247号

 

 

 

「札幌民主文学通信」御中

 

村瀬喜史

 

 

 

地域の共産党支部で人が足りないため、後援会長をやり、ニュースをつくり、電話対話・支持拡大など、活動の中心にいて、選挙前半戦のあとは江別市議戦の電話、今は参議院選挙、今朝も午前四時から四〇〇枚のビラ撒きをする。

 

三日つづけると、疲労がたまってどうやって回復させるか。加重負担はあきらか、あと三回は必要だが、そろそろ「全戸配布」を返上したくなっている。しかし厚別区で全戸配布を完璧にやっている模範の支部であり、簡単には返上とはいかないのだ。

 

 こんなボヤキを書きながら、つねに頭の片隅にあるのは、締め切りのせまった支部誌「奔流」二七号の原稿である。

 

 『民主文学』六月号の「新人賞」受賞作とその選評を読んだ。「モチーフの強さと深さ『私はこの作品を、こういう理由で書かずにはいられない』という動機をどれだけ強く持っているか、そしてそれをいかに深く表現できるか……」、井上文夫の評の一部である。残念なことに、今の私には、そんなモチーフがない。それなら書くのをあきらめるか。

 

 問題は井上がつづいて書いているように、「それをいかに深く表現できるか」であろう。新人賞の秋吉知弘は私と同じような経歴を経て、共産党の専従になっている。「今後も文学運動の一員として、展望を指し示し、未来を創造する助けとなる物語を書いていきたい」と決意を述べている。注目していきたい。

 

 ところで、私は何歳まで生きれるのか。父は八十八歳まで生きた。晩年も同窓会の仕事をやっていたが、葬儀のとき同期の何人かに弔辞を頼んだが、みな、高齢のため断られた。医学が進歩しているのだし、父より少し長生きして後世に残る一作を書きたい。

 

 老いは着実に進んでいる。頚椎動脈瑠が発見され、いまは年二回、脳神経外病院で磁気共鳴コンピュター断層撮影(MRI)などの検査をやっている。ついでに認知症はどうですかと質問すると、「いまところ大丈夫」という答えが返ってくる。

 

 人の名前がすぐ出ない。ビラ撒き、畑仕事ですぐ疲れる。歩くとき靴を引き摺るようになり、大腿四頭筋が弱まっているだろうと、ゴミ出しのあと近所を一周するスロージョギングをやっているが、どうしたらよいか。助言を願いたい。

 

 今のうちに書きて置きたいことがいろいろ頭に浮かぶ。  

 

民主文学会のことではノーマ・フィールドさんのことだ。「奔流」二十号に「多喜二を語る⑵」で書いたが、小樽商大の倉田稔教授の「現代思想」の講座で多喜二をとりあげ、誘われたので一緒に出た。その時の会話だろうが、ノーマさんは、「民主文学」について支部活動について語った。それがきっかけで、札幌支部の例会に誘った。最初のとき、彼女を地下鉄の改札口前に腰掛けて出迎えた記憶がある。

 

ノーマさんが言うように、文学会の支部活動が世界に類例がないのなら、文学会の大会報告に入れるべきかと思う。岩波ブックレツトの二冊を拾い読みして、彼女と今のトランプなどについて、ゆっくり語り合いたいと思う。一冊目では六十八年のフランスについて、今回の「いま〈平和〉を本気で語るには」では、そのなかの「さかさまの全体主義」であり、トランプ支持のデトロイトなどラストベルト地帯は、かつて北軍の主力であったはずで、資本主義の不均等発展を解明したレーニンの「帝国主義論」の命題が今も生きているのでないか、など。

 

次の書き残して置きたいこととしては「名寄共産党事件・石井長冶について」を挙げる。

 

私が札幌地区委員会の組織部をやっている頃、多分 一九六五年の秋ぐちだったと思う。西舘仁道委員長から直接、「指示」のように言われて、入党承認書を書きそれを持参して現在東区の北光線近くの石井長治宅を訪問した。石井さんは和室で伏せっていた。

 

石井さんの経歴は「北海道最初の治安維持法弾圧事件の中心にいた人」くらいしか知らなかった。再入党の審議の経過もよく知らなかった。入党承認書に私も一筆書くのだが、宮本顕治の著作から引用した言葉を入れ評判がよかった。

 

この弾圧事件を詳細に調べたのが、宮田汎治安維持法国賠同盟会長であり、彼から問い合わせの電話に、このいきさつを語ったことがあり、著書「朔北の青春にかけた人々」に私の名が載っている。

 

これらのことで、当時を知っている人はみんな亡くなっている。今のうちに私が書いて遺さなければならない。

 

 まだまだある。これからの札幌民主文学通信」に、荒井英二と佐々木専太郎、森良玄・「北見文学と党ヘのカンパ」など、などなどである。

 

 

 

 

 

 

 

245号

 

 4月例会合評への文書発言を兼ねて

 

                村瀬喜史

 

 

 

にしうら妙子「四季を重ねて」についての民主文学三月掲載の泉さんの書評を例会で取り上げるのだが、その4月6日は、いっせい地方選挙前半戦の投票日前日である。地域の共産党後援会会長をやっていてもっとも忙しい時であり、とうてい出席はできない。それでこの通信を通じて発言に変えたい。

 

 3月25日付日刊「赤旗」3面下段の書籍広告に「四季を重ねて」が掲載されているのを偶然、発見した。「相棒」の主人公・左京ではないが、わたしも細かいところが気にかかる。

 

 4・5㎝×10・0㎝の枠のなかに、出版社名がない。他はすべて大月書店とか新日本出版とか名前があるのに自費出版か、加えて著者名の下にカコミで「212の小もくじ」とある。問い合わせ先として自宅と電話番号があり、取り扱い書店は、沼田町:キミヤ書店、深川市:至誠堂など空知の小書店である。にしうらさんの心づかいが染み出ている。ちがっていたら失礼に当たる、早速、電話で確かめた。

 

 まず泉脩さんの「書評」(民文3月)を読んで、さらに加筆したこの通信244号の投稿欄の一文を読み返した。トーマス・マンの「ブデンブローグ家の人々」や北杜夫の「楡家の人びと」を読んでいないので、「このような家族小説の系列に属する秀れた作品」という評価は、少し読んでからにしたい。なお、民文4月には泉さんの「天国からのメッセージ」の書評が、田島一さんによって書かれている。石川節子「たてがみ」とともに。

