234

 

 

 

エッセイ

 

    ここほれわんわん

 

               大橋あゆむ

 

 

 

 最近、じゃない。ずっと前から、顔は浮かぶのに名前が出てこない。洗剤のコマーシャルに出てくる、白いワイシャツ姿が眩しいイケメンの名前は何だっけ。アレだよ、アレ。出そうで出ないのは気色が悪い。と思っていたら、テレビで「麒麟のなんとか」で主演するのは「長谷川○○」。名前がわかったぞ、と喜んでメモしようとしたら、忘れた。

 

 昭和・平成初期の歌番組をテレビで懐かしく観ていたら、後で歌詞やメロディーが浮かんでくる。「○○発、夜行列車降りた時から」どうしたんだっけ。最後の「津軽海峡冬景色」で、石川さゆりのそこはかとない襟足と手振りは思い浮かぶが、歌詞は途切れ途切れでわからない。今となっては雪の中。

 

 ちあきなおみの「喝采」は好きな歌なのに、「いつものように幕があき」哀愁漂うちあきなおみの顔は浮かんでくるが、なかなかすんなりと歌詞が出てこない。「あれは三年前」次はなんだっけ。「汽車にひとり飛び乗った」後はどうしたんだっけ。切なげに物語は続いていくが、わたしの記憶は続かない。メロディーが聞こえる中で、降り注ぐライトに立ち竦むだけ。

 

 かわいいわんちゃんがおもしろい仕草をする番組で、ふと、ここほれわんわんのポチを思い出した。正直じいさんには大判小判が出てきて、いじわるじいさんには何が出てきたんだっけ。気になると眠れなくなる。ヘルパーさんに訊いてもわからない。事務職員さんが検索してコピーを渡してくれた。ここほれわんわんでなくて、花咲かじいさんという童謡だった。

 

 歌詞は三番まであって、一番目に、いじわるじいさんには瓦や貝殻が出てきたことがわかって、ほっとした。二番目に臼ほって餅をついたとは知らなかった。最後の三番目で、やっと花を咲かせるじいさんが登場する。いじわるじいさんが灰を撒いたら、殿様の目に入り牢屋につながれた。へえー、そうだったのか。童謡の結末にしては、なんだかなー。

 

 検索した事務職員さんのアイデアで、毎月替わる食堂の白い壁は、花咲かじいさんの花でいっぱいになった。その花は、わんちゃんの散歩中に転んで右手首を骨折して休んでいたヘルパーさんが、手首に装具をつけて、中二の娘さんに手伝ってもらい、色とりどりのお花紙で作った花だった。花咲かじいさんと並んでいるおばあさんもポチも笑っている楽しい壁は、痛かった。

 

 それにしても、ここほれわんわんは何だったのか。娘が言う。「絵本の中で、ポチがここほれわんわんと、おじいさんを励ますんだよ」と。そうなのか。じゃあ、わたしはわたしを励まそう。ここほれわんわん!

 

 

 

 

 

 

 232

 エッセイ  おひなさま

 

               大橋あゆむ

 

 

 

 おひなさまの七段飾りを初めて見たのは、小樽にいた小学三年生の頃だった。「おひなさまを飾ったの。家に遊びにおいでよ」とくつ箱の前でいつも一緒に遊んでいるみんなに女の子が声をかけた。オレもワタシもと男の子三人、女の子を入れた六人で、ランドセルを背負ったままはしゃぎながら初めて女の子の家へ行った。

 

 女の子の家は学校区域の一番端の方で、ゆるやかなのぼり坂の上には白い洋風な二階建ての家が樹々に囲まれるように建っていた。みんなはびっくりして坂の途中で立ち止まった。みんんなの家も周りの家も平家建てだったから、「すてきなお家」とか「外国人の家みたいだ」とか小さい声で言って、口をぽかんとあけたまま見上げていた。女の子が「このお家はお父さんの会社が借りたお家なんだよ」と言ったら、みんなは「ワーイ」と我先に玄関へ走って行った。わたしは何だかほっとして、女の子の手を握ってみんなの後ろを走って行った。

 

 女の子が「ただいまー」と言ってみんなで玄関に入ると、花柄のエプロンをつけたお母さんが出てきて「あら、いらっしゃい」とにっこりほほえんだ。皆は身体をくっつけ合うようにして「おじゃましまーす」と一斉に頭を下げた。長ぐつをぬいでそろえ、上着やランドセルを並べて置いた。いつもならどの子の家へ行っても、くつはぬぎっぱなしで上着もランドセルもぐちゃぐちゃに投げているのに、今日のみんなは行儀がいい。

 

 お母さんに案内された畳の部屋はとても広く、壁側に七段飾りのおひなさまが飾ってあった。部屋の真ん中には大きな座卓があり、座卓のテーブルかけはビニールの真っ白いレース模様がきれいだった。みんなできちんと背中をまっすぐにして座った。お母さんが「ちょっと待っててね」と言って女の子と部屋を出て行ったとたんに、みんなで立ち上がりおひなさまの前に行った。誰かが「七段飾りを初めて見た」と言ったら、オレもワタシもと言いながら頷き合った。「これ本物か」と花瓶に挿してある桃の花びらにさわったり、「これ本物じゃないよね」と小さな台にのった菱餅をつついたり、「ちっちゃいな」と笛や太鼓を人差し指でなでたりした。

 

 慣れてくるとみんなで部屋をキョロキョロと見渡した。おひなさまの反対側の襖の上の方には、ずらっと何人ものおじいちゃんとおばあちゃんの写真があった。真ん中に「あっ、天皇陛下さまと皇后さまの写真だ」「うちにあるのと同じ写真だ」と。「うちにはないよ。おじさんの写真はあるよ。戦争で死んだんだって」「うちもおじいちゃんの写真があるよ。戦争で死んだのかな」「病気で死んだんじゃないの」と「ある」「ない」で盛り上がっていた。廊下のドアが開く音がしたので、みんな急いで座卓に座った。

 

 女の子が小樽で有名なケーキ屋さんの箱を持って、お母さんが紅茶セットを銀のお盆にのせてきた。みんなでいちごショートケーキを食べている間にお母さんが「このおひなさまは私のおばあちゃんの時代のものなのよ」と話し続けていたが、誰も聞いてはいない。みんなが食べながら何度も頷いていたのは「○○○のケーキ」と、頭の中で歌いながらリズムをとっていたからだった。

 

 今思えば、テレビ番組の「なんとか鑑定団」に出てくるような由緒あるおひなさまだったのかも知れない。みんなは女の子の家では言ってはいけないと思っていたので、外に出るとすぐに「古いおひなさまで怖かった」とか「赤い毛氈は赤くなかった」とか「鏡台やタンスが剥げていた」とか「おひなさまの顔が怖かった」とか、いっぱい言ってから「○○○のケーキ」と大きな声で歌いながら歩いた。

 

わたしはおひなさまの顔というよりは、目が怖かった。焦点の合わない目は怖い。今でなら「悠久の彼方を」なんて、かっこつけた言葉のひとつでも言ってみるのだが……。

 

 

231

 

   おやつにはまる      大橋あゆむ

 

  前にはよく甘いものが好きで、どらやきやシュークリームなどを食べたり、コーラやサイダーを飲んだりしていた。そのうち何だか甘いものをみるのもイヤになり、急にしょっぱいものを食べたくなった。娘がコンビニやスーパーのおつまみコーナーから、いろいろなメーカーの食べきりサイズを買ってきて試しに食べることになった。チーズたら、カルパス、イカくん、オー、なつかしいおつまみだ。ミニサイズのチーズかまぼこに魚肉ソーセージ。アー、まるちゃんの魚肉ソーセージにマヨネーズと七味唐辛子をつけて、かじりながらビールを飲んでいたっけ。発泡酒のビールは香りがじゃまして、やっぱりアサヒのスーパードライでしょ。

 

 なんて、なつがしがっている場合ではない。何だか身体の調子が悪いと思っていたら、検査の結果、亜鉛と鉄が不足しているという。「亜鉛?」と、驚いてつい大きな声で言ったら、透析の主治医が「そんなに驚かなくてもだいじょうぶですよ。亜鉛と鉄はもともと身体の中にあるものでとても大切な働きをしています。今、数値が下がって悪さをしているのです」と、検査表を見せながら亜鉛と鉄の治療をする説明をしてくれた。そしてわたしの不安そうな顔を見てから、胸の上に伏せてある透析中に読んでいる本に目を向けた。沼田まほかる「彼女がその名を知らない鳥たち」(幻冬舎文庫)。おもしろいですかと訊かれてハイと頷いた。「僕はこの作家を知りません。調べてみます」と言ってから「どうぞ楽しんでください」と頭を下げてにっこりほほえんだ。この主治医の笑顔でわたしの不安は消えた。

 

 鉄不足の方は治療してもなかなか数値が上がらず、輸血400㏄をすることになった。看護師さんが輸血のパックを持って確認するために「血液型は何ですか」と訊く。O型はRHプラスとマイナスがある。どっちだっけ。RHの後が言えないでいると、「プラスですね」と言われた。

 

 亜鉛が不足するともの忘れが多くなると、テレビの「主治医がなんとか」という番組でやっていた。日常、心がける食べ物で少しは改善するそうだ。実験に協力したもの忘れが多い母親が食事のたびに粉チーズをふりかけて、数値が少しよくなっていた。娘にその話をしたら、さっそくチーズクラッカー、チーズサンドビスケット。さらに鉄不足にレーズン、プルーン、チョコレートなどが加わった。チーズたら3本にチーズサンドビスケット2コとか、イカくん3つにプルーンが3コとか。組み合わせを忘れてチーズかまぼこばかり食べたりとか。

 

 イケメンの妻夫木のビールはおいしそうだが、矢沢のエイちゃん、ビールグラス片手にノリの悪いステップ。昔のキレ味はどうした。と、飲めないビールのコマーシャルにケチをつけながら、おつまみを食べる。

 

いいんだな、これが!

