247号

 

 

 エッセイ 幼児期に見た世界 4 (最終)

 

                 豊村一矢

 

 

 

6、7歳の頃に見た世界

 

途轍もなく忙しい一ヶ月だった。一年前に主治医の判断で予約した北海道がんセンターの検診、三ヶ月に前に計画した妻との観劇旅行(旅行代金と「こまつ座」、「前進座」への観劇代は支払い済み)は実行したものの、多くの予定を後回しにした。奔流27号の編集の仕事も全く手に着かなかった。

 

 先月の「通信」(246号)のエッセイ3で、母の十三回忌(先月の二十一日)に叔母から届いたEメールを紹介したが、その後、叔母の生活が一刻も放置できない状況であることが判明したのだ。

 

叔母(九十一歳)は十三回忌にタクシーを使って必ず行くと言っていた。親族の冠婚葬祭には必ず出席する人だった。だから、突然のキャンセル、メッセージ参加ということ自体が「異変」を窺わせるものだった。彼女はずうっと独身で大学教員、研究一筋に生きてきた。現在、私の父を含め兄姉は全て他界している。一番近い親族は私を含めた甥、姪ということになる。だが、長兄の長男である甥の私ですら、もう何十年も叔母の家を訪ねていない。脳天気さ加減に呆れる。親戚の集まりで見せる快活な立ち振る舞いやメールなどでの知的で的確な言葉に触れていると……、迂闊だった。

 

「異変」という言葉を使ったが、叔母の生活の現状は急になったのではなく、この数十年の間に蓄積されたものだった。

 

 叔母からは「散らかっているから恥ずかしい。来ないで」と、訪問を何度も断られたが、粘った。やっと訪問できたのは今月(5月)の二日のことだった。家の中の状況は、散らかりのレベルではなく、「危険」のレベルであった。

 

2LDKの住宅は、どの部屋も天井まで物で溢れていた。生活用品よりも段ボール詰まった研究データ、夥しい書籍などが圧倒的に多く、その切れ端が台所のガスコンロの近くまで迫っているではないか。室内の移動は、物を除け、体を捩ってやっとできる状態。救いはトイレや浴室を含めて清潔さが保たれていること、身体機能が年齢相応に衰えて生活に支障があるものの認識力は十分であることだった。

 

 この生活環境から一刻も早く抜け出してもらうために、様々な説得活動を、時には強引に、時には柔軟かつ理詰めで行いながら、介護保険利用の申請にこぎ付けた。

 

 今日は五月三十日、このエッセイを書いている。昨日(二十九日は)介護認定に必要な手順の一つの「区の担当者による訪問調査」に立ち会ってきた。母の十三回忌から五週間ちょっと、叔母宅のドアがやっと開いた五月二日から四週間後のことである。これが冒頭の「途轍もなく忙しい一ヶ月」の内容だ。

 

 個人的な事情のことに多くの字数を使って文章を書いたことを申し訳なく思う。クドイけれど、エッセイ「幼児期に見た世界1」父が家族のもとへの復員する場面で、迎える側の家族に当時十五歳のこの叔母もいたのだが、三歳の私の記憶では存在しておらず、今回の叔母のメッセージで知ったわけで、それが動機で今の叔母との関係に触れる文章を書いてしまった。

 

 

 

 六、七歳になると小学校就学の年齢だから世界が広がる。記憶もかなり具体的だ。正確には幼児期とは言えないのかもしれない。

 

「六、七歳の頃に見た世界」は数々あるけれど、時代を反映した体験や地域の特色を表していると思われる経験に絞って書いてみる。

 

 私は昭和二十四年四月、K小学校に入学し、父の転勤で昭和二十八年十月に転校するまで在学した。入学時、各学年二学級あり一学級三十人くらいだと記憶している。因みに現在のK小学校は全校児童数11名、職員数五名である。敗戦から四年も過ぎていないのに写真がかなり普及していたらしい。入学時からの学級写真が残っている。一年の時の写真。冬の服装に近いから入学直後に撮ったものらしい。目を引くのは、貧相な身なりで、かつ上靴を履いていない裸足の児童が半数近く写っている写真だ。全国で農地改革が数次にわたって実施されたが、その効果が昭和二十四年のこの地の小作農には及んでいなかったということだろうか。

 

私は自身は、そんなことを意識せず学校生活を楽しんだように思う。私も写真を撮るというので意識したけれど、日常では、学校でみんな裸足あるくなど珍しいことでなかった。

 

 六、七歳になると大人達のお喋りも、何となく理解できたりする場合がある。父がK中学校に復職したものだから、我が家に来る大人は同業の者が多かった。そのお喋りから、戦後は就学年齢に達した子どもは、ほぼ、全員学校に通うようになった。そのためかどうか、教師不足が深刻で、免許を持たない者でも多少の教養があるものは頼まれて教員になったという。校舎のステージの背面に周囲と不釣り合いな立派な扉をもった一室でご真影を置いてあった部屋は、物置になっていた。

 

 私は小学生になって友達が急に増え、生活が一変した。今から思えば、かなりヤンチャな、よくいえば野性的な遊びに熱中していた。

 

例えば……。学校の裏手に渚滑川が流れている。そこに流されて何度も掛け替えられた「記念橋」が掛かっているが、その一帯が私たちの遊び場であった。学校側から記念橋を渡った川べりに砂地の一画があった。その砂地に、すり鉢状の穴がいくつもある。いわゆる蟻地獄である。私たちは、渚滑川の手前の寺の敷地で蟻を捕まえては瓶に入れ、橋を渡って砂地に行き、一匹ずつ箸で蟻を蟻地獄に落とす。蟻はもがいて脱出しようとするが砂が崩れて底の方へ落ちていくのみ。そこへウスバカゲロウの幼虫が底から現れて砂の中に引き釣り込むのである。私たちは歓声を挙げる。

 

 後になって解ったことだが、私たちが蟻を捕まえていた寺は西辰寺といい、本庄陸男の墓がある。そんなこと知らずに遊んでいた。

 

 本庄睦男は石狩郡当別町の出身だが、親が事業に失敗し、記念橋を渡って奥の和訓辺(わくんべ)の開拓農民となった。以来、本庄家の本籍地は訓子府になっていた。睦男は東京で昭和十四年に亡くなっているが、墓は西辰寺の墓地にあるわけだ。余談だが、睦男少年は和訓辺の奥から徒歩でK小学校に通っていた。K小学校卒業後は紋別の中学校に通い、その後、K小学校の代用教員として教鞭をとった時期もある。全て私が誕生する前のことだが、一応、K小学校の同窓、先輩ということになる。

 

 

 

 紙幅も限られてきた。「六、七歳の頃に見た世界」として、朝鮮人のことに触れておかなければならない。少し年齢が上がって視野が広がったからだろうか、街の朝鮮人のことが気になるようになってきていた。

 

ある日、同じ学年の遊び仲間と駅前通りを歩いていると、リヤカーで鉄屑のようなものを運んでいる朝鮮人と、それを囲んで高学年の悪ガキたちが何やはやし立てる場面に遭遇した。

 

「チョウセン、チョウセン、ナニイウ。オナジメシクテ、トコチガウ」。朝鮮人が悲しそうに抗議すると、悪ガキどもは同じ言葉を繰り返し、逆にからかうのである。私と友達は、いつもの野性的な行動(?)はどこへやら、ただ辛い気持ちを心に内に閉じ込めて傍観するだけだった。廻りの大人達も見て見ぬふり。

 

 後で知ったことだが、戦時中、木材切り出しに集められた朝鮮人の中で、戦後、帰るあてのない人が何人か残ってその日を食いつないでいたらしい。

 

 傍観するだけの意気地のない経験は傷となって残っている。

 

 

 

 

246号

   エッセイ 幼児期に見た世界 3

 

               豊村一矢

 

 

 

   番外編

 

 「五歳、六歳のときに見た世界」を書くつもりだった。訳あって番外編にさせてください。

 

 私は、四月二十一日、母の十三回忌の施主を勤めた。このエッセイの一回目、二回目にも登場した母の十三回忌だ。母は生きていれば丁度百歳になる。十三回忌といっても遠くの関係者にはお知らせと挨拶だけにして、招待は母からみて在札幌の二親等の方に限らせてもらった。母の妹が市内に三人いるが認知症、外出困難などで一人も出席が叶わなかった。みんな九十歳を超えているのだから仕方がない。

 

 その中の一人の叔母が、Eメールで出席しないお詫びと母を偲ぶことばを寄せてくれた。以下に後半の主要部分を紹介させほしい。

 

 

 

   もう遙か昔のように思われますが、戦後、桂兄さん(父のこと)が戦地から帰って来た日のことをまざまざと思い出すことがあります。上渚滑の奥の山の家です。戦後二年目のころの秋近い夕方でしょうか。ほの暗いランプの灯る土間に、大きなリュックを背負った桂兄さんが凝然と立っていました。驚きと喜びで家中が動転したようでした。しかし、健気にも花子義姉さま(母のこと)は、ひざまずいて「お帰りなさいませ」とまで言われ、あとは声にならず、幼い和也君をひしと胸に抱きしめ、うつむいて涙をこらえているようでした。

 

「そうなんだよ! お前(花子義姉さまのこと)や和也に会いたい一心で、俺は生きて帰ってきたんだよ!」 まぶしそうに桂兄さんのまなざしは、愛撫と安堵に満ち、そう語っているようでした。

 

  感動的な一刻は、少女時代の私に「人間としての絆」という摂理を教えてくれたように思われます。

 

  (間)

 

  安部晋三の第三次内閣ができた頃から、彼はautismではないかと思っています。おだてにのり易く天井知らずにどこまでも登っていく。彼が舵をきろうとしているのは、単なる国家間の争いに終らず、地球破壊に向かっているようで恐いです。

 

 

 

私は、このメールを叔母の十三回忌への文書

 

出席と考え、当日、プリントして出席者に配った。文中、叔母は「少女時代の私」と言っているが、このとき、十五歳である。

 

 

 

私はエッセイ「幼児期に見た世界」の一回目で、父が戦地から復員し家族と再会する場面を三歳の記憶として書いた。あまりにもタイミング良く、二ヶ月後、叔母から同じ場面が書かれてたメールが届くとは……。

 

それが今回のエッセイを番外編にした動機だ。そもそも、私の三歳の記憶には十五歳の少女、叔母の姿がない。再会場面も季節も二ヶ月ほどずれているなど、いろいろ違いがある。

それぞれ、十五歳に見えた世界、三歳に見えた世界ということだろうか

 

 

 

 

 

245号

 エッセイ 幼児期に見た世界 

 

                豊村一矢

 

 

 

 ㈡ 四歳、五歳のときに見た世界

 

 「しんぶん赤旗」に、坪内稔典(としのり)の『ねんてん先生の文学ある日々』というエッセイが定期的に掲載される。「ねんてん(稔典)」は俳号だ。

 

このエッセイ㊾の冒頭の部分に、

 

子どものころ、家に豚がいた。郵便局に勤めていた父が内職で豚を飼っていたのだ。もっとも、近所のどこの家にも豚がいたから、その当時、村では豚の飼育がはやっていたのだろう。太平洋戦争に負けて間もない一九五〇年ごろの話である。

 

 とあった。

 

 

 

「四歳、五歳のときに見た世界」に入る前に、ちょっとだけ横道へ。坪内稔典は、俳句の本質として「口誦性」と「片言性」を論じている。これが支部例会での秋月礼子『樹々のそよぎ』の合評内容と重なる。

 

 坪内のいう「口誦性」とは覚えやすく誦えやすいこと、「片言性」とは短くて不完全だが逆に読み手に多様な理解をもたらし言葉の豊かさを生かす、だと私は捉えている。『樹々のそよぎ』の表現法や文体の特徴と重なるではないか。

 

 

 

「四歳、五歳のときに見た世界」に戻る。

 

四歳(一九四七年)。私と母は父の復員にともなってK村の中心部に戻った。K村はオホーツク海から直線で二〇キロほど内陸に入ったところで、前号で書いた「三歳のときに見た世界」の父の実家からは六キロほど離れている。父はそこで新制中学校に教頭として復職した。

 

 

 

当時のK村を大人になってからの視点で書いてみる。

 

まず、国鉄が通っていた。名寄(なよろ)本線の渚滑(しょこつ)駅から分岐して北見滝ノ上駅で行き止まりの袋小路線だ。名寄本線は宗谷本線名寄駅からオホーツク海に出て南下し石北本線遠軽駅までで、当時、旭川や札幌に出るのに「名寄まわり」「遠軽まわり」などと言っていた。 

 

そもそも渚滑線は森林資源開発を主目的として敷設し一九二三年に開業された。K村駅は七つある駅の四番目で渚滑線の中心にあり、当然のように森林資源開発の拠点となった。

 

K村には森林資源を活用する会社が三つあった。一つは単純に山林から原木を切り出し全国各地に売り出す会社。駅舎の反対側の線路脇には丸太にした原木が積み上げられていた。太く長い丸太を労働者がガンタを使い「カーちゃんのためならエンヤコーラ」などと歌い、「エンヤコーラ」の所で力を合わせて転がし、貨車に積み込むのである。

 

二つ目は鉛筆工場の支社で鉛筆の木部を造っていた。山林から切り出した原木を薄い長方形の板に製材し天日で乾燥させ、本州各地の工場にK村駅から搬出した。

 

三つ目はやはり山林から切り出した原木を歯のついた下駄状に製材して、やはり乾燥させ、それを全国の、商品の下駄に仕上げる工場に搬出する。

 

線路の東側は、積み上げられた原木や、製材した材木を乾燥させるため高さ二メートルくらいで、隙間だらけにして風通しを良くし、サイロの形に組み立てた物が何十基何百基と並んでいた。また、会社の建物や集まった労働者の飯場などが集中していて私たち子どもが気軽に近づけるところではなかった。風向きによっては「エンヤコーラ」や丸太が転がる音、馬の嘶きが聞こえたこともあった。

 

逆に線路の西側は、駅舎、村役場、郵便局、いろいろな商店、病院、鍛冶屋、蹄鉄屋が二軒、芝居小屋、駐在所、などが密集して二〇〇メートルくらの駅前通を造っていた。その通りから三〇メートルも横に離れると建物と建物の間隔が急に広くなり、さらに五〇メートルも離れると、農地に民家が散在するような光景になる。そんなところに小学校や中学校、寺、神社があり、わが家もその一角にあった。

 

そのあたりの民家は皆、給料取りでも豚を飼っていたように思う。わが家も飼っていた。豚だけない。たいてい鶏も飼っていた。七、八羽くらいを半ば放し飼い状態で飼っていたようだ。豚の飼育が坪内稔典少年の場合のように内職であったかどうかは定かでない。

 

後になって納得したことだが、農地の一角に民家が散在する集落は当時としては合理的な生活環境だった。残飯は豚の餌になり、台所から樋が壁を突き抜けて畑地に達しており直接排水される。そのころ台所を「流し」といった。餌に適さない残飯は畑に埋めた。土に戻りにくいものは燃やして灰を畑にまいた。 

 

 

 

私はK村には四歳から一〇歳(小学四年)まで暮らしたが、学齢期前の四、五歳の記憶がとても曖昧だ。同じ年頃の子どもと遊んだ記憶がない。他の生活をしていないから寂しいと思った記憶もない。私の外遊びは、母が呼べば声が届く範囲であったらしい。これは多分、山奥の父の実家での習慣が続いただけのことなのだろう。いつも母が側におり、他に触れ合う人は祖父母だけだったから。

 

それでも母にくっついて駅前通りに出るのが楽しかった。焼けた蹄鉄を馬の足裏に押しつける光景、蹄が焦げる音と臭いに興奮した覚えがある。

 

 

 

一方、四歳、五歳なりの不安や恐怖の経験もある。

 

今でも何か事ある毎に思い出すことが二つある。一つは家で飼っていた豚の運命に係わってのこと、もう一つは私娼地に身を沈め、病いに冒されて死を待つだけの女性に係わることだ。

 

 豚の運命については四歳の時だった思う。家で飼っている豚と鶏は私にとっては友だちみたいなものだったが、けたたましい鶏の鳴き声につられて隣家に足が向いた。そしてそこで、鶏が殺されるのを偶然見てしまった。

 

飼い主の男が暴れる雄鳥(おんどり)を切り株に押さえつけ、ナタを振り下ろした。雄鶏の首が飛ぶ。首を失った雄鳥はそれでも羽をバタつかせて二メールくらい走った。そしてパタと動かなくなった。

 

男は死んだ雄鶏の尾羽をつかんで逆さに持った。そのとき男は私に気付いて何か言った。やさしい声だったと思う。でも、何を言っているかわからない。やさしい声が却って気味を悪くさせていたのかもしれない。私は一目散に逃げ帰った。いつもなら、びっくりしたこと、感動したこと、怖かったことなどは、何をさておいても母にまくし立てたり、しがみついたりするのに、ただ茫然としていた気がする。その後もこのことを母や父に話すことはなかった。しかし、この雄鶏殺し事件から二、三ヶ月たって、母や父は、私があのとき鶏殺し事件に遭遇したことを知っているのではないかと思うようになった。

 

 あれ以来、私は、鶏が騒いでも、豚がキーキー声高に鳴いても、それが近所から聞こえきたものでも、オロオロして落ち着かなくなった。そんなとき、母が「ご飯ちょうだいって言ってのかな」とか話しかけてくれるようになった。ある日、突然、離れた民家の方から豚の悲痛な鳴き声が聞こえてきた。遠くからで大きくはないが、切羽詰まった絶望的な鳴き声だった。私は身を固くして震えていたのかもしれない。母は私を抱きしめて「お腹痛いのかな。可哀想だね」と言った。

 

あのとき、豚殺しの犯人は、現場を私に見せてしまったことを父や母に話したのだと思う。

 

 夏が近づいたころ、山奥の祖父が「サクランボやスイカが食べ頃だから取りに来い」と馬車で迎えに来た。私と母は馬車に揺られ父の実家、祖父の家にむかった。祖父の家で一泊し、翌日、サクランボやスイカを持って、また馬車に揺られて家に戻った。

 

 帰ってみると我が家の豚が消えていた。

 

                

 

私娼地に身を沈めた女性の話は、生まれたばかりの妹がいたから五歳の時だ。

 

私は女性の名前も知らないし、話したことも会ったことも、多分、見たこともない。我が家で騒ぎになり、その騒ぎの中で父と母が話すことを耳し、そして小学校に入学して世間への視野が格段に広くなり、抱いた不安や憐情の中身がわかってきた。

 

朝、目覚めると父と母が大騒ぎしていた。昨晩、女性が侵入し風呂に入っていたというのである。我が家の建物は母屋の他に豚と鶏の飼育を兼ねた物置小屋と風呂場があり、ほんの少し外に出て母屋と行き来する。風呂は薪を焚いて湧かすので母屋に置くのは不都合だ。「流し」の手押しポンプから樋を通して風呂に水を入れていた。外から断りなく侵入して入浴することは可能なのである。父と母はいつになく興奮し、女性が入浴したのは家の者が入った後でよかった、入ったのは今回が初めてらしい、女性が重い梅毒で主人から隔離部屋に住まわしてもらい死を待つだけ、といった話していた。その日の昼、病院から人が来て風呂を消毒していった。

 

以来、家の者が風呂に入ったらすぐにお湯を抜くようになった。私は父と母の会話に耳をそばだてるようになった。オカバショ、バイドク、デメントリ、メカケ、ダイヒツ、といった音が耳に残っている。ダイヒツでは、母が、山奥の祖父の所に識字力のない農婦が来て、戦地にいる夫への手紙の代筆を頼んだ話をしていた。母はそんな農民の娘が岡場所に売られていった見聞と合わせて話したのだと思う。私は何度か無断入浴した女性の暮らす家はどれだろうと辺りを見渡したが分るはずがない。その家には風呂がないんだ、どんなに風呂に入りたかっただろうと、五歳なりに同情したものである。

 

 

 

最後に、「四歳、五歳のときに見た世界」を訂正または補強しなければならい。

 

➀K駅東側の木材関係の仕事場の場面を強調したが、もっとも重要で過酷だったのは、そこへ原木を切り出し運搬する山中の労働現場だった。

 

重機などない。冬、鋸を挽いて伐採した大木を雪の急斜面を利用して滑り落とす。今度は雪原を直に馬に曳かせて駅東側まで運ぶ。そんな現場予想される。

 

➁出面取り(デメントリ)は日雇労働者のことだが、地元の人間はごく一部で大半は外から集められた者たちだったろう。外地から連れて来られた者はいなかったのか?

 

③国鉄渚滑線の敷設は一九一四年第一次世界大戦参戦の頃に始まり、一九一五年中国へ二十一ヶ条の要求、一九一八年シベリア出兵、一九一九年三一運動、一九二三年関東大震災、第一次共産党事件、そして渚滑線全線開通となる。渚滑線と森林資源開発は国策そのものだったのである。

 

 

 

 

 

244号

 エッセイ

 幼少期に見た世界

 

                豊村一矢

 

  1. 三歳のときに見た世界

 「北海道民主文学」22号に昭和二十年前後を背景にした作品がいくつかあり、その場面一つひとつを身近に感じた読んだ。たぶんそれは筆者と年齢が近いことに加え、私がその時期、オホーツク海側の僻地で育ったという事情もあるように思う。

 

幼少期の記憶は三歳から始まる。それは一枚の絵のような心許ないものだが何かにつけて思い出す。後々の母親の回顧談で肉付けされ、私も四十歳代にその僻地を訪ね、一枚の絵はちょっとしたエピソードに成長した。

 

 

 

昭和二十年のポツダム宣言受諾(敗戦)の日、私は三歳。教員をしていた父は一歳のとき赤紙一枚で出征、満州の関東軍に配属、その後台湾軍に転属し高雄で敗戦を迎えた。父の出征中、母は私を連れて三里ほど離れた父の実家に移った。そこは山深い辺地にあり、篤農家的な志向の強い祖父が尋常小学校の校長兼訓導を退職して林業(木炭造り)と少々の畑作を営んでいた。住処は小さな谷川の蛇行で出来た狭い空地に自力でたてた。家というより小屋であった。東と西から山が迫り、開けた山間部分の幅は五〇メートルもあっただろうか。山仕事の現場に近いところを住処にしたのだ。近くに炭焼き小屋が二つ。かなり離れた陽あたりのいい緩やかな笹藪の斜面を開鑿して畑にした。食料確保のためで労働は母と祖母が担っていた。

 

三歳の記憶の絵は三枚ある。

 

・夕暮れの空に舞い上がる真っ赤な炎。

 

・遙か上空を飛ぶ飛行機。

 

・薄暗い土間に置かれた軍靴一足。

 

 

 

「真っ赤な炎」は、私が風呂の焚き火を弄んで近くの麦藁に火が点き、舞い上がった炎の瞬間の光景であった。昭和二十年の五月のこと。

 

祖父は住処ができると川っぷちに風呂を作った。野晒しの風呂で「ウドッポぶろ」と名づけた。祖父(俳号は夏山)の一句が残っている。

 

  虫鳴くや ウドッポぶろは 煙たくて

 

ウドッポとは老大木の中心部が枯死して抜け落ち大きな空洞になっている幹の部分、という意味の御当地語らしい。それを利用した風呂というが記憶はないし想像図も浮かばない。

 

「真っ赤な炎」のときは、いわゆる「五右衛門風呂」で、石や土でかまどを組んで上に大きな鉄鍋を固定し、川から水を汲み入れ、下から薪を焚いて沸かした。鍋の形状・サイズは、昔よく流し台の横に置かれいた水瓶(みずがめ)に近い。口の直径六十センチ深さ九十センチくらい、大人が一人入って膝を抱えればやっと肩まで浸かれるか、というところである。

 

川っぷちの野晒しの風呂だ。雨。露、雪、それに風、大小各種の不快な虫、下からは猛烈な煙と火の粉が吹き上げてくる。とてもくつろげる入浴とは思えない。それでも風呂は「極楽、極楽」だったのだろう。

 

 冬の野晒し風呂はさすがに厳しく、稲藁干しの方法で麦藁を垂らして囲いを作ったが、それが「真っ赤な炎」の遠因となった。

 

夕刻、大人たちが仕事終いで目を離している隙に、私は風呂場に行った。燃えている薪で遊ぶ。すぐ麦藁に引火する。あっという間に燃え上がり火柱が立った。それが一枚の記憶になったのだ。

 

 

 

「遙か上空の飛行機」は私が初めて見た飛行機のことだ。昭和二十年七月のこと。   

 

母は私を連れて畑仕事をしていた。蝉の声がうるさいなか耳慣れない音に気づいて空を見上げると、前方上空を飛行機が一機、飛んでいる。母が後ろから私を抱いて「ほら、あそこ。飛行機だよ」と空を指さす。

 

私は鳥でない空飛ぶ物体を初めて見た。そして「お父さん、のってるかなあ……」と呟く。母は「のってるかもしれないね」と言ってなぜか私を強く抱きしめた。

 

 中学生になったときだったか、母が戦地から届いた父のハガキを見せてくれたことがある。ハガキの後半に私宛ての言葉が添えてあった。

 

  カズヤへ

 

  ヒコウキガスキナンダツテネ オオキク

 

ナツタラコウクウヘイニナリナサイ

 

 

 

「薄暗い土間に置かれた軍靴一足」は復員して実家にたどり着いた父が、土間に揃えて置いた軍靴だった。昭和二十一年六月の午後七時ころ。昭和二十年八月十五日から十ヶ月が経っている。

 

 昭和二十年十一月には、確か福岡からだった思うが、父から実家に電報が届いていた。 

 

  ワレイキテアリ

 

 台湾(高雄)から陸路、海路を使って本州の港までたどり着くのに三ヶ月、そこから家族のもとまでは、さらに七ヶ月かかっている。

 

 父が実家に帰着したときはすでに夕暮れであった。祖父、祖母、母、私は母に肩を支えてもらって、全員、正座して父を迎えた。父は入口から土間に入るとビシッと直立して「ただいま帰りました」と言った。祖父は「よし!」と発したきり言葉が出ない。祖母は頷きながら涙を流すのみ。母は気丈に「お疲れ様でした」と言い、私の手を取って立ち、父の前に出て、「こんなに大きくなりました」と言った。父は「おー」と腰を落とし私の頬を両手で挟んで顔を近づけた。私は目を大きく開いたまま瞬きもせず、ただ父を見詰めた。

 

 

 

 今になって思うことがある。三歳の記憶はなぜ記憶になったか。

 

非日常的で希有な体験に加えて、母の心の揺れや高揚が敏感に伝わり、「いつもと違う母」を感じ記憶に刻んだからだと思えてならない。

 

つづく

 

 

 

「㈡四歳、五歳のときに見た世界」は次号に書くことにします。

 

 

 

 

 243号

  エッセイ  北の勝

 

                豊村一矢

 

 

 

