241号

 

小誌 エルサレムのアイヒマン                

 

               村松祝子

 

悪は「陳腐」である

 

 

 

アイヒマンとは何者か

 

一九五一年に「全体主義の起源」を刊行したハンナ・アーレントはアメリカ国籍を取得して「市民」としての立場を取り戻しました。その後七年の歳月をかけて知的訓練を通じて教養を獲得した人間について、その歴史的起源を考察した「人間の条件」を刊行しました。各大学で客員教授をも務め「学者」としての地位も固めていきました。六十年代に入って「エルサレムのアイヒマン」を発刊すると専門分野を超えて世間一般に彼女の名前が知れ渡るようになりました。本書の中で「アドルフ・アイヒマン」は冷酷、非道で何百万人ものユダヤ人を次々とガス室へ送った人物には決して見えなかったと言ってます。彼は普通の一般家庭に生まれ、学業もそこそこで叔父の紹介で石油会社に就職一九三二年にナチス党に入党。翌年石油会社を解雇されると「ハインリヒ・ヒトラー」の諜報機関直属の公安部(SD)に志願しました。そこで昇進を重ねてついに第二次世界大戦の最盛期には「最終解決」の責任者の一人にまで登りつめました。一九四五年連合国側に拘束されますが翌年脱走し一九六一年五月にアルゼンチンで逮捕されました。リカルド・クレメントという偽名を使って家族とともに二十四年間生活していたところをエルサレムの諜報機関モサドに拘束されたのでした。

 

 

 

アイヒマンが突きつけた問題

 

 人々は、アイヒマンという人物はユダヤ人に対して強い憎しみを抱き凶悪で残忍な人間像を想像していました。しかしアーレントの報告は、彼はそこら辺にいる普通の凡人で将来の見込みもなさそうな人物だった。但し自分の昇進には恐ろしく熱心だったと綴っています。そんなアイヒマンにアーレントが注目したのは彼の徹底した服従姿勢でした。彼は法による統制を尊重し法を守る市民の義務を果たしたと主張しました。しかし彼の法とは「ヒトラーの意思」です。ヒトラーという法に恭順に従うことだったのです。彼は法の精神を理解し、その実現と実行を完璧にやり遂げ続けたのです。あたかも「自分が法の実行者」のように。ドイツでは古くから「義務の命ずる以上のことをしなければならない」という心性形成があるようです。アイヒマンは法に粛々と従いわずかに残っていた自分の良心も感情も義務を果たすという信念の中に埋没させ、その遂行に誇りさえ感じていのでたした。法廷では彼は常に冷静で、千六百点に及ぶ起訴状にきちんと目を通し検察の尋問に丁寧に答えていました。死の瞬間彼の発した言葉はあまりにも呆気なく世間一般の言葉を発しただけでした。「・・・それでは皆さんまたお会い致しましょう、ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳、これらの国を私は忘れないでしょう」と。何万時間も費やしてきた裁判で我々が得た授業は、人間の邪悪さについて何を得たのか。言葉にも、考えてみることもできない悪の陳腐さという教訓を残しただけでした。

 

 

 

アーレントンに向けられた批判

 

アーレントが公判で見たアイヒマンは特別な残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対するたぎる増悪もない普通の官僚でした。命を奪う職務に携わっても良心の葛藤も、疑問も後ろめたさも感じることなく淡々とこなしてきました。その姿を『ザ・ニューヨーカー』は死刑が執行された翌年一九六三年二月から五回に亘って掲載しました。掲載されると同時に、彼女に対して非難が起こりました。アイヒマンが我々と同じ普通の人間じゃあるわけがない。この論理は相手が「悪」で自分は「善」であると言うものです。この心理はナチスが、ユダヤ人は「世界征服を企んでいる」と言う悪のレッテルを貼って皆を惹きつけたのと同じです。近代刑法では悪は「悪を行う意図」を持った非凡なものであると言う思い込み、期待あるいは偏見を前提としているとアーレントは指摘しています。アーレント自身もアイヒマンを死刑にすることに反対はしません。ただ彼を死刑に処すべき理由は、彼に悪を行う意図があったかどうか、彼が悪魔的な人間だったかと言うことと関係なく人類の「複数性」を抹殺することに加担したからだと主張しています。「「複数性」とは自分とは異なる考え方や意見を持つ他者との関係の中で、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができること、とアーレントは考えていました。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は複数性(または多様性)を否定するもので、そうした行為や計画は決して容認できないというわけです。アイヒマンがヒトラーという「法」に服従しただけだったとしても、特定の民族や国民との共存を拒み、人類の複数性を抹殺しようとしたヒトラーを支持し、計画を実行した人間とは、もはや地球上で一緒に生きてゆくことはできない。それが彼を絞首刑に処する「唯一の理由」であり、それ以上のこと(彼の内面的なことなど)は追及できないーとしたのでした。しかしアイヒマンを「ホロコーストと言う悪」の根源と考えていた人々には承知しがたい結論でした。法廷はヘブライ語で行われドイツ語との同時通訳はしばしば意味のわからない滑稽な代物ものであったし、イスラエルの英雄精神とユダヤ人の屈従的な無力さを比較したりして芝居じみていたし、またユダヤ人協会が中欧や東欧のユダヤ人移送に協力していたことにも言及しました。「ナチスが犯した罪を軽視し、アイヒマンを擁護している」「ナチス犯罪の共同責任を、ユダヤ人に負わせるつもりか」と世論の怒りが盛り上がりました。アーレントは大戦後に建設されたイスラエルでは「ユダヤ人は悪くない」「悪いのはすべてドイツ人だ」というナショナリズム的風潮が生まれ、それはナチの反ユダヤ主義と同じ構造であることに危機感を抱いていました。多くの批判を浴びる中で親しかった友人も知人も失いましたが勇気を持って、書かざるをえなかったアーレントの知的誠実さを仲正教授は讃えています。

 

 

 

