246号

 

 

「宮本百合子を読む集い」でのこと

 

                 泉恵子

 

                                    

 

 先月の通信に福山さんが「『宮本百合子全集』を前にして思うこと」というエッセイを書いているので、それに触発されて、今、「宮本百合子を読む集い」の中で読んでいる作品について書いてみたい。

 

 

 

 初めにこの会のことを簡単に紹介すると、かれこれ四〇年余りの歴史がある。

 

 当初、北大の大学院で「宮本百合子」を研究していた北田幸恵さんが中心となって、この会は立ち上がった。「婦人民主クラブ」企画の講演会?が最初だったらしい。それから数年は北田さんを囲んで、作品を読んできたが、彼女が群馬県高崎市にご夫君の就職先が決まって引っ越されてからは(その後幸恵さんは「城西国際大学」教授として活躍)、鷲沢セツさんが主宰者となって続いてきた。(このころの私は仕事や子育てに精一杯で、あまり参加していないのだが)

 

 ちょうど二〇年前の一九九九年、百合子生誕一〇〇年の時は、「民主文学札幌支部」「婦人民主クラブ」と共催で「生誕一〇〇年の集い」を開催したことが懐かしく甦る。北田さんの講演「宮本百合子、二一世紀へのメッセージー

 

 『風知草』『播州平野』の抵抗とフェミニズム」と、札幌静修高校演劇部の三浦綾子原作『母』(全国高校演劇コンクール最優秀賞受賞作)の熱演で盛りあがった。松木新さんが「閉会のことば」を述べた、等ということもあった。

 

 

 

 今は 毎月第二日曜日に例会を持ち、作品を声を出して読み合いながら進めている。皆で文章の情景描写を共有しながら、またことばを味わいながら進めるのでとても時間がかかる。が、それがこの「読む集い」の良いところと思っている。

 

 「獄中への手紙」は、かれこれ一〇年くらいかかって読んだ。途中、文章に出てくる他の作家の作品のことや、絵画のことなど、あちこち道草を食い、脱線する。今の社会情勢との関連や、自分との関りなどそれぞれ自身に引き付けて語ったりする。

 

 この五、六年は、膨大な人物が登場する「道標」を四年余りかけて読んできて、その後アイヌについて書かれた「遥かなる彼方」を一年程かけて読んだ。アイヌ問題についての今日的な課題などもいろいろ話し合ったりした。

 

 百合子がこれを書いたのは、「貧しき人々の群」を書いてから二年後くらいの一九歳の時。札幌のバチュラー家に寄宿しながら、人種差別にあえぐアイヌの部落をバチュラー八重子とともに歩き、その実態を様々な角度から描いた力作だが、残念ながら未完に終わっている。書き終わらないうちに父親とともにアメリカへ旅経ったからである。この作品は「風に乗ってくるコロポックル」とともに、お蔵入りとなり、戦後も五七年たった二〇〇二年刊行の『宮本百合子全集』第二〇巻に初めて日の目を見た。(この時松木さんも尽力したと聞いている)ちなみに、「風に乗ってくる……」の方はもっと早く、百合子の死後まもなく公表されている。

 

 「遥かなる彼方」の方は、なぜこれほど長い間公表されなかったのか、ということ等謎は多いが、(このことについては「『百合子とともに』 NO3」で鷲沢さんが推理している)とにかく、百合子の差別についての鋭い眼識には驚かされる。アイヌの娘でジョン・バチュラーの養女になったバチュラー八重子(作中お雪さん)の心中を推し量る目の深さに感服し、アイヌのために尽くすバチュラー博士(作中D博士)についても容赦なく批判の目を向けている。

 

 

 

 百合子の差別についての認識は「貧しき人々の群」を書く中で、鋭く自己省察して深まっていくが、その延長上にあった「遥かなる彼方」の執筆と思われる。が、そもそもの発端は女性差別にあったのではないかという思いから、今初めて「習作」と呼ばれる作品を読んでいるところである。

 

 

 

 百合子のエッセイ「行方不明の処女作」(一九三五年三月)によると、小学校六年位から書きだしたようだが、これは恋愛小説だったためか、母親に取り上げられて見失ったという。現在活字になっている最初は、一三歳の時に書いた「『平家物語』ぬきほ」と題された言文一致訳で、「葵の前」「小督」「小宰相の身投げ」「横笛」「義王」(ママ)など、薄倖の女性たちに関心を寄せている。

 

 今読んでいるのは、与謝野晶子訳の「源氏物語」に影響されたという「錦木」(にしきぎ)という作品で、エッセイ「昔の思い出」(一九二六年十月)によると、十三~十四歳ごろあの絢爛豪華な世界に興味を持って書いたということだが、ちょうど「源氏」の逆バージョンのような感じになっている。主人公の男性「光君」が、恋する女性「紫の君」に何度も「錦木」を送るのだが、(東北地方の風習に、男性が好きな女性の家の戸口に「錦木」を送り、それが取り入れられたら受け入れられたということで、受け売れられない時は何本もの「錦木」が溜まっていくという)受け入れられず、悩み苦しむという設定になっている。

 

 王朝風の風俗や習慣がたっぷりと繊細に描かれていて、「源氏」を読んでいる仲間に言わせると、随所に重なる場面があって興味深いというのだが、「源氏」が遠い記憶の私にはちょっと退屈してしまう。結構長い作品で、百合子は後に書き直そうとしたらしいが、果たさずじまいになっている。読みながら百合子は何を言いたかったのか等、深読みかと思われる意見なども飛び出したり、脱線しながら読んでいる。

 

 

 

 その前には短編小説「お女郎蜘蛛」を読んだ。谷崎潤一郎の「刺青」に影響された作品の様で、「錦木」より後の十四歳頃の作品。

 

 「お龍」という美しくあでやかな女主人公は、初め「お柳」と名付られたが、「龍が黒雲に乗って口をかっと開いて火を噴くところなんかはたまらなくいい」といって「お龍」と名前を変えさせた。手当たり次第に小説を読んでいたが、ある小説を読んで、それに刺激されてからは「私は特別に作られた女。死ぬまで男の血を吸って美しくしてをられる力を持っている」と男を手玉に取るような娘である。お女郎蜘蛛の大きなのを飼い、通ってくる男たちにその体の上を這わせると、男は良い気持ちになって息を引き取る。何人もの男が通ったが女は処女であった。そのうち女の顔にシミができ、「四、五年後には自分も当たり前の女がするようなことをしなくちゃなるまい」と考え、それが嫌で、蜘蛛を自分の身体に這わせて死ぬという話。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 234号

 

 

 

中国の旅から  その6

 

                泉恵子

 

                               

 

 北京二日目、中国六日目の朝を迎えた。明日の午後には早や帰国の途に就くことになる。

 

 昨朝散歩で行った北京城跡の奥に、昔ながらの「胡同(フートン)」と呼ばれる街並があるから行ってみないかと誘われ、ぜひと言って出かけた。

 

 公園の奥に入り口があって、その狭い門をくぐると、綺麗とは言えないごみごみした古い建物が密集している。普通の民家もあれば、小さい雑貨屋のような店もある。自転車が放置されていて、ここには車も小型車が一台申し訳なさそうに狭い通路に留まっていた。

 