 

 この作品の最後に掲載された松木新の解説を読み返した。印刷前の原稿をよく読み込んでいる。開墾に成功すれば、その土地の地主になるという法律ができたあとで、有島農場などと同じ頃、沼田村・真布の入植があったが、同じ頃。私の祖先は屯田兵として来道した。私もこのあたりについて、「父さん」と「円空のふるさとへ」を書いたが、この作品を読んで書き直したくなった。

 

  続いて読んだのは、森谷長能著「深川西高・自由の学園・を記録する会編」の「北海道深川西高等学校あゆみ会事件」である。その森谷さんはこの2月19日に亡くなった。その葬儀は法話に拍手がでて素晴らしかった。森谷さんは年金者組合員だったので、毎月、ニュースなどをとどけ、歓談した仲で、にしうらさんのことも話題になっていた。あゆみ会事件のこと、「淡雪の解ける頃」をめぐってなどであるが、最後のこの本については、透析が週三回になり、体力が落ち、小説は読めなくなっていた。

 

 私は区の後援会ニュースに追悼文をのせたいといったが、選挙でだめになり、隣の後援会であるわたしの後援会ニュースに追悼文を書いた。葬儀は多度志の寺の住職で北海道宗平協理事長 殿平善彦で、にしうらさんの少し後輩になる。毎月の松木さんが出す「たより」に紹介された「岩波ブックレット」にあるが、ノーマさんを招聘するのに、岩波新書の「小林多喜二ー21世紀にどう読むか」を会のるメンバに薦めて説得したという。法話の内容は暴力事件の解決に話し合いを重ねたことで感銘を与えた。

 

 森谷さんはこの素晴らしい教育実践・学校づくりの中心にいて、にしうらさんもその卒業生の一人、「四季を重ねて」続編が必要な気がする。

 

 この本の最後のプロフィールに「3人・3才!孫っちばなし」という絵本を出版しているのを発見、森谷夫人から借りてきて子ども時代を思い返し読んだ。66才緑寿の記念に「個人的に差し上げるのを目的に作った絵本、「布絵」作家の梅原友子が絵の具かわりに布を使って描いている。友子さんの夫はシンガーソングライター梅原司平で、かつての民青の集会で、気合の入った歌を聴いたことがある。絵本の希望者が多かったのであろう、二版目で1500円の価格がついている。

 

 私より七つ若い、まだまだ書けるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 240号

 まゆみさんとMEMENT・MORI

 

村瀬喜史

 

「民主文学」十月号、文芸時評に「メメント・モリ」が出ていた。そのとき田中まゆみさんを思いだしていた。「札幌民主文学会便り」173号をみて訃報を知り、早速残されている賀状から二年分のまゆみさんの賀状をさがしだしてきた。二枚とも新道展出品のインスタレーションの写真が載っていて「今年も文学と美術にがんばります」と添え書きがあった。今年の写真の副題は「八月の視線」であった。

 

 わたしは二年前のこの「民文通信」の紙上に彼女の作品の合評に「これらの作品について解説を聞きたい」と書いた。「八月の視線」は東京空襲か原爆のあとの廃墟のようなイメージで、生は血管のような赤い紐であらわしたのか。

 

 東京でピカソの展覧会を見たとき、耳に解説の入った説明を借りて聞きながら鑑賞し、圧倒された。シャガールなどの作品も私には解説が必要である。まゆみさんのインスタレーションの解説を生の声で聞きたかった。

 

 早過ぎた死を悼む。人工透析は体にダメージを与え、耐久力をそぎ、早く亡くなる。友人二人にその例をみている。創作は詩的な文体で、もっと書いてもらいたかった。

 

 もう一〇年も前になるが、「北海道民主文学」VoL17に、彼女の「メメント・モリ」という作品があり、そこに次のように解説がある、「現代美術の映像によるインスタレーション(架設展示)を個展や美術展などに発表している。テーマはメメントモリ(ラテン語で死を想え)と題していて、生と死は表裏一体である。死を想え、生を想え。そして、しっかり生きよ。」と。

 

 私は、彼女に父のことを書けと言って嫌われたことがある。私は、彼女の父がレツドパージで職場を追われ、北海道機関紙印刷所で働いていた当時を覚えている。メーデーに夫婦で天理教の半天をはおって参加していた。気風のいい面白い男だった。

 

それで井伊大に電話した。彼女の死をおどろいていたが、上条順ももどっていることだし、と考えて民文に復帰を誘った。彼は彼女の父と機関紙印刷所時代一緒だったことがあり、誰か続いて声を掛けてくれないか。彼とは、石川弘明が「少年の戦争」で書いたその現地、中国東北三省を三人で碁盤をもってビール片手に打ち合ったこともあった。井伊大なら書けるだろう。それが何よりの供養になる。

 

 

 

 

 

 

 

  229号

 多喜二とロマン・ロラン

 

村瀬喜史

 

 

 

ロマン・ロランが多喜二の虐殺を当時のフランス共産党の機関紙ユマニテ紙上で抗議していたことを知ったのは、2012年2月の小樽商大でひらかれた多喜二シンポジュウムであった。商大の高橋純教授が「多喜二生前の国際的評価「1932年に見られるその一端」と題して二日目の午後いちばんに報告した。当時のユマニテ紙をすべて読み通し、加えて関連する革命的芸術家協会(A・E・A・R)の機関紙にも目を通している。

 

話の切り出しは、高田博厚著「分水嶺」の一節の「パリの市街電車のなかで、日本から到着したばかりの小包をあけ、多喜二の拷問獄死の追悼号を読んでいると、目の前に日本人がたっており、おどろいた。これが嬉野満州雄だった。」であった。

 

早速、本屋へいき、岩波現代文庫の「分水嶺」を購入して読み、フランスのレジスタンス時代の描写など興味深く読み終えた。

 

