216号

 

挨拶ことばの不思議 ―その3―

 

   「いただきます」と「ごちそうさま」    平山耕佑

 

 

 

 前回で私は、日本語の挨拶ことばは本来の意味の中核となる部分が削られ、その前後の意味のない部分が使われている例が多いと言った。そして、その代表として「さようなら」を挙げた。

 

 ところが今回の「いただきます」と「ごちそうさま」はまさに意味の中核そのものである。そして、このことば必ずしも目の前の相手に対する言葉とは限らない。例えば小学校の給食の時、全員で声を揃えて「いただきまーす!」と言う。

 

これは誰に対して言っているのだろうか。

 

 子供の頃先生がこう言ったのを思い出す。

 

「いただきます、ごちそうさまは、お米を作ってくれるお百姓様へのお礼のことばです」と。なるほどと思ったものだ。だからこのことば、一人で食事をする時にも言う人が多い。かつて私の父は、食事(特に夕食)を始める前、箸を横にして親指と人差し指の間に挟んで手を合わせ、呟くような声で「いただきます」と言っていた。終わった時も同じ形で、今度は無言で頭を下げた。その様子からしてこれは決して食事を作った母に対して言ったものではない。そして小学校の給食でも、必ず全員が手を合わせる。私も手こそ合わせないが「ハイごちそうさん」と言って席を立つことがある。妻に対して、という意識はあまりないが一人の時は言わない。考えてみればこのことば、特異な挨拶ことばと言えよう。

 

 そのせいで、とは言えないと思うが英語にはこれに相当する言葉はない。よその家の食事に呼ばれた時などは当然お礼の言葉は言うだろう。そんなときはごく一般的なThank you、で済ませる。当然「おいしそう」「おいしかった」などとは言うだろうが、それは日本の場合も同じである。ついでに言うと「ただいま」「お帰り」に相当する表現がないわけではないが、日本語のような決まり文句はないと言っていい。

 

 考えてみれば日本人というのは、礼儀正しく、優しくつつましく、常に感謝の心を持ち、小さなことでもお礼やお詫びの言葉を口にする人種であるらしい。外国人(特に西洋人)の日本人観もそのようだ。その裏返しなのかどうか、日本人は自己主張をしたがらないという評価もあるらしいが。

 

 

 

 

 214号

 

 

挨拶ことばの不思議その2

 

   さようならとGood bye 

 

平山耕佑

 

 

 

外国人が最初に覚える日本語はといえば多分「ありがとう」と「さようなら」(あるいは「さよなら」)だろう。2つともとても感じのいい言葉である。

 

 ところでこの「さようなら」、漢字で書くと「左様なら」である。かつて多分武士階級の人たちが何か相談事で集まって話し合い、そのケリガついたとき、「うん、左様か。左様ならばこれにてご免」と言って別れたのがその起源らしい。だとすればこの言葉の中心は最後の「ご免」にあるはずだ。中心部分を切り取って最初の部分だけを残したのが「さようなら」である。つまりこの部分には「別れ」の意味がない。最近はあまり聞かないが上品なお年寄りの女性が主に電話などで話した後「ごめんくださいまし」と言って電話を切ることがある。これが本来の使い方だったはずである。今では意味が変質している。

 

 ところでこのことば、朝出勤する夫に対して妻が言うだろうか。そんなときに「さようなら」などといえば「お前、オレと別れるつもりか」となってしまう。そんなときのために日本語には「行ってらっしゃい」ということばが用意されている。そう、「さようなら」はその成り立ちからしても最低でも翌日の朝までは逢わないことを前提とした別れの挨拶である。一ヵ月逢わない長期の出張や旅行でも、家族同士で「さようなら」とは言わない。

 

「さようなら」に相当する英語は誰でも知っているGood byeである。このことばは夫や子供を朝見送るときにも使える(普通はBye-bye)。なぜか。

 

 本来この表現は(May)God be with ye.を簡略化したものである。

 

May+主語+原型動詞 という語順で「祈願文」とよばれる。最後のyeはyouの古形である。つまり「願わくは神があなたと共におられんことを」という意味になる。言い換えれば「今までは私が一緒にいたけど私はこれでお別れする。この後は神様がご一緒してくださることを祈ります」という実に深長な意味である。本来GodであったものがGood morning.や Good night.と同一視してGoodになりbe とyeが一緒になってbyeとなったものである。  

 

 もっとも最近の英会話読本などでは「Good byeはいまはほとんど使われない。

 

別れの挨拶はSee you という」と書いてある。これは(I hope)I‘ll see you again.の簡略形であるがこれに相当する日本語は「じゃあね」だろう。面白いことにここでも英語の表現はその意味の中心部分を残しているのに

 

日本語ではそれを削って最初と最後のあまり意味のない部分で表現する。不思議なことである。

 

 私がかつて持っていたラジオ(もちろん日本製)はスイッチを入れるとHello!と表示され切るとSee youと表示されていた。それを見て不思議に思った。音しか聞こえないラジオなのにSee youでいいのかな?と。でも確かめていないしあえて確かめるほどのこともなさそうだ。

 

 

 

 

 

 


  178号

「談話」はつづく

           平山 耕佑


 豊村さんの「ことば雑感その3」の、バミューダパンツ、ジョギングパンツの話には驚いた。というより、あきれてものが言えない心境だった。デパートの店員やファッション業界の採用試験じゃあるまいし、何であんな問題を教員の採用試験に出さなきゃいけないのか。千歩も万歩も譲歩して「教師の現代感覚」を問うのだとしても、あれが教師の常識として知っていなければならないことでないことははっきりしている。四日後に高退教の役員会がありその席で紹介したら、全員ぽかんと口を開けた。やはりあきれてものが言えないという表情だった。