 店番をしたり、通路を行き交う数人の人々が、珍しそうに歩く私たちには余り目も呉れず、黙々と動いている。大都市のど真ん中にこうした庶民の生活空間が残されていることに感銘を覚えながら、こうした昔ながらの街並がとても貴重になっていることを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 「盧溝橋」にて

 

 この日、午前は「盧溝橋」と「抗日記念館」へ行くグループと、樋口教授推薦のお茶屋さん見学へ行くグループとに分かれ、午後からは観光名所の「頤和園(イワエン)」か「故宮」へという二手に分かれての行動となった。昼食時に北京でも名の知れた餃子屋で落ち会うことになっている。

 

 私はもちろん午前中は前者で、あの日中戦争の口火となった「盧溝橋」はぜひ行きたいと思っていた一つである。

 

 北京郊外のそこまでは、地下鉄とバスを乗り継いで行く。「盧溝橋」は北京八景の一つと言われ、観光客が三々五々訪れていた。

 

 広い川幅の永定河に架けられた、白い石造りのどっしりして荘厳な雰囲気の橋である。全長226、5メートル、幅9、3メートルということで、白い石畳が敷き詰められ、ゆったりとした広い橋の向こう端には宮殿風の建物がぼやけて見えている。いくつものアーチ形になって連なり、橋の欄干には一つ(一匹?)ずつ異なった表情の獅子の塑像が立っていて、荘厳さの中に威厳も加わった立派な、美しい橋である。かつてマルコポーロが「こんな美しい橋は世界中どこにもない」と言ったとかで、「マルコポーロブリッジ」とも呼ばれている。

 

 竣工は一一九二年とあるから、日本の鎌倉幕府の始まった頃で、既に九〇〇年以上の歴史を持っている。写真にはこの上を荷物を積んだ駱駝が隊列を作って渡っているのもある。シルクロード時代、この橋は北京への入り口ともなっていた。

 

 一九三七年、この橋の近くに華北駐屯日本軍が演習を行っていた。 七月七日の夜に起こった最初の十数発の射撃が、日本軍の謀略によるものか、盧溝橋を守っていた抗日勢力によるものかは不明とされている。

 

 しかし、一一日に一旦停戦が成立したにもかかわらず、近衛内閣は軍隊の動員を決定し、戦線を拡大し、二八日には北京、天津の総攻撃を開始。全面的な戦争に拡大した。中国側はこれを契機に、第二次国共合作が成り、抗日の機運が高まったとある。

 

 

 

 「中国人民抗日戦争記念館」にて

 

 盧溝橋から道路を隔てた傍らの苑平城内に建つこの抗日記念館は、盧溝橋事件から五〇年後の一九八七年七月七日に公開されたという。城門は復元中だったが、そこをくぐって少し歩くと、左側に長方形の堂々とした構えの建物が見え、高校生と思われる生徒の一団が入口への階段を上って行くのが見えた。

 

 館内には一九三一年九月一八日の満州事変から一九四五年の抗戦勝利までの一四年間の貴重な資料が収められている。そういえば、我々がケイ台市にいた時、あちこちに「九・一八」の看板があり、中国ではこの日を記念日の一つとしていることを知った。

 

 「総合ホール」「日本軍暴行ホール」「人民戦線ホール」「抗日烈士ホール」と大きく分かれて、中国語と英語の説明があるが、日本語はなかった。

 

 沢山の写真とともに、重要人物の遺品や原稿、書類や本など資料数千点が展示され、また模型や塑像を組み合わせた戦闘場面など、立体的な迫力ある空間を演出した箇所もいくつかあった。

 

 「日本軍の暴行 現代歴史史上最暗黒の一頁」として、「南京大虐殺」が取り上げられていた。軍人ばかりでなく、一般の庶民や子供など三〇万人もの殺害をしたという生々しい写真が幾枚もあって、とても正視できなかった。「南京大虐殺はなかった」と主張する人たちは、この写真を何と観るのだろうか。動かしがたい証拠写真である。

 

 しかし、三〇万人というのは中国側の発表で、日本側では「事実関係に疑義がある」と抗議しているという。(二〇一七年一二月発行の『民主文学通信』に、後藤守彦さんの「南京事件を考える」で、日本の南京事件研究第一人者笠原十九司は、虐殺の犠牲者総数を「十数万以上それも二〇万人近いかあるいはそれ以上」としている、とある。)南京にある「記念館」でも各国語で「犠牲者三〇〇〇〇〇」と記されているそうだ。

 

 また、中国人強制連行に関する展示もあり、「外務省報告書」もガラス張りのケースに収まっていて、ここにも「野村鉱業株式会社伊屯武華鉱業所」と書かれた冊子もあった。

 

 中国側から見たものではあるが、日本軍のすさまじい蛮行をこれでもかと見せつけられるのはとても辛い。最後には日本政府の右傾化に警鐘を鳴らし、中日が手を携えて平和を作り出さそうとあったが、観終わっての感想文が綴られた冊子をめくると、「勿忘国恥」と書かれた文字が散見された。「国の恥を忘るる勿かれ」と小学生から年配者までの老若男女の文字が目に痛かった。こうした歴史を学ぶ中国人と、あまりにも知らなさすぎる日本人を思い複雑だった。日本にはこうした加害の歴史を見つめる博物館などないのではないか。歴史教科書はますます右傾化している。暗澹たる思いに囚われ、喉の奥にずっしりと重いものが残った。

 

 私の父は日中戦争に従軍しているのだが、家族にはほとんど語ることがなかった。二〇年前に初めて私が中国旅行を計画した時、中国には行きたくないと話していたことが甦った。後に父とともに日中戦争に従軍したという人の話を聞いたが、すさまじい日々の中で、焼き討ち事件にあい、宿舎を火で囲まれて、もう駄目だと思ったこともあったという。もっと詳しく聞いておけばよかったと思うことしきりだが。

 

 

 

 「頤和園」にて

 

 お昼に落ち合うことになっていた「餃子大王」というお店は老舗らしく、古い作りだが、とても混んでいた。様々な種類の水餃子と、焼き餃子をたっぷり堪能して、午後は観光地として名高い「頤和園」組と「故宮」組とに分かれた。

 

 私の参加した「頤和園」は、北京の西北郊外にある大庭園である。清時代の旧跡を改修したものという。広い昆明湖と呼ばれる人造湖と、傍らの平べったく小高い万寿山と呼ばれる広大な敷地を持つ庭園である。沢山の観光客が各国から訪れていて、人の中を縫いながら万寿山一帯に造られた階段をゆっくり上ってゆく。〇〇殿とか、△△閣と呼ばれる建物がいくつもあって、高くなる毎に、この庭園の全景が見えてくる。その度に、「わあ、きれい」と歓声を上げながら、かの西太后がこの庭園築堤に巨額のお金を注ぎ込んだがために、日清戦争に負けたのだという逸話を聞いた。

 

 この庭園は、古く一七五〇年乾隆帝時代に、母崇慶皇太后の還暦祝いに造営したのが始まりだそうで、一七六四年完成とあるが、その後、アヘン戦争など国力の衰退とともに荒廃していった。一八八四年~九五年、西太后が自らの隠居後の居室とすべく再建したとのこと。丁度日清戦争の頃を背景としているが、軍事費の一部を庭園再建費に流用したことが、戦争に敗れた一因になっていると言われているらしい。

