226号 

 

 

 

 

 植民地南樺太のこと

 

             吉田 たかし

 

 

 

いやあ、びっくりしました。民文通信を読んでいたら、いきなり「吉田たかし 海峡の少年」が目に飛び込んできたではありませんか。この本を出版してからもう二五年もなるのです。カラフトとか引き揚げとかが話題になると、この本が取り上げられることも稀にはありました。が、それも昔の話です。しかも今回取り上げてくれたのが敬愛する泉脩さんです。やはり一言お礼を申し上げなければなりません。未熟で拙い作品を丁寧に読んで下さって、有難うございました。

 

そのなかで泉さんが疑問に思われた点について、私の理解の範囲でお答えしておいたほうがよいと思いますので、浅学も省みずに述べさせていただきます。

 

泉さんは『カラフト南部は、日本が侵略で得た領土(植民地)であるということである。中国と朝鮮からの引き揚げ者には、多少とも植民地支配への反省があるが、樺太からの引き揚げ者には押しなべてこの反省が感じられない。これはどうしたものだろうか。』と疑問を呈しておられます。

 

 樺太が日本の植民地であった四十年間、私の知る限り、樺太では、支配者の日本人と被支配者のロシア人(あるいは現地人)との間に紛争や弾圧があったという話を知りません。そもそも日露戦争当時の南樺太には、大きな企業や産業などなく、数千人の現地人(アイヌ、ウィルタなど狩猟や漁業を主な生業とする北方少数民族)は、主に北樺太に居住し、少数の本国から流刑されてきたロシア人との間に搾取や抑圧という関係は生じにくかったのではないかと考えています。

 

 日本と帝政ロシアとの領土の変遷を時系列でみると次のようになります。

 

  1. 一八五五(安政元)年

 

「日露和親条約」で「混住の地」

 

  1. 一八七五(明治八)年

    「樺太・千島交換条約」でロシア領

  2. 一九〇五(明治三八)年、日露戦争

       カラフト南部を領有。

    因みに一九〇三年末の人口調査では、

     ロシア人 三五二四八人

       (内訳 良民 一一九九九人

           囚徒 二三二五一人)

 

原住民 四〇五一人

 

日本人 約四〇〇人

 

ほかに韓、清人が少数

 

  1. 一九四五(昭和二十)年

        敗戦、引き揚げ

 

 こうしてみると、日本人と原住民との関係で大きな出来事といえば、一八七四年、(交換条約調印の前年)、原住民(アイヌ、ウィルタ、ニブヒといわれる少数北方民族八四一人)が対雁(ツイシカリ、現江別市)に集団移住をさせたことと、一九二六年、敷香(ポロナイスキー)近郊に観光地として「オタスの杜」を作り、ウィルタの半数の数百人とニヴヒ一〇〇名程度が居住させられたことぐらいと思います。

 

 つぎに「ロスケ」という用語についてです。この本を書いいたころは、確かに「差別用語」という点で細かに配慮されていないきらいがあります。ロシア人は自分のことを会話の中で「ロスキー」というので、なんとなく「ロスケ」が使われてしまっていたと思います。ただ、漢字で「露助」に至っては、明らかに差別表現だと思います。

 

 

 

 

 

 

  193号

 

  私の『オタマジャク史』

           吉田 たかし

                

民文通信連載の泉さんや後藤さんの、深い造詣に裏打ちされたクラシック音楽についてのエッセイを、私はただただ感服して拝読している。私も音楽は嫌いではなく、お二人に共感するところも少なくはないのだが、それほどクラシック音楽に詳しくもなく、もちろん傾けるべき「薀蓄」なども持ち合わせていないから、自分も書いてみようなどとは思いもせず、毎月楽しく読ませて頂くだけで良しとしていた。

 ところが最近、そろそろ人生の終い支度とやらを始めようかと、来し方を振り返り始めてみると、何やら音楽らしきものが、私の80年余の人生を骨太く貫いている気がしてきた。

 「音楽らしきもの…」。私のそれは、先の「クラシック・エッセイ」とは少し次元の違う、ごくありふれた庶民生活のなかの音楽体験のことである。どう違うのかと言われるといささか説明に戸惑うが、早い話、芥川賞と直木賞、「純」文学と「大衆」文学の違い「ノヨウナモノ」とでもいうほかない。

 私の職業は小学校の教師である。そして私の教員生活のほとんどは、戦後の音楽教育の歩みと重なってきた。また、うたごえ運動、労音運動といつも音楽から離れることはなかった。音楽を通して知り合った仲間たちや教え子との交流は今も続いている。何よりもその頃触れた音楽が、今も日々の暮らしの中に、ささやかな喜びや希望や、さらには生きる意欲を運んできてくれる。