 午後六時から女子テニス全豪オープンシングルスの決勝が始まるという日の昼、私は行きつけのスーパーで清酒大海北の勝KITANOKATUを買った。ひとが聞いたら、全豪オープンシングルスに肖(あや)ってと思うかも知れない。思われても仕方ない理由がある。

 

 まず「北の勝」は根室市で酒造されている。根室市といえば大坂なおみの母親の出身地である。そして大坂の祖父は根室漁協組合長である。

 

 さらに酒の名称から、大海→大会だとか「勝」とかで縁起担ぎと疑われるかもしれない。

 

だが、「北の勝」の「勝」をカツと読ませるのは酒造販売元が碓永三郎商店だからに過ぎない。私は女子テニス全豪オープンに肖って「北の勝」を買ったのでは断じてない。

 

 一週間ほど前、かつての同僚四人が居酒屋に集合した。四人中二人の合意で「北の勝」をオーダーしたのだが店には置いていなかった。私は知らない酒だった。二人があまりにも残念がり「北の勝」を褒めるから、いつか買って飲んでやろうと思っていたのである。

 

二人が褒めるとき大坂なおみの話をしたのかどうか……記憶は定かでない。

 

大坂なおみは、その夜、優勝した。妻と私は「北の勝」で祝杯を挙げ盛り上がり、妻は高校・大学とテニスをやっていたせいか、全豪オープンのことも大坂なおみのことも、思いのほか詳しく、多弁だった。

 

 大坂の母親は根室出身の日本人で父親はハイチ系アメリカ人だとか、だからアメリカと日本の二重国籍だとか、アメリカでも主に家計を支えたのは母親だとか、大坂姉妹にテニスを勧めたのは父親だとか、アメリカのピンからキリまであるプロ育成システムでは個人の才能だけでなく経済力も決定的だとか、なおみに対するアメリカの評価がいまひとつだったこともあって父親が日本国籍でプロデビューさせる決断をした、とかである。

 

 確かに「北の勝」はなかなかの酒だった。私は妻の蘊蓄に感心しながら、スーパーで「北の勝」を提案したとき、妻が珍しく修正案を出さなかったのは、すでにこの酒と大坂なおみの因縁を考えていたからかもしれないと思った。

 

 

 

 

 

 242号

  連続エッセイ 床屋談議 二〇(終)

 

                豊村一矢

 

 

 

床屋談議に取材した連続エッセイは今回の二〇回目を区切りに終わりにします。

 

 

 

胆振東部地震の直後の床屋談議は、最近では珍しく、店主と私の他に、常連の床屋談義子二名プラス調髪後居残りの談義子一名と盛況であった。

 

確かにあのころは、床屋談議に限らず人が集まれば、居酒屋も、電車の中も、三~五人で移動中の自動車の中も、知り合いと偶然出会った路上も、地震体験を語り合う場となった。人身・住居の被害は? ブラックアウトの影響は? 電気はいつ復旧したか? 水道はいつ復旧したか? 等々の体験交流。

 

我が家については、建物破損はなく、物が倒れたり落下したりもなく、水道、都市ガスは一度も止まることなく、電気は九月六日地震の日の午後四時頃に復旧した。炊事用のコンロは一部父母が使っていた都市ガス用のコンロを残してあったので電気が止まっても使えた。だから地震の談議でも申し訳なくて話し方に気を遣う状況だった。

 

ご近所さん同士の地震後最初の床屋談議のころは、すでに全面復旧していたので緊張感はなく、その点では気が楽だった。

 

自分の家の状況報告は各自すぐに終る。わが町の地震の話題に移る。道路一本隔てて電気が復旧するのが三日も違うとか、水を得るための苦労話とか、コンビニやガソリンスタンドに長い行列ができたとか、スーパの食品売り場が「がらんどう」になっている異様な光景とか、そんな話も長続きしない。だんだん、話は際物っぽくなってくる。ご近所でも、避難したらしい家を狙った空き巣事件があったとか、避難所で走り回る子供を注意しない避難者同士のトラブルなどだ。

 

また、ある避難所になった小学校で避難者が立ち入り禁止のエリアに侵入し保健室のベッドで悠々と一晩睡眠をとったとか、笑えるような笑えないような話もあった。

 

つまり、今回の胆振東部地震についての床屋談議も含めた世間話は、私の周辺のような、四~五日で元の生活に戻ったところでは、すぐに他人事になってしまった感があって、釈然としないものが残ったわけだ。

 

 

 

私は妻と地震後大型ホームセンターを二つ回った。

 

テレビや新聞は建具の配置や固定方法、非常食の備蓄、蓄電池・携帯トイレ、飲料水の準備などについて伝え、ホームセンターではこれらの物の商品を体系的に並べ、一時的かも知れないが売り場を一〇倍くらいに拡げたところもあった。

 

私が回った一軒に、教え子が働いているのは知っていた。その教え子に会うつもりなく頭の片隅で少し意識した程度だったが、エントランスの通ってすぐの所でばったり。

 

簡単な挨拶をして非常時グッズの売り場を訪ねた。

 

教え子「案内します」

 

私「いいよ、いいよ。大体の方向を聞けば行けるよ。それ、運ぶ途中でしょう?」

 

 教え子は大きな荷物を台車に乗せて移動中で

 

あった。

 

私「この時期だから、非常時グッズ、売れてるんでしょう?」

 

教え子「いやー。それほどでもなんですよ。 売り場、おっきくしたんですけどねえ。まあ、じっくり売れるもんなんでしょうけどね」

 

 教え子は冴えない顔で言った。これは恩師―

 

教え子の関係からだから見せた顔だろう。私は

 

それ以上は聞かなかった。

 

 私たちは、ヘッドライトを二個購入して店を出た。

 

 

 

 実は、地震後の床屋談議で、気になり尾を引く話が一つ出た。これが今回の最終エッセイで一番書きたかったことだ。

 

 

 

地震の直後、コンビニが店を閉じたのは珍しくないことだが、わが町内の複数のコンビニが開店するまでの間、店のガラス、ドアを裏も表も段ボール紙で完全に覆ったというのだ。

 

 

 

 これは、私は直接目撃していない。あとで他の人コンビ名を挙げて同じ事を聞いたからデマではない。一方、こんなことが全道的に起きた事実は、報道などで大きく報じられることもないから、日数も含め限定的だったのだろう。

 

 しかし、目的はなんだったのだろう。

 

閉店のお知らせなら張り紙が普通だ。

 

窃盗を防ぐため、もっとはっきり言えば、略奪を防ぐためと思わざるを得ない。ということは、店側は、今回の災害の性質と最近の日本人の群衆心理の傾向から略奪が発生する可能性があるとみて策を講じたのか。そうだとしても私はその判断と行動を肯定することも非難することもできない。ただただ、暗澹たる気持ちにななった。

 

 

 

 今日は二〇一八年十二月三十一日。このエッセイを書いている。今日の北海道新聞の朝刊に『日本が売られる』堤未果(幻冬舎新書)の広告がデカデカと載っていた。私は堤未果の新書版はできるだけ読むことにしている。もちろん、『日本が売られる』も読んだ。その「まえがき」に元米兵ジェラルドの次の言葉がある。

 

 

 

    日本には前から行きたかったんだ。水と安全がタダで、どこへ行っても美味しい食べ物があるなんて最高だ。災害の時でも略奪しないで行儀よく列に並ぶ日本人の姿をネットで見た時は衝撃的だった。

 

 

 

 元米兵のジェラルドさんへ

 

 二〇一八年十二月二日。国会で審議らしい審

 

議もせず、安倍政権は水道法改正案(水道民営

 

化法案)の強行採決に出ました。

 

 日本は水と安全がタダの国ではありません。

 

「略奪がない国」も確かでなくなってきていま

 

す。

 

 水と安全がタダで略奪がない国でありたいと

 

思います。

 

応援してください。力をかしてください。

 

 

 

 

 

 241

 

(新)連続エッセイ 

   金子文子の描かれ方5(最終)

 

                豊村一矢

 

 

 

 

「金子文子の描かれ方」をテーマにしたこのエッセイの締めくくりとして、文子二十歳から二十三歳の縊死までの最後の三年間に焦点を充てることにする。

 

 

 

文子二十歳。一九二三年(大正十二)九月一日正午近く、関東大震災。二日後の九月三日、文子ら、不逞社員数名と「保護検束」される。約一ヶ月半後の十月二十日、東京地裁検事局より治安警察法違反で起訴され、二十五日予審尋問開始。予審判事・立松懐清。新山初代病死。

 

 文子二十一歳、一九二四年(大正十三)二月十五日、文子、朴烈、金重漢、爆発物取締罰則違反容疑で追起訴される。他の不逞社員は不起訴。

 

 文子二十二歳、一九二五年(大正十四)五月、朴烈と大逆罪で起訴される。金重漢、爆発物取締罰則違反で執行猶予付禁固三年の刑。

 

 文子二十三歳。一九二六年二月、大審院での裁判始まる。三月二十五日死刑判決。同年四月五日恩赦により無期刑に減刑。文子、同年七月二十三日宇都宮刑務所栃木支所で自死・縊死。

 

 このエッセイのテーマからいって、まず、「保護検束」が如何なる事情でなされたか、を考察し、つぎに、「治安警察法」違反、「爆発物取締罰則」違反、刑法七三条大逆罪で起訴され、死刑判決、恩赦による無期減刑に至る裁判の本質を検討する必要がある。それを権力側の意図と文子側の意志・態度を関連づけることにより、金子文子の最後の三年間を描くことができる。

 

 文子らが起訴された「治安警察法」「爆発物取締罰則」「大逆罪」が如何なる法律、政令であったのかを考え、前号でも触れたが、黒濤会や不逞社がどのような活動をしていたか、「書生集団の域を出ない」としても、もう少し立ち入ってみる必要があると思う。

 

 

 

まず、法律等の公布・施行の年月日。

 

一八八二年(明治十五)旧「刑法」施行

 

一一六条 大逆罪

 

一八八五年(明治十八)爆発物取締罰則令

 

一八八九年(明治二二)大日本帝国憲法制定

 

一九〇〇年(明治三三)治安警察法施行

 

文子らに適用された法令の順番は施行年月日を逆進して重大事案になっていった。

 

明治十五年施行の旧「刑法」は難航する条約改正交渉を打開したいという動機を持つ法律で、明治憲法制定の七年前に施行した。江戸幕府は「領事裁判権」「関税自主権なし」「片務的最恵国待遇」など独立国にあるまじき不平等な条約を結んだが、明治政府は引き継いだ。近代国家を目指す明治政府にとって、条約改正は喫緊の課題だった。対等な交渉を進めるため、明文化された法典をもたなければならない。フランスの法律などを参考にしながら、最初に作り上げたのが罪刑法定主義「刑法」だった。

 

殺人、傷害、詐欺などの「罪」と「罰」を規定するのが刑法だが、大逆罪の条項を入れることも忘れていない。明治二二年の明治憲法制定後に現「刑法(明治四一年)」が施行され、それまでの刑法を現刑法と区別して旧刑法と呼称することになった。大逆罪は旧刑法で一一六条、現刑法では七三条である。旧刑法下で大逆事件はおきなかった。

 

明治一八年の爆発物取締罰則は自由民権運動過激派の武力闘争を警戒した政令である。 

 

明治二二年、大日本帝国憲法制定。

 

 明治三三年の治安警察法は、自由民権運動を弾圧するために作られた「集会及政社法(明治二三年)」に、労働運動を押さえる条項を加えたものである。実際のところ、自由民権運動は明治憲法制定後は、帝国議会での議会闘争に運動の中心が移り、もはや「集会及政社法」も不用の状況になっていた。もともと、自由民権運動は、明治九年、政府内で征韓論が敗れ、下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが始めた様々な運動の総称である。民撰議院設立を訴えるなど民主主義の萌芽と思える主張もあるが、基本的には戊辰戦争に勝利した士族たちの、明治体制内での内輪もめの域を出ないとみるべきだ。それでも治安警察法で労働運動を抑圧する狙いが加わったことは、良くも悪くも、日本の資本主義が進んだ反映であり、政治運動や社会運動が次の段階に進む前兆のようにも思える。

 

 文子や朴烈を裁いた法律は、「明治維新」以後、明治政府が目指す国づくりの施策そのものであった。国づくりの方向は、世界列強とならぶ国力、国策を伴った急速な資本主義化、絶対主義的な天皇制、半封建的な地主制度の温存などであった。結果、日清戦争・台湾植民地化・日露戦争・朝鮮併合など、連続する大小の戦争・侵略を経て、アジア唯一の帝国主義国家となった。

 

 

 

文子の最後の三年間の描くために、黒濤会や不逞社の活動がどんなものだったか、少し具体的に調べてみた。

 

その資料として、『何が私をこうさせたか』(文子)『余白の春』(瀬戸内)『熱愛』(キム・ビョラ)のほか、若干、当時の在日朝鮮人の運動を記した文書などにも充ってみた。

 

 彼等の主な運動形態は、「雑誌・機関紙などの発行」と「集会」である。集会場所は朴烈と文子の住居を使うことが多く、そこは不逞社の表札も掛かっていた。

 

自己顕示欲が強く、行動力もある二〇代前半の若者たちで、官憲の監視など気にせず、むしろ、目立つように過激な行動をとっているフシがある。労働者や農民などの中に入って連帯するよ活動は見当たらない。信濃川ダム工事朝鮮人虐殺事件も『読売新聞』で知った事件であり、朴烈は現地調査に入り、後に大々的な調査報告会を組織し自らも演説しているが、運動形態は同じである。

 

 

 

私は、黒濤会や不逞社の運動で新山初代の存在が大きいと思う。新山は一九〇二年生れ、文子より半年ほど年上になる。東京府立第一高等女学校を優等で卒業した才媛であった。卒業後、正則英語学校に通学し文子と知り合う。文子はまだ朴烈と出会っていない。新山は文子にアルツィバーゼフ、ベルグソン、スペンサー、ヘーゲル、ステイルナー、ニーチェといった人物の本を貸し、文子は貪るように読んで影響を受ける。ただ、このころ新山は虚無主義に惹かれつつも実践家ではなかった。実践家としては文子の方が先行しており、新山が不逞社に加入するのは三年後、関東大震災の年(一九二三年)の五月である。それでも新山の存在が大きいと思うのは、この五月から九月三日の保護検束までの三ヶ月で起こったことが、大逆事件での控訴事実となるからである。その事実とは、「爆弾入手行動」と、その過程で生じた「内紛」に集約できる。いずれも新山が絡んでいる。

 

 

 

爆弾入手活動と内部対立の場面は『余白の春』(瀬戸内)が詳しい。裁判での証言記録が骨格になっているので、事実関係には信憑性がある。この時期、朴烈は爆弾入手願望が異常に強い。朝鮮にいる独立党の金翰にも会い、頻繁に連絡を取り合う。使える同志として不逞社に加入したばかりの金重漢に目をつけて重要な役目をあたえる。ロシア経由、上海経由など様々な方法を検討している。しかし、結局、爆弾入手を断念することになるが、この断念をめぐって朴烈・文子と新山・金重漢(両者は後に「首魁金重漢と共犯の妻・新山初代」と報道される仲になっていた)が喧嘩状態になる。

 

一方『熱愛』(キム・ビョラ)に気になる記述がある。大韓民国臨時政府が出てくる。3・1運動のあと、上海に作られた臨時政府で、上海、朝鮮、満州などで、日本人や日本に迎合する朝鮮人を対象にテロを行っている。四番目の大逆事件、桜田門事件はこの臨時政府の金九が放った李奉昌(イ・ボンチャン)によって引き起こされたものだ。そうなると、朴烈の爆弾調達工作が金九のテロ計画に連動する可能性にも想像が広がってしまう。キム・ビョラに『白凡』という金九のことを書いた小説がある。内容は読んでいないから解らないが、気になる。

 

 

 

不逞社に加入した新山は、集会開催や集会参加の活動で、大杉栄との交流に熱心だった。新山の豊富な知識と教養がそうさせたのかも知れない。同じアナキストでも大杉栄の活動は国際レベルであり、時代の風雲児であった。新山は直接大杉に会って、自宅で開催する集会への参加を取り付けたり、大杉のフランス帰り集会への参加を不逞社の同志に呼びかけたり、積極的だった。ところが、文子と朴烈はいずれにも参加していない。私はこの二人の不参加は、朴烈の態度によるものだと推察する。誤解を恐れずいえば、朴烈は、いつでも自分が大将でいたい人間だと思う。爆弾入手問題で金重漢と朴烈が対立したとき、新山は朴烈に「あなたは有名になりたいだけなのよ」と口走っている。金重漢への恋愛感情からの発言と受け取られがちだが、私は新山が朴烈の中にある上昇志向の傾向を感じとっていたとみる。大杉栄の前に出れば、朴烈も大将ではいられない。そこは朴烈にとって居心地のいい場所にならない。これは、大杉栄の活動している世界から俯瞰すると見えてくると思うが、それを書く余裕がない。

 

 

 

 さて、文子の最後の三年間である。

 

 一九二三年(大正十二)九月一日の大地震があろうがなかろうが、司法当局では不逞社のメンバーを、近々逮捕することが決まっていたに違いない。取りあえず、治安警察法と爆発物取締罰則で首謀者たちを起訴するだけの資料は揃っていた。あれだけ大っぴらに爆弾入手で喧嘩したのだから。突然の関東大震災で、急遽身柄を確保したのが「保護検束」だと思う。

 

 九月三日に全員を一挙に保護拘束したわけではない。予期せぬ突然の地震、一斉検挙は不可能だし、その必要もない。新山初代などは九月二十四日に拘束している。こうして司法当局は準備を整え、十月二十日、全員を治安警察法で起訴した。十一月二十七日、肺結核悪化により新山初代は病死する。

 

先に書いたが治安警察法は集会や団体の結成を認可制にしたり、届け出制にしたり、禁止または制限を加える法令である。何かあれば直ぐに適用しやすく、官憲からみれば使い勝手のいい法律なのだ。ここから立松懐清の出番となる。

 

次の爆発物取締罰則違反での追起訴で、被告は文子、朴烈、金重漢三人に絞られ、他の不逞社員は不起訴で無罪放免。新山が病死しなれば被告は四人だったろう。立松懐清はこの裁判に一年二ヶ月をかけて大逆罪立件の道筋を完成させた。物証のない事件で、「爆弾入手工作」と「使用対象が天皇・皇太子」との証言を獲れるかが次の大逆罪裁判の勝負となっていた。

 

 

 

 大逆罪(刑法)は天皇制を徹底するためのものだが、運用では天皇と臣民を親子関係(仁慈と敬愛)のように見做す思想の浸透を図る目的もあった。恩赦がその一つ。デタラメ極まる幸徳秋水事件でも恩赦は使われているし、銃で撃つ実行行為があった虎ノ門事件でも恩赦が取り沙汰され、朴烈事件は完全恩赦だった。

 

 

 

『余白の春』の中で、栗田一男が瀬戸内に「あの大逆事件というのは、立松判事と朴烈の合作というものだね」と話している。言い得て妙だが、「脚本・立松判事、監督・朴烈、主演・文子」の方が的確だと思う。

 

 この裁判は立松の完勝だった。司法当局の意向を受け、出世意欲満々の立松判事が挑んだ裁判である。そもそも初めから朴烈と文子には裁判に勝つことに関心が無いように見える。予審尋問では弁護士の立会いがなく、判事と一対一であり、かつ調書は証拠能力を持つ。立松は、朴烈や文子の自己顕示欲を利用して誘導し、有力な証言を引き出していく。

 

 朴烈と文子は、最初から、裁判や裁判官を舐め切った横柄な態度をとっている。思想や運動のこと話す段になると、意気揚々と述べ立てる。ふだんの不逞社の集会でならいいが、裁判の場では幼稚すぎる。立松判事の手練手管にかかり、重要証言を提供する羽目になる。立松は、朴烈・文子の証言をもとに多くの証人を召喚し証拠固めを徹底する。その中に金翰、金重漢などの重要人物もいた。 

 

爆発物取扱罰則の裁判の途中、文子らは自分たちの証言が大逆罪で起訴されることに繋がると気づきはじめ、動揺する。

 

大逆罪に進むと、文子の感情の起伏がさらに激しくなる。表面は毅然として鷹揚にかまえても、動揺は証言に現れる。文子と朴烈は裁判中会うことができない。相手の証言は判事から伝えられるだけだ。そのことも文子を追い詰めた。皇太子を対象に爆弾を使う計画であったことを具体的に証言してしまう。

 

文子は「朴烈と共に死ぬことを望む」「自分で選び取った死は生である」の境地に達し、裁判でも公言する。

 

 一九二六年四月二十五日(大正十五)恩赦で無期懲役。一九二六年七月二十三日、宇都宮刑務所栃木支所で自死(縊死)。

 

 私は、確実に死に至る用意周到な自死から、文子のためらいのない強固な意志を感じる。

 

 

 

 さて、「金子文子の描かれ方」である。朝鮮独立運動の活動家としての金子文子の評価……これは本エッセイの主題ではない。突き詰めると、「朴烈と共に死ぬことを望む」「自分で選び取った死は生である」が最大の関心事となる。

 

文子の中で、「朴烈と共に死ぬことを望む」「自分で選び取った死は生である」は、刑の執行によって完結するはずだった。しかし、恩赦で無期刑になり夢は破れた。恩赦で生きながらえることは、肉体は生でも魂は死だった。文子が自死に向かったのは必然である。

 

恩赦後、朴烈は死を選ばなかったが、もはやそれは文子にとって別の世界のことだった。

 

『余白の春』に、「幸徳秋水事件で菅野須賀子が夫秋水の愛を信じられぬまま刑死したのに比べ、文子が朴烈の愛を信じて死ねたのは、せめてもの慰めだ」という趣旨のことを書いているが、見当違いのことを言っている気がする。

 

それよりも朴烈の強い権力志向である。それは不逞社の時期、すでに表面化しているようにみえるのだが、権力志向は無政府主義や虚無主義と正反対である。文子は朴烈のこの傾向に気付いていただろうか。

 

朴烈は恩赦による無期懲役刑に服してより敗戦の一九四五年十月に解放されるまでの二十年間、収監されていた。途中で転向し日本への忠誠宣言をしている。解放された時にはすっかり反共になっていた。大逆事件での知名度を利用して在日大韓国民団の結成に参加し代表に選出されるが、次の選挙で敗れる。敗れた理由は、「日本に忠誠」に転向し今度は反共産主義に転じるという経歴に不信を持たれたからだ。朴烈は失意のうちに朝鮮に帰国し、今度は李承晩政権の要職に就く。そこでもナンバー1、ナンバー2の権力争いに熱中する。朝鮮戦争で北朝鮮軍の捕虜となり北朝鮮に連行されると、再々度転向、共産主義者に転身し金日成政府の要職につく。その後の消息ははっきりしない。

 

『余白の春』の印象的な場面。瀬戸内晴美が陸洪均を伴い、朴烈の甥の案内で朝鮮聞慶八霊里の山中、文子の墓を訪れた場面である。名残惜しく去りがたい気持ちでいるときの瀬戸内の内心の言葉。

 

 

 

朴烈が終戦後帰国した時、この墓を訪れ、今の陸氏のように激しく泣いて墓に抱きついただろうか。

 

 

 

よく読むと、瀬戸内は、朴烈がこの墓を訪れたことがあると言い気っていない。朴烈は政府高官で来るのに何の支障もない。瀬戸内も朴烈の甥に聞けば解ることだったが、聞けなかったのではあるまいか。

 

 

 

『余白の春』最後の部分。

 

瀬戸内は、かつて文子の遺体が仮埋葬された(宇都宮刑務所栃木支所の)墓地跡地を訪れた。火葬のために遺体を掘り出し火葬場に運ぶ荷車を引いた小林常二郎を伴っている。

 

その時の風景と心情描写。

 

 

 

   静かだった。物音ひとつしない静寂がふとこの世のものとも思えなくなった。颯と風が鳴ったように思い私は天を仰いだ。貧相な檜葉の枝をゆるがせて、鳥が一羽声もなく枝移りした。

 

   ふいに私の耳に降るような遠い鶯の声がよみがえってきた。細い鶯の声を縫い、時々山鳩と、郭公の声が聞こえる。それが止むと、しんと、耳の底が鳴るような静寂があたりを包む。私はたちまち自分が南鮮の山奥の秘境の、あの樹々に囲まれた文子の墓地に運び去られるのを感じた。

 

   名も知らぬ雑草におおわれた土饅頭の上に、身を投げかけて慟哭している陸老人の号泣が、私のまわりをひしひしと取り囲んでくる。樹々を渡る颯々の風の声がそれに重なる。   

 

 

 

 小説『余白の春』はここで終る。

 

 

 

 

 

 240

 (新)連続エッセイ 

     金子文子の描かれ方 4

                   豊村一矢

 

 

 

この(新)連続エッセイも四回目になった。文子の獄中手記『何が私をこうさせたか』を軸にして書いてきたが、無政府主義・虚無主義を標榜し「不逞社」をつくって活動した文子、大逆事件の被告になった文子がどう描かれたか、どう描かれるべきか、に移ることにする。

 

「不逞社」・「大逆事件」のところでも、瀬戸内晴美の『余白の春』はキム・ビョラの『熱愛』より、リアルに文子を描出している。

 

『余白の春』は「婦人公論」一九七一年一月号から七二年三月号までの連載小説である。この間、瀬戸内は、かつての文子の同志たちと数多く接触し取材している。栗原一男は獄中手記を宅下げして出版を託した相手だし、文子と朴烈が同棲する家を住み、いつも近くにいた人物である。

 

瀬戸内は、文子が過酷な少女時代を過ごした朝鮮の芙江・朴烈の故郷・文子の墓を取材するために訪韓するが、その時も、文子の同志だった陸洪均が同行している。

 

朝鮮聞慶八霊里の山中に、何十年も詣でる人もなく、ただ一基、遺骨を埋めた土饅頭型の文子の墓があった。朴烈の甥の案内で、獣みちを踏み分けて踏み分け辿り着いている。

 

  ※蛇足だが、この墓に来た文子の同志はあとにも先にも陸洪均一人、日本人は瀬戸内晴美一人だと思う。

 

また、瀬戸内は、文子が幼少期を過ごし、また朝鮮から戻り先でもある母の実家を訪ねている。この時も、栗田一男が一緒だ。

 

さらに例を挙げれば、『余白の春』の連載中、瀬戸内に手紙を出した人物を伴って旧宇都宮刑務所栃木支所の墓地を訪れている。この人物は、布施辰治らが墓地に仮埋葬された文子の遺体を火葬のために掘り出した際、その遺体を荷車で8キロ先の火葬場に運んだ運搬人である。この経験が連載の後の号で書かれる。つまり執筆と取材がリアルタイムで進行しているのだ。

 

 このとき瀬戸内が接した人々は文子に近い年齢であるから七〇歳は過ぎている。『熱愛』が書かれた三七年後には、みな他界していたのではなか。仕方のないことだ。

 