誰もがアイヒマンになりうる

 

アイヒマン裁判の翌年一九六二年、アメリカで「ミルグラム実験」というのが行われた。イェール大学の心理学者スタンレー・ミルグラムという人がナチ戦犯の心理に興味をもちドイツ人は特殊だと考えていたがアメリカ人にも同じ傾向が認められたということでした。実験は閉鎖的な環境において、その場の権威者の命令に従う人間の心理が、どこまで残虐になれるかということを調べました。被験者には体罰が学習に与える効果を調べる実験だと伝えました。先生役の人は生徒が間違えるたびに電気ショックを与えるように指示します。生徒役の人は実は演技者でショックを受けたふりをします。もう一人の白衣の男性が「権威者」然として生徒がどんなに苦しんでも電圧を上げを続けるよう指示を出します。すると6割以上の人は生徒がもはや死んでいるかもしれない状態でも電気ショックを与え続けたのです。この実験で分かったことは、ごく普通の人でも一定の条件下では権威者の命令に服従し善悪の判断を超えてかなり残虐なことをやってのけるということです。アイヒマンに見られた服従の姿勢は彼特有のものではなく誰にでも見られる陳腐なものだったのです。条件が整えば誰でもアイヒマンになり得る。そうならないためには「複数性に耐える」ことが大切だ。「複数性」とは物事を他者の目で見ることである。「他者」とは異なる意見や考え方を持っていることが大切です。「複数性」が担保されている状況では全体主義はうまく機能しません。全体主義は絶対的な「悪」を設定して複数性を破壊し、人間から「考える」という営みを奪うのです。会議でも自分と異なる意見の人を攻撃したり、排除したりあるいは無視したりよくあることです。物事に忠実であろうとする人ほど実祭は悪の塊とも言えます。アーレントは「考える」という営みを失った状態を「無思想性」と表現しました。アイヒマンは完全な「無思想性」に陥っていたと指摘しています。アーレントのいう、無思想性の思想は「そもそも人間とは何か」「何のために生きているのか」というような人間の存在そのものに関わる哲学的思想です。それは異なる視点を持つ存在を経験し、物事を複眼的に見ることで初めて可能になるとアーレントは考えていました。そこに他者の存在、複数の目がなければ、自分で考えているつもりでも、数学の問題を処理していくようなものだと指摘しています。そもそも人間は自分がしていることを深く考えません。出世に執心している人も「そもそもなぜ自分は出世したいのか」と思い悩むことはないし、政府が財政を立て直すために福祉予算を削るという時、哲学的思考を巡らしてその結果がどうでるかの検証はしていないでしょうし、アイヒマンも「ユダヤ人抹殺ー最終解決」における自分の任務追行がどういうことなのかわかっていなかったのです。私たちもインターネット上で自分と同じような意見を探し求めて満足しているのではないでしょうか。異なる意見、複数の意見を求めることは非常に難しいことです。異論や反論に耐えるということに慣れていないため聞かないで自己を防衛しているのです。自分と同じ意見は深く考えなくともわかった気分にさせ安心させます。アーレントは分かりやすい政治思想や、わかったつもりにさせる政治思想を拒否し根気強く討議し続けることの重要性を説いています。「分かりやすさ」に慣れてしまうと思考が鈍化し、複雑な現実を複雑なまま捉えることができなくなります。思考停止したままの政治的同調は全体主義につながると警告しています。アイヒマンにならないための方法も、全体主義の再来を防ぐ処方箋もありません。アーレントのメッセージはいかなる状況においても「複数性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならないー「わかりにくい」メッセージを反芻し続けることだと指摘しています。読み終えていかに日常生活で「無思想性」に流された生活を送っていることか、その中で悩みながら生活していくことの大切さを痛感しました。反対意見の人たちとも広く交流し人間の幅を広くすることは、創作の幅が広がることにも繋がるのかと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 240号

 

小誌  ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 3       村松祝子

 

 第三回 「世界観」が大衆を動員する

 

国民国家の瓦解と全体主義の台頭

 近代ヨーロッパの主要な国民国家はお互いの境界線を守ることにより均衡を保ってきました。しかし十九世紀末に勃興した「民族」的ナショナリズムは次第に国民の意識を侵食し階級社会が崩れていきました。さらに資本主義経済の発展によってほころびが見え始めた国民国家は今まで階級社会に収まっていた人々が「大衆」となって巷にあふれ出てきました。その中で生まれたのが「全体主義」だったとアーレントは言ってます。

 

「全体主事」の重要なポイントは四つありそれは「大衆」「世界観」「運動」そして「人格」です。大衆を惹きつけた強い「世界観」は、ユダヤ人が世界を乗っ取るという荒唐無稽な陰謀論に引き寄せられた世界観」でした。こうした虚構によって人心を掌握した「全体主義」は砂上の楼閣です。砂の上に組み立てられた嘘の話は常に手を加えていかなければ崩れていきます。、それゆえ「全体主義は」立ち止まることが許されない「運動」でした。どの部署がどの命令を出しているのか分かりづらくなっていました。今まで人間であれば当然「人権」」というものがあった人間が、無国籍者の出現により「人権」という概念が揺らぎ始めました。しかし全体主義「運動」は人間から「人権」のみならず「人格」まで奪い去り痕跡さえ残さないまでになったのです。

 

アーレントはユダヤ人の大量虐殺他が行われた強制収容所、絶滅収容所の問題に触れ、何百万もの人間が計画的かつ組織的に虐殺し続けることが可能だったのは一体なぜだったのか、またなぜナチにはそこまでする必要があったのかと問題を提起しています。

 

 

 

「大衆」の誕生

 

 

 

十九世紀の終わり頃から「大衆」の存在が浮上し、その特質が論じられるようになりました。そこで強調されたのは「市民」との違いでした。  

 