 

 

 

 

 

230

 

 エッセイ 「シワシワネーム」

 

              大橋あゆむ

 

 

 

 「キラキラネーム」というのがあって、テレビのバラエティー番組で一歳から五歳くらいの男の子や女の子が母親に抱っこされたり手をつないだりしてぞろぞろ登場した。胸に大きな名札をつけている。その中から三つ。心愛、七音、明日。司会者が「何ちゃん、何くんでしょうか」と。出演している芸能人たちは誰も答えられない。名札を裏返すと、ふりがながついている。

 

(心愛)ここあちゃん、(七音)どれみちゃん、

 

(明日)ともろうくん。「エー?」と出演者が一斉にのけぞった。わたしは思わず母親の顔を見た。どの母親もきれいな顔立ちをしていてスタイルもいい。長い髪は茶色でふわふわしているかストレート。服装や化粧にもセンスがあり、出演している女性芸能人と大してかわらない。それなのに読めない名前をつけるのはなんだかなー。

 

 そういえば、「キラキラネーム」は間近に二人いた。夜勤の二十二歳の女性ヘルパーさんはおじいちゃんがつけたという侑奈(あきな)。みんなが(ゆきな)と読むので、いちいち説明するのがめんどうだからそのまま(ゆきな)と呼ばれているとのこと。違う名で呼ばれるのは切ないなー。もう一人は二十六歳の男性ヘルパーさん。お父さんがゲームやアニメが好きで主人公の星也(せいや)とつけた。彼は介助の時、パジャマのズボンを後ろ前にはかせることがある。まっ、イケメンだから許してやろう。

 

 伊東ひろみ「キラキラネームの大研究」(新潮新書)には、手真似(さいん)くん、愛夜姫(あげは)ちゃん、紗冬(しゅがあ)ちゃん、となんでもありらしい。「日本語の漢字はタトゥーのようになんの意味もなくなる。外国人が首のところにふろおけとほってあった。笑えなくなる」と書いてあった。なんだか背中がざわざわしてくる。

 

「キラキラネーム」に対抗して「シワシワネーム」というのがあると教えてくれたのは、知り合いの三十代の娘さん。たまたま仕事の帰りにわたしの部屋に寄ってくれた。ちょうどこの原稿を書いている時だったので話は盛り上がった。

 

「シワシワネーム」はあえて古風な名前をつける。都(みやこ)、尊(たける)、華(はな)、○○太郎など。ストレートな呼び方で日本的で古式ゆかしい雰囲気があるとのこと。○○太郎といえばこれも間近に二人いた。夜勤ヘルパーの侑奈さんの弟は幸太郎、いとこは隆太郎。

 

 娘さんが原稿に書いてある「キラキラネーム」はまだかわいい方だと言う。今携帯で話題になっている中から三つ。光宙(ぴかちゅう)、黄熊(ぷう)、今鹿(なうしか)。それはひどい。ひどすぎる。ピカチュウ、くまのプーさん、風の谷ナウシカか。宮崎駿監督が泣くぞ。今は英語でナウ。「今コンビニにいるよ」を若者ことばでメールをうつと「コンビニ、ナウ」となるらしい。

 

 名前でいじめ合う。自分の名前を言うのが恥ずかしい。就職の時こんな名前をつけた親に育てられたから偏見を持たれ不利になる場合がある。将来どうなるんだろう。そこで娘さんが言う。十五歳になると裁判所で親の承諾を得なくても「キラキラネーム」の弊害を訴えると改名できることもあるそうだ。それをきいてほっとした。でも十五年もたつ前に親が気づいてよ、ねっ。娘さんが頷いた。

 

 それにしても「シワシワネームというネーミング。「シワシワ」なんてドキッとするじゃないか!

 

 

 

 

 

 

229 

 エッセイ

     まっ、いいか

               大橋あゆむ

 

  男心と秋の空はなんとかで、特に十月の空はあやしげだ。暖かいのに急に冷たい雨が降ってきたり、晴れているのに寒い風が吹きつけてきたり。普通の日はそれどもいいが、選挙日はきっぱりと晴れていてほしい。

 

「私、一度も選挙に行ったことがないんですよ」と、五十代ちょっとのヘルパーさんが言った。仕事が忙しいからかと思ったら、「めんどうくさい。何かもらえるんだったら行きますけど」と言ったので笑いそうになったが、笑ってはいけない。わたしが「テレビインタビューで若い人が、コンビニとかスマホとかインターネットで投票できるといいのに、と言ってたよ。今どきの人だねえ」と言ったら、「ハタチになったら選挙するってわかってはいたんです。国民の義務だから。アレ、権利だっけ?」

 

「わたしは一度も選挙を休んだことはない。息子も娘も。入院している時は看護婦さんに付き添ってもらい、病院内投票所へ行った。車椅子生活になってからは当日雨が降ると行けないので、ガイドヘルパーさんに不在者投票所へ連れて行ってもらった。今は『郵便等投票証明書』の交付を受けて、この部屋で投票し速達で送っている。息子は雨が降っても選挙日に行っていた。娘は友人たちと遊びに行くからと、いつも不在者投票をしていた。『エー、投票に行くの?』と、投票に行ったことがない友人たちは驚いていたという」

 

 そういう話をして、「お宅の子供たちは?」と訊いたら、「私、実は結婚していないんです」と、ささやくような声で言った。「バツ2の娘は四十代になるけど、同級生や回りの人たちの中で結婚して子供がいる人は三人くらいで、あとは誰も結婚していない。理由はそれぞれあって、「結婚して束縛されたくない」「仕事をしているから生活に困らない」「男性との出会いがない」「私も出会いがありませんでした」「娘の友人のお姉さんが三十代中ごろになっても結婚しないので、母親が心配して札幌の結婚相談所に入会させた。とてもお金がかかると母親にぐちを言われ、四回目のお見合いで気のすすまない結婚をした。知り合いの娘さんは札幌市が主催する婚活パーティに参加し、話が合った男性とラインの交換をしている」「これは縁ですね。「この間、高校のクラス会の案内がきて来年七十歳になるお祝いをするとの事。名簿を見たら六人がずっとそのままの名前だったよ」「この話で、私何だかほっとしました」

 

 それから間もなく、「私、初めて選挙にいってきました。選挙のニュースみて、いろんな党があるけど、憲法を守るっていいかなと思って、その党の代表のなになにさんに投票しました」と、にこにこして言った。

 

 施設では、いろいろな考え方の人がいるから、さしさわりのある話はしないようにしていたが、話の流れだったから、まっ、いいか。

 

 

 

 

 

 

 

 228 

 

 

 

エッセイ   よだれが出る

 

                大橋あゆむ

 

 

 

 「ご飯がススムよ、ススムくん」というテレビのコマーシャルは白いご飯の上にいろいろなススムくんをのせて、食べる姿がとてもおいしそうでよだれが出る。

 

 施設の夕食時はデイサービスやデイケアから帰ってきて皆が揃うので賑やかになる。昼食には何を食べたか、おやつの時間にはどんなデザートが出たか競うようにしゃべっている。わたしは三か所分のおいしい食事の話が聞けるので、何だか得した気分になる。

 

 入居者さんの半数くらいが、曜日によって違うが、週二回から三回、三か所のデイサービスに行くのを楽しみにしている。朝食は七時からだけど、ずいぶん早くから食堂にきて配膳を待っていたり、食べ終ったらすぐに身支度をして玄関ドア前にある椅子に座って待っていたりする。ヘルパーさんが「九時すぎないとお迎えはきませんよ。寒いからお部屋で待っていてください」と言われてもエレべーターで上がったり下がったりしている。

 

 厨房の配膳担当者さんが出勤するのは朝六時ちょっと前。食堂の電気をつけようとしたら、真っ暗い中に男性入居者さんが座っていてびっくりしたと言っていた。夜勤のヘルパーさんが朝四時の見回りの時にはもう座っていたというから、とってもデイサービスを楽しみにしているのだろう。

 

 わたしが透析に行く日は車椅子用の送迎バスが七時二十分頃来るので、夜勤ヘルパーさんに六時ちょっと前に起こしてもらい身支度をしてもらい食堂に行く。まだ男性入居者さんしかいないから、できたてのほっかほかのご飯を食べられるのはうれしい。透析に行かない次の日は、六時二十分起きなので眠いのなんのって、ボーとして着替えをしてもらっている。

 

 「買い物の日」というのがあって、自分の食べたい物や飲み物などをヘルパーさんに買ってきてもらう。ある朝食時に隣のテーブルの男性が納豆かけご飯を食べていた。向かい側に座っていた八十代の女性が「今、薬の関係で食べられなくなったけど、どんぶりにね、納豆を入れて糸がよく引くまでぐるぐるして、生たまごと長ねぎのこまかくしたのと、しょうゆと味の素を入れてまぜ、ご飯にかけずにそのままどんぶりから、じゅるじゅると食べるんだわ」と、あまりにリアルなしぐさに、わたしは思わず「よだれが出るー」と言った。そして「白いご飯にちょっとだけ、しょっぱいものをのせるとご飯がうまいよね」と、梅干し、しおから、にしんの切り込みの話をする。聞きながら口の中がじゅわーとしてきたところで白いご飯を食べるのがいい。

 

 最近入居した八十代の女性は話好きで、私の隣に座っている九十一歳の男性に話しかける。「九十一歳でしたら、これまでにずいぶんつらいこともあったでしょう」と。隣の九十一歳の男性が「一番つらかったのは、シベリアの……」と言ったとたんに、話しかけた女性はおかずの皿を不自然に膝の上にのせて下を向いて食べ始めた。隣の九十一歳の男性は「シベリアの」の続きを話そうと、律儀に箸を置いて待っている。が、女性は下を向いたまま隣にいる女性に話しかけているではないか。

 九十一歳の男性の「シベリアの」の続きの話は、めったに直接聞ける話ではない。わたしにとって、よだれが出るほど聞きたい話だったのに。アー、何ということだ!

