246号

 

 牛久保建男「時代を生きる作家と文学」

   たたかう作家の歩み        泉 脩

 

 

 

 

「民主文学」に載せた作家論を集大成した評論集。どれも力のこもった文章で、教えられることばかりである。ほとんど知らない作品ばかりで、プロレタリア文学の伝統が、どのようにして受け継がれ発展してきたか、よくわかったと思う。

 

 「『戦争』に向き合った二人の作家」で取り上げた、石川達三「生きている兵隊」と火野葦平(あしへい)の「麦と兵隊」は、中国戦線におけるルポルタージュである。どちらも題名だけは知っていたが、ショッキングな内容である。

 

 捕虜と民間人の虐殺がリアルに書かれていて、戦争法規が一切無視されている。あくまでも「事変であって、『戦争』ではない」のである。加害者としての日本の責任を、あらためて思い知らされる。

 

 石川達三は後に官憲に取り調べを受け、投獄されている。作家の戦地派遣が裏目に出たのである。

 

 戦後の作家と作品は、すべて初めて知ることで、原爆の被害、占領軍の弾圧下の混乱、そして立ち直りの努力が書かれている。窪田精、宮寺清一、佐藤貴美子の三人の作品の解説は、とても迫力がある。民主主義文学のスタートである。どの作品も命をかけた作品であり、プロレタリア文学を立派に受け継ぎ発展させた作家である。

 

 大作「石狩川」で知られる本庄睦男が、小林多喜二と並ぶ戦前の作家とは、私は知らなかった。「白い壁」が取り上げられているが、教師として民主的教育をめざしていたという。共産党員になり、迫害はまぬがれたが、戦時中に結核で亡くなっている。

 

宮本百合子のように、戦後の活躍を見たかったと思う。私はかつて石狩川のほとりで本庄陸男の記念碑を見たことがあるが、彼は石狩平野の開拓農の子供として生まれたのである。

 

 最後に小林多喜二が取り上げられている。「蟹工船」の成立について、早くから多喜二が取材・調査をし、苛酷な労働の中で、大衆が自然発生的に戦いに立ち上がるさまを、見事に書いたのである。多喜二は銀行員をしながら科学的社会主義を学び、小樽の労働運動にかかわり、第一回普選の応援をした。同時に「一九二八年三月十五日」を、発表して作家となり、「蟹工船」でプロレタリア文学の旗頭になったのである。

 

 牛久保さんは、多喜二の日記とノートを調べる中で、若き知識人の多喜二が、理論と実践のはざまで苦しみ、ゆれ動き、次第に戦いの道に傾いていく姿を明らかにしている。

 

 文学青年から革命家への発展である。多くの家族をかかえ、女性への愛にゆれ、それでも真実を貫こうとしたのである。

 

 私はこの本を読んで、今さらながら自分の生きてきた道を振り返った。私は高校生の時に文学に目覚め、小林多喜二も読んだ。しかし、私にはあまりにも刺激が強すぎた。 

 

その後、ロマン・ロランに熱中したが、同時に科学的社会主義を知り、教職についてからは、労働組合運動に打ち込んだ。そして退職後に札幌民主文学会に加入し、評論とエッセーを書いてきた。牛久保さんとは同じ札幌で育ち、違った高校で同じ教師に習った。そして、民主文学会の研究会で何回か御指導をうけた。

 

 この本はプロレタリア文学から民主主義文学の発展を明らかにする、とても貴重な本だと思う。私は現在活動している民主主義文学の作家の評論を書いている。特に北海道の仲間の作家の紹介に力を入れている。

 

 牛久保さんの仕事の後を追っているのである。もう八十代半ばの高齢なので、どこまでこの仕事ができるかわからないが、力をつくしてみたい。宮本百合子は、かつて「創作と評論は車の両輪である」と主張した。

 

 評論がはたす役割も大切なのであると思う。

 

 

 

 

 

 わたしの好きなラブストーリー⑥

                    泉 脩

 

『幸福の黄色いハンカチ』

 

若者を育てる真実の愛

 

 山田洋次監督、脚本の映画。当時の映画賞を総なめした山田監督の代表作。私はこの名作を何回も観たくて、レーザーディスクの機器とディスクを初めて買った。

 

 内容はすっかり知っているのに、今回久しぶりに見直して、胸がドキドキ、涙が出てきた。ラブストーリーの、永遠の名作と言えるだろう。

 

 労働者の花田欽也(武田鉄矢)が失恋をして、悲しみのあまり退職し、退職金で小型車を手に入れ、北海道旅行に出かける。釧路で一人旅の娘小川朱美(桃井かおり)を乗せ、網走で中年の男島勇作(高倉健)を乗せる。三人は阿寒、帯広と廻り、札幌に向かう。途中で次々とハプニングがおこり、三人の身の上話が展開される。

 

 勇作は夕張の炭鉱夫だったが、妻光枝(倍賞千恵子)の流産で逆上し、酒に酔って人を殺してしまう。彼は妻に対して唯一できることとして、離婚届に署名して渡す。

 

 話を聞いて二人は胸を打たれ、さらに「もし待っていてくれるなら、黄色いハンカチをかかげてほしい」と書いたハガキを、勇作が出したことを知る。

 

 二人は勇作を励まして夕張にむかい、勇作の家の物干しにたくさんの黄色いハンカチがひるがえっているのを発見する。

 

 よく知っているストーリーなのに、最後のシーンでは感動で胸がいっぱいになる。欽也と朱美が止めた車の中で、しっかり抱き合ってキスし合うところで終りとなるが、少しも不自然でない。

 

 かなりいかれた二人の若者が、中年の夫婦のゆるぎない愛を知る中で、心から愛し合うようになるのである。

 

 この映画は、やくざ映画のヒーローだった高倉健が、山田監督の映画に初出演し、名演技をみせて映画アカデミー賞の主演男優賞をもらっている。映画初出演の武田鉄矢が、コミカルな演技で助演男優賞をもらっている。この二人の大スターへの道が始まったのである。

 

「この映画に出て、役者が恥ずかしい仕事でないことを初めて知った」と、高倉健が言ったが、いわば役者開眼したのである。武田鉄矢の方は、この後に「金八先生」の大長編連続ドラマに出演し、俳優の地位を不動のものにした。

 

 山田洋次監督は、人を育てる名人なのである。なにやら日ハムの栗山監督と似ている気がする。

 

 恋愛は若者たちだけのものではない。中年になっても老年になっても恋愛はあるのだ。若者たちのような激しさはなくとも、深い強い愛があるのである。

 

 このような映画やテレビドラマを、もっと多く作ってほしい。日本は高齢化社会になってきているのだ。私は若者向けのラブストーリーを多く観て、自分の青春時代をふり返り、いつまでも気持ちの若さを持ち続けようと思っている。しかし老年にしかわからない楽しみ、喜びもあると思っている。そして若者たちの幸せをここから願っている。

 

 この映画は、中年の男女が自分たちの生きざまを見せることによって、若者たちを育て成長させる教育映画だと思う。

 

 高倉健は、この後、山田監督の「遙かなる山の呼び声」に出演して、倍賞千恵子とコンビで熱演している。やはり殺人犯というのがひっかるが、そういう役が合っているのかもしれない。武田鉄矢も、チョイ役で出ていて、笑いと涙の演技をしている。

 

 この映画も名作である。道東の小さな牧場が舞台で、夫の死後に母と子で暮らしている。そこへ現れた中年の男が、牧場で働き母と子を守るのである。労働の場面がふんだんに出てきて、生活感がにじみ出ている。しかし警察が男を捕らえ、牧場はつぶれ、母と子は男の出所を待つことになるのだ。

 

 両作品とも北海道の物語で、山田監督はよほど北海道が好きなのだろう。全四十八作の「男はつらいよ」のうち、五~六作は北海道を主な舞台にしている。中でも三船敏郎が出る「知床慕情」は傑作である。

 

 後何作か作れないだろうか。

 

 

 

ラブストーリーはドラマの基本

 

 ラブストーリー六作をとりあげたが、まだまだ優れた作品があると思う。ラブストーリーはドラマの基本であり原典だと思う。

 

 二十歳の頃、私は二つの名作にとりつかれた。テレビもビデオもない時代だったので、どちらも映画である。

 

 今井正監督の「また逢う日まで」は、戦争末期の東京で、大学生(岡田英二)と画学生(久我美子)が恋をする話である。男が招集され、女が見送りに行く途中で空襲で命を落とす。男は女の名を叫びながら、汽車が出発する。なんとも悲しいドラマであり、今井監督の叙情あふれる演出と、久我美子の美しさが胸を打った。

 

 もう一つの一本は、「アメリカ映画の「ジェニーの肖像」だった。ニューヨークの貧しい画家(ヨゼフ・コットン)のもとに、毎日美女(ジェニーファー・ジョーンズ)が現れる。画家は夢中で彼女の肖像画を画き、完成すると彼女は現れなくなる。

 

 画家は気力を失い、ただひたすら彼女を待つ。訪れた画商がどんな高値をつけても肖像画を売らない。心配した友人たちが、謎の美女の行方を捜すと、何と百年前に亡くなった女性だった。私はなぜか結末を覚えていない。

 

 この古い映画はDVD化されず、幻の映画になっている。私は、二人の美女を夢にまで見たが、二人ともその後映画に出演を続け、久我美子は最近までテレビドラマに出ていた。

 

 二人とも年をとり、老人になったが、私も年老いたのだから文句はいえない。

 

 今回の六作品は、大好きな作品であり、見返すたびに新しい発見と新しい感動がある。

 

 キムタクのアイスホッケー、柴咲コウの手話、綾瀬はるかの坊主頭、いずれも俳優の根性を見る思いだった。

 

 ラブシーンでは、「世界中」で二人が無人島の廃屋の中で寄りそって話し合う場面、「優しい時間」で二人がレストランで話し合う場面(拓郎が入れ墨をみせて泣く)、そして「黄色いハンカチ」のフィナーレなど、何回観ても胸をゆさぶられる。

 

 親子の愛、夫婦の愛、若者の愛、どれもすばらしい。現実には失敗が多く、ままならないものである。それだけに、せめてすばらしいドラマを観て、感動し楽しみたいものである。

 

 私は読書を中心に、きびしい恐ろしい人生を生きてきた。そして本まで書いてきた。自分だけの力ではなく、多くの人に助けられ支えられ、そしてすぐれた芸術によって救われ高められてきたと思う。

 

 

 

 

 

 

 

245号

 

石川節子「たてがみ」

 

     人と馬との結びつき

 

泉 脩

 

 

 

 「民主文学四月号」(二〇一九)に載った作品。道東の漁村を舞台にした、人と馬との心温まる結びつきを描いた短編である。

 

 小学校五年生の桃子が、放牧場に馬をつれていく「馬捕(うまど)り」に初めて出かける。これは男の子の役目で、女の子は初めてである。敗戦七年目の春、当時の貴重な労働力である馬を桃子が志願してつれ出したのである。

 

 目尻が垂れ下がっていて、村人から「鯨目」と呼ばれていた馬は、たくましいメス馬で、気性が荒い。ところが鯨目は桃子になつき、素直に従うのである。最初は、おっかなびっくりであった桃子は、だんだん自信がついて裸馬を乗りこなすようになった。

 

 昆布採りが始まって、運送に馬が必要になると桃子が放牧場に行って叫ぶと鯨目は、すぐ現れて仕事に向かうのである。ところがある日、別の馬が沼地にはまり、抜け出られなくなると村人はあきらめてマキリで殺し、肉を切り分ける。生活のため、やむを得ないことだが、いかにも無残である。そしてやがて鯨目も沼地にはまって死ぬ。

 

 村中で探して三日目に、首だけ出して死んでいるのが見つかり、今度は肉を取られなかったらしい。桃子は墓標を作って、そばに立って首を草で覆ってやる。

 

 なんとも痛ましい話だが、大自然の中で人と馬が心を通わせる物語で、とても心打たれる。自然の描写も美しく、桃子の優しい心根と相まって秀れた作品になっていると思う。

 

 作者は樺太で生まれ、昭和二十二年に北海道に戻り、道東で過ごしてきた。札幌に移ってきてから、夫婦ともども札幌民主文学会に加入し、この作品は私が読んだ四作目である。勢いのある野性的な荒々しい作風で、とても新鮮でおもしろい。

 

「たてがみ」では、読んでいて自分も馬に乗って走っているような気持になる。

 

 人と動物の結びつきは、特に犬との話が多い。愛犬家はまるで我が子のように犬をかわいがり、犬が死ぬと大泣きするのである。猫も人()になつき、死ぬ時は忽然と姿を消す。

 

犬よりはクールである。

 

 人と馬の交流の話はあまり知らない。昔から人間にとって、もっとも大切な動物だったので、きっと良い物語が多くあると思う。この「たてがみ」は、私の読んだ初めての馬物語であり、とてもいい。悲しい結末であるが、読後感はすがすがしい。

 

きっと馬も、犬や猫と同じに人間と心が通じる動物なのだろう。

 

 現在、馬は競馬で使われ、ギャンブルの道具にされている。そして走れなくなると、ほとんどが殺されているという。人間の無情なやり方である。もっとも食用にされる動物は、すべて同じ運命なのだが。

 

 私の亡くなった、いとこの奥さんは遠い親せきの牧場でサラブレットを間近で見て、その美しさに心を打たれたという。そして、競馬場に行って、馬券を買わずにサラブレットの走る姿を見てくるという。サラブレットは、人間が作り上げた造形の傑作なのだろう。

 

 石川節子さんは、今後も自分の作風を大事にして、勢いのあるおもしろい作品を書いてほしい。第一次産業で働く大自然の中での人間の姿を、もっと読みたいものである。

 

 

 

私の好きなラブストーリィ⑤

 

                泉  脩

 

「優しい時間」森の時計と愛の物語

 

 倉本聰の脚本による、富良野を舞台にしたドラマ。大作「北の国から」を完成した後の作品だけに、円熟した見事な作品である。

 

 富良野のスーパーで、青年涌井拓郎(二宮和也)が、瀬戸物の割れる音にびっくりする。一人の少女がぼう然として立っているので、近寄って片付けるのを手伝う。これが二人の出会いである。

 

 皆川梓(長澤まさみ)は、姉と二人暮らしで、いっしょに森の時計という喫茶店で働いている。店で出すカレーライスの皿を買いに来て落としたのである。拓郎は美瑛の窯場で修行していて、「こんな皿ならいくらでもあげるから、取りにおいで」と言う。師匠が気に入らない作品をどんどんこわすからである。二人は携帯の番号を交換して別れる。

 

 森の時計のマスター涌井勇吉(寺尾聰)は、商社マンをやめて、亡くなった妻めぐみ(大竹しのぶ)の故郷富良野に店を開いたのである。一人息子の拓郎が母親を自動車の運転ミスで死なせ、しかも暴走族に入っていたことを知って、ニューヨーク支社長を辞し、息子と絶縁し、新しい生きる道を求めたのである。

 

 拓郎は母の親友を頼って富良野に来て、彼女の知り合いの窯場に入り、父親から許される日を待っていた。梓が皿をもらいに来て、二人の仲はどんどん進んだ。窯場の師匠や紹介してくれた母の親友から注意されて、二人は自制した。

 

 梓は高校生の時、妻のいる教師と不幸な恋をして破れ、学校を中退し、今では拓郎との新しい恋にすがる。そして涌井親子の仲を回復しようとして、かえって拓郎の怒りをかう。彼は自分が一人前になるまでは、父に会えないと考えている。しかも師匠から、新人工芸展への出品をすすめられて、必至に作品作りに打ち込む。

 

 拓郎に会えず、携帯を切られて、絶望した梓は自殺を図って危うく救われる。拓郎は作品ができないあせりの中で、父母の怒りを買った腕の入れ墨を焼いて、人々を驚かす。そしてついに出品作が完成し、これを父親に見せて今までの不孝の許しを乞うのである。

 

 富良野の美しい自然、恐ろしい暴風雪の猛威、森の時計に集まる人々の美しいハーモニー、悲喜こもごもの事件をバックに、父と子の葛藤と二人の若者の恋が進行する。人々の交わす会話がとてもおもしろく、作者の人と社会への認識の深さが満喫できる。

 

 長澤まさみは私の好きな女優である。若々しく美しく、思いつめる少女を見事に演じている。二宮和也もとても好ましい。高校でいじめに会い、救ってくれた青年が暴走族のあたまで、構想の中で死んでしまう。恩人を忘れまいと、死神という仇名を自分の左腕に彫りつけ、それが直接のきっかけになって母を死なせ、父に絶縁される。繊細でナイーブな青年を立派に演じている。

 

 自分を語らず、謎のマスターと呼ばれる涌井勇吉を、寺尾聰がしぶい演技で惹き付ける。夜毎現れて彼と言葉を交わす、妻めぐみの幻影を、大竹しのぶがしみじみと演じている。やはりかけがえのない女優である。

 

 二人の若者が誤解を解き、愛を深めていくいくつかのシーンがとても美しい。最後に父と息子が涙を流して語り合い、和解する場面が胸を打つ。

 

 美しい印象的な音楽に包まれて、優しい時間が流れていく。まれにみる、感動的なドラマだと思う。あらためて倉本聰のすばらしさがわかった。

 

 

 

 

 244号

 

にしうら妙子「四季を重ねて」

 

   命を生み育てる女性の靭(つよ)さ

 

                泉  脩

 

 明治三十一(一八九八)年、愛媛から北海道にきた早田(そうだ)芳兵衛は、農家の次男だった。

 