 瀬戸内が当時を知る情報提供者から得たものは多方面にわたる。たとえば、文子は同棲生活を始めたあとも、朴以外の男性ともしばしば性的関係をもっていた、など。

 

 私が強い関心を抱いたのは、文子や朴たちの活動資金、生活資金のことだ。文子の表向きの職業は「人参行商」だが、実態がないに等しい。資金調達の大半は「集(タカ)り」である。彼等は隠語で「リャクる」と言っていた。略奪のリャクだろうか。『余白の春』では、有島武郎、神近市子からは五円か十円くらいが相場。大口の本田仙太郎は二〇〇円あまり。あとは雑誌「黒濤」への広告掲載料をふんだくる会社ゴロの手法である。文子と朴は、同棲生活の引っ越し資金、家賃前払いも全部リャクりで賄っている。リャクりは朴よりも文子が積極的で、その目的で頻繁に出かけていたという。

 

 確かに雑誌「黒濤」の仕様は活版刷りで表紙はカラー、豪華である。因みに、この五年くらい後に一九二三年に共産党機関誌「赤旗(せっき)」が創刊されるが、ガリ版刷りであった。

 

これは国家権力が文子や朴たちの組織と運動を脅威とみていなかった証左であるまいか。

 

 文子と朴のことに夢中でいると、いつの間にか戦前の在日朝鮮人の運動全体を俯瞰するのを忘れてしまう。それは危険なことなので適当な資料を探してみた。

 

 

 

 在日朝鮮人運動史研究会

 

 在日朝鮮留学生の民族解放運動に関する研究

 

  1920年代を中心にー 金基旺

 

 朝鮮人の日本留学は一八八一年から始まったが、一九二〇年代に入ってから急激に増加した。

 

(中略)在日朝鮮留学生の代表組織である在東京朝鮮留学生学友会は、留学生の大部分が集中している東京一帯の在日留学生を組織的基盤として、機関紙の発行や3・1運動記念闘争(略)など多様な民族解放運動を積極的に展開した。学友会は関東大震災を境に社会主義傾向を強め、一九三一年社会主義勢力の運動路線の転換によって解散した。一九二〇年代に入って民族解放運動の新しい方法として社会主義を受容した留学生たちは(略)独自の組織を結成して社会主義運動を展開した。苦学生同友会の幹部たちを中心に黒濤会が結成され、留学生たちによる社会主義運動の嚆矢となる。黒濤会は内部の思想分化によって無政府主義団体黒友会と共産主義団体北星会とに二分された。北星会は朝鮮人労働者の組織化や朝鮮内への社会主義の宣伝普及に貢献した。北星会の発展的解消によって成立した一月会は、(略)朝鮮内の社会主義団体や日本・中国の無産階級運動との国際連帯を図ると同時に、他の在日朝鮮人団体との共同闘争による抗日民族解放運動を積極的に展開した。在日朝鮮留学生たちは留学終了後においても民族解放運動に積極的に参加した者が多く、一九二〇代における在日朝鮮留学生たちの民族解放運動は、精神的思想的人的な側面において「民族独立運動の貯水池」としての役割を果たし、朝鮮の民族解放運動史上の意義は極めて大きい。

 

青丘文庫月報135号(99年1月1日)より

 

 

 

 これは在日朝鮮留学生の運動史のレポートで、朴烈や文子らの「不逞社」の活動が「黒友会」の流れであることは明白だ。しかし、民族独立運動の「貯水池」に、朴や文子は何を貯めたのか、あるいは何も貯めなかったのか、余裕があれば後の号で検討してみたい。

 

 文子と朴烈らの活動を民族運動全体の俯瞰図の中で位置づけるには、歴史の視点も必要だと思う。とりあえず一九一七年の「ロシア革命」と一九一九年の「3・1独立運動」の影響を考えてみる。

 

「ロシア革命」は日本の支配層を震撼させたにちがいない。一九二二年に共産党が結成(非公然)される。一九二五年、共産党壊滅を命題とする治安維持法が施行される。無政府主義を標榜する運動がどう関わるのか。文子と朴烈が起訴されたのは治安維持法ではなく、「旧刑法一一六条 天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」であった。これらの意味も検討したい。

 

「3・1運動」の影響については、日本の支配層の朝鮮人観の変化に注目した。「3・1」の前は、朝鮮の文化や風俗を貶め、「朝鮮人は野蛮、卑屈、頑迷、狡猾」などの蔑視評価を流布し、宗主が必要な民族との印象を広め、韓国併合を合理化した。日本の新聞は全て同じ主旨で併合を支持したのである。

 

 ところが、「3・1」のあと、「暴戻(ぼうれい)、不穏、不逞」などの朝鮮人観がメデイアなどで流布されるようになる。韓国併合に対する朝鮮人の抵抗は根強く、規模、執念、広がり、全て日本の支配者たちを脅かすものだった。武力弾圧への恨み、反撃も恐れた。

 

「不逞鮮人」の見出しの新聞記事が一九一九年四月に初登場する。以後、「不逞鮮人」という言葉が新聞紙上に急増する。朝鮮人は「何をするかわからい」「怖い」という印象を振りまき、「恨み、復讐」などの恐ろしいイメージを摺り込んでいる。これが関東大震災での朝鮮人大虐殺に影響したことは間違いない。

 

 文子や朴烈らは、自らの活動のタイトルに、あえて挑発的な「不逞鮮人」、や「不逞社」の言葉をあえて使っている。

 

 このような運動をどうみるか。

 

 

 

そこで、冒頭に書いた「無政府主義・虚無主義を標榜し『不逞社』を結成して活動したころの文子がどう描かれたか、どう描かれるべきか」だ。。

 

 

 

 関東大震災で保護検束される前の文子の四年間を概略する。

 

 文子(十六歳)は、3・1運動を目撃し感動した年に、朝鮮から山梨の母の実家に戻る。それから一年後、(初めて自分の意志で)東京に出る。さらに二年後、文子(十九歳)は朴烈と出会い、二ヶ月後に同棲生活へ。この数年の生活、体験から文子に無政府主義・虚無主義の下地が蓄積される。知り合った新山初代の影響も大きい。

 

朴と同棲生活を始め、関東大震災で「保護検束」されるまでの一年半は、文子がもっとも果敢に運動に挑んだ時期である。

 

「保護検束」の後、文子(二十歳)は社会に出ることはなかった。

 

 

 

 さて、「不逞社」は如何ほどの組織、運動であったか。

 

朴烈は「3・1運動」に加わり、激しい弾圧下、命の危険があって日本に移って運動をつづけていた。それだけに性根の座った活動家だった。

 

しかし、瀬戸内の言葉を借り私が補足すれば、それでも(自意識と反権力感情の強い)書生集団の域を出るものではなかった。実践の蓄積もたかが知れている。革命理論も自分の心情に合うものを歌い揚げているに過ぎない。

 

文子は『マルクスがナンチャラカンチャラ言って……』と大物の理論家を揶揄しているが、マルクスを直接読んでいるとは思えない。仮に読もうとしても予備知識が要る。小説を読むようにはいかない。文子の高い読解力をしても歯が立たなかっただろう。瀬戸内も言っているが、朴烈や文子と幸徳秋水や大杉栄らとは、格段のレベルの差があるのである。それでも権威に対して虚勢を張る。先のマルクスへの揶揄は、ロシア革命の後だから、雑誌か何かで目に触れた程度のことでの揚言だろう。

 

 この時代、書生は同世代の中ではエリートである、プライドが高い。「不逞社」のメンバーは国家権力に楯突こうというのだから、さらにプライドが高い。社会も一目おく。だから、有島武郎も集(たか)られたらカンパするのだ。

 

 文子は、ここで抜群の記憶力、文才を発揮する。起伏の激しい感情、無鉄砲とも言える行動力などと併せ、自分の意志で生きる文子像が鮮明になる。

 

 朴と同棲生活を始めてからの一年半は、文子にとって最も幸福で充実した時期だったろう。しかし、この間の未熟で軽率な運動が、結果的に、大逆事件で死刑判決を受ける不運をもたらすのである。          (つづく)

 

 

 

 

 

   ※「連続エッセイ 床屋談議二〇」は休みます。   豊村一矢

 

 

 

 

 

 

 239号

 (新)連続エッセイ 

 

金子文子の描かれ方 3

 

               豊村 一矢

 

 

 

キム・ビョラの『熱愛』(後藤さんの翻訳本では『常磐の木―金子文子と朴烈の愛』に改題)と瀬戸内晴美の『余白の春』も、資料や取材で得た情報を分析し、空白は文学的な想像力を駆使して書かれているのを見とどけた。

 

そして、キム・ビョラと瀬戸内晴美の金子文子描出の違いに視点をあて、どちらかと言えば瀬戸内の描出に好感を持った。

 

今回は、キム・ビョラと瀬戸内の書き方に違いが少ない場面のことで書いてみる。

 

 

 

『常磐の木―金子文子と朴烈の愛』ではP15からP18までの、文子が朴烈に愛を告白する場面になる。文子が待ちに待ったチャンスである。この場面、キム・ビョラも瀬戸内も、『何が私をこうさせたか』以外の資料は皆無に近かったのだろう。両者とも想像力駆使の創作部分は少なく、『何が……』に沿った展開になっている。

 

それでも『余白の春』は微妙に書き加えたりしているものの、字数はそんなに増えていない。『熱愛』でキム・ビョラが同場面で使った字数は『何が……』の二倍以上になっている。

 

どうでもいいようなことかもしれないが私は気になる。

 

 

 

まず、瀬戸内が微妙に言葉を書き加えている部分について。

 

『何が私をこうさせたか』では、朴の言葉が「いや、僕が反感をもっているのは日本の権力階級です、一般民衆でありません。殊にあなたのように何ら偏見を持たない人に対してはむしろ親しみさえ感じます」となっているが、

 

『余白の春』では「いや、僕が反感を持ち憎むのは、日本の権力階級です。一般民衆じゃありません。あなたように珍しく何の偏見も持たない人に対しては、親愛感がわきます」

 

何気ない言葉の書き加えだが、私は瀬戸内の朴烈観が覗いていると感じる。

 

『何が……』に比して『熱愛』がこの場面に二倍以上の字数を費やしたのは、文子の朴烈への高まる心情表現に力を入れたのと、朴烈の冷徹な社会運動家・人間像を強調したためである。

 

文子の心情表現のために、(枕草子の?)『春は曙』、素朴な表現の典型として万葉集、江戸時代の「人情」話まで持ち出している。私にはどうもピンとこない比喩ではある。

 

このように『余白の春』と『熱愛』に多少の違いはあるが、連続エッセイのテーマ「金子文子の描かれ方」から見れば、ここでは、どちらの作品も『何が私をこうさせたか』に忠実である。

 

 

 

そこで本題に入る。

 

私は、『何が私をこうさせたか』のこの部分は文子の創作だと思う。

 

創作でないとすると、なぜ文子は自分らしくない求愛行動をとったのか、気になってくる。

 

 

 

『何が……』の場面展開を会話の部分を中心に書き出してみる。

 

文子「私があなたにご交際を願ったわけは、鄭さんからおきき下さったと思いますが…」

 

朴烈「ええ、ちょっとききました」

 

文子「(略)あなたは配偶者がおありですか。(略)

 

おありでしたら同志としてでも交際していただきたいのですが」

 

朴烈「僕は独りものです」

 

   (略)

 

文子「私は日本人です。(略)それでもあなたは私に反感をお持ちでしょうか」

 

朴烈「いや、僕が反感を持っているのは日本の権力階級です。(略)」

 

文子「(略)あなたは民族運動者でしょうか……(略)あなたがもし、独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」

 

朴烈「(略)僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、今はそうではありません」

 

  (略)

 

文子「私はあなたのうちに私の求めているものを見出しているんです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」

 

 こうして文子は求婚の思いを伝え切る。

 

「求婚」は文子自身が前述の(略)の中で使っている言葉で、求「御交際」、求「一緒に仕事」と「求婚」は、ここでは同義である。

 

 文子は、朴烈に既婚者か、日本人に反感をもってないか、民族運動家か、自分の運動路線を持っているか、一つ一つ問いただし、回答によっては身を引かなければならない、と言っている。

 

しかし文子は、「犬コロ」という朴烈の詩と鄭の部屋で出会ったときの朴烈の雰囲気、いわば朴烈のオーラに打ちのめされ、虜になってしまったのではなかったか。

 

 朴烈に妻がいたら身を引く?

 

 朴烈が日本人に反感を持っていたら一緒になれない?

 

 朴烈が民族運動家だったらあきらめる?

 

 文子は鄭に何度も朴烈との引き合わせを頼んでいるし、朴烈がどんな人物かについても言葉を交わしている。既婚者か、日本人に偏見をもっているかなど、文子は分りきって求愛の場に臨んでいる。

 

有り体に言えば、やっと目の前に現れた獲物を逃すまいと必至だったはずである。問題はただ一つ。『何が……』のこの部分が創作ならなぜこんな創作をしたのか、創作でないならなぜ文子はこんなしおらしい手順を踏んで告白したのか、私は自問自答した。

 

その結論。

 

 創作でないなら、これは獲物を獲得するための高等戦術である。

 

 創作なら、これは『何が私をこうさせたか』の読者に見せたかった自分、自画像である。

 

 

 

無政府主義、虚無主義なるものを標榜する文子だが、心の奥底に、ごく普通の倫理観や価値観、人生観が潜んでいる。相手への愛情が高まったとき、それが無意識の行動になったとみることはできないか。

 

 金子文子への興味はまだまだ尽きない。

 

                 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 連続エッセイ 床屋談議 十九

 

                豊村一矢

 

 

 

 今日は九月二八日だ。北海道研究集会が半月後に迫っていて気忙しい。ずいぶん前に入れたゴルフの約束も疎ましい。理髪店にいつも明日は行こうと思うのだが行っていない。

 

北海道胆振東部地震は九月六日だった。理髪店に行けば、床屋談議の話題は「今度の地震」になること間違いなしだ。

 

これは地震でなく台風被害の方なのだが、近所の公園の大木のことも話題になるだろう。

 

 

 

やく六〇年前に、何の変哲もない農地に三階建で二十四の普通教室を擁する大きな小学校が、新設された。

 

ほぼ同時期に小学校の東南斜め向かいに街区公園ができた。街区公園といえば周囲を住宅に囲まれ、ブランコ・滑り台・シーソーなどの小型遊具や砂場がある、その程度の比較的小規模な公園を想像するだろうが、そんな立派なものではなかった。周りの住宅はポツラポツラで遊具はあったろうか。長方形のただの原っぱで、大人の背丈ほどの苗木が二十本ほど、公園の境界の内がわに列をつくって等間隔に植えられているだけのものだった。

 

 それから半世紀以上が経過した。時々改修があり、プロが設計した思われる遊具や遊べる大型オブジェなどが作られ、ベンチも二台の横並び式、対面式の組み合わせで配置され、周りはいつの間にか住宅で隙間なく埋まり、公園は遊びと憩いの空間に変貌を遂げた。

 

問題は、植樹された苗木の成行きである。

 

 きちんと調べたわけではないが、今年の春の時点で、六〇年前に植えた木は二本しか残っていなかったと思う。植樹は公園改修の時に新たに何本か行われる。改修は一〇年に一度くらいペースで行われたのかな? 公園の木の種類と大きさの違いは、改修の歴史を映している。

 

 ある程度の大きさの樹木は公園に日陰ができる場所をつくるのでありがたい。だが、大きくなりすぎた二本の木は厄介だ。その木の危険性について、ここ数年、床屋談議の話題になっていたのだ。

 

 談議は真剣だった。

 

公園の広さと周辺の道路、住宅までの距離と比較して、余りにも高く大き過ぎる。台風などで倒れた場合、倒れ方にもよるが、横倒しになった場合、どちらの方向に倒れても、周囲の道路、電柱や送電線、多くの住宅、住人に甚大な被害が及ぶのは避けられない。

 

 さらに、イヤな情報が入った。カラスの巣を除去する業者からである。真偽のほどは分らないが、大木に作った巣は高すぎて自前の機器だけでは除去できなかったというのである。

 

 もはや談議は大震災を予告された状況下となり緊迫感を帯びてきた。

 

 でも、結論から言えば、この春、二本の大木は伐採されたのである。今は大きな切り株を残すのみ。日数を掛け、枝を落し、上の方から慎重に少しずつ採り除いていった。中ぐらいの木も剪定し真面に風を受けないようにした。お陰で連続する台風到来にも無事だったである。

 

 この工事に我らが床屋談議が如何ほど役だったかは不明だ。

 

 紙幅が尽きたのでつづきは次号にします。

 

 

 

 

 238号

 

 (新)連続エッセイ 

 

金子文子の描かれ方 2

 

               豊村一矢

 

 

 

前回は、キム・ビョラの『熱愛』(後藤さんの翻訳本では『常磐の木―金子文子と朴烈の愛』と改題)、瀬戸内晴美の『余白の春』も共に、金子文子の描出の拠所の一とした『何が私をこうさせたか』について考え、想像を巡らした。

 

今回はそのつづきだ。

 

 

 

この「(新)連続エッセイ」を始めるとき、エッセイの内容をあれこれ予想して、少なくても、『余白の春』と『何が私をこうさせたか』くらいは手元に置かないとマズイだろうと思った。何せ、前号に書いたように三十年ほど前にPTA文庫から借りて読んだだけのことだったから、その記憶だけで、あれこれ語るのは余りにも失礼だ。

 

図書館から借りることもできるが、エッセイが続く限り手元に置くとなると、やはり手に入れなければならない。私はネットで本を取り寄せることした。そのためにパソコンを操作していると、妻が覗きにきた。「また、『積(つ)ん読(どく)』にならないようにね」くらいのことを言うのかなと思ったら、

 

「『余白の春』なら、確か、私、持っているんじゃないかな……。学生時代、瀬戸内晴美は、結構、読んだから」

 

 と言った。

 

「あれ? 漱石でなかったの? テーマは…」

 

「それは、ゼミの方だよ」

 

 そんなやりとりの後、妻が自分の書架から探してくれたのは、中央公論社刊の、初版が昭和四十七年で四十九年発行の第七版だった。紙は茶色く変色したA5判ほどのサイズ、私がかつて読んだ本は紙質も良くなってきた時代の文庫版だったから、何やら厳粛な気分になった。

 

『何が私をこうさせたか』の方は、岩波文庫の最新版(二〇一七年一二月二五日初版本)を取り寄せた。こちらには山田昭次の解説が載っている。

 

 

 

「金子文子の描かれ方」をテーマに連続エッセイを書こう思い立ったのは、キム・ビョラ『熱愛』を通読したときの違和感からであった。 

 

その違和感が作風についての好き嫌い、私の嗜好によるものだとしたら、エッセイの形であれ、「金子文子の描かれ方」として問題提起するのは烏滸がましい。そうではなくて、かつて読んだ『余白の春』『何が私をこうさせたか』による金子文子の残像があり、それは遠い記憶で曖昧な残像なのに、それでも『熱愛』を読んで、文子をこんな風に描いていいのか、文子が願った書かれ方のかという違和感だったとはっきり言える。

 

 

 

キム・ビョラの『熱愛』一章の「未熟な告白」は、文子が朴烈の現れるのをひたすら待つ場面の展開であり、切ない心情が綿々と書かれている。この「未熟な告白」の表現に端から違和感を抱いたのである。

 

まず、この場面、『何が私をこうさせたか』に比べて『熱愛』は長い。十倍はあるだろう。大袈裟な言葉や直喩なのか暗喩なのか判然としない曖昧な修辞が目立ち、それが綿々とつづくのだから、却って文子の心情を共有するのを妨げられた。

 

二箇所、例を挙げてみる。

 

 

 

彼を待つ冬が過ぎ去った。(略)話としてだけ聞いたことがある、荒涼とした東北地方を連想させた。(略)黒い海、(略)そこに住む人びとの愛情表現の、独特のスタイルが理解できた。(略)迷惑だと感じさせるほど激烈に、身と心を捧げることを誓うのだ。

 

 

 

    旅に生きた俳人芭蕉の俳句が文子のお守りになった。(略)芭蕉がさまよい歩いた『奥の細道』を思った。氷柱がにょきにょきと垂れ下がった、東北の寒村を思い、始終彼を待った。

 

 

 

「話としてだけ聞いたことがある」風景を連想して愛情表現し、文子は「激烈に身と心を捧げることを誓」ったのだろうか。話としてだけ聞いて連想したのはキム・ビョラだろう。

 

芭蕉は、奥の細道をさまよい歩いた?

 

『奥の細道』は基本、夏場の旅である。氷柱が垂れ下がった景色に出会うはずがない。「夏草や兵どもが夢の跡」とあるではないか。

 

安易な修辞に私は白けるのである。

 

前号でも紹介したが、金子文子は「ある特殊な場合を除く他は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、できるだけ避けて欲しい」と言っているではないか。

 

瀬戸内晴美の『余白の春』の方では、この場面を、ほぼ、『何が私をこうさせたか』に沿って書いている。それでも瀬戸内らしい見方をキラリと書き入れる。

 

朴烈が、はじめて文子の請いをいれ、岩崎おでんやにあらわれたその晩、文子は漸く捕えた朴烈を逃すようなことはしていない。

 

 この表現から、相手の心次第という受け身の構えでなく獲物を捕まえにかかる姿が浮かぶ。私には瀬戸内が文子の激しさ必死さに菅野スガや伊藤野枝らに共通するものを見たのではないかと読めるのである。

 

 さらに、別の章でのことだが、キム・ビョラの書き方への不満を一つ、加えておきたい。

 

 文子を一発で朴烈の虜にした雑誌「青年朝鮮」の片隅に載っていた詩「犬コロ」は現存していないし記録もないと聞いていた。ところが『熱愛』では11行の詩になっている。「犬コロ」が発見されたという話は聞かない。

 

もちろん、文学作品の中で文学的に創作することは表現の自由の範囲だろう。だが、私は11行の詩を読んでも釈然としない。私の貧弱な詩心の所為かもしれない。

 

 

 

前号で私は『何が私をこうさせたか』は、機械的な事実の記録ではなく創作があると書いた。

 

そもそも、栗原一男に宅下げされる手記は、どんな内容、形状の原稿だったのだろうか。

 

『何が私をこうさせたか』は、基本的に立松懐清予審判事のすすめで(文子は『何が私をこうさせたか』の序文では「命じられた」と書いているが)書いた手記であり、文子の私物ではあるが、同時に予審での書面陳述の性格をも併せ持っている。 

 

手記が文子と朴烈の同棲生活の直前で終っているのも、同棲生活中の行動が裁判事案に関わるからだろう。事実、余談めくが、文子と朴烈が同棲する新居に栗原一男が写り

 

住んだり、同志たちの打ち合わせの場にもなっていたと『余白の春』の中で栗原自身が語っている。

 

さらに宅下げ原稿は検閲を通過しなければならない。検閲後の原稿の内容によっては、栗原一男は出版に足るように大きく手を加えることになる。このあたりことが『余白の春』を読むとかなり明らかになる。

 

 

 

瀬戸内(『余白の春』)とキム・ビョラ(『熱愛』)は、関連する資料を緻密に読み込み、資料と資料の間を文学的な想像力を駆使することで埋めるという共通点を持つが、資料の読み方、文学的想像力の駆使の仕方に大きな違いがある。

 

実際のところ『熱愛』は資料に基づくものか想像で書かれた場面か、読んでいてほとんど区別がつかない。『余白の春』は大半が、自ずとわかるように書かれている。

 

さらに瀬戸内の取材活動は驚くほど徹底している。例えば文子の出生地横浜、七歳の時に母と移り住んだ山梨県丹波山村小袖、朝鮮時代の芙江、文子が縊死を遂げた宇都宮刑務所栃木支所(文子が縊死直後、一週間ほど埋葬された刑務所の墓地)、朝鮮の朴烈が生れ育った実家のあった所、その近くの森林の中にある文子の最初の墓などなどを訪ねている。しかも、必ず、直接・間接に、文子と関わった人を伴なっての旅で、またそういう人たちと接触し交流を深めている。この姿勢が『余白の春』に遺憾なく反映されているのである。

 

結論は、「そもそも、栗原一男に宅下げされる手記は、どんな内容、形状の原稿だったのだろうか」このことへの答えが『余白の春』に栗原一男が登場することで、かなり明らかになっているということである。

 

取材時、既に七十歳近くなっていた栗原一男はが瀬戸内に語っている。

 

 

 

「あの手記は、実のところ、私の手に渡ったのはずいぶん後で、立松にやいやいいって、やっととりかえした。ところが、その時の原稿は方々に鋏をいれて切りとってあって、一枚の原稿用紙が、まるで簾のようなんだな。それは他人じゃ、とても読めない。まあ、私は日頃、文子からいろいろ話を聞かされているので、切りとったところがどういうものか判じることが出来る。そこで、私と加藤一夫で加筆添削して、あの本の形にした。題も文子がつけていたものではなくて、われわれが相談してつけたものだ」

 

 簾のようにという時、氏は両手で濡れた紙でも持ち上げるように卓上の紙ナプキンの両端をつまんで目の高さにしてすかせてみせた。(『余白の春』から抜粋)

 

 

 

 文子が付けていた題を知りたいが、宅上げされる前の原稿、宅下げされた鋏入りの方でもいい、原稿は現存するのだろうかと詮無きことを考えてしまう。技巧を凝らしたものでなく単なるジャンルを示しただけのタイトルだったような気もするのだが、文子が信頼し「削除」を栗原一男に頼んでいるのだから真正の半生記として何の問題もなく、文子が付けていた題を知りたいなどいうのは傍迷惑な私の好奇心に過ぎない。

 

 

 

金子文子は、『何が私をこうさせたか』の序文(正確には「手記の初めに」という見出しになっている)の最後を、

 

「この手記が裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。しかし裁判も済んだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼んでこの手記を宅下げしてもらうことにした。(中略)私は何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。いや、親ばかりではない、社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである」

 

と括っている。もちろんこの序文は手記本文を書き上げたか、構想が細部まで明確になった後に、冒頭に書き加えたもので、執筆順としてはここで筆を置いたものと考えられる。

 

手記を書かせたのが立松判事の裁判戦術だとしても、日頃の判事の態度からして有効な供述を得ようという姑息な意図はなかったと私は思う。また、すでに立松は必要な供述は既に得ていて余裕の手記のすすめだと思われる。

 

栗原一男が多くを加筆・添削したとしても、信頼関係から言って文子の意思を忠実に表現する誠実さに疑問は生じない。

 

文子は、何の束縛もなく渾身の力で「私をこうさせた」半生を書くことに熱中した。この作品から文子の思いと感情を読み取るのに不足はない。

 

最後の二文。

 

「私は何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。いや、親ばかりではない、社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである。」

 

 

 

 親。教育家。政治家。社会思想家。

 