 

 

 

 

227

 

 エッセイ  千代紙

              大橋あゆむ

 

  最近、今食べたものをカレンダーにメモしようとしても思い出せないのに、昔のことはくっきりと思い出す。施設の入居者さんからティッシュの空箱に千代紙を貼った小間物入れをもらった。なんてきれいなんだろうと手で摩ると、淡い色合いの紅葉や椿の花の合間から、ずいぶん昔のことが思い浮かんできた。

 

 あれは小学校二年生の時、突然、小樽にある継母の実家に小間使いとしてもらわれていき、また突然、中学一年生の時、札幌の実家に戻された。わたしは突然の出来事の怒りを抑えるために、常に何かに夢中になっていなければならなかった。

 

 その頃流行っていたのは、千代紙や折紙などで鶴や正方形の箱を、小さくきれいに折ることができるか、競い合う遊びだった。正方形の箱を開けても開けても小さくなっていく箱が出てくるというのがおもしろくて夢中になって折っていた。男子の方が器用で競いがいがあり、休み時間になると、わたしは爪楊枝や待針を使って五ミリくらいの鳩や箱を折ると「オー!」と言われるのがうれしかった。

 

 部活(演劇部)の女子たちに流行っていたのは、小さなマッチの空箱に千代紙を貼ってタンスを作ることだった。大きなマッチ箱は台所に、手のひらにのるような小さなマッチ箱はお仏壇に置いてあった。マッチはなかなか減らないのでタンスを作ることができない。それで女子たちと見せ合って交換する時は、千代紙のタンスではなくマッチの空箱をもらうことにしていた。「エー、これでいいの?」と呆れていた。

 

 千代紙を買うお小遣いはないので、折紙を貼って作っていた。「星のタンス」と名づけて、紺色の夜空に輝くように赤やピンクや黄色を星形に切り取っていっぱい貼った。タンスの取っ手は赤の木綿糸。女子たちは「かわいい」と喜んでくれたが、一部の男子に「貧乏くさい」と言われて、いっぱい貼った星の数だけ傷ついた。折紙でいくらがんばっても千代紙の華やかさにはかなわない。男子たちが「きれいだね」と言って、手のひらにのせて見ている千代紙のタンスが羨ましかった。眩しかった。

 

 ある日、千代紙でタンスを作るチャンスがきた。「星のタンス」とマッチの空箱を交換した女子が部活の帰りに「家で一緒にタンスを作ろうよ」と誘ってくれたのだ。お菓子の空箱にはたくさんの千代紙が入っていた。わたしはわくわくしながら、憧れていたたくさんの千代紙を畳の上に広げて見入っていた。その中から一番気に入った華やかな赤っぽい柄の千代紙でタンスを作った。タンスの縁の回りに三ミリの紺色の折紙を貼り、取っ手も紺色の手芸用の紐で作った。タンスの縁を貼った人はいなかったので、とても喜んでくれた。

 

 わたしの突然の出来事だった怒りは、消えてしまいそうだった。この、憧れていたたくさんの千代紙の中にいる限りは……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 226

 

エッセイ

   まちがいさがし

             大橋あゆむ

 

 五十円玉と百円玉はちょっと似ているので、十円玉が混ざるとわかりづらい。一日おきの人工透析で通院する車椅子用の送迎バス料金は一割負担。支払い方法は、毎月請求書の入った封筒を運転手さんから手渡しされる。二日後に乗った時、その封筒に料金を入れて渡しておくと、また二日後に領収書とおつりが入った封筒が戻ってくる。

 

 ヘルパーさんにおつりを確認してもらう。ベテランのヘルパーさんの中にはおつりが入った封筒を逆さにして手のひらで受ける。たまにおつりが床にころがることがある。この間、新しく入ったヘルパーさんに、おつりはベッドの上に出してと言ったら、封筒に書いてあった二千二百七十円のおつりをベッドの上で数えてくれた。「あ、五十円足りない。これは百円玉と五十円玉をまちがえたんですね」と言って、千円札二枚、百円玉一コ、五十円玉一コ、十円玉七コをきれいに並べて見せてくれた。

 

「オー、すごい。まちがえている!」とわたしはまちがえさがしの答えを見つけたように喜んだ。

 

 喜んだ声で送迎バスの会社に「おつりが五十円足りません」と電話するのもなんだから、施設の事務職員さんに頼んだら「電話代十円かかります」だって。間もなく運転手さんがわたしの部屋に五十円玉一コ持ってきた。「どうもすみませんでした」と頭を下げながら、ベッドの上にきれいに並んでいるおつりの五十円玉のとなりに持ってきた五十円玉一コを並べて、部屋を出て行った。わたしがその五十円玉を見てニカッと笑ったら、その五十円玉もピカッと光った。

 

 送迎バス料金の支払い方法は、最初、銀行の引き落としだった。通帳の記載は、娘の仕事が忙しくてすぐ見ることができず、三か月後にやっと通帳を見ることができた。何と、千円近くまちがっていた。これはひどい。怒りを抑えて送迎バスの会社に電話した。女性の所長さんがまちがっていた料金を持って謝りに来て、「コンピューターの入力まちがいでした」と説明をした。わたしのメモ通りのまちがっていた料金を返してもらった。

 

 そういうことがあったので、すぐに銀行の引き落としは中止にして、運転手さんに手渡しする方法にしてもらったのだ。この方法ならすぐ目で見ることができる。

 

 見えないことって、知らないうちにじわじわと迫ってきていた。手渡しの方法になってから、おつりのないようにきっちりと料金を払えばよいと思ったが、逆に五十円足りないといわれたら困ってしまうし、面倒なことになる。だから支払いには五千円札とか一万円札とか入れている。領収書の封筒におつりの金額が書いてあるところがいいのである。

 来月の請求書を楽しみに待って、まちがいさがしをしようっと。

 

 

 225

 

 

早送りの達人

 

大橋あゆむ

 

 

 

韓国のイケメンビデオをヘッドホンをして夢中になって観ていたら、わたしの肩がポンポンと叩かれた。「誰や、せっかくいいところなのに」と思って、ヘッドホンを外しながらふりむくと、息子がいた。「今、他人を見る目で見たな。オレの顔を忘れたのか」とムッとして言った。「とんでもございません。わたしが大切な息子の顔を、忘れるわけありませんよ」とあわてて言った。「イヤ、あれは確かに、他人を見る目つきだったぞ」と今度は笑って言ったので、「まことに申し訳ございません。韓国のイケメンを夢中になって観ていたものですから」と笑いながら謝った。

 

 『奔流』の原稿を提出したのでホッとして、録画しておいたビデオを点検したら残量が四十三%しかなかった。驚いたのなんのって。あー、「タイタニック」のレオナルド・ディカプリオが、マイケル・ジャクソンの「初めてのムーンウォーク」が、「理由なき反抗」のジェームス・ディーンが、「最後のSMAP」のキムタクが、消えてしまうー。毎日韓国のイケメンドラマを録画予約で6本くらい入れてあるので、観ながら消していかないと、最初に入れた分から消えていくのだ。

 

 原稿を書き終えるまで、昼間はテレビやビデオは観ないからどんどん録画が増えていく。午後の9時に夜勤のヘルパーさんがきて、睡眠導入剤を飲んでパジャマに着替えてもらい、ベッドに寝かせてもらってからビデオを観る。薬はすぐに効かないから、その間観るのは2本がやっと。それではなかなか減らないので、早送りにすると一時間ものが十分で観れる。「なんだ、それは。内容がわからないだろう」と息子があきれて笑った。

 

 そんなことはない。テレビ画面の下の方にセリフが出る。そこのちょい上に目線を合わせておき、セリフと映像を同時に集中して観る。頭がフル回転するから、はっきり言ってこれはすごく疲れる。コマーシャルが入ると、そのまま目を細めて見ないようにする。ちょっと頭を休めるにはちょうどよい。一話ずつ観るとわかりづらいから、同じものを三話まとめて観るのがコツ。

 

 お気に入りのイケメンは早送りでは観ない。もったいない。アップになったイケメンの涙は実に美しい。一緒に涙を流し、ティッシュで洟をかみながら見入ってしまうのだ。

 

 息子が「じゃあ、セリフの出ない日本ものはどうするんだ」と言う。もちろん日本ものも早送りで観る。これはものによって選ばなければいけない。バラエティーみたいなおもしろい「ボク、運命の人です」は、イケメンの山ピーこと山下智久と亀梨和也の出演で、主題歌の踊りだけはかっこいいからよく観て、あとは早送りで観る。画面の中心に目線をおき、集中して同時に、ここが大事、想像を逞しくして観る。息子が想像してみたのか、「わかるわけないだろう」と大きな声で笑った。

 

 イヤ、わかる。なんたって、わたしは早送りの達人だから!

 

 

 

 

 

 

 

 222号

 

  エッセイ さりげなく

 

              大橋あゆむ

 

 

 

 一時期カクテル・バーというのが流行った。どの種類を注文してもカクテルグラス一杯が五百円で、カウンター内でシェーカーを振るバーテンダーは若い女性だった。この目新しさとおしゃれな店造りと安さとで、若い人たちに人気となってどこの店も人で溢れていた。

 

 うちの娘は居酒屋でアルバイトをしていたが、白いブラウスに黒の蝶ネクタイに黒いベストでシェーカーを振る姿が「かっこいい」と、バーテンダー募集の面接に行った。カクテル講習を受け、数十種類のカクテルを覚え、憧れのバーテンダーになった。不況の中、飲食業もだんだん厳しい状況になり、一軒、また一軒と倒産していき、娘がはりきっていたススキノのカクテル・バーも一年くらいで倒産してしまった。

 

 娘は「せっかく覚えたバーテンダーの技術がもったいない」と、友人の知り合いが経営している「クラブ」を紹介してもらいバーテンダーのアルバイトをすることになった。「テーブル席で接客するわけじゃないし、カウンターの中でシェーカーを振るだけだから心配しなくていい」と、驚くわたしに納得させるのだった。

 

 経営者であるマスターが面談の時「バーテンダーの心得」という話をしてくれたと言う。お客様は弁護士や医師や大学教授などの方が多い。カウンターに座る方がバーテンダーに話しかける時がある。特に気を配るのは三つ。野球と政治と宗教。

 