妻ハルとお腹にいたアヤを含め、家族で土地を求めて来たのである。やがて雨竜郡一己村(いちやんむら)タドシュナイ(後に多度志村湯内)に落ち着く。

 

末っ子の四女アヤは北海道岩見沢で生まれたので家族は7人になっていた。開拓は成功し生活は安定し子どもたちは順調に巣立っていった。ただ次女ナミが悲恋から引きこもりになり、三女コウが離婚して再婚し、四女アヤが家に残った。

 

大正八年、アヤが下宿していた篠田清介と結婚。彼は栃木で生まれ、長男なのに本妻の子ではなかったので、北海道に流れてきて小学校の教師になったのである。二人は五男四女の子どもをもうけ、三女の迪子(ゆうこ)が本書の著者である。

 

清介はソコツなところがあり、妻アヤと三人の子どもを残して友人と樺太に渡り、失望して半月で戻っている。借金の保証人になり、新築したばかりの家を失っている。その後、沼田村真布(まっぷ)の単式校に移り、校長兼教師として昭和二十一年まで勤める。

 

物語は昭和二十六年、深川町メムに家を新築するまで続くが、ハル、アヤそして迪子の血の繋がった女性の、強靭な生命力と奮闘に圧倒される。

 

ハルは農業に打ち込みながら五人の子どもを育てた。引きこもった次女を抱えながら、離婚直後に三女コウが生んだ男の子由雄をも我が子として育てる。

 

アヤは年老いた両親を介護し見送り、姉ナミを引き取り、再婚した姉コウが早くに亡くなると、その子鉄郎も一時引き取った。夫が樺太から戻ると、一言も言わず許し、借金の保証人になったことで家を失うと山奥の校長一人の学校に移ることを提案し、代用教員として夫の留守を引き受けた。同時に大家族を養うために畑仕事に励み、これは夫の退職後も続けた。

 

日中戦争が始まると、三十軒ほどの貧しい地域からも男たちが次々に召集され戦死者が増していった。アヤは婦人会の中心として、出征、慰霊そして留守家族の世話に努めた。自分の男の子三人も出征し、次女は看護婦の軍属になった。

 

昭和二十年の敗戦で、アヤの子どもは全員帰宅し、喜びに包まれる。

 

迪子は物語が終ったあと、教師、町会議員、介護事業に努め、同時に文学に携わり、ついにこの大河小説を完成した。時代背景もしっかり描き、日常生活も詳しく書き、厚みのある見事な物語に仕上げたのである。

 

 

 

この本のあとがきと「北海道民主文学」22号の「長篇『四季を重ねて』を書いて」によると、著者は公的・私的資料をたくさん集めたという。

 

愛媛県の自治体にインターネットで問い合わせ、祖父の本籍や係累の子孫を調べてもらったという。そして遠い親せきと連絡が取れたという。すごい努力である。

 

私的資料としては、父の日記、戦後にきょうだいで十二集まで作ったという家族文集、そして存命の兄・姉からの聞き取りなど、多くそろえた。そのため家族の歩みが、細かく具体的エピソードが豊かで、ふくらみがあって、とてもおもしろい。

 

内外の歴史もしっかり勉強し直し、説得力のある記述になっている。著者の苦労の結果が充分に実っている。

 

家族の歴史を小説化した作品としては、ドイツのトーマス・マンの「ブデンブローグ家の人々」が有名である。北ドイツの最大の港町ハンブルグが舞台で、中世以来のバルト海貿易で栄えてきた商家が、当主の急死もあって没落する。その様子を克明に書いた長編小説である。

 

この家に生まれたトーマス・マンは、実家の再興ではなくて、文学の道を選ぶ。この作品で作家となり、続く中編「トニオ・クレーゲル」で実直な市民の道ではなく、不安定な芸術の道を選んだことを後悔している。しかし、自分で選んだ道を進んでいこうと決意する。胸を打つ小説である。

 

トーマス・マンはこの後、「魔の山」「ヨゼフ物語」「ファウスト博士」などの大作を次々と発表し、ゲーテに次ぐドイツの大作家になったのである。

 

日本では北杜夫の「楡家の人びと」が有名である。医師であり大歌人であった斉藤茂吉の生涯を、やはり医師である北杜夫が書いた長編小説である。故郷、山形県を舞台にした、興味深い大作である。彼は東大医学部で学び、精神科医になり、「ドクトルマンボウ航海記」という楽しい作品で小説家デビューした。

 

そして自分も心の病とたたかいながら、医師と小説家の両方で活躍したのである。そして「楡家の人びと」が代表作になったのである。

 

にしうら妙子さんの「四季を重ねて」は、このような家族小説の系列に属する秀れた作品だと思う。明治以来のアジア諸国侵略と、北海道開拓の名のもとに先住民のアイヌを迫害し、囚人や本州で苦しい生活に追い込まれた人々、そして朝鮮・中国からの強制労働者を酷使してきた。このような歴史的事実もしっかりと書き込んでいる。

 

そのため説得力のある、考えさせる作品になっているのである。著者自身の長い、たゆまぬ困難な生き方に裏打ちされているので、なおいっそう迫力があるのだと思う。

 

付記

 

「民主文学」三月号(二〇一九)に載った評論に加筆した。

 

 

 

 

 

 

 243号

  私の好きなラブストーリィ④

 

               泉  脩

 

 

 

「世界の中心で愛をさけぶ」

 

高校生の純愛ドラマ

 

 今度は高校の学園物。浜辺の小さい町の公立高校で、五人の若者(男三、女二)が、友情と恋をくりひろげる。

 

 二年D組の松本朔太郎(山田孝之))は、日曜日の朝、あわてて寺にかけつける。学年主任の葬儀に参加するためである。同じクラスの学級委員広瀬亜紀(早瀬はるか)が弔辞を読上げている時、にわかに雨が降り出し、生徒たちはテントに非難する。

 

 彼女は負けず嫌いのがんばり屋で、弔辞を読み続ける。朔太郎が近寄って傘をさしかける。仲間たちは、二人が好き合っているとからかうようになる。

 

 まもなく、自転車で家に帰る朔太郎を亜紀が呼び止め、二人は話し合うようになる。彼女の家まで自転車に乗せて送るようになり、二人はますます仲良くなる。

 

 彼女の秘密の場所、海を見渡せられる山の中腹で、色とりどりのあじさいの花が咲いている。ついにはキスを交わすようになる。

 

 亜紀は陸上部の百メートルの選手で、毎日練習し、朔太郎はそれを見守り、その後、家まで送るのである。ウオークマンを使って、それぞれ録音したカセットを交換するのも日課のようになる。

 

 しかし夏休み中に無人島に二人で一泊した後(友人たちが誘いながら、二人だけにした)、何事もなく帰る途中から亜紀は気分がわるくなり、病院で白血病と診断される。

 

 亜紀が助からないとわかってくると、朔太郎との面会が許され、他の三人も励ましに訪れる。

 

 亜紀はオーストラリアへの修学旅行をしぶる朔太郎を参加させ、原住民の聖地ウルルの写真を撮ってきてもらう。

 

 世界の中心で、大空に一番近い地と原住民が考えるウルルは、亜紀の憧れの地になり、どうしても行きたいというという彼女を、ついに朔太郎は連れ出し、彼女は空港で意識を失い、やがて病院で息を引き取る。朔太郎は半狂乱になり、いつしか十七年がたつ。医師になっていた朔太郎は、故郷の町に帰り亜紀の両親を初めて訪ね、やっと父親に許してもらう。

 

 このようにして青春の美しさと哀しみの織り交じる物語が終るが、さまざまなエピソードが、細やかに温かく、そして悲しく語られ、胸がいっぱいになる。

 

 若者たちのやりとりがおもしろいし、担任の女教師も実に温かくさわやかである。

 

 私は新制高校の最初の一年生で、中学から男女共学を経験している。亜紀に似た、ほっそりしたさわやかな女の子に恋し、やはり好感を持ったクラスメートと出会って十二年後に結婚をした。朔太郎は同じあきの名前を持つ大学のサークル仲間と、亜紀の死後十七年後に結婚する。私の初恋の相手は五十代で東京で亡くなったが、かなり似かよった成り行きである。そんなこともあって、このドラマは他人事ではない気がする。

 

 亜紀を演じる綾瀬はるかも、私の好きな女優である。朝ドラには出演しなかったと思うが、大河ドラマ「八重の桜」は見事な演技だった。会津の鉄砲組頭の娘で、鉄砲の名手になり、会津戦争では城を守るために大活躍する。実在の女性で、後に新島襄の妻となり、キリスト教布教に努めることになる。

 

 宮崎あおいが出演した「篤姫」と共に、女性が主演した大河ドラマの二大傑作だと思う。

 

 この二人は、これからも息長く活躍してほしいと願っている。

 

 

 

242号

 私の好きなラブストーリィ③

 

                泉  脩

 

 

 

 「ただ、君を愛してる」生涯一度のキス

 

 やはり学園物で、六人(男三、女三)の新入生の四年間をえがいている映画である。

 

 瀬川誠人(玉木宏)は、入学式に出ないで構内を歩いていると、奇妙な女子学生に出会う。小柄でやぼったい服を着て、髪はぼさぼさで眼鏡をかけている。言葉を交わすが、すぐ別れる。

 

 彼女は里中静流(しずる 宮崎あおい)といい、食堂で誠人話しかけて友達になろうともちかける。二人は立ち入り禁止の広い庭に入り込み、誠人は写真を撮る。やがて静流もカメラを持ってきて、二人で自然や小鳥を撮り、誠人が借りている小さな家で、現像するようになる。

 

 この二人は、同じ英語科の四人と仲間になり、学生生活が過ぎていく。ある日、静流が父親とけんかして家出をし、誠人は自分の家にむかい入れる。彼は仲間の一人の女子学生に恋していて、静流には興味を持たない。静流はおもしろくないが、奇妙な共同生活を続ける。彼女はカメラに熱中し、カメラマン志望の誠人を驚かすほど上達する。

 

 彼は二人で写真コンクールに出品しようと提案し、彼女は彼にモデルになってくれるように頼む。彼女の誕生祝いにキスをして、そのシーンを遠隔操作で写すのである。

 

 立ち入り禁止の庭の広い池のほとりで、二人は抱き合い、その瞬間に彼女のカメラのシャッターが下りた。この時、静流は眼鏡を外し、服や髪も整えていて、誠人は静流の美しさに驚き恋に落ちる。

 

 しかし彼が大学から帰った時、彼女は姿を消し、大学も退学していた。卒業後、四人はそれぞれ英語を生かした道に就職し、誠人はカメラマンをしながら静流の帰りを待ち続ける。

 

 三年後、アメリカから静流の手紙が届き、ニューヨークで個展を開くので見に来てほしいと内容だった。彼はニューヨークを訪ねるが、すでに静流がなくなっていることを知る。母親からの遺伝で、成長すると共に病気も成長して死に至る病気だった。彼女は彼に恋することで心身が成長し、自分の死を悟って病院で誠人宛ての手紙を書き、個展(遺作展)の直前に届くように、友人に投かんを頼んで亡くなったのである。

 

 個展の作品は、多くの国の人々の笑顔を撮ったものが多かった。自分の見事に成長した全身像に魅せられた後、一枚の大作に釘付けになった。

 

「生涯で一度のキス」と題する二人の抱き合う写真は、ハイライトだった。誠人は茫然として見入るだけだった。

 

 帰国後、静流が書きためた手紙が定期的に届き、誠人を励ますのだった。

 

 この変わった純愛ドラマは、難病ものでもあり、私は大きな感銘を受けた。自分の生きる道を求める若者たちの、苦しみと愛の物語としても興味深かった。青春はいつの時代にも、美しく苦しい時期なのである。

 

 宮崎あおいは、私のもっとも好きな女優の一人である。大河ドラマ「篤姫」で、毅然とした女性を見事に演じた。朝ドラ「純情きらり」も立派だった。いわゆる美人女優ではなく、自然の巧まざる演技がよい。息長くいつまでもドラマに欠かせない女優として出演するだろう。大竹しのぶを思わせるとても好ましい日本女性である。

 

 ここまで書いて思い出したが、音楽映画「ナナ」もすばらしかった。私はくりかえし観た。

 

 

 

 

 

 

241号

 

私の好きなラブストーリー ➁

 

泉  脩

 

 

 

「オレンジデイズ」障がいを超えた愛

 

 学園ドラマである。東京の私大四年生五人(男三、女二)が、卒業を一年後にひかえて、不安の中で友情を深め、恋の悩みをくりひろげる。切ない物語である。

 

 主人公の結城櫂(ユウキカイ・妻夫木聡)は、福祉の仕事をめざすが、就職がうまくいかず、手当たり次第の就活をしている。ある日、大学構内でバアイオリンの練習をしている女子学生を見つけ、思わず演奏に聴きいる。一曲が終って二人は目が合い、カイが声をかけるが返事がない。

 

 その後、何回か出会い、彼女がろうあであることを知り、手話で話しかける。彼は福祉の勉強の中で、手話も習っていたのである。彼女は唇の動きを読めるので、なんとか会話が成立していく。

 

 彼女の親友の話で、彼女は萩尾さえ(柴咲コウ)といい、高校生の時に全日本バアイオリンコンクールで優勝し、アメリカのジュリアード音楽院に留学するが、そこで聴覚を失って帰国したのである。有名なピアニストの母親と二人暮らしをしているという。

 

 カイとさえは親しくなり、カイの友人二人と、さえの親友も加えて五人グループを作る。やがてオレンジの会と名づけ、交代でオレンジノートを書くようになる。それぞれが悩みをかかえ、残り少ない学生々活楽しみながらも、切ない日々が過ぎていく。

 

 さえは特異の美しさと音楽的才能できわだっているが、さえが好きになり、ついに二人は結ばれる。

 

 しかし母親の渡欧とさえのドイツでの手術から、二人は別れをよぎなくされる。カイは大学卒業後さらに介護の学校に進み、忘れかけた頃、さえからの手が届き、手術の成功を知る。彼女は母のすすめる結婚を断り、最後に彼のもとにかえる。

 

 この物語は、多くの学園ドラマの中でも、障がい者の苦しみをえがいた数少ないドラマである。かつて私は、松山善三監督の映画「典子は今」で、両手のないサリドマイド児を本人が主演したドキュメント的ドラマを観た。苦しみを隠した、明るく屈託のない演技に心から感動した。

 

 山田洋次監督の「息子」も、貧しい労働者の若者と、ろうあの娘の恋をえがいた、こころを打つ映画だった。青年の父親役の三國連太郎の演技も見事だった。

 

 この「オレンジデイズ」は、青春ドラマとしてよくできている。カイとさえを囲む三人が、それぞれ手話をまねし、二人の愛を助け、そして自分たちの生きる道も探す。男の一人は父親の結婚式場の経営を、病気で倒れた父親に代って継ぐ決心をし、もう一人の男は写真家の助手としてチベットにでかける。彼と恋仲になったさえの親友は、三年間の留守を約束する。こうして五人は自分の道を進むのである。

 

 女主人公さえを演じる柴咲コウは、本来、歌手だが、個性的な美しさとすぐれた演技によって、女優として活躍している。

 

 私は「食堂かたつむり」で彼女のファンになった。私生児として山村で生れ、母方の祖母を頼って東京に出て、料理を身につける。しかし同棲したインド人の男に料理店を開く資金を奪われ、一人で母の元にもどる。そして物置を改造して、食堂を開くのである。

 

 毎日一組のお客に限り、心を込めて料理を作る。この店の料理を食べた人は幸せになると評判がたつ。

 

 彼女はやはり口がきけない。ショックで話せなくなったのである。彼女の演技力が「オレンジデイズ」のさえと同じに、会話がなくても充分に人に惹き付けるのである。目をいからせ、口をとんがらせて抗議するようすが、いかにもユーモラスでおもしろい。

 

 これからの成長を願いたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秋月礼子「雑種天国」

 

心の病とたたかう人々

 

泉  脩

 

 

 

 「北海道民主文学」の22号に載った、秋月さんの近作。帯広を舞台にした、心の病とたたかう人々の物語。

 

 作者自身の体験に基づいているだけに、心を打たれ考えさせられた。

 

 

 

 帯広駅に近い袋小路にある喫茶店「ブラックドック」に、主人公の今日子が呼び出された。遅れて現れた民生、そして昇と会った。三人は入院中に知り合った病気友達であり、心の病に苦しんできた。

 

 男二人は、四〇歳あまり、妻子がいて、離婚しているか離婚協議中である。三人は近状を話し合い、励まし合って別れた。

 

 今日子は独身で、父親とはなれて入院し、退院後はアパートで一人暮らしをしている。やはり病気友達の美貴がいて、時々会って励まし合っている。

 

 この四人が自分の生きる道を求めて、支え合って来たのである。男が自殺をはかった傷の跡を見せてくれた。女二人が対話するシーンは美しい。

 

同病相憐れむ―のたとえ通りの痛々しいシーンが続く。もっとも苦しい時期を越えたらしく、吹っ切れたような感じがする。

 

最後は、再びブラックドックで、今日子が一人で書類を書いている。市に提出する扶助申請の書類で、自分の病名をどう書くか迷っている。喫茶店のマスターがコーヒーを追加しながら、今日子に話しかける。彼は今日子の子供のころの話を聞き、今日子が自分は他の人と同じなのだ―と思い込もうとしたと話す。

 

彼は、自分は脱サラをして喫茶店を開き、人の話を聞くのが好きだ―と話す。それぞれがドラマをもっていると考えている。

 