国民国家で「市民」として想定されたのは、彼等の利益を代表する政党を選び、政党は彼等の利害を調整して支持を保ってきました。しかし資本主義経済の発展によって階級に縛られていた人々が解放されどこにも所属しない大衆を生み出したのです。今までは一部の人しか持ち得なかった選挙権が国民国家という枠組みのなかで「大衆」に与えられたことも「大衆」の存在感を示しました。誰に(あるいは、どの政党に)投票すればいいの判らない「大衆」はどの時代にも、またどこの国にもいるし、高度な文明社会においてすら政治に無関心な大衆は「住民の多数を占めている」とアーレントは指摘してます。

 

日本人の半数は「投票に参加せず政党に加入しない生活で満足している『大衆』だということになります」と仲正教授も指摘してます。

 

しかし大衆は景気が悪化し、社会に不穏な空気が流れ出すとにわかに政治を語るようになります。深く考えることをしない大衆は安直な安心材料や分かりやすいイデオロギーを求めます。それらが全体主義的な運動につながっていったとアーレントは考察しています。階級社会の崩壊で支持基盤を失った政党も党是を理解できなくともたくさんの支持を集めたかったのです。

 

しかし実際に大衆を動員して政権を奪ったのはロシアとドイツだけでした。この両国は全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムも広がっていました。

 

 

 

「世界観」政党の登場

 

 

 

第一次世界大戦の敗戦によりドイツは多額な賠償金を課せられました。すべての植民地と領土の一部を失いさらに一九二九年に起きた世界恐慌により有力企業が倒産し、街には食べ物を求めて浮浪者が溢れていました。人々は無秩序になり虚無的に生きるか、死を選ぶかの瀬戸際に立たされていました。

 

そういう大衆の心を埋めてくれたのがナチスでした。ユダヤ人がこの世界を支配しようとしている。そのユダヤ人組織を乗っ取りドイツが代わって世界を支配する。我々ドイツ国民は優秀なアーリア人であり劣悪なユダヤ人に取って代わるのは当然な民族であると。大衆はその夢を大衆自ら膨らませナチスの世界観を大きくして行きました。

 

 

 

「自動運動」化した全体主義

 

 

 

全体主義の組織はピラミットの構造のように頂点に立つ者とその取り巻きの2、三人の者にしか、何が行われているのかわかりませんでした。一番下の組織はわずかな知識でのみ動き、もっと知れたければその上を目指す、常に大衆自身が組織を活性化して動いていかなければならない組織になっていました。大衆が安定すると組織も弱体するので常にいろいろな組織を作り警察組織も一つにすると権限が大きくなってヒトラーを狙ったりするので親衛隊やゲシュタボ、突撃隊と組織を作り上げて行きました。二重、三重にも組織を次々と膨らまして不安定構造にして忠誠心を誓わせていったのでした。

 

 

 

人間から「人格」を奪った強制収容所

 

 

 

ナチスは、十二年間政権を握っていた間、一度も揺らぐことはありませんでした。何を考えているのか隣人が逮捕されようがそれらは自分と関係がないところで決められていきました。全体主義の中で主体的に考えることができない人間に育て上げられて行ったのです。一般のドイツ人の間では情報統制が厳しくひかれ戦争終了時まで抹殺されていくユダヤ人のいたことも強制収容所も絶滅収容所の存在も知りませんでした。これまでの西欧文明では死んだ敵にも敬意を表し追悼したのです。

 

しかし収容所では人間そのものが存在したという痕跡を完全に消してしまいました。人間は物として処理される物品の数合わせのように、今日は何人、明日は労働力を補うために今日よりは少なくと、焼却炉に消えて行きました。

 

道徳的人格を解体(つまり自分の頭で考えたり判断したりしなくなる)された人間は全体主義を通して作られていったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

現代にも起こり得る全体主義

 

 

 

アーレントは、「全体主義の起源」の最終章で、全体主義支配は人間の「考える」という心を徹底的に破壊した、と指摘しています。

 

ナチスも最初はそれほど強い権限を持っていたわけではありません。しかし戦後の疲弊していた社会で人々は希望の持てる強いリーダーの出現を期待しました。時の政府はそれに応えることができない中、政治に無関心だった人々が政治に過大な期待をかけ始めました。荒唐無稽なユダヤ人の世界征服論や陰謀論のような解りやすいプロパガンダに飛びついていったのでした。

 

日本の現在がまさにその当時の状況に酷似していると仲正教授は指摘しています。

 

人間関係が希薄な現在、インターネット上でのプロパガンダが横行しています。全体主義は、はじめ何かがわかったような気にさせます。次に「自分はわかっている」と思い込ませます。そして、そういう人々の集まりが全体主義を成長させました。

 

仲正教授、は単純明快な解決策が流れたとき、一度踏み止まり世界を俯瞰して考えてみることが大切なのではないでしょうか、と結んでいます。

 

私も現在の日本を見ますと、来年は消費税の値上げ、年金の減額、憲法改悪、自衛隊の海外派遣など不安を感じることが多々あります。その中でどう生きていくか一人ひとりが悩み考えて生きていくことの大切さを痛感します。

 

 

 

次回は「エルサレムのアイヒマン」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  239号

 小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 2

 

               村松祝子

 

 

 

第二回 帝国主義が生んだ「人種思想」

 

 

 

近代「帝国主義」の特質 

 

中世の領主支配から「国民国家」体制に進む過程ではっきりと現れてきたのが「反ユダヤ主義」の問題でした。 西欧諸国は「国民国家」体制が整うと19世紀後半から資本主義経済が芽を出してきます。そして次第に原材料獲得と市場拡張を目指してアジアやアフリカへ進出していきました。「国民国家」体制は異質な者は排除する仕組みを含んでおりその排除の力が帝国主義を推し進める力となっていきました。 「古代ローマ帝国」は被支配地の人々も一定の条件を満たせば市民権を与え法の下で平等に扱うことを原則としていました。しかし近代の「帝国主義」は異質な者は排除するもとで自分たちの利益のために植民地となった被支配地の人々を強権で支配していきました。同じ「帝国主義」でも「古代ローマ」は異民族を仲間として取り組んでいく「開かれた」国家の法体制を基本に据えていましたが19世紀の諸帝国は同一性の原理に基づく「閉じられた」帝国だと言われています。かつて日本が朝鮮へ進出し現地の人々へ朝鮮語の代わりに日本語を強要し、日本の神社仏閣を建てさせ天皇崇拝を強制したことはまさに「帝国主義」そのものだとアーレントの指摘に大いに納得させられます。