つづいて今年の「治安維持法と現代誌2018、N035」で高橋名誉教授の「多喜二とロマン・ロラン幻の抗議文をめぐって」を読んだ。そのすぐ後、「赤旗、朝の風」欄に「多喜二・ロラン伝説の解明」(七月二十五日「朝の風」欄)がでた。それで紀伊国屋三階にある商大サテライトにいき、「人文研究」(商大の研究冊子)から、氏の「伝説、事実、真実そして・あるいは文学?」をコピーしてもらった。この本は教授らの退官記念論文特集で、倉田稔教授も一緒で名誉教授になっているのもわかった。

 

高橋名誉教授の検証作業は簡単なものではない。四年分の「ユマニテ」をすべて精査し

 

  1. 3.14日付け「ユマニテ」三面に虐殺の記事を発見するが、多喜二がすでに優れたプロレタリア文学の書き手として知られていたことを見つけた。しかし、ロマン・ロランが虐殺の抗議を書かせた証拠にならない。高橋氏の奔走は裏づけをもとめて、フランス国立図書館にむかわせ、ロラン全集にも収録されていないロランと高田のあいだに交わされた未公開の往復書簡二十三通を発見する。高田書簡オリジナルのコピーには身内の同意書が必要で、このとき高田の義理の子息が生きていていろいろと協力してくれた。

     「分水嶺」は敗戦後帰国した高田が、雑誌「世界」に連載したものを単行本にした。多喜二の虐殺された年月をなぜまちがったまま残したが,解明されたように思う。記憶だけで書いたのだが、単行本にしたとき訂正文をいれた。なぜロマン・ロランの手紙が国立図書館に収納されたのか、バリがドイツ軍に占領されたとき、高田宅から押収されたように推定される。誰が高田に当時の「赤旗」を送付したのか、高田の戦前の日本時代の記述は、最初の章「郷土を去る」しか手元にない。調べたいことがたくさんある。

     

     私がロマン・ロランを最初に読み始めたのは、高校三年の正月、受験勉強の最中であった。文庫本でつぎからつぎへと購入して読みふけった。このころ、「本を読み始めたらなにを言ってもダメ」と母から言われていたのを思いだす。大学に入って、「教育」という講座を四単位だからと受講、講師は後に北大教育学部長になった故・鈴木秀一、まだ東大からきたばかり、月曜の一時間目を教務にいって金曜の夜に変え、まだ独身だった講師の自宅でテキストにロランの「魅せられた魂」をとりあげた。まさに私の青春時代に熱中した作品である。

     高橋名誉教授は「高田がそれとなく放置しておいたこの小さな錯誤は、私が高田博厚という人物にであうべく調えられた天の配剤であったと思われるのだ」とこの一文を閉じている。

     いま、「分水嶺」を読み返しながら、そのうち商大図書館をたずねて、その他の研究論文やロラン高田の往復書簡を読もうと考えている。

     

     

 

 

 

 

 

 228号

 

松木新「北海道の米騒動」

 

(「札幌民主文学通信」237号)に関わって

 

               村瀬喜史

 

 

 

井本一夫さんとは、第一回「多喜二シンポジュウム」のとき、昼食を浜離宮朝日ホールの会場で、浜林正夫が「きみも一緒に」と誘われた。ホールの近くのレストランに行って三人で食事をした。

 

井本先生は浜林正夫の記念出版「極める眼」に補論として「北洋史から見た「蟹工船」を掲載している。後に、学習の友社から「蟹工船の社会史」を出版したときも、この論文は掲載されていて、若干補足されている。私はこの少し前、厚別の地域史を書いていて、先生のところに送っていたから、井本さんの論考に関心があるだろうと思われたのかもしれない。どんな会話をしたかは、今は覚えていない。北前船や米騒動を語るので、井本さんを富山大学教授と思って話を聞いていたような気がしていたのが記憶にある。読みかえす必要がある。

 

 小樽高商生・南亮三郎が米騒動を「社会主義を検挙するまえに、まず敵である世の巨商富豪の罪を探求し、しかる後に窮民に罰を」とペンネームで新聞に書き、罰金刑を言い渡され、当時の文部省から放校といわれた。私の時代の南亮三郎は高商時代からの教授で理論経済と人口論の専門で、彼の蔵書が大学図書館に寄贈されているのを知っている。放校をいわれてから、浜林さんによると、初代学長・渡辺龍盛のとりなしで復学したという。南が処分をうけたのは、大正七年(1918年)でロシア革命の翌年。シベリア出兵など騒然としていた時代、同窓生の書き残したものでは、筆頭教授といれた二代目学長・伴房次郎の自宅から通学して卒業したという。

 

「なにか困ったことがあれば伴さんのとろろへいけ」。この時代は「学園のルネッサンス」とよばれ、大西猪之助や大熊信行がいた。

 

後に戦時下、ある学生が1942(昭和17)年、「緑丘」にのせた一文で特高警察に呼び出され、危険思想の持主として「無期定学」処分をうけたとき、南はかつての自分を思い出し、学長とかけあって、自分の家に無償で下宿させている。しかし、彼は学徒動員でサイパンで戦死した。後年兄が感謝の言葉を書いている。

 

 

 

これらの出典は、「小樽高商の人々」からで、荻野富士夫・倉田稔らが書いたものである。

 

 

 

  223号

 「恩田の人々」を読む      

 

村瀬喜史

 

 

 

 今春三月二十三日、近所の郵便局でストライキが行われた。近くに知人がおり,この局の郵政産業労働者ユニオンの代表をやっているので、応援に駆けつけた。朝方、春の雪が降り、長靴でなく革靴で出発してしまい、引き返す時間もなく、先にあるいた足跡をふんでいった。一人で出かけるストライキの応援は五十年ぶりか、かつて地方公務員の始業前三十分スト以来のこと、どんな話をすればいいのか前夜、憲法や労働法を読み直し、団結権とかストライキ権の基本の基をまなんでいった。ところが応援演説する人が多く、道労連、地区労連,区労連、自交労連……と出番がなく一時間は終わってしまった。全国13拠点25職場のスト突入で、北海道ではここ厚別局の連帯集会のみであった。

 

働く労働者は演説とビラまきのなかをつぎつぎに職場に入っていく。入り口前には職制が数人熱心にメモをとっていた。年金者組合の腕章をつけている老人のわたしにも、濡れた足もありながらここから入ってはいけないとつれない扱いであった。そのとき、ふと最近の民主文学のなかむらみのるのエッセイを思い出し<帰宅して関連のあるところを読み返した。