この二人の印象的な対話で物語が終る。この中で今日子は、自分は書くことが好きだと主張し、今後の生き方を示している。

 

 

 

私は何年か前、中央から講師を招き参加者の作品を講評してもらう創作専科で、続けて何度か秋月さんに出会った。講師の話の後、出席者も自由に発言できる楽しい会だった。

 

秋月さんの最初の作品は、クラシックバレーに関するエッセーだった。キラキラと光る若者らしい文章だったが、あっちこっちに飛んでついて行けない感じだった。ところが、一年後の彼女の作品は、びっくりするほど成長していた。

 

わがままな女の子に家庭教師をする話で、上手に女の子の心に迫り、仲良くなる。首尾一貫した見事な物語だった。

 

私は彼女が心の病とたたかっていることを知り、彼女と話し合ったり、私の本をプレゼントした。そして数年が経った。

 

今度の第三作は、とても成長している。自分と仲間を客観的に、たんたんと描いている。民主主義文学の新境地を開いていると思う。

 

心の病は、現在急速に拡がっている。うつ病だけで百万人に達しているという。リストラ、成果主義賃金、そして非正規雇用、これらが異常に増加したのが主たる原因である。毎年一万人もの自殺者が出てきたが、その八割がうつ病の人だという。

 

私の妻も家族の看病・介護などから、うつ病になり入退院をくり返した。私は三〇年近く妻の看病をしたので、心の病は人ごとではないのである。妻は三年前に亡くなったが、私は妻の残した手記・日記・短歌をもとに、妻の思い出を書いてきた。妻の立派な人柄、見事な生き方を書き残し、いわば妻の名誉回復をしたいのである。

 

私はもう八〇代の半ば、秋月さんはまだ若い。書くということは素晴らしいことである。自分の人生を客観的に表現し、かけがえのない自分の人生を少しでも充実させて生きてほしい。私もあと数年はがんばりたいと考えている。私も今や障がい者である。

 

 

 

 

240号

 

 私の好きなラブストーリー ①

 

                泉  脩

 

 「プライド」古き良き時代の男と女の恋

 

 苫小牧の会社チームのアイスホッケー選手、里中ハル(木村拓哉)はチームの得点王である。他の選手達が彼にパスを集中し、彼は最短距離で相手のゴールに突進するのである。

 

 チームの仲間への友情があつく、彼等の悩みを次々と解決する。尊敬する元コーチの病床を見舞い、ひそかに元コーチの妻子を援助している。「古き良き時代の男」である。

 

 ただ元コーチから、「選手の間は恋をするな。アイスホッケーが守りに入る」と言われ、真剣な恋をすることができない。

 

 村瀬アキ(竹内結子)は、そのホッケーチームの属する会社のOLである。建設技術者と恋をして、海外に行った恋人の帰りを、二年も待ちわびている。「音信がないのであきらめているが、習慣になっているの」と友人に言い、あきれられている。

 

 アイスホッケーの試合の日、会社の仲間に連れられてきたアキを、リンクの上から見たハルは、「古き良き時代の女」のようだと言って彼女に心を惹かれる。

 

 ハルはアキに強引に接近し、彼女も少しずつ惹かれていく。

 

 アキが二年も恋人を待っていると知って、ハルは、恋人が帰るまでのゲームにしようともちかける。アキの恋人が帰ったら付き合いをやめて、笑って別れるというのである。

 

 ところが、付き合う中で、二人は次第に本気になり、ぬきさしならなくなってしまう。二人の友人たちも二人の仲をみとめ、喜んでくれる。

 

 ある日、アキの恋人だった夏川が、海外で受賞して、苫小牧にもどってくる。アキはうろたえショックを受け、ハルはいさぎよく身を引く。

 

 しかし夏川がアキにたいして、ハルとの付き合いをなじり、ケガをおわせていまう。これを知ったハルは夏川をなぐり、逮捕されてしまう。チームは危機におちいり、優勝があやうくなる。

 

 アキはチームのコーチに頼まれて、夏川に告訴の取り下げを頼み、夏川との結婚を承知する。ところが結婚直前に夏川は、自分が海外で恋人を作っていたことを告白し、身を引くことを告げる。

 

 アキはシーズン決勝を決める会場に行き、彼女の声援をうけ彼女の姿を見たハルは、最後の力をふりしぼって決勝ゴールをあげる。ハルはコーチのすすめで、カナダリーグの選手のオーディションを受けて合格し、日本人として初めて世界最高の檜舞台に出場する。

 

 三年後、大活躍をしたハルが一時帰国し、アキを連れていくことになる。

 

 氷上の格闘技といわれるアイスホッケーの、スリリングな試合が楽しめる。キムタクと竹内結子の熱演と魅力も満喫できる。

 

 キムタクは多くのドラマに出演し、私が見たドラマでは〈中学卒の検事〉のシリーズと、美容師と図書館司書(常磐貴子)の悲恋ドラマがよかった。とぼけたような演技がおもしろい。

 

 竹内結子は、朝ドラの「あすか」を見て好きになり、映画とテレビドラマを十本あまり見て、このドラマが一番よかった。恋人をいつまでも待つという、時代離れした女性を、よく演じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

239号 

 山形暁子「家族の小径」

 

  銀行でたたかう共産党員夫妻

 

                 泉  脩

 

 

 

 

 

 20年位前に発行された長篇小説。新聞「赤旗」に連載された家族の物語である。

 

 

 

 主人公、木谷直子は30代後半で、九年前に結婚した木谷耕司との間に、潤と美紀という二人の子供がいる。夫婦共働きで、ともに大銀行に勤めている。

 

 二人とも共産党員で、組合活動・党活動の中で知り合い、結婚し、子供が生まれ、職業病に苦しみ、それでもがんばって働き続けてきた。上の男の子の潤は小学校一年生、下の女の子の美紀は保育園児だった。

 

 耕司と直子は結婚の時、お互いの親を大事にしようと約束していた。耕司は姉二人の末っ子の長男であり、直子は三姉妹の長女である。二人の親は両親とも元気だが、耕司の父親は履物店を細々としていて、酒を飲むことだけを楽しみにしている。直子の父親は大病をした後に宗教に打ち込んでいる。事業に失敗した後、なんとか再就職し生活は成り立っている。

 

 直子は、このような親達を支えていくためには自分が働き続けなければならないと決心し、子供が生まれてからも必死に働き続けてきた。これは、かなり無理なことであり、やがて頚腕症候群という職業病に苦しみ、さらに腎臓も病み、二度の出産もあって長欠をくり返した。

 

 銀行では苦情やいやがらせが続き、給与の差別がおこなわれた。それでも組合婦人部の長いたたかいで築いた権利があり、仲間の助けもあって、直子はがんばり続けた。

 

 この銀行における、日ましに厳しくなる労働、不当な攻撃と差別、女性労働者同士の励ましの描写は、作者自身の体験に基づいたリアルな表現である。

 

 作者は定年退職まで、大銀行で働き続けたのである。

 

夫の耕司も、きびしい毎日を送っていた。共産党の経営支部委員長の重責を引き受け、帰宅は毎日深夜で、泊まって帰宅しないこともめずらしくなかった。

 

おおらかな性格で、誰からも好かれ、家族にもやさしかった。

 

しかし家庭をあずかる直子にとっては、夫の助けがどうしても必要だった。同居にふみ切った耕司の両親とは、やはりギクシャクした関係が生じた。義母は家事に積極的には手を出さず、直子も素直に頼めなかった。忙しさのあまりやさしい配慮に欠ける直子に、義母は突発的に苦情を言った。

 

直子をさらに苦しめたのは、息子の潤の登校拒否だった。潤は動作が遅く、忘れ物をし、すぐ泣き出すところがあった。保育園時代はやさしい保母のもとで、笑顔を見せていたが、小学校では登校を渋るようになった。担任の小野塚先生がいらだって、注意したり、叱ってくるからである。

 

直子は、同じ子持ちで働く女性である担任の言動が理解できず、面接や連絡ノートに思わず強い調子で抗議してしまった。そして教師としてもっと永い目で子供を見てほしいと。

 

直子は疲れ切って遅くに帰宅する夫に、こういった悩みを訴え、耕司もよく話を聞き、どうやら夫婦の会話が成り立った。彼は妻の両親のことも心配し、大きな古い家を買い、改造して、両方の両親と暮らそうと提案し、どんどん話を進めた。

 

今の住宅を売り自分の姉の協力も得て、新しい家が完成した。直子の両親は同居を辞退したが、直子は夫の実行力に目を見張る思いだった。それに、潤の登校拒否もおさまってきた。担任が反省をし、やり方を改めてくれたのである。

 

学校の管理体制のきびしさの中で、苛立っていたらしい。

 

新居の完成祝いの日、耕司が吐血し救急車で病院に運ばれた。胃潰瘍で胃にポリープができ、吐血が止まらず手術が行われて胃の3/4を切除した。

 

その後の経過が思わしくなく、直子と二人の母親が必死に看病した。また二人の仲間も次々と駆け付け、直子を励まし手伝ってくれた。

 

仲間の献血もあり29本の輸血が行われ、耕司は辛うじて命を取り留めた。耕司の退院で物語は終わる。

 

今後この家族がどうなっていくか、後篇が読みたいものである。

 

この物語は作者の体験に基づいていると思われるが、こまごまとした日常生活の様子が書かれ、実にリアルで興味深い。

 

一九七〇年代の東京が舞台と思われるが、コンピューター導入によるオンライン化が銀行の業務を大きく変化させていくことがよく解る。主人公が病気や家庭の悩みに苦しみながら、銀行員として働き続ける姿が健気である。

 

二人の子供の様子や両方の親達の様子もよく書かれている。女性作家らしい細やかな描写が数多くみられる。困難の中で手を取り合い、励まし合ってたたかう共産党員たちの姿もよく書かれている。

 

一九四〇年生まれの作者は現在70代で、日本民主主義文学会の幹事であり、同時に下総支部支部長として活躍している。多くの著書があり、この本は私の前著「天国からのメッセージ」への返礼として頂いたものである。

 

この作者の本は初めてだが、心から感銘を受けた。宮本百合子の跡を継ぐ、日本民主主義文学の優れた女性作家である。

 

 

 

 

 

 

医者ものドラマを観る⑦ 医学と私

 

泉  脩

 

 

 

 私の父は、東京下町の耳鼻科の開業医だった。私は第三子の長男で、父にかわいがられたらしい。父の診療室が、小さい時の私の遊び場だった。父の机の下に入って父の診察ぶりを見た。父の診察ぶりはていねいで、特に子どもには濡れ手ぬぐい顔や手を拭き、鼻をかみ、耳垢をとったり爪を切ったりした。

 

 父は私を邪魔にしなかったが、伝染性の患者が来ると私を追い出した。また入っていくと、怒って摘まみ上げて居間に連れて行き、へこ帯でしばって押し入れ放り込んだ。父の死後、このへこ帯を見るたびに胸がしめつけらえた。

 

 診療器具おもちゃにしてなくしたり、薬局の薬瓶をつぎつぎに流しに空けて、水でこねて遊んだ。どうしようもない悪ガキだったのである。

 

 読書が好きで、高校生の時に、イギリスの作家クローニンの「城塞」を読んだ。イギリスの若い医者が、困難を乗り越えて成長する物語である。炭鉱町で、落盤の現場で、挟まれた腕を切りとる場面では手に汗を握った。こうして、「城塞」を読んだ後、医者ものの小説をつぎつぎと読むようになる。

 

 有吉佐和子「花岡青洲の妻」、山本周五郎「赤ひげ診療譚」、山崎豊子「白い巨塔」などである。

 

 医師作家の作品も好きだった。北杜夫、渡辺淳一、南木佳士、夏川草介、いずれも実体験にもとづいているので説得力があった。

 

 私は北大教養部理コースに入学したが、医学部には進まなかった。気が弱くて、注射器やメスを使う勇気が無かったのである。そして文学部に進み、歴史』文学を学んだ。そして教師になった。

 

 しかし、医師への未練はあって、医者もの小説を読み、医者ものドラマを観るようになったのである。これまで取り上げた五つのテレビドラマは、どれも見応えがあり、それぞれ考えさせられた。スーパーマン的主人公ばかりだが、やはり病気が治らないと困るのである。

 

 愛が実るラブロマンス、病気が治る医者ものドラマ、そして子どもたちが集団的に成長する教育ドラマ、この三つが私が好きな小説であり、映画であり、テレビドラマである。

 

 今後も、この三つを中心に楽しんでいきたいと思っている。

 

 

 

 

 

238号 

 

 医者ものドラマを観る⑥

 

                泉  脩

 

  風のガーデン

 

 倉本聰が「優しい時間」に続いて書いた、富良野ドラマ。父親を緒形拳、息子白鳥定実を中井喜一肯が演じた見事な父子ドラマである。

 

 麻酔科医白鳥定実は、高校生の時からの女を追いかけ、成長してからも恋人を次々とつくる浮気者だった。結婚してルイ(黒木メイサ)と学という二人の子どもができても変わらず、ついに妻さえ子は鉄道自殺をしてしまう。学が自閉症だったが、夫が相談にのらないこともあった。

 

 富良野で在宅治療をしていた父親は、定実を勘当して、二人の子どもを引き取って育てた。定実は東京の大学病院で腕を奮い、次の教授に推された。

 

 ところが自分が進行性の膵臓癌で手遅れになっていることを知り、自分で痛みを抑えながら最後の勤めに励む。

 

 この頃、娘のルイ二十一歳になり、フラワーガーデンの仕事に力を入れ、旭川でヨサコイソーランの練習にも励んでいた。これを知った定実は、札幌に行ってルイの踊りを眺める。富良野にも行って、妻の墓参りをし、「風のガーデン」に行って学が働く姿を望み見る。

 

 癌が進行し、定実は退職して、キャンピングカーで「風のガーデン」の近くの林の中にとどまり、子どもの姿を眺めて過ごす。

 

 ある日、ついに学に見つかり、大天使ガブリエルと間違えられ、二人は仲良くなる。やがてルイにも会い、親子の絆を取り戻す。

 

 そして父親も全てを知り、定実を自宅に戻し、最後の時を過ごさせることにする。

 

 全編を通じて多くの花が映し出され、学が呟く花言葉(祖父が作った)がユーモラスに聞かされる。学は花の名前と花言葉の記憶が飛び抜けていて、同時に音感がとてもいい。学が弾き、時には定実がチェロで演奏する「乙女の祈り」が絶えず流れる。

 

 ルイは美しい心優しい娘で、死期のせまる父親のために力を尽くす。定実のかつてのクラスメートなど富良野の人々も楽しく、頑なになった定実の心を和らげていく。

 

 息子と孫を引き離し、死の近い息子が頑固な父親を恐れながら故郷に戻ったことを知った父親は深く後悔する。父と子の和解の場に心を打たれる。自身、年老いて、亡くなる緒形拳、すばらしい名演技である。

 

 中井喜一は、二枚目の佐田啓二の息子だけに、いつまでもイケメンの美男子である。しかし、大河ドラマ「武田信玄」で思わぬ名演技を見せるなど、渋い演技俳優になってきた。このドラマでも、ユーモラスで軽薄な面も見せながらも緒形拳に負けない名演技をしている。

 

 倉本聰のシナリオは一段と円熟してきた。際どいエロチックなセリフをはさみながらも、心に迫る見事なドラマに仕上げている。

 

 医学に関する会話が多く交わされ、人間が死をどう迎えるかという深刻な問題が提起されている。家族に囲まれて死ぬのがよいという結論のようだ。

 

 昨年、五十年以上連れ添った妻を亡くし、八十二歳で自分の死も近い私にとっては、他人事でない考えさせられるドラマだった。

 

 

 

 

 

237号 

 青木陽子『日曜日の空』

 

(2005年新日本出版者刊)

 

  女性の生き方を求めて

 

泉  脩

 

 

 

恵子、美佐、クミ子の三人は、50代の主婦で、夫と子供がいる。恵子と美佐は看護学校いらいの友人である。三人は時々会って家庭の悩みを話し合い、励まし合ってきた。そして女性として、今後どのようにして充実した老後をむかえるか、考えている。

 

恵子はナース(女性看護師)の仕事を続け、今では病院の婦長として忙しい毎日を送っている。若い時は平和運動に参加し、歌声運動で知り合った修三と結婚し、息子と娘の二人の子供がいる。息子拓雄が恋人と付き合いながら、いつまでも結婚せず、娘のミカがそんな生き方を認めているのが心配である。

 

二人の子供が未婚で終わってしまうのか。美佐は専業主婦で、一人娘の奈津子が孫の沙耶(さや)を連れて、実家に戻ってきている。友人のパン屋を手伝っているが、仕事がおもしろくなっている。夫が母親の言いなりで、不満で離婚すると主張している。

 

クミ子は弁護士事務所の事務員として働き、二人の男の子がいる。長男の純は東京に出て、フリーターをしながら演劇を目指している。その純が結婚するというので、びっくりして結婚式に出席する。多くの友人に祝福され、貧しいながら協力して生きていこうとしている二人を見て、かえって励まされる。

 

恵子は一人暮らしをしている母親の静子が認知症になっていると知って、びっくりして実家を訪ねる。実家はゴミ屋敷になっていて、恵子はがくぜんとする。

 

喫茶店をしている夫や二人の子供と相談するが、どうしたらよいか決められない。ところが美佐が手伝いを申し出て、静子を訪ね、うまく家の中を整理し、静子を介護してくれる。

 

美佐の家では、夫が娘婿と話し合い、孫娘との再会を仲介し、娘の奈津子も時々参加して、別居結婚の様相を取り始めている。

 