 

 

 

アフリカ争奪戦が醸成した「人種」思想

 

アフリカへ進出したヨーロパ人は現地の人々の容姿に恐怖を抱きます。漆黒の肌にみなぎる野性的な匂いは白人を震え上がらせました。しかし怖じけづいているわけにはいきません。彼等は「種」が違う人種で「劣等な人種」だと優劣思想を持ち込みました。そいう人種には暴力で抑えるしかないと考えたのです。その頃の文学作品が紹介されています。イギリス船の船乗りでポーランド系の作者ジョゼフ・コンラッド作「闇の奥」は彼自身のアフリカ経験を基にしてベルギーの支配下にあったコンゴを舞台にして書かれました。のちにこの作品を土台にしてベトナム戦争を背景に「地獄の黙示録」として映画化しマーロン・ブランド演じるカーツ大佐の狂気の殺戮を再現させています。実際に当時のヨーロパ人はあのようなことを行ったのでしょう。その悲劇の名残が現在もアフリカの民族間の争いに尾を引いいているのではと私は思ったりします。児童文学にも白人の優位性を強調しています。インド生まれのイギリス人作家、ラドヤード・キプリングが書いた「少年キム」(1901)はインドで孤児になったアイルランド系の白人少年キムを主人公にしています。波乱冒険を繰り返しながらのちに大英帝国のスパイとなり植民地支配の一端を担い大英帝国の一員であることを誇りに思うのです。キプリングのもう一つの作品「ジャグル・ブック」(一八九四)は狼に育てられた主人公少年モーグリは野生動物の心を理解できる特異能力を野生動物支配に使い人間社会に戻っていくのです。つまり動物を被征服者に置き換えて読むと白人の優位性が強調され帰属意識の覚醒と強化を当たり前に捉えている意識が物語の底に流れている。とアーレントは書いています。

 

 

 

「民族」的ナショナリズムの勃興

 

「全体主義の起源」が発表されてから十一年後に映画「アラビアのロレンス」が上映されました。その元になったロレンスの自伝「知恵の七柱」や「砂漠の反乱」は千九百二十年代に、友人であり詩人だったロバート・グレーヴスによる伝記「ロレンスとアラビア人たち」は三十年代半ばに刊行されています。いずれも自分たちの世界を広げるために相手を利用するヨーロパ人の身勝手な考え方でした。そうした考え方の中で異人種に対する差別意識が強化され国民の中に広がって行きました。千八百五十九年イギリスのダーウィンが「種の起源」を出版したことにより自然科学の分野ばかりでなく人文、社会科学の分野に影響を与えました。この進化論を元に人間には進化の度合いのの優れた人種と劣った人種があるとし優生思想の発想の源となりました。この優生思想は「市場獲得競争に遅れをとったドイツやロシアでは「民族」的ナショナリズムとして広がっていきました。ここでいう「民族」とは歴史的ルーツが同じと見ます。解釈次第でどんどん広がっていきます。はるか昔まで遡り祖先は同じだとしゲルマン民族までイメージを広げていきます。一九世紀終わり頃かつてドイツ民族が住んでいた土地を歩こうという「ワンダーフォーゲル運動」が起こり自然を楽しむアウトドア活動だったのが次第に愛国的な意味合いにつながってドイツはもっと広大な土地を有していたのだという考え方が広がっていきました。この拡張意識を広げたのがドイツ国歌「ドイツの歌」です。第一次世界大戦後ヴァイマル共和政の時に採用され「ドイツ、ドイツ、すべての上に君臨するドイツ」と歌い上げ北はデンマーク、南はイタリア、アドリア海までその広大な土地は「もともとはドイツ」なのだとしていました。しかし現在は」第三番のみで「統一と正義と自由……兄弟として心と手を携え共に励もう……統一と正義と自由は幸せの土台……父なる祖国」とし統一ドイツ国歌としています。

 

 

 

国民国家の枠組みを壊した「血」の倫理

 

我らは文化的ルーツを分かち合う「民族」だという段階では問題はないのですが「ドイツの歌」のように「もともとはドイツ民族の土地なのだから取り戻さなくてはならない」と侵略を容認していくのです。民族的ナショナリズムを正当化するために我々はどこかで「血」がつながっている血族でありこれこそが唯一にして最も重要だと言い出したのです。何の検証もなく架空の観念でそれを将来実現しようと呼びかけたのです。嘗ての日本もありえない「王道楽土」などのスローガンを掲げて満州という大陸へ大勢の農民の次男三男を送り出し侵略していった過程と似ていると思います。民族なショナルズムは自分の民族が敵の世界に取り囲まれて苦労をしている。彼らを守ってドイツ民族の血を守らなければならないと想像していきます。ドイツ系の人々が住む地はオランダ、イタリア、デンマーク、ロシア、ポーランドなどではそこにはユダヤ人も住んでいました。特にポーランドには数百万人ものユダヤ人が住んでいました。さらに第一次世界大戦の敗北で多額の賠償金を課せられ、海外の植民地を全て没収され、国土の一三パーセントを失いました。疲弊したドイツをなんとか立ち直らせなければなりません。戦勝国の資本を操作してドイツを痛めつけているのはユダヤ人であるとしそこに焦点をあててドイツ人の心情をまとめていく状況が生まれてきました。ドイツに進化論的人権思想を持ち込んだのは作曲家リヒャルト・ブァーグナーの娘婿、イギリス人の政治哲学者ヒューストン・S・チェンバレンと言われています。彼は反ユダヤ主義の経典となった「十九世紀の基礎」(一八九九)という本を出しヨーロッパの文明をユダヤ人種からすくったのはアーリア人の指導者ドイツ系諸民族に属するチュートン人だと断定しました。これに感化されたのがヒトラーでした。ドイツ人種はアーリア人種の血を受け継ぎユダヤ人種はアーリア人種の血を汚すものだと非科学的な考えに傾倒していったのでした。