 文子が吐き気するがほど憎んでいた、あるいは軽蔑していたはずの連中ではないか。

 

 あいにく私は無政府主義とか虚無主義を理解できている自信はないが、文子がそういうもので凝り固まっていたとしたら、少なくてもこの二文が書かれるはずもないだろう。

 

 

 

 この二文、文子が手記の最後の最後ところにきて筆を置くとき、文子自身も無意識に内面の心情が溢れた出て書いたと私は思いたい。

 

『余白の春』に瀬戸内が仮説として文子の別の一面を語っている所がある。

 

「調書の中でも、手記の中でも、あくまで憎しみをこめて弾劾しつづけている母のきくのが思いがけず刑務所に面会に来たことを歌に詠んでいるのは、調べ室や法廷で傍若無人な言動をする文子とは同一人と思えないように素直でしおらしい。

 

 

 

 意外にも母が来たりき郷里から

 

   獄舎に暮らす我を訪ねて

 

 

 

 逢いたるはたまさかなりき六年目に

 

   つくづくと見し母の顔かな

 

 

 

 何がなと話続けて共に居る

 

   時延ばさんと我は焦りき

 

 

 

 人間は矛盾のかたまりである。まして煩悩の火は理性の埒外に燃え悶える。文子が両親に対して、あれほど憎悪の言を吐きつづけたのも、裏がえせば、文子の肉親愛が人並み以上にたっぷりあり、それが報われないための反動とうけとれないこともない。」

 

 

 

「金子文子の描かれ方」への興味はまだまだ尽きないのである。        (つづく)

 

 

 

 

  連続エッセイ 床屋談議 十八

 

                豊村一矢

 

 

 

 前回の理髪店では、常連の床屋談義子が2人もいたこともあって、私も、つい、頭の方の用が済んでも居残ってしまった。

 

 お題は、「今年の春の悪天候」と「地域の買い物難民」の話だった。

 

 店主を除いて談議に加わったものはみんな、小さな庭をもっていてキュウリやミニトマトを植え、時間がたっぷりあるもだから丹念に育てている。

 

それが春の悪天候で不作だというのでる。

 

A「春先寒かったしょ。苗が育たんのよ。すっかりいじけちゃってさ。夏になって急に気温あがったろう? 時、既に遅しさ。苗がさ、虚弱体質で未熟児みたいなんだろ。根っこの数も太さも貧弱で茎もひょろひょさ。夏になってさあ大きくなれたって無理さ。ひどいもんさ」

 

B「俺んとこも似たようなもんだよ。キュウリなんか、いまのところ10本くらい採れたかな。いつもなら、食べきれなくて冷蔵庫にどんどん貯まっていったのにな」

 

A「土にビニル掛けしてさ、低温対策はちゃんとやったんだけどね」

 

私「苗の当たり外れもあるんじゃないかな」

 

 私は、ウオーキングの際、塀越しに見事に育っている家庭菜園を何カ所も目撃しているので、低温以外の要因も考えてみたらと言ったつもりだが、迂闊だった。

 

B「豊村さんとこは、どうだったのさ」

 

 と、きた。我が家の家庭菜園はほぼ全滅だったのだ。だから、あまり語りたくなかったのだが、そういうわけにもいかなくなった。

 

 

 

私も、春に苗や種を買ってきて、キュウリ、ミニトマト、インゲン豆などを植えた。今も亡き父母のやってきたことを惰性で継承しているのである。

 

育て始めて、天候不良のためか、育ちが悪いことはすぐに分った。そんな時に我が家の庭に異変がおきたのである。

 

見慣れない鳥が数羽、ウチの庭を拠点に住宅地一帯を飛び回り始めた。大きさはスズメよりは大きく鳩よりは小さく尾羽が長くて、なかなかスリムである。色はグレーと茶の中間ぐらい、鳴き声はチチチチとチの二種類。

 

観察しているうちに巣作りをしていることがわかった。

 

庭は我が家から見て、左右とお向かいの三つの塀、そして我が家の窓側に囲まれている。三面の塀の内側には、各種のツツジ系の木を父母が残している。このツツジたち、春先には一斉に花をさかせるが、あとは緑の葉だけの灌木。

 

さらにその内側にはアジサイとかシャクナゲとかバラと菊とか背丈は低いが、いつもどれかが花を咲かせている。これも全て父母が残していったものだ。その中に、不勉強で名前も調べていない木がある。背丈は放って置けば、ひと夏でぐんぐん八方に新しい枝を延ばしていくし、しかもその細長い枝には鋭い棘が付いている。毎年、落葉したところで2メートルくらいの高さに抑えるように剪定している。葉の大きさや繁り具合と密度は、ツツジに似ていて、葉の表ははくすんだ緑、裏は赤っぽいので周りの木と雰囲気が違う。春にはピンク花を咲かせ、秋には赤い小さな実になる。木の名前を知らないから説明が長くなったが……その木の茂みの中心部に巣を作り始めたらしいのだ。

 

それが我が家の家庭菜園の全滅とどうつながるのか。

 

私が野菜の世話や草取りために庭に出ると、その鳥たちが私を警戒してせわしく枝から枝へ渡りながら緊張した鳴き声を交わし合う。騒がしく落ち着きがない。巣作り用と思われる枯れ草を咥えている鳥も、ウロウロするだけで巣を作る木の茂みに入っていかない。私が少しでも茂み近づこうものなら、チチチチ、チと狂ったようにけたたましく騒ぎ始める。

 

私は、この鳥たちがここでの巣作り・子育てを諦めるのではないかと心配した。

 

それで庭仕事をやめてなるべく庭に出ないようし、ベランダから鳥たちに気付かれないように見守ることにした。

 

私が庭作業をやめて鳥たちは喜んだ。いっそう巣作りに励み、やがて親鳥が抱卵しているらしい動きが始まり、次にエサを運ぶ動きになった。虫を咥え近くの小枝に一旦停まって安全を確認し、巣のある木の茂みに滑り込む。

 

私が庭仕事をやめて喜んだのは鳥だけではない。庭の雑草たちもだ。いたるところから現れたかと思うと一晩でどのくらい伸びるか分るくらいの勢いで生い茂ってきた。それを鳥たちが喜ぶ。子育てに最適の環境になった。

 

やがて妻も関心を持ち始め、調べてくれて、この鳥がヒヨドリであることを知った。

 

ヒヨドリは調べた通りの習性を披露し、三日ほど、巣立ちの行動をして庭から姿を消した。

 

 

 

 まあ、こんな話を床屋談議でしたわけだ。みんなは美談として聞いてくれたようだが、我が家の評価は微妙である。

 

 妻は庭仕事をサボる口実にしたと思っているフシがある。

 

 ヒヨドリは、妻が調べたところでは、前年子育てした所に戻る習性があるという。

 

 さてどうなるか。どうするか。

 

 

 

 

 

 237号

  連続エッセイ 床屋談議 十七

 

                豊村一矢

 

 

 

 床屋談議での話題に端を発して始めた「わが町」のウオーキング。前号では、凡そ一時間かけてウオーキングする「わが町」の範囲について書いた。

 

高校二年生の春からこの地の住民になったのだが、ここに高校の同期で、わが民主文学札幌支部の岩井義昭氏がいた。

 

 その頃(1959年)のわが町は(六〇年も前のことだから当たり前のことだが)、現在とまったく違う。各所に農地が広がっており、牧草地ではホスタインが草を食みサイロや牛舎などがありで、にわか造りの小さな集落が点在している。

 

 要所々々にいかにも安普請の市道が通っていたが舗装などはされておらず、まっすぐに走ってはいるが大変なデコボコ道であった。

 

 一方、農地や牧草地には、農道(もちろん私道)が適当な塩梅(あんばい)に通っていて、こっちは使い込まれた固い道路で、新住民にとっても必要不可欠な生活道路になっていた。

 

 急造の市道の方はと言えば……。

 

我が家の近くの、今は「本郷通商店街」となっている一角は、正に西部劇に出てくる砂漠の中の集落そのものだった。一本の、道路と称する細長い空間の両側に隙間だらけに店が並ぶ。表側には店であることを知らしめる看板がとりつけられている。

 

その道路と称する空間は、春先になると道路としての面目を失うことになる。この集落に札幌中心部とを繋ぐ路線バスが日に何本か通っていたのだが、春先になると雪が溶けて、空間はぬかるんでエラいことになってくる。まず、終着のバス停までいけなくなる。つぎに終着一つ手前のバス停までも行けなくなる。こうして、その都度、バスストップの標識がどんどん札幌中心部寄りに移動し、しまいには、この道路と称する空間の入口まで後退することになる。

 

そうはいっても、一五〇メートルほど離れたところには国道十二号が走っており、完全舗装で現在とほとんど変わらない。この落差は半端でないのである。 

 

私はこの集落の路線バスを利用せず、十分歩いて十二号に出て、そこから学校にバスで通学した。それでも、西部劇の砂漠の中の集落にも電気はきていた。住み始めた我が家の方は、電気設備は付けたが電気がきていなかったのである。西部劇の方とは五〇メートルほどしか離れていないのに、だ。二ヶ月ほどランプ生活をした。もっといえば、二年間、ポンプで水を汲む生活をした。市の水道管は、西部劇の所までしかきていなかったのだ。

 

なんともアンバランスな、市街化調整区域から市街化区域に転じてばかりの時代の「わが町」の姿だった。

 

 

 

 長話をしてしまった。

 

 こんな昔のわが町を床屋談議の話題にできるのは、今では私と先代店長ぐらいになった。

 

「ここからテレビ塔が見えたよね」と、私がいい、「そのころ近くに国鉄千歳線が走っていてね。こっちは駅舎側でなく裏側だから、ホームで列車を待つ通勤者の姿がよく見えましたよ」と先代店長が語っても、後進または後身の床屋談議の面々は、あまり、話に乗れないようなのである。

 

 だが、この前段の長話は、今回の「床屋談議十七」の本題と無関係ではない。

 

お題は「当時の地主の今」である。

 

 

 

 一九四六年十月の農地改革、一九五五年頃の札幌市による市街化調整区域から市街化区域への変更が、私は「わが町」の前史を決定づけたと思っている。

 

 敗戦前、この地は白石村といった。現JR白石駅から国道十二号までの地域が村の中心、役所、学校、商店などが並び、そこから現白石神社までの間の現十二号の両脇に開拓に関わった者達の住居が並ぶという独特の集落を形作っていた。

 

他は、おおざっぱに言えば、他は農地であり、自作農はおらず、みな小作農であった。

 

 それが一九四六年の農地改革で小作人は地主となり自作農になった。一九五〇年、白石村が札幌市に編入し、札幌市の一部になった。さらに五年後、この地は、市街化区域になり、住宅、施設などを建てることが自由になり、農家は、瞬く間に事業家に転身し、「わが町」は激変の時期を迎えるのである。

 

「わが町」に住んでいる住宅を持っている人のほぼ一〇〇%は、分譲化された土地を買い家を新築したものと思われる。店を構えた人たち、貸し店舗を建てた人、賃貸マンションを建てた、個人病院、医療法人による総合病院を建てた人たち、広大な敷地に占有しているアサヒビール工場・アサヒビール園等々、全て、市街化区域指定になった当時の地主さんから土地を購入したことは間違いない。

 

 さて、「当時の地主の今」である。

 

 さすがの床屋談議の常連でも、半世紀にわたる個人情報となれば、ほとんど無いようなもの。 

 

それでも、店主は、少し、情報をもっていた。もしかしたら、客に当時の地主の子、孫などの関係者がいるのかも知れないと思った。店主が漏らす話に、「成金ぐらし」への皮肉といったものがなく、抑制的に聞こえたからだ。

 

そんな中で判明したのは、四件。宅地分譲で蓄財し、最近、高層マンションを建て完売して○○億の利益。二軒目は、中規模の賃貸マンションを二〇棟ほど建てて、月二千万円ほどの家賃収入。三件目は、駐車場月の八階建てパチンコ店ビルを二戸所有、所得は不明。四件目は、全ての土地を宅地分譲し、得た資金を源に、O市郊外で先進的な畜産業経営。そこでは、乳牛を牛舎に固定して、牧草を与える、排泄処理、搾乳、出荷、清掃、その他一切の過程を人手を使わずコンピュータに制御、管理させるシステムでの経営、所得は不明。

 

みんな、「なるほどー」と頷くだけである。

 

私は、ウオーキングを開始し発見したことに、当時の地主に方のお宅が押し並べて豪邸であることだ。

 

学校グラウンドくらいの敷地に、大きな三階建て・手入れの届いた広い庭・厚く高い塀で囲ってある。グラウンド大の広さというのは、発見したかぎりではこの一軒だが、基本的に同じ造りの豪邸に出くわすと、大抵、りっぱな表札を見て、当時の地主さんの系列の屋敷であること判明する

 

 なぜ判明するかというと、当時の地主さんの一族から、市議会議員や道会議員になったり立候補する人が多いので何かと名前が頭に残っているのである。

 

 ウオーキングで新たに一族の豪邸を発見しても、もう一々、床屋談議で話す気にはならない。白けてしまうのは、なぜだろう。

 

 

 

 

(新)連続エッセイ 

 

金子文子の描かれ方 1

 

               豊村 一矢

 

 

 

後藤守彦さんは、本当にいい仕事をしてくれたと思う。朝鮮語の小説を翻訳して上梓するというのだから誰にでも出来ることではない。お陰で、眠っていた金子文子への好奇心が復活し、近・現代代史の漠然としていた部分を少し自分でつついてみようかという気持ちになった。感謝、感謝である。

 

 

 

 私が四〇歳代半ばの頃だから三〇年くらい前になる。当時勤務していた学校の図書室のPTA文庫から、瀬戸内晴美の『余白の春』を借り出して読んだことがある。「婦人公論」に連載され、その評判を何かで読んだ記憶がその本を手に取らせたような気がする。読んで、瀬戸内晴美と金子文子に強い関心を抱いた。瀬戸内については、当時、一作も読んでいなかったと思う。「ポルノ作家」とか「子宮で考える作家」だったかな、そんなことを言われて文壇から干されたとか何とか、私はそれで敬遠していたのかもしれない。

 

『余白の春』を読んだあと、同PTA文庫の書架に『何が私をこうさせたか』をみつけ、早速、それも借り出した。今思うに、このPTA文庫の蔵書傾向は当時の司書さんの嗜好によるものだったのかもしれない。

 

 そんなことで、三〇年ほど前に金子文子と書物の上での出会いがあったのだが、かなり強い印象を受けた割りには、三〇年は長くて、ほとんど思い出すこともなくなっていた。

 

 そこへ『常磐の木金子文子と朴烈の愛』が出た。

 

 この(新)連続エッセイは、「連続エッセイ 床屋談議」を終らせてから始めればいいのだが、喋りたいことがいろいろ出てきて、図々しいが始めることにした。しっかりした構想があるわけではない。関心事が散乱している。そのいくつかを拾い上げ、その都度、綴っていこうと思う。

 

今回は、キム・ビョラも瀬戸内晴美も金子文子描出の拠所の一つにした『何が私をこうさせたか』について考え、想像を巡らしてみたい。

 

 

 

 『何が私をこうさせたか』は、金子文子の獄中手記で、確かな自伝であり半生の記録だと理解されている。私もそう思う。ただ私は、『何が私をこうさせたか』は機械的な事実の記録ではなく、意思的または無意識の創作があり、そのことが彼女への関心を更に深めるのである。

 

 金子文子は獄中手記の宅下げの際、受け取り人になった栗原一男に次の一文を添えている。  

 

ここで金子は、手記が著書として出版されることを想定し期待もしている。

 

 

 

   添削されるについての私の希望

 

                金子ふみ

 

栗原兄

 

一、記録以外の場面においては、かなり技巧が用いてある。前後との関係などで。しかし、記録の方は皆事実に立っている。そして事実のある処に生命を求めたい。だから、どこまでも『事実の記録』として見、扱って欲しい。

 

一、文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。

 

一、ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。

 

一、文体の方に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬようにして欲しい。

 

 

 

「かなり技巧が用いてある」は「かなり創作してある」と同義だし、実際、『何が……』を読むと「これは文学作品だ」と思えてくる。だからこそ、私は金子文子の内面の真実に触れられたのだし、金子文子を描く拠所としての価値を確認できたのだ。         

 

 (つづく)

 

 

 

 

 

 236号

  連続エッセイ 床屋談議 十六

 

                 豊村一矢

 

 

 

 いつぞやの床屋談議で、わが町内をウオーキングするのに「健康のために」以外の、何かテーマを持って歩くという話を聞いて、自分も、どうせ長続きはしないだろうけれど、ちょっとやってみようかという気になった。

 

私の都合で勝手に設定した「わが町」の範囲は、一時間のウオーキングコースだから自ずと決まる。東西方向は地下鉄白石駅から南郷十三丁目駅までの2・5キロメートル、南北方向はJR白石駅から東北通(白石区と豊平区を分ける市道)間の2キロメートル)、の長方形。縦横に大道・小道が走っていて、ウオーキングコースは気の向くまま、無限大に選べる。わが家は、ほぼ長方形の真ん中にある。

 

この広い長方形の区分けの仕方はいろいろあるけれど、たとえば校区でみれば六つの市立小学校の校区が含まれる。つまり、人口密度も高いのだ。

 

さて、どんなテーマを持ってウオーキングをするか。そのうちみつかると思いながら、とにかく歩いてみることにした。

 

 こんなコトになったのも、そもそも床屋談議でのやり取りが原因であり、ウオーキングで得た発見や情報が、また、床屋談議でのお題になるだろうと頭の片隅で、ちょっと思っていた。

 

床屋談議の面々は、理容室の先代店長を初め、七十代が大半で若くても六十代後半、「わが町」の住民歴が六〇年~四〇年というレベルであり、現在は時間に余裕のありすぎる方ばかりだ。談議のお題が「昔のわが町」または「わが町の昔と今」がベースになるのもやむを得ない。

 

二日に一度のペースのウオーキングを開始して、すぐに気付いたことがある。私は「わが町」のうわっ面(つら)だけしか見ていなかったと思い知った。

 

普段は車で大きな通りを走り、商業施設が集まっているところを歩き、JRや地下鉄駅への行き来、区役所や郵便局周辺に出向く等々、要するに、よそ行きの表情をしているところばかりを動いていたことを知った。

 

国道、道々、主要道路から脇道に入ると、すぐに雰囲気が変わる。

 

赤ん坊の泣き声が遠くからクリアに聞こえてくる。クリアなのが、却って、辺りの静けさを際立たせる。「平和だなー」と嬉しい気分になる。

 

小路をウオーキングしていると、初対面でも会話が生まれることが、よくある。

 

老夫婦がイボタの生垣を剪定している所に出会った。つい「ご苦労さま。手入れがいき届いていますね」と声をかける。「いや、これ、親父たちが残していったものなんですよ。もてあましています」と応える。私の家の庭にあったトドマツも両親が残したものだったが、大きくなりすぎて、そのうち手に負えなくなると五年前に切ってしまった。共通の経験がもとで会話が成立。しゃべりながら、「このイボタ、先代が植えたものだとしたら半世紀は経っている。イボタの寿命は?」なんて考えたりしている。

 

小路のウオーキングでは珍しい体験もする。小路が北側にある建物は道路側に玄関を向けるし、小路が南側にある建物は窓の側を道路側に向け、かつ、あいだに庭などの空間をとっているのが普通だ。

 

ところが四階、五階建ての集合住宅だと道路が南側でも、ほとんど空間が取れない場合もある。それで道路との高低差がほとんどないとしたら、一階の住人は住みづらいだろうなと思う。だから、密度の濃い樹木を目隠しに植えたりしている。すると日当たりが悪いだろうなと気になる。そんな心境で歩いていると、その目隠しの樹木を取り払い、鉄柵だけ残した集合住宅の一角に出た。

 

私は、建物の方を見ないように気遣ったが、複数の幼児のはしゃぐ声がして、当然、視線はそちらに向いてしまった。

 

そこは窓でなくベランダだった。二軒分のベランダが開け放たれ、見える範囲で七、八人の幼児が動き回っている。二つのベランダを渡って往来もまったく自由らしい。大人も四人くらい見える。

 

要するに保育園の風景だ。幼児を抱っこしている保母さん風の女性と目が合った。その女性が私に向かって「こんにはー」と明るく声をかけてきた。私も「こんにちは」。すると幼児たちが一斉にこちらを向いた。

 

後で、ここは近くにある総合病院の専用保育所だと分った。

 

ウオーキングのテーマ探しの途中だが、「わが町」の素顔や人情に触れるのも悪くない。

 

 

 

「知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。」 とかくこの世はおもしろい。 

 

 

 

 

 

 

 

 

235

 

連続エッセイ 床屋談議 十五

 

                豊村一矢

 

 

 

 今回の連続エッセイ「床屋談議十五」は、十四の続きを書くつもりだった。というのは、その時の談議がきっかけで、私もウオーキングらしきものを始めたからだ。

 

もともと、健康のために一つ手前の地下鉄駅で下車して歩くとか、エレベータやエスカレータがあっても階段を上るとか、そういうのは私の性に合わない。でも、前回の床屋談議で書いたように「何か他のテーマを持ってウオーキングをする」という話に心が動いた。

 

私は現在の地に十六歳の時から住んで六〇年になる。「わが街の移り変りを確かめ、懐かしみ、思いを馳せる」というテーマは、何やら「終活」めいてはいるが、そのためにと始めたウオーキングは、一応、途切れないでいる。だから床屋談議のお題は当分不自由しない。それで床屋談議十四の続きを今回書くつもりでいた。

 

ところが数日前、二ヶ月ぶりに理容室に行って気が変わった。床屋談議は現在を反映しているものがいいと、急遽、お題を変更する次第

 

 

 

 私と店主、初老の客と先代店主、くつろぎスペースの談義子。以上五名での床屋談議である。私の他の四人は、A、B、C、Dにして会話文だけで再現してみる。

 

A「こないだテレビで、近頃の運動会が午前で終わるんでスーパーの売上げが減るってやってたけど、ホントかい? 豊村さん」

 

私「スーパーのことを私に訊いてどうする。午前で終了の運動会は増えているみたいだけどね」

 

B「逆にレストランとか、出前専門店とか予約をとるのが大変みたいだよ」

 

C「お客さんが運動会やる日が一週違う学校の地域のファミレスに電話して、やっと予約取ったって、言ってたよ」

 

私「わからん。何でファミレスに押しかけたりするの? 予約の先陣争いまでやってさ……。普通にウチでお昼を食べて、ダメなの?」

 

A「えー。元学校の先生がそんなこと、言う?」

 

私「私は十六年前に退職した後期高齢者です。子供もとっくに独立して、今は、小学校と縁がありません。孫の保育園の話は聞きますが、遠方に住んでいるんでね」

 

D「いやいや。みんながレストランとか出前を利用するってことじゃあないんですよ」

 

A「そうなの?」

 

D「決まってるじゃないですか? S小学校の校区にファミレスやレストラン、何軒あると思います? ゼロです。出前専門店もゼロです。ラーメン店なんかの小さな食堂も知れてるでしょう。それにファミレスなんかは満席になるまでの予約はとらないそうだよ。フリー客にも席は空けておきたいしドタキャン対策もあるみたい。予約には雨降り延期のリスクもあるし。そんなだから範囲を校区の二周り三周り拡げたって収容能力は知れてるんですよ」

 

A「言われてみりゃあ、納得」

 

B「そうすると、ほとんどウチで昼飯ってことだ。あるいは、コンビニで調達……。コンビニは多めに準備してるのかな……」

 

私「だけどね、やっぱりね。午前終了の運動会でスーパーの売り上げが減るというのがわからない。Aさん、テレビではスーパーの人が言っていたの?」

 

A「あいまいな記憶だけど、店長へのインタビューで、減る理由は言っていなかったと思う」

 

C「店内に『応援! ○○小学校運動会』なんて張り紙、出していたよ。三、四校分あった。あのさ。運動会に昼の休みの時間があって家庭ごとに敷物に座ってお昼を食べるでしょ。それをお花見気分でちょっと豪勢にやる。サクランボとかメロンとか高価な果物もつけて、お父さんはビールなんか抜いちゃってさ。ジュースやアイスを売る出店が会場の周りに出て、他の目もあるから見栄も張る。つまり『運動会ご祝儀』みたいな売り上げ、ということかな」

 

私「なるほど、そんなところですかね。説得力があります」

 

D「豊村さん、半日の運動会が増えているのは、なんでも『合理的に』という時代の流れなんですかねえ」

 

私「いやあ、今の学校の事情は私が現職のころとずいぶん違っていますからね。責任あることは言えません。でも今の学校は否応なしに、いい意味での合理化を避けられんでしょう」

 

A「そういえば先生の働き過ぎのテレビドラマやってるね。観てます?」

 

私「私は時々。録画しておくほど熱心ではない。合理化のことだけど、学校では運動会は合理化、スリム化の対象になりやすんですよ。算数なら子供にどんな力をつけるのか、はっきり説明できます。運動会の方は、子供にどんな力をつけるかの、どの説明も曖昧でこじつけっぽい。半日運動会は、まず父母参加競技を除いたり、競技数を縮小しなければ実現できません」

 

A「教師の働き過ぎの解消ですか?」

 

私「いや。運動会ってね、運動会当日は授業としては五時間扱い、半日で四時間扱いです。でも、運動会って前日までの練習に膨大な時数を消費している。そこで、例えば、数を扱う競技だから、この練習時間は算数の授業にカウントするといった苦しいやり繰りをしてきた。望ましい姿である筈がない。だから、半日運動会はその学校の教育改善の努力の結果という面もあると思うんですよ。身内贔屓だろうか」

 

D「いやあ、豊村さん、今、学校の先生になりきっていましたよ。キリッとしている!」

 

私「え、そうですか。ちょっとムキになったかな。お恥ずかしい」

 

 

 

ここで、このエッセイを(つづく)にするか、(終わり)するか決めかねている。

 

 

 

 

 234

 

 

連続エッセイ 床屋談議 十四

 

                豊村一矢

 

 

 

 私の行く理容室の床屋談議は(以前にこのエッセイで書いた気もするが)感情的、または深刻な議論にならないように、そして、特定の個人、店、団体、などを批判する話は控えるように、暗黙の調整機能が働いている。私も、その調整機能のもとで床屋談議を楽しんでいるわけだ。

 

 それでも気ままな床屋談議だから、たまには、調整機能が不具合を起こすこともある。

 

 

 

A「毎朝、ウオーキングやってるんだけどさ、歩いているだけでは詰まらないから、テーマを決めて町内を観察しながら歩くことにしたんだよ」

 

先代店主「そりゃ、偉い」

 

私「へー、例えば『町の歴史』とか?」

 

 Aさんは、私とほぼ同年齢とお見受けするが、わが町の住人になったのは昭和五十年代の半ばと記憶している。町の住人として、先代店主や私は、Aさんの大先輩になる。

 