クミ子は、長男に続いて次男の遼(りょう)も結婚を申し出る。兄の様子を見て、自分も結婚する決意をしたのである。クミ子は二人の息子が自立の道を目指す中で、自分も女性として自分らしい老後の生き方を考え、自分の定年を55歳と決心する。

 

恵子の家では息子の拓雄が、長い春にピリオドを打つ決心をする。恋人の繭子(まゆこ)が、最初に祖母の認知症を知り、迷わず世話をする姿を見て、心を打たれたのである。自分が低収入で、銀行員の繭子より収入が少ないのを恥じていたのである。

 

恵子は夫の喫茶店が経営不安なことを知り、自分は更にがんばって働くことを決心する。同時に夫と共に、歌声活動を再開する決心もする。

 

このように三つの家庭に大きな変化が起こり、子供たちが自立を目指す中で、三人の女性(母親)は、人間らしい老後を目指す道を歩みはじめるのである。

 

女性の自立とは何か、充実した老後とは何か、多くを考えさせる、さわやかな物語である。妻として、母親として、そして女性として、正しい生き方を求める物語である。

 

 

 

作者の青木陽子さんは、愛知の民主主義文学運動の中心として、日本民主主義文学会の役員として活躍してこられた方である。

 

私が10年前に札幌民主文学会に入り、四年連続で北海道文学専科に出席した時、中央からの講師として指導してもらった。

 

日本民主主義文学会の前身の、新日本文学会が戦後まもなく発足した時、宮本百合子さんが中心的役割を果たした。小林多喜二と並ぶプロレタリア文学の創始者である。宮本百合子は、日本の根強い女性差別とたたかい、科学的社会主義に到達したが、戦後も大きな役割をはたした。そして多くの秀れた女流作家を育て励ました。

 

松田解子、吉開那津子(前々会長)、稲沢潤子(前会長)などである。

 

現在、私が知っているかぎりでは、愛知の青木陽子、東京の澤田章子、千葉の山形暁子、岐阜の秋元いずみ、そして北海道では福山瑛子、高橋篤子、西浦妙子、泉恵子、室崎和佳子、田中恭子など、多くの女流作家がいる。

 

私は、今後もこれらの人の作品を読み、評論を書いていきたいと考えている。

 

民主主義文学に限らず、日本には昔からすばらしい女流作家が多く、男性作家をしのぐような活躍をしてきた。

 

まさに花盛りといえるかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 医者ものドラマを観る⑤

 

        ドクターX

 

泉  脩

 

 

 

 無医村で開業し、過労と貧しさの中で亡くなった父を継いで、大門未知子(米倉涼子)は医師になった。キューバの医大で日本人外科教授にしごかれ、世界各地で腕を磨き、やがて二本に帰国した。

 

 彼女がアキラと呼ぶ恩師も帰国していて、なぜか医師免許を失っていて、医師派遣業をしていた。すご腕の外科医になっていた彼女はフリーランスの外科医としてあちこちの病院で働くことになる。

 

 この一風変わったドラマの各回で、「今や大学病院の医局制度は崩れ、医療技術の低下が著しい。これを補うために現れたのがフリーの医師である」というナレーションが入る。

 

 長い間猛威を奮っていた医局が崩れ、優れた研修医が集まらなくなったのである。このドラマの舞台である大学病院では相変わらず教授たちは権力を握っていたが、肝心の中堅若手の医師が育たないのである。

 

 この病院に現れた大門は、教授の権威や医局の掟を無視して不可能と思われる手術を次々とやってのける。メンツを潰された教授たちは、それでも彼女の手腕を必要とし、自分達の利益のために利用していく。

 

 アキラは彼女の手術後、ひょっこり現れて、莫大な手術料を要求する。学長・病院長、教授達はしぶしぶ支払い、アキラはそれを蓄えて彼女の将来の病院建設に備えるのである。

 

 大門は、なにか特別の理想や理念を持っているわけでもなく、地位や名誉、お金にも関心がない。

 

 ただ手術がしたいだけである。一種のスポーツ感覚であり、爽快である。恋愛にもかかわらず、ただアキラを慕い信頼している。後に自分のために莫大な金額の蓄えがあると知ると、これを使って宇宙遊泳をすることになる。なんとも不思議な女性である。

 

 今後このドラマがさらに続くのかどうかは分らないが、異色の医者ものドラマといえるだろう。

 

 そもそも、医局の崩壊というのは、大学病院以外でも博士号がとれることになったことに起因する。博士号をエサに若手の研修医を医局に縛り付け、無休で働かせるということができなくなったのでる。さらに若手医師は博士号すら欲しがらない傾向にあるという。もう教授の権力で医師達の生殺与奪の権利を持つという時代ではなくなったのだろう。白い巨塔の崩壊といえるかも知れない。

 

 

236号 

 医者ものドラマを観る④

 

   「白い影」

 

                泉  脩

 

 

 

 渡辺淳一「無影燈」を原作とするテレビドラマ。何回映画化。何回も映画化、テレビドラマ化され、私は別の配役で見た記憶がある。

 

 新潟の病院から東京に移ってきたナースの志村倫子(竹内結子)が最初からショックを受ける。初日から夜勤になり、幼なじみ次郎が救急車で運び込まれる。彼女を追うように東京に出てきて、さっそく酒場でけんかをして額を割られたのである。

 

 びっくりした倫子は当直医探すがどこにもいない。別のナースから居場所の電話番号を教えられ、電話をかけると居酒屋だった。やがて姿を現した直江(中井正広)は、暴れる次郎をトイレに閉じ込め、静まってから手当をする。倫子は二重に憤慨して抗議する。これが二人の出会いだった。

 

 直江はまだ若い腕利きの外科医だが、クールな容貌と言動で女性たちに人気がある。末期の胃がん患者とその妻に、胃潰瘍といって偽りの手術をする。男に刺された若い女優を特別室にかくし、やがてマスコミに迫られると、ウソの病状を記者会見で発表する。

 

 倫子は彼のやり方を見聞きするうちに、次第に彼の正しさを知り、引きつけられていく。

 

 直江は長野の病院で働いていた時、自分が多発性骨髄腫になり手遅れであることを知る。そこで東京の病院に移り、医師として生涯を全うする決心をしたのである。彼を愛する女性たち――病院長の娘、薬品会社の担当者などを受け入れるが心を許さない。麻薬で痛みを抑えながら、必死に医療に打ち込んでいる。

 

 倫子は献身的に働き、やさしい笑顔で患者に接する。直江と倫子は愛し合うようになり、最後は一緒に北海道への旅に

 

出かける。直江の生まれ育った地であり、中でも彼がもっとも愛した支笏湖のほとりのホテルに泊まる。倫子を一足先に東京に帰して、直江は湖にボートで漕ぎ出し、身を投じて我が身の決着をつけた。

 

 倫子は衝撃を受けて悲しむが、彼の子供を産み、ナースとして働きつづける。暗いトーンで貫かれた、医者ものラブストーリーである。不倫物の多い渡辺淳一の作品の中では、もっとも心を打つ純愛ドラマであり、女主人公を演じる竹内結子の魅力が大きい。

 

 私はこの女優をNHK朝ドラの『あすか』(一九九九九)で見ていた。京都の菓子職人を演じる彼女の魅力にうたれ、テレビドラマ「プライド」とこの「白い影」で決定的に引きつけられたのである。他の出演作多く見たが、この三作がもっとも心に残った。

 

「医者も病気になる」という直江のセリフにあるように、病気と闘う医師は、常に病魔に脅かされているのである。

 

 終戦直後の一九四六年、私の父は、道南の森町で、患者から移された天然痘で、四十代半ばで人生を終えている。五人の子供を残して。

 

 

 

 

 

 

 235号

 

キム・ビヨラ著 後藤守彦訳

 

「常磐の木―金子文子と朴烈パク・ヨル)の愛」

 

国境を超えた永遠の愛

 

泉 脩

 

 

 

 現代韓国の歴史小説家キム・ビヨラの骨太い力作。日本に併合された朝鮮で目覚めた青年、朴烈が、日本で虐げられた金子文子と結ばれ、関東大震災(一九二三)の直後に捕えられる。二人は大逆事件をでっち上げられ、死刑を宣告される。

 

 まもなく恩赦で終身刑に減刑されるが、金子文子は牢獄内で自殺した。一九二六年23歳の若さだった。一歳上の朴烈は、一九四五年の日本の敗北後に釈放された。43歳だった。

 

 この小説は、この二人の成長と出会いを克明にたどり、それぞれの思想形成をくわしく明らかにしている。青年は朝鮮の植民地化に激しく抵抗し、少女はいびつな家庭における耐えがたい不幸に苦しんだ。二人は生きる道を求めて東京に来て民族主義、キリスト教や社会主義にあきたらず、無政府主義・虚無主義に行き着く。純粋ですべてを否定する理想主義である。

 

 21歳と20歳の二人は、出会うやいなや共鳴し恋に落ち、同棲生活に入る。

 

極貧の中、無政府主義サークルを作り、爆弾テロをも計画する。日本帝国主義・軍国主義への精一杯の抗議であり、抵抗である。

 

 この小説の著者は朝鮮人であるだけに、日本による朝鮮植民地化、一九一九年の独立を目指す民族蜂起(万歳事件)、そして関東大震災の時の朝鮮人大虐殺を、生々しくリアルに描いている。日本の小説家・歴史家には書けない、激しい抗議をこめて。

 

 今さらながら、かつて日本が(日本人が)犯した誤りと犯罪を痛感させられる。そして同じ日本人でありながら、金子文子が同じ虐げられた者同士として、朴烈らの闘いに加わったことに、励まされる思いである。しかし日本の権力者・支配者は、はるかに強力であり若い二人は、とらえられ利用される。

 

 関東大震災で東京は大きな被害を受け、民衆の不安と苦しみは計り知れなかった。この中で起きた朝鮮人大虐殺は、民衆の政府への不満をそらす謀略だった。六千人もの在日朝鮮人が殺され、日本人社会主義者・共産主義者も殺された。

 

 二日後の九月三日、朴烈と金子文子が捕えられた。朝鮮人大虐殺への批判をそらすためだった。大逆事件として大宣伝され、三年後の一九二六年には死刑が宣告された。すぐ恩赦で終身刑に減刑されたのは、あまりにも露骨で見えすいた芝居への批判を和らげるためだろう。

 

 小説の中で、金子文子が恩赦の文書を破り捨てる場面はすさまじい。幼い時からいじめられ、苦しめられてきた彼女の怒りの爆発だろう。女性の心の底からの怒りは、男をもしのぐ時があるのだ。

 

 この小説を読んで深く感じることは、戦前の明治憲法の大きな欠かんだ。天皇主権で、国民は巨民にすぎない。国民の自由と権利は臣民の義務の範囲内にすぎない。政府も議会も軍隊も、すべて天皇に直属し、天皇の名のもとで、勝手気ままに権力が振るわれたことだ。およそ近代的民主主義政治からほど遠く、国民はまったく無権利だった。

 

 日本は朝鮮の植民地化と中国への15年戦争に突入した。これがアジア・太平洋戦争に拡大し、アジア諸国の二千万人の命を奪い、三百万人を超す日本人も死んだ。

 

 この間、天皇の命令は絶対であり、天皇家への反抗は大逆罪としてきびしく罰せられた。

 

明治末期の幸徳秋水らの大逆事件、大正時代に入っての難波大助事件、そして朴烈・金子文子事件である。昭和時代には治安維持法が猛威を振るい、無数の人命が失われ権利侵害が横行したのである。

 

 この小説を訳した後藤守彦さんは、札幌民主文学会の会員で、私の文学仲間の一人である。日本とアジアの近現代史の専門家で、特に朝鮮史に関心が深い。韓国の秀れた歴史小説を苦労して翻訳され、私達の視野を拡げてくださった。  

 

心から感謝したい。

 

 

 

現在、北朝鮮の動向が世界的に注目されている時、朝鮮の現代史を広く深く明らかにすることは、とても大切なことだと思う。

 

日本は昔から朝鮮とのかかわりが大きく、日本と南北朝鮮が理解と協力を強めることは、アジアと世界の平和のために、とても重要なことである。政治、経済だけでなく、文化、芸術、スポーツなどにおいても。

 

 

 

 

 

医者ものドラマを観る③

 

   「ドクターコトー診療所」

 

                泉  脩

 

 

 

 大学病院の宿直で、同時に二人の病人が運び込まれ、手当を後に回した女子高生が急死してしまう。

 

 当直医の五島健助(吉岡秀隆)は、責任を取って辞職し、日本最南端の志木那島の医師になる。

 

 彼は若手のホープだっただけに、島の診療所で次々と病人を治し、コトー先生と呼ばれて島民の信頼を得る。医師が居着かず無医村状態が続いていただけに、島民の喜びと安心は大きかった。美しい自然に恵まれた島だが、産業はふるわず若者の流出が続き、過疎の島になりつつあった。それだけに病人が助かり子供たちが守られ、赤ん坊が無事出産する度に、島中が喜び合う。

 

 この中でコトー先生は心の傷が癒やされ、島に住み着く決心をする。気持ちが優しく控えめのコトー先生を吉岡秀隆はぴったりと演じている。

 

 老人から子供までの島民の群像が生き生きと演じられている。特にかつての学校友達だった中年の男たち、役場の課長、漁業長、一番腕利きの漁師とのやり取りがおもしろい。それぞれ家庭の悩みをかかえ、酒を飲み、ケンカをし、助け合っていく。山田洋次監督の映画を観ているようだ。

 

 女たちもそれぞれ悩みをかかえ、訳ありである。特にナースの星野彩佳(柴咲コウ)はおもしろい。彼女は一人で診療所を守ってきて、コトー先生の出現をだれよりも喜び、そして恋してしまう。しかし、乳癌になり、コトー先生の手術で助けられ、二人が結ばれることが暗示されて物語が終るのである。

 

 かつて大学病院で死んだ女子高校生の兄が、復讐の念に燃えて島に現れる。夫の暴力から逃れて島に来た若い女性(蒼井優)が診療所のナースになり、追ってきた夫を島民が総出で追い返す。コトー先生に助けられた男の子が、自分も医師になろうと決意する。離婚して島に戻り、酒場の女将になった女性を、夫のもとに置いてきた男の子が会いに来る。

 

 こういった多くのエピソードも交えて、なんとも心を打つ人情ドラマに、観ていてとても気持ちがいい。ドロドロした権力争いがないだけに、なおさらである。

 

 

 

 

 234号

 

なかむらみのる「信濃川」

 

  生活相談五千件の共産党市会議員

 

泉 脩

 

 

 

 日本一の大河である信濃川のほとり、新潟県新川市の、日本共産党市議会議員の物語。

 

 実在の人物をモデルにし、70年近く多くのエピソードが書かれている。

 

 ゆうゆうと流れる信濃川のような、迫力のある大河小説である。

 

 

 

 主人公渋木誠治が6歳のある朝、10才も年上の兄、誠一に起こされる。畑仕事を教えるからついてこい―と言うのである。母キヌと息子二人の三人家族で、兄が近く満州の開拓団に入るのである。

 

 日中戦争のさ中で、日本が作ったカイライ国家満州国に行けば、やがては

 

10町歩の土地が与えられると宣伝されていた。誠一は、父の死後の苦しい生活から抜け出すため、高等小学校を卒業したら、親友の谷川と二人で満州に行く決心をしたのだ。

 

 小学校一年の幼い誠治は、兄が去った後、母を助けて必死に働いた。兄が急死したので、誠治の責任が大きくなり、勉強はそっちのけになってしまった。

 

 戦争が終り、帰国した谷川の話によると、政府の宣伝とは大違いで、苛酷な労働をさせられ、土地は与えられなかった。そのため誠一は病気になり、失意の中で亡くなったという。

 

小作農である父の実家の手伝いだったので、戦後の農地改革でも土地が得られず、誠治は新制中学を卒業後、母校の臨時用務員になった。二年後には植木職人にかわった。

 

兄の不幸な死、敗戦、つらい労働と苦しい生活の中で、誠治は社会の矛盾に気付き、共産党員になった谷川のすすめで民主青年同盟(民青)に入った。

 

そして自分から共産党に入り赤旗配達の専従を15年続けた。生活と健康を守る会の仕事もした。仲間に助けられて、読み、書き、ソロバンの勉強もやり直した。

 

こういった努力と、誠実な人柄を見込まれて、市会議員の立候補をすすめられ、見事に当選した。誠治は市民のための仕事に取組み、特に生活相談に打ち込んだ。9期36年の議員生活で、五千件近い生活相談を行い、多くの人々を助けた。そのため「生活相談の渋木」と呼ばれ、選挙では常に上位当選した。

 

 

 

ところが事故で負傷し、10回目の立候補を断念せざるを得なかった。

 

やがて一斉地方選挙の県議選で、二人区で自民と民主の無競争当選が確定しそうな中、後援会の中から誠治立候補を望む声が起こり、誠治も決意して立候補を共産党県委員会に願い出た。

 

公示二ヶ月前に立候補が決まり、東北大震災が起こる中、原発反対を掲げて大奮闘し、38票差で次点になった。72才になった誠治は、原発再稼働に反対する運動に取り組み、4年後の立候補も考えながら努力を続けるのである。

 

不屈の共産党員の姿を、見事に描いた大作であり、胸のすくような小説である。作者自身と思われる郵便局員の沢永として登場し、民青同盟員いらいの誠治の親友として助け合い励まし合っている。このほか多くの共産党員群像が描かれ、日本共産党の地道で不屈の努力が実によくわかる。とても貴重な作品だと思う。