 

 

 

戦争と革命が生んだ「無国籍者」の問題

 

ナチが突然変異的に生まれたのではなく民族的ナショナリズムの延長線上に生まれ出てきたものであったとアーレントは分析しています。二十世紀に入ると第一次世界大戦終結後の分離・独立で国境が大きく動き難民が大量に発生しロシア革命後の難民も発生したのです。ヨーロッパ諸国は十八世紀も十九世紀も文明国に生きながら絶対的な無権利状態、無保護状態を知らなかった。フランス革命以降ヨーロッパの知識人や民主主義者は人間自体そのものが人権の源泉であると思われていた。しかし戦争、革命、内乱、自国消失により生まれた難民たちには人権を保障する者も政府も国際機関も全く存在しないと言うことが明白になったのです。どの国も異分子である難民を受け入れることに消極です。大量の無国籍者を法によって救うことはできないことを明らかになりました。法は理性に訴えるものです。しか理性に訴える他の支配もあり得る。それが全体主義だというのです。第二次大戦以降現在のイスラム国(IS)も内に全体主義を築き外に大量の難民を生み出しています。最後にこの小誌の解説者仲正昌樹教授は日本に住んでいると難民問題は見えづらいけれど日本にも多くの難民が暮らしています。そうした問題を他人事とは考えないで戦後七十余年右傾化傾向が見える日本がどこに向かおうとしているのか注意深く見ていかなければなりませんと結んでいます。

 

 

 

次回は全体主義についてまとめます。

 

 

 

 

 

 

 

 238号

 

小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」 を読む

 

               村松祝子

 

 

 

NHKテレビで「100分de名著」という番組が毎週月曜日(午後一〇時二五分〜一〇時五〇分)に放映されている。一年ほど前にそこで取り上げたのが、ハンナ・アーレント著「全体主義の起源」であった。金沢大学法学類教授、仲正昌樹(なかまさまさき)氏を中心に司会のアナウンサー一名とタレント一名の三人で話が進められた。

 

その教材として小誌を昨年(二〇一七年)一〇月一四、一五日、田島一氏を迎え「北海道創作専科」が行われた最後の日、田島氏を囲んで懇親会が行われた席で帯付のついたまま岩井氏が小誌を差し出した。その席では確か仲間とともに「加計学園」のことが話題になっていたかと思う。初対面の岩井氏は「来る途中でこの雑誌を買ってきたので、ぜひ読んで欲しい、今の時代を的確につかんでいると思う」と卓上に出したのだった。帯付の付いているままの小誌なので恐縮しそのお礼にぜひ感想を書きたいと思っていたが1年近くが過ぎてしまい心苦しくここに記します。

 

 作者ハンナ・アーレントン(一九〇六〜一九七五)はドイツ系ユダヤ人の政治哲学者です。一九三三年ヒットラーの政権が誕生すると二七歳の彼女は身の危険を感じ母とともに迫害を逃れてフランスへ、フランスがドイツに占領されると混乱に乗じてフランスからアメリカに亡命し一〇年後アメリカ国籍を取得します。戦後彼女はナチスによる「ユダヤ人撲滅」の凄さにあらためて衝撃を受け、現に身の危険を受け逃亡して来た者としてなぜこんなことが起きたのか、その疑問を追求し「全体主義の起源」として三部作構成で完成させました。一冊目は「反ユダヤ主義」、二冊目が「帝国主義」、三冊目が「全体主義」でかなり分厚く難しい政治哲学書とのことです。日本ではまだマッカーサーの占領政策が続いていた一九五一年にアメリカで発刊され西欧諸国の政治思想に多大な影響を与えたそうです。五、六年ほど前に映画「ハンナ・アーレント」という映画が日本でも公開され、私は観てないのでチャンスがあったら観たいものです。小誌の項目にしたがってまとめて見たいと思います。

 

 

 

「反ユダヤ主義」

 

ユダヤ人を迫害視する考え方はすでに旧、新約聖書の中でキリストを十字架にかけたのはユダヤ人であると書かれてあり、キリスト教徒は「金貸し業」など汚い仕事についてはいけないなどとありました。実際、中世のヨーロッパ社会では「金貸し業」は主にユダヤ系の人々が多かったようです。その時代をシェクスピアは小説「ベニスの商人」で高利貸しのユダヤ人シャイロックを憎々しげに貧欲に描き当時のヨーロッパ人の心に深く浸透していきました。反ユダヤ感情を煽る片割れをシェクスピアも担っていたのかと憶測されます。西欧を含めてドイツでは中世の封建領主の支配の下で生活していました。

 

しかしドイツがナポレオン戦争(一七九六〜一八一五)に負けた結果フランスの支配下となってしまい、これまで数十の地域に分かれそれぞれの領主の下で生活していたドイツ領民の間に「自分たちはフランス人ではない」「フランス人に支配されるいわれはない」という対抗意識が生まれると共に仲間意識も生まれてきました。今までバラバラだった人々の間に連帯感が生まれ、統一した「国民国家」が必要だという意識が急速に広がりました。「ドイツ国民に告ぐ」というドイツの哲学者フィヒテが講演しドイツ語、ドイツ文化、教育を強化し一致団結していこうと呼び掛けました。まさにこの時期のヨーロッパは「国民国家の形成の歴史」と考えられると中居教授は語っています。一つの国として成り立たせる過程で国民の中に自分たちに共通する敵があれば皆が一致団結して進みやすくなります。歴史的にもその目的にかなう格好の材料がそばにあったのが、ユダヤ人でした。   