A「『町の歴史』? 当たらずとも遠からず、かな? でも歴史やるなら歩きながら観察って訳にはいかないでしょ? だからね、この町には何科の開業医が多いか、とかね。歩きながらできることをね」

 

私「なるほど。で、『何科の開業医が多いか』というの、どうだった?」

 

A「何科だと思う?」

 

私「う~ん。やっぱり内科じゃないかな」

 

先代店主「いやー、小児科でないですか」

 

A「外れだね。歯科ですよ。二位、三位を大きく引き離しています」

 

私・先代店主「あー、そうかもねえ」

 

このへんまでは、床屋談議の暗黙の調整機能が働いていた。

 

 

 

 Aさんが、なぜ、わが町に歯科の開業医が多いか、蘊蓄を披露し始めた。

 

 まず、町の開業医といっても大小様々で、歯科は自宅と一緒の治療施設で小規模家族経営が可能、駐車場はあったに超したことはないが無くてもOK。そして、この地域は高層から二階建まで大小様々な共同住宅が住宅敷地面積の大半を占めている。つまり面積の割に人口が極端に多いので、入院施設も駐車場もない小規模の病院が多くなったと説いた。

 

 次のAさんの講釈で家族経営による小規模開業医の世襲問題に移つり、問題発言が飛び出す。

 

 

 

A「ぼくがここに来た頃にかかったM内科とS内科さ、家族でやってたよね。跡継ぎがいなかったのかね。Mの家は、今、誰か住んでるみたいだけど、自慢の庭は雑草覆われているし、Sの所はスープカレー屋ができて賑わっているよ」

 

私「そこ、私も世話になったな。Mはさ、内科なのに、頼めば、筋肉痛緩和剤(俗に「サロンパス」の類)を保険利かせて大量に出してくれた。Sは、『仕事、休めないんです』と言うと、解熱の注射と体力回復の点滴をしてくれるんだ。町医者ならでは、だったね」

 

A「あのころの内科とか外科の開業医はほとんど無くなっているけど、歯科医はさ、意外と子どもを歯医者にして後を継がせるところが多いんだ。それに新規の歯科が入るから、ここら辺り、歯医者だらけになるわけさ」

 

私「あー、それ、七丁目のG歯科もだよね。前、N歯科って言っていたでしょ? 娘さんが歯科技師で歯科医の男性と結婚して歯科病院を継いだってことらしいよ」

 

A「それそれ。事実上の婿取りね。その婿、医師免許取ったの三十歳過ぎてからって話だよ。出来悪いんでないの。私立の大学じゃないの? いっぱい親に金出して貰って免許取れるまで面倒みてもらうってやつさ。N先生が学費だしたかは知らないけどさ。どうせ出すなら、娘さんに出して医者にすればよかったのにね。あ、やっぱり女はだめか……」

 

  

 

これが問題発言である。

 

大学間の偏見と差別意識がある。病院間の偏見と差別意識がある。男女間の偏見と差別意識がある。婚姻ついても封建思想の不快な臭いがする。私は看過すべきか否か。

 

この問題発言にいて、「あまり人の噂話などを真に受けない方がいい」とAさんを諭し、まず、G歯科(旧N歯科)と私の今までの係わりついて話した。

 

 私も含め、家族がG歯科に患者として世話になったのは、娘(十歳の時)の前歯の矯正、二年前の私の奥歯の治療の二回だけである。

 

 私は二六歳の時、八丁目にあるK小学校に転勤になった。その小学校の歯科関係の学校医が若い爽やかな印象のN先生であった。娘が十歳になった時、もうK小学校から異動していたが、歯の矯正を相談するのにG歯科を選んだ。N先生は「自分は矯正をやらないが他の歯科を紹介することはできる」と言った。私は、矯正を始めると長期間通院することになるので遠いところは避けたいと話した。すると矯正歯科の先生に来てもらって当院で治療することもできる、と言ってくれた。それで、私は娘に付き添って、四・五回、G歯科に行く機会を得たのである。

 

 二年前にG歯科に行くと、勿論、若いG先生に替わっていた。私は、その前、高名な総合病院で左下奥歯の診察を受けていた。設備の整った病院で診察は一人一人、個室のように仕切られた治療室で行われる。研修医かと思われる若い医師が担当で、全部の歯を立体画像にしたような写真を見せ、左下の全奥歯を入れ歯にするのが最善、と言った。「健康な自前に歯」が自慢の私は「入れ歯」という言葉に衝撃を受け、答えを保留してG歯科を訪ねたのだった。G歯科では旧式の設備しかなく患部だけの写真を撮ったのだったけれど、説明の後、虫歯を治療して被せる治療をしたいと事もなげに言われた。私は、そこで前の病院のことを話した。G先生は、「えー」と驚いて、セカンドオピニオンを申し出れば良かったのに、と言った。前の病院で取った立派な写真は私のものだから持たせて貰える、G歯科で写真を取る必要はなく、今日のお会計が違っていたと言うのである。しかも「入れ歯にするのも、もう虫歯にならなくて済むので、間違った診断ではない」と相手医師への心遣いを忘れず、「患者さんの希望にもよりますが、私は自分の歯をできるだけ温存することを考えています」と言った。

 

 

 

こんな話をA氏に聞かせながら談議は進行したのだが、結局は、床屋談議の暗黙の調整機能から逸脱することはなかったのである。

 

 

 

 

 

 233

  文体」のこと

 

   馬場さんの問題提起に応えて

 

                豊村一矢

 

 

 

馬場さんが「通信」前号(232号)の「文体ということ」で、「みなさんは、どうお考えですか? ご教示をお願いします」と書いている。  

 

教示は無理だが、支部員からの問題提起には、何か応えなければと思った。

 

とはいえ、私は、「文体」の概念の理解もあやふやで、「文体論」については、さらに蒙昧である。だから、書店で立ち読みした程度の知識と児童文学同人時代と民主文学会に加入して学んだ経験知をもとに、自分流で、雑多に語る他はない。

 

 

 

 四〇歳代半ばで児童文学の同人に加入してほぼ二〇年経て、六〇歳代半ばからは民主文学会のお世話になっている。その間、数多くの創作教室や作品研究会、作品合評会に参加してきた。集まりには、講師や実績を積んだ指導的な立場の方がいて、数々の助言をいただいた。その中から文体に関わる助言を二つ紹介する。

 

 

 

  1. 文学作品において「?」、「!」、「……」など、記号を使うな。

  2. 文章はシンプルなほど良い。複文、特に重複文は使うな。重文も慎重に。倒置法、体言止め、省略法をむやみに使うな。

    心情描写、情景描写において、「心情」や「情景」そのものを書かずに、他の事象・人・物を書いて仮託する方法は稚拙である。

 

 

 

「①」の『「? ! …… 」などの記号を使うな』の話には驚いた。自分も当たり前に使っていたし、使用頻度の大小はあっても普通に使われていると思っていたからだ。助言してくれた方は、勿論、自作品で使っていない。

 

私は、初め、表現法を規制する助言だと、内心反発した。しかし、いろいろ考えるうちに、深い文体観を含んでいると思うようになった。「驚き」の描写であれ、「疑問・戸惑い」の描写であれ、日本語の文字・言葉で紡ぐべきだ、という文体観と理解できた。

 

文体と言えば、すぐ「文語」「口語」が浮かぶ。それぞれ複数の意味がある。文語を文字言語、口語を音声言語とした場合、不正確を恐れず言えば、これを突き詰めると文学の成り立ちにまで溯り、文学の源流が「話し言葉(口語)」であり、そのDNAは、延々と繋がり、現在の文学にも息づいているというのが助言の文体観にあるのではないか。

 

また、文語を平安時代に定着した言語体系、口語を現代語とした場合、文語体は支配階級・上流階級の文体だし、口語体は庶民が使い継承してきた文体だ。明治に入り日本は欧米に並ぶ近代国家作りが急務となり、「標準語」を策定し実効あらしめるのが国策となった。東北・北海道の口語(方言)は九州で全く通じない状況では近代国家ではない。明治初頭では、国語・標準語という言葉すら存在していない。その後「通語」が一時、便宜的に使われたらしい。

 

標準語策定は主として学校教育、主に教科書の標準語化を軸に進められたが順調には進まず、定着したのは明治末だったと聞く。文学においても、明治初期の「言文一致論」などに始まり口語体への試みがなされるのだが、標準語の普及と同様に簡単ではなかったようだ。外国語に精通していた森鴎外でも、翻訳を口語体で書いたが、その後、文語体に戻すなど一筋縄ではいかなかったのである。小説など散文形式の文学が口語体として定着したのは、やはり明治末期だと承知してる。

 

私は、「①」の助言を貴重なものと思っている。初めに「表現法を規制するもの」と反発したのは、私の文体への安易な姿勢が生んだ曲解だった。

 

最近は「?」「!」「……」などは熟考して使っている。

 

 

 

「②」の「文章はシンプルなのが良い」という主旨の助言は、作品研究の場で一番多かったと思う。私も、何をどう書くかを考えていると、だんだん煮詰まってきて「独り善がり」になり、捏ねくり回した文章になってしまうことがある。結果、複文や重複文になる。さらに、「気負い」・「気取り」・「衒い」が無意識に侵入する。私は読者ファーストで書くことを心掛けているつもりだが、いつの間にか書き手ファーストになっている。結果、良くも悪くも、書き手個人の固有の文体(癖)が染みついてしまったりする。

 

 しかし、「シンプルな文章」が基本だとしても基本でないところにも心血を注ぐのが文学でないだろうか。言葉に限界がある以上、避けられないことだと思う。

 

 表現の対象は量だけでなく質も無限だ。量の

 

方は抽出するから難しくないが、質の方は言葉の限界とのたたかいだ。早い話が、色彩の「あか」といっても無限大の「あか」がある。「かなしい」といっても無限大の「かなしい」がある。それを表現する言葉には限界がある。「赤」「朱」「紅」「緋」とか「悲しい」「哀しい」などと工夫しても、圧倒的に限界がある。私が文体に熱中するのは、自分の語彙不足も含め言葉の限界に苛立っているときだ。

 

 言葉の選択から始まり、言葉の組み合わせ、文章の作り、現在形・過去形、常体・敬体、文章と文章の連携などなど納得のいく文体を求めて苦心する。そのなかで、「あれこれ思い悩む心情」を敢えて回りくどい複文を選択することで強調しようとしたり、リズム感を出したいところでは散文形式の中に韻文的な文を持ち込んだりもするし、重文を使って韻文が得意とする畳句の技法の効果を出そうとしたりもする。

 

 私にとって、作品に適した文体の獲得は、作品の主題と同程度に創作の死活問題だ。作品によって読者と繋がろうというのだから。

 

 

 

今回の馬場さんの問題提起は、『多喜二を繋ぐ』(「民主文学」3月号)に関わってことだった。『多喜二を繋ぐ』に触れない訳にはいかないだろう。

 

馬場さんは前号の通信で「意外と思われるかも知れないが、この文章(「多喜二を繋ぐ」)には多くの時間と体力を要した」と書いている。  

 

私は「多くの時間と体力を要して」いると思いながら通読した。それは文章の各所に現れているし、意外だとはまったく思わなかった。

 

二か所、選んで書いてみたい。

 

一か所目。祖父が「東倶知安行」の題材になった、第一回普通選挙で馬橇を駆った東倶知安に向かった一行に祖父もいたという言い伝えの所。苦心の跡がありありだ。当然だ。『多喜二を繋ぐ』はフィクションではない。東倶知安行に祖父も同行したとなれば山本懸蔵研究に一石投じる情報となる。先には筆者が祖父と共に多喜二を繋ぐ心境に至るという結論が待っている。「……言い伝えがあった。」「猛吹雪の樺太で馬橇を駆った話をぼくは聞いた。」

 

ここの書き方は評価の分かれるところかもしれないが、多くの時間と体力を要した文体は成功していると思う。

 

 二か所目。祖父が文字を読めないと装い続けた所だ。私は、ここでの文体は成功していると思えない。「三・一五事件」のころは弾圧を避けるためと理解できるが、戦後とくに日本共産党第八回大会」のころとなれば共産党は公然と元気に活動しており、アイヌの共産党員も当然いた。識字力なしを装う必要は全くない。戦後も識字力なしを装った理由を「アイヌ語に文字がないこと関係していると思えるのだが」としている。それなら「三・一五事件」時も同じ理由にした方が矛盾しない。他の所で「キョーサントーと呼ばれることに誇りを持ち続けた生涯」とあり、私の中で祖父像が完成しないのである。

 

 

 

 私は、今回、「自分の文体の獲得」は、作品の死活問題だと再認識できたことが嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 連続エッセイ 床屋談議 十三

 

                豊村一矢

 

 

 

 3月と4月の床屋談議は、卒業・入学・進学、転勤の話題が多い。

 

 今回も卒業・入学に係わる話だ。お題は「兄妹喧嘩」としておくが、直近の床屋談議で出たものではない。一昨年の三月の談議だったと思う。一回の理容院行きで床屋談議が一つの話題に集中というのはまずない。ゼロの場合もあれば、五つ六つと多岐にわたる場合もある。連続エッセイのお題は、書くときの季節に合わせて過去の材料から見繕っている。

 

 

 

「兄妹喧嘩」の話をしたのは、理容が済んだあと気分によって暇つぶしをしていくタイプのSさんだ。理容室で一緒になったのは後にも先にもその時だけ。私がいっとき町内会の仕事を手伝っていたころに顔見知りになっていた。  Sさん夫婦は息子家族と二世代住宅に住んでいる。

 

 

 

S「うちの孫たち、昨日、大喧嘩したんだ」

 

店主「お孫さん、いくつになったっけ? 上がお兄ちゃんで、下が妹さんだよね」

 

S「上が中1、下が小6。4月から中学校なんだけどね」 

 

店主「え? 年子だった?」

 

S「年でいうと二十三ヶ月離れているから二つ違いなんだけど、年度でいうと一つ違い。兄は4月生まれ、妹は3月生まれなんだ」

 

店主「えー珍しい。で、なんで喧嘩になったの?」

 

S「6年生が卒業式前に、校区の中学校を訪問する日があってね。それが今日なんだけど…」

 

店主「妹さんたちがお兄ちゃんたちの勉強ぶりを見にいくわけだね」

 

S「そうそう。中学校では1年生の教室や授業を開放して、6年生に自由に見学させるらしい。そうですよね、豊村さん」

 

私「いやー、僕が現職のころにはなかった取り組みだねえ。よくわからないな―。小学校のねらいは、中学校への不安をなくし期待を持たせるとか……、中学校側は、上学年になる意識を高めるとかなんとか……。で、それがなんで兄妹喧嘩になるわけ?」

 

 Sさんが語った兄妹喧嘩の顛末は次の通り。

 

 

 

仮に、中一に兄をKくん、小6の妹をEちゃんとしよう。昨日の三世代一家団欒で小6の中学校訪問が話題になった。その場で、KくんがEちゃんに、唐突に、Eちゃんにケンカを売る格好になった。

 

「明日、オレに手を振ったり、話しかけたりすんなよ」

 

「え? そんな恥ずかしいことするはずないしョ。あり得ない。え? もしかしたら、手、振って欲しいの?」

 

 Eちゃんも売られたケンカは買う方らしい。

 

「お前には、マエがあるからな」

 

「マエってなによ」

 

「前科だよ、前科。あのとき…」

 

「あ! あのこと。しつこいねえ。それにお兄ちゃんこそ前科でしょ! 冷たかったよー、あんとき、お兄ちゃんは」

 

 二人が「前科」というのは、Sさんによれば、Kくんが小2に進級、Eちゃんが小学校に入学したばかりの四月初旬の出来事……。

 

入学式翌日、つまりEちゃん入学二日目。

 

「学習用具の出し方しまい方」のお勉強中に心細さが頂点に達したEちゃんは、突如、教室を飛び出し、一目散にKくんの教室に走った。そして勉強中のKくんにぴったりくっついて離れなない。途方にくれるKくん。

 

Eちゃんの担任が教室までEちゃんを追ってきてKくんの担任とアイコンタクト……。暗黙の打ち合わせが済んでEちゃんの担任は自分の教室に戻りる。Kくんの担任は予備の児童用椅子を一脚、Kくんの横に並べてEちゃんを座らせた。二人は、しばらく、一緒に座っていたという。

 

この話、S家では伝説となっている。ただ、大人には微笑ましい伝説でも、KくんとEちゃんはあまり思い出したくないらしい。

 

 

 

「お孫さんもお年頃になったということですねえ。春ですねえ」

 

とか、そのあとも床屋談議はしばらく続いた。

 

シメは店主の「じーじーの孫自慢、聞かせていただきました」だった。

 

床屋談議は、孫の話になると、いつも和やかになる。

 

 

 

 

 

  232 

 連続エッセイ 床屋談議12

 

                豊村一矢

 

 

 

 この連続エッセイも十二回目になった。一年続いたことになる。有り難いことに、時々だが読んだ人が感想を聞かせてくれる。その感想の中には誤解もあった。私の曖昧な書き方の所為だと反省しているものの、この際、少しばかり修正というか実際のところを書かせていただきたい。

 

 主な誤解は二つある。一つは私がマメに床屋通いをしているという誤解、もう一つは私も床屋談議子、それも常連の床屋談議子だという誤解だ。

 

 

 

妻「そろそろ、髪をなんとかした方がいいと思いますけど」

 

私「ん? そんなに酷いかな?」

 

妻「気になりません?」

 

私「自分の頭は自分には見えないからね」

 

前回の散髪から五十日ほど経った頃に、よくこのような会話が交わされる。妻の言葉に丁寧な言い回しが混じり出すと黄信号である。

 

長年、「身嗜みは他者へのリスペクト」という直接・間接の教育を妻から受けきて、月一回ペースの床屋通いを目標にしてきた。自慢でも自己反省でもないが、今まで一度もこの目標通りにいったことがない。そもそも、日常、この目標を忘れている。前述の会話などがあったりして、二ヶ月に一度くらいといのが大体のtころである。

 

 

 

 私の「床屋談議子」の定義は、調髪のために理容室に来ているのではなく談議のために来ている人、または一回でも談議のためだけに来たことがある人、だ。

 

 だから私は床屋談議子ではない。確かに私は床屋談議が好きだし、お題によっては熱中もする。理容室に行って床屋談議子がいないとちょっと損をした気分になったりもする。時間に余裕のあるときは常連の床屋談議子さんが来ていそうな時間を選んで行ったりすることも認めよう。だけど私は床屋談議子ではない。

 

 談議子の誕生は、一〇年くらい前、店のリホームで、テーブル付きのソファがセットされ、雑誌・新聞も各種そろって充実し、テレビも置いて「くつろぎのスペース」ができてからだ。バーバーチェアは三台で家族三人だけが理容師の小規模店としては、なかなかの経営戦略だったのではないか。若者の床屋離れという時代の変化を見通していた。床屋談議子が現れ始めて此の方、私の知っている限りで二人は他界している。やはり高齢者が多いのである。 

 

常連の床屋談議子となると、自ずと心くばりが必要となる。

 

「くつろぎスペース」では、サービスで日本茶、番茶、コーヒーが出る。テーブルの上の洒落た竹細工の小籠には一口サイズの菓子が入っている。

 

 常連さんはテーブルのものを戴いてばかりというのは気が引けるので菓子を持参する人が現れた。そのうち二、三人の常連さんが後につづく。今では、テーブルの上のお菓子は常連さんたちの持ち込みが転じた差し入れで賄われているらしい。

 

 先日の床屋談議で一人の常連が菓子を買うときの注意点を講釈した。「菓子は一口サイズ。剥き出しの菓子はダメ、一つ一つ透明のプラスチックで包装しているもの」とか……。なるほどこれなら、下品ならず、さり気なく、衛生面も気にせずにくつろげるというものだ。私は「なるどオ…」と深く感心した。

 

 当然だが、たまに新顔の客が来るときがある。店主がはじめに客の調髪の好みなどを丁寧に聞くので新人だとわかる。今までの和気藹々の談議を中断し、よそ行きの言葉で時候の話なんかに切り替える。そしてソファの常連さんは、大抵、十分ほどで朗らかに帰って行く。

 

 バーバーチェアの私はいえば、「新しい区役所の建築工事、いつ完成でしたっけ」とか、理容師と地味な話を続ける。これには「お仲間同士で賑やかに床屋談議に熱中していたら、新人客が疎外感を抱ことは間違いない。しいては営業妨害になりかねない……」という配慮が働いている。

 

 このように床屋談議のマナーを先導するのも常連の役目なのだ。

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

 231

 

   連続エッセイ 床屋談議11

 

               豊村一矢

 

 

 

 理容室に行って先客がいないことも時々ある。

 

 すると店主と私の床屋談議になる。常連の床屋談議子がいないからといって談議をしないわけにはいかない。頭と顔をいじって貰いながら、終始、会話がないのは何か気まずそうで想像がつかない。だから、床屋談議を促すのは理容師の仕事、技術の領域らしい。

 

 私は、高校1年修了まで坊主頭だった。父がバリカンで刈ってくれた。父の方針が厳格だからではなく、遺伝で十代後半くらいまで後頭部に白髪が交じりのゴマ塩頭になるので目立たなくするためだった。高1修了で坊主頭終了を父に申し出た。以来、ほぼ六十年、私は今の理容室で頭をやっている。我ながら、意味も無く、たいしたものだと思う。

 

 さて、この時の二人の床屋談議もまとまりのある話ではなかったが、しいてテーマをしぼれば「個人情報」ということになるだろうか。

 

 そのあたりを台本の「台詞」みたいに書いてみる。

 

 

 

店主「豊村さん、今の学校、保護者電話連絡網っていうの、作ってないんですかね」

 

私 「いやー退職して長いから、詳しくはわからないけど、昔みたいに、学級の保護者全員を繋ぐ印刷したものは作ってないんじゃないかな。個人情報保護がうるさいからね。何かあった?」

 

店主「孫の小学校のことなんだけどね。4月のはじめに、名刺みたいカードが一枚配られて次の連絡先の名前と電話番号と学校の電話番号が書いてあるんだって」

 

私 「それ、聞いたことあるなー。個人の電話番号をオープンにするのを最小限にするということだね。でも、どこの小学校も同じってことはないと思うよ。決まりがあるわけじゃないから」

 

店主「そんなんで、連絡を徹底できるんですかね。留守で切れたとか、カードをなくしちゃったとか」

 

私 「まあ、いろいろ工夫しているとは思うけどね。連絡線を5本くらい用意して最初の発信者から最後に受ける人まで五・六人。最後の人が学校に連絡完了を報告する仕組みにするとかね」

 

店主「なるほど。だけどこの電話連絡方法、なるべく使わないようにしているみたいなんだよね」

 

私 「どういうこと?」

 

店主「例えばね。明日が運動会で天気予報が少しあやしいようなとき、さっさと前日に中止の判断をしてプリントを子供に持たせるんですよ。電話連絡がされる可能性を消すわけ。実際は晴れーだったりして。笑えるしょ」

 

私 「うーん。ありそうな話だね」

 

店主「そこまで個人情報って隠す責任あるの?」

 

私 「昔の学校は個人情報保護なんて無いようなもんだったからね。学級名簿は全家庭、学校職員に配られてましたからね。氏名、住所、電話番号はもちろん、保護者の職業、保護者名は父と母の欄があったりしてね。中には保護者名や職業名欄は空白にする強者もいたけれど、失業中? 母子家庭? なんて思われないか、気にしてたな。母子家庭の保護者が父親欄に祖父の名を入れ例もありますよ」

 

店主「そんな無神経なのは拙いけどさ、気軽に学級保護者が連絡し合って、相談したり、しゃべくりあったり、いいことでないの?」

 

私 「それはそうですね。だけど今の学校にはそういう雰囲気作りに手をさし延べる度量はありそうにないなー。他人事のように言える立場でないけど。一応教師上がりだから」

 

店主「ところがですね。保護者のママ友会みたのができて自分達の電話連絡網を作ってワイワイやってるようですよ」

 

私 「それはいい!」

 

店主「そうですか。ウチの娘もメンバーの一人です」

 

 うれしそうな店主と鏡で目を合わせた。

 

 

 

 

 230 

 連続エッセイ 床屋談義10

 

               豊村一矢

 

 床屋談義は、勝手気ままにしゃべっていても、結局、社会問題に踏み込むことが多い。だが、社会問題に進んでも政治には深入りしない。床屋談義は客商売の仕事場でやるのだから、旗幟を鮮明にした政治談義は店に迷惑をかけることになりかねない。談義子たちの暗黙の気遣いが機能するのだ。

 

 だが今回の床屋談義は例外だった。ひょんなことから、北朝鮮のミサイル発射時の「Jアラート」と、「前原誠司」・「小池百合子」がキーワードの総選挙の話題になっていった。

 

 Jアラート。八月二九日早朝(確か、九月二五日も)、突然スマホがけたたましく大音量で鳴り出してびっくり仰天、つぎに「北朝鮮がミサイルを発射した。日本上空を通過、落下の可能性があるから、直ちに安全なところに避難せよ」というようなことをがなり立てた。「キョトン」と「オロオロ」の混ざったような気分でいたが、三〇秒くらい鳴っていただろか、スマホがおとなしくなった。耳を澄まして外の様子をうかがった。ご近所のだれも騒ぎ出す気配はない。いつもの団地の静けさだ。そんなわけで、みんな似たような思いをしたらしく、床屋談義の議題になって盛り上がったという次第。

 

「人の携帯を勝手に鳴らしやがって…」「避難せたって、どこへ?」「五分で到達するんだろ。間に合うはずないでしょ。馬鹿みたい」

 

 といった具合で、こき下ろしの連続だった。

 

「何かバックに糸を引く大きな勢力があってわれわれ大衆が煽られているような気がして気味が悪いよ」という談義子がいて、みんな「うーん」と唸った。たぶん、共感の唸りだったと思う。

 

 その談義子が「アベシュショウが困っちゃって、目先を変えるために、ナラズモノ北朝鮮の恐怖を煽ったのでないかと言う人もいるけど、当たらずとも遠からずダヨネ?」と、床屋談義では、本当に珍しく、政権批判を口にした。さらに店主が、私の整髪の仕上げにとりかかったところで、「それ、『当たらずとも』じゃなく、『当たり』しょ。モリトモとカケで潰れそうだったからね」というようなことまで言った。

 

 この床屋談義が、八月末、九月末のJアラート、総選挙直後の一〇月末の事だったからだったからもしれない。話は一気に総選挙ことに進んだ。前原誠司、小池百合子が自民党勝利の最大の功労者だという点で三人の意見は一致した。

 

 そして、私も、「前原という男は、端(はな)から革新勢力の分断を使命にして政治家をやっているんだと思うよ。本性がむき出しになったね」と踏み込んだ。

 

 私の整髪が完了したところで床屋談義もお開きになったが、心なしか、互いにもっと続けたいという思いがあったような気もした。そこはやはり、理容の仕事場をお喋りだけの場にしてしまうのは拙いのではないかという分別が働いたようだ。