 

こんな訳で、なかむらさんに電話して[恩田の人々」という作品を送っていただいた。「文化評論」の1988.3月臨時増刊で少し黄色に変色しており、なかむらさん本人の添え書きに「貴重な遺物」とあった。「文化評論」は、さきに評伝を書いた多田光雄が当選したあと、この雑誌の編集委員になったこともあり、ずうっと読んでいたはずだが、この入選作品は覚えていない。

 

まずは私が読んでからと、三十年前の小さい字を、寝ながら面白く読み終えた。取材をやって描く小説とはどゆうものか、なかむらさんが、同じ郵便労働者であったことが、臨場感をもたせている。「民主文学」三月号、連載エッセイ第八回の四「練馬の人々」に執筆動機と、五にOBの会員であることやモデルの三人が登場している。これらの人々と毎年、記念旅行もやっていて親しい仲間になっている。

 

その作品内容に少しふれると、「全国郵務労働組合恩田支部」(全逓練馬局)が、中央本部の社会党一党支持決定を誤りとし、政党支持自由を守ってたたかったために、支部ごと解散、幹部が権利停止された。そのためたたかう労組として 、新組織を旗揚げするというものがたりである。たたかう労働者の群像を感動的に描き、後に全労連に合流する。当時「残ってたたかうべきだ」という意見が党機関のなかにもあったことを見聞きしている私には、この作品は納得でき、現郵政労働者だけでなく、かつての仲間にも読ませたくなった。転勤問題などでの陰湿な攻撃はつづいており、現在は非正規から正規への処遇改善、職場の労働条件の改善、パワハラやノルマはひどくてもっぱら郵政ユニオンの出番である。ここのjP労組は当局と一体で、団体交渉はやらない。「配達途中で車から降りたとき転倒し脳内失血の疑いで入院している労働者に電話で事故事例研究会に参加を強要」(ストのとき撒いたビラ)という理解できないひどさである。郵政民営化、小泉改革のあと、保険にアメリカがはいりこみ、非正規が半数をこえ、ひどい状態になっている。

 

泣かせどころは、たまり場というか事務所になっていた「山荘」にかつてと懲戒解雇になっ

 

た男が百万円のカンパと机と印刷機をもって駆けつけてきたときのこと。いま別の調査で必要があり、読み返している三浦綾子の「銃口」でタコを助け、それが満州から帰国のとき抗日パルチザンになっていて主人公が助けられる場面を思いださせた。このカンパをもってきた男は懲戒解雇されたとき、まったく過酷な処分だと申し入れたがはねられて、職場の労働者からの見舞い金は50万円にも達した。出来すぎた小説だと思っても、ここでウルッときた。

 

なかむらさんの初期の作品であり、選評にあるように、「入党間もない党員の原則的態度は、むつかしい選択であるだけに、いっそう深い描写も可能かつ必要だったといえます」「あくどい当局と組合指導部に攻撃に屈しない党員と党組織のたたかいを感動的に描いた作品で、全体として感動的に描かれています」。同感である。

 

とくに郵政産業労働組合の創立から全国組織に展開していったそもそもがよくわかるものであると思う。これから現場労働者やかつての仲間に読ませたい。

 

 

 

 

 

  209号

 

最近の読書から、まず多喜二関連ついて

 

             村瀬 喜史

 

 『奔流』の合評のとき、松木新の『多喜二と選挙』について、いくつか発言したが、気になっていることがあり、多喜二関連の書物を読みふけった。

 

 その一つは、『文学としての小林多喜二』というタイトルの研究書をとりあげ、「文学にカギ括弧をつけて、多喜二を『文学』として研究していく、そういう研究者が結構おります。(途中略)つまり多喜二の基本的な根本の問題である反戦平和の思想、階級闘争ですね、ここのところをまったく抜きにして、それ以外の多喜二をいかに発掘するかというところに、研究者の関心が集まっている。そういう状況が今でも日本にみられます。」

 

 この本『文学としての小林多喜二』は2006年に発行されていて、私の愛読書のひとつであり、赤線をひいて読んだもののひとつで、松木新の評価とまったく違う。巻頭の座談会「今日の時代と小林多喜二」は日高昭二、小森陽一、島村輝によるもので、これだけでも私の異論の根拠になる。このなかで小森陽一の最後の発言「政治は文学であり、文学は政治なのです。政治と文学という意味のない二項対立からそろそろ、私たちも解放された方がいいんじゃないですかね(笑い)。また、島村輝の「党生活者」論序説・「政治」と「文学」の交点も、平野謙の問題提起にすっきりと答えているもので、興味のある方は一読の価値がある。そのなかで、澤地久枝が東京での二回目のシンポジウムで語った「多喜二はほとんど私小説の方法を使わない作家だったにもかかわらず「党生活者」は私小説的な読みにさらされていて従来の定説が形成されてきたことを批判し、「これはね、小林多喜二にとっては非常に心残りだったと思います。あれは未完の小説です。ぜひ、小林多喜二とその人生を全体として評価してほしかったと私は思うのです」と力説している。

 

 三年前の小樽多喜二祭で講演した尾西康充の著書「 小林多喜二の思想と文学」の書き出しの「はじめに」に第一回シンポジユウムからの研究発展が簡潔にまとめられているが、その中に、この「国文学解釈と鑑賞」別冊「文学」としての小林多喜二」の刊行が紹介され、前記三者の鼎談に加えて三十二名の執筆者が寄稿し、多喜二その人と作品の全体像をとらえなおそうとすめる試みが行われたと肯定的に紹介されている。

 

 もう一つ違うと思ったのは「東倶知安行」に関連して、多喜二が光寿寺まで、馬橇に乗らず汽車で行ったということ。小樽の琴阪さんの丹念に調べた結果というが、私はそれを読んでいない。小樽の人たちは、このお寺のことを意外に知らない。やむなく最初は故・中島さんの車で役場まで行き、探していった。松長正憲住職は歓迎してくれ、額入りの羊蹄山の写真をいただいた。民文全国研究集会のオブショナルツァーを案内する前だった。その後、ノーマフイールドさんらも案内した。

