212号

 

 

キューバツアー日記5

 

            木村 玲子

 

  (このツアー日記は、2015年11月16日~24日間の旅を、地域のミニコミ誌に書いたものです。2回ずつ3回に分けて掲載させていただきます)

 

 

 

 シェンフェゴスの町を離れて、町全体が博物館のような古都トリニダーへ向かう。

 

 「とても歩きにくい街です」とガイドのスサーナさんが紹介した通り、不揃いの石畳の道には、クラシックカーよりも馬車が似合っているようだ。この町には、たくさんの博物館があるが、その中の一つ「ロマンティコ博物館」を案内された。

 

 狭い路地を通り抜けて、その昔、サトウキビ農園で巨万の富を得たという富豪の館を改造した、広く立派な建物に入った。ヨーロッパから持ち込んだ様々な家具調度品の置かれた部屋の次に、「奴隷船」を展示した部屋があり、アフリカから連れてこられた奴隷の悲惨な運命を辿っていて息を呑んだ。現地人を殺して、連れてきた奴隷を酷使するという犠牲の上に、サトウキビ産業が発展し、富豪が現れ、町が造られ、そうした中からやがて独立運動が芽生え、発展して行ったのだなあと想像させられた。   

 

 二階のテラスに行くには、急な階段を数人ずつ区切って登らなければならない。高い所からは緑豊かな低い山並みと美しい市街を一望することができたのだが……

 

  ここに来る前に寄ったレストランも、やはりさとうきびで儲けた富豪の邸宅跡だった。昔の負の遺産が、今観光用として盛んに利用されている。

 

 

 

 その屋上からは、遥か遠くに、稼働することのなかった原発ドームが見えた。

 

 キューバでは原発を造成中にチェノブイリの事故が起き、同じ型の原発だったために、動かすことは無くなったのだが、ドームだけはまぼろしの宇宙基地のように残っていた。

 

 

 

 この後も、塔のような高い展望台をいくつか案内されたが、その多くは「監視塔」と呼ばれていて、昔はサトウキビ畑で働く奴隷達を見張るためのものだった。

 

 階段を何段も登って見渡す景色は、今は少しのサトウキビの畑と、緑いっぱいの草原が広がり素晴らしい眺めなのだが、それが「監視塔」と呼ばれていて、こうして上って楽しむということに、複雑な思いがしたことだった。

 

 その周辺の青空の下で、婦人たちが自ら造った刺繍の製品を「ハンドメイド、ハンドメイド」と言いながら売っていた。遠くからはシーツを干しているように見えたのだが、良く見ると、刺繍したテーブルクロスだった。道端で作品を創りながら健気に働く女性たちは生き生きして見えた

 

 

 

 

 

  キューバツアー日記

 

 トリニダー郊外のリゾート地で二泊する。半日をカリブ海のコバルトブルーの海辺で海水と戯れた。

 

 ハバナへの帰途、サンタクララの町に立ち寄る。ここは1958年、ゲリラ戦を闘った革命の舞台となった地で、町の建物には銃の跡があちこちに残っている。   

 

 ここにある「チェ・ゲバラ霊廟」の前は、見学しようという長蛇の列で、炎天下、私たちも並んで待ちやっと中に入った。かの活躍したゲバラはじめ、亡くなった三八人を慰霊した石を安置し、写真とともに遺品や記念品などが展示されている。中に一人だけターニャという魅力的な女性戦士がいて、博物館のようになっている全体の中で目を惹いた。    

 

 革命広場には、キューバ革命の突破口となったサンタクララの町を見渡すかのように六メートルを超える巨大なゲバラ全身の銅像が建っていて、台座にはスペイン語で「常に勝利に向かって」(『フィデル・カストロへの最後の手紙』より)の文字が刻まれている。来年(2017年)は、ゲバラ没後50周年という。

 

 ゲバラの像や写真、それを使ったさまざまなグッツはあちこちで見かけたが、カストロの写真はほとんどなかったので、不思議に思ってガイドのスサーナさんに尋ねると「カストロは偶像崇拝を否定しているから」とのことで納得。