 

 その後も歴史に翻弄されて、一部破壊されたりもしたが、修復し、中華民国時代は清室の私有財産とされたが、溥儀が紫禁城から追放されると、市政府に接収され公園となった。中華人民共和国となってしばらく中国共産党中央党校が設置されたが、一九五三年以降は公園として一般公開されたとある。

 

 とにかく広くて、たっぷり歩かされる。二〇年前に見た秦の始皇帝が造ったという「兵馬俑」といい、明、清朝の「故宮」といい、どの国にも時の権力者の造った豪華な建物や庭園があるが、中国はその規模において圧倒される。

 

 昆明湖のほとりで少し休憩をしながら、写真を撮った。学生たちが、いろんなポーズをしながら撮り合っている。おばあちゃん組も若者をまねて「お控えなすって」と言うポーズをとりながらふざけ合ったりした。

 

 

 

 最後の晩餐となるこの日の夕食は、再び繁華街に繰り出し、羊肉のしゃぶしゃぶという鍋料理だった。学生を連れての中国フィールドワークを長年続けている樋口教授の、ここもお薦めの店とのことで、人気の店らしく混雑していてずいぶん待たされた。食事処はどこもおいしくて、「今回ははずれがない」などと、学生たちも満足そうだったし、私たちも楽しませてもらった。

 

 

 

  それにしても二〇年前との相違に驚く。人々の生活は確実に豊かになっている。もちろん都市と農村との格差等は依然としてあるだろうが、この賑わいは日本のバブル期を思わせる。

 

  中国のことを「体制内資本主義」という人もいるそうだが、確かに共産党一党体制の弊害はあるだろう。中国の民主化運動に携わって、獄中死したノーベル平和賞受賞者の劉暁波氏のことが思い浮かぶ。最近も人権派の弁護士や活動家を検挙し拘束したままという「七〇九事件」から千日を迎えたという報道があった。体制に反する口出ししない限り、ある程度の自由は保障されていて、好きなことをやれているようだが、もちろんそれで良いということはない。

 

  

 

 今回の訪中の成果をどのように繋げるかは、帰国してからの活動如何にかかっている。今春(二〇一八年)には札幌の岩田地崎建設(旧地崎組)本社へ、三度目の交渉をしようということになっている。(*)

 

 

 

帰国の日 「天壇」へ

 

 最後の日になった。高齢組は夕刻の飛行機で帰国の途に就く。学生たちは一部を除いて、二週間のパスポートいっぱいの、あと二日間滞在する予定である。

 

 午前中は「天壇」という、北京郊外の広い公園の中にある、皇帝が天の神を奉ったという祭壇を見物しながら昼食をということになった。

 

 タクシーで行こうということになったが、一台だけで、後が続かず、結局バスでということになり、ここで五〇分程の時間ロスは大きく響いてしまった。

 

 「地壇」という、地の神(国つ神)を奉るというところもあるそうだが、「天壇」は皇帝が冬至の日に天帝を奉祀したといわれる、白大理石で作られた露天の祭壇である。その上に立つとご利益があるということで、大勢の観光客が次々と円盤のような祭壇の上に立っている。せっかく来たのだからと並んでその上に立ち、降り注ぐ太陽の恵みを受けると、何やらいいことがありそうな気持になるから不思議だ。

 とても広い中には、輝く石をふんだんに使った美しいお御堂などが建っていて、ここもたくさん歩かされた。一角にはダンスや体操や太極拳をしている広場があるそうだが、見ることができず残念だった。思いの外時間がかかり、初動の時間ロスもあって、昼食を摂る余裕もなく、急いでホテルに戻って、荷物を取り、北京駅前のバスターミナルで、残留組との別れを交わしたのだった。               

 

 

 

 

  233号 

  中国の旅から  その5

             泉 恵子

 

  北京市から天津市へ

 

  北京で朝を迎えたのは二十年ぶりだ。あいにくどんよりした曇り日だったが、朝食までの三十分ほど周辺を散歩する。駅と反対側を五分位行くと、こんもりと緑に包まれた公園の入り口に着いた。右側に煉瓦造りの高い壁が続いている。入口の傍らにある石版の案内を見ると、どうやらここは昔の北京城の跡らしい。中に入っていくと、お花畑もあり、縦横に分かれた道を散歩していたり、近道を急ぐ通勤者らしい人が、行き交っている。奥には新しい宮殿風の建物があって、その前の広場では、思い思いの体操をしている人が数人見受けられた。中国ではあちこちで、体操や太極拳やダンスをしている人を見かける。そんな傍らで私も適当に体を動かしていると、宮殿の後ろを、近くの北京駅を出たばかりの電車が通り過ぎていった。公園にはまだ奥があったが、この日は此処どまりでホテルに戻った。

 

 五日目の今日は、再び新幹線に乗って、天津にある「労工記念館」を訪れることになっている。二年前唐燦さんを訪ねた折、戦争勝利七十周年を記念して新しくなったこの記念館を訪れたことを聞いていたので、行ってみたいと期待していたところだ。

 

 「天津西」駅で降り、お昼時だったのでどこかで昼食をと思うが、新幹線の駅周辺は新しいということもあってか、まだ閑散としているところが多いようで、食堂らしき店は見当たらない。少し離れた所に屋台があることを教えられて行ってみると、カップ麺を販売し、いくつかのテーブルと椅子があったので、そこで皆でカップラーメンとソフトクリームの昼食を摂ることにする。正午頃になって、真っ青に晴れ渡った天津の空の下で熱い湯を注いだカップラーメンを味わっていると、真夏に戻ったように身も心も熱くなった。

 

 

 

 天津市烈士陵園にて

 

  そこから再びタクシーに分乗して、天津市烈士陵園を目指す。十五分ほど走って公園のような広い敷地内に、「在日烈士労工記念館」のグレーの濃淡で作られた大きな屋根が見えてきた。

 

 パンフレットの「展館概況」によると、一九五五年に最初の建物がこの北辰地区の一画に建てられたようだ。一九七一年に現在の「水上公園」に移り、更に一九七五年建築面積二三七平方メートルの建物となって、日本の一三五もの作業所で犠牲になった労工の名簿六七二三名分が収められたという。この時は日本在住の華僑や、中日友好促進会などの出資によるものだった。

 

 二〇〇五年に天津市がこの場所を「烈士陵園」として、八〇〇〇平方メートルに及ぶ敷地を取得し、新たに現在の、一、二階合わせて一三五二平方メートルの記念館を建築したという。この天津市は、戦後まもなく日本から引き上げてきた労工達が祖国の土を踏んだ港「塘沽(タンクー)」に隣接した都市で、多くの人は、故郷に帰る前の一時、天津の大学などに身を寄せていたという。

 

 

 

 建物の地下には、「骨灰館」があり、「在日殉難烈士」の「骨灰」二三一六箱が、縦八段、横十三段の整然と並んだケースの中、一人ずつ扉の付いた「納骨箱」に収められていた。

 

 私たちはその「骨灰館」前の祭壇に花を手向け、僧侶でもある石川団長の読経で手を合わせて、銘々で線香を供えた。

 