 

私はこの主人公と同年代であり、いわゆる安保世代である。そして同じような生活とたたかいをしてきた。小説に書かれた多くのエピソードがよく理解できる。そして心から共感することばかりである。選挙の立候補はしなかったが。

 

うれしかったことは、北海道と新潟は、共に原発再稼働を許さず、昨年の総選挙では野党共闘を成功させている。

 

作者は私と同じ日本民主主義文学会の会員であり、お互いの本を交換し、私はなんとか評論を書くことができてうれしい。

 

作中、主人公は「生活相談で多くの人を助けた。このことで実は、自分自身を助け、幸せになったのである」と書いている。

 

これが、この本の結論と云えるかもしれない。

 

 

 

 

 

宮本百合子没後六十五周年記念

 

「宮本百合子とともに」(宮本百合子を読む会)

 

               泉  脩

 

泉 

 

六十頁あまりの小冊子だが、内容が詰まっている。一九五一年に亡くなったプロレタリア文学の代表的作家だが、女性の地位向上と社会主義をめざした偉大な女流作家である。

 

この会は女性中心の集まりで、宮本百合子の作品を音読してきた。つい最近、代表的長篇の「道標」を読み終えている。ねばり強い努力であり敬服したい。

 

会員八人が寄稿しているが、最初から六人の文章は短く、それぞれの宮本百合子との出会いを中心に書いている。高校生の時からという人など、若き日に宮本百合子の小説に出会い、女性差別とたたかう姿に強い感銘を受けている。

 

獄中の夫、宮本顕治との「十二年の手紙」の感想と分析も興味深い。三年ものソ連滞在の後とはいえ、まだ科学的社会主義の理解が充分でない妻の百合子を、宮本顕治が手紙を通じて教え導いているのである。

 

執筆者は誰もが、宮本百合子の精神を受け継いで、日本の現実とたたかっている様子がうかがえて心強い。

 

木村玲子さんの「『道標』最後に見る伸子の決意を巡って―『広場』との比較の中で」は、ソ連滞在の最後に、帰国するかどうか悩む姿を書いている。

 

ソ連滞在が長い片山潜にソ連にとどまることをすすめられたのである。百合子は、自分が認められたことを喜びながらも、自分がたたかう場所は日本ではないかと悩み、ついには帰国を決意するのである。

 

百合子の作品「道標」の最後の部分と、それ以前に書いた「広場」に同じ内容が書かれていて、木村さんはその両方を比較して、百合子の心境を推測しているのである。この帰国は正しかった。予想した通り苦難の生活、体験が待っていたが、これを乗り越えて秀れた作品が生まれたのである。

 

この小冊子の頁の大半を占める、鷲沢セツ子さんの「『遥かな彼方』百合子を追って―中條百合子(宮本百合子)の一九一八~一九一九年」は力作である。一八九九年生まれの中條百合子は、十七歳で「貧しき人々の群れ」を書いて、一躍注目される。人道主義からの貧民への同情を書いた小説である。

 

その後、十八歳の時、北海道に四カ月滞在しアイヌ人の生活を調査し、前作における女性差別の告発から今度は民族差別を告発したのである。

 

鷲沢さんは、このことを最近になって発見された二作の遺稿をもとに、詳しく明らかにしている。そして、なぜこの二作が発表されなかったのかも推測している。

 

百合子はこの後、アメリカに渡りコロンビア大学に入学し、そこで知り合った日本人留学生と結婚し、帰国後に離婚している。そして、このことを「伸子」に書いたのである。

 

宮本百合子研究は、このようにまだまだこれからである。小林多喜二と並ぶ二人のプロレタリア文学の大作家は、今後もさらに研究される必要がある。

 

最後に、私自身の宮本百合子体験を書いてみたい。私は高校二年の時に文学に目覚め、日本の近現代の代表的小説を読みふけった。自分が今後どう生きるか―という悩みの解決を求めたのである。夏目漱石から太宰治までたくさん読んだ。結論は得られず、高校三年途中から大学にかけて、外国文学に移った。

 

ただ宮本百合子の小説が心に残った。「伸子」「二つの庭」「道標」で、果敢に自分の生き方を探求する姿に打たれたのである。そして「播州平野」で、混沌とした敗戦後の日本に、これだけ澄んだ目を持った日本人がいたことに深く感動した。自分がどうしたらこの境地に達するのか―新しい探求が始まった。人道主義から科学的社会主義に。

 

この道は、多くの紆余曲折をたどり、文学だけでなく、哲学、経済学、歴史学の探求を経て、そして実生活の体験も経て、十年あまり続くことになる。

 

宮本百合子は、私にとって燈台の灯りのような存在である。

 

宮本百合子探求としては、中途半端だったが今後果たしてもどることがあるだろうか。

 

せめて「十二年の手紙」だけは、読んでみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 233号

 『戦争とわたし』

 

    胸をうつ戦争体験の記録

 

                 泉 脩

 

泉 

 

二〇一四年に、道内の公立高校々長経験者七人が、安倍内閣による「集団的自衛権」の閣議決定への抗議声明を出しました。そして、このことをきっかけに、「戦場に教え子を再び送るな」北海道の会が結成され、今年会員ら25人の「戦争と私」という本が出されました。

 

私は文学仲間であり、この会の共同代表者の一人の平山耕作さんから、この本をいただいて読みました。どの文章も、生々しい胸をうつ回想・記録でした。現在83才の私は、戦中・戦後は子供でしたが、どの文章も思い当たることがあり、70年前に舞い戻ったような気持ちです。

 

兵士として戦場に行った人は一人ですが、その人の手記を娘さんがまとめました。ベトナムの沖で、船団を潜水艦に攻撃され、輸送船が次々と沈められました。筆者の船は辛うじてカムラン湾に逃げ込んで助かりました。

 

この後も九死に一生の連続でした。

 

樺太・満州・台湾などの外地からやっと引き揚げてきた、子供時代の回想が多くあります。父親がいない場合が多く、母親と必死に逃げてきたのです。ソ連兵に苦しめられ、恐ろしい目にあいました。樺太の大泊港で、寸前に満員になり乗り損なった船が、北海道西海岸の沖で魚雷攻撃を受けて沈没しました。

 

このことを陸地から見た人もいました。翌朝、海岸にたくさんの死体が流れ着いたそうです。二隻が沈み、一隻が大破し、千七百人が亡くなりました。

 

日本が降伏した後のことであり、樺太と満州で多くの人が殺されました。スターリン独裁下のソ連の非人道的な行為でした。

 

いわゆる内地での苦しい体験も書かれています。

 

広島で原爆にあい、この世のものと思えない惨状を体験しました。兵士だったので死体処理をさせられ、悲惨な生存者の救助にも努めました。自分は助かり、後に教師になりましたが、病気のデパートになり苦しみました。二人の子供もひどい病身です。

 

私が敬愛する児玉健次さん(元日本共産党衆議院議員)も原爆体験を書いています。広島の小学校の集団疎開で田舎にいましたが、すべての子供が広島で親を失い、両親とも無事だった児玉さんは、自分の父か母が亡くなればよかったと思ったそうです。友人達の嘆き悲しむ姿を見て、いたたまれなくなったのです。

 

 

 

根室でグラマンの執ような攻撃を受け、家族みんなで逃げまわった思い出もありました。町の半分が焼失し、約四百人が亡くなりました。

 

私も東京で空襲を体験し、私の家は焼けました。父が戦後まもなく伝染病で亡くなっています。空襲の体験は人ごとではありません。

 

ほどんどの人が、母親がいかに苦しみがんばったかを書いています。夫や息子を兵士としてとられ、幼い子供を守って母親が必死に努力したのです。私の母も父の死後、まだ30代で5人の子供を育てました。母の必死の姿を見てきたので、私たちきょうだいは、一生頭が上がらない思いでした。

 

ポツダム宣言受諾の玉音放送を聴いて、父親が神棚を壊した話がありました。日本は、神の国であり決して負けない―と教えられてきたことへの怒りでした。支配者は多くの神話を作って、国民をだまし、命と財産を奪ってきました。

 

現在は日米安保条約であり、原子力発電所であり、高度成長です。

 

この本は、こういった神話への国民の怒りの声をのせています。戦争は最大の悪であり、決して許されません。このような本が、もっと多く出され、国民の怒りの声を支配者たちにぶつけなければなりません。

 

 

 

 

 医者ものドラマを観る②

 

  「医龍」

 

                泉  脩

 

 

 

 現在4シリーズで、まだ、未完である。主人公浅田龍太郎(坂口憲二)は、北日本大学病院で手術の天才として注目されていた。しかし、教授に反抗し、同僚にねたまれて、心臓外科医局を追放された。

 

 その後、「万人のための医師団」の一員として内戦の続く国々で活躍した。帰国後はどの病院でも就職できず、廃業を考えていた。そこへ明神大学病院の心臓外科から誘いが来る。

 

 定年退職が近い野口教授が、彼に日本初のバチスタ手術をさせ、その成功を手柄にして、総長なろうとしたのである。ブラジルのバチスタが始めた手術で、心臓移植でしか救えない肥大した心臓を切り縮める難手術である。

 

 浅田は承諾して見事にバチスタ手術に成功する。ところが、かつて彼の北日本病院からの追放を画策した霧島教授が今度も邪魔をして「日本初を奪ってしまう。

 

 野口はこの霧島を次の教授に迎えて自分の野心を果たそうとする。

 

 しかし浅田は次々と難手術に成功し野口らの企てを粉砕してしまう。この間、彼を慕う医師たち、ナースらが集まり、チームドラゴンが結成される。

 

 浅田は「目の前の患者に全力をあげる」と主張して、患者を差別せず、野口、霧島の命すらも助けてしまう。その心臓手術の場面がとてもリアルで興味深い。

 

 第2シリーズではカテーテル医師の出現が彼を脅かし、第3シリーズ心臓移植がとりあげられる。だい4シリーズでは最新の施設を持った医大病院が出現し、野口は政府に働きかけて、スーパー医療特区の資格を手に入れ、インド、中国、ロシアにも拡げ、新興国の富裕層を対象にした国際医療組織を作ろうとする。

 

 その際、目玉のスーパー医師団として、チームドラゴンを手中にしようとする。しかし、浅田は半ばこの計画に乗りながら、地域のための医療に徹する桜井病院を守り、一端はチームを解散するが、いつの日かの再結集を誓い合うのである。

 

 世界に誇る日本の医療保険制度を守り、四〇兆円にもなる医療費問題を解決し、そしてアメリカと並ぶ日本の医療技術をいかに発展させるか、考えさせられるドラマである。

 

 主人公浅田龍太郎を始めとする多くの個性的な登場人物が熱演し、イライラ、ドキドキする場面が続き、医者ものドラマとしては、とてもおもしろい。続篇が楽しみである。

 

 

 232号

   

   書評

   「兄は沖縄で死んだ」(加藤多一著)

         沖縄に戦後はない

 

               泉  脩

 

 

 

作者は、一九三四年生まれの童話作家である。私と同年生まれなのでわかりやすい。道北の滝上の開拓農の四男として生まれた。男5人、女5人の10人兄弟で、全員が無事成長した。両親の努力のたまものだった。

 

体が頑健で人柄もいい次男の輝一(こういち)が、父を助けて家業の中心になった。

 

ところが、24歳で召集され、三男で13歳の兄が跡を引き受けざるを得なかった。作者はこの頃7歳で、出征した兄の記憶は定かではない。

 

輝一兄は旭川の第7師団に入り、やがて満州に移り二年後さらに沖縄に移動になった。一九四四年の夏だった。

 

 

 

この頃アジア・太平洋戦争は、日本の劣勢がはっきりしていて、沖縄攻撃は間近だった。

 

牛島司令官の率いる第32軍は、アメリカ軍を少しでも長く沖縄で食い止め、本土攻撃を遅らせるのが任務だった。これは、すでに失った太平洋の島々すべてでの任務だった。それまでの水ぎわでの戦いをやめて、奥地に陣地をつくり、粘り強く戦い抜くのである。硫黄島の戦いが典型で、最後は全滅したがアメリカ軍も多くの死傷者を出している。

 

輝一兄は輺重隊(しちょうたい)に属し、順調に昇進して兵長になっていた。馬で武器・弾薬や食料を運ぶのが任務である。

 

 

 

一九四五年三月からアメリカ軍の攻撃が始まると、南端に移動を続け、6月20日ごろ、糸満市の近くで戦死させられている

 

これは作者の表現で、戦死したとは決して書かないのである。

 

28歳であり、一家の中心なのに国家権力によって引き抜かれ、大激戦の中、無惨に命を落としたのである。本人も残された家族も、どれだけ無念であったか、作者は怒りを込めてこの本を書いたのだろう。

 

 

 

6月22日~23日に、牛島司令官は長参謀長と共に自決し、沖縄戦は事実上終わった。最高司令部が無くなった以上、日本軍は停戦し降服すべきだった。ところが牛島司令官は最後の命令として、各隊は最後の一兵まで戦い抜け―と全軍に発した。

 

これはアメリカの日本本土攻撃を少しでも遅らせるために、兵士と県民を、生け贄にするということである。のちに軍神と讃えられる牛島司令官の、あまりにも無責任な命令である。

 

もし、この時で降服していれば、どれだけ多くの人命が救われたことか。作者は怒りを込めて書き続けている。

 

「死して虜囚(りょしゅう)の辱めを受けるな」という戦陣訓の一節が、どれだけ多くの

 

日本兵と民間人を死に追いやったことか。日米開戦前に当時の東条陸相が発したこの戦陣訓が、玉砕、負傷兵殺害、民間人の一家自決など、悲惨な犠牲を増大させたのである。

 

しかも「上官の命令は天皇の命令と思え」という軍人勅諭があり、二重の重圧になった。

 

事実、沖縄では牛島司令官自決後も更に二カ月間戦いが続き、沖縄本島南端に追い詰められた日本兵と県民の、無数の死者を出したのである。

 

 

 

作者は、一九九三年から二〇一五年までの22年間に7回沖縄を訪ね、時には数ヶ月も滞在して、沖縄戦の真実と、その後の移り変わりを調査した。

 

その中で沖縄の多くの人々と話し合い、心を通わせ、認識を新たにしていった。

 

そして結論として、兄の死は犬死であり、兄とて県民に無法な行動をしたかも知れない、と書いている。そして沖縄には戦後がなく、現在も戦争が続いているということである。多くの米軍基地があり、アジア各国へのアメリカ軍の攻撃基地として役立ってきた。今後もこれは続き、新しい基地が作られている。

 

沖縄の人々は、さまざまな形で粘り強く抵抗している。作者が書いている多くの実例は、どれも胸を打つことばかりである。紹介したいことばかりである。

 

そして、今さらながら日本政府がしてきたことが、いかに卑劣なことばかりか、煮えくりかえる思いである。

 

 

 

 作者は天皇制についても書いていて、現在も日本人に思考停止をさせる権威としての天皇制の役割を批判している。その一つの例が、叙勲制度であるとしている。

 

 なお作者は、北海道と沖縄を対比している。どちらも植民地だったというのである。北海道民は、本州、九州、四国などを内地と呼んできた。つまり、北海道は外地なのであり、大戦中まで知事を置かず長官が統治してきた。

 

 

 

開道百五十年といわれるが、アイヌにとっては屈辱的な年月だった。

 

「私たちは和人に土地を譲った憶えは無い」というアイヌの元国会議員の言葉を作者は書いている。

 

沖縄は<琉球処分>で明治時代に日本に支配された植民地である。アイヌも琉球人も縄文人の子孫であり、同じ運命を辿ったのである。

 

 

 

 

 

 

 医者ものドラマを観る①

 

  救命病棟24

 

                泉  脩

 

 

 

 5回シリーズ。第1シリーズで、研修医小島かえで(松島奈々子)が、指導医進藤(江口洋介)に厳しく鍛えられる。進藤は「目の前の命を救うために全力をあげよ」「救える命を救わないのは犯罪だ」と主張し、どんな小さなミスも許さない。口の悪い進藤に反発しながらも、かえでは進藤の手腕に感銘を受け、医師として目覚めていく。

 

 第3シリーズでは、かえでは一人前の救命医として活躍し、進藤は国境なき医師団に加わって、内戦が激化するアフリカで活躍している。

 

 進藤が一時帰国したとき、東京が大地震に襲われ、壊滅的打撃を受ける。かえでが働く病院はパニック状態になり、かえで自身も婚約者を失ってしまう。

 

 そこへ進藤が駆けつけて何とか危機を切り抜ける。

 

 第4シリーズでは、医局長の過労死をきっかけに医師全員が辞職した救命病棟に、帰国した進藤がやってくる。かえでは医療訴訟の被告になり救命をやめている。進藤は彼女を説得して救命医に復帰させ、他のメンバーもそろえて、何とか救命病棟を再建する。

 

 新しく来た医局長は、進藤の強引なやり方を抑え、一方で厚生省に働きかけて、行き詰まっている救命医療全体を立て直そうとする。救命医療にかける予算を増加させ、医師数を増やし、昼夜を分かたぬ非人間的な医療体制をなくそうとするのである。

 

 第5シリーズでは、進藤は再び海外に赴き、救命病棟では、かえでが医局長として手腕を発揮している。若い医師たちは、反発しながらも認めざるを得ない。看護師たちも生き生きと働く。

 

 事故現場から病人や重傷者を送り込んでくる救急車側からの評判も良く、今やかえでは進藤の後を継ぐ有力な救命医師である。

 