そうか、自分の82年の歴史の軸に、音楽を据えて振り返ってみるのも「アリかな」と思い始め、わが生涯をひもといてみることにした。

すなわち、わが「オタマジャク史」である。

 

1、軍隊ラッパとともに。

 日本が中国大陸への侵略を始めた1931年(昭和6年)の翌年、私は樺太本斗町で、9人兄弟の末っ子として生まれた。父親は秋田の農家の次男坊だったから、当時の農民の多くがそうであったように、故郷を離れてそれぞれ独立して生計を立てていくという道を歩んだ。

 父は1844年(明治16)生まれで、日露戦争に出征したらしい。そんな話を聞いた記憶が微かにある。その後父は港湾労働者として北海道・樺太と渡り歩き、クラシック音楽などとはおよそ縁もゆかりもない生活を送ってきた。私が物心ついたころ、我が家の暮らしはそれなりに余裕があったようだ。給料も高く物資も豊富だった。樺太まで出稼ぎに来るというのは、それだけの見返りがあったからで、いわゆる植民地政策の「恩恵」を受けていたのであろう。

昭和の初期、ラジオは普及していたが蓄音機はまだ珍しかったころ、我が家にはすでに大きな蓄音器が置かれていて、姉たちが童謡の、両親は浪曲のレコードをかけていたのを覚えている。廣澤虎造の森の石松、寿々木米若の佐渡情話などは、いまでも「ヒトップシ」唸れるほど頭に染みついている。

しかし、そんな庶民のささやかな楽しみは暮らしの中から次第に姿を消し、私が小学校に入ったころ(1938年)は、すっかり軍歌に取って代わられていた。私が中学校(旧制)に入学したのが1944年、日本の敗戦前年である。学校そのものが軍国主義の狂気の渦中であり、校舎は「小国民」養成の兵舎と化していた。入学すると早速ラッパ部に入れられた。もちろん軍隊ラッパである。進軍ラッパ、突撃ラッパ,起床ラッパと明けても暮れてもラッパの練習で、顎が腫れて物が噛めなくなったのを覚えている。

そのころ我が家自慢の蓄音器は、いつしか床の間から押入れの片隅に押し込められていた。わたしはときどきあたりの気配を窺っては、姉たちと一緒にそれをそっと引っ張り出し、ひそかに隠し持っていた何枚かのレコードを声を潜めるようにして聴いたものだった。それが「G線上のアリア」、「ドリゴのセレナーデ」など、「敵性音楽」といわれるセミクラシック音楽であった。私はいつの間にか、そのヴァイオリンの悲しげな旋律と甘い音色の虜になり、だれもいない時を見計らってはそっと口笛でメロディーを吹いて、ささやかな陶酔の時を楽しんでいた。

2、占領下の樺太で

 敗戦になって樺太はソ連領になった。町の中も人々の暮らしも、価値観は劇的に変化した。校舎はソ連軍に接収され兵舎になってしまい、ときどき響く銃声にもすっかり慣れっこになった。

 日本人の中には、今まで禁じられていた自由や文化への要求が、まるでせきを切った水のようにあふれ出てきた。戦時中は「退廃音楽」といって禁止されていた「湖畔の宿」「たれか故郷を思わざる」などといういわゆる流行歌が歌われた。「楽団サガレン」という日本人の楽団もでき、ホルムスクにも巡業でやって来た。歌っていたのが著名なシャンソン歌手「高英夫」だったと引き揚げ後に聞かされた。また、街の中を時々ソ連兵が隊列を作って行進し、そのたびに見事な男声合唱を聞かせてくれた。

♫『モスクワモヤ、スタラナモヤ、テッサモヤ、リョビマヤ』。

耳で覚えた言葉だけで、楽譜に起こせないのが残念だが、ザッ、ザッと鳴る軍靴の音も耳に心地よく、朗々とした豊かな歌声が聴きたくて、よく行進の後について歩いたものだった。また街の映画館で観た「シベリア物語」か「石の花」かどちらかが、私が生まれて初めて観た「総天然色《カラー》」映画で、その美しさに息をのんだものだ。

3、民謡と軽音楽

引き揚げが始まった。私の一家の引き揚げは1947年4月であった。引き揚げ船で最初に耳にした音楽は「リンゴの唄」「かえり船」などの流行歌。引き揚げ船が函館に入港してから検疫が終わって上陸するまでの数日間、船のスピーカーは朝から晩までこうした流行歌を流し続けた。

やがて秋田県男鹿半島の小さな農村に引き揚げた。およそ2年間の秋田での引き揚げ生活が始まる。

この頃の音楽とのかかわりといえば、やはり民謡を忘れるわけにはいかない。民謡の宝庫と言われる秋田である。三百人そこそこの集落にも、民謡の名人・上手と自他ともに認める歌い手が何人かいて、盆・正月や嫁取り、祭りの席などでたっぷり聞くことが出来た。「秋田音頭」「秋田おばこ」「生保内節」などが耳にこびりついたのがこの時期だった。