 愛知で犠牲になった五名の骨箱は、先に調べられていて、皆でそれぞれの前に立って、合掌した。イトムカで犠牲になった八名の方の遺骨もあるのかどうか、調べたかったが、膨大な数の中で今は探す時間がない。いつか探したいという思いに駆られたが、実現するかどうか?大きな宿題を背負った気がしたが、どこかで難しいなあというつぶやきも聞こえていた。

 

 

 

 一、二階の展示は六つのブロックからなっている。その入り口には、若くたくましい青年労働者の彫塑とともに、今は老境に入った生還者のたくさんの顔写真が並べられている。「東エイ(東海=日本の別称)血泪  記念中国在日殉難烈士・労工」と掲げられていた金文字が光線の加減で濡れているように見えた。

 

 ブロックごとの説明はまず中国語で書かれ、下に日本語が翻訳されてある。

 

 

 

 「壱 地獄之行 日本強虜中国労工」では、中国語の説明の下に「中国人の強制連行」とあり、一九三一年九一八戦争以来、日本帝国主義は「偽満州国」を建立し、「華北労工協会」を立ち上げた。一九四一年太平洋戦争勃発後は、日本国内の労働力不足を補うために、六十万人余りの朝鮮人を使用していたが、その後「華人労務者移入方針」を決定し、一九四三年四月から一九四五年六月まで約四万人の中国青壮年男性を日本に強制連行した。と、おおよその説明があり、それに関する資料がおびただしい写真とともに展示されていた。

 

 

 

 以下、「弐 身は牢獄の中に 死亡線上のあがき」では、日本での三五企業一三五事業所で強制労働させられた三八九三五人の内訳が書かれていた。

 

 土木建築業一五業者六三か所一五二五三人、鉱山業一五業者四七か所一六三六八人、港湾・埠頭での積み下ろし一企業二一か所六〇九九人、造船業四企業四か所一二一五人として、それぞれの苛酷な労働の実態が多くの生々しい写真とともに示されていた。

 

 後ろ手で縛られながらトラックに乗せられて行くものや、労働現場での真っ黒になってトロッコなどを押したり引っ張たりする様子等など。また、その時の状況を語る生還者の証言が顔写真とともに掲げられている。

 

 私は、唐燦さんや、王連喬さん、楊印山さんらの写真を探しながら観ていった。

 

 ガラスケースに収められた膨大な資料の中には「伊屯武華 野村鉱業株式会社」と書かれた冊子や袋詰めの資料もあった。「ここにイトムカのもあるよ」と教えられて、私は複雑な思いでそれに見入ったことだった。

 

 

 

 「参 死しても屈しない 尊厳のために生存をかけての抗争」では、様々な現場で迫害され、命の危険が脅かされた中、尊厳をかけて闘ったことが記され、主に花岡事件を中心に構成されていた。八路軍正規隊員として王連喬さん、抗日地方武装として、孔繁河さんが紹介されていた。孔さんは既に死亡しているが、以前愛知日中が訪ねたことのある方である。

 

 ケースの中には『日本占領下の中国労工』などの本とともに、『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働【調査報告書】改定増補版』も陳列されていた。また、愛知県東海市玄猷(げんにゅう)寺での追悼式の写真も展示されていて、そこに挨拶する唐燦さんのお顔もあった。

 

 

 

 「㈣(漢字は「長」編に「律」の旁)祖国に帰る 帰ってきた労工と遺骨送還活動」では、日本の敗戦によって、戦勝国の国民としての身分を回復し、自由の身になった労工達は、次々と帰国し、大部分はタンクーの港に入った。その時持ち帰った仲間の「骨灰箱」は、一時天津北洋大学に置かれていたが、新中国成立後、日本各地から華僑や友好の人士によって、九回にわたって遺骨の返還がなされ、この天津烈士陵園に安置されることになった。と説明があり、一三年間もの間、北海道の山野を逃げていた「劉連仁」さんのことも、あの発見された時の辮髪姿の写真とともに展示されていた。

 

 

 

 「伍 正義を求めて 中日両国民間の強制連行調査の記念」では、一九七〇年から八〇年にかけて、日本の右翼勢力が台頭し、南京大虐殺の事実を否定したり、中国への侵略戦争を否定する歴史修正の教科書を公開したり、時の首相中曽根康弘が公然と「靖国神社」に参拝したりする中で、愛国華僑や日本の友好団体等とともに、河北大学の林伯耀氏が全面的な労工問題の調査と探究を進めたとの説明があった。現在は劉宝辰教授が受け継いでいる。そうした運動を進めた人々や、追悼式、記念碑の写真も掲げられていた。

 

 

 

 「陸 公道に還る 日本企業の謝罪建碑と賠償」では、戦時中、中国労工を虜役していた日本企業は二〇企業になっている中、鹿島花岡訴訟はじめ、一五の訴訟が行われた。二〇〇〇年、鹿島花岡訴訟が和解し、二〇〇九年西松安野訴訟が和解し、二〇一〇年西松信濃川訴訟も和解。しかし、大江山訴訟はまだ企業は謝罪せず、一部の賠償に留まっているし、その他の訴訟も日本の裁判所が一九七二年の「日中連合声明」を歪曲して取り下げている。とあって、日本での裁判や、交渉の詳細な展示がなされていた。

 

 

 

 二時間ほど館内の展示に圧倒され外に出ると、青空の下の広い庭に「花岡暴動記念園」があり、その事件のすさまじさを絵物語で語る長大な白いレリーフが展示されていた。裏には犠牲者全員の名前が彫られていた。

 

 一九四五年六月三〇日、秋田県花岡町の鹿島建設で苛酷な苦役に決起した労工の約半数の四百十九人が、日本の警察と軍隊によって殺された。

 

 中国人民の民族的気概を発揮した労工達の人間としての尊厳を、永久に伝える事が、中日両国民の歴史の正義を維持してゆくのに大切なことと記されている。定礎式は二〇一一年に行われている。

 

 このレリーフにも、日本全国一三五事業所の名前が彫られていて、そこにも野村鉱業株式会社伊屯武華鉱業所の文字もあった。

 

 

 

 この巨大なレリーフの前で記念写真を撮った。この日ここを見学していたのは私達だけで貸し切りのようだったが、どれだけの人がここを訪れるのだろうか。過去の記憶を留めようという、膨大で緻密な調査を長年続けてきた人々の 尊い地道な活動に心から頭を下げずには居られなかった。

 

 ここの職員もこうした運動を熱心に支援されているらしく、これからもお互いに手を携えて行きましょうと話し合って別れた。

 

 

 

 ずっしりと重たい課題を背負って、復路は往路とは違う「天津」駅から北京へ向かった。

 

 天津駅構内の売店に「天津甘栗」が売っていた。これぞ本場の「甘栗」と、手ごろな袋詰めをいくつか買い求めた。今回の旅は、土産物店とは無縁なので、もっぱらこのようなところでお土産を求めた。

 

 この日の夕食は昨夜と同じく、再び繁華街「王府井(ワンフーチン)」に繰り出し、「吐魯番(トルファン)餐庁」という焼き肉店で豪快な串焼きを味わった。昨夕は「北京ダック」を目の前で薄切りにして裁くのを見ながら舌鼓を打って、前半の山場が終わったことをねぎらい合ったが、今日はモンゴル地方の羊の肉?を堪能させていただいた。