 ところが川で溺れた十歳の甥が運び込まれ、どうしても命を救えなかった。しかも、子供ながら臓器移植のドナーカードを持っていたので、兄夫婦を説得して臓器移植をせざるを得なくなる。

 

 かえでは苦しみ、辞職を願い出るが思いとどまる。

 

 やがて救急隊の中心メンバーから交際を申し込まれ、やっと彼女の幸せな生活が見えてくる。

 

 このように余韻を残して物語が終るのだが、今後、続くかどうかは分からない。全体を通して心に残るのは、救命医療の大切さ大変さである。大病院の花形部門とはいえ、医師、看護師の過重負担は大きい。進藤とかえでを演じる江口洋介と松島奈々子の演技は見事である。松島奈々子はただ美しいだけでなく俳優として大きく成長している。異色の名女優といえるだろう。

 

 高齢化社会をむかえて、これからの医療のあり方も考えさせられる。来たるべき大震災のことも。

 

 

 

 

 

 231号

 

 

稲沢潤子・三浦協子「大間・新原発を止めろ」

 

核燃料サイクルのための専用炉

 

泉 脩

 

 

 

稲沢潤子さん(民主主義文学会前会長)からいただいた本を、遅くればせながら読み終えた。

 

青森県の下北半島に乱立する核原発施設をめぐる、すさまじい闘いの本である。断片的には知っていたが、こんなにひどいことだと初めて知った。目が開ける思いだった。

 

一九六九年、新全国総合開発法を政府が決定した。そして一九七〇年代、そのための中核になる原子力発電所が、全国各地に次々と作られた。原子力平和利用の美名にだまされて、しかも世界中の事業としてである。

 

海岸に作られるため、漁業権と美しい海を守ろうとする漁業組合を、執ような分裂工作でくつがえし、土地と農業を守ろうとする農民をだましたり、おどしたりして、建設が強行された。自民党政府と財界の後押しで、保守県政と結んだ電源開発公社が、札束と権力で強行したのである。

 

下北半島には、二つの原発、核廃棄物中間貯蔵施設が作られた。中間というのは約50年で、その後どこに移すかは未定である。さらに恐ろしいのは、六ヶ所村に作られた核燃料サイクルのための施設である。全国の原発の核燃料廃棄物を集めて、ここで再利用のために精製するのである。プルトニウムという新しい元素が生まれ、ウランをはるかに上回るエネルギーと放射能を出すのだ。プルサーマル計画と呼ばれ、このための専用炉が福井県に作られ、高速増殖原型炉「もんじゅ」と名付けられた。

 

かつて私は、友人の原子力科学者から、「夢のエネルギー」があると聞いたことがある。何のことか、わからなかったが、このプルサーマル計画のことだったのだ。恐ろしい事故が起こり得るので、アメリカも中止し、世界でフランスと日本のみが固執している。

 

しかも「もんじゅ」は故障続きで、ついに廃炉が決定した。

 

一九八〇年代になって、下北半島の大間に第二のプルトニウム専用炉が作られることになった。大間は津軽海峡に面した漁港で、マグロの一本釣りで有名である。暖流と寒流が入り交じり、そのため海産物が豊富である。もちろん二つの漁業組合が大反対し、かつて原子力船「むつ」のむつ市母港化に反対して廃船にした経験もあって、30年も反対が続いた。二〇〇六年についに大間原発反対が押しきられ、建設が認められた。

 

それでも反対の火は消えず、特に原発予定地に土地を持つ、熊谷あさ子さんは、どんな誘いや脅しにも屈せず、土地を守り抜いた。彼女の死後は娘の小笠原厚子さんが受け継ぎ、その土地にログハウスを建て、函館と大間に半月ずつ住んでいる。漁民の父親が、漁業権は息子に、土地を娘に残し、「どんなことがあっても土地を手放すな」と遺言したという。電源開発公社現地本部は、やむなく設計変更をして、この土地すれすれに原発を建て始めた。

 

反対運動は大間から23キロ対岸の函館でも高まった。もし大間で事故が起これば、風向き次第では函館にも、もろに放射能が注ぐのである。函館の住民と弁護士が原告になる工事差し止め訴訟がおこされ、函館地裁で取り上げられている。

 

反対組織は函館市と市議会にも働きかけた。毎週金曜日の夕方、デモ隊が市役所の周囲を行進する「グルグル行進」を続けている。

 

二〇一一年三月十一日の東北大震災と福島第一原発の事故は、この運動をさらに強め、四月の市長選では大間原発反対を公約した工藤市長が生まれた。

 

彼はやがて市議会の一致した支持を得て、地方自治体としては全国初めて提訴した。ほとんど負けてきた全国各地の原発訴訟の新段階を迎えたのである。

 

東北大震災後、全国54ヶ所の原発はすべて止まったが、二〇一二年から民主党野田内閣のもと、一部が再稼働を始めた。大間原発の建設も再開された。この本はこの時点まで書かれている。

 

工藤函館市長を先頭に、函館市が超党派で反対運動に立ち上がったことは画期的なことである。全国的な市民反対運動の高まりのもと、青森市でも集会やデモがおこなわれた。ほとんど反対の声をあげられなくなっていた大間でも、30年ぶりの反対集会とデモが五百人の参加で行われた。多くが外来者だが、大間住民もわずかだが参加し声を上げ始めている。この中で、現在は工事が中断しているという。

 

この本は、こういった下北半島と大間の闘いの歴史を克明に書いている。胸のすくような本である。過疎化のすすむ地域で、地方自治体の財政が破たんする中、原発交付金の魅力は大きい。御殿のような学校・役場・病院などが建てられ、住民の仕事が与えられる。大企業から中小企業、土地ブローカーなどに利益がばらまかれる。

 

こんな中で次第に住民は口を閉ざし、反対する少数の人々は村八分にされ、孤立する。人間の醜さ、悲しさが実によくわかるのである。

 

同時に、大間議会でただ一人反対し続けた共産党議員、反対組織の代表、そして土地を守り抜いたあさ子・厚子の母娘……といった人々の美しい姿が輝いている。人間は弱いが捨てたものではないのである。

 

それにしても「もんじゅ」の後を継ぐ日本でただ一つのプルトニウム専用原子炉がどうなるか。もし完成して運転を開始して事故が起これば、福島第一原発をはるかに上回る大惨事になるだろう。

 

プルトニウムは悪魔の産物であり、これに固執する政治家・資本家は悪魔に魂を売ったのである。なんと呪わしい人々だろう。地獄に落ちてしまえ。

 

 

  230号 

  

NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち

 

    「心の軸」と「志」

 

                泉  脩

 

 

 

 「平清盛」の中で「心の軸」という言葉がたびたび出てきた。武士の世をめざす忠盛、清盛によってである。他の作品では「志」こころざし)という言葉が使われた。特に「龍馬伝」目立っていた。

 

 どちらも同じ意味で、モチベーション(目標)のことである。特に男は、自分の人生の高い目標をめざして、命がけで努力することが多い。

 

 会社人間、過労死といった弊害をまねき、かえって大事な人生を台無しにしてしまうこともある。

 

 今までとりあげてきた歴史上の人物は、いずれも見事な生涯を送り、歴史を推し進める役割を果たした。時には行き過ぎたり、大きな誤ちを犯した。しかし、それでもなおかつ見事な人たちである。

 

 私が一番好きなのは坂本龍馬で、日本史上

 

の飛び抜けた人物だと思う。「獅子の時代」の二人の主人公は実在の人物ではないだろうが、とても魅力的である。

 

 人によって好き嫌いはあるだろうが、平清盛と徳川家康もすぐれた人物で私は好きだ。

 

 NHKの大河ドラマは傑作が多く、まだまだ取り上げたい作品がたくさんあるが、私の現在の体力では無理である。私がどうしても見たくないのは「新撰組」である。歴史を逆行させようとする人間はきらいである。

 

 NHKの限界はあろうと思う。しかし「平清盛」では皇室内の対立や葛藤がリアルに描かれているし、貴族の嫌らしさもよく出ている。秀吉の晩年の誤りも多くの作品でリアルに描かれている。朝鮮侵略がひどい間違いとして評価されている。

 

 「獅子の時代」では、会津戦争での官軍の非道な行為、秩父事件における天皇政府の誤り、皇軍の民衆弾圧がリアルに描かれている。

 

 NHKがどんな考え方をしていたとしても、リアリズムは守らなければならず、数百万の視聴者をごまかすわけにはいかないだろう。歴史を曲げることは許されないのである。

 

 私は、NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)と大河ドラマをこの数年で各二〇作くらいずつ観た。評論として取り上げるときは、再び観た。放映時に観た作品は三度目になる。われながら頑張ったものである。何よりもおもしろいのである。DVDもレンタル店にあるものは、ほぼ全部観たが、そろそろ止めないと目と体を壊しかねないと思う。

 

 俳優たちの魅力を再認識している。「平将門」「獅子の時代」の加藤剛、「真田太平記」の渡瀬恒彦、草刈正雄、「篤姫」の宮崎あおいと「八重の桜」の綾瀬はるか、「徳川家康」などの大竹しのぶ、あげればきりがない。

 

 スタッフの皆さんも本当にご苦労さまである。これからも良い作品をたくさんつくってほしい。

 

 

 

 

 229号 

   NHK大河ドラマ

 

動乱を生きた男たち⑤「獅子の時代」

 

     自由・平等・博愛を

 

泉  脩

 

 

 

 一八六八年のパリ。万国博覧会に幕府と薩摩藩が出品し、日本の代表の座を争う。幕府代表団に加えられた平沼銑次(菅原文太)は、会津藩の腕利き下級武士である。

 

 薩摩藩の刈谷嘉顯(加藤剛)は、イギリス留学中にパリにきた。視野の広い武士である。鹿児島に残した恋人菊子(藤真利子)が、自分の兄と結婚した知らせを受けてショックを受けている。

 

 この二人の武士が、対立しながらも次第に近づき理解を深める。そしてフランス革命の理想、自由・平等・博愛が心にしみ込んでいく。

 

 日本で、大政奉還から鳥羽伏見の戦、そして徳川敗北の知らせがとどく。二つの代表団は急ぎ帰国し、戦乱に巻き込まれる。

 

 平沼銑次は会津にもどり、鶴ヶ城防衛に加わる。刈谷嘉顯は、新政府の中心の大久保利通に認められ、戊辰戦争の視察を命じられる。

 

 こうして二人は明治維新の激動の中、運命に翻弄されて過ごす。しかし、自由・平等・博愛の理想を忘れず、多くの不正義に反対し、次々と悲運に見舞われる。嘉顯は憲法調査会の一員になり、自由民権運動に近づき、多くの民間憲法案を集め、大久保の後をついだ伊藤博文に渡す。しかし、最終的には、ドイツ流の、天皇絶対の憲法が作られ、あくまでも国民主権を主張する嘉顯は命を落とす。

 

 銑次は北海道の樺戸監獄から脱走し、小樽で恋人おもん(大原麗子)に再会し、東京で彼女が病死すると、各地の反政府の戦いに加わって大活躍する。「百姓、町人の明治維新」「自由・自治元年」が唱えられる。明治十七年(一八八四)の大農民反乱の秩父事件がリアルに写しだされる。これはNHKのドラマとしては画期的なことだった。

 

 シナリオを書いた山田太一は、実に優れた作家である。幕末のどん詰まりから明治前半にかけて、克明に動乱を描き出し、しかも天皇制政府の不正、非道をあばき、民衆の抵抗を明らかにしている。

 

 加藤剛と菅原文太が好演であり、二人フランスの国歌を合唱するシーンに胸打たれた。女優の大原麗子、藤真利子、大竹しのぶ(銑次の妹千代で嘉顯と結婚する)も見事である。その他の児玉清たちの助演者も立派である。大河ドラマのベストワンだと思う。「嘉顯の理想を実現する日本が必ずくる」という言葉どおり、幾多の困難な戦いを経て、六〇年後、国民主権と自由平等の新憲法が発布されるのである。しかも、世界初の「戦争放棄」を加えて。

 

 明治維新を舞台にした大河ドラマのほとんどが明治政府の成立で終っていたが、明治の中頃までの大河ドラマが出始め、「獅子の時代」は、その最初のドラマのようだ。

 

 目の覚めるような傑作である。

 

 

 

 

  228号

 

NHK大河ドラマ

 

動乱を生きた男たち④「龍馬伝」

 

               泉  脩

 

 

 

二〇一〇年に放映された大河ドラマ。主人公を演じた福山雅治の魅力もあって、とても興味深い。三菱財閥を創始した岩崎弥太郎の語りという形式で進行し、明治維新を成し遂げた英傑たちが大勢、登場する。

 

土佐(高知)の最下層武士、地下浪人として生まれた岩崎(香川照之)は、同じ下士ながら、やや上の郷士の生まれの龍馬を妬む。最初から最後まで、「大嫌いだ」の連発である。ところが龍馬の方は、岩崎を友として扱い、けして差別しない。

 

土佐は、関ヶ原の合戦(一六〇〇)以来、山内家が支配し、旧領主、長宗我部の家臣を下士として徹底的に差別してきた。下士は上士に出会うと、土下座して頭を下げなければならない。だから下士同士が対立してはいられないのである。

 

坂本龍馬は本家が裕福な商人であり、父は藩主の墓地の警護をしている。龍馬は次男なので気楽であり、剣道一筋で成長してきた。剣道の師は、彼のことを「大きな男だ」と言う。龍馬は、「自分は何ができるのだ」「世の中はどうなっているのか」という疑問にとりつかれ、江戸に修行に行くことを願い出る。彼を末っ子としてかわいがっていた父は、彼の願いを受け入れ、藩の許可を得る。

 

こうして龍馬は、剣術修行の名目で江戸に赴き、千葉道場で腕を磨く一方、多くの優れた人物に出会って目を開かされる。たまたま黒船の来航(一八五三)から、日本のあり方にまで考えを拡げていく。

 

二度目の江戸修行から帰ったとき、土佐では、武市半平太を中心に下士が結集し、尊皇攘夷を目指す動きが起きていた。幕府による開国政策に反対する動きに、藩全体を巻き込もうとしていたのである。

 

半平太と幼な友達の龍馬も、半平太が作った勤皇党に加わるが、運動の進め方に疑問を持ち、脱藩して違った道を目指し、ついに勝麟太郎(武田鉄矢)に出会う。幕府の海軍奉行並の勝は、欧米文明を学び、強力な海軍を作り、欧米諸国による日本侵略を防ごうとする。龍馬は勝の考えに全面的に同意し、弟子になって海軍伝習所を作りに協力する。

 

土佐では、武市らが藩政を動かすまでになるが、大殿、山内容堂に捕らえられ処刑される。龍馬は勝の失脚後に長崎で海援隊を作り、海運業の傍ら、長州藩を助け、薩長連合を実現し、倒幕に突き進む。

 

 その後、日本人同士が戦って欧米の介入を受けるのを防ぐため、「大政奉還」という無血革命を成し遂げる。そして、その直後に暗殺されてしまう。

 

 この龍馬の大事業を傍観しながら、自分の商業活動を進めてきた岩崎弥太郎がライバルとも言うべき龍馬の生涯を語るのである。

 

 この壮大なドラマのおもしろさは、坂本龍馬という飛び抜けた日本人の、人間的魅力である。彼は幕末の数々の思想家や志士の優れた考えを学び吸収して、時代を飛び越えた民主主義の思想を作り上げた。

 

 同時に、桂、上杉、西郷らの志士と手を組み、倒幕を成し遂げてしまう。彼がいなければ、明治維新は数十年遅れ、欧米諸国の介入を招き、近代日本は生まれなかったかもしれない。

 

 彼が、もし、非業の最期をとげなかったら、薩長藩閥による専制政治という歪んだ日本にはならなかったかもしれない。残念なことである。

 

 なお、このドラマでは龍馬を愛する女性がたくさん登場し、彩りと深みを加えている。

 

 母の幸(草刈民代)は、上士の無礼討ちにあいかけた幼い龍馬をかばい、雨の中、土下座をして命乞いをした。彼女は、これがもとで病気が悪化して死去した。「憎しみは何も生み出さない」という母の教えを龍馬は生涯守る。

 

 姉の坂本乙女(寺島しのぶ)、寺田屋のお登勢(草刈民代)、加尾(広末京子)、佐那(貫谷しおり)、お龍(真木よう子)、お元(蒼井優)など、実に魅力あふれる女性たちである。龍馬は幸せ者だった。

 

 

 

 

 227号

 

  NHK大河ドラマ

 

      動乱を生きた男たち③

 

   「真田太平記」―心を打つ兄弟愛

 

                泉  脩

 

 

 

 NHKの大河ドラマだがウイークデイに放映したらしい。二〇年以上も前の作品で、役者達が若々しく、特に真田幸村(草刈正雄)が魅力的である。父親の真田昌幸(丹波哲郎)と長男の信幸(渡瀬恒彦)との三人がぴったりの演技で、この大作を盛り上げている。

 

 最初から最後まで出てくるお江(こう)(遙くらら)が女忍び(草の者)として大活躍する。幸村と恋仲になり、彼に付き添うように一貫して支えている。彼の死後は兄・信幸を助ける。幸村の忠実な家来、佐平次の子供が佐助であり、若い忍びとして活躍する。

 

 戦国時代の終わり頃(十六世紀後半)、信玄亡き後の武田家の滅亡から物語が始まる。信玄に仕えていた真田昌幸は、信州(信濃=長野)の小大名であり、武田家滅亡の後、孤立してしまう。北に上杉、南に北条、徳川、そして西からは織田が迫ってくる。