 

海に囲まれ独立した日本では考えられない歴史だと思うのですが、人間の考える共通部分が今日の日本の政治情勢にぴったりなので驚異を感じます。遥か遠いヨーロッパの出来事ではなく、私たちにも繋がる問題だと思うのです。関東大震災の時「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言を流し多数の朝鮮人を虐殺した事実などは敵を作って国民の意思をまとめていくのに都合がいいし、最近では北朝鮮の核実験を例に挙げて日本周辺の危機感を煽り「戦争法」を通したことを見ても頷けます。「日本の伝統文化を大事にしよう!」と呼びかける首相を思い出し、小学校の道徳教科書をパン屋から和菓子屋に書き換えさせるなど、国民大衆を一つの方向に向かせようとする意図が感じられます。 為政者はその目的の先に何を成し遂げようとしているのか、考えなければならないと思い知らされます。 

 

この時代ヨーロッパでは領民たちが「国民国家」を目指すようになってくると政治家たちはそれを目指します。  

 

「国民国家」とはイギリス人、ドイツ人、フランス人、ロシア人、等生まれを同じくし、言語、文化、歴史を同じくする共同体が自分たちで治めるべきだと意識した時、それが民族(nation)となり、日本語では国民と訳されているー共同体意識が生まれてきます。

 

「国民国家」作りを目指していた当時のヨーロッパでは様々な言語、宗教、習慣を持つ人々が一つの地域に混在し「国家」を作る線引き(領域)もなかなか難しい状況にありました。無理やり決めようとすると後から問題が起きます。  

 

ドイツや東ヨーロッパ、ロシアにはかなりのユダヤ人が定着し、彼らは社会の中でそれなりの重要な地位を得て生活していました。その彼らを取り込んでいくためにドイツでは 彼らの文化習慣を自分たちの中に同化させて行こうとしました。ドイツ国民としてユダヤ人を取り込んでいくために「ユダヤ人解放令」を出しユダヤ人に不動産取得、信仰の自由、職業の自由、ゲットーからの解放の自由を与えました。表面的に見るとユダヤ人はヨーロッパ人とさほど顔の形は違わないしユダヤ人の中には積極的にキリスト教に改宗したり、男爵の地位を金で買ったり、政権の中の高い地位を得たり、大学教授や医者、弁護士に進出したりで社会の中に溶け込んでいました。しかしそれだけに一般のドイツ市民や恵まれない知的エリートにすれば脅威であり妬みや増悪の的となりました。

 

一八八〇年フランスの民間会社がパナマ運河建設を開始しました。これは国家事業とみなされていました。しかし工事は難航、資金も枯渇し事実上破産状態に落ちいったにもかかわらず、宝くじ付き社債の発行を政府に更新し、議会はこれを採択し許可します。しかし結局1889年会社は倒産し、八〇万人もの国民が買った株と社債は紙切れ同然となりました。この時運河会社から多くの大臣や議員へ賄賂が渡っていたことが一八九二年に暴露されました。この時賄賂工作を行ったのがこの運河会社の財務担当者だったドイツ系ユダヤ人でした。

 

市民の反感は「それ見たことか」とばかりに火に油を注ぐ結果となり賄賂工作をする汚いユダヤ人とのイメージを広げました。そして一八九四年フランス軍の参謀本部に勤めていたユダヤ系将校、アルフレド・ドレフェスがスパイ容疑で逮捕され有罪となりました。これなどは初めからドレフェスがユダヤ人だったためろくに審査もせず非公開審理で終身流刑にされました。

 

これに対して自然主義作家のエミール・ゾラなどフランスの知識階級は世論に訴えましたが、結局一〇年間も流刑された後に冤罪無実であることがわかるのです。 この時フランス国民の中に、ユダヤ人はすでに「秘密ローマ」または「秘密ユダ王国」を作って世界を操っているのではないかという疑義暗鬼に囚われていました。そんな国民感情の中でドレフェス事件が捏造されていったのでした。

 

一九〇三年、ロシアの新聞に「シオンの賢者たちの議定書」なるものが掲載されました。この連載記事はロシアの反ユダヤ主義者がユダヤ人を貶めるために捏造したらしいとされ、一九二一年にイギリスの「タイムズ」紙によって「シオンの賢者たちの議定書」なるものは偽物書だと明らかにされました。この「シオンの賢者たちの議定書」とはシオンの賢者と呼ばれるユダヤ人の指導者たちが世界征服、世界支配を計画しその取り決めのような書だと想像されていました。 

 

ロシア革命時にはロシア革命とユダヤ人の陰謀説を結びつけた本も出版されました。しかしこの「シオンの賢者の議定書」は一八年もの間否定されず、各国語に翻訳され出版され人々の間に浸透していったのでした。 第二次世界大戦前後までドイツ国民の間に「シオンの賢者の議定書」の考え方があったとは驚きです。

 

 

 

ふと私たちの身の回りを見ると日本の将来に不安を感じる若者たちの間で韓国に対する「ヘイトスピーチ」を叫んだり、沖縄基地反対の民衆に向かって警官は「土人!」と叫んだり、「南京虐殺はなかった」と言う人まで出てくる。これらは戦後七五年経っても過去の歴史が克服されずなおも我々の中で生き続けている流言の恐ろしさは見過ごすことできないことです。

 

この時代、アーレントンは残念ながらユダヤ人の中にも差別意識があったと指摘してます。ドレフェス事件が起きた時も自分たちには関係ないと無視し、東方からやってくる数多くの貧しいユダヤ人たちを自分たちには関係ない人種として蔑みました。ユダヤ人の中には ユダヤ教を信奉し、ユダヤ人同士で集たり、ユダヤ教を捨ててもユダ人同士の仲間としか付き合わない人も多くいました。アーレントンの家族もユダヤ人との付き合いが多かったと伝えられています。