 

 この日はさすがに疲れて、高齢組の数人は帰りはタクシーでと思ったが、流しのタクシーはなかなか捕まらず、三〇分程も漂流して、結局地下鉄に乗って帰るという羽目になった。夜の一〇時過ぎでも繁華街は人出が絶えず、大都市北京の夜はいつまでも賑わって明るいようだ。

 

*訂正=前回「中国の旅から4」において、「GDP」を「国民総生産」と書きましたが、「国内総生産」と訂正いたします。

 

   訂正=「邯鄲の夢」の文で「栄枯盛衰」ではなく「栄華」と改めます。

 

 

 

 

 

 232号 

 中国の旅から  その4

 

                泉 恵子

 

 

 

 ケイ台(シンタイ)市から定州市へ  

 

楊福庄さんに会う

 

 中国滞在四日目の朝を迎えた。今日は、再び新幹線で北京へ向かう途中、定州というところで一時降車して、駅の構内で強制連行受害者楊印山さんのご子息楊福庄さんに会うことになっている。

 

 一泊だけのケイ台(中国音ではシンタイ)市だが、せめて朝の雰囲気を味わおうと、六時ごろから外に出た。中国の朝は早い。太極拳や体操をしていたり、朝市などが開かれたりする。九月一九日の朝は爽やかで、空気も澄んでいた。

 

 ホテルの前は大通りで、幅の広い舗道では早くも屋台が出て、果物や野菜を売って居たり、そんな路上で一人で体操をしていたりするおじさん(お爺さん?)や、おばさん(お婆さん?)がいる。ぶらぶら歩いている私はいかにも旅行者という雰囲気なのだろう。ジロジロ見ているお爺さんに「早上好(ザオシャンハオ=おはようございます)」と声をかけてみた。「早(ザオ)」というしわばれ声が返ってきて、私は思わずにっこりしたが、相手はむっつりしたままだ。

 

 まだ閉まっている角のスーパーを曲がって五分ほど行くと、殆ど干上がった川の渕に屋台がたくさん並んでいた。近くの農家から来るらしくリヤカーのような荷台を曳いている。その荷台には、「棗(ナツメ)」や「白菜」「スイカ」といった野菜や果物がそれぞれ一~二種類を山のように積んでいる。中国でよく作られているが日本ではあまり馴染みのない、リンゴを小さくしたような「ナツメ」を求めたが、一元(一六円位)でも両手に一杯渡されてしまった。

 

 更に川べりを歩いて一旦ホテルへ戻り朝食を摂っていると、川向うでは朝市が開かれているとの情報を得た。再び同じ道を歩いて更に橋を渡って行くと、さっきの屋台とは違うお店が数十、いや百軒近くも並んだ朝市が開かれていた。野菜や果物はもちろん、魚や肉屋もあり、日用雑貨や洋服、靴屋、アクセサリーなどの装飾品店といったありとあらゆるものが並んでいて、眺めていると興味は尽きない。最後のお店まで行かないうちに時間切れとなって、引き返さざるを得ないほどだった。

 

 帰り道、角のスーパーが開いていたので、お土産になるかもしれないお菓子や、昼食用のパンなどを買ってホテルに戻り、間もなく出発する。来たときと同じくタクシーで新幹線の駅まで三〇分ほど走った。料金はお迎え料金がしっかり加算されていた。

 

 

 

 昨日と同じ「ケイ台東」駅から新幹線に乗って、次の降車駅「定州東」駅までは、一時間余りである。

 

 実は昨日新幹線で、このケイ台市駅に着く少し手前に「邯鄲(カンタン 中国音ハンタン)」という駅があった。あの中国故事の「邯鄲の夢」で有名な所とのこと。「邯鄲一炊の夢」ともいわれる、あの「栄枯盛衰は実は一瞬の眠りのはかない夢であった」という漢文の教科書に載っていた話を思い出して感慨に耽ったことだった。

 

 そんなことを思って、昼食のパンなどを食べているうちに「定州東」駅に着いた。ここでは、楊印山さんの息子さんの楊福庄さんが駅まで来てくれることになっていた。

 

 本当はどこか落ち着いた場所でお会いしたかったのだが、今朝の出発がお昼頃という遅い時間しか取れず、夕方には北京に到着しなければならないために、やむなく定州東駅構内の待合室の一角で一時間程の面会ということになった。幸いロビーは空いていたので、隅の方に固まって椅子に座って話すことができた。

 

 

 

 楊福庄さんとともに

 

 楊福庄さんは一九五二年生まれというから今六五歳で、小学校の教員を既に退職していた。私は二〇一〇年に愛知でお会いして以来で七年ぶりの再会である。「あの時、名古屋で別れて北海道に帰った方ですね」と、私のことを覚えていてくださった。愛知でお会いした時はまだ現役だったと思われるが、日に焼けた精悍な中にもにこやかなお顔は変わっていなかった。

 

 お父さんの楊印山さんは二年前八九歳で亡くなって、「労工の問題は次世代に繋げたい」の遺言通り、お父さんの意志を受け継いで活動していらっしゃる。印山さんは長く定州市郊外の西南村の村長さんを勤め、今は福庄さんが村長だそうだ。日本に連行されたことは辛い思い出で心の傷は深く、長い間黙していたが、二〇〇八年頃河北大学の劉宝辰先生が聞き取りに来られてから、漸く語るようになったという。愛知でお会いした時の、飄々とした細身の身体に黄色い帽子をかぶって、少し茶目っ気もある印山さんの雰囲気が甦った。

 

 福庄さんは同行の若者たちを見て、「歴史の勉強を通じて、中日友好と、平和のために強い気持ちで行動してほしい。日本の若者たちに期待したい」と語った。 また、「三菱マテリアル」の和解について「知っているか」と聞いたところ、「自分は知っているが、知っている人は少ない。日中共同声明で国としての請求権は無くなったが、個人の請求権については中国政府は認めている。日本政府は認めていないようだが」といい、「だから民間による努力が必要だ」と強い口調で言い、「企業には和解の動きも出ているが、日本政府は動こうとしていない。このまま推移すれば、再び裁判に訴えることもありうるのでは」と語った。

 

 また、「中国は今ひと頃よりは経済的にも潤って大きく成っていることを日本も認めるべきだ」と言っていたのが印象的だった。それは、いまだ、「解決済み」と言って動こうとしない日本政府に対する抗議のように聞こえた。同時に、今やGDP(国民総生産)世界第一位にならんとする中国に大きな誇りを持ってることを伺わせもした。

 

 「一帯一路」の開発という壮大なグローバル化に伴って、南シナ海への侵出という覇権主義的な中国の在り方にはどう思っていらっしゃるのか?そんなことを聞いてみたい気もしたが、この場にはふさわしくない気もして口にしなかった。そういえば、以前、二〇一二年に唐元鶴さんが北海道へ来たとき、「尖閣諸島は中国のものだと思うが」と語って来たので、「いや、歴史的には日本のものという証明がされているようですよ」と言ったら黙ってしまった。こういう政治的な微妙な話はなかなか難しい。こちらもよく勉強していなければならないし、中国国内では反対の意見はあまり報道されないようでもある。TVでは討論番組も報道されているが、どんな議論がされてるのか、残念ながら中国語を聞き取れないのでよくわからない。