 

私は、思っていた以上に、世間で政治や政権に対する不信や不満が充満していると思った。そのことはまた、総選挙の結果にちょっと意気消沈ぎみだった私を多少なりとも勇気づけくれた。

 

 

 

229 

  連続エッセイ 床屋談議⑨

 

     女(男)心と秋の空

 

               豊村 一矢

 

 

 

 床屋談議は、「いやー暑いね」とか「よく降るねえ」とか、その時その頃の天候の話から始まることが多い。「さあー、これから床屋談議を始めよう」という呼びかけのようなものだ。

 

 

 

初冬、理容室は、私と店主、ご婦人客と先代店主の奥さん、お茶を飲みにやって来た床屋談議の常連Aさんの五人だった。理容でも、たまに、女性の客を見掛けることがある。剃刀を当てて貰うためらしく、よく先代の奥さんが指名されている。

 

その時の床屋談議も時候の話から始まった。

 

 Aさんが、今年の秋の天候が例年と違っていたことの感想をまとめて、恨みがましく言った。

 

A「まったく、『女心と秋の空』でしたね」

 

 それに婦人客が即座に反応した。

 

婦人客「あら、それを言うなら『男心に秋の空』でありませんか?」

 

と語尾をしゃくり上げる。

 

A「副部長、女心ではマズイですかね」

 

 婦人客とAさんとは町内会の役員同士らしい。町内会の人間関係は複雑だと聞いている。

 

婦人客「マズイじゃなくて、間違いでしょ。『女心に秋の空』なんてことわざ、ないです。『男 心と秋の空』、です」

 

A「え! ないの。どうなの、豊村さん?」

 

 Aさんがいきなり私に振ってくる。鏡でAさんと目が合ってしまった。私は狼狽した。私はことわざの専門家ではないし、正確なことは分からないし、それに、私の態度によっては、ご近所に敵ができてしまうかもしれない。

 

私「いやー、どうなんでしょうね。『男心と秋の空』も『女心と秋の空』も両方、よく聞くよ 

 

うな気がしますけど」

 

これが授業での質問に対する回答だとしたら解答になっていない。

 

私「確か、元々は『男心と秋の空』と何かに書いてあった気がします。小説か何かにこの言葉があって、流行語か何かになって、それがことわざになったとか……」

 

「気がする」と「何か」を多用する曖昧な話なのに、このことわざに出典があるらしいと言ったせいか、床屋談議に、ちょっと堅苦しい空気が漂った。

 

私「ことわざって、時代と一緒に意味とか使い方も変わるようですよ。『女心と秋の空』も普通に使われていると思いますけど」

 

 私は場を解(ほぐ)すつもりで言った。

 

A「『男心』と『女心』と両方、流通しているってことだね。なら、一層、『人の心と秋の空』でどうだろう」

 

婦人客「そんなの、流通しませんよ」

 

A「そうかな。一〇〇年後、なっていたりして」

 

婦人客「なりません! このことわざは『秋の空』は移ろいやすい、変わりやすい、というとこは決まっているんです。それと同じなのは、男の心か、女の心かって問題で、心が移ろいやすい・変わりやすい、のは男か女か、という問題なの。これを『人』にてしまったら、ことわざから、ロマンがなくなるじゃないですか」

 

A「なるほど、男が『女心と……』とやり、女が『男心と……』とやるとドラマを感じるっていうことか」

 

私「確かに、男が『男心と』とすると意味合いが違ってきますね、女でもだけど」

 

婦人客「そうですよね。陰気臭くなる」

 

A「ということは、俺がさっき『女心と……』とやったのは正解でないか。別に副部長に向かって言ったわけでないけどさ」

 

婦人客「なに、今度はセクハラ?」

 

けっこうレベルの高げな床屋談議がつづいたが、髭剃りになったので、あとは耳だけの参加になった。

 

 

 

 

 

228

 

  連続エッセイ  床屋談義8

 

             豊村 一矢

 

  初冬の床屋談義は「日ハム(野球)」の話題が定番である。日ハム愛もあるが、四番中田翔の不甲斐無さを語るくらいのところが罪がなくて気楽なのである。

 

 九月の四国旅行で、私は高知から香川県の金毘羅宮を経由して鳴門市に行くのに観光バスを利用した。バスが徳島県に入って三好市に近づくと、ガイドが県立池田高等学校の話を始めた。それは三十数年も前の、甲子園で連続優勝して日本中を沸かせた「さわやかイレブン」「やまびこ打線」などの紹介だった。三好市は、人口六万弱、札幌の隣の北広島市くらいの街だ。周囲を山で挟まれ、中央を吉野川が流れている。

 

ベテランバスガイドの説明に感動していた私は、床屋談義で、「選手たちの掛け声や打撃練習の音が山彦となって町中に響くのが聞こえそうな風景でしたよ」と話した。そして、観光バスは、蔦文也監督夫妻の住んでいた美容院(夫妻は故人になられているが、確か、妹さんが今も店を続けている)の前でスピードを落とし、ゆっくりと通り過ぎたことも付け加えた。

 

 すると、床屋談義は日ハム中心の野球話が「さわやかイレブン」の野球話に急転回してしまった。日ハム愛で、皆、負け惜しみを言っていたが、日ハムの不振は床屋談義子の心を相当痛めていたと推察する。

 

先代店主まで「うちのヤツ、サワヤカイレブンてさ、サッカーのことだと思っていたんだよネ」と、のってきた。

 

談義子A「ベンチに選手が十一人しかいないのが凄い。三人、出られなくなったら、即、敗退だからね」

 

談義子B「何てたって、田舎の公立高校から出てきたのが、甲子園で優勝しちゃうんだからね。拍手喝采だよ」

 

先代店主「公立でも池田はスポーツ教育を売りにしていたみたいだね。学校には寮があって蔦監督夫人は選手の食事の面倒をみたとか、ただの公立でなかった」

 

私「そりゃあそうだ。PLなんかと程度は違ってもね。普通の公立高校が地元中学の野球部の生徒を集めたって絶対に甲子園には行けないよ。公立中学の部活は軟式ボールだよ。二年くらいで硬式ボールをこなすなんて不可能だから」

 

談義子A「うん。池田高の選手も小学生の時から学校とは別のクラブに入っていたんだよね、大金かけて。結局、親が偉かったってことか」

 

結局、床屋談義は社会問題に関心が移っていった。

 

どこの床屋談義もこんなものだろうか。

 

 

 

 227

 

  連続エッセイ 床屋談議7

 

               豊村一矢

 

 

 

床屋談議に出てくる話題は様々だが、いずれにしても若者向きではない。今回のお題は(地下鉄の)「優先席」。優先席は高齢者専用ではない。妊婦、病気・怪我人、乳幼児を連れた人なども対象である。だから、「優先席」が若者向きの話題になってもいいのだが、やはり、今回のもジジくさい。

 

 私が加わる床屋談議では現店主を除いて全員六十五歳以上なのだが、優先席への対応に個性があることがわかった。

 

 空いていれば何をさておいても優先席を確保すると言切ったのは先代店主の奥さん。理容師免許を持っていて、人手が足りないときは店に出るので、時々、顔を合わせる。彼女は、臨月と思われる妊婦が来ない限り席は譲らないとのことだった。

 

「優先席に座らない、座ったこともない」というのは二名、七十歳前後の男性である。この者たち、いろいろ理由を語るけれど、要するに「見栄」がそうさせている。

 

だから、次のような会話が続くのである。

 

私「一般席が空いていても立っているの?」

 

A「いや。空席を探しはしないけど近くの席には座るよ。だって、空席の前で立っていたらヘンにみられるだろ」

 

私「一般席に座っていて、前に高齢者とかが前に立ったらどうする?」

 

B「それよ。そんな時が一番困るんだな」

 

私「なんで?」

 

B「おれ、普通に乗って、つり革にぶら下がったら、前の席の男が『どうぞ』って立ち上がって譲ろうとするんだよ。おれよりケッコウなトシみたいなやつが」

 

私「それで、どうしたの?」

 

B「立つことにしているので、お気遣いなくって、断ったよ。ウソはついてないぞ」

 

私「なるほど。で、逆は?」

 

B「逆? ああ、おれが席を譲るケースね。あるよ。だけど、隣に若いのが座ってるとイヤだね。こないだ、席を譲ったあと、隣に座っていた若い女がスマホから目を離して、おれにイヤミなジジイって顔を向けるんだ」

 

私「ありそうな話だよね」

 

A「ところでトヨさんはどうなのよ」

 

私「ぼくは空席があれば座る派だね。何たって楽だもの。なるべく一般席にね」

 

A「何で一般席なのよ?」

 

私「スマホいじれるからね」

 

A「なるほど。今や、座っているのが三分の二、立っているのが半分、スマホやっているからね、車内で」

 

私「スマホといえば、こないだ赤っぱじ掻いたよ」

 

A・B「なになに」

 

私「いや、腕時計を忘れて出かけちゃってね。優先席でどうしても詳しい時刻を知りたい事情があって鞄からスマホを出したんだよ。立ち上がり画面に正確な時刻が出るからね。そうしたら、一人置いた隣の男が、隣の人越しに注意してきたんですよ。ずっと監視していたんでないかと思うほどのタイミングだった」

 

A・B「いるいる。天下のご意見番みたいなご老体が……」

 

 こうして、ジジくさい床屋談議は続くのである。

 

 

 

 226

 

  連続エッセイ  床屋談義6

 

                豊村一矢

 

 

 

 私が理容室に行くのは、平日の午前十時ころである。土・日や祝日に行くことは絶対と言っていいくらい、ない。混んでいるからだ。混んでいた方が床屋談義も賑やかでいいだろうと思うかもしれないが、それがそうでもないらしい。小学生や中学生の客もいたりして、意外と床屋談義の雰囲気ではないのだそうだ。それに店主も客を長く待たせるのは心苦しいらしく、年中、お休みの身分の者はどうぞ平日に、と仄めかされたこともある。長い付き合いだからそんなことも言えるのだろう。

 

 八月の暑からず寒からずの月曜日だった。理容室のエントランスで出てくる床屋談義の常連さんと鉢合わせになった。その常連さん、私が来たのを知って帰るのをやめた。そして、バーバーイスの私、店主、ソファの常連さんの三人で、大筋で次のような床屋談義となった。

 

私 「あれ、今日はなんだか通りの車の音がは  

 

っきり聞こえるねえ」

 

常連「今日は、窓を開けているんだよ」

 

店主「微妙な室温でね。クーラー止めて自然  

 

空調にしてみているんだけどね」

 

私 「いんじゃない。省エネ、賛成」

 

常連「結構広いからクーラーの電気代、相当掛 

 

かるんじゃない?」

 

店主「六月、九月は一万切るけど、今月は二万

 

近くなると思うよ。年間五、六万かな」

 

常連「そりゃあ、大っきい」

 

私 「原発使えなくなって、電力不足だと   騒いで料金値上げしといて、電力足りてることがバレても、一向に値下げどころか、元にもどさないじゃあないか」

 

常連「それよ。独占は腹が立つねえ。勝手やり放題だ。

 

店主「独占と言えばね、私ら、理容の専門機器   

 

の生産販売も独占になっちゃったんですよ」

 

私 「え、どういうこと?」

 

店主「例えば、豊村さんが座っているバーバー   

 

イス。頭を洗うシャンプーボール。こんな 

 

の市販品じゃあないんです。二社あったん 

 

ですが一社が撤退して今は独占です。いっ 

 

ぺんに高騰しましたよ。中古市場が賑わっ

 

ています」

 

    (中略)

 

私 「こうやって天井を見ながら髭を剃っても 

 

らってると、ここ、交通量が多いことがは 

 

っきりわかるね」

 

店主「ええ。私なんか耳で車種まで区別できま

 

すよ」

 

常連「南郷通が近いのに、そっちからは聞こえ 

 

んね。昔は夜になると暴走族が現れてね。南郷交番の所で改造マフラーをふかしまくって挑発してねえ。あーいう若者、居なくなったねえ。どこ行っちゃたんだろ」

 

店主「部屋でゲーム? 車に興味が無い」

 

私 「そういえば、若者の改造車みませんね」

 

常連「ちっちゃくなっちゃったねえ」

 

私 「ツルムのも権力に楯突くのもメンドイ?」

 

 今まで、さんざん暴走族を非難し中年化を笑ってきた者たちの床屋談義は続くのである。

 

 

 

 

 

 

 225 

 

 

 

連続エッセイ  床屋談議5

 

                豊村一矢

 

 

 

 床屋談議は勝手気ままな放談だと思っていたが、最近、それなりに自制が働いていることに気がついた。例えば、政治的な話題、宗教が関わる問題、そして人の悪口についても意外と慎重なのである。たぶんそれは、談議が理容院というお客相手の場でなされるのと無縁でないだろう。

 

 政治の話では、党派的な話はもちろん、消費税増税のようなことも話題にしたがらない。私はこの状況を中途半端な民主主義状態だと感じている。

 

 気兼ねなく床屋で政治談議をする環境は、多様な価値観を許容しあう成熟した民主的な社会か、逆に全体主義的な社会でないかと思う。

 

「核放棄なんて、政権は弱腰だよ。だから北朝鮮になめられるんだ」というような政権批判は、圧倒的多数が北朝鮮は敵で打倒すべき、そうでない者は国賊だとするような社会でなら平気でぶち上げ床屋談議にすることができる。

 

宗教が絡む話題では、二度ほど記憶がある。古くはオームの時だ。すでに宗教のレベルでなかったからだろう。もう一つはN氏が町内会の会議に出たときの話。

 

 「俺の顔を見て、あれ、K学会の班会議でないの?って隣のヤツに聞くんだよな。隣は、お仲間で、いやいや今日は町内会の環境部会だ、だってよ」

 

 それだけで私以外のメンバーはその状況を理解できたようだた。私は役員として町内会に関わったことがないせいか、チンプンカンプン。

 

「それ、どういうことですか?」と素朴に聞いた。すると、店主が「あの人達は計画的に町内会とかいろいろな所に入ってきているんじゃないですか」言っただけでむっつり。N氏もしまったいう表情。なんか私も気まずくなって、「宗教と言えば、般若心経はなかなか奥が深いですよね」と取り繕ってみたが、トンチンカンであったようだ。今は、いろいろ経験をつんだから、その時の状況を理解できている。

 

 人の悪口談議については、さらに微妙である。自分で言うのも何だが、床屋談議の面々、もともと人の悪口を言って楽しむほど下品ではない。批判を胸に秘めて語る心根が、どこかいじらしい。例えば、「あそこの豆腐屋さ、毎朝、カラスに餌やってるしょ。カラスも朝早くから大っきな街路樹に鈴なりになってさ、くーくーって甘えた声で鳴いてさ、餌くれるの、待ってるしょ。でも、そこら中、糞だらけでしょ。糞にまみれた餌食って、腹、痛大丈夫かな、カラス。あそこの豆腐売れるのかな」といった具合。

 

また、「犬のお散歩のS医院の奥さん、犬がウンチしたら、ちゃんと拾ってビニル袋に入れるのは立派なんだけど、あそこのゴミステーションでオシッコかけて行くのは、そのまんまなんだよね。あとでゴミいれに来たお嬢さんが、素手で網、捲ってるから、手袋したらって教えたらいいんじゃない?」となる。

 

さらに私に、「作家先生、又吉の芥川賞の何とか、面白い?」とくる。作家先生とかいう慇懃無礼も大した悪気はないのだろう。

 

私は私で「いやー吉本興業は肌に合わないんですよ。だから読んでいないんですよね」と取り合わないようにするわけである。

 

 

 

 

  224号

 

 

  連続エッセイ 床屋談義4

 

               豊村一矢

 

 

 

 六月中旬過ぎ、二ヶ月ぶりに散髪に行った。頭をやってもらいながら日ハムの話をしているところに客が来て、店主に「父さん、いる?」と言った。ご指名である。三代目店主が父親である二代目を呼んだ。

 

 それで四人の床屋談義となった。私が「いやー、今、サーカスが来ているでしょ。家内と行ってきましたよ。六〇年ぶりかな…なかなか良かったですよ」と言ったのを歯切りに、サーカス、見せ物小屋、祭りの縁日、芝居小屋などの話題で盛り上がった。

 

たいていが想い出話なのだが、年代、住んでいた町、家庭環境で中味が異なり、面白い。

 

 二代目店主は六〇代半ばだろう。お祭りの縁日に混ざって出現する見せ物小屋について語った。

 

「あれってインチキだってわかっていても、次の年、また、行っちゃうんだよね。『親の因果が子に報い…』の口上と入り口のおどろおどろしい絵の看板に釣らてね。入ったら二メートル先にムシロが一枚吊ってあって、そこが出口。怒り出す客もいなかったから、あれはあれで楽しかったんだよね」と懐かしそうに語る。

 

 二代目を指名した客の方の話はちょっと変わっている。

 

「ウチはね、見せ物どころか、縁日の買い物もダメだったなー。大体、お祭りで小遣いもくれなかったからね。友達が妬ましかったな。ウチの親ときたら、差別意識があったと思うよ、香具師とか汚い商売とか、親父は、たかが会計事務所を経営しているくらいで上流階級だと錯覚していたからね」と自嘲気味だ。

 

 三代目、現店主は四〇歳を過ぎたところか。

 

「あのころ、お祭りの日、学校は午後休みだったでしょ。縁日に行くのが楽しみだったなあ。見せ物小屋は覚えてない。行ったことないなー、やっていたのかなー」と昭和の終わりころの雰囲気を語る。そこへ父親の二代目が、

 

「ボリショイサーカスに連れて行ったことがあるぞ」と口を挟む。「あの時は、目の前の出し物を楽しまないで、しきりに次の出し物は何って聞くんだよね。こいつ、あのころからセッカチだった」

 

「覚えてる。あの時、興奮してたんだ。凄いって」と息子の二代目。

 

 私は、ジンタの音色も懐かしいサーカスも、ボリショイサーカスも二、三回見ている。ジンタのサーカスの方は、大人が「悪い子はサーカスに売るよ」と脅し文句を言っていたくらいだから、子供心に暗いイメージを溜めていた気がする。私の中でボリショイサーカスがそのイメージを一新したのは確かだ。六〇年ぶりの木下サーカスは更に更に進化していた。

 

 私が床屋談義に相応しい話として持ち出したのは……。

 

 私にも見せ物小屋の経験が一度だけある。その時はオホーツク沿岸のM市で暮らす十歳の少年だった。親の因果が子に報い…の口上に釣られ「四つの乳房を持つ哀れな女」を見ようと中に入った。無論、R15などの条件はない。

 

 しかし、中では若くて髪の長い女が赤い布を纏い、思わせぶりな動きをするだけで四つのおっぱいはなかなか出てこない。そうこうするうちにつぎつぎ入場してくるお客で立ち止まることもできず押し出されてしまった。

 

 翌日、学校で同学年の女子が、目をまんまるくして、しかし声は小さく、

 

「きのう、みなと湯であの女の人がお風呂に入ってたよ。おっぱい、二つだったさ」

 

 と耳打ちした。

 

 私は動揺した。今日も小屋はかかっている。私は女湯に入れるギリギリの年齢、体格だった。家には風呂があるので、めったに銭湯には行かない。親に頼んでみたが、呆れ顔で却下された。

 

 この話、床屋談義で大受けしたのは勿論である。

 

 だが、私もそんな話ばかりしたわけではない。

 

 サーカス、見せ物小屋、どさ回りの芝居小屋などが立つと、催行中、団員の義務教育年齢の子供たちが学校に臨時入学してきた。その子たちは全国津々浦々のおもしろい話を聞かせくれたし、現代の「アイドル」に近い人気者だった。

 

 床屋談義でも、憲法二十六条「子供の教育を受ける権利」は、道東の小さな町でも保障されていたと言っておきたかった。

 

 

 

 223号

 

 

連続エッセイ 床屋談議3

 

               豊村 一矢

 

 

 

常連

 

行きつけの理容院は自宅と地下鉄駅との中間点の位置にある。だから地下鉄駅との往き還りはどうしても店の前を通ることになる。

 

四月の十日頃だったと思う。家への帰路、店の前を通り過ぎたとき、店から出てきて「寄っていかない?」私を呼び止めた者がいる。

 

 床屋談議常連の奈良さんだ。なぜ常連かというと、客としてだけではなく、暇を潰すために店にやって来ることもあるからだ。

 

私も床屋談議は嫌いではない。時間もあるし、お茶くらい呼ばれていくかという気になった。

 

店内は札幌市の敬老優待乗車証の話の真っ最中だった。若者の理髪店離れだけが原因ではないだろうが、床屋談議は中高年の独壇場であり、そこでは「目クソ、鼻クソを笑う」の類いの言葉が行き交う。互いにそれを、内心では自覚している。だから、大抵は気楽なのである。

 

 

 

敬老優待乗車証の話

 

札幌市の「敬老優待乗車証」は七〇歳以上の市民に地下鉄、バス、市電を利用できる乗車証を有料で交付している。昨年度までは「乗車カード」が交付された。その交付・使用のルールは複雑だ。「乗車カード」一枚で一万円までの乗車料金を払える。年度、七枚交付可能、使用期限は翌年四月末。私の場合、一枚目は千円を、二枚目は二千円を納付して、二枚交付を受けた。ちなみに、七枚交付だと一万七千円納付する。ところが仕組みは同じまま、今年度から「乗車カード」から「ICカード」に変ったのである。納付はチャージに変ったのである。改札機を潜らせなくても、ピッとカッコよくタッチすれいいというのである。

 

四月三日(月)が、最寄りの郵便局で、「複雑」な七段階の納付と敬老ICカードにチャージできる初日だった。

 

私はその日、地下鉄を利用する用事があり、「乗車カード」が切れており「サピカ」を利用している状況だったので、「敬老優待乗車証」をゲットすべく郵便局が開く時間に合わせて家を出た。ところが、郵便局はすでに大混雑、外に一〇人ほど並んでいる始末だった。

 

それでも私は時間に余裕があったので、根性を出して一時間半ほど耐え、二万円分のチャージを済ませ、満足して地下鉄に乗った。

 

 

 

床屋談議で奈良さんは、事務手続きの流れの悪さに不満タラタラだった。

 

「△△とこの爺さん婆さんときたら、窓口でさ、どっちが、いくら分の金入れるかって、一〇分も二〇分も局員相手にしゃべくってるんだよ……」

 

と怒りを蘇らせる。確かに、私も当日、そのような場面を含め高齢者夫婦の要領の悪さをあちこちでみかけた。

 

それにしても、一週間も前のことなのに奈良さんの苛立ちはなかなか収まらない。

 

「腹を立てる前にウチに来て、時間潰して出直せばよかったのに」と言ったのは店主だ。

 

椅子の客がフフフと笑う。

 

 私の頭に、「奈良さんは独り者なのだろうか、今度、店主に訊いてみようか……」とゲスな思いが浮かんで、すぐに恥じた。

 

 店主が、そんな客の知られたくない個人的なことを漏らすはずがないのだ。

 

 

 

 222号

 

  連続エッセイ 床屋談義2

                        豊村 一矢

 

 四字熟語の話

 前号では「連続エッセイ 床屋談(議)」としたが、今回は「床屋談(義)」とした。私にちっぽけな拘りがあって「議」にしたのだが、一般的には「義」の方が圧倒的なのは知っていた。それでもかまわないと腹を括っていた。だが後で四字熟語がいろいろな試験問題に多く使われることに気づいて気になりだした。

 

 四字熟語とは何か。どうもこれがはっきりしない。「四つの漢字でできた熟語」といった当たり前のこと以外、定義がはっきりしない。最近、「四字熟語辞典」のたぐいが、いっぱい出ている。よく売れるらしい。オモシロおかしい造語を入れて売り上げを伸ばしているのもあるという。四字熟語の定義がはっきりしないのだから、そうなるのも頷ける。

 

 造語OKだとすると、やがて四字塾語の試験は成立しないか、または、問題の作り方が難しくなりはしないか? 「四字熟語辞典」などは学術的な意義も価値もないものであると言い切る「識者」もいる。コーガンムチを造語「厚顔無知」とし、それらしく意味を記した辞典が出たら……今の世の中、あり得ないと言い切れるか? 今の政権は厚顔無恥か厚顔無知か、なんてね。

 

 こんな話を続けていると本題に入れない。床屋談義2のお題は「小学校の卒業式の様変わり」だと前触れしてしまっている。

 

 二ヶ月ぶりの床屋

 

 三月二十二日、二ヶ月ぶりに床屋に行った。他に客はいない。バーバー椅子に座り鏡で三代目店主のKさんと目が合うと野球の話になった。Kさんは日ハムの大ファンなのだ。開幕戦も目前だ。 

 

そこへ顔見知りのTさんが来た。六〇歳代中ごろで、なかなかの話好き。私が元小学校教員だと知ってのことか、やはり鏡で目が合うと「近ごろの小学校の卒業式は派手なんだってね。卒業生の半分が羽織袴だって言うよ」と床屋談義に参入してきた。Kさんも関心があるらしく、すぐ話題に乗って、近くの美容院から出たネタをもとに語りはじめた。

 

 

美容院での話

 

その美容院は、卒業式の日の朝、なんと五時に店を開けたという。

 この美容院、私の知る限りでは、ここ十年、いつも閉まっている。廃業したと勘違いするくらいだ。その店は、私が高校生の頃、若い女性美容師が開業した。以来、半世紀以上、その美容師一人でやってきたはずだ。だから今は八〇歳近いだろう。「古いつき合いの客に頼まれた時だけ店を開けている」と聞いたのは、やはりKさんとの床屋談義だったと思う。

 

 朝五時の客は、遠く七キロは離れた中央区円山から駆け付けた六年男子とその両親だった。母親は和服、父親と息子は羽織袴で卒業式に出ると決心した時、札幌市でのレンタルは全て予約済みだった。それでも探し続け、最近やっと小樽のレンタル店で見つけた。小樽と札幌の卒業式が一日違うのが功を奏したらしい。次の難題は着付けで、自分ではできない。レンタル屋で着付けるが普通だが、小樽でやると札幌の卒業式に間に合わない。札幌の美容室、レンタル店、着付け教室、写真館などを虱潰しに当り、最後にたどり着いたのがこの美容室だったというわけだ。

 

 親子三人の総経費は二〇万円近くだと聞いて、高齢で経験豊富な美容師も大いに驚いた。ところが、この父親、「金持ちだからでない。これが最後だからだ。中学校は制服だし、息子は頭が悪くて、俺は貧乏だから高校にはいかない。これが最後なんだ」と真顔で言ったという。

 

 けじめの話

 話題が学校の事だけに床屋談義のしきり役は、自然と私に回ってくる。

 私も「学校を離れて一〇年以上、具体的なことは分からない」と、まず予防線をはり、「卒業生がレンタルしてまで着るものを用意するのを多くの教師は歓迎しないのじゃないか。子供間の様々な違いや差が表面化する、だけど服装は自由が原則、気を遣うと思うよ」と現場の教師を労わる。