 

 近くにはゲバラの指揮する革命軍が、時の独裁バチスタ政権の装甲車を襲撃して武器を奪ったという、その列車とモニュメントが残っていた。

 

 

 

 その夜は、ハバナの観光名物「トロピカーナショウ」を観劇した。一流のダンサーによる、ラテン系の激しい歌と踊りは、お見事!素晴らしい!の一言に尽きる。ショウの最後に踊り子たちが舞台から客席に降りてきて、一緒に踊りましょうと肩を叩かれ、激しく身体を動かすこと数分。余りの激しさに胃腸が捩れてしまったようで、暫しお腹を押さえていた。この踊り子達も公務員とか!

 

 

 

 最終日、ハバナ市郊外のモロ要塞を見学する。このあたりには幾つかの要塞があり、1700年代に敵の襲撃からハバナ港と運河を守るために造られた。1762年にはイギリスがこのモロ要塞を襲撃して立てこもり、一時ハバナはイギリス領となるが、1年後スペイン政府が取り戻すなど植民地時代には盛んに活躍?した。が、必要がなくなってからは牢獄として使用され、今は内部は博物館になったり、灯台の役目も果たしているという。ここから、運河を挟んで眺める対岸のハバナの町並みは、とても美しかった。

 

 

 

 午後はキューバを愛して移り住んだ作家ヘミングウエイの小説「老人と海」の舞台となった小さな漁村コヒマルを訪れた。愛艇ピラール号は、現在は、第一日目に見学したハバナ市内の大邸宅前に置かれてあるが、当時はこの港に繋がれていて、釣りを楽しんでいたという。近くのレストランにそんな写真が展示され、その脇の公園にはヘミングウエイの胸像もあって、キューバの人達のこの作家への敬愛ぶりを伺わせた。

 

 友人がそこで遊んでいた数人の子供たちに飴をあげると、奪い合いになったという。決して豊かな生活ではないが、最低生活が保障されている人々は、概ね明るく健気に働いているように見受けられた。 (了)

 

 

 

 

 211号

 

キューバツアー日記3

 

               木村 玲子

 

 

 

(前回にも書きましたが、これは2016年11月16日~24日までのツアーを6回に分けて、地域のミニコミ誌に1回千字程度で書いたもので、ここでは2回ずつ3回に分けて掲載させていただきます)

 

 

 

 到着二日目のレクチャーは、元日本キューバ大使コシオさんのキューバの歴史についてのお話しだった。

 

 革命の第二世代と言い、日本大使として二〇〇七年から五年間日本に滞在。東日本大震災も経験したそうだ。

 

 オバマ大統領の「経済封鎖解除」の宣言から約一年。未だ米国議会の承認は得られず、経済交流は実施の段階ではないが、アメリカの五〇年余りにわたる経済政策の失敗を認めたということ。この間キューバも、ソ連をはじめ社会主義国や一部の国との交易に限定された時期もあり苦難の道を強いられたが、次第に多くの国々との国交が成立し、人々の生活は安定してきた。

 

 米国との国交が回復するとアメリカナイズされるのではないかという質問には、様々に複雑な法律があって、経済封鎖は簡単には解かれない。社会主義としての権利を守りながら、国にとって何が大切かを考えながらゆっくり進めてゆくとのこと。

 

 常に国民の目線で考えてゆくという姿勢に、どこかの国とは違うものを感じた。

 

 次にキューバの教育システムについて中央教育省?の方のお話では、革命後直ちに「文盲一掃キャンペーン」を張って、小学校から大学までの授業料無償化を図り、兵舎を学校に変え、成人のための教育にも力を入れたと様々な数字で示した。今や就学率は一〇〇%に近く、教員や医師の養成ばかりでなく、農業学校、職業学校など様々な分野での教育にも力を注ぎ、ラテンアメリカやアフリカから教育を受けに来ている人も多いとのこと。「いじめ」はあるかの質問に「全くないとは言えないが、あまりない」と答えていた。

 