いま一つ、この頃に受けた音楽的カルチャーショックに、「軽音楽」というジャンルの、軽快で華やかな音楽があった。クラシックでは出番の少ないアコーディオンやサキソフォンなどが花形楽器で、折からアメリカ輸入のジャズブームとも相まって、秋田の田舎にも「楽団○○」と称するドサまわりの楽団がやってくるようになった。学校の体育館や村の集会場に即席の舞台を作り、ライトに照らされて輝く楽器の創り出す音の世界は、何の娯楽もない農村の若者にとって夢の世界であった。

4、足踏みオルガン

 二年弱の秋田での引き揚げ生活に終止符を打ち、一家が新しく生活の地と定めたのが道北の炭鉱町である。無一文の引き揚げ者が進学するなど及びもつかないことで、私は炭坑夫になるか、学校の教員になるかの二者択一を迫られた。金になるのは炭坑夫、面白そうなのは学校の先生。ずいぶん迷ったけれど、深刻な教員不足を校長に訴えられては逃れようがなく、絵に描いたような「デモシカ先生」が誕生した。

 学校には足踏みのオルガンが1台あった。それを弾けるのは先輩の女先生だけで、私はその先生のクラスの体育と交換で音楽の授業をお願いしていた。ところが突然、その先生が結婚退職することになり、二学期からは自分で音楽を教えなければならなくなった。その年の夏休みは、毎日学校へ行ってオルガンに向い、その年の教材の旋律だけはなんとか弾けるようになり、1クラスが70名という、超すし詰め学級の教室の片隅で脂汗を流しながら必死でオルガンを弾いた。まさに「音が苦」であった。最初は1本指で、やがて10本の指をなんとか使えるようになってきた。この時の猛勉強で楽譜や記号が読めるようになった。そこで心機一転というか身の程知らずというか、音楽を本気で勉強してみようと決心した。

オルガンは「バイエル」で基礎から練習した。名前だけは聞いたことがあるベートーベンの第5「運命」やシューベルトの「未完成」などを、退屈を我慢して聞いた。聞き覚えのある『菩提樹』が、歌曲集「冬の旅」の中に収められていることを知って感動したのもこの頃である。「音が苦」が「音楽」に変わり始めていた。

5、音楽の先生

やがてわたしは、ピアノのある学校に転勤することになった。大きなグランドピアノが音楽室にでんと据えつけられていて、蓋を開けるのも(鍵がかかっていた!)キーを叩くのも尻込みしたくなるような威圧感があった。

誰もいないのを見計らって音楽室に忍び込みキーを押した。キーはポコンと引っ込んだままで、うんともすんとも言わなかった。これが私とピアノの初対面である。やがて猛練習の甲斐?あって、「エリーゼのために」とか「乙女の祈り」といった簡単なピアノ曲なら弾けるようになった。今なら小学生でピアノを習っている子なら、だれでも弾ける程度の曲である。それほどピアノが弾ける先生は希少価値だったのだ。

この頃になると文部省も「情操教育」とか称して、美術、音楽、体育といった、いわゆる「主要教科」でない脇役に力を入れ始め、楽器やレコードなどの購入予算が増えた。「器楽演奏」が必須になり、簡易楽器(教育用カスタネットやハーモニカ、木琴、合奏用アコーディオンなど)が購入された。

また次々と新しい歌唱教材が取り入れられ、中田喜直、團伊玖磨、貝沼実などといった日本人の作曲家の作品も教科書に取り上げられた。さらに合唱や輪唱なども教えることになった。観賞用レコードは、文部省指定曲など無視して、自分が聞きたくて子どもたちが喜びそうな曲を中心に選んで購入した。なかでもシャリアピンの、ムソルグスキーの「蚤の歌」、ロシア民謡の「ボルガの舟唄」などは子どもたちに特に人気があった。

当時指導書という教師用教科書があった。教師のために懇切丁寧に解説した『虎の巻』なのだが、それでも難しいとみたか、文部省は指導書の巻末に「ソノシート」というプラスチック製の紙のようなレコードを付録につけたのである。それには新しい歌、難しい曲の演奏が録音されていた。

教材に輪唱というのがある。バッハのフーガ(あるいはカノン)の作曲形式(遁走曲)で作られた「静かな湖畔」という歌に代表される曲で、同じ旋律が追いかけながら繰り返し出てくる。

この「静かな湖畔」のソノシートを聞いたある学校の先生が驚いた。これは不良品だ。同じ旋律が何回も出てくる。空回りのレコードではないか。ソノシートを持って教育委員会にクレームをつけに行った先生に、教育委員会ののたまわく「出版社に言って交換してもらいます」。