 そして、ずいぶん前の経験を一つ語る。

 六年になって卒業式も含め一日も登校しない不登校の卒業生がいた。私は卒業式を終えると担任を伴って式服を着用したまま卒業証書を渡すためその子の家に向かった。もちろん事前に保護者と話し合い連絡をとってのことではあるが、卒業生には会えないことの方が多い。ところが、卒業生も両親も式服を着て待っていた。担任は感激して持参した「卒業式々次第」を渡し、卒業生用の「胸花(学校用語)」を祝意の言葉をかけながら左胸に着けてあげる。そして卒業証書は折目正しい作法により授与された。中学生の姉が帰宅したら、揃って写真館で記念撮影をするらしい。三人の式服は写真館のものだった。父親は「けじめ」ですから、と言った。

 こんな、羽織袴の気配もなかった時代の経験話で、卒業式の服装一つにも家族の様々な思い・拘り・価値観が込められていた事例を語り、私は流行に走りたがる子供や保護者を擁護する気配りもして見せるのだった。

 

 床屋談義も、話題によっては、口から出まかせという訳にいかない場合がある。

 

 

 

 221号

 

    連続エッセイ  床屋談議1

                  豊村一矢

 

  近頃、床屋談議とか井戸端会議という言葉を耳にしなくなった。若い世代には知らない人が多いのでなかろうか。

 

 言葉が古くなったというよりも、井戸端は疾の昔に姿を消し、床屋は理容院となって世間話ができる場所でなくなり、もはや死語になりつつあるのだろう。

 

 私は「床屋談議」という言葉を聞くと「私は貝になりたい」という映画の一場面を必ず思い出す。観たのは二〇〇八年公開(中居正広主役)の映画ではない。一九五八年、高校一年のときのフランキー堺が主役の方だ。

 

物語は大雑把にしか思い出せないが、床屋談議の場面だけは、はっきり蘇る。

 

フランキー堺の床屋に客や暇つぶしの連中が集まっている。話題は「大東亜戦争」(東条内閣が戦争名決定)の戦局である。フランキー堺もハサミを動かしながら、談議にときどき加わる。

 

年配の男が、したり顔で言った。

 

「負けイクサじゃないぞ。こっちは戦力を温存して退き、油断して追ってきた敵をひとまとめにして叩こうって作戦なのよ」

 

 それを聞いた者たちは、「なるほど」と納得しながら頷くのである。

 

 私がこのシーンを思い出すのは床屋談議の中にいる者たちの中で何人かが……少なくてもフランキー堺は、その後戦地に送られ、よく知られている運命をたどるのだが、そのことと床屋談議のギャップが高一の胸を締め付けたからだろう。

 

 しかし、この映画から六十年も経って「大東亜戦争」の知識を多少なりとも蓄積した目で見ると、口から出まかせの講釈かもしれないが、庶民なりの、時代に対する臭覚の鋭さを認めざるをえない。

 

講釈は、一九四三年三月に開始されたガダルカナル撤退作戦を取り上げているのではないかと推測する。であれば、言っていることは当たらずとも遠からずなのである。

 

 この作戦は「ケ号作戦」と言い、「ケ」に捲土重来の意味を込めている。もちろん真の狙いは機密で、米軍に作戦の意図を悟られないように逆の行動を見せかけ、米軍は日本が本気でガダルカナルの占領を企てていると見た。つまり米軍は騙された。講釈師は尤もらしいホラを扱いたのだが、「床屋談議、あなどるべからず」である。

 

 私がずっと世話になっている理髪店は、偶然にも、「私は貝になりたい」が封切られた一九五八年に開業し、今、三代目が店長をしている。町の栄枯盛衰を地域の人々と共にしてきただけに、まだ床屋の雰囲気が残っている。床屋談議も時々ある。うれしいことだ。

 

 こないだの床屋談議は、「小学校の卒業式の様変わり」で花が咲いた。

 

実は、それを今回の連続エッセイで綴ってみるつもりだったが、次回にする。

 

 

 

 219号

 

 「差別語」なるものの使用、

  「差別表現」なるものへの

       看過し難い非難について⓶ 

                       豊村一矢

 

 前号では石川節子『新土人物語・大地の砂粒』にかかわって、「土人」という言葉を使用すべきではないという意見に対し、主として「差別語」とは何かの観点から異議を述べた。この異議は、表現の自由の侵害ではないかとの主張も含んでいた。

 

 今回の②では、北野あかりの作品「誕生日の想い出づくり」の合評での「差別的な表現」なるものの論議にかかわって、表現の自由の侵害の観点から意見を述べる。

 

 この作品は、主人公「私(一人称)」の視点から書かれているが、言うまでもなく、「私」は作品上の人物であって作者ではない。

 

 差別表現と指摘されたのは次の文章だ。

 

 「嘗て、結婚について相談した友人から『結婚もしない看護婦は片輪よ!』と言われてショックだったのだが、その意味がやっと納得できたと同時に、一人前の人間として、仲間入りできたようで嬉しかった」

 

私の「表現の自由の侵害」批判は、批評者が、作中文『結婚もしない看護婦は片輪よ』に「未婚だって素晴らしい人は沢山いる」「差別的な言葉で相手を傷つける」とした上で「書くべきでない」と断言したことに対してである。

 

私の批判に対して、批評者は、表現の自由の侵害ではなく、主旨、「差別的な表現に対する反感・批判等に直面する覚悟があって作者は書いたのか」「この差別的表現はヘイトスピーチと同じだ」と言いたかったのだ、と反論した。

 

だがこれは反論になっているか。逆に、「表現の自由侵害」であることを語っていないか。

 

 さらに付け加えれば、『結婚もしない看護婦は片輪よ』は、主人公「私」ではなく「私」の友人の言葉である。批判者は「友人が一番言いたかった思いは何だったのか……友人の本当の思いを書けば……」と言い、(作中人物ではない、間接的な人物である)友人の良心・内心の表現にまで介入している。

 

 ここまで来ると、私は「権力者の意識」「権威者の意識」のようなものまで感じてしまう。俗にいう「上から目線」だ。

 

 

 

 私の結論をザックリ述べて批判を乞う。

 

 私は、文学作品に対して、作品全体であれ、部分であれ、一つの言葉であれ、「書くな」と作者に主張するのは「表現の自由の侵害」にあたると考える。明らかな「要求」「圧力」でなくても、「書くな」を遠回しな言い方・間接的な言い方で述べたとしても、作者に「反論する権利・拒否する権利」があると自明のことを暗に前置きしても、「侵害」の本質は変わらない。

 

「書くな」は文学作品の合評の批判、批評の領域を逸脱していると考える。

 

 

 

  余論1

 

 作品『誕生日の想い出づくり』の「結婚もしない看護婦は片輪よ!」のところが、通信218号の作者による合評感想では、「未婚の看護師は一人前でない」、つまり「結婚もしない→未婚の」「看護婦→看護師」「片輪よ→一人前でない」になっている。作者はあまり意識せず、内容を今風に言い直したと思われるが、興味ある変化である。

 

 「看護士・看護婦」が「看護師」と、職名の統一呼称になったのは二〇〇二年である。作品世界の友人の言葉は、それよりずい分前のことだ。「看護婦」でなく「看護師」だったらリアリティがないだけでなくウソになってしまう。

 

 

 

余論2

 

私が児童文学に係っていたころの話。三〇枚程度の習作を同人の検討会にかけたことがあった。

 

 ある場面での、十七歳の娘が母親を憎み、自分を生んだことへの捨てゼリフが、確か……、

 

「婆ァ! ブス! てめぇなんか女じゃねぇ。一丁前に産みやがって。このメス豚が!」

 

 だったと思う。

 

 言葉が汚い。差別言葉が満載で子供に読ませられない。アンタ、本当に学校のセンセ? 等々、散々言われた挙句、議論は相対的多数意見ではあったが、「娘から親への反抗、つまり弱者の強者への抵抗、ということで許容される」、で落ち着いた。

 

 私は釈然とせず、この習作は習作のままで日の目を見ることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 218号

 

 「差別語」なるものの使用、

  「差別表現」なるものへの

       看過し難い非難について➀ 

                       豊村一矢

 

 

 

私は、石川節子「新土人物語・大地の砂粒」(「北海道民主文学」二十一号)に感銘を受けた。私自身の主たる創作テーマを、「アイヌ」と「教育現場」の二つを中心に考えていた。「アイヌ」について何度か連作したが、その合評会の席で菊地大氏の「作者自身の構想、何を書くのか、主題がはっきりしていないのではないか」という意味の指摘を鮮明に覚えている。その通りだったのだ。

 「新土人物語・大地の砂粒」が、私の創作課題への一つの解答だったことは間違いない。

  十一月支部合評会で、「『土人』という言葉は、どう言い訳をしても、どんな使い方であっても、使ってはいけない」との非難が出た。

  私も「土人」は論議を呼ぶ用語だと感じていたし、実際、北海道研究集会の分科会でも話になった。

  しかし、支部合評会での「どんな使い方であっても、使ってはいけない」という非難には強い違和感を覚えた。「差別語」の無条件禁句を求めていると聞こえたのである。それでも私は、作者が私と別のうけ止め方をしたり、自由かつ自主的に自分なりに判断し対処するのであれば、それでいいとも思った。

  ところが、石川節子氏は、直後の「札幌民主文学通信」で、この非難に屈服し白旗を揚げることを宣言したのである。私は前回の合評の場で自分が沈黙したことを後悔した。

  さらに、十二月の支部合評会では、別の作品で、「差別表現」なるものへの批判と内心表現への介入、削除意見が出た。これには、私も意見を述べた。表現の自由の侵害でないかと。この議論は決着していないと思っている。もはや作者の納得云々と関係なく、特化した問題と考える。表現の自由の侵害、ヘイトスピーチという言葉まで出た。曖昧にはできない。

 しかし、十二月合評会の論議への私の意見は紙幅の関係で次号にし、今回は、私の心に火をつけた「土人」問題についてだけ論点を述べ、次号に続けようと思う。

 ・差別語とは何か? 差別語は存在するか? 私は存在しないと考える。

 ・誰が差別語を決めるのか? 言語学者?

  権力者?解同朝田派?差別されたと感じた者? どれにしても茶番かつ有害だ。

 ・「土人」は差別語か? 「未開の土着人」の意味としても、現実に存在する事象、心情を概念化して獲得した言語の一つである。言葉自体に差別性があるはずがない。差別は、現実の事象・心情の一部にあるのであって、それを概念化した言葉を使ってはいけないというのは文明に逆らう「言葉狩り」だと断じたい。

 ・「新土人物語・大地の砂粒」の「土人」は、言葉の豊かさと奥深さを見事に示していると、私は感じた。

 

 

 

 

211号

 

自分は数字表記の「ものさし」をもっているか 

 

                豊村 一矢

 

 

 

 本「通信」210号に岩井よしあきさんの「ものさしはあるのか」をおもしろく読んだ。

 

岩井さんは、「昨年十二月発行の『奔流』(札幌民主文学会編)のなかの数字表記について、いったいどういう基準があるのかすこし気になった。」と言い、文学作品での縦書き数表記について、講談社校閲局編纂の「日本語の正しい表記と用語の辞典」(一九八三年発行)の「望ましい表記」「さしつかえない表記」「不可の表記」「備考」に分類にもとづいて、『奔流』の数字表記に現状に疑問を呈している。

 

そして、『「奔流」には「望ましい表記」派と「さしつかえない表記」派が堂堂と並立している。やっかいなことに、「望ましい表記」派が圧倒的に多数とはいえない。「さしつかえない表記」派もなかなかの勢力である。どちらかにきめようと決戦におよんでもひきわけになるかもしれない。してみれば、どっちも作者の選択や趣向次第ということなのだろうか。しかし、このままほっておいていいはずはない。そのきざしがすでに同誌のなかにあらわれているからだ。あろうことかおなじ作品のなかで、「望ましい表記」と「さしつかえない表記」をまぜこぜにしている「どうでもいい」派だけはなんとかしてもらいたいものである』と手厳しい。

 

 岩井さんが示した分類だと、ぼくの数字表記は「どうでもいい」派に属しているようで穏やかな気分ではいられない。

 

ぼくは数字表記に限らず表記法一般について自分なりの拘りを持ちながら書いている。しかし、それは岩井さんのいう「作者の『選択や趣向』次第」のレベルであることを認めなければならない。しかも、自身の校正が杜撰で「どうでもいい」派以下、出鱈目派になっているのだから、まったくもって恥ずかしい。

 

 

 

 さて、自分は自作品で数字表記する際に、どんな物差しを使っているかとなると、明文化できるようなものはないことに気づいた。表記には拘りがあるのだが(多少の誤解を恐れずザクッと言えば)物差しに拘っているのではなく自分の趣向に拘っていたようである。表記法の原則―「物差し」や「決まり」が不可欠であることを認めつつも、その束縛から、しばしば外れていた。物差しを邪魔にしたがる性向はいつごろからぼくの中に住み就いたものか。思い当たることを二つ三つ。

 

 七、八年前だろうか。ある文学教室で講師の方に、「!」、「?」、「…」などの文字を使うな、と指摘されたことがある。理由を聞く機会を逸したが、あとで同席の受講生に聞いたら、文学は文で情景や心理などを表現すべきで、音を持たない記号を使うのは邪道だ、と講師の文学観を教えてくれた。講師は信念を持った方だと思ったが共感できなかった。物差しの押しつけに反感すら感じたものだ。だけど、句読点や(『)などはOKなのだから、ちゃんと考えを聞いておけばよかった。

 

 もう一つ。小学校の教育漢字は学年ごとに教える漢字が決まっている。六年間で一〇〇六字である。二年生の教科書や教材に三年生以降に習う漢字は、原則、載せない。逆に二年生の新出漢字は国語のどこかで一つは必ず載せる。ぼくは、この仕組みは理解できるし正しいと思う。

 

だが、二年生の作文に四年で習う漢字が使ってあって、それに対し添削者は赤ペンで注意するというようなバカげたことがなぜ起きるのだろう。

 

 担任の書く文章が、通知表の保護者向けメッセージの欄であっても役所用文書マニュアルに従って、「子ども」(×)「子供」(○)、「気持ち」(○)「気持」(×)などを強要される例もある。

 世の中、鑑定済物差しは絶対必要だが、自分の物差しも併用したいというのが、この一文のテーマである。数字表記などについては次号で書きたい。              (つづく)

 

 

 209号

 

 浅尾大輔「支部の人びと」から

 

受けたもう一つの刺激

 

               豊村 一矢

 

 

 

「今日ほど時代の日本共産党を描くという多喜二的主題への挑戦が求められている時はないと考える」という『支部の人びと』の主題に係る部分を一読者として受け止め、共感するところが多く刺激を受けた。一方、この作品が大多数の読者に受け入れられるとは限らず、批判や疑念が少なからず出るだろうと予測した。

 

「もう一つの刺激」というのは、創作で右往左往している書く立場からのものだ。もちろん、読者として受けた刺激と無関係ではないが、私としては、いかに読者を惹きつけるか、いかに冗漫を回避するか、そして主題を(文学的に?)鮮明にするか……といった課題を持つ者として独自の視点があった。

 

私は、『支部の人びと』がどの様に評価されるか気になった。文学会「編集委員会」による「作者と読者の会」の論議をはじめ、ネットなどで岡山支部のホームページやブログなどをリサーチしてみた。大まかなことしか知り得なかったが、論議の中心は札幌民主文学会での合評とほぼ同じだと思ったし、それらは、この作品の個性が明確であることの結果だと納得できた。

 

 

 

 二ノ宮ハルミと息子雲雀のバトル、元夫との離婚問題を書き切っていないのが不満だとの感想が多く見られた。

 

 ハルミが雲雀に殴られそうになった場面の印象が強烈なだけに気になるのは解かるけれど、この作品の主題からいって過不足なく十分に書かれていると私は思う。これ以上深入りしたら引篭もり問題、家庭暴力問題の小説になるか冗漫を避けられない。見事なコントロールで勉強になった。

 

私は坪井照之の「二十歳の時の過ち」を知りたいが作品への不満とはならない。

 

出だし三行目「平屋の……」から始まる文章、どこが主語でどこが述語か俄かには判然としない文に戸惑うという感想も多い。私も雰囲気は感じつつ、戸惑った。こりゃ国語テストの文法問題にいいかも、とか。しかし、後の、投げつけるような短い文との響き合いが快く、好き嫌いはあるだろうが、読者を惹き付ける点で、戸惑わされたこと自体、表現の妙と認めざるを得ない。

 

主題を文学的に鮮明にするという私の課題については、本作品の「主人公の生き方、人生、行動そのものが主題に直結する描き方」によって、今まで「主題を人物に演説させるのは非文学的」と単純に短絡させていた怠慢を反省する機会を得た。

 

 

 

 205号

 

  外待合

         豊村 一矢

 

 二年ほどで病院に行く頻度が格段に増えた。膀胱癌を患ったことと、その体験から、各種の人間ドックや各種検診にと、家族から半ば強制的に病院に行かされるためである。

耳新しかった「外待合」「中待合」という言葉もいつの間にか自分で使うようになったし、患者名に「様」つける馬鹿丁寧な呼び方にも違和感がなくなった。

 がんセンターでの術後検査は三カ月に一度なのだけれど、検査や診断に要する時間は合計で精々一〇分くらい、外待合で待たされるのはたっぷり二時間である。

 あまり嬉しいことではないが、待たされることにも慣れた。何度も時計を覗いてイライラすることもなくなった。

 本でも読めばと人が言うし、自分でもそうしてきた。だが外待合での読書は性に合わないらしく、なかなか集中できない。気が散るのである。

 それで、ただボーっと座っていることにした。患者を呼ぶ放送が引っ切り無しにかかるが、その度に椅子から立ち上がる患者に目をやったりする。看護師が外待合に出て患者と話を始めたりすると、看護師の声はよく聞こえるので、ついつい、耳をそばだててしまう。つまり、人間観察のヘンな癖がついたのである。

 

十一月二十四日のことだ。

 泌尿器科は受付の次に尿検査が必ずある。私も受付で貰った紙コップを手に尿検査室に行くと廊下の長椅子に次の順番を待っている患者と付添人がいた。私はこの人の次になる。採尿室は男女各一人ずつしか入れない。

 この人と妻と思われる付添人の会話を聞いてしまうことになった。年齢は私と同じくらいか、夫の方は中程度の認知症らしい。妻は童顔で表情豊かに、やさしく、まるで母親が幼児を諭し励ますように語りかけている。夫は、にこにこしながら、曖昧な返事をくり返すだけである。どうやら、この人たち、今日この尿検査室に来るのは二回目らしい。一回目は、採尿室に入ったものの採尿せずにバーコードのついた紙コップを置いたまま出てきた。置きっぱなしの紙コップ見つけた人が病院に届け、病院から連絡を受け、やり直すためにここにいる、ということである。もう、失敗しないように妻はやさしく笑顔で必死に諭し励ましている。

 この人が採尿室にいた時間はけっこう長かった。妻は心配そうに採尿室を伺っているが声を掛けるのを憚っている。

 つぎは私の番である。採尿したコップを小窓から検査室に出して退室しようとした時、目の際に映ったものがある。手荷物をいったん置くための棚に紙コップがった。違う角度から見るとバーコードが張ってあって名前もある。中はカラだ。

 私は、あの人、またやったのだと思った。その人が泌尿器科の患者かどうかは分からない。そうだったら外待合にいるはずだから教えてあげよう、と考えた。

 果たしてその二人は泌尿器科の外待合にいて、妻が夫に語りかけていた。

「もしかしたら○○さんではありませんか。……置きっぱなしでしたよ」と私は知らせた。

 それからやや暫く、妻の、幼児に明るく語り掛けるような励ましと諭しがあり、やっと二人は尿検査室の方に向かって立ち上がった。妻はあくまで夫にやさしい。

 しかし、目線が夫から離れている時、並んで検査室向かう時、妻の、その童顔の表情は痛々しく悲しげに見えた。

 

 

 

 

198号

 

 

 漢字使用などのぼくの拘り  ―泉脩氏の作品評価にふれて―

 

         豊村 一矢

 

 

 

 泉脩さんが前号に二月例会合評の続きとして改めて文書発言し、紙上討論を呼びかけている。

 

 竹内七奈「自然的平穏生活」(「民主文学」三月号)の合評の続きということである。合評会では、手厳しい意見が多数挙がったから、日頃の泉さんの作品評価の姿勢からすると看過できないことがあったのかもしれない。

 

 討論参加にはならないと思うが、今回は竹内作品の難解な漢字使用のことについて書いてみたい。

 

 

 

 見たこともない難解な漢字が作品に出てきたとしても、それだけで批判的な感想は持たない。自分の不勉強もあるのだから。

 

ぼくが不快になるのは、竹内作品の難解な漢字表現が、作品の深い理解・共感的な理解・目に浮かぶような情景描写などに役立っておらず、書き手のオタクっぽい個人的な趣味・癖のようなものに付き合わされた読後感を持ってしまうからである。ぼくの個人的な感じ方で、つまりぼくとは相性が悪いということかもしれない。

 

竹内さんの「魅惑の漢字検定」(四月号)も読んだが、この随想は、ぼくの先の「不快感」に根拠を与えてくれた。またこの随想でも違和感を抱かざるを得ない漢字使用や用語があった。

 

 

 

 支部例会での合評などでは、当然のことながら、使用漢字や用語のことが取り上げられることが多い。そこでの論議は大変勉強になる。

 

いくつか事例を挙げてみる。

 

「民主文学」一五年一月号のにしうら妙子『冬子さんのこと』の合評で「雪掻きを抛り出して」という表現が取り上げられた。「抛り出し」は「放り出し」でないのか、という人がいたので、「抛」か「放」かの論議になった。ぼくは、「抛」派だった気がする。表意文字である漢字のイメージとして「放」は「ハナつ」の感じで、「抛」は「ナゲる」で物理現象の感じで、情景描写としては「抛」がしっくりすると思った。

 

創作にあたり、「キク」の場合、「聞く」、「聴く」、「訊く」くらいは使い分けたいが、「ウタウ」になると「歌う」「唄う」「謡う」「謳う」「詠う」などがあり悩ましい。「満開の桜が春をうたっている」は「謳っている」でなくてはなるまい。

 

 ぼくの作品で「放念」を使って珍しいと指摘されたことがある。ぼくは書くとき「忘却」とか「忘れる」とかは意味が違うと拘ったのをはっきり思い出した。

 

 とにかく、言葉の使い方は難しく深い。「陳腐な話だった」と書いて、「陳腐」という言葉から話し手への上から目線を感じると指摘されたこともある。上から目線よりも、親しみや微笑ましさを内包させたがったのだが……、独り善がりの表現になった例だ。

 

 竹内作品の漢字への批判は自分の問題でもある。

 

 

 

194号

今年はどこまでやれるか

           豊村 一矢

 

 昨年末、第六回北海道創作専科の立ち上げを試みて、必要参加数を確保できず断念した。その後、僕の何事も長続きせず目移りする悪癖が年齢も加わって顕著になった気がしていた。

そんな折、かつて僕が主宰した児童文学同人「LERA・風」の全八冊の同人誌に手を伸ばし、通読した。僕も計二十二の作品を載せていた。

 作品外で各号に「掲示板」を設け、同人が勝手なことを書くコーナーとした。今読むとこれが懐かしかった。

 本194号は編集上、もう少し文章が欲しいところなので図々しく全号から僕の分を再録させてもらうことにした。

 

 

創刊に当たって(2004年秋創刊号) ★最後の二文のみ

 新しく同人を結成し創刊号を発行する。私個人としては、子どものために書きたい。イイトシしてションベン臭いと言われそうだ。

 創作は苦しいときもあるが、真剣に取り組むこと自体を楽しみたいと思う。  

 

ふと思ったこと(2005年春)

優れた児童文学は子どもだけでなく大人も感動する」 そうか? 難癖をつけるつもりはないが、それは、せいぜい抽象的な建前論、理想論であり、ウソだと内心思っている。大人は「ふーむ、これは良い児童文学だ」という解釈を感動と取り違えている。

 だが少なくても大人に届いて子どもに届かない作品は書きたくない。それなら、私は頭に付けた「児童」の二文字を外さなければならない。

        

ある教師の話から(2005年秋)

★最後の三文のみ

 ある情熱教師が最近の子どもは変ったと言って嘆いた。

その話をつらつら聞いて、私は児童文学の書き手は、まず、子どもをありのままに受け入れるべきだと思った。

でもそれは、自分が抱く既成の子供観を観念的と一旦は拒否することだから、私には容易なことではない。

       

お前に言われたくない

(2006年春号)              

 教育基本法を変えようという人たちがいる。

 ある政府高官がしたり顔で言った。「戦後教育は、自分さえ得をすればいいという人間を育て問題を起こしている。愛国心、親孝行などよき日本人を育てる教育に変えるべきだ」

 お前に言われたくない!