 

 駅の構内での聞き取りは、やはり落ち付かなく、何事かとこちらに顔を向けている人や、不審に思って駆けつけてくる駅の職員もいた。そんな中でも福庄さんは、終始にこやかで、お父さんに代わって起訴状にサインをして、その後全員が収まった写真を撮った。

 

 一時間半ばかりの面会はあっという間に終わり、福庄さんとお別れをして、私たちは再び新幹線の乗客となり、最後の地である北京に向かった。

 

 北京に着いて

 

「北京西」駅に着いたのは夕方四時近かった。そこから「北京」駅までは、地下鉄を乗り換えて行く。スーツケースを引き摺りながら、乗り換えのために階段を上り下りして長い廊下を歩く。学生たちが、我々高齢組を「おじいちゃん、おばあちゃん」組と呼んで、「大丈夫ですか?」階段では「スーツケースを持ちましょうか?」と何かと気を遣ってくれていた。私は「大丈夫よ」と言って、日頃山登りで鍛えた?足をこの時とばかり必死に発揮した。

 

 この日のホテルは「中谷酒店」という日本の酒屋のような名のところで、北京駅から歩いて七、八分の所にあった。由緒ある北京駅周辺はさすがに人通りが激しく、そんな人込みを縫って、スーツケースを引き摺りながら歩く。車で移動するツアーの旅行ではなかなか味わえない体験だった。

 

 

 

 

 

 231号

 

  中国の旅から その3

 

                 泉恵子

 

 ケイ台市「金牛大酒店」にて 宋殿挙さんとともに

 王連喬さんの「聞き取り」の後、十分ほどの休憩をとった。傍らに控えて我々のやり取りを見守っているご家族の中には女性が数人いた。王連喬さんの甥御さんの奥さんらしき人や、次に話を聞く宋殿挙さんの奥さんや娘さんらしき人。私は何かの役に立つかもしれないと思って数本持参した「リップクリーム」を彼女たちに配った。名古屋からのK夫人も「ボールペン」などを配っていた。その他にお土産として中国人に人気の定番のお菓子「白い恋人」を、名古屋のお土産と共に最後に渡していただいた。

 

 

 

 宋殿挙さんは、一九四五年大府での作業中に亡くなった「宋学海」さんの弟で、二四歳も年が離れている。生まれたのは一九四二年とのことで、長男の兄が捕まった時には二歳で、当然記憶はない。三人の弟のうち、唯一健在とのことだった。

 

 宋学海さんは、中国共産党の指導の下で熱心に抗日活動をしており、彼の家は貧しかったことから、塀がなくて、抗日人員が出入りするのに都合がよく、秘密連絡場所(「トーチカの家」)となっていたという。

 

 一九四四年に日本軍の捕虜となり、その後日本に護送され、北海道を経て、大府飛行場建設の作業中、大きな土石が落ちてきて亡くなったとのこと。他の証言では、小山のような土石を爆破するために発破をかけた時に逃げ切れず、その中に埋もれて亡くなったのだろうという。 

 

  そんな兄の死を知ったのは、戦後しばらくして、県政府が発行している雑誌に名前が出ていて、そのことを県の人が教えに来て、初めて家人が知ったという。

 

 そのあたりの経緯は、河北大学の劉宝辰教授が聞き取りをした「調査報告」に詳しい。(二〇一三年発行【調査報告書】 「愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働」)一部を引用すると、

 

 「宋学海の遺骨の入った箱は一九四五年末に中国に戻った宋振海(宋学海の本名)と同じ同郷の者七名が日本から持ち帰り、県政府に預けられ、後に家族に連絡が入って取りに行った。(中略泉)村民たちが宋振海の遺骨のために厳粛な葬儀を行い、県政府は彼の家に五〇〇元の葬儀料を支給し、宋振海を烈士として認定した」

 

 「その後威県政府は宋振海の両親のために『烈士証』を発給し、一九八〇年に宋振海の父親が亡くなるまで家族全員が国家の規定の基づき烈士の待遇を受けていたが、『烈士証』は後に県政府に回収された。(中略)宋振海の弟の宋殿挙(一九四二年生まれ)は今も健在であり、父親が生前に話してくれたという以上の多くの事柄を覚えており、日本に行って実の兄の慰霊活動に参加することに同意した。(以下略)」

 

 二〇一三年、宋殿挙さんは、第二回旧地崎組(現岩田地崎建設)の本社(札幌市)交渉の際に来日した。

 

 「聞き取り」は、隣にお孫さんという三〇代くらいの青年が付き添って行われた。彼が冒頭で「もう日本には行かせませんから」と言って驚かせたのだが、恐らく我々を警戒したのだろう。再び勧誘に来たと思ったのかもしれない。

 

一、本社の交渉をしたときにどんな感想を持ちましたか?

 

 とてもつらい気持ちだった。「兄が御社で当時亡くなりまして、御社は何らきちんと説明していなかったです。何らかの説明をして貰いたい」と迫りましたが、会社は沈黙するのみでした。札幌市内の西本願寺別院納骨堂を訪ねて、合葬された遺骨を見た時もつらかった.その後、追悼式に出た時も辛い気持ちだった。

 

 宋殿挙さんは、あまり雄弁ではなく、訥々と途切れながら話す。傍らのお孫さんが時折助け舟を出す。

 

二、宋学海のことは親族の間でどのように理解されていますか?

 

 工作員をしていたことについて、子供達にはあまり知らされていなかった。父や母も殆ど語らなかった。戦後になって県の人が教えてくれるまで知らなかった。日本からの「支援する会」のニュースをみて、追悼式が毎年行われている事を知り、嬉しく思った。感謝します。

 

三、お兄さんがどのようにして捕まったかは判りませんか?

 

 ある場所に地下工作員である幹部を連れて行こうとしたときに捕まったと聞いてる。

 

四、強制連行について、このことを中国ではあまり知られていないことをどう思いますか?

 

 日本の行為(強制連行)について恨みがあります。

 

五、宋学海さんはなぜ「烈士」として、天津に遺骨が納められているのか?(そうでない人もいる)

 

 子どもたちは、工作員をしていたことについてあまり知らされていなく、天津にある遺骨箱についても、中に骨が入っているのか否かはわからない。(遺骨が二か所にあるのか?)