 午後からは古くからの老人ホームを訪ねた。ハバナ郊外のそこは、カトリックの修道院だったという広い敷地を持つ建物で、周囲の農園で採れた豊富な野菜は

 

ほぼ自給自足という。四〇〇人もの収容数で、男子棟、女子棟、車椅子棟の他に夫婦棟もある。案内のご婦人イネフさんも入居者とのことで、元気な方は皆、洗濯物を畳んだり、繕い物をしたりなど何かの仕事を受け持っているという。

 

 年間のイベントには「オリンピック」と称するスポーツや、演劇を上演したりもするとか。年金の30%を払えばよいとのことで、職員は厚生省に所属している。

 

 のんびり雑談したり、ゲームをしたり、図書室で本を読んだり、マッサージをしてもらったり、みんな穏やかでゆったりした表情で私たちに手を振ってくれた。「こんな所に入りたいねー」との声も飛び交った。

 

                 

 

 

 

キューバツアー日記4  

 

 

 

 三日目、首都ハバナを離れて、世界遺産の都市シエンフエゴスに向かう。バスの中から郊外の田園風景を眺めていると、所々の家の前に白い頭像のようなものが見える。「あれは何?」ガイドのスサーナさんに尋ねると、「ああ、あれはホセ・マルティよ。キューバ独立運動の父と呼ばれているんです」といって、ひとしきり彼についての話をしてくれた。

 

 長く、スペインの植民地として苦難の道を歩んできたキューバは、一九世紀後半になって独立の機運が高まり、二度の独立戦争を闘う。1868年の第一次独立戦争に16歳で参戦したホセ・マルティは、敗北後、欧米での亡命生活で詩人として名を知られるようになり、1895年革命党を結成して、第二次独立戦争を指導したキューバの英雄とのこと。詩人で、思想家、革命家の彼を誰もが敬愛しているそうだ。

 

 ハバナにも、革命広場を見下ろすように、塔のような「ホセ・マルティ記念博物館」と白大理石の立像があった。 そうした偉大な先人を受け継いで、カストロらの革命があったことを初めて知り、キューバの歴史に思いを馳せた。

 

 シエンフエゴスはフランス革命を逃れてきたフランス人の移民によって作られたという町で、砂糖、タバコ、コーヒー貿易の拠点として栄えたという美しい街だ。

 

 2005年都市的歴史地区としてユネスコの世界遺産に登録されたという。

 

 ここにもホセ・マルティ公園があって、その一角に露店が並び、観光客を楽しませてくれていた。

 

 またここは国民的歌手ベニー・モレが生まれた町とのことで、昼食時にはギターと打楽器に合わせて軽快に歌うラテンの生演奏をたっぷり堪能した。スサーナさんは、このラテンのメロディが流れると、いつも身体を揺すってリズムをとっている。 

 

 たびたび聞くことになったルンバ、マンボ、チャチャチャといった陽気なラテンの曲は、常夏の太陽にぴったりで、こうした音楽にのって苦難の歴史を乗り越えてきたキューバの人々を思ったことだった。

 

 

 

 

 

 210号

 

 キューバツアー日記1

 

                 木村 玲子

 

 

 

 (*このツアー日記は2015年11月16日から24日までの旅を、日記風に記録したものです。地域の共産党後援会ニュース『とちの木だより』に連載したもので、1回1000字以内という制約の中で書いたものです。2回ずつ送ります)

 

 

 

 千歳空港から羽田、カナダのトロントでの乗り換えを含めると、ほぼ一日がかりでキューバのハバナ空港に到着した。トロントでの夜景の明るさに比べて、本当に質素でささやかな輝きでしかない。

 

 夜とはいえ、むっとした空気が漂っている。なかなか出てこない荷物をやっと受け取り、税関を抜けたときは、既に現地時間夜の十一時を回っていた。

 

 空港には、これから八日間お付き合いしてくれるガイドのスサーナさんが出迎えていた。ハバナ大学の先生だが、今はガイド業に携わっているという、日本語の堪能な方だ。

 