 

 思い出してみると、高山亮二「小林多喜二東倶知安行の位相について」(北方文芸1975・1号)に記載されていた。その事実と虚構の考察のなかで、選挙応援に倶知安まで汽車で行ったこと、そこから現京極村の演説会場まで雪に埋もれた鉄道沿いに歩いたこと、そこで初めて政治演説をしたこと、入場できないほど盛況であったことなどを辿れる、としている。虚構はトロイカ馬橇は候補一行の本隊だけで、多喜二は鉄道沿いに歩いていったのが実際であろうと推定されている。胆振線は当時、脇方線として褐鉄鉱運搬が目的で敷設されていて、多喜二ら旅客は時刻がなく、線路を歩くしかなかったのでは。このあと線路は喜茂別まで延長される。私自身このあたりの登山で磁鉄のため登山磁石が使えないといわれた記憶がある。高山亮二は後に有島記念館館長やった人である。また「北方文芸」

 

の編集長は小笠原克であった。

 

 

 

 

 

 203号

 

 

大月源二の絵 

多喜二鎮魂の「走る男」について

         村瀬 喜史

                                                                                                                        

 最近、絵画に関するエッセイをこの「通信」に数回書いてきた。絵に関してはまったくの素人で、ただ鑑賞するとなにか精神が豊かになるようである。いい音楽を聴くとおなじように、右脳に刺激を与え認知症の予防になるかもしれないと出かける。この八月も平和美術展覧会につづいて近代美術館に行き、フランスのルノアールとかモネ、ユトリロなどを見た。

 この通信に書いた絵に関するエッセイは左記の三つである。

「北海道の民主的美術運動」2013.10                                                                180

「画家大月源二―あるプロレタリア画家の生涯」金倉義慧著181号

「大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの 188号

この最後の「上野武治・北大名誉教授の研究ノート」のつづきが必要になった。このノートの発表のあと、上野氏の調査・研究があり、それが 今年の「3・15記念集会」で発表された。この調査の最中、私のところへも電話があり、いろいろ思いつきなど語ったが、そのこともあってこの集会に参加した。この講演に訂正・加筆があって「北海道経済7・8月号」に発表された。

源二の油絵「走る男」を「多喜二鎮魂の絵」と言ったのは、上野氏がはじめてで、彼が言うように「そもそも大月さんを含めて誰も言っていないこと」である。描いて以来、八十年後に大月源二の真意、多喜二鎮魂が明らかになった。

確かにそうで、画集「大月源二の世界」に解題を載せた中野邦昭画伯は、そこで同じ1936年に描かれた「自画像」と対比して「走る男」には驚くほどの明るいオプテイミズムが画面に満ちている。自画像にある「苦悩した自我が表白されているのに対比して、このアンビバレントな感情こそが源二の内面を語っているとみてよいだろう」と多喜二については一言も語っていない。

金倉氏も「画家・大月源二」のなかで、この絵について「カラっとした明るさ」という東京美術学校卒業生の展覧会・上社会展での批評家の言葉を引用しながら、この年の年賀状や札幌の「喫茶店ネヴォ」―当時プロレタリア美術家たちのたまり―を訪ねた例をあげ、転向で屈服したという敗者の負い目をみいだすことはできない、活動に復帰したいという顔がそこにみえてくると述べていて、多喜二には一言もふれていない。

まさしく多喜二鎮魂の絵とは初めての提起である。その論証を「走る男」絵の解明、とか当時の源二をめぐるもろもろのことでおこなっている。

大月は美術学校時代に左傾し、外語大の夜間部でロシア語を学び、卒業制作に「新しき生活」を描く。このあと、プロレタリア連盟美術部に加入して漫画カットを描き、翌年の3・15で25日間、拘留される。釈放されたすぐ後、「五月のある日、多喜二は新宿のプロレタリア連盟を訪ねてきて、2階のベランダのある私の部屋に上がってきた」(多喜二と私)―初出は「北方文芸」1968.3 ―と書き残している。この時、多喜二は蔵原惟人を訪ねていて、小樽に帰って「一九二八年三月十五日」の執筆をはじめた。

源二と多喜二は小樽の中学時代から絵画を通じてのつきあいがありこのあと、この多喜二の作品を掲載した「戦旗」の装丁と挿絵を描く。つづいて「蟹工船」「不在地主」「転形期の人々」の挿絵と単行本「蟹工船」の装丁を手がける。多喜二が上京し豊多摩刑務所に拘留され、その体験をもとに「独房」を書き、一月後、多喜二は都新聞に「新女性気質」を連載するが、源二はその挿絵を69回にわたって描いた。

「多喜二と私の呼吸はピタリとあった」が、それが最後になってしまった。多喜二の虐殺を源二は豊多摩刑務所内で知る。

源二の「多喜二と私」には金倉氏によって「下書き」があることが発見された。

この「下書き」によると、源二が「転向」保釈のあと、懲役三年の刑で甲府刑務所に下獄する前に伊藤ふじ子が訪ねている。ふじ子は多喜二とは虐殺前に一緒に生活し甲府から母をよんで多喜二と一緒の生活を送っていた。このあたりは澤地久枝と手塚英孝か書いているので省略する。

多喜二虐殺のあと、ふじ子が杉並の自宅で遺体に対面したときの模様は、この札幌支部の「奔流」の題字を書いた江口換が「ふじ子が訪ねたということは聞かない、田口タキが来ているのに」という中傷記事にこたえて、「彼の遺体を寝かせてある書斎に一人の見知らぬやや小柄の女性が慌しく飛び込んできた。女は多喜二の右肩近くの布団の隅に膝頭を乗り上げて座り、多喜二の死顔をひと目みると、顔を上向きにして両手でおさえ、くやしい、くやしい、くやしいと声をたてて泣きだした。さらに ちくしょう、ちくしょう と悲痛な声立てて泣き出した。髪をむしらんばかりに泣き続ける……」そのあと、江口は「多喜二との関係は絶対に口に出してはならないことと、二度とこの家には近づかないことをこんこんと言い聞かせた。それは特高が多喜二との関係を知ったら、あなたから聞き出そうと拷問をくわえるだろうから」と。ふじ子は皆が去った一時頃かえった。朝日新聞1968.6.29一部略。当時「戦旗社」にいた小阪多喜子も1973年に「いきなり枕元にすわりこみ、人目もはばからず愛撫しはじめた。その女性に魂を奪われてしまってその後のことは覚えていない」と書いている。「多喜二とわたし」文芸復興誌