 粉飾、偽装、詐欺、談合等々の騒ぎはもちろん、町の隅々、人の心の奥深くまで、世紀末の様相をみせる日本。このような日本にしたのはお前たちではないか。

 お前たちは失敗したのではない。信念をもってこの結末に導いたのだ。人間らしい心のあり様と人間同士の絆を破壊され、子供は悲鳴をあげている。

 だから、私は作品づくりを止められんのだよ。

「LERA・風」も、一年半で4号まできた。息があがりそうな時もあるが、兎にも角にも走りつづける。

       

                         

漬物の重石(おもし)にもならない (2006年秋)

 どうも近ごろ、頑固になった、怒りっぽくなった、と自分でも思う。

 娘どもが煙たがる。それはいい。別に娘のご機嫌を取る気はない。

「ホラ、そこが頑固。素直でないんだから……」と妻が笑う。それもいい。内輪のことだ。

 子供が事件を起こせばマスコミが学校を襲う。子供の万引が、なぜ学校の責任なのだ。なぜ、学校が説明しなけりゃいかんのだ。

 学校も簡単に謝るな。始めから責任のないことを謝ってどうする。学校は子供の生活の全てに関わる責任も権利も与えられていない、とはっきり言うべきだ。

 マスコミは学校を叩いて社会正義に立脚していると自分と世間を錯覚させている。

 学校は下げても減らない頭を下げて嵐の過ぎるのを待っている。

 おかげで、親は何をすべきかを誤解し、大人は偽善的になり、精神的なストリートチルドレンが量産される。大人の無責任と自己保身の結末だ。

 怒りと無力感が澱のように溜まって重い。漬物の重石にも為りはしない。      

 

BMI(2007年春)

 ボディー・マス・インデクスと言うらしい。体格を表わす指標のことらしい。私は医師から体重を減らせと言われ久しく、。真剣に努力している。

 だが、少子化問題は単純でない。保育所を増やし減税や諸手当で支援をするから産め増やせと言われて機械のように増産できるものだろうか。

 出産を控える人の気持ちはよくわかる。保育所や諸手当は大事なことだ。しかし本質は別のところにありはないか。

 十分な愛情と思慮をもって子育てしても、子が自立できないばかりか、親を殺したり、他者を傷つけたり、わが子を虐待したりする人間にならないという確信が持てない。格差社会の貧困のもとでは、愛情だけで子の未来を保障してはやれない。

 僕は最近、BMIの目標値を達成することができた。納得できる方針だから頑張れたのだ。

原稿用紙の前で、ため息をついてばかりもいられまい。子の未来についても納得できる方向性を探さねば……。    

 

甲子園(二〇〇七年秋号)

 記録的な猛暑だというのに、わざわざ全国高校野球選手権大会を見に甲子園球場まで出かけて行った。いい齢こいてガキっぽいと自分でも思う。往路に神戸空港を使った。理由は、まだ、いったことがないからである。

 甲子園は二〇年ぶりだろうか? ナイターでバースのHRを見た試合以来だと思う。着メロに六甲おろしを使っている虎キチだが、関西に出ても、梅田の阪神百貨店でタイガースグッズを買うくらいで甲子園までは、しばらく行っていなかった。

 スポーツ観戦は熱くなくちゃいけない。一度、ある歌手(名は忘れた)のLIVEに付き合ったことがあるが、そもそも性に合わないものだから、白けっぱなしで地獄だった。

 球児たちのプレーに熱くなるのは勿論だ。ビール売りの姉ちゃんが、前の階段に右足を乗せ、右手で紙コップをつきあげて、「冷たいビール、いかがですかー」と声を張り上げる。これが札幌ドームとも違ってかっこいい。一試合、3コップはいく。

 三日間、6試合を観戦、いや熱狂した。駒大岩見沢の負け試合にも熱狂した。たこ焼きも食った。お好み焼きも食った。難波で土産も買った。「めちゃ好きやねん」のロゴの入ったTシャツも買った。いつ、どこで着てやろうか。

たまに馬鹿やらないと息がつまっちゃうんだよ、今の世の中。

        

「LERA・風」が遅れた理由   (2008年春 最後となった8号)

「LERA・風」は四月一日と十月一日の年二回遅れることなく発行してきた。内心、自慢でもあった。それが8号は予定より一か月おくれることになった。

その責任は豊村一矢にある。

理由をあれこれ書くことは弁解じみてみっともないし、一矢のもっとも恥とするところなのだが、要するに、意欲の衰えが最大の問題なことは解かっている。

 最近の児童文学を読んでもつまらない。どこか、ウソを感じてしまう。

 作品を書いても、自分で納得できない。作り物の気がする。書く意欲が著しく後退した。

 作品合評会などに出ても白けることが多い。自己表現の作品に殆んどお目にかかれず、何かのオーディションのような衒いが目立って不快だ。

 そもそも児童文学って何だ。いろいろ訊いて回ったが、気取ったエセ哲学風の定義っぽいのがマジメな方で、まともな解答を得ていない。しまいには質問すること自体、迷惑がられる始末だ。児童文学って言葉はあっても、固有の文化としては、実は、存在していないのではないか。

教育からこの世界に首を突っ込んだのが災いしているのだろうか。「児童」という二字を捨ててみようか。そうしたら、言葉への信頼が回復して、意欲の閉塞状態から解放されるかもしれない。

 

 

 

 192号  

 忸怩たる未完の完への思い

 

    自作「センブリの花」のこと ②

 

                               豊村 一矢

 (前号からのつづき

 

 前号では「『忸怩たる未完の完』への思いはしばらく止まりそうもない。」で紙幅が尽きた。二〇〇字くらい余裕があったら、「八重山共和国」のこととか、敗戦直後アイヌの有力者がGHQに呼ばれて「日本から独立する意思はないか」打診されたが「その意志はない」と応えたという話を書くつもりだった。「独立したい」と応えていたら歴史はどうなっていたか……など想像は止めどもなく膨らんでいたのである。

 

 

 

センブリの花」を構想し書き始めたのは、二〇〇七年の国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、さらに翌二〇〇八年の衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択、「総合的なアイヌ政策の確立に取り組む」として内閣官房に「アイヌ政策の在り方に関する有識者懇談会」が設置され、一年後に政府としての報告書が提出されるなど、大きな動きのあった直後からである。政府のやることを端から信用できない僕も、世界注視の中だから、今度ばかりはアイヌ政策に根本的な変化をもたらすかもしれなと期待を膨らませていた。

 

 今年になって、有識者懇談会決定の報告書を踏まえて政府は「アイヌ政策推進会議」のもとでの中核の施策として「アイヌ文化の復興等を促進するための『民族共生の象徴となる空間』の整備及び管理運営に関する基本方針について」を六月十三日に閣議決定した。その後、閣議決定の具体化に伴って様々な報道が新聞紙上などでなされている。

 

 一方、金子札幌市議による「アイヌ民族なんてもういない」発言事件がおきた。金子市議は囂々たる非難のなかでも発言を撤回しないどころか居直っている。自民党会派から金子市議を庇う市議が現れ、道議会議員の中から金子市議の発言を暴言扱いすることへの批判者が出てきた。「在特会」との関係も見えてきて、「アイヌ特権」なるものに攻撃を集中している。これはけっこう根深かそうだ。

 

 八月十九日付「しんぶん赤旗」学問文化欄で榎森進氏が「閣議決定にみるアイヌ政策の問題点」を書いた。

 

 つづいて「札幌民主文学通信」一九〇号で松木さんが「アイヌ二題」を書き、金子市議の民族と人種を混同する出鱈目を指摘し、榎森氏のアイヌ政策論文については、「閣議決定にあらたな立法措置がないからといって、『象徴空間』などがアイヌの文化と権利・尊厳を発信する場として有効であることを否定することは正しくない」と批判した。

 

 また、「前衛」11月号「論点」で原島則夫氏が「『アイヌ民族いない』発言をめぐって」を書いている。金子市議発言は失言でなく確信犯的「暴言」だとして具体的に批判し上で、アイヌへの偏見・差別の実態を詳述している。その中で「今年六月、政府は『……象徴空間の基本方針』を閣議決定したが『国連宣言に沿わない権利回復抜きの施策』(『しんぶん赤旗』八月一九日付学問・文化欄、榎森進)と批判されている。民族抜き権利抜きの施策が、今回のような(金子市議問題―豊村)歴史の逆行の温床になっていることは看過できない。」と榎森氏の文章を引用している。

 

 原島氏は五年前、「前衛」二〇〇九年10月号「論点」で「アイヌ民族の生活と権利を守るために―政府の有識者懇談会『報告書』の内容と今後の課題―」を書いていた。その論文で原島氏は「強制同化政策への謝罪」がなく「アイヌの政治参加拡大」が先送りされたことへの懸念を述べつつも、「報告書」の積極的な面について大きな期待を寄せていた。 

 

 

 

 これらの情報が僕の「忸怩たる未完の完への思い」を刺激しつづけるのだ。たぶんそれは、アイヌの生き方を含む日本人としての生き方に繋がるテーマだからだろう。(つづく)

 

 

 

 191号 

 

 忸怩たる未完の完への思い

    自作「センブリの花」のこと

                             豊村 一矢

 

  昨年十二月発行の「奔流」二十四号に「センブリに花」(第三章~第六章《終章》)を書き、三回連載を「完」にした。アイヌであることを隠さずに生きる決心をした人物の物語だった。六つ章でできていて計一六六枚の長さだが、後半の第四章、第五章、第六章(終章)が合計しても二五・五枚、作品全体の十六%という歪なものにしてしまった。

  理由ははっきりしている。「学校現場」をテーマにした作品を書こうという気持ちが強まり、連作をこの号で終わらせたかったからだ。「センブリの花」の後半を極端な短縮表現という乱暴までして区切りをつけ、なぜ「学校現場」を書くことに集中したくなったのか、そのことは別の機会に書きたい。

 

 「奔流」二十四号から十ヵ月経ったが、「センブリの花」を後半短縮で終わらせたことに後悔はない。プロットそのものは構想を貫いたからである。忸怩たる思いが消えないのはテーマに係ってのことだ。

  自分がアイヌであることを長年隠してきた主人公が、偶然アイヌ音楽に触れ、体験したことない感動、喜び、自然との一体感を体験した。それを契機に、主人公はアイヌを隠さずに生きることを決意し、アイヌとしての生き方を求めて歩き始める。

  そんな構想を持った作品だが、僕自身、書き始めの段階で主人公の行き着いた姿を明確にイメージできていなかった。定まった到達点に向かって書き進めるというのではなく、僕は主人公に伴走しながら書いたことになる。その結果、アイヌとして生きる姿を抽象的な心象表現で書き小説を終わらせてしまった。

 文学会札幌支部の「奔流」二十四号合評会で、菊地大さんが、「筆者はアイヌとして生きるということの明確な内容を持ち得ていない」という意味のことを指摘してくれた。本質を突いていると思った。

  僕は、「アイヌとして生きる」をテーマに書くに当り、二つの決めごとを自分に課していた。

 ➀生あるもの、自然との共生、多神論の世界観を芯にすえて書く。

 ➁行政・団体などのアイヌ政策の流れに特化せず、個人の生活や人生の中で描く。

  これはアイヌ問題を書くモチーフに関わることで、僕には絶対欠かせないことだった。結果、未完の完にしてしまったが、問題意識は今も持ち続けている。

 最近、その問題意識が頻繁に疼く。国民国家形態が地球の大半を覆っている現代、世界の出来事から刺激を受ける。

  例えば、イングランド独立運動やウクライナ紛争からの刺激だ。

 アイヌ民族独立論は戯言だろうか。夢物語と片付けていいだろうか。

 ウクライナ紛争の中で、大統領が東部の州に対し公用語にロシア語を使うことを禁ずる(後で撤回)命令を出した。言語を奪われることは、その民族にとって致命的だ。

  アイヌ民族は明治以来、強制的な皇民化政策の結果、ヤマトにアイムモシリを奪われただけでなく民族の言葉も失いつつある。

 《北海道の一部をアイヌ自治州とし、そこには自由意思で多様な民族が住み暮らし、国民国家の日本の一部としても日本国憲法の下で矛盾せず、アイヌ語はローマ字筆記の公用語の一つとし、学校では必修科目、道路標識などではアイヌ語、日本語、外国語が併記されているといった緩やかな自治から始める。住民の支持を得られるなら自治州の行政は前記➀の理念に基づいて政治を行うこととする》

  こんな場面が出てくる小説を書いたらどうかと本気で考えたりした。「吉里吉里人」の真似かと揶揄されるかもしれない。

 「忸怩たる未完の完」への思いは、しばらく止まりそうもない。

 (つづく) 

 

 

  186号 

 

 短編小説 忘れ得ぬ人シリーズ1  

    辻井静子   

                豊村 一矢

 

  一九五九年、私は大学受験を決めてはいたが、それほどの大志もなく、だらだらと高校最後の夏を過ごしていた。

 私は札幌の中心からさほど遠くない下町で生まれ育った。場末の臭気漂うこの街も、近頃、売春防止法が施行されて表の顔つきはずいぶん変わった。米軍の主力が真駒内駐屯地や千歳基地から撤収すると米兵の闊歩する風景も消え、電気屋のテレビの前に人集(だかり)も日常になった。

 

 夏休みの昼下がり、私は団扇を片手にぶらりと近くの商店街に出た。狭く薄汚れた通りだ。夏は風通しのため、ほとんどの店が表戸を外している。

 私は茶屋の暖簾をくぐった。

 先客が二人いた。女が子守の途中で茶屋に寄り、椅子を向い合せにして離乳食を与えている風情だ。女はたわわな髪を頭の後ろでまるめ、お粥を赤ん坊の口に運んでいる。

 私は離れたところに腰を下ろした。

 奥から茶屋の親父が出てきた。

「いらっしゃい」

「かき氷。……金時」

 私の声に女が振り向いた。

 女の顔をみて、若い! と思った。

 女は無表情に顔を戻したが、赤ん坊にひと匙運ぶと向き直った。怪訝そうに私を見つめたが、ふと口元を緩めると軽く会釈した。私もつられて会釈を返した。

 その後、女が振り向くことはなかった。

 今の会釈はなんだろう? 女は私を知っているのだろうか。それとも、偶々(たまたま)目線が合ったときの軽い目礼のようなものだったのだろうか。

 それに、この赤ん坊と女の関係は? 母子か、姉妹か、女中と主人の子の関係か。おんぶ紐がテーブルにのっている。ここの茶屋の者ではないだろう。

 私は取り留めもなく、そんなことを考えていた。

 

 二学期、恒例の学校祭が始まった。生徒会で仮装行列、合唱、英語劇は鑑賞も含め必ず参加する決まりになっていた。私は、実演は仮装行列だけにして他は鑑賞に回った。

 英語劇の鑑賞はいつも退屈だ。衣装や舞台づくりが面倒なものだから、学園ものの創作劇をやるのが常だ。事前に台本が全生徒に配られ、それには和訳のセリフもついているから英語が苦手な私でも筋は解かる。しかし、英語で演じるのがウリなだけで、劇としては全くつまらないのである。だが……。

 え!

 私は思わず顔を上げてステージに目をやった。虎の巻のカタカナ・ルビを棒読みするようなセリフの繰り返しの中で、突然、流暢な英語が聞こえてきたのだ。

 みんな、詰襟、セーラー服の制服で演じているが、流暢な英語の持ち主はすぐに分かった。母国語で語るような無理のない演技は、大げさな動作がなくても目立つ。そして……。

 あ! まさか……。いや、間違いない。

 なんと、その演技者は茶屋でのあの女ではないか。髪を背中まで流し、制服に身を包んでいるから別人のようだが、あの「若い!」と感じたときの残像と明らかに重なった。

 私は慌てて手元の台本を開き、キャストに目をやった。

 Woman student12 3年4組辻井静子

 英語劇以来、彼女を意識した。だが、クラスも違い接点が無いに等しく、遠くに姿を見つけるとしばらく目で追うくらいのことしかできなかった。

 中卒女子の高校進学は五〇%に満たない。一応進学校で名の通っている高校に入学できたことと茶屋で見かけた薄幸の女の印象とがどうしても重ならない。就職組、家事手伝い組のイメージなのだ。

 商店街を歩いても、あの茶屋を覗いても彼女の姿を見ることはなかった。

 

 冬休みになった。私は受験校のランクを落とし地元の公立大学に目標を絞ったので追い込みといっても何となく余裕があった。

 商店街は相変わらず薄汚れていたがクリスマスともなれば賑やかだ。厚着をした人々が忙しく行き交っている。そんな中、私は、あまり期待もせず茶屋のガラス戸から中を覗いてみた。なんと、彼女と赤ん坊が、あのときの場所にいるではないか。

「こんにちは」

 私は、ためらわず中に入った。

「こんにちは」

 彼女は、あのときと同じように振り向いて驚きもせず柔らかく応じた。

 私のことを一組の岡本と知っているのだろうか、それすらはっきりしない。

「いらっしゃい」

 茶屋の親父が出てきた。

「善哉」

 彼女が善哉の餅を箸で切り分けながら赤ん坊に食べさせているのを見て、つい、同じものを頼んでしまった。

 沈黙は会話のきっかけを無くしてしまうと思った。善哉が届くと、すぐに話しかけた。

「辻井さん。もう、進路は決めたの?」

 彼女はちょっと戸惑いの表情を見せたが、

「ええ。君は?」

 と言った。私のことを岡本君とは言わなかった。たぶん、名前を知らないのだろう。

「ぼくは地元。K大を受けるんだ。辻井さんは?」

「わたしは進学しないわ」

 彼女は赤ん坊に目をやった。

「でもね、わたしは飛ぶの。幸せを求めてね」

 笑顔で言ったが私に向けた言葉だったのだろうか。

 これが辻井静子と交わした最初で最後の言葉だった。

 

  昭和三五年春。私は予定通りK大に入学した。寮にも入らず下宿もせず自宅から通った。

 彼女がどうなったのか、全く分からない。本当に幸せを求めて飛んで行ってしまったのだろうか。

大学からの帰り道、まだ茶屋が開いていたので立ち寄ってみた。

 中には誰もいなかった。

 親父が出てきた。

「ほ。今日は遅いね。ろくなものは残ってないよ」

「大学から戻るとこの時間になるんですよ」

「そうか、大学か……」

「ねえ、おじさん。あの、よくここに赤ん坊を連れて来ていた彼女、どうしているのかな」

「ああ、シズちゃんのこと?」

「そう、辻井静子さん」

「シズちゃんねえ、アメリカに行っちゃったみたいだよ」

「アメリカ! 何しに」

「何しにって、俺も詳しくは知らないだけどね……千歳の米軍基地から帰国する将校と一緒だとか後を追ったとか」

「本人が言ったの?」

「いや、シズちゃんに、そんな素振りは何もなかった。俺には、おしゃべりの好きの子だったのになあ」

「じゃあ、アメリカの話は誰が……」

「シズちゃんの父親が言ったんだよ。そんなこと書いた手紙を残してシズちゃんが消えたもんだから、何か知らないかって、俺んとこに来たんだ。父親の顔を見たのもそのときが初めてだよ」

「あの赤ん坊は……」

「あ、あれは父親の後妻の連れ子だ。つまりシズちゃんの義理の弟。可愛がっていたのになあ」

「そうですか……」

「あの一家、越して来たばかりだし、近所も……家族だってシズちゃんのこと、よく知らんと思うよ」

 茶屋の親父は、私に同情するように言った。

私はただ頷くだけだった。

 

 この五〇年、何かにつけ辻井静子さんを思い出した。

想像の世界での辻井静子さんはその都度、異なった人生を歩んでいて、私は無数の人生を思い描いた気がする。

 彼女は私にとって一瞬の通りすがりの人に過ぎない。それなのになぜ何度も何度も思い出すのか、不思議である。

 

 

 

 

 

  ことば雑感  その7

                 豊村 一矢

 

 

 

「奔流」24号用の自分のゲラ原稿に目を通していて、一校と二校で感じ方の異なる個所があった。宮沢賢治や「吉里吉里」という言葉が出てくるところである。自分の書いた文章に、このように動揺するのはどこか心に疚しいところがあるからに違いない。

 ある人物が大学生活を送るところや仕事のする場所として赴く新天地への思い入れを描く文章なのだが、そこで固有名詞を使った。ここでは、その人物の思い入れの内容と程度を書きたかったのだが、中心人物ではないので詳述文は似つかわしくなく、印象深くさらりと書くという意図があった。そこで宮沢賢治・井上ひさし・キリキリを使用したのである。

 この新天地を人物の戦死した祖父の出生地としたのは、真っ当で何の疚しさもない。初めからこれは書くつもりだった。

 だが、固有名詞の方は当初まったく構想にはなく、成り行きで書いた。疚しさの元はこれだ。無論、閃きや成り行きで書いて何も悪くはなく、納得のいくものに行き着くことが多いことも知っている。試行錯誤すればいいというものではない。

 だけれども、宮沢賢治や井上ひさしへのぼくの独り善がりのイメージを、読者が24号の固有名詞入りの作品を読んで共有してくれるかどうか、全く保障はないわけで、独善極まりないと言えないか。下手な暗喩的な表現として固有名詞を使うのは手抜きではないか。こんな思いが交錯するのである。

 これはぼくの悪癖のようである。別の作品で、必然ではなく、ある意味安易に、カインの末裔、東倶知安行、佐々木譲を借用したことがあった。ときどき思い出すが、その是非は自分のなかで決着がついていない。

 

 さて、これは悪癖ではないと思うのだが、創作の癖で、「密かな遊び」をしてしまうことがある。それを書いてしまえば、もはや「密か」ではなくなるのだが……。

 自作品の引用で申し訳ない。「北海道民主文学」18号の「センブリの花」の一節。

 

  (前略)

 若いメノコが逃げる。

 ミズナラの森を抜ける。

 フキの沢を上る。

 ハシドイとノリウツギの尾根を越える。

 ハンノキの谷を下る

 (後略)

 

  ミズナラ、フキ、ハシドイ、ノリウツギ、ハンノキと植物名を並べた。

 ぼくは、児童文学に関わっていたときに「アイヌ創作民話」をシリーズで書いてきた。民話の性質からいって創作民話というジャンルが成立するか否かを問題にする人もいる。その話はさて置く。

 ぼくは、「アイヌ創作民話」を児童文学の同人誌で何作か書き、民主文学会に入ってからも書いて「札幌民主文学通信」に載せて貰った。通信には、児童文学の同人誌に書いたものからの転載もある。

 実は、先の植物名では自作「アイヌ創作民話」を隠し味のように使っている。それが密かな遊びだ。

 例えば、ミズナラであるが通信156号「ペロ(ミズナラならの木)」、フキは157号「コロポックル(フキの下の住人)」、ハシドイ、ノリウツギは159号「ハシドイとノリウツギ」といった具合である。

 「センブリの花」では囚われの身のメノコが和人の子を宿して我が身とお腹の子を守るために逃避行する場面である。植物名は単なる風景ではなく、ぼくなりに創作民話で描いた自然観、死生観、人間観を注入したつもりでいる。例えばコロポックル(フキの下の住人)は旅人を守る神としてあちらこちらで伝えられてきた話と聞いている。

 これはぼくの「密かな遊び」である。なぜなら、上記の植物名とぼくのアイヌ創作民話を結び付けて読んでくれる人などいるはずがないし、それを全く意識しない遊び感覚である。また、「センブリに花」で使うためにアイヌ創作民話を書いたのでも勿論ない。

 密かな遊びを知らしめるように「アイヌ創作民話」をその都度紹介したりすると、たちまち、前述の宮沢賢治や井上ひさしを借用したような安易な暗喩の押し付けるになる。

 自分が密かに仕込んだ隠し味を自分で楽しみ、ほくそ笑む。

 心の中で(密かに)、この癖が、言葉を辞書的な意味だけでなく、奥行きのある、臭気を放つものとして作品の中で生かせるまでに役立ってくれればと願っているが……ま、夢は大きく持っても罪にはなるまい。

 

 

 

 

181号

      ことば雑感  その6

                    豊村 一矢

 

  本通信に「ことば雑感」という雑文を書き始めて「その5」まで来たが、書いた後、いつも残余感があった。あとで、あの事例も取り上げればよかったと気が付くのである。今回はそんなことを拾ってみたい。

 ぼく   晩飯、どうなった?

 娘    バンゴハン大丈夫です

 ぼく   大丈夫? 食うのか食わんのかどっちなんだ

 娘    食べません

 これは、ことし八月、東京での娘とぼくのメールのやり取りである。

 野暮用ができて上京した。昼前羽田着、翌日ほぼ同時刻に羽田から帰るというそっけない日程だったが、一日目の夜が空くことを知った小石川の娘が、「晩御飯を御馳走して」と言ってきた。その後、次のようなやり取りがあった。「七時以降ならOKだ。そっちの都合は?」と応じると「その時間なら微妙、もっと早くならない?」「食べる場所にもよるが基本的に無理」「予定調整してみる。あとでメールするね」

 午後五時になっても連絡が入らないので催促したときのやり取りが前出のメール交換だ。

 さすがの読者諸氏も「バンゴハン大丈夫です」の意味を「夕食を御馳走して貰うことはできなくなりました」と確定的に理解することはできないだろうと思う。

 思い出してみると、今までも、この娘は「大丈夫」という言葉をよく遣っていた。それを覚えているのは、今回のように極端でなくても yes or no?  と一瞬でも迷ったことがあるからではないだろうか。

 さて、「バンゴハン大丈夫です」が、なぜ迷わず「夕食を御馳走して貰うことはできません」になるかだ。この言葉遣いの好い加減さは一過性でない可能性がある。そうであれば親として看過できない。

 こういう時には上の娘に頼ることにしている。

 上の娘の言い分は次の通り。

①この事例の場合、用語の解釈は当事者同士で成立すればOK。第三者の解釈、つまり客観性は不必要・無関係。

➁「大丈夫」の解釈。晩御飯は誰の請求か誰の負担か、それを当事者同士共通認識しているのが前提。請求者が負担者に大丈夫と言えば負担解消・晩御飯無しの意味。負担者が請求者に大丈夫と言えば晩御飯成立の意味。

 上の娘とは電話で話をしたのだが、彼女は可笑しそうに「お父さんが本心から、『M子(娘)に晩御飯をネダられて、とんだ散財になるぞ、困った』と思っていたら、『バンゴハン大丈夫です』の解釈を迷わなかったと思うよ」と言った。

 成程……と考え込んでしまった。

 深読みが過ぎるかもしれないが、「バンゴハン大丈夫です」は「晩御飯は一緒に食べられません」「晩御飯はいりません」より断り方が婉曲だ。「あなたに負担をかけなくて済みます。ご心配を掛けました」、さらに「気にせずご放念ください」といった意味合い含む。つまり気遣いの表現になっている、と言うのだ。

 だが、一方で一〇〇%「思いやり」表現と単純に言い切ることもできない。ぼくは、この間接表現には、相手を気遣う形を取りながら(実際そういう思いも込めながら)物事を曖昧にする逃げの心理が働いている感じを払拭できない。むろん、一人ひとりは、日常、婉曲表現だとか、曖昧表現だとか意識せず遣っているだろう。他の若者言葉と同様、現代の若者の心理傾向がこのような表現方法を生み出しパターン化したと推論する。実際、娘の「バンゴハン大丈夫です」に「あなたに負担をかけなくて済みます。ご心配をおかけしました。気にせずご放念ください」という思いがあったとは思えない。

 

 もう一つ、風見梢太郎「海洋投棄」で遣われている「イチエフ」に、今もこだわっている。前号で地の文でも遣れていて違和感があると書いた。「イチエフ」が原発労働現場の隠語であることは間違いない。ぼくは学校での教師同士の呼称「先生」を準隠語と解釈し、作品では原則、会話文でしか遣わないようにしているから、その感覚で「イチエフ」に違和感を持ったのかもしれない。「イチエフ」がどれほど拡散して共通語として定着しているか、判定基準などあるはずもない。

 だが、隠語を地の文で遣うことにより、隠語仕様の世界に読者を投げ込む創作手法とも考えられる。それにしても(作品評は本雑文の領域ではないが)「海洋投棄」でこれが成功しているとは思えないのである。なぜだろう。

「海洋投棄」では原発の専門知識(ぼくには実質的な主題とさえ思える)がつぎつぎと書かれていく。素人のぼくにはそれが魅力で惹きつけられる。それなのに感動が今ひとつなのは、専門知識が物語の中で展開するのではなく人物の対話で説明されていること(対話も物語の一部かな?)に原因があると考えるに至った。

 これらはぼく個人の勝手読みによる仮の結論だが、「言葉は生き物だ。置かれた場所で表情を変えるものだ」とつくづく思う。