 

 必ずしもこちらが意図した答えが返ってくるわけではなく、すれ違うような応答もあったが、最後に提訴(起訴)状にサインをしてもらった。(以後「起訴状」とする)

 

 冒頭、「もう日本には行かせませんから」と厳しい表情で口にされた隣に付き添っていたお孫さんも、次第に穏やかな表情になって「安心しました」と笑顔もこぼれる様になった。

 

 また、取材をしていた地元紙の若い記者も、「このような問題に取り組んでいる日本人がいることを知りませんでした。あなたたちに敬意を表します」と、語ったとのことだった。

 

 

 

 230号

 

 中国の旅から  その2

 

               泉 恵子

 

 武漢(湖北省)からケイ台、定州(河北省)へ

 

 三日目は、湖北省の武漢を離れて、これから訪ねる受害者王連喬さん、遺族の宋殿挙さん、楊福庄さんの住む河北省へと向かう。 新幹線の駅は昨日とは異なる「漢口」駅。そこまでは地下鉄に乗ってゆく。昨日も驚いたが武漢の地下鉄のきれいなこと。新しいということもあるのだろうが、ホームにはガラス張りの上から下までのゲートができていて、線路には入れないようになっている。同行のK夫人は「名古屋の古い地下鉄とは比べ物にならない」と、感嘆していた。もう一つ驚いたのは、地下鉄も新幹線もすべてにセキュリティがあることだった。すべての荷物と身体を通すことになっているから、地下鉄駅前は常に行列を作っている。今や十四億人プラス無戸籍人一~二億人?ともいわれる中国の人口を統括することの大変さ、難しさを思ったことだった。

 

 

 

 新幹線の列車の中で、昨夕武漢のスーパーで若者たちと一緒に仕入れてきたパンやミカンの昼食をとる。私は朝食のバイキングで食べ残した餅パンを忍ばせていて、それも昼食とする。窓外に見る田園風景は初めて訪れた二〇年前とは異なり、ほとんど人影がない。その当時はたくさんの人がクワなどの道具で働いている光景があったが、このようなところにも機械化が進んでいることを感じさせた。今回は六回目の訪中で、度毎に近代化の波を感じてはきたが、この度はその急速さに目を見張るものがあった。大都市の周辺のマンションと思われる高層建築は三〇~四〇階建てで何棟も立ち並んでいる。東京は一二〇〇万人といわれるが、二〇〇〇万人以上の大都市がいくつもある中国である。二年前武漢を訪れた時は一〇〇〇万都市と言われたが、二年後の今年は一三〇〇万人に膨れていた。

 

 走行中更に驚いたのは、太陽光発電のパネルがどこまでも続いている光景だった。広大な大地の一角が果てしなくパネルで覆われていて、向こう端が見えないのだ。日本とはすべてが「けた違い」の中国を見る思いだった。

 

 

 

 お昼過ぎにケイ台市(ケイの漢字は刑の右がオオザト)に着く。新幹線の駅はどこも郊外にあり、街中のホテルまではタクシーで行く。皆大きなスーツケースを持っているので、荷台に一個、後部座席に一個載せると一台に二人しか乗れない。幸い駅前には何台ものタクシーが留まっていたが、後に北京ではタクシーが拾えず大変な目にもあった。

 

 三〇分余りも走って「金牛大酒店」と呼ばれるホテルに六台のタクシーが次々に到着した。中都市と思われるケイ台市は、広々とした道幅を持つ、ゆったりとした雰囲気の街だった。

 

 三時ころからホテルの会議室にて、ここまで来ていただいた王連喬さんと、宋殿挙さんとの「聞き取り」が始まった。先に王さん、一時間後に宋さんの予定だったが、お二人とも予定より早く、ご家族や、地元の新聞記者と共に訪れていた。

 

 

 

王連喬さんとともに

 

 赤いチャイナ服がよく似合う王さんは、今年八九歳とのこと。長く地元の校長先生を勤めていたとのことで、ゆったりふくよかな雰囲気を持つ人だった。隣に甥御さんが付き添って座った。

 

 

 

一、名古屋の近くにいた時のことを教えてください。あなたはどんな仕事をしていましたか?

 

  自分は歳が若かったからか、事務所の仕事をさせられた。他の労工たちは、北海道でも名古屋でも、山を切り開いて平地にし、掘った土や石や木を運んでいた。(ということを仕事をしていた人から聞いた)

 

 

 

二、山を切り開く場所と、事務所との位置関係を覚えていますか?

 

  事務所からは見えなかったのでよくわからない。自分は専ら事務所で、日本人のために暖を取る火を焚いたり、飲み水を沸かしたり、ご飯を作ったりした。夜になると、中国人の労工たちと話す時間があったので、彼らが何をしていたかが分かった。

 

 

 

三、日本人に暴力を振るわれたことはあるか?

 

  日常的に罵られたり、蹴られたりもした。現場で働いていた人は手押し車をぶつけられる等もあったそうだ。

 

 

 

四、「高麗棒子」(ガオリーバンズ)という言葉を聞いたことがあるか?(朝鮮人を蔑視して言う言葉)

 

  聞いたことがある。この言葉で叩かれているのは朝鮮人だったようだ。日本人とよく似ているのでわからないが。

 

 

 

五、事務所には何人の日本人がいたか?

 

  日本人と朝鮮人との区別がつかないのでよくわからない。

 

 

 

六、大府では飛行場の拡張工事をしていたと思うが、見ていたか?

 

  見たことがないのでわからない。

 

 

 

七、一番つらかったことはどんなことか?

 

  自由がなかったことだ。叩かれて、「バカヤロー」と言われた。罵られていることが分かった。(この日本語を声高に発した)

 

  それでも他の労工たちよりは自由だった。休憩時間に抜け出して、宿舎に行って、中国人の日本語通訳からいろいろ話を聞いて情報を貰っていた。

 

 

 

八、劉平さんのことを知っているか?

 

  よく知っている。自分は可愛がってもらった。

 

  (大府では労工たちの共産党組織が密かに作られて,劉平はそのトップだった)

 

 

 

九、大府と北海道とを比べて、どんな違いがあったか?

 

  大府のほうが働く人が多かった。日本人の働く人も見た。

 

  北海道では山のなかで、人数も少なく大変だった。

 

  事務所での日本人を見て、それほど良い暮らしをしていないと思った。中国人と同じように貧しい人が多いと思った。

 

 

 

十、大府では、中国人が、木に縛り付けられているのを見たという日本人がいて、水をあげたといっているが、見たことはないか?

 

  没有(メイヨウ)。(知らない)

 

  北海道では、反抗する中国人を井戸に捨てて、上から土をかぶせたのを知っている。

 

(赤平の平岸で、労工たちの内部抗争があり、数人が亡くなっている。そのうち井戸に捨てられた一人の遺体が、今も見つかっていないという。そのことを言っているのかと思われる)

 

 

 

 もっと知りたい話もあったが、残念ながら時間切れで、この後「提訴状」にサインをしてもらい、待っていた宋殿挙さんに移った。

 

 

 

 

 

 229号

  中国の旅から その1

 

              泉 恵子

 

 

 

 二〇一五年秋、湖北省黄石市に唐燦さんを訪ねて、主に私の故郷イトムカでの苛酷な労働の日々をお聞きした。その旅は、かなり個人的なものだったが、燦さんの娘元鶴さんとの交流があって実現した。その後、再び訪れることは無いのではないだろうかと思っていた。

 

 二年目の今年六月、思いがけず日中愛知からのお誘いがあり、再び中国での強制連行・強制労働の受害者と、遺族の方にお目にかかる機会を与えられた。

 

 九月一六日から二二日までの一週間の中で、生存している唐燦さんと、王連喬さん、遺族は宋殿挙さんと楊福庄さんにお会いする旅だった。湖北省武漢から北上して河北省北京に至るまでの、広大な中国の大地を新幹線で移動する旅で、愛知県立大学の樋口教授のゼミ学生八人と日中愛知のメンバー五人に札幌から参加の私が加わり総勢一四~一五人(途中参加もあり)という大所帯だった。