ふじ子が甲府に下獄する前の源二を訪ねて何を語ったか、二人は何も書き残していない。年上の源二がどんなアドバイスをしたのかも不明である。しかし、源二にとって大きな衝撃であったことはあきらかであろう。多喜二の虐殺は知ってはいたものの、手の骨を逆さに折るなどその酷い拷問の模様はどこにも報道されておらず、ふじ子からはじめて聞かされたのでないか。多喜二の死に対し、悲しみを共有する二人であった。

源二と会ったこの時、ふじ子は22才、50年たった亡くなる前年、ほんのわずかに書き残している。平野謙のハウスキーパー論を否定するものだが、そこに俳句が三つある。

鰯雲 人に告ぐべきことならず (俳句の師匠の句で彼女が好きだ)

アンダンテ・カンタービレ聞く多喜二の忌 (多喜二の好きな曲)

多喜二忌や麻布二の橋三の橋(多喜二と暮らした地域)

源二は29才、翌年2月、懲役3年の刑をうけて甲府刑務所に下獄、服役中の仕事は幸いにも油絵制作であった。獄中で書いたスケッチブックの下絵の中に「走る男」がある。仮釈放は35年暮れ、翌年に『走る男』を仕上げ、展覧会に出す。

このあたりは前回の一文に書いたので、重複は出来るだけさけたいが、絵の細部の検討を再度紹介すると、〈1〉褌の色が「赤色」だが、多喜二や源二が未決で豊多摩刑務所にいたときは『青色」である。多喜二の小説「独房」では「褌まで青くなくてもいいだろう」とあるので、多喜二がモデルと気づかれないために「赤色」にした。〈2〉この男の顔は形も眉毛も大月源二とはちがう。息子耕平さんは多喜二の顔にそっくりといっていた。下向きの仏像のような顔は、そもそもそのように書かれた。その他、〈右肩〉この右肩をあげるのは多喜二の癖で、作品「党生活者」にも母からたしなめるように、言われていた。〈ひまわりの葉〉甲府時代の下絵にヒマワリはあるが、葉が下向きのものはない。近所のヒマワリを見て歩いたが見当たらない。これは葬儀の祭壇に飾られた「蓮の造花」である。鎮魂の意味をこめている。

絵『走る男」は美術学校同期の展覧会に出品されたとき、絵葉書にして案内した。実に大胆な挑戦である。転向しても屈しないという固い決意が感じられる。

源二没後、遺品整理のとき、傷みのはげしい状態で残されていた。サインも制作月日もなく、これが上社会展に出品されたものと確認するには時間を要した。ただ大月源二が東京から小樽,仁木の田舎オサルナイ、手稲に転居するときも散逸しないで残っていた。源二には終生保持された「特別な存在」だった。

この『走る男」は83年小樽美術館でひらかれた「大月源二展」で戦後初めて公開される。しかしその後,行方不明になった。大月豊子夫人がどなたかに寄贈した。小樽美術館の星田七重学芸員によると「生前世話になった山梨の人に贈ったらしい」という。ところが党中央委員会の近くにある水沢画廊にあることがわかって、小樽美術館が購入した。

ここから上野氏の精力的な調査がはじまる。ふじ子の出身も多喜二も一緒に生活した彼女の母も山梨なので、大月源二の服役中、お世話になったかのと考え、ふじ子さんの娘を訪ねたりしている。私と電話したのはこの頃である。ところが、水沢画廊の社長にうかがうと、新潟出身の「アベヨシコ」という。現在、小樽美術館にある資料のなかに1983年12月末、アベヨシコ東京発・大月豊子宛の「絵をうけとった」というお礼の電報が発見された。

アベヨシコとは誰か。治安維持法国家賠償同盟の本部で「歌人の阿部淑子」ではないか、ということになり、水沢社長にも確かめている。すでに故人である。大月源二が入院したとき、阿部さんか東京の絵仲間二十人をこえる人たちから募金を集めていた。これも小樽美術館の資料から見つけ出し、娘さんも訪ねている。

阿部淑子は東京女子師(現・お茶ノ水女子大学)を卒業後、新潟女子師範で三年ほど教員をやり、市川房江らの運動に参加するため上京、労農党選挙応援で逮捕され六か月拘留のあと、共産党幹部の岩田義道の秘書・妻として地下活動にはいり、32年の 熱海事件で再び逮捕、留置場で岩田の死を知り、未決・拘留中に脊椎カリエスを発症し執行猶予で出所、戦時下に山梨に疎開している。戦後、国家賠償同盟の初代女性部長をしており、歌人で絵画も描き、娘さんと上野氏を通じて、彼女の絵が小樽美術館に二枚寄贈されている。 

豊子夫人は、この絵が多喜二鎮魂の絵とみていて、阿部さんに寄贈したと上野氏は推定している。兄嫁「大月光子」さんは、豊子さんのお父さんと京都大学同期で、岩田義道も京都大学である。岩田が党活動に専念するとき指導をうけていた河上肇から長良川で漁する父の船をおくられた話が残っているが、当時の仲間意識のようなものがある。

光子さんは源二が抑留されている豊多摩刑務所と甲府刑務所に差し入れにかよっていた。画集に「光子像」1936年、があるが、年表にはない。光子の夫、源二の兄は当時。日本銀行行員だった。源二と豊子さんが結婚するのは、「走る男」を描いた二年後である。治安維持法の監視下の男とよく結婚したものである。上野氏は「この結婚にお母さんが熱心だったとのこと、母娘とも肝のすわった方」と述べていた。

岩田義道は多喜二より3ケ月前に逮捕・虐殺されている。それは当時の「赤旗」に報道されている。淑子さんが戦後になって詠んだ歌、

残虐の治安維持法 

猿ぐつわ食い込みし 

デスマスクの秋

上野のブタ箱なりき 

多喜二の死 知りて 「ああ叉か」絶句

この絵は治安維持法犠牲者をはじめ、歴史問題の精算をぜひ達成してほしいと呼びかけている。

 