 

 やむなく真田は織田に臣従するが、まもなく本能寺の変で織田信長が死んでしまう。後を継いだ羽柴秀吉と対立した徳川家康が旧敵真田を討つため大群を差し向ける。昌幸は上杉と和睦し、見事に上田城で徳川軍を打破し、真田の武名は天下に知れわたる。

 

 この時、父を助けて信幸、幸村兄弟も奮戦し、三人の結束はさらに強まる。しかし、昌幸は、長男信幸のあまりの才能がけむたくなり、人柄の良い次男幸村を愛するようになってくる。

 

 やがて秀吉と家康が和解し、豊臣の天下になり、徳川四天王の一人、本多平八郎の娘が信幸と結婚する。こうして信幸は徳川との結びつきが深まり、後の真田家分裂の種がまかれる。この後、北条家滅亡による天下統一、朝鮮侵略の失敗、関ヶ原の戦い、徳川幕府の成立、大阪冬の陣、夏の陣と激動がつづき、石田三成の西軍に加わった真田本家は滅亡し、兄の努力で命を長らえた幸村は、大阪城に入って、大奮闘して命を落とす。兄信幸の真田分家は、将軍秀忠の迫害をくぐり抜け、最後は上田から不利な国替えを命じられる。

 

 このドラマの原作は池波正太郎である。テレビドラマ化された「鬼平犯科帳」「剣客商売」も面白いが、私は「真田太平記」が一番好きである。原作とテレビドラマを三回ずつ味わっている。特に信幸、幸村兄弟の仲の良さ、尊敬と信頼は素晴らしい。大阪冬の陣と夏の陣の合間に、家康の密命で二人が京都の小野の屋敷で会う場面は、何回見ても胸をうたれる。そして幸村の死を知った信幸の悲しみ。こんなに心の通った兄弟が他にあるだろうか。「貴奴は、ともかく明るい。人の心をなごませる」という信幸の言葉は、実にぴったりである。

 

 私は十年前、長野県を訪ね、上田城を見てきた。幸村が愛した別所の湯の湯にも入ってきた。「真田太平記」記念館も見学してきた。時間がなくて、真田の里には行けなかった。

 

 またいつか、いけるだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 226号

 

 

 NHK大河ドラマ

 

   動乱を生きた男たち②

 

   「徳川家康」平和への意志

 

              泉  脩

 

 

 

 一九八三年に放映されたNHK大河ドラマ。原作は山岡荘八、脚本、小山内美枝子で見事な傑作である。原作初出は新聞小説で二七巻の世界一長い小説である。戦後間もなく書かれただけに、天下太平を目指す主人公のたゆまぬ努力が、平和を望む国民感情とぴったり一致したのだろう。

 

 脚本の小山内美枝子は、「金八先生」のシナリオライターだが、やはり平和への強い信念を持っている。同時に、戦国時代における女性の果たす役割をしっかり書いている。特に家康の母、お大(大竹しのぶ)の心が幼い家康の危機を何度も救った。成人してからも同じである。

 

 ほとんどのドラマで悪女とされている淀君(夏目雅子)についても、気は強いが情感のある女性として、やはり母の心を書いている。

 

 戦国時代の中世期中頃、三河(愛知県東部)の小領主松平広忠は、強力な今川、織田に挟まれて苦悩の日々を送っている。同じような立場の娘お大と政略結婚をし、竹千代が生まれる。

 

 しかし松平は今川に水野は織田に服属することになり、お大は離別される。しかも竹千代は今川に人質に出され、十数年の苦しいときを過ごす。

 

 今川義元は上洛し天下を支配して野心を持ち、そのために強力な三河武士を利用しようと考える。

 

 成人した竹千代は元康と名乗り、義元の姪と結婚させられ、戦いにかり出される。

 

 元康(家康)の帰国を待ち望む三河武士たちは、彼の指揮のもとで勇猛に戦い、義元が桶狭間で織田信長に討たれると岡崎城に入って独立を実現する。

 

 この後、徳川家康と改名して信長と同盟して、今川、武田の旧領を併せて大領主になる。信長死後に天下をにぎった豊臣秀吉には従い、関八州に移され、江戸を本拠に強大になる。そして秀吉の死後に天下をにぎる。

 

 誰もが知っている成り行きだが、このドラマは、この間の家康の心情を克明に描く。百年もの戦乱を終わらせるため、あらゆる辛苦を堪え忍び、私情を殺し、ついに世界でもまれな三百年の平和を実現するのである。

 

 家康を演じた滝田栄が好演であり信長の役所広司、秀吉の武田鉄矢も同じである。その他多くの名優たちが、ドラマの内容に共感して見事に演じている。原作、脚本の良さが、大きな力になっているようである。

 

 私は「真田太平記」とともに、このドラマが大好きで、原作ともども何回も観てきた。どちらも大河ドラマの傑作だと思う。幕末物では「獅子の時代」がすごいと思う。

 

 私は西洋史を学び、高校では世界史を中心に教えてきた。しかし、日本人として日本史にも大きな関心があり、現在はテレビドラマで楽しみながら学んでいる。

 

 様々な歴史観があるにせよ、平和と正義は大切である。

 

 

 

225号

 

 吉田たかし

 海峡の少年1945年・真岡・ホムルスク

 

泉  脩

 

 

 

一九四五年二月のヤルタ会談で、米・英・ソの首脳が第二次世界大戦の最終方針を討議した。アメリカのルーズベルト大統領がソ連のスターリン首相に、ソ連の対日参戦を求めました。アメリカだけで日本を占領するのは困難で、多くの死傷者が予想されたからです。

 

 

 

スターリンは、ドイツの降服の三カ月後に日本に宣戦することを約束し、その代償として、樺太南部と千島列島を要求しました。米・英は承諾し、日本の運命は確定しました。樺太南部は日露戦争(一九〇四~五)で、日本が帝政ロシアから奪った領土であり、ソ連がこれを取り返すのは当然です。しかし千島列島は、一九七五年の樺太・千島交換条約で日本が得た領土で、これを奪うのは不当なことです。連合国は、ドイツ・日本などの枢軸国から侵略で奪った領土は没収するが、個有の領土は取り上げないと、カイロ宣言(一九四三)などで宣言しているからです。(ポツダム宣言でも確認している)

 

 

 

この作品は、敗戦から45年経った頃、東京に住む60才の吉見隆介が、過去を振り返るところから始まる。一九四五年八月八日、ソ連が日本に宣戦布告した時、彼は樺太西海岸の真岡の中学生だった。勤労動員で近くの鉱山で働いていたが、八月十五日の玉音放送で日本の降服を知り、クラス全員が帰宅を命じられる。

 

真岡は人口三万の港町で、王子製紙などの工場もあった。吉見隆介は父母と三人の姉と暮らす末っ子で、真岡中学の二年生だった。帰宅後の八月二〇日、ソ連軍の攻撃が始まり、真岡は海上から艦砲射撃を受けた。吉見一家は防空ごうにかくれたが、隆介は一人で山に逃げた。そして多くの避難民と共に、山道を中心都市、豊原に向った。途中でソ連機の攻撃を受け、多くの死傷者が出た。

 

やっと豊原に着くと、各地からの避難民でごったがえしていた。近くの大泊り港からの本土帰国も中止していた。隆介は山道を逃げる時から道連れになった同じ年頃の少年、砂金(いさご)と共に、あちこちに身を隠し、ソ連軍による占領を迎えた。一部のソ連兵による乱暴があったが、隆介と砂金はなんとか生き延びた。やがて二人は、再開された鉄道の無がい車で真岡にもどった。

 

 

 

真岡はひどい被害を受け、ソ連兵による乱暴も続いていた。しかしそうでもない兵士も多く、なんとか平常にもどっていた。吉見一家は無事であり、隆介の帰宅は大歓迎された。ただ、姉の一人は結核がすすんで、まもなく亡くなった。

 

最後まで通信を続けた真岡郵便電信局の九人の女子局員が青酸カリで自殺していた。知り合いの教師や生徒の家で、家族全員の自殺があった。隆介は家族と共にこれらの家を訪ね、死者を悼んだ。

 

 

 

帰国ができないまま一年が過ぎた。ソ連兵の監視下、工場・商店・市場が再開され、日本人は協力しながら生き抜いた。隆介は避難を共にした砂金を探したが見付からず、再開された中学に戻ったが、アルバイトにも力を入れて家族の生活を助けた。若いソ連兵と仲良くなり、ソ連人の家族とも親しくなり、敗戦一年後には盆踊りも許可されて、日ソ入り交じって楽しく過ごした。

 

秋になってやっと帰国が再開され、吉見一家も樺太を離れたのである。

 

物語は敗戦45年後にもどり、東京で教員生活を続けてきた吉見隆介が、かつて生死を共にして逃げまわった砂金のことを思いだし、めずらしい名前の友人の消息を求め、北海道に住む二人の姉の協力もあって、やっと見つける。

 

砂金は青森県で僧侶になっていて、隆介との電話での会話で、東京での再会を約束したのである。

 

 

 

45年ぶりの再会はおだやかに行われた。砂金は記憶が定かでなく、わずかに隆介との逃避行を思い出した。45年の激動の才月は重かった。隆介も多くは求めず、彼と別れた後、やっと戦争が終わった・・と思ったのである。

 

後書きの中で、筆者は「この本は一人の軍国少年の体験と思考であり、戦争の誤りの反省である」と考えている。この作品が書かれた約30年前は、日本における軍国主義復活とソ連の崩壊の時期だった。

 

筆者は定年退職後、北海道に移り、反戦平和の運動に加わったという。札幌民主文学会に加わり、カラフトについて、北海道における民族差別について、多くの作品を書いてこられた。最近は高齢のせいか、あまり例会には出席されていない。

 

 

 

この作品は、あまり知られていない樺太について、特に敗戦後のありさまについて、リアルに書かれていて、とても興味深く、よい勉強になった。私は歴史を学び教えてきた者として、貴重な本だと思う。

 

 

 

疑問に思うことは、樺太南部は、日本が侵略で得た領土(植民地)であるということである。中国と朝鮮からの引揚げ者には、多少とも植民地支配への反省があるが、樺太からの引揚げ者には押しなべてこの反省が感じられない。これはどうしたものだろうか。同じことが北海道に住む私たちにも言えるのだが。北海道は元々アイヌ人の住む土地であり、私たち和人は侵略なのだが。

 

第二の疑問は、文中の会話の中で〈ロスケ〉という言葉がくり返し使われていることだ。当時は普通であり、降服した日本に、海と空と陸から武力攻撃をしたことへの怒りもあったのであろう。

 

しかし、民族差別であり、今となっては使うべきではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

224号

 

 

NHK大河ドラマ

 

   動乱を生きた男たち①

 

              泉   脩

 

 

 

   平清盛

 

 

 

 源頼朝の語りで進む、平清盛の生涯を描いた大河ドラマ。一一八五年の壇ノ浦の戦いの勝利が鎌倉に届き、人々が喜びでわきかえる中、頼朝は「清盛なくして武士の世はなかった」と言って驚かす。

 

 彼にとっては二〇年前の平治の乱で父義朝が清盛に敗れ、捕えられた十四歳の頼朝が、清盛に会った時の印象が強烈だったのだ。

 

 彼は清盛の母(育ての)の嘆願で、やっと助命され伊豆に流されたのだ。

 

 平安の都ができて四百年、武士は「朝廷の番犬、王家の犬」とさげすまれ、天皇や貴族に仕えて生きてきた。

 

 武士でもっとも有力な平氏は、平忠盛の代になって数々の功績を挙げて四位になり、ついに昇殿を許されるまでになった。中井喜一の演じる忠盛はいかにも律儀で辛抱強く、立派な平氏の棟梁である。彼は白河上皇の落し子を引きとり後継ぎとして育てる。

 

 しかし成長して清盛(松山ケンイチ)と名付けられた子供は、自分の生まれに疑問を持ち、荒れ狂って一族の鼻つまみになるが、忠盛は彼を見捨てない。「私は王家の犬にとどまらず、武士の世を目指す」と清盛に言って励ますのである。

 

 この頃、もののけと恐れられた白河上皇(法皇)は、孫の鳥羽天皇にまつりごとをさせず、天皇の妃とした養女珠子に自分の子供を産ませる。そしてその皇子が五歳になると崇徳天皇として即位させてしまう。

 

 鳥羽上皇は白河法王の死後、やっと実験を握り、不仲な崇徳天皇を差別し、ついには自分の皇子を即位させる。

 

 こうして王家の内紛が、貴族や武士を巻き込み、保元の乱、平治の乱に発展し、最後に平清盛が勝利者になる。

 

 彼は後白河上皇を生涯のライバルとして、武士として初めて三位に昇り公卿となり、ついには太政大臣にまでなる。長子重盛ら一族も次々と公卿になり「平氏でなければ人でない」とまでいわれる。

 

 粗暴だが実行力のある清盛を松山ケンイチが見事に演じ、松田龍一の後白河上皇(法皇)との権力争いも凄まじい。今様(流行歌)と双六(すごろく)遊びが、一貫して二人の争いを象徴して用いられる。

 

 清盛が目指す武士の世は、平氏一族の武士と財力によって支えられている。財力の元は広大な領地と中国(宋)との交易である。そのために清盛は海に近い福原(後の神戸)に港をつくり、宋船を直接福原の港に入港させ、巨利を得る。

 

 清盛の野心は留まることを知らず、娘徳子を高倉天皇の妃として、生まれた皇子を三歳で即位させる。安徳天皇である。さらに都を福原に移し、清盛の世を実現してしまう。

 

 しかし、租税の増大もあって源氏の生き残りによる反乱が各地で起こり、清盛の死をもって平氏の没落は決定的になるのである。

 

 重厚で迫力のあるドラマである。

 

 

 

 

 

 

 

223号

 

 

 NHKテレビドラマで描かれた女性たち④

 

   女性は偉大なり

 

              泉   脩

 

 

 

 幕末から明治にかけて活躍した、実在した三人の女性について書いた。テレビドラマの女主人公だけに創作された部分もあるだろうが、それでも私は大きな感銘を受けた。女性が捨て身になると、男以上の力を発揮するのである。

 

 大河ドラマで女性主人公が活躍したのは、「女対太閤記」「利家とまつ」「功名が辻」そして「江」である。天下統一を目指して戦う夫を励まし、女同士助け合い、大きな成果を得た。

 

 ねねを演じた佐久間良子、まつを演じる松島菜々子、山内一豊の妻を演じる仲間由紀恵、そして徳川秀忠の妻を演じる上野樹理は、いずれも見事な演技である。幕末の三作に出演した三人より一世代前の女優だが、私は心から感銘を受けた。それにしても、彼女たちに励まされ奮起する男たちの剛健だが他愛の無さには笑ってしまう。特に秀吉の晩年は見るに耐えない醜さである。

 

 朝ドラは、朝放送されるので、全て女性向のドラマで、すべて女主人公の物語である。男たちは影が薄い。

 

 時代は明治、大正、昭和で、最近では平成に及んでいる。何といっても「おしん」が大傑作で、世界的にも第ヒットした。

 

 明治から昭和にかけては、日本は多くの侵略戦争を行ってきた。多くの男たちが召集されて戦病死(太平洋戦争では餓死!)、女、子供も沖縄、本土、そして満州やカラフトで死んだ。

 

 そのため、朝ドラは全て反戦、平和を基調にし、それでなければウソになってしまう。

 

「おしん」は、反戦平和を正面に掲げ、戦前の日本を支配していた不在地主制度を真っ向から否定している。

 

 おしんを演じた三人の女優はいずれも熱演したが、特に老年の乙羽信子は貫禄十分だった。女性はひたすら働き、子供を産み育て、家族を愛し抜く。男たちのように地位、権力、名誉を求めず、ただ家族を愛し社会的不正や戦争に反対する。実に偉大な存在なのだとおもう。

 

 朝ドラの女主人公たちは、このような女性ばかりであり、だからこそ大きな支持を得てきたのだろう。NHKはこの道を守ってほしい。

 

 

 

 

 222号

 

   評論

 

 田島一『争議生活者』

 

(「民主文学」四・五月号)

 

     ―ハケン切りとのたたかい

 

 

 

               泉  脩

 

 

 

1.時代背景

 

世界恐慌(一九二九年)の後、アメリカで民主党のルーズベルト大統領が当選し、ニューディール政策を開始した。経済の国家統制である。工・農・畜産の生産制限、公共事業による失業救済、保護貿易、労働組合の承認などである。

 

 恐慌は次第におさまったが、政府の強大化、重税、国際関係の激化・・が生じた。

 

 大戦後も、この国家独占資本主義が続いたが、アメリカのシカゴ大学を中心に、新自由主義経済の主張が強まり、一九八〇年の頃から、共和党政権がおし進めるようになった。イギリスのサッチャー首相も信奉者だった。

 

 国営企業の民営化、経済のグローバル化、大型合併、規制かん和、貿易自由化がすすめられた。

 

 アメリカの圧力のもと、日本もこの方向に進み、国鉄の民営化が強行された。(のちに郵政も)一九八六年には、労働者派遣法が成立した。戦後禁止されていた間接雇用の再開である。民間の派遣会社を通じて、非正規雇用の労働者が企業で働くようになり、二十一世紀の初めには、小泉内閣のもとで製造業でも解禁された。派遣・偽装請負、期間工など、さまざまな形態で、不安定な非正規労働者がぐんぐんと増加した。若年労働者の過半数を占め、全体で二千万に、たっしている。

 