 野球シーズンになるとお客様は熱くなる。応援する出身大学や球団はそれぞれ違うので、ついうっかり一緒になって応援しないように。お連れの方やまわりの方が気を悪くするから、試合の状況をつかんでおき対応すること。

 

 政治の話題はけっこう多い。毎日NHKのニュース番組や新聞を読んで、経済雑誌は書店などで目を通し、国内や国際情勢も把握しておくこと。

 

 さまざまな宗教があるから、偏らないで成立ちや主旨や代表者を覚えておくこと。最後に相づちのうち方。「そうなんですかー」と、語尾がはっきりしないから同意しているのか、していないのか、この微妙なところがいい、そしてさりげなく微笑んで、さりげなく頷くように。

 

 マスターはユーモアたっぷりに話してくれたとのこと。娘はこの「さりげなく」を、物事を知らなければ、さりげなく微笑んだり頷いたりはできないと理解した。それでマスターに言われた通り、毎日ニュース番組を見て新聞をよく読むようになり、国際情勢までくわしくなった。

 

 それから一か月がたったある日、娘が「どうも頭が疲れてきたから、クラブをやめて居酒屋でアルバイトをすることにした」と言った。「そうなんですかー」と、わたしが頷くと、娘はほっとした顔でにっと笑った。

 

 今もまだ、娘はニュース番組を見たり、新聞代を払えなくなったから携帯で新聞を読んだりしている。クラブで身につけた接客の仕方をいかして、居酒屋でいきいきと働いている。マスターが「バーテンダーの心得」を話してくれて、さりげなくそばにいて接客の仕方や言葉遣いなど、ひとつひとつ教えてくれたおかげだと、わたしはしみじみ思うのだった。

 

 

 

 221号

 

  エッセイ   意外なものみーつけた

                      大橋あゆむ

 

  南アフリカのノーベル賞作家であるJ・M・クッツェ―「マイケル・K」(岩波文庫・くぼたのぞみ訳)を読んだ巻末に著者紹介欄にあった「野蛮人を待ちながら」(集英社)を中央図書館に注文した。なんと届いたのは「集英社ギャラリー〔世界の文学〕全二〇巻」(集英社)の二〇巻目にあたる「中国・アジア・アフリカ」(一九九五年六月二五日第二刷発行)だった。それが重いのなんのって、厚さ五センチもあり、ヘルパーさんに体重計で計ってもらったら、九〇〇グラム近くあった。

 

「夷狄を待ちながら」という所に付箋がつけられている。なんか題名が違うし漢字が読めないしで、電子辞書をみたら「いてき=野蛮な異民族」とあった。

 

「中国・アジア・アフリカ」の中では魯迅とJ・M・クッツェ―しか知らない。これまでみたことのない意外なものをみつけたとわくわくしてきた。朝鮮短編集やインドのナーラーヤン「マルグディに来た虎」やエジプトのイドリース「黒い警官」など、十四作家二十一作品が収録されている。

 

 表紙を開くと見開きになったページいっぱいに口絵が広がっていた。何本もの縦線がびっしり画面上から下に行くまでに微妙にかすれていく。道立近代美術館で観た作品だった。鮮明に覚えている。画家も作品名も忘れていたが今わかった。李禹煥(リーウークアン)「線より」FromLine一九八〇年岩絵具182.0×227.5センチいわき市立美術館蔵。

 

 意外なものをみつけた感動に浸りながら、高階秀爾氏による口絵解説を抜粋してみる。

 

 アテネのアクロポリスの丘で、画家は地元の老人から小さな石片をいくつか貰った。それを日本に送ってからなお旅を続け、帰ってみると石片はきちんと机の上に並べられていた。画家にとっては何よりの記念である。

 

 ところがある日見ると石片が違っている。妻に問い質すと、留守の間に別人が捨ててしまったので、前の駐車場から似たような石を拾って来たのだという。画家は激怒した。あれはただの石片ではない、芸術の故郷ギリシャの聖なる石である。すると妻は、実は前の石も駐車場のものだと、驚くべきことを言った。外国からの小包を開けた子供たちが、がっかりして捨ててしまったからと。夢を破られた画家は、茫然として駐車場に出る。そして思いがけないものを見た。ふだん気がつかなかった無数の石たちが、「ただそこにあるだけで鮮やかに輝いている」光景を……。

 

 画家は李禹煥。「アクロポリスと石ころ」と題するこの短いエッセイは、幻影を拒否した現代絵画の最も基本的な問題を語っているように私には思われる。駐車場の石片に画家が見たのは、自然にかすれて行く何本もの線、あるいはいくつもの点を並べた作品にわれわれが見る「鮮やかな輝き」と同じものではなかったろうか

 

 李禹煥は一九三六年韓国慶尚南道生まれ。日本に住んで国際的に活躍している。

 

 この本のページをめくるたびに、重さがずしりと胸に心地よく響いていく。その響きの中で、わたしはまた、意外なものをみつけるのかもしれない。

 

 

 

 

 220号

 

 小銭持ち

 

              大橋あゆむ

 

 

 

 わたしが施設に入居するちょっと前の話。

 

女性週刊誌は買うものでなく、立ち読みをするものだ。わたしは車椅子だから座り読みか。何冊もザッとすばやく目を通す。「お金を溜める方法」という特集があると、そこだけは熱心に読む。いろいろな方法の中から、二つだけ実行してきた。

 

 ひとつは、財布に紙幣を入れる時は、顔を揃えて入れると逃げて行かない。なるほど。財布を開けた時、裏になったり逆さだったりすると、福沢諭吉や樋口一葉や野口英世が、わたしと目線を合わせることができないから、逃げやすいということだな。それ以来顔を揃えて、さらに、誰が逃げたかわかるように、財布には使う分だけ入れることにした。

 

 もうひとつは、財布にお金がいくら入っているか覚えていること。そうすると、小銭は何種類も混ざっていると覚えづらいから、一円玉と五円玉は使わない。五十円も、百円玉と色が似ていて見分けづらいので使わない。財布の小銭入れには、百円玉十個と十円玉十個だけ入れてあるから覚えやすい。あとは一万円札一枚と五千円札一枚と千円札五枚とを、顔をきれいに揃えているから、これなら使っても残金を覚えやすい。

 

 それで、使わない一円玉と五円玉と五十円玉の小銭と、使う百円玉と十円玉の小銭とを、スーパーで肉とか魚とか入れるビニールの小袋に分類して入れておく。このビニールの小袋は、スーパーで買った品物を袋に詰め終わってから、くるくると回して数枚持って行くのは何だか気がひける。品物を袋に詰める前に、くるくると少し多めに取り、肉や魚を入れて、さりげなく持って行くのがコツだな。

 

 使わない小銭はだんだんと溜まってきて、三か月くらいたつとビニールの小袋がずしりと重くなる。一円玉と五円玉と五十円玉の数の多い方からチラシの上にザアーとあけて数えていく。特に一円玉が五〇〇枚、ピシッと縦横に並んだ形はピッカピカに輝いて美しい。

 

 分類別にした枚数と金額をメモに書き、小銭の入ったビニールの小銭と通帳を持って、近くの郵便局に行く。カウンターは車椅子では手が届かないので、局員さんがトレーを持ってきて、「ご入金ありがとうございます」と、小銭に向かって頭を下げてくれる。

 

 小銭を自動計算機に入れると同時に、表示がどんどん変わっていくのがおもしろくて、ずっと横で見ていた。終ると分類別にした金額の一覧表を見せてくれた。一円玉の金額が、わたしの数えたものより一円少なかった。局員さんは自動計算機の回りや床を丹念に捜したが、「見当たりません」と言った。わたしは車椅子からの目線でわかった。一円玉が「ここにあるよ」と、ピカッと光って呼んでいたのだ。局員さんは見つかった一円玉を一枚追加してやり直してから、小銭の合計金額を通帳に記載した。「申し訳ありません」と、わたしのメモを両手でもって丁寧に頭を下げた。

 

 小銭は溜めて引き出し、また溜めてとくり返していたが、小銭の入金額は記載されたままで、いつまでもある。それを計算していくと、ずいぶん溜まっている。「お金を溜める方法」を実行してきてよかった。

 

 わたしって、すごい小銭持ちだ!?

 

 

 

 

  219号

 

 

  いやされるニャー!

 

              大橋あゆむ

 

 

 

 韓国イケメンドラマのビデオを観ようとしてテレビをつけた。ビデオはすぐには映らないから、その間ちょっとだけテレビを観ている。たまたま映っていたのは、生まれて数か月の子犬たちや子猫たちだった。思わず「うわっ、かわいい!」と、誰もいない一人の部屋で声に出して言ってしまった。

 

 その子犬たちや子猫たちが、じゃれあったり走り回ったり眠ったりしているしぐさに、ほっこりといやされながら、とうとう番組の最後まで見入ってしまった。それで、韓国イケメンドラマのビデオを観るのはすっかり忘れてしまった。

 

 入居している施設の夜勤(夜の九時から朝九時まで)をしている人の中に、犬好きと猫好きの二人の男性がいる。他の施設で介護士として働き、夜勤をするのは週に一回とか二週に一回とか、その月によって違う。

 

 犬好きの男性は、わたしが何も聞かないのに、「僕は三七歳で結婚しています。子供はいませんがチワワが一匹います」と自己紹介をしてくれた。チワワの彼は、野球少年の坊主頭がきれいに伸びているような短い髪形で、眉毛が濃くキリッとした顔立ちですらりとしている。「うちのチワワは、仕事から疲れて帰り、ドアを開けると、尾っぽをふって座って待っているんですよ。いやされますよ!」と、キリッとした顔がとたんにくしゃっと笑顔になった。

 

 顔が似ていると言われるのは、「瞳をとじて」を歌う歌手の平井堅とか、「そんなの関係ねえ」というお笑いタレントの小嶋よしおとか。そこでわたしが、「この間テレビで観た映画『ミスター・アンド・ミセス スミス』のセクシーなアンジョリーナー・ジョリーと共演したブラット・ピットの、髪の生え際から眉毛の途中までが似ている」と言ったら、「僕も観ました。大ファンなんです」と喜んでくれた。

 

 わたしの髪は長いので、おだんごの形に結ってもらっている。「女性の髪は結ったことがない」と言っていたが、シンクロナイズド・スイミングのような髪に結ってくれるようになった。手際よく介護をしながら、冗談を言って笑わせる。すぐ笑わないと、「ここは笑うところですよ」だって。ハッハハ!