 

 

 201号

 

 エッセイ

 親友・小林茂を悼む

 

        村瀬 喜史

 

                                                                                                             村瀬喜史

 

 突然の死、早朝「赤旗」の訃報欄で知りおどろいた。六月十八日午前五時、「赤旗」と「道新」を玄関横のポストからとってきて横になったまま、見出しを斜め読みし、訃報欄をみるのが、習慣になっている。小林の突然の死、西神楽小・中同期の札幌在住で元気な何人かに連絡とるしかない。

 

  東京在住の寮生活をともにした一人がなくなった報せをもらったすぐ後である。こちらは入院してベットの上が最後だったが、小林はピンピンコロリ、胸がくるしく自転車を降りたとき何をかんがえたろうかと思う。

 

その日は年金者組合執行委員会だった。みな驚き、前々日のパークゴルフで彼には珍しく途中でやめ地下鉄の座席にやすんでいたとか、前日の年金裁判のときも最後の集会に出ず帰っていった。誰も予兆に気づかなかったのだろう。。「無理をするな」と誰かが声を掛ければと悔やむ、私は体調がよくなく、裁判傍聴の動員は配慮してくれていた。

 

 ツヤ子夫人から監視カメラが死に際を映していたと電話できいた。小林らしい最後だった。地方選挙のあと、一献かたむけたいと思っていたが、私の体調がよくなく、そのうちにと思っていたところにこの訃報である。

 

 想い出せば敗戦後、父の転勤で西神楽小学校に移ったとき、私は十号、小林はすぐ近い九号、遊び仲間であったが、なにを一緒にあそんだか、当時のことはあまり覚えていない。中学にはいり、一緒に国道や当時の鉄道を歩いてかよったのだが、そこにも小林の顔は浮かんでこない。

 

 ところが、それから15年以上もたったある日、共産党の事務所で突然出あった。私が党の専従、彼が農協労働組合の全道組織の専従役員、じっと互いに知った顔だなと見合わせ、「小林か」「村瀬か」と固く握手した。名前はすぐ出てきた。

 

 当時はお互いに忙しく、好きな酒を一緒にのんだことはない。彼は一時期、こどもたちの喘息のため、札幌のスモッグを避けて、厚田に住まいをうつした。そこに独身の国鉄労働者が移住して、議員になろうとしていたが、その激励にいったことがある。ツヤ子夫人は漁港にあがったばかりの大きなヒラメを差し入れしてくれた。刺身に吸い物においしくいただいた思い出が残っている。

 

小林は全国の農協労連委員長になり、一時、東京にいっていたが、お互いに、当時年金が支給される六十歳になり、退職。彼は北区の年金者組合、私は白石から分区した厚別区の組合を立ち上げた。組合の会議ではよく顔をあわせともに発言した。私がリウマチを発症する前はパークゴルフで支部長対抗だと一緒の組でプレーをしたこともあった。

 

この付き合いはもう二十年近くなる。西神楽小・中校同窓会もなんども小林をふくめ幹事をやらされ、その準備会も酒席であった。互いに酒は強く、好きだったので、おなじ十号の同期、寺田やときには武田らに声をかけとときどき飲んできた。地方選挙のあと、私が体調をくずし一席をと声をかけれなかったのが悔やまれる。

 

気持ちのいい男で政治的にも常に一致していて、ほんとに惜しい友人を亡くした。

 

残念である。あと五年、十年と酒を酌み交わし語りたかった。

 

 

 

 

 188号  

 

大月源二の絵「走る男」が現代に問いかけるもの

  ー歴史問題の清算と障害者の権利回復との関連

     上野武治「研究ノート」を読む

                      村瀬 喜史

 

  あるところからこのノートの存在を知り、多喜二関連の何でも読もうとしているので、北星大学での原発学習会の折り、依頼して小冊子を送って頂いた。小冊子といっても百枚クラスである。手にするとすぐ面白くなり、読みふけり読了してから、コピーして浜林教授と倉田教授に送った。布石は実ってくるものである。

 画集「大月源二の世界」と金倉義慧著「画家 大月源二」を横において引用文献などもみながら読み始めたとき、上野教授から長い電話があった。浜林教授からも手紙がきて大 上野氏はこの絵を生活技能訓練を通して精神障害者のリハビリをおこなう協会(SST.SOCIAL SKIILS TRA INING)の学術集会のボスターや抄録集に用いた。獄中で力強く走る姿を描いたこの絵は、歴史的にも差別の対象であった障害者の「復権」にふさわしいと考えたという。

 この油絵は現在、小樽美術館に所蔵されている。美術館から「本作品は、出獄してまもなく描かれたもので、刑務所の高い塀にそって走る受刑者に、自分自身の姿を投影させた作品で,こぶしを握りしめ、力強く走る男の表情は意志的であり、背景の すがすがしい青空とかたわらの向日葵とカンナの鮮やかな色彩とあいまって、新たな出発に向けての希望が感じられる」と解説されている。ところが氏は総会の準備過程で絵の舞台は大月が服役した甲府刑務所でなく、未決で拘留された豊多摩刑務所でないか、もしそうであるならば、この絵は自身の決意にとどまらず、当時も拘留されている仲間への激励をあらわしていると考え講演で言及した。しかし、その後、多喜二の小説「独房」を知り、多喜二への鎮魂を目的に制作されたと考えるにいたった。

 このノートでは、大月の戦前の歩みから多喜二との交友、大月の逮捕、刑務所時代、多喜二の死,転向と保釈、をたどり、多喜二と虐殺前、生活をともにした伊藤ふじ子の大月訪問とたどり、誰のために何のために描いたのかと探索をすすめて、多喜二がモデルでその鎮魂のために制作したと解明している。

 この絵は富田幸衛画伯によると遺品整理中に痛みの激しい状態で見つかったという。サインも制作月日の記載がない、これは絵の「危険性」を物語っている。

 氏は「男の顔」は鎮魂の対象であり、右肩をあげているのは「党生活者」の母のたしなめであり、赤褌は未決囚すなわち大月でなく多喜二、白い鉢巻は遺体につける三角巾、ヒマワリの葉は蓮の花の造花のイメージ、背景の塔は豊多摩の時計台、……と論証する。