 闇の中をホテルまでのバスに乗り込むが、これまた暗い。誰かが「くらい!」というと、誰かが「こういう生活に馴れなくちゃね」と応じていた。

 

 車のライトだけの道をホテルに向かうが、窓の外は真っ暗闇で、スサーナさんが、今どの辺を走っていると説明してくれても、まるで、森の中を走っているかのよう。

 

 この徹底した省エネは、電力不足故の生活防衛で、この後、レストランその他の場面で経験するが、それが当たり前になっているキューバ人には大した苦とも思っていないようだ。

 

 日本もかつてこういう時代があったようだが、今や、明るさに慣れすぎているのかもしれない。

 

 リゾート地での夜は、星空が素晴らしかった。オリオン座(?)初め、名の知らない星座が手に取るように大きく瞬いていた。

 

 何か、失われた自然の恵みがたくさん残っている国という印象だ。

 

 

 

 八日目の帰国時の空港でのこと。早朝五時の空港は、電気が瞬いていた。到着した時に比べて出発ロビーは明るくきれいだった。

 

 六時過ぎ頃から日の出の東雲が漂い、ガラス越しにオレンジがかった朝日が顔を見せ始める。やがて太陽がすっかり顔を出した七時ころ、ぱっと室内の明かりが消えた。徹底した省エネぶりに感嘆させられたことだった。    

 

 

 

 

 

 キューバツアー日記2

 

 

 

 今回は「キューバ視察」ツアーということで、初めの2日間は、レクチャーと関連機関の見学だった。

 

 2日目午前中は、厚生省の講師による「キューバの医療と社会保障」についてのレクチャーだった。医療と教育は、革命後最も力を入れた分野で、憲法50条で「すべての者は、健康を保持し、守る権利を国家が保証する」と謳われているとのことで、医療の無償化を進めてきた。

 

 国の隅々まで「ファミリードクター」制度があり、日常的に医療スタッフが各家庭を訪問し、病気

 

の予防はもちろん、心のケアまで丁寧にしているとのこと。ハバナにある「ファミリードクター」の家を訪問させてもらったが、スタッフは女医さんと助手の女性の二人だけで、パソコンはなく、昔ながらの用紙に細かく一人一人の状況を書き込むようになっていた。この制度により、乳幼児や母親の死亡が減ったという。

 

 医師の養成にも力を注ぎ、今や、中南米はじめ世界中に医師を派遣し、バイオテクノロジーを駆使して薬を発明し、外貨を稼いでいる。

 

 また、教育も無償化によって、革命前は多かった文盲はほとんどなくなった。長く続いた独裁政権の下で教育を受けられない人が多かったが、革命政権は「子供こそ国の宝、教育の機会均等」を掲げ、独裁時代の軍隊の兵舎を学校に変えて、教育に力を注いできた。 

 

 街で見かけた子供たちの明るい表情、女子生徒の制服も印象的だった。

 

 

 

 午後は、ハバナの近郊にある小規模農園の視察だった。土地は国有だが、ソ連の崩壊後、食糧危機が長く続いたため、小規模な土地の所有が認められ、そこでできた農作物を3キロ以内で売りさばき、利益を得ることを許された。3キロというのはガソリン車でなくても、馬車や、人力三輪車などで運搬できる距離とのこと。

 

 ソ連に頼っていた時代は、化学肥料や農薬を大量に使っていたが、ソ連崩壊後それがストップしたため、自然農法を編み出した。 ミミズを飼って土造りをするところから始めたのだが、一晩でミミズが逃げ出してしまった経験から、土の栄養を考えるようになったとのこと。   

 

 畑のあちこちにハーブなどの植物を植えて、虫を農作物に近寄らせない工夫もしていた。できた野菜は完全無農薬だから、安心して食べられ、喜ばれているという。大体野菜類は地産地消という。

 

 

 

 ソ連の崩壊はガイドのスサーナさんにも大きな影響があった。ソ連の大学で一九世紀の文化を学び、ハバナ大学でロシア語を教えていたが、崩壊後、思案の末日本語を学び始めたとのこと。その選択は間違っていなかったとにっこりしていた。