 

私が一五年ほど前に仲間一五人ほどの仲間とヨーロッパへスキーに行ったことがありました。確かスイスで夕食後友人二人と夜の街へお茶飲みに出かける冒険をしました。英語のわからぬ二人ながらその時に入った喫茶店で黒の山高帽を被り、きちんとフロックコートを着た四人の男性がお茶を飲んでいました。映画の一シーンを見るような光景でしたが、ユーロッパ社会の中にあって、今もあのような出会いがあるのかなと思い出します。信仰の自由や職業選択の自由などを与えて、ドイツ民族の中にユダヤ人を取り入れたにしても、もともと出自や同質性が重要視される「国民国家」の中では異分子として見られるのでした。

 

ユダヤ人の中では自ら同化しようとして男爵の地位を金で買ったりする人も多くいたし、大学教授は四割、医者や、弁護士は五割前後もドイツ国民として活躍していたのです。国際的な金融財閥を築いたロスチャイルド家もドイツを地盤して栄えたユダヤ人でした。絶対君主制時代宮廷に仕え国家の運営、特に経済官僚のような役割を担ってそのノウハウを生かし金融界で活躍しました。その息子たちもフランスやイギリスの主君に仕え、家族的コンテツュエルとしての財閥を築いていったのでした。ユダヤ人のナショナリストたちもフランス人やドイツ人になりきって「愛国」主義を叫んでいたのです。

 

ユダヤ人がドイツ社会の中へ、同化していけばいくほど、国民の間にユダヤ人を排除しようとする雰囲気が広がっていきます。この国民感情を利用して「反ユダヤ主義政党」も現れてきます。プロレタリアート(労働者階級)の国際的連携を訴える社会主義政党の中でさえ「反ユダヤ主義」を主張するものもありました。 

 

こうした動きが、「ユダヤ人撲滅」へと繋がっていったとアーレントンは説いています。最後に中正昌樹氏は以下のようにまとめていました。国家を同質なものにしようとすると、どうしても異分子を排除しようとする働きが起こる。現在ヨーロッパで移民排斥の動きがあり、アメリカではイスラム教徒排除、フランスではかっての植民地アルジェリア、モロッコ、チュニジァから移民を多数労働者として雇ってきました。 しかし国内の失業率が高くなると彼らに非難の矛先を向けます。実際はそれらが原因でないはずです。自分たちの共同体に根本的な問題があると直視することは痛みを伴います。異分子を排除しても問題の解決にはなりません。それは歴史を見れば明らかです。

 

日本でも「自分たちではない」と何かに原因と責任を押し付け安易に納得したがる傾向にあります。「国民国家」という体裁をとっている以上その危険性は「日常の足元にある」ことを意識して身近な事象や問題を考えていくことが大切ですと結んでいました。

 

私なりに身の回りを見て、「アメリカ第一主義」を掲げる、トランプも移民排除の先頭に立っているし、沖縄の基地反対で抗議のデモ隊に「土人!」と叫ぶ警官も上からの目線で異分子排除の働きをしているし、「韓国人出て行け」という「ヘイトスピーチ」もそれによって何が解決されるのだろうかと思う。ヨーロッパの絶対君主制時代から「国民国家」への移行という新たな目でハンナ・アーレントンが歴史を考察してきた過程をこの小誌で見ることができました。

 

その流れの中で今の日本も動いているのだなと改めて意識します。「国民国家」体制がそれだけの矛盾を含んでいるなら、その矛盾を克服していく他のものがあるのか、ふとローマ帝国が他民族を束ねて永く治めた歴史があるが、なぜそんなに続いたのかとふと思う。 

 

 

 

次回は、帝国主義が生んだ「人種思想」についてまとめてみます。

 

 

 

 

 

 

 229号

 「五十鈴川の鴨」 竹西寛子著を読んで

 

                村松祝子

 

 

 

一年ほど前土曜日の朝、ラジオから聴こえてきた朗読の声に聞き耳を立てた。男性アナンサーの沈んだ落ち着いた声が語る物語に惹きつけられた。本の題名は竹西寛子作「五十鈴川の鴨」と放送された。いつか読んでみたいと思っていた。それが何号かの月刊「民主文学」の中に「原爆文学に目を向けよう」という内容で特集が組まれたことがあった。その中の冒頭に竹西寛子氏の「五十鈴川の鴨」が載っていた。   

 

この表題の二度の出会いに驚き早速買い求め私なりの読後感を記します。

 

 

 

主人公は私という人物を通して語られる被爆者岸部悠二の心の戦いと生き方を静かな文章で描いている。一つ一つの言葉と、文節が意味深く、女性らしい美しさを感じた。日本語の美しさと言葉の意味する深さにも気づかされた。

 

文体にも品性が感じられる。

 

物語は50代に手がとどく年齢の私と岸部悠二は十二、三年前ある企業の企画セミナーで出会った。相手も私と同じ建築士で、当時の会社は社員を順次セミナーや研究会、視察の目的で外部へ派遣させていた。岸部とはそれらの会合でよく顔を合わせた。研修講習会が終わり、夕食後の自由時間になるといつか宿舎近くのカウンタで席を並べるようになっていた。彼の控えめな、一瞬見せる、物悲しさに私は惹きつけられた。岸部は日生活について一切を語らなかったし建築士としては精密機械さながらのように仕事をこなす人物でもあった。人の話を聞くのも誠実で謙虚であったしどこか品性を漂わせてもいた。そう言う彼は私には気になる男であったが付かず離れずの付き合いが長く続いていた。がある日突然香田と名乗る女性の訪問を受け岸部が急病でなくなり四十九日も終わったことを告げられた。唖然とする私に岸部の言づけを伝えた。「六月十五日はよい日でした。ありがとう」と伝えて欲しいと、ただそれだけだった。

 

死の間際に伝えた言葉をたどって私は六月十五日を思い起こした。 

 