 伊藤ふじ子は、多喜二と虐殺前に結婚しており、その夜、杉並の小林家を訪ねている。死体の顔を上向きにして両手で押さえ「悔しい」「ちきしょう」と声をだして泣き続けたことが記録されている。江口喚にさとされ、姿を消したふじ子は釈放後の大月を訪問している。何を語り合ったか推定しかないが、大月はこのとき初めて拷問死の真相を知り、どんな話かわからないが、ふじ子は彼らと同じ北海道出身の森熊猛と再婚している。

 そしてこの後「多喜二の葬送」を描く決意を固めたのでないかと推測している。

 氏はこれらの 調査のために文献だけでなく、大月の息子の耕平君,ふじ子の娘の篠崎木綿子さんらを訪ねている。

 この研究ノートが百枚もなるのは、「走る男」が現代に問いかけるものがたくさんあることにも原因がある。歴史問題とその精算などは省略する。先月のエッセイに取り上げているが問題意識は共通するものがある。

 氏からの電話のひとつは、八十三年小樽美術館で「大月源二展」がひらかれたが、その後、この絵が甲府にいき、東京の党本部近くの水沢画廊にうつり、小樽美術館に百万円でひきとられている。どうして甲府へいったのか。ふじ子の実家は甲府であり、多喜二と同居したとき母を呼んで同居している。関連があるのだろうか。ある女性が介在している。

 七十一年三月、大月源二の葬儀と偲ぶ夕べがおこなわれ、多田光雄が弔辞をおこなったが、彼は個展をやりたいと私に何度もかたっていた。私も大月宅を何度か訪問し、生活派展を幾度かみてきた。

 浜林正夫からハガキがきて、大月源二と親戚だと知らせてきた。多喜二の遺骨問題で、森熊宅も訪ねているので何かがわかればいいが。

 

  187号

       読書ノート

    明神勲著 「戦後史の汚点レッドパージ」

                       村瀬 喜史

 

  最初注文したとき、売り切れで増し刷りするから、しばし待ってくれといわれ、入手できたのは三月もたってからで、四刷目であった。

 この本の副題にGHQの指示という神話を検証する」とあり、それにひかれたためかもしれない。「レッド・パージ60周年記念のつどい」パンフを読み、三鷹事件や松川事件の最近の関連本でアメリカ公文書館などから隠されていた資料が明るみにでて、何か新しいものがあるだろうと期待があった。

 1949・50年のレッドパージは約3~4万人の労働者を職場から追い出し、その家族と関連する人々に塗炭の苦しみを強いた。これは新憲法下にもかかわらず超法規的にやられたのは占領軍最高司令官マッカーサーが命令し、日本の政府、経営者らがこれはチヤンスとばかり従ったものと一般におもわれ、私自身も少なくとも三年前まではそう思っていた。

 この本はこの先入観を完全にくつがえした。当時の首相・吉田茂、文部大臣でのちに最高裁長官になった田中耕太郎、民主化同盟などの労組がおかした共同犯罪として証明した労作である。「神話」は見事に解体された。

 十六年前に退職して地域に活動を移した手始めに、「厚別ものがたり」を地域の週刊新聞へと捻じ曲げたテコとして「レッドパージ」があり、元日通とか炭鉱とかの知人は亡くなり、今も健在なのは安藤歌子さんであった。私はお宅を訪問して話を聞き当時の証言を書いた「赤レンガの証言」をお借りした。このたび明神著を読んで、話しかけると、小冊子にしたというので、「ときは流れても」・北海道レットパージ問題懇談会編集 を戴いてきた。

 彼女は書いている。「自分の誕生日は忘れても九月十日は忘れない」と、この日、道立江差病院を「依頼免本官」という退職辞令を押し付けられ解雇された。看護の残りの処置を、といのに「それは必要ない、私物をもって即刻退去しなさい」と追われるように病院をでた。孤立無援、シベリア帰りで健康がすぐれない兄と母の行商で生活していたが、漁師や農家になにかと助けられた。翌年三月,故菱信吉氏らの尽力で前年開設された勤労者医療協議会の診療所に就職できた。

 実行したのは社会党の田中敏文知事であり,組合は跳ね上がり社会党の若手で牛耳られ、民主化同盟をつくり総評へと流れていく。一方、札幌市の高田市長は「国に指示されるような職員は一人もおりません」と突っぱねている。ここにも日本の政府らの犯罪が証明されている。安藤さんらは80年の自治労全道庁大会で名誉回復し特別組合員となった。

 しかし、全国的な名誉回復と国家賠償は何もされていない。諸外国ではどうか。

 明神氏が参考にあげている「治安維持法と現代」昨年三月号「歴史的不正義」の克服は世界史の動向・橋本進論文を学んだ。一昨年十月ニューヨークの繁華街十数メートル四方の「覚えていますか」という大型看板が設置された。ワルシャワ・ゲットー追悼碑前にひざまづくブラント首相(旧西独1970)の写真をかかげ、この行動が欧州の和解をすすめたと書き『性奴隷とされた韓国女性は日本の心からの謝罪をまっている」と記されている。広告主は韓国民間団体。この同じ十月、大統領とメルケル首相は連邦議会議事堂前に建立されたロマ(ジプシーと呼ばれユダヤ人とともに約50万人が虐殺されている)の人たちの慰霊碑除幕式がおこなわれている。ナチスのホロコースト(ユダヤ人虐殺)被害者救済のため八万人に対し一人当たり2556ユーロを補償している。ヴァイゼッカ大統領の歴史に残る演説も(1995)もこの延長線上にある。

 歴史の見直しは、諸外国では進行しているが日本では逆行している。アメリカでは日本のレッドパージと時を同じくしてマッカーシズムが席巻した。しかし、数年で凋落し57年最高裁で『言論の自由を侵すとして断罪」名誉回復した」。フランスでもスペインでも同様で特に、イタリアでは『過去への見直し」とともにマーシヤルプラン受け入れとともにおこなわれたレッドパージ犠牲者に年金を補償した。

 日本で運動のさらなる前進が必要であろう。