 

 もう一人の猫好きの男性は、数か月前夜勤にきた。二六歳の一人暮らしで子猫が二匹いる。髪は、ワックスで固めて逆立っていて、テレビタレントのようでかっこいい。「結婚は、妹に先を越された兄ちゃんとしては、少し、ダイエットをしてから」と、時々下がってくるジャージのズボンをたくし上げるのは愛嬌がある。話す声はやわらかく、やさしい笑顔でてきぱきと介護をしてくれる。

 

 子猫に野菜の名前をつけたと言って、オスのねぎとメスのうりを、携帯の動画で見せてくれた。二匹並んで顔だけ上に向けて、猫じゃらしを右左、右左と追う目線も角度もそっくり同じしぐさをするのが、とてもかわいい。クリスマスに、いちごのショートケーキをそれぞれの器でペロペロと舐めている。「ねぎもうりも、上にのせた削り節だけ舐めて、ケーキを食べてくれなかったんですよ。すごく高かったのに」と、しょぼんとしていた。

 

 しょぼんとした彼にも、ねぎとうりのしぐさにも、チワワの彼にも、イヤされるニャー!

 

 

 

 

 218号

 

 歯医者さんにほめられる歯

               大橋あゆむ

 

 歯みがきのテレビコマーシャルで「歯医者さんにほめられる歯」というのがある。入居している施設のわたしの部屋に、訪問歯科医が毎月1回治療にきてくれる。若いイケメンの歯科医なので、「いつ見ても何て爽やかなんだろう」とか「目の保養になる」とか言ってヘルパーさんたちの話題になっている。「先生の顔が目の前で見られていいね」と言われるが、治療の時、車椅子に座ってのけぞって大口開ける顔をさらすのは、そんなにいいものではない。洗面台の大きな鏡で大口開けて試しにやってみたからわかっている。まったく美人(?)台無しである。

 

 訪問予約日が近づくころになると、ちょうどうまい具合に部分入れ歯をはめている上下の歯茎が腫れて痛くなる。「痛くてもみがくことが治療です」と、歯科医は超極細の歯間ブラシにミント味の薬をつけて、歯の裏側の隙間をみがきながら歯みがき指導をする。歯科医はたまにうっかり、歯間ブラシを歯ぐきに触れてしまうことがある。「痛っ!」と言うが、まっ、爽やかな笑顔に免じて許してやろう。

 

 歯の治療を始めてから2年くらいになる。最初は歯痛で訪問治療に、歯科クリニックの女性所長さんが週1回きていたが、そのうちに歯がぐらつき出し抜歯することになった。歯科クリニックで午後から半日かけて、2本を抜歯し残りの歯を削り調整する。その後は訪問治療で歯の型取りや部分入れ歯の作り直しをしていくという、とてもありがたい治療方針だった。

 

 わたしは難病でアレルギーがひどく禁止の薬が多くある。それで所長さんは抜歯のことで透析主治医に電話を掛けると、カルテを見ないですぐに禁止になっている麻酔剤や抗生剤や痛み止めの薬の名を答えたという。「私は父を尊敬しています。患者さんを大切にし、一人一人の状態をよく把握している」と。所長さんは透析主治医の3番目の娘さんで、抜歯をしてくれる歯科医は夫だという。何て不思議なご縁なのだろう。

 

 その後、型取りした部分入れ歯をはめて手鏡を見ると「お笑い芸人のさんまの歯」のようだった。助手さんが「口のまわりのしわがなくなってお若く見えますよ」だって。「しわがあってもいいから、歯は出さないで!」と言ったら作り直すことになった。

 

 歯の色を決める時、白色に茶色を練りまぜて、わたしの残っている歯に近い色を出していく。「元日本ハムファイターズの新庄剛志選手の歯は、輝くばかりの白さで顔より先に歯の方に目がいく。あの色は『紙1』かもしれない」と、所長さんと助手さんの話に、「へえー」と、相づちを打つわたしの歯の色は、「紙」何番になるのだろう。

 

 部分入れ歯の上下ができあがり、手鏡を見ると、自分の歯のような自然な歯並びになっていた。口のまわりのしわは気にならないほどうれしくて、手鏡に向かって何度もほほえんでみた。

 

 そして、部分入れ歯の微調整や口腔ケア指導などは、所長さんから今の若いイケメン歯科医に替った。「みがき残しはありませんよ。このまま続けてくださいね」とほめられて以来、指導された通りに歯ブラシと2本の歯間ブラシを使って、わたしは朝昼夕と食後に3回、イケメンの歯医者さんほめられようと、せっせと歯みがきをしているのだった。

 

 

 

 217号

 

  パン! パン! で思い出す

                大橋あゆむ

 

 

 

 年ごとにだんだん物忘れが多くなってきた。息子が「ボケ防止のために毎日書きなさい」と、A4サイズで一か月分がマス目になっている、キティちゃんのカレンダーを毎年買ってくれる。

 

酸素ボンベの交換をしたと記入してあるのに、酸素の残量確認を忘れ、透析から帰る途中でピーとなってカラになった。車椅子送迎バスの運転手さんに、早く走ってとも言われないので、吸って吐いてと自力で呼吸しながら、これはボケだなと笑うしかなかった。  

 

食事の内容を記入する時、今食べたばかりのおかずが思い出せないのに、妙な場面で、ふっと、昔のことをはっきりと思い出したりする。

 

ある日、ヘルパーさんが洗濯物を干す時、パン! パン! と、しわを伸ばす音で突然思い出した。

 

あれは高校1年の夏休みだった。家の向いにあるクリーニング店の社長が、忙しいからワイシャツの袋詰めを手伝ってくれとのこと。それなのにワイシャツのアイロン掛けまでやらされた。イヤと言えない優柔不断なせいなのか、好奇心が強いせいなのかわからないが、社長に言われたことは一所懸命にやった。

 

社長と奥さんと、社長のいとこだという住み込みの従業員と3人でやっている小さな店だった。社長は自分のワイシャツで、わたしにアイロンの掛け方を教える。昔は綿のワイシャツが多かったので糊を利かせ霧吹きをしながらアイロンを掛ける。アイロンの温度は、左手の人差し指を舐めて唾を付け、アイロンの裏側をちょっと触るとジュッと音がする。あちっと言いながら、その音具合と指の熱さで覚えていく。

 

 綿のワイシャツは袖口や衿が擦り切れるが早い。カフス片方30円衿60円という代金だけで取り替えはサービスだった。両刃のフェザーカミソリで、チリチリとカフスや衿を外し毛抜きで糸を取り除き、新しいカフスや衿を挟み込みながらミシンで縫っていく。

 

 その当時、家庭用ミシンは足踏み式で工業用ミシンは電動式だった。右足を電動機にのせて、力の入れ方によって縫い目がつったりゆるんだりする。さらに布の引っ張り具合によってカフスや衿がはみ出したり短かすぎたりする。その微妙な調節がたまらなくおもしろかった。

 

 確実に縫えるようになり、カフスと衿の取り替えはわたしの仕事になった。が、高校の家庭科では足踏み式で足と手がバラバラになって何も縫うことができなかった。

 

 社長は中学を卒業してクリーニング店に住込み修業し独立した人だが、親方は一度も怒ることなくやさしく丁寧に教えてくれたとのことだった。社長もわたしにその時の親方と同じようにしてクリーニングの全工程を基本からひとつひとつ教えてくれた。

 

アルバイト料は一ヶ月お小遣い程度の500円だった。それは仕事が終わる午後6時になると、社長の家族と従業員と一緒に晩ごはんを食べさせてもらっていたからだ。

 

アルバイトに、勉強に、部活(社研=社会科学研究部)に、学生運動にと、めまぐるしく走り回り、そうして高校卒業の時には仕事ができる「職人」になっていたが、大学受験には失敗した。

 

 今は、ヘルパーさんが洗濯物を干す時、タオルの四角は揃えてとか、ハンガー類は乾きづらいから均等に間隔をとって、とか言う。単なる口うるさい年寄りになったが、まだ「職人」魂は健在なのである。

 

 そのうちに、パン! パン! パン! という音がしても、何も思い出せなくなるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 216号

 

  エッセイ 「イクミナ」

 

               大橋あゆむ

 

 

 

 北海道新聞の毎週日曜日には本の紹介欄が三ページもあり、その欄を読むのが楽しみのひとつでもある。

 

 辺見庸『1★9★3★7(イクミナ)征くみな』(金曜日)が、ちょうど昨年1213日(日曜日)に掲載された。

 

 「78年前の今日。1937年(昭和12年)1213日、旧日本軍は中国・南京に侵攻し、おびただしい数の中国人を殺し、略奪し強姦した。だが、その事実は今、歴史修正主義により、なかったことにされようとしている」とあったので、さっそく中央図書館に注文したら、今年の9月にやっと届いた。

 

 南京大虐殺を中国人の視点から描いた、堀田善衛『時間』に、辺見庸は、「堀田はやられた方はやった方にどういう視線を向けたのかを考えた。いわば『目玉の入れ替え』を行った。日本人には今もできないことだ」という。

 

 その『時間』を縦軸として引用しながら、「あったことをなかったことにするのか」「見たことを見なかったことにするのか」を問い続けていく。始めは優しい語り口で、そのうちだんだんと言葉に熱をおびてくる。

 

 『時間』の引用文は、「戦争の残虐性」というよりはむしろ、戦争における「人間の残虐性」をくっきり浮かび上がらせる。

 

 「生きたまま木に縛りつけ銃剣で何度も刺しながら、エクスタシーで恍惚となった」と、おぞましい光景を描写する。次のページがめくれない。「見たことを見なかったことにするのか」という言葉を突きつけてくる。震える手でページをめくる。「円陣の中で命乞いをする「母親と息子に、銃剣を向けてまじわることを強制し、命をかけた行為をおもしろがり笑いながら最後はガソリンをかけて焼き殺す」には、気持ちが悪くなって本を閉じようとした。するとあったことをなかったことにするのか」という声がした。表しようのない虚脱感の中で読みすすめていった。