 

 総指揮は樋口教授で、既に何年もゼミの学生を率いて中国でのフィールドワークを行っているという。その中から育って、現在上海の大学で学んでいるBさんと、過去に中国に留学して現在は愛知の他大学の大学院生というSさんが、通訳を務めることになった。予定していた河北大学の劉宝辰教授が体調が悪く来られなくなった為である。

 

 

 

 

 

中部国際空港から北京経由で武漢まで

 

 一日目、日中愛知のメンバーと合流し、朝九時中部国際空港を飛び立って、北京経由で夕方には武漢に着くはずだったが、北京空港で、乗り換えの便に置いてゆかれてしまう!という、日本ではありえないハプニングに見舞われて、まず驚かされた。六人のうち、唯一中国語を話せる事務局長のIさんの懸命の努力で、何とか夕方の武漢行きに乗ることができ、夜の九時に学生たちの待つホテルに入ることができた。学生たちは既に中国入りし、成都、重慶を廻って五日目ということで、ビザなし旅行最長の一四日間の旅という。

 

 

 

 

 

武漢から黄石市の唐燦さんを訪ねて

 

 翌朝、地下鉄乗り換えで、武漢駅まで行き、そこから新幹線で黄石市へ向かった。私にとっては二年ぶりの、唐燦さん、元鶴さんとの再会を控えて、車中での一時間余りは心中穏やかならぬ思いだった。彼女も「好久不見了(ハウジュウブージェンラ)」(おひさしぶりです)を日本語で何と言うかなど、通訳嬢のBさんに聞いてきたという。

 

 黄石駅には唐元鶴さんが出迎えていた。思わず肩を抱き合って、再会を喜び合った。そんな場面を地元のテレビ局が撮影していた。二年前にはお会いできなかった三男の弟さんと一緒だった。そこから市街地まで更にバスで一五分ほどかかる。る。 小型バスには唐燦さんが乗って待っていた。九一歳というが、二年前とお変わりなくお元気そうだった。固い握手を交わし合うことができたことは本当に思いがけなく、嬉しいことだった。バスの中でテレビ局の方に色々質問されたが、中国語がわからない私に代わって、もっぱら元鶴さんがあれこれと答えていた。

 

 

 

 やがて昼食所に到着したが、総勢一五名に唐さんたち家族の他、報道関係の方々も交えて、二〇名余りの大人数の昼食会は唐さんの設定した歓迎の席だった。

 

 賑やかにテーブルを囲み、おいしい中国料理に舌鼓を打っていると、あっという間に当初の予定をオーバーしてしまい、その後、場所を移動しての「聞き取り」が一時間半余りと短くなってしまった。

 

 移動した場所は「黄石市老干部活動中心」と大きな文字が建物の壁に彫られている五~六階建てのビルで、どうやらこの町の上層部の方たちの?「老人会館」のようなところだ。「黄石市老年大学」などの看板も見える。

 

 日曜日ということで、管理人もおらず、建物も鍵がかかっていたが、唐さんは勝手知ったる場所らしく、鍵を開けて中に入った。エレベーターは動いていないので、ぞろぞろと五階までの階段を上がる。唐さんも一歩一歩踏みしめながら、ゆっくり登ってゆく。広い会議室に、ぐるりと円形になったテーブルが置かれ、全員が腰掛けて、やっと「聞き取り」が始まった。

 

 

 

 いくつかの質問項目に答える形で進められた。以前にも日中愛知の調査団で質問した内容と重複するものもあったと思われるが、改めて聞き取ると、また新鮮な驚きと感慨があった。

 

 

 

一、強制連行で一番つらかったことは?という質問には、捕まった時からの経緯を話し始めた。

 

 「一九九四年、日本人に捕まった時に、中国式のムチ?でひどく打たれた。それは熱を帯びたもので、二本で体中に打ち付けられた。顔もめちゃめちゃになった状態で、刑務所のようなところに入れられた。そこで、集団で看病されて、命が助かった。一か月後、石家庄集中営に連れていかれて、逃げられないようにベルトを没収されて、ズボンも上げられない状態にされた」

 

 話しながら次第に興奮して声が高くなってゆく。所々で区切って通訳のBさんが日本語にするが、時々詰まってしまう。元鶴さんが改めてお父さんに尋ねて、助け船を出す場面も多々あった。

 

 「やがて、腕を縄で括られてチンタオ(青島)に行った。そこから船で日本に向かった。着いたところで、小さな石鹸で体を洗って、更に列車に乗って北海道に渡り、留辺蘂のイトムカに行った。

 

 そこでは、木を伐り、石を運んで平らにしていった。朝から晩まで働かされた。はだしの人もいた。寒かった。一生懸命働かないと寒くて凍えてしまう。

 

 食事は、マントウという硬い饅頭で、食べるとお腹が張って便秘になるが、食べなければ飢えてしまうし、とても苦しかった」

 

と一気に順番に話してゆく中で、いろいろ思い出すようだった。人の記憶というものは、そのようにして蘇ってくるものだろう。じっくりと向き合い、記憶を呼び覚ましてもらうのが「聞き取り」のコツだというが、時間の関係でそうした余裕がなく、用意された次の質問に移ってゆかざるを得ないという、無情な聞き取りになってしまったことは残念だった。

 

 

 

二、大府では飛行場を見たか?飛行機が発着するところを見たか?滑走路作りはコンクリートを使ったか?

 

 

 

 「名古屋でも山のようなでこぼこの土地を切り開いて平地にする作業で、日本人の女子や子どももいたようだ。

 

 滑走路の拡張工事をしていた。その地ならし作業だった。二本の滑走路を造っていたようだが、自分のやったものは土を固めてゆくものだった。もう一本がコンクリートで固めていったかどうかわからない。

 

 空襲があった。飛行機が飛んでくるのを見たが、発着は見ていない。周囲にはミカンの木がたくさん生えていた」

 

 

 

三、道具はどんなものを使ったか?

 

 

 

 「道具はクワや、スコップなどの原始的なものだった。置戸で溜め池を造った時もそのような道具だった」

 

 

 

四、どんな働き方や生活だったか?

 

 

 

 「働く時間は長く、ご飯は足りず、栄養は悪くいつもお腹を空かしていた。そして、与えられたマントウは固く便が出なくて、苦しくて、自分で出したりした」

 

 

 

五、日本政府に訴えたいことは?

 

 

 

 「ずっと前から日本政府や企業に対して訴えたかったが、どの企業で働いていたかもわからず、すぐに訴えることはできなかった」

 

 

 

 そのあと「提訴状」の三項目を認めて署名をした。

 

 

 

 この「提訴状」は、今回の旅の最大の目的で、三度目の旧地崎組(現「岩田地崎建設」)との交渉をするにあたって、新たな「提訴状」への署名をしてもらうものだった。

 

 内容は前回とほぼ同じで、企業に対して謝罪 賠償 後世への教育と記念碑や記念館を建設することを要望するものだったが、前回お名前を連ねた中には亡くなった方もおり、その方の遺族や、新たに加わって頂く方に署名をお願いして回る旅でもあった。全く新しい受害者に会うということはなく、以前に署名をしていた二名の方と、亡くなった受害者の遺族の方二名を訪ねる旅だった。