嘘のような本当の話である。

6、アコーディオンを肩に

 この頃私は、身の程知らずにも120ベースのアコーディオンを買った。遠足や野外活動にはいつもアコを肩にかけて出かけた。

60年、70年安保闘争をたたかい、組合運動の高揚のなかで、道北の田舎でも「うたごえ運動」が広がっていった。集会のたびごとに荒木栄の歌が響き、アコーダーのわたしの出番は増えるばかり、「わかもの会」といううたごえサークルを作って全道うたごえ祭典に参加したり、その合間にNHKの合唱音楽コンクールに参加し、市内で連続優勝し道北地区大会でもそこそこの成績を残したり、町に「労音」を起ち上げ初代委員長に収まったり、ついにはその延長で、労働組合の専従役員にまでなってしまった。

その頃の私と音楽との結びつきで画期的だったのは、労音活動を通してナマの音楽、ナマの演奏家に触れあうことが出来たことである。

市内の音楽教育研究サークルの先生たちから「子どもたちにナマの音楽を聴かせてやりたい」という要望が出され、それにはまず教師自体が聴く機会を持つのが先だろうということになり、あれよあれよという間に話が発展して、紆余曲折を経ながらも労音(勤労者音楽協会)結成へと進んでいってしまった。

何しろ日本最北端の小都市に、名だたる音楽家が年に数回公演に訪れるのである。クラシックではピアノの安川加寿子、ヴァイオリンの辻久子、さらにダークダックスや北村英治クウィンテッド、ラテンの有馬徹とノーチェ・クバーナといった、ジャズやいわゆる軽音楽まで幅広いジャンルの音楽家がやってきた。

この時期私がもう一つのめり込んでいたのが映画音楽の世界だった。サッチモことルイ・アームストロングに驚き、「グレンミラー物語」のジェイムス・ステュワーとジューン・アリスンにすっかりのぼせた。「鉄道員」「自転車泥棒」「ひまわり」といったイタリア映画やヌーベルバーグのフランス映画とそのテーマ音楽が忘れられず、劇場通いに明け暮れた。今思いだしても、何と自由でぜいたくな時間を享受していた事だろう。

7、「新世界」との出会い

しかし、こんな多忙の中で私は初めて「これがクラシックか」と震え上がるほど感動した音楽との出会いがある。

1959年10月、まさに60年安保闘争のど真ん中で、チェコフィルハーモニーの札幌公演が行われ、何かのはずみで北のはずれの片田舎の私が、そのチケットを手に入れることが出来たのである。それまで私は、オーケストラの生演奏を聴いたことがなかった。

会場は中島公園にあった札幌スポーツセンター。いまは影も形もないが、よくプロレスの興行なども開かれるところだったらしい。音楽ホールなど当時はなく、体育館にパイプ椅子を並べた会場だから、音の反響がひどかった。

当時の記録を見ると、曲目はシューベルトの「未完成」、スメタナの「モルダウ」、そしてドボルザークの交響曲第9番「新世界より」。指揮はカレル・アンチェル。「未完成」と「モルダウ」は記憶にない。ところが「新世界」を聴いた感動は今も鮮明なのである。第1楽章の弱音部からイングリッシュホルンのテーマが鳴り響いた時、背中がゾクゾクっとして脳天が痺れ、音の世界に吸い込まれてしまった。

以来私は「新世界より」が大好きで、いろいろな演奏家の曲を聞いた。しかし、CDを買うのはとても厄介なのである。店頭で陳列ケースの前で、一人でぽつんと試聴用のヘッドホーンをつけて聴いてみても、良し悪しの判断がつかない。結局新聞や雑誌の評を読んで買ってしまう。他人の評価に委ねてしまうのである。そうして買ったCDも、よい機器で聴かなければ意味がない。

結局私は、CDを買って観賞する条件も意欲も持ち合わせないまま、いまはもっぱらTVの音楽番組、例えばNHKの「名曲を訪ねて」などを、録画で楽しんでいる。最近聴いたなかでは、N響のブロムシュテッド指揮「新世界」が名演だったと思うし、CDではチェコフィルのクーベリックが気に入っている。 

 

駆け足で、わたしと音楽の関わりを振り返ってみた。

今年も残り少なくなってきた。年末年始にかけて、TVの音楽番組も賑やかになるだろう。今年の「第9」はどんな演奏を聴かせてくれるのか。そして新年。きっとどこかの番組で「新世界」を聴かせてくれるはずだ。

今度こそ総選挙勝利の盃を傾けながら、「新世界」を心ゆくまで堪能し、私の「オタマジャク史」も無事完結といきたいものだ。