 

 辺見庸は、戦争に関するさまざまな引用をしながら語り続ける。満州事変(1931年柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北部侵略戦争)のことを。翌年の「満州国」樹立のことを。日中戦争(1937年7月7日の盧溝橋事件を契機とする日本の全面的な中国侵略戦争)のことを。太平洋戦争のことを。ポツダム宣言のことを。広島・長崎に投下された原爆のことを。戦争終結の玉音放送のことを。そして、1949年からの

 

レッドパージ、小林多喜二が特高の拷問によって虐殺されたことなどを語り続ける。

 

 その延長線上に今日の安倍首相の危険な動きがあることを指摘する。

 

 終章で辺見庸は、父の遺品の中にあった、南京から日本のある新聞社に定期で送っていた父のコラム欄の束を目の前に置いて語る。

 

 コラム欄を引用しながら、「南京大虐殺に一言もふれることなく、まるで他人事のように書いてある」と言い放つ。「見たことを見なかったことにするのか」と、強い口調で父に問い続ける。が、家族に送られてきた簡潔な手紙に思いを馳せ、検閲の中での手紙であり、コラム欄であっただろうと、やさしいまなざしになっていく。

 

 

 

 今もまだ、「見たことを見なかったことにするのか」という言葉が、わたしに問い続けている……。

 

 

 

 

 

  214号

 

 

  高らかに吹き鳴らせ!

               大橋 あゆむ

 

 

 

 わたしの居住する施設のイベント「夏祭り」が7月24日の日曜日に行われた。その日は自衛隊の航空ショーがある。前日の土曜日、午前中からブルーインパルスの爆音が響き渡っていた。

 

 丘珠の自衛隊は車で10分くらいの近くにある。爆音は風向きによって変わる。

 

 

 

ちょうど昼食時間で入居者さんたちが食堂に集まっている時だった。凄まじい爆音が続いた。入居所さんたちは、怖い怖いと騒然となった。95歳の女性が、

 

「B29か!」

 

と怯えながら叫んだ。

 

「大丈夫ですよ。戦争ではありません。明日の航空ショーの練習をしているんですよ」

 

 男性の調理師さんが優しい声で説明するが、よく理解できない様子は痛々しく哀れであった。

 

 95歳の女性に刻み込まれた戦争体験を目の前にして、戦後生まれの調理員さんやヘルパーさんは何を思っただろうか。

 

 

 

 昨年の「夏祭り」のことだ。色々な施設で歌っているという女性が、笠置シヅ子の『東京ブギウギ』を歌って、評判が悪かった。懐かしがって聴く入居者さんは一人もいない。

 

 わたしも他の入居者さんも感想を述べた。

 

どうして60年以上も前の歌なんか歌うの、年寄りは昔の歌を歌えば喜ぶと思いこんでいないか。今どきの年寄りや70代から90代の入居者さんは、皆、サッカーやプロ野球、高校野球をテレビで楽しみ、「キスマイ」や「嵐」の番組を見ているのを知らないのか、と。

 

そして、入居者さんからアンケートを取り、リクエスト曲を伝えたので、皆、次回の「クリスマス会」のイベントを心待ちしていた。ところが、今度はジャズを歌うと言う。

 

わたしは欠席した。

 

面白くないと怒って途中で部屋に戻った人もいた。不評だった。楽しみにしていたリクエスト曲でなく自分好みで歌われても困る、というのが皆の思いだった。

 

 

 

 このような経緯があって、担当ヘルパーさんのアイディアで、今年の「夏祭り」のイベントは、地域の栄南中学校吹奏楽部の女生徒さん6名による演奏会だった。会場となった食堂には、入居者さんのお孫さんを連れた家族の人たちがたくさん来場し、廊下まで溢れた。

 

 生徒さんたちは自己紹介しながら、手に持っている楽器の名前を言った。トランペット、トロンボーン、ホルンときて、次にユーフォニウム、チューバ、パーカッションと言うたびに、「へえー」と会場のあちこちから声がした。

 

 いよいよ生演奏が始まった。「銀河鉄道999」の迫力に胸が打ち震え、「イン・ザ・ムード」では全身でリズムに乗り、「タッチ」では手拍子を取って歌い、最後の「ふるさと」では大合唱となり、アンコールの「学園天国」でさらに盛り上り、感動して涙ぐむ姿もあった。

 

 航空ショーの爆音は、昨日ほどではないが、時折、聞こえてきた。だれも気にしなかった。それは風向きが変わったからではない。

 

 恐さも怯えも、刻み込まれた記憶をも、生演奏の感動が吹き飛ばしてしまったのだ

 

 

 

 

  211号

 

  エッセイ  プレゼント

              大橋あゆむ

 

 

 

 5月8日は母の日だった。娘は小さなかわいい花束を、息子は、透析に行く時もっていく、キティちゃんの手提げバッグをプレゼントしてくれた。

 

 息子は帯広に単身赴任しているので、連休最後の5日に来てくれた。今持っているキティちゃんの手提げバッグは、ヨレヨレになって本を斜めにして入れていた。息子が「この大きさならいいだろう」と、机の上に積んである本の中から、一番厚みのある単行本をバッグに入れ、そのほかに持って行く鍵ケースや、薬入れの巾着も入れて持たせてくれた。とても持ちやすい、黒革製のキティちゃんの手提げバッグだった。

 

 息子は、娘二人の近況報告をしてくれる。上の子は中学生になり下の子は幼稚園の年長組になった。わたしは、その頃の息子を思い浮かべながら聴いている。父親になった息子の顔を、しみじみと見ながら聴いている。このひとときもまた、なによりのプレゼントだった。

 

 息子は帰る時、「これを渡してくれ」と、妹への誕生日プレゼントを置いていく。自分の小遣いから出しているのだろう。毎年、5千円札を入れた封筒を渡される。今年は妹の好きなクッキーが添えてあった。

 

 娘は母の日に来てくれた。その日は娘の誕生日で、息子からのプレゼントを渡すと、クッキーよりも封筒の方を喜んでいた。

 

 わたしが「お誕生日プレゼントは何がいいですか」と訊くと、「服を買ってください」と言う。「今年は昨年と同じ1万円です」とわたしが言ったら、「今年は何でも値上がりしているんだから、1万円では何も買えない」と不服そうな顔をした。「それじゃあ、1万5千円」と言おうとしたら、娘がすかさず、「よし、2万円で手を打とう!」と言ったから、吹き出してしまった。

 

 わたしが「お誕生日の、お祝いの言葉を言わなくてはね」と、両手を広げると、娘は車椅子の横にきてしゃがんだ。わたしは娘を抱きしめて頬ずりしながら、「お誕生日おめでとうございます。わたしの産んだ子は、何てかわいいんでしょう!」と言うと、「そうでしょう」と頷きながら、わたしの背中をポンポンと叩いた。

 

 これは、毎年行っている誕生日イベントで、わたしは毎年、同じ言葉を言っている。この言葉こそ、わたしから娘へのプレゼントである。

 

 

 

 

 

 

  210号

 

エッセイ

 

  主治医の処方箋

 

               大橋 あゆむ

 

 

 

 わたしは人工透析をするために、週3回月水金と一日おきに通院している。透析は4時間かかるのでその間わたしは本を読んでいる。透析の主治医は診察の時、「おはようございます」と言いながら、わたしの顔を見ないで、私の胸の上に伏せてある本の表紙を見ている。「この本は読んだことありません。ちょっと見せてください」と頭を下げてから本を手に取る。裏表紙のあらすじに目を通したり著作欄を見たりして頷き、わたしの胸の上に本を伏せて戻す。「どうぞ、本を楽しんでください」と、笑顔で頭を下げて、次の患者さんのところへ行ってしまう。

 

 主治医はよっぽど本が好きだとみえて、わたしの診察よりも、本の診察の方に興味があるようだ。診察といってもわたしの場合、「だましだましいくしかない」という診断状況なので、あえて「お体の調子はいかがですか」と訊くまでもないのかもしれない。だから、わたしにとっては「本を楽しんでください」という、主治医の言葉と笑顔が、なによりの処方箋となっているのだ。

 

 いつだったか、住野よる「君の膵臓をたべたい」(双葉社)は、題名からして透析中に読むのがはばかられるので、本屋のカバーをかけて読んでいた。主治医は隣のベッドの患者さんを診察しているのに、カバーをかけた本をちらりちらりと何度も見ている。「そうやって本をカバーで隠されると、何の本か気になります。ちょっと失礼します」と、主治医はうれしそうな顔をして、本を手に取ったからおかしかった。

 

 わたしは読んでみていいなと思った作家は、著作の一覧俵を作って読んでいる。主治医は「お気に入りの作家はぼくと同じですね」と、本の一言コメントをする。その中から5作家を書いてみる。

 

 ➀貴志祐介「硝子のハンマー」(角川文庫)では、「この作家はおもしろいですね。一番のおすすめは『新世界より』(上中下巻・講談社文庫)です」

 

 ②野沢尚「青い鳥」(シナリオ集Ⅰ・幻冬舎文庫)では、「脚本家だけあって、どの本も見せ場を心得ていますよね」

 

 ③佐藤亜紀「戦争の法」(新潮社)では、「この作家は文章がいいですね」

 

 ④村上春樹「職業としての小説家」(スイッチ・パブリッタシング)では、「あっ、ぼくまだ読んでいません」

 

 ⑤横山秀夫「出口のない海」(講談社)は、人間魚雷回天特攻作戦の悲劇を書いたもので、「この作家は終り方が心に残りますね」

 

 J・M・クッツェー「マイケルK」(くぼたのぞみ訳・岩波文庫)は、南アフリカのノーベル賞作家の代表作。英国ブッカー賞。アパルトヘイトの暴力が荒れ狂う時代の検閲下で書かれたという。「この本は読んでいません」と著作欄を熱心に見ていた。

 

 グラハム・ハンコック「神々の指紋」(上下巻・大地瞬訳・翔泳社)を読んでいたら、「ぼくと同じ読み方をしていますね。あれっと思って前の方を読み返すんですよね。行きつ戻りつして読むのがいいんですよね」と。そして「この作家の『神の刻印』(上下巻・田中真知訳・凱風社)は、まだ読んでいませんね。ぼくの本棚にあるので貸してあげましょう」と言って、下巻を読み終えるころ、「楽しんでください」と本を貸してくれたのだ。

 

 主治医の処方箋は素晴らしい!