あの日はセミナーの後で岸部を伊勢神宮に誘そった。そこは私が生きづらくなった時私の心が洗われる場所であった。私達は五十鈴川を下上してくる三羽の幼鳥を従えた一対の鴨に出会った。「いいなあ」と自分にだけ納得するかのように岸部は呟いた。 香田と名乗った女性は「岸部は中学生の時広島で家族と家を一瞬にして亡くし、それ以後生きるために被爆者としての自分を消すことを課したのだ」と語った。 あの五十鈴川の鴨の光景が岸部の消そうとしていた過去を思い出させた残酷さに私はいたたまれず雑踏の中へあてもなく歩き出した。

 

「五十鈴川の鴨」はここで終る。

 

 

 

私は、作者ともに主人公の気持ちに入り込み、主人公と共に思い悩んでこの掌編小説を読み終えた。岸部悠二のような有能な多くの若者を日本は失ってきたことだろうか。原爆は人間性そのものを変えてしまう。個々の被爆者は個々の被爆の思いを心に秘めて生きている。作者はその思いの一端を見事に伝えてくれた。その思いをどう活かしていくか、今に生きる私達の仕事である。 

 

今年2017年はICANがノーベル平和賞を受けた。特に被爆者の生の声が世界の指導者の胸に響いたことは何よりも嬉しい。国連のあの会議場で抱き合った感激を日本の若者の胸に響かせたい。この喜びを日本全体で特に国を挙げて喜びたい。被曝国のこの日本の指導者がたとえそっぽを向いていても若者たちよ、諸手を挙げて喜び合おう! 現代の若者は「自分たちは、初めから絶望だけしか経験していない、後はもう上がるしかない」という。ならばICANのノーベル平和賞受賞が上がる階段の一歩にしていきたい、百人の岸部と共に。

 

 

 

被爆者の心の襞を深く読みとかせてくれた心に残る良い作品だった。

 

 

 

 

 

 229号

 「五十鈴川の鴨」 竹西寛子著を読んで

 

                村松祝子

 

 一年ほど前土曜日の朝、ラジオから聴こえてきた朗読の声に聞き耳を立てた。男性アナンサーの沈んだ落ち着いた声が語る物語に惹きつけられた。本の題名は竹西寛子作「五十鈴川の鴨」と放送された。いつか読んでみたいと思っていた。それが何号かの月刊「民主文学」の中に「原爆文学に目を向けよう」という内容で特集が組まれたことがあった。その中の冒頭に竹西寛子氏の「五十鈴川の鴨」が載っていた。   

 

この表題の二度の出会いに驚き早速買い求め私なりの読後感を記します。

 

 

 

主人公は私という人物を通して語られる被爆者岸部悠二の心の戦いと生き方を静かな文章で描いている。一つ一つの言葉と、文節が意味深く、女性らしい美しさを感じた。日本語の美しさと言葉の意味する深さにも気づかされた。

 

文体にも品性が感じられる。

 

物語は50代に手がとどく年齢の私と岸部悠二は十二、三年前ある企業の企画セミナーで出会った。相手も私と同じ建築士で、当時の会社は社員を順次セミナーや研究会、視察の目的で外部へ派遣させていた。岸部とはそれらの会合でよく顔を合わせた。研修講習会が終わり、夕食後の自由時間になるといつか宿舎近くのカウンタで席を並べるようになっていた。彼の控えめな、一瞬見せる、物悲しさに私は惹きつけられた。岸部は日生活について一切を語らなかったし建築士としては精密機械さながらのように仕事をこなす人物でもあった。人の話を聞くのも誠実で謙虚であったしどこか品性を漂わせてもいた。そう言う彼は私には気になる男であったが付かず離れずの付き合いが長く続いていた。がある日突然香田と名乗る女性の訪問を受け岸部が急病でなくなり四十九日も終わったことを告げられた。唖然とする私に岸部の言づけを伝えた。「六月十五日はよい日でした。ありがとう」と伝えて欲しいと、ただそれだけだった。

 

死の間際に伝えた言葉をたどって私は六月十五日を思い起こした。 

 

あの日はセミナーの後で岸部を伊勢神宮に誘そった。そこは私が生きづらくなった時私の心が洗われる場所であった。私達は五十鈴川を下上してくる三羽の幼鳥を従えた一対の鴨に出会った。「いいなあ」と自分にだけ納得するかのように岸部は呟いた。 香田と名乗った女性は「岸部は中学生の時広島で家族と家を一瞬にして亡くし、それ以後生きるために被爆者としての自分を消すことを課したのだ」と語った。 あの五十鈴川の鴨の光景が岸部の消そうとしていた過去を思い出させた残酷さに私はいたたまれず雑踏の中へあてもなく歩き出した。

 

「五十鈴川の鴨」はここで終る。

 

 

 

私は、作者ともに主人公の気持ちに入り込み、主人公と共に思い悩んでこの掌編小説を読み終えた。岸部悠二のような有能な多くの若者を日本は失ってきたことだろうか。原爆は人間性そのものを変えてしまう。個々の被爆者は個々の被爆の思いを心に秘めて生きている。作者はその思いの一端を見事に伝えてくれた。その思いをどう活かしていくか、今に生きる私達の仕事である。 

 

今年2017年はICANがノーベル平和賞を受けた。特に被爆者の生の声が世界の指導者の胸に響いたことは何よりも嬉しい。国連のあの会議場で抱き合った感激を日本の若者の胸に響かせたい。この喜びを日本全体で特に国を挙げて喜びたい。被曝国のこの日本の指導者がたとえそっぽを向いていても若者たちよ、諸手を挙げて喜び合おう! 現代の若者は「自分たちは、初めから絶望だけしか経験していない、後はもう上がるしかない」という。ならばICANのノーベル平和賞受賞が上がる階段の一歩にしていきたい、百人の岸部と共に。

 

 

 

被爆者の心の襞を深く読みとかせてくれた心に残る良い作品だった。