対し、川を汚すこととなり、鮭、鱒の産卵が激減することになる。
一六〇〇年代の蝦夷地はほとんど全島にわたって和人の侵略がなされ、アイヌ社会はその経済的基盤を破壊されていく。
シャクシャインの蜂起が一六六九年(寛文九年)であるが、こうした和人の侵略がアイヌの生存そのものをおびやかし、ぎりぎりのところで発生したものであることがわかる。またこうした背景を見れば、この蜂起は起こるべくして起こった必然的なものであったこともわかるのである。
シャクシャインの蜂起に呼応したアイヌは二千人といわれている。静内を出発したときに二千人であったわけではなく、行軍する村々で呼応してふくらんでいったと見るのが妥当だと思える。やがてクンヌイ(国縫)で松前藩と対峙することになる。
松前藩の軍政が最終的には一千人といわれているが、その中には砂金堀りの坑夫が二百人含まれているとか、軍人だけで一千人いたわけではない。
シャクシャインの軍は松前藩の鉄砲により退却しシベチャリ川の砦(現在の真歌山)で籠城するが、追ってきた松前軍は六百人といわれている。
シャクシャインが和議の申し入れに対して結果的に応じてだまし討ちになるが、娘婿の金堀三太夫が反対するが、息子のカンリリカの勧めで応じたといわれている。
シャクシャインはこの時六十四歳であったという。問題はこの後である。私の前作「砂浜の墓標」で、静内駅前の砂浜には、元墓地があり、何基かの墓標が建っており、卒塔婆なども立っていた。私の推論は、シャクシャインがだまし討ちで殺された後、呼応した多くのアイヌが捕らわれ、この砂浜で殺され埋められた。それは数百人に及ぶだろうと書いた。
その続きは逃げたアイヌは静内
三石浦河様似そしてえりもに至り、つかまったアイヌは、静内の砂浜と同じように、えりもの砂浜に引き出され、皆殺しに合う。そして砂浜に埋められたのであると。これが百人浜である。
私はここまで書いてある恐れにとりつかれている。私が生まれ育ったえりもにはアイヌが住んでいないという事実である。これは推論の一つかもしれないが、えりもにアイヌが元々住んでいたことは、松前藩の記録のなかにもある。私の恐れというのは、えりものアイヌは老人も子供も含めて皆殺しにされ、百人浜に埋められたのではないかという恐れである。百人浜はアイヌの虐殺の場であり、アイヌは根絶やしにされたのではないかというものである。
 
 後日談になるが、えりもにもウタリ協会(現アイヌ協会)というのがある。私の同級生も加盟しているという。その同級生は本人も、その祖先もアイヌなどではない。ウタリ協会に入っていると、組織的な恩恵があるからと言う理由である。静内アイヌ協会の支部長大川勝氏にその話をしたら、「えりものウタリ協会」の内容は百%ウソの内容であると話された。
 百人浜の真実は、もっとこれからも、掘り下げられなければならない課題であるようだ。