 

 

 

 

 209号

 エッセイ

 

   感想を受けて

 

             大橋 あゆむ

 

 

 

 「さらさらと」の感想をありがとうございました。うれしくて、うれしくて、お一人お一人の文章を何度も読み返しました。読んでいて、わたしはふと、わたしの師である、百歳で亡くなられた鬼才の版画家・一原有徳氏の言葉を思い出しました。「自分の作品は、手元から離れると、後は、観る側の視点になる」と。

 

 わたしはたくさんの、観る側からの「視点」をいただきました。その視点を、わたしは、「別れの朝」を心の中でBGMのように聴きながら、全身で受け止めるのです。その「視点」は、時には、「それでいいのか!」「何を言いたいのか!」と、わたしの胸に迫ってくるのです。自分では気づかない点を激しく揺さぶり、考えさせ、気づかせてくれるのです。そして「視点」は、わたしに、さらなる作品へと、「挑戦する勇気」を持たせてくれたのです。

 

「『さらさらと』他、大橋作品のこと」の文章によって、わたしは、十年前に入会してから今日に至るまでの、作品の流れを把握することができました。

 

 学園ドラマ群と恋愛ドラマ群についての、「向日性」「背日性」という、ものの見方・とらえ方、わたしは目を開かされる思いがしました。ただ前を見て進んできたわたしに、気づかせてくれたのです。今、ここで立ち止まって、振り返って、全体を見渡すことの大切さを知りました。

 

「二〇一一年の『奔流』(二十三号)では小説を書かずエッセイ集を載せる」というところで、わたしはあの日を思い出していました。あの日、入院していたわたしは、泉恵子さんからお電話をいただきました。「入院していて小説は書けないだろうから、『通信』に投稿したエッセイを載せる」との松木さんからの言葉を伝えてくれました。わたしは胸がジーンとしました。泉恵子さんの、私の体を気遣ってくださる言葉の中で、私は嗚咽し、受話器を置いてからも涙はとまりませんでした。

 

 感謝の気持ちは、「作品を書くこと」で、表そうと強く思いました。このことが、「作風が変る」きっかけになりました。

 

 わたしは、たくさんの感想を受けて、これを励みとして、「挑戦する勇気」への道を歩んで行こうと思います!

 

 

 

 

208号

 楽しい「お茶会」

 

             大橋 あゆむ

 

 入居している施設で一月から「入居者さんに少しでも楽しいひとときを過ごしてほしい」と、行事企画担当ヘルパーさんの発案で毎週日曜日の午後に、「お茶会」をすることになった。コーヒー、紅茶、ココアの中から自分の好きな飲み物を注文する。お茶菓子はバウムクーヘンとか一人に飲み物に添えてある。

 

 その日の参加者は入居者二〇名中七名だった。後から遅れて来た杖をついている男性が、席に座る前に律儀に自己紹介をする。「○○と申します。名前の○○は古い方の漢字で」なんとかと書きますと、説明しているが誰も聞いてはいない。テレビを観るでもなく、それぞれが別な方向に顔を向けている。「僕ひとりがこうして女性に囲まれているのは何年ぶりかでうれしい」と、ユーモアで締め括ったが、誰も反応しなくて笑ったのはわたしだけだった。

 

 それぞれの人は、向かい側に座っているわたしに話し掛けてきた。「僕は昭和六年一九三一年満州事変の年に生まれて八五歳です」と言った。

 

するとわたしの隣に座っているとても小柄で腰を曲げて杖をついている人が「わしは大正九年生まれで九七歳じゃ」と言った。「へえ! すごいですね。九七歳!」とわたしが感嘆の声をあげると、八五歳の男性が目を輝かせて「それじゃ、戦争を二度経験しましたね。僕は記憶力がいいんです。今までに戦争は六つありました」と、どういうわけかわたしの顔を見て指を折りながら続ける。

 

「満州事変、日中戦争、太平洋戦争、えーと、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争」「へえー」とわたしは相槌を打つ。

 

 入居者さんは認知症の人が多く、あまり話をする人はいない。これは楽しくなってきたぞと、次の言葉を待つ。すると隣の九七歳の人が唐突にわたしに話し掛けてくる。「八五歳じゃったら、わしの一番下の妹と同じじゃ。わしはな、九人兄妹じゃ。男三人女六人おったが皆死んでしもうて、今はわしと一番下の妹だけが生き残っとる。わしは、あとは死ぬのを待つばかりじゃ」

 

「そんなこと言わないで、いつまでも元気でいてくださいよ」と、わたしはあわてて言ったが聞えてはいなくて、また唐突に向い側の車椅子に座っている九〇歳の人に「あんたさんは年いくつだね」と聞いた。するとその人は「人に年なんか聞くもんでねえ。あっかんべーだ!」と、あかんべをした。わたしはその顔がおかしくて笑いそうになったがぐっとこらえた。

 

 ヘルパーさんが「時間なのでお茶会は御開きにします」と言ったのでほっとした。話を中断された八五歳の男性が「戦争の話の続きは次回にします」と言った。そのことを楽しみだとヘルパーさんに伝えておいた。

 

 それで次の「お茶会」の時は二〇名中十一名参加したが、ヘルパーさんは八十五歳の男性とわたしを皆から離れたテーブルに座らせてくれた。ヘルパーさんが「前回話していた戦争の話の続きをするんですね」と言ったら、八十五歳の男性は「何のことでしょうか」と不思議そうな顔をして言ったので、ヘルパーさんとわたしはコケてしまった。ヘルパーさんは「こういう日もありますから」と笑っていた。

 

 八十五歳の男性は椅子を斜めにしてコーヒーを飲みながらずっと向こうのテレビを見ていた。わたしはひとりぽつねんとココアをちびちびすすっていた。

 

 ココアを飲み終える頃、突然八十五歳の男性が「大正時代はどんな時代でしたか」とわたしの顔を見て聞くではないか。前回の九年生まれというところを思い出したのか、それともわたしの顔が九七歳に見えたのか。「わたしは戦後生まれなので、大正時代のことはわかりません」とがっくりして答えた。

 

 いやはや、なんとも楽しい「お茶会」であった。

 

 

 

 

 

 

 207号

 

  哀しき「オノマトペ」

 

            大橋 あゆむ

 

 

 

 北海道新聞の本の紹介欄で刊行されたばかりの、小野正弘「感じる言葉オノマトペ」(角川選書)の「オノマトペ」という文字を目にした時、わたしは、哀しみと懐かしさとで胸がいっぱいになった。それは、今は亡き浜練太郎さんが教えてくれた言葉だったからだ。昨年の十二月七日に注文して、今年の一月一五日の今、届いた。表紙の「オノマトペ」という文字に、しみじみと見入っている。

 

 あの日から、浜さんと始めた出会った日から、もう一〇年たっている。あの日は、わたしが『日本民主主義文学会』に入会し、札幌支部の例会に初めて出席した日だった。浜さんは、吉田たかしさんの作品について、写真入りの六枚ものレジメで報告していた。入会したばかりのわたしは一番最後に感想をもとめられた。「吉田たかしさんの作品よりも、ほとんど自分の経験語っている。そのレジメはひとつの作品のようで佳作だと思う」というようなことを言った。

 

 例会が終って二次会へ行くという。出口側で電動車椅子に座っていたわたしが上着を着ていると、Mさんと言う人がわたしの側を通る時、「大橋さん、浜さんを批判するなんて一〇年早いよ」と言った。わたしは「批判なんてしてませんよ。レジメは佳作だと言ったんですよ」と、ちょうどその時、浜さんが側を通り、「そうだ。あれは批判ではない」と、わたしの目を見て、きっぱりと言った。わたしは、浜さんには伝わっていてよかったと思った。それで今思うに、Mさんという人が言った「一〇年早いよ」の言葉は、その時にはわからなかった。例会に出席を続けて行く中で、だんだんとわかるようになってきた。わたしにとって、大切な「自戒の言葉」となっていったのだ。

 

 二次会は焼き鳥屋だった。浜さんは、向かい側に座っているわたしに話し掛けてくれた。「オノマトペ?」初めて聞く言葉だった。「オノマトペ」の使い方について例を挙げて話してくれた。浜さんは、背筋を伸ばした姿勢で、静かな低い声でゆっくり話す。時折お酒を口にする。わたしは、やけにしょっぱい焼き鳥をかじりながらビールを飲む。身をのり出して話を聞こうとするが、哀しいことに、浜さんの「オノマトペ」は、わたしの酔いの中でふわふわと漂うばかりだった。

 

 二次会が終って、地下鉄で帰る人たちと西十一丁目まで二丁くらい歩いた。浜さんは、わたしの電動車椅子の左側に来て、わたしの左手を握って、歩いてくれた。その手は、柔らかで温かい大きな手だった。浜さんは話しながら、わたしのハンドルを操作する手を、ずっと心配そうに見ながら、歩いてくれた。

 

 その日以来、浜さんから、時々ハガキが届くようになった。ハガキは横書きで、万年筆の青字は、あまり崩れていないなめらかな文字で、文章は、実に簡潔だった。「前略。筆名の大橋あゆむは座りが悪い。親がつけた田中まゆみは芸術的な名前だ。本名で書きなさい」と。二枚のハガキが同時に届くこともあった。「No.1 前略。下記の本を読みなさい。(図書名、著者名、出版社。三冊分書いてある)」「No.2 前略。二冊分書いてある」。わたしはハガキが届くたびに、浜さんに電話を掛ける。始めのころは、これから小説を書くにあたっての心構えや原稿の書き方について。時がたつにつれて、話の内容は世の中の動きや自分の地域での活動の話などと、私が理解できるように、段階をふんで話してくれていたのだ。いつも励まし見守り続けてくれた。

 

 わたしは、これから「感じる言葉のオノマトペ」を、読み始める。浜さんが教えてくれた「オノマトペ」を、今!

