230号

 

 

『民主文学』に作品が掲載されて

 

田中恭子

 

 

 

まったく思いがけず、支部誌・同人誌推薦作品として「こむニャンコ」が札幌支部から『民主文学』へ送られてから、二ケ月、作品が掲載された十二月号が届いた。その間、主に校正箇所の件で度ほど編集長の宮本阿伎さんから連絡をいただいた。発行日間近の電話は、印刷にかかる直前の印刷所からで、長い説明文の中にある話し言葉を「鉤括弧で囲んだ方がわかりやすくなるのではないでしょうか」という提案であった。作品を書いていた時から気になっていた事で迷った部分でもあった。でも、過去のことを書いている文章は、会話も説明文の一部にしてもわかるんじゃないかなと意識的に括弧は使用しなかったということもあり、さらに、これから会話体に括弧を入れるとしたら箇所が多くて大変な作業になるのでと、指摘を感謝しつつ、そのままで印刷してくださいとお願いした。印刷に至るまでの校正はじつに丁寧で、的確な指摘をしてくださり、直していただいていた。自分の能力の低さを思い知らされつつ、宮本さんの、少しでも良い作品になるよう一緒に校正しましょうという熱意が伝わってくる日々であった。評論家としての宮本阿伎さんを認識していたが、『民主文学』編集長としても、各掲載作品の一行一句まで自分の目で確認し、印刷所に出向いて印刷直前まで、掲載作品に向き合ってくださっていると知り、感動を覚えた。

 

 新聞に『民主文学』の広告が載り、実際に本が手元に届いて、沢山の人に自分の作品が読んでもらえることの喜びが実感となった。

 

 

 

掲載作品をまずは読み、最後の「選考経過と選評」にたどり着き、牛久保建男さんの「選評」を読んだとき、ちょっとだけ違和感を覚えた。文章中の、密かに「祖母もの」と呼んでいる、の「もの」に引っかかってしまった。牛久保さんは、ほかの文学作品も密かに「震災もの」とか「組合もの」とか「原発もの」とか、くくりを付けて読むのであろうか。多分そんなことはないだろう。だとしたら、何故、密かに「もの」と呼んでいるのか。

 

 私の作品が初めて『民主文学』に掲載されたのは、一九八六年一月号で、前の号の一九八五年十二月号の支部誌同人誌推薦作品に入選漏れした、「真冬日」という作品だった。その十二月号の「選評」で新船海三郎さんは、「病床もの」が目立ち、と最初に書き、今日という時代とそこに生きる思いの深さを感じさせられた選考会だった。と、結んでいる。選考に漏れた「真冬日」もそういう意味では「病床もの」であったし、入選作品は確かに闘病生活が描かれていたが、選評は内容まで分け入って具体的な共感や弱点へのアドバイスもあり、「もの」とくくって読んでいるのでは、という違和感はなかった。

 

当時は、一九八三年の「四月号問題」以降の民主主義文学会の中央と札幌支部の関係がぎくしゃくしたまま、益々悪化していた頃で、奔流掲載の「真冬日」を推薦作とするについても、札幌支部内で、良い作品ではないけどこれしかないから一応送っておこう、と、目の前で言われたうえでのことだったので、私自身も入選するとはみじんも思っていなくて、「選評」の中で、稲沢さんや新船さんや宮寺さんが入選しなかったにもかかわらず、「真冬日」に触れてくれていたのが嬉しくて舞い上がっていたという状況でもあった。今回の「選評」を読んで、『民主文学』を購入してくれた人々は誰も「もの」にこだわった人はいなくて、自分の介護体験や親の思い通りにはならない子どもとのかかわり、職場のリストラ政策の中でうまくいかなくなった家族関係などが思い起こされ共感したという感想もあり、おおむね好評で、読みやすかった、面白かった、と言ってもらえてほっとし、牛久保さんの「もの」に引っかかってしまったのは多分私の狭量が原因なのであろうと思っている。

 

 『民主文学』掲載によって、個人的なことでは大いなる変化があった。最初、『奔流』に提出する前に作品を読んでくれた夫は、「いいんじゃない」としか言わなかったのに、「赤旗」の『民主文学』の広告に田中恭子の名前が載り、手元に注文した一〇冊の十二月号が届いた途端、彼の中の何かにエンジンがかかったらしく、いままで頑なに顔を合わせることも電話で話すことも拒否してきた地域の仲間七人に手紙を書いてくれたのだ。

 

「我が家の田中恭子さんの『コムにゃんこ』が載っている『民主文学』十二月号を買ってください。九七〇円です。よろしくお願いします」

 

というような内容で、一人一人封筒に宛名を書いて、「赤旗」の配達と「新婦人新聞」の配達の折に自分で各ポストに入れてくれた。受け取った人々は、長い間、偶然顔を合わせても挨拶さえできず逃げてしまい、声もかけられなかった彼からの手紙に驚きながらも、実に快く全員が十二月号を買ってくださった。

 

 昨年の秋ごろから、私の体調が安定しなくなってから、夫の病に付き合っているはずの私が、夫に介護されているように感じることが多々あったのだが、今回の手紙事件?で、夫の病改善の道が確かに見えてきた気がしている。