 若い生徒たちが話題にするようなことを、教師は知っていなければならないなどということはない。サルエルパンツ、ジャマイカパンツと話している生徒に教師が近づく。

「なにそれ?」

「パンツの種類だよ。先生知らないの?」

「知らないな、そんなの。教えてよ」

 生徒はとくとくと説明する。

「へーえ、なるほど」

 これって、立派な教育の場面ではないのか。教師が生徒に向かって知識を教え込むばかりが教育ではないのだ。

 

 あきれついでにもう一つ。

 北スペ、土スタ、伝えてピカッチ、モリコロ、ピタゴラスイッチ、サタすぽ、すぽると! FFFFF、アヤコレ、まだまだある。さて何でしょう。 

 実はこれ、テレビ番組の名前である。例会のあった七月六日土曜日のものである。サタすぽはサタデイスポーツかなと見当がついたが(違うかもしれない)あとはそれこそナニコレ! 民放の番組と思いきやなんと大部分がNHKのもの。馴れ親しんだお気に入りの番組は別としてこれらを抵抗感も違和感もなく受け入れる日本人がいるのだろうか。

 変な問題を作る道教委にも、番組に変な名前をつける放送局にも、あきれを通り越して怒りを覚える。

 

 

176号

  

 ことばあれこれ

   豊村さんとの談話のつもりで

                 平山 耕佑

通信175号の豊村さんの「ことば雑感」を面白く読んだ。浅学な私は「根

開き」ということばは初めて聞いたし「新陳代謝」や「価値」が漱石の造語だということも知らなかった。「アイヌネギ」に対する思いや、ファッションカタカナ語に辟易するのは全く同感!

 ところで、こんなことを授業で言ったことがある。

BRIGESTONE,SUNTORY,CANON,CAMRYこの中で日本語あるいは日本語からの転用は?――答えは全部。ブリジストンは創業者石橋の英訳、サントリーも同じく鳥居三兄弟、キャノンは創業者が信奉していた観音様を英語的に言ったもの、トヨタの車カムリは日本語そのもの、同社のクラウンにあやかった「冠」。

「石橋タイヤ」「鳥居ウイスキー」「観音カメラ」「冠」という命名とどっちがカッコいい?と聞いたら「英語(らしきもの)!」と答える。

 日本人の心には本質的に英語(を中心とした外国語)コンプレックスがある、と私は常日頃から思っている。日本語より英語のほうが洒落ている、と思っているのだ。戦後から近年にかけて、この傾向は加速度的に強まっている。会社名、団体名、商品名、建物の名前、等々、日本語よりカタカナ語のほうが数の上で勝っているようにも思われる。「区民会館」のほうがぴったりなのになぜ「区民センター」としなければならないのか、と思ってしまう。街なかを歩いて、看板や広告にこれほど英語やカタカナ語が氾濫しているのは世界中で日本以外にないのではないか。

 外国語(特に英語やフランス語)のほうが日本語よりカッコいい、と日本人自身が思うということは、裏を返せば「日本語はダサい」ということだ。日本人というのはそんなにも自分の国のことばに誇りを持てない人種なのかと思ってしまう。

「小春日和」は確かにIndian summerと辞書にあった。しかし豊村さんはkoharubiyoriでいいのではないかと言う。同感である。アメリカで醤油のことはsoy sauceよりもKikkomanがより一般的だという。それでいいのだ。日本だって化学調味料のことを「味の素」と言うではないか。

 英語と日本語の関係は、江戸の鎖国時代、黒船と開国、文明開化と呼ばれた時代、そして戦中の「敵性語」時代を経て戦後の「コンプレックス」時代と、日本の歴史そのものと深く関わっている。

 日本に英語が入ってきた当初、日本の先駆者達はそれを日本語化した。その代表格が「背広」である。黒船から上陸したのはユニフォームを着た軍人達、その後文官あるいは民間人が来るようになる。彼らが着ていたのがcivil

wearである。civilは文字を見てカタカナにすれば「シビル」だが耳で聞けば「セヴィロ」あるいは「セヴィオ」である。その音を漢字にしたという説が有力である。

Dramatic, domesticなどの tic を「的」としたのも当時の学者達だという。むべなるかな、である。

 外国からのことばは当初はその「音」

を文字化し、その後目から入る文字を

カタカナで表記するようになった。

「ラヂオ」はそのはじめの頃のものだと思われる。ヘボン式ローマ字の「ヘボン」と、かつて一世を風靡した女優のオードリー・ヘップバーンは同じ名前だと先の授業で言ったら、同席していた英語の教師が「知らなかった」と言っていた。Hepburnの、耳と目の違いである。

 さらに言えば

 日本人はいわゆる省略語が好きというか得意というか、これもあきれるばかりである。特に外来語は三文字か四文字に省略してしまう。もともとの意味など完全に壊して。古くはテレビがその代表。そしてパソコン、コンビニ、さらには最近のスマホ。トイレは英語のトイレットとフランス語のトワレの合成だと言った学者がいるが私はこれも省略語だと思う。

 外国語ばかりでなく日本語も次々と省略する。「就活」や「婚活」は比較的新しいことばだが若者のあいだと言うか週刊誌あたりでは完全に定着している。「アケオメ」というのがあるそうだ。何だと思ったら「あけましておめでとう」なんだって! いわゆるメールことばなのか。若者達は早口でせっかちな面がるからこれも便利なのかもしれない。でも日本語には「ことばをつくす」というそれこそ美しいことばがあることを忘れないで欲しいと思う。