 

 

 206号

 

 エッセイ

      偶然って、すごい!

                  大橋 あゆむ

 

  「作家の野坂昭如さん死去」と十二月一〇日のニュース速報が出た時、わたしはその日に中央図書館から届いたばかりの、野坂昭如「赫奕たる逆光」(文春文庫)を手にしていたのだ。偶然って、すごい! その本は四ヶ月前の八月に、野坂昭如原作「火垂るの墓」の映画とアニメーションの再放送を観て、注文していた。注文してもどの本がいつ届くかはわからない。本を注文する時の参考のひとつに、北海道新聞の日曜日に本の紹介欄がある。そこに「三島由紀夫の激賞によって文壇にデビューした野坂昭如が、十七回忌にあえて描いた三島由紀夫の禁忌!」とあったので、読書ノートに記入しておいた。その関連として、「三島由紀夫の死の直前に編まれた自薦短編集。三島由紀夫『殉教』(新潮文庫)」。この二冊を注文したら、なんと、一二月一〇日に同時に届いたのだ。

 

 そして、その三日後の十二月十三日の日曜日に、フリースクールでわたしの油彩教室の生徒だったAちゃんが、わたしの年賀状作りの打ち合わせに来てくれた時、「偶然って、すごいよね」とその話をしたら、Aちゃんが「偶然って、すごいと言えば、フリースクールの亀貝先生と田中まゆみ(筆名大橋あゆむ)さんが、地下鉄大通駅で同じ車両に、偶然乗り合わせたことだ。それがきっかけで、私は美術の道へ進むことができたのだから、これほどの偶然はない」ときっぱりと言った。

 

 フリースクール札幌自由が丘学園を創立した亀貝一義先生は、テレビや新聞などで取り上げられていた。高校の時の倫理社会の先生だったのでびっくりした。その頃だ。卒業後一度も会ったことがない先生と、偶然同じ車両に乗り合わせたのだ。卒業後のことを簡略に述べ、今、新道展の会員で運営委員として美術の活動をしていると結んだ。すると、「絵の好きな高校二年の女生徒が入学したが、絵を教える先生がいない。ボランティアで美術の授業をして欲しい」との事。それで、Aちゃんと初めて出会ったのだ。華奢なからだつきで、きれいな顔立ちをしていた。思慮深い目が印象的だった。

 

 あれから十八年。Aちゃんは三十五歳になった。わたしにとって忘れられない偶然である。

 

 それは、Aちゃんが、受賞したらイタリアに一年間留学できるというコンテストに夢を持って自信作を出品して落選した時、「もう二度と油絵なんか描かない!」と、出品者全員に送られてきた図録を封も開けずに、わたしの前にバーンと投げつけた。あの無口でおとなしいAちゃんが、わたしに初めて激しい感情をみせた一瞬だった。わたしは黙って受け取り「次回からカメラをもっておいでよ」と言った。映像作家でもあるわたしは写真の撮り方を教えた。Aちゃんは興味を持ち「写真道展」に初出品で入選した。Aちゃんの好きなイラストも教えた。数々のイラストコンテストで受賞しイラストライターになった。

 

 Aちゃんは「また油彩を描きたい」と言った。有島武郎美術館の「生まれ出ずる悩み」展に入選した。日本で唯一細密画を常設展示している「ホキ美術館」の細密画公募展で入選した。銀行のギャラリーから依頼された初個展で、ほとんどの油彩画やイラストが売れた。新道展では受賞を重ね、会員になり、運営委員の編集部に選ばれた。編集部の部長だったわたしは仕事の内容を教えた。すると両親はいずれ就職に役立つからとパソコンをローンで買い、パソコン教室に通わせた。今では印刷会社が驚くほどの腕前で図録やポスターなどの制作をしている。そして人前で話ができず、面接にも行けなかったAちゃんは今、デザイン会社の就職活動をしている。

 

 わたしが偶然の話をしなければ、Aちゃんから偶然出会った話は出なかった。「わたしたちは赤い糸で結ばれていたのね」と照れて言ったら、Aちゃんはちょっとほほえんでから真剣な顔で言った。「あんな偶然がなければ、私は一体どんな人生を送っていたのだろう」と。

 

 ほんとうに、偶然って、すごい!

 

 

 

205号

 

  散歩の時には、パンの耳

         大橋 あゆみ

 

 九月の連休に、娘がわたしの車椅子を押して、地下鉄で中島公園に散歩に連れて行ってくれた。前はよく、大通公園や道庁の池に連れて行ってくれた。

 道庁の池の回りには、すずめやカラスやハトや人などが、わやわやといた。その中に白いかもめが数羽いた。「あんたら、かもめとしてのプライドはないのか。こんなところで、ヒトから餌もらって食べてんじゃないよ」と娘が言ったのでおかしかった。という話をして、「道庁の池に行きたい」と言ったら、「ここから遠いところはダメ。前と違って、今は酸素吸入をして車椅子に酸素ボンベを付けているから、近いところに行く」と中島公園になったのだ。

 娘がお昼を食べていないという。おそば屋も喫茶店も段差があって、車椅子では入れなかった。コンビでお昼を買うことにした。「親が支払うのだから、いつも買えない高いものにしなさい」と言ったのに、娘は「私は貧乏性が板に付いているから」と百円均一セールのおにぎりを買った。わたしは鳥のからあげくんを買った。ボート池のベンチに座って食べた。からあげくんは辛くて洟水が出た。酸素のチューブに洟水が入るので、外して洟をかむと、ピッピッとアラームが鳴る。早く酸素を吸え、と酸素ボンベが急がすのだ。

 池の鯉を見ようと、柵のところへ行って池を覗くが、鯉はいない。前に来た時は、どこからこんなに来たんだというほど、うじゃうじゃいた。そのうじゃうじゃが、一斉にこっちを向いて口をパクパク開けているのは気色が悪い。

 パンの耳をちぎってあげようとした時、はるか向こうから、豆粒くらいにしか見えなかった鴨が、何十羽もがーと飛んできて水面をパシャパシャとしながら、鯉の頭を踏ん付けているのだ。「あんたら、どんだけ、食い意地が張ってるんだよ。鯉の頭踏むなよ。ちゃんと皆にあげるから」と、娘はパンの耳をちぎって、できるだけ遠くに投げてやった。

 それで、今日はパンの耳を持っていないとわかっているのか、鴨も鯉も寄ってはこなかったのだ。あの食い意地の張ったバシャバシャと、気色の悪いパクパクがいないのは、何とも寂しいものがある。今度から、散歩の時には、パンの耳を持って行こうっと。

 

 

 

 

 

 203号

 

  エッセイ

 幻聴じゃないってば!

         大橋 あゆむ

 

  施設の食堂で朝の配膳を待っている時、わたしの向いの側に七十歳代の女性が来て座った。「あのね。夜中にね。男が口笛を吹いているの」と、わたしの目をじっと見ながら低い声で言った。わたしはふっと、横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』というテレビドラマが浮かんで思わず笑いそうになったが、ぐっとこらえて「そうなんですか」と、彼女の目を見ながら頷いた。

 

 頷いて以来、座る席は自由だが彼女はいつもわたしの向い側に座るようになった。そして彼女は毎朝「夜中に男がレースカーテンの隙間から覗いている」とか「男が後ろから着いて来る」とか不思議な話をする。わたしはそのたびに「そうなんですか」と言って頷いていた。

 

 そんなことが続いていた夜の9時近くに、彼女がわたしの部屋のドアをノックもしないでいきなり開けて入ってきた。「足音が聞こえる」と言ってドアを閉めて、ドアに片耳と体をぴったりとつけている。「どうしたんですか?」と聞いても答えない。ちょっとたってから、首を傾けながら出て行った。その後彼女は治療入院した。

 

 それから二週間くらいたったある夜、部屋が蒸し暑かったのでドアを少し開けておいた。何と、口笛がかすかに聞こえてくるではないか! 冗談を言い合えるヘルパーさんに「口笛が聞えた」と言ったら「それは、幻聴だから。そんなこと言ってると治療入院になるよ」と言われてしまった。ちょうどその頃、東野圭吾の「天空の蜂」(講談社文庫)というサスペンスを読んでいたので、わたしも犯人捜しをするみたいに、一体誰が口笛を吹いているのかと、捜してみたくなった。

 

 それで、毎日、夜の6時半から就床の9時までの二時間半、少し開けたドアの横に、ぴったりと電動車椅子を寄せ、聞き耳を立てて、本を読むことにした。同じ姿勢でいるものだから、耳は疲れるは、肩は凝るは、腰は痛いはで、ついに待つこと八日目、8時45分、廊下の暗がりの中からはっきりと口笛が聞えてきたのだ。そして、男の声も。小節がきいた歌い方。間奏に透き通った口笛。それは氷川きよしのCDだった。

 ほらっ、だから、幻聴じゃないってば!

 

 

 

押しで、相談室へ行き医療費を申請することになった。

 国民健康保険料や税金は滞納なし、給与明細書や貯金通帳などで生活保護レベルとわかり、手術費用や入院費用は無料。さらに、眼科でもどの科でも医療費は半年間無料と認定された。

 娘が「無料になって、喜んでいいんだか、あんなに働いて生活保護レベルだったなんて、なんだかなァ」としょんぼりして言った。わたしが「社員なのにアルバイトより安い給料で働いていたんだね」と言ったら、娘が「あんた何言っんの。私なんかこれでもいい方だよ。生活保護以下で働いている人だって、仕事がない人だって、この世の中になんぼでもいるんだから。あんたはのん気でいいねェ」とあきれた声で言った。

 わたしは、娘は世の中のことをよく見ていると、喜んでいいんだか、あんたはのん気だと言われて、なんだかなァ……。