 年間収入は正規労働者の三分の一、退職金、年金、健康保険はなく、あるいはすべて自己負担になった。身分も不安定で、いつ解雇されるかわからず、そのため結婚難と少子化がすすむようになった。

 

 

 

2.リーマンショック

 

二〇〇八年にリーマンショックがおこり、世界的不況が拡がった。アメリカで金融工学の名のもとに、多くの怪しげな金融商品が売り出され、その一つのサブプライムローン証券が不渡りになってリーマンブラザーズ証券会社が倒産した。この証券は世界中に普及していたので、大不況がおきたのである。

 

 日本では減産を名目に、トヨタを先頭に大企業各社が一斉に、いわゆる「ハケン切り」を強行した。その数は十万人に達し、五千人が労働組合に入って反対のたたかいが始まった。

 

 年末だったので、「年越派遣村」が作られて、社会的話題になった。

 

 田島一「時の行路」の三ツ星自動車では、関東平野の二県の二工場で、全派遣社員千四百名が解雇され、十二名が全日本金属情報機器労働組合(JMIU)に加入し、三ツ星支部を作ってたたかうことになった。

 

 この小説は、リアルタイムでこのたたかいを描き、「民主文学」に「二つの城」「争議生活者」をのせて完結したのである。現在「ハケン」の映画化がすすんでいる。

 

 

 

3.作品の内容

 

この作品の主人公は、契約社員として解雇された五味洋介である。彼は青森県の八戸で、靴販売チェーン店をリストラされ、自分で靴販売をして失敗した。借金のため妻 夏美と偽装離婚し、二〇〇五年に三ツ星に就職した。解雇されるまでの三年間、毎月十五万円の仕送りをして、妻と三人の子供の生活を支えた。

 

 やっと安定してきた生活を一方的にこわされた怒りから、個人加入の全国金属情報機器労働組合(JMIU)に加入し、争議団の一員になったのである。

 

 物語は、争議を始めて六年目をむかえた五味洋介が、三度目の帰郷をはたす時から始まる。一度目は娘が胸の腫ようの手術を受けた時。二度目は妻が乳がんの手術を受けた時である。幸い、娘は良性で助かったが、妻のガンは脳に転移し、今回はその治療の見舞のためである。放射線放射で、脳の腫ようが消えたと聞いて、洋介は胸をなで下ろした。

 

 三度の帰郷は、いずれも彼のたたかいを支援する人々のカンパで実現し、今回は五十万円もの見舞金をもらって、妻は感動して洋介にすがりつく。妻 夏美と三人の子供は、実家の世話になり、肩身のせまい思いをしていたのである。

 

 東京にもどった洋介は、忙しい争議生活にもどるが、三ツ星の十二人の争議団は、生活のための短期就職・アルバイト・心の病気などで、実際に動けるのは、洋介と佐伯良典の二人だけになっていた。二人は病気で働けず、生活保護を受けながら、やっと活動していたのである。

 

 洋介は心臓が悪く、休み休みに動き、佐伯は胆石になり血糖値も高くなって入退院をくり返していた。この二人が争議の見通しについて話し合う場面は、とても重い深刻な場面である。

 

 すでに東京地裁の一審で敗訴し、東京高裁に上告中、首席裁判官のあまりの会社よりの進め方に、裁判官交代の申し立てをして、一年も裁判が中断していた。

 

 佐伯は、全国各地で同じたたかいの敗訴が続き、唯一勝訴した山口地裁におけるたたかいも、高裁が主張した和解を受け入れたことを話し出した。この和解も解決金による解決だった。だから佐伯は、自分たちの高裁における逆転勝利はむずかしく、労働争議としての解決、つまり和解しかないのではないかと言うのである。洋介は応えようがなかった。

 

 二〇一四年の末、八戸の長男から、母親の容態が悪いと連絡があり、翌年の元旦には死去の電話が入った。洋介は翌日八戸に帰ったが、妻の姉から離婚しているからと葬儀の出席を断られた。

 

 この年の三月、高裁でも敗訴し、二〇一五年には、最高裁でも上告を却下される。組合は全国金属情報機器労働組合(JMIU)の指導のもと、すでに、会社側と和解交渉に入っている時だった。

 

 

 

4.非正規雇用のたたかい

 

労働者派遣法は改悪を重ねられて来たが、基本的な部分では長所を持っていた。非正規雇用は一時的、臨時的なものであって、三年続けば正規雇用にしなければならないという点である。財界は様々な抜け道を考え、違法すれすれの方法で、非正規雇用をぐんぐんと拡げてきた。格差と貧困の増大である。

 

 争議団は、裁判と宣伝活動で、会社側の違法行為を明らかにした。ところが最高裁がこの違法行為も会社の解雇無効には及ばないという、不当な見解を出した。このため、ほとんどの下級裁判所が、「違法は認めるが解雇無効は認めない」という判決を出したのである。政府、自民党も、労働者派遣法を完全に骨抜きすることを企て、ついに二〇一五年に安倍内閣のもとで成功してしまう。

 

 

 

5.この作品の意義

 

作者 田島一は、「時の行路」(二〇一〇年)以来、いわゆるハケン切りに反対するたたかいの小説化に全力を注いできた。実際の争議団のたたかいに参加し、苦楽を共にしてきたのである。五味洋介を八戸に帰すカンパ呼びかけの檄文を、みずから執筆している。「時の行路」が、新聞「赤旗」日刊紙に二回に渡って連載されたことも、大きな役割をはたした。

 

 この作品は、暗い重い内容なのに、とても感動的である。私自身もどれだけ涙を流し、体をふるわせたことだろう。

 

 たとえ首を切られた労働者の一%以下の労働者しか争議に加わらなくても、そして長期化して争議参加者が活動できなくなっても、それでも目覚めた労働者がいかに立派であることか。そして、この争議に励まされて、いかに多くの人々が支援の輪に加わってくるか。洋介の妻 夏美の死去にともなう香典が90万円を超え、葬儀の費用と墓の建立に役立ったのである。

 

 洋介の家族がたたかいの意義を理解して協力し愛を、とりもどす場面は胸を打つ。洋介自身も大きく成長し、佐伯と共に共産党に加入し、広い視野を持つようになる。負けても勝ったのである。

 

 二〇一五年の夏、安倍内閣の戦争法に反対する運動が空前の規模でもえあがり、国会を包囲する大集会に洋介も参加する場面は、日本の未来をさし示す

 

すばらしい場面である。特に若い人々の参加がめざましい。

 

 この作品は、私が読んできた田島作品の中でも出色の作品と言えると思う。

 

 なお、「争議生活者」のタイトルは、洋介と佐伯が、小林多喜二の「党生活者」を読んで感動し、自分たちのことを「私たちは争議生活者だな」と話合ったところからきている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 221号

   

  NHKテレビドラマで描かれた女性たち③

 

   「あさが来た」

 

               泉  脩

 

 

 

 二〇一五年に放映されたNHKの連続テレビ小説。いわゆる朝ドラでは、初めて幕末から始まる。

 

 京都の両替商の娘として生まれたはつ(宮崎あおい)とあさ(波瑠)は、まったく性格がちがう。はつはしとやかで芸事に熱心、あさはおてんばで木登り、ちゃんばらが大好き。

 

 二人とも生まれてすぐ大阪の両替商の息子の許嫁になる。あさの相手の白岡新次郎が、あさにそろばんを贈ったので、あさはそろばんが上手になる。

 

 二人が成長して嫁入りしてまもなく、幕末の動乱が始まる。はつの嫁入り先は大名貸しが返済されずに潰れ、一家は夜逃げする。あさの嫁入り先の加賀屋は、あさの奮闘でなんとか生き残る。借金に来た新選組に、あさが立ちまわって斬られそうになる。あさ自ら大名屋敷を回って、少しでも返済させる。この中で知り合った薩摩藩士五代から助言を受ける。

 

 こうして明治に移り、あさは石炭事業にのりだし、九州の炭鉱を自ら出かけて採炭し、利益をあげていく。

 

 両替商は成り立たないと知り、銀行に転換するよう根気よく説得する。あさの手腕が次第に認められ、ついに銀行を創設し、何回かの危機もあさの決断で乗り切ることができ、さらに生命保険にも手を延ばすことになる。

 

 この間、五代を始め、渋沢、大隈といった政財界の大物の協力を受け、女性実業家としての地位を確立した。あさの最後の事業は日本初の女子大学の設立だった。女性にも教育の機会を与え、女性の社会的地位を高めることが、あさの心からの願いだったのである。

 

 女性差別の根強い日本で、さまざまな迫害を受けながらも、あさは見事に女子大学設立に成功し、多くの人材を育て上げていくことになる。最初の卒業生の中には、女性解放運動の闘士、平塚雷鳥もいた。

 

 あさは実在の人物であり、目の覚めるような活躍をした。

 

 日本最初の西洋医師萩野吟子、初の女流作家樋口一葉、近代短歌の与謝野晶子などとならぶ、明治が生んだすぐれた女性である。

 

 なお、姉はつは、紀伊の山中でみかん作りにつとめ、妹のあさと励まし合って自分の道を拓いていく。宮崎あおいが好演している。

 

 

 

 

 

 

 

 浜比寸志「彼岸花」

 

  悪性リンパ腫とたたかいながら

 

               泉  脩

 

 

 

 小樽に住み、最近亡くなった浜比寸志さんの最後の作品「彼岸花」が「民主文学」三月号に載った。淡々と書かれた胸をうつ闘病記である。

 

 浜さんは高校教師を退職後、民主文学会小樽支部長になり、文学運動、地域活動に努め、毎年二月に行われる小林多喜二祭の実行委員をしてきた。小説を書くかたわら、短歌を作ってきた。

 

 この作品は、主人公深沢悠介が脇の下のはれ物に気づき、市立病院で手術と検査の結果、悪性リンパ腫のステージⅡとわかる。

 

 彼は十分に生きた人生だと達観しながらも、化学療法などの治療を受ける。

 

 最初の入院のとき、六人部屋で佐々木という患者と知り合う。彼は近隣の町の漁師で、息子に仕事を譲ったあと食道がんになった。治療を受け、医師に急かしてまでして退院し家に帰った。

 

 悠介も最初の治療を終えて退院したが、腸に腫瘍が見つかりステージが進み再入院になった。元の三一八号室に入り、隣のベッドの小畑と親しくなった。彼は胃がんの再入院で、すでに成人の二人の息子の父親だった。悠介より早く退院した佐々木が、重症患者の多い五階の病室に再入院していて、容態が悪いとの事だった。

 

 小畑が移動テーブルで細工物に励むので、何を作っているのかたずねると、彼岸花だという。事故死した長男の三回忌に供えるという。次男は仙台で働き、妻子もいて幸せに暮らしているという。

 

 冬のある日の午後、突然地震が起こり激しく病室がゆれた。悠介がテレビのスイッチを入れると、東北から関東にかけて、かつてない大地震が起こり津波も押し寄せ、悲惨な映像が映し出された。

 

 小畑が病室を飛び出して行った。やがて戻ってきて仙台の次男から自宅に電話が入り、全員無事との事で、病室のみんながほっと一息ついた。

 

 やがて悠介が再び退院するとき、小畑に頼んで手造りの彼岸花を一本わけてもらった。

 

 この短篇小説はここで終わっているが、佐々木と小畑がその後どうなったかは書いていない。作者の浜さんは入退院を繰り返しつつ、さまざまな活動をしてきた。

 

 私は何回かの文学研究会でお会いし、物静かな人だと思ってきた。浜さんのいくつかの作品を巡って討議し、厳しい内容に胸を打たれた。同じ高校教師をし、組合や文学のような活動をし、同じ思想を持つ同志だった。

 

 一昨年、私の「姉さん女房」を読んでくださり、実に丁寧な手紙を貰った。私の妻が病に苦しみ、その気持ちを短歌にこめたことに強い共感をしてくれたようだった。病と闘う人同士の理解と連帯だろう。私にはうれしい手紙だった。

 

 昨年秋、民主文学会北海道研究集会が開かれ、浜さんの「転げた造花瓶」(「彼岸花」はこれの改題改稿作品)を同じ分科会で討議した。浜さん自身の体験が元になっているだけに緊張したひと時だった。札幌支部長の松木さんが「一番よい作品だった」と私に言った。

 

 私は浜さんの元気そうな姿を見て、病気が治ったのだろうと思い、うれしかった。

 

 このとき私の次の本「妻が逝く」を浜さんに差し上げ、やはりとてもよい手紙を貰った。私の妻の方は入院十一年目に亡くなったのだが、まさか浜さんが数ヶ月後に亡くなるとは思いもしなかった。

 

 浜さんの「白鳥の歌」ともいうべきこの作品が「民主文学」に載り、全国の多くの人に読まれることはうれしいことである。

 

 同じ年頃の私は、もう少しだけ生きて、文学の志をさらに追及していきたいと決意している。

 

 

 

 

 220号

 

  にしうら妙子「淡雪の解ける頃」

 

          抒情性と強い意志

 

                泉  脩

 

 

 

 西浦さんの第一作品集を読んだ。視力が低いので読んでもらったのだが、二人とも心を打たれた。文章が美しいうえに、しみじみとした内容だからである。

 

 第一部「青春」は、4篇で、どれもロマンチックでしっかりした芯がある。情に流されず、正しい生き方を探求している。

 

 「淡雪の解ける頃」は、教育大旭川分校に進学した女主人公が教科研サークルに力を入れ、4年の時に会長になっている。そして全道研究会の準備に力を入れる。

 

 彼女には先輩の恋人がいるが、本州に就職したために、遠距離恋愛になっている。サークルの1年生の男子学生が彼女を助けて努力し、彼女を愛するようになる。

 

 彼女も心が揺らぐが、接近を許さず、へき地校の教師の道を選ぶ。

 

 若者たちが愛と進路のはざまに悩み、それでもしっかりと自分の生きる道を選択するのである。

 

「土鈴」は、京都の大学で学ぶ女性が、友人の実家のある金沢を訪ね、観光バスに乗ってカナダ人の留学生と親しくなる。彼は日本で建築を学び、カナダで親の仕事を継ぐ決心をしている。

 

 二人はすっかり打ち解けるが、彼女は自分の連絡先を教えず、一年後に金沢で再会しようと約束して彼と別れるのである。

 

 旅先の一時の恋心に溺れない、しっかりした理性が感じられる。

 

「ゆずり葉」は、十勝の大樹町の父の家に、大雪に迷った車が立ち寄る。帯広の勤め先から戻っていた娘の尚子は、車から降りた中年の男が高熱なのに驚いて、泊まらせて看病する。大学に勤め、十年前に登山中に妻を失った彼は、彼女の親切を忘れられず、プロポーズをするようになる。

 

 彼女は大病院の後継ぎの医師からも結婚を迫られていたが、地味な研究と自然保護の運動に打ち込み、幼い一人娘と暮らす男を選ぶのである。

 

 地位や財産よりも、人柄と考え方のほうを選ぶ、さわやかな愛の物語である。

 

「さとうきび畑」は、沖縄を訪ね、ガマ(地下通路)で死んだ祖父の足跡を求め、道に迷った女性を一人の青年が助ける。二人は親しくなり、戦没者の遺跡を一緒に訪ね歩き、更に心が接近する話である。

 

 悲惨な沖縄戦の中で、日本軍国主義、帝国主義の罪悪が明らかになったのだ。若い世代の、率直でくもりのない感受性が書かれていて気持ちが良い。

 

 第二部の「十勝大樹町」は、西浦さんが四十年以上も暮らした町を舞台にした3作品である。どれも力のこもった優れた作品で、『民主文学』に一年のうちに載った作品である。

 

「桐子の門」は、流産で初めての子供を失い、今後7出産を望めなくなった女性の話である。

 

 彼女は失意のあまり教職を辞し、自宅で雑誌の校正や庭仕事で過ごしている。ある日、垣根のすき間から顔をのぞかせた少女が、庭仕事をしていた彼女に声をかける。

 

 彼女はその少女―桐子に手伝ってもらい、終ると家にあげてジュースとプリンをご馳走する。桐子は東北の大震災のあと、父親の実家にあずけられ、隣の家で暮らすようになったのである。

 

 まだ、小学校入学前の桐子は、毎日やってきて二人は仲良くすごす。彼女は我が子のように桐子をかわいがり、夫も遊んでやるようになる。お礼に来た祖母の話では、桐子の母親は保育園の保母で、園児とともに津波にさらわれたという。父親は娘を実家にあずけて、病院職員の仕事に打ち込んでいるとのことである。

 

 彼女は桐子を養子にしたいと、彼女が肺炎で入院中に、父親が桐子を連れて帰り、母方の祖父母と相談していると言う。失意の彼女は気力を失ってしまう。

 

 しかし、夫が桐子の父親からの連絡で、桐子がもどってくる知らせをもってくる。息を吹き返した彼女は、夫と迎えに行くことにし、庭の垣根のすき間を拡げるのである。

 

 私はこの作品が好きで、最初に読んだ時、落涙してしまった。もっとも西浦さんらしい作品だと思った。

 

 「夕映えの街で」は不注意で子供を死なせ、夫まで失った女性の贖罪の話である。「冬子さんのこと」は、全盲で鍼灸の仕事に勤める冬子さんを思わぬことから知った女主人公が、盲人を手伝う仕事をするようになる話である。

 

 第三部「残影」は、十勝の歴史に係る三つの作品である。特に「鳩時計」は、一九五〇年第、米軍演習地をめぐる反対の闘いを書いた、印象的な作品である。高校二年の女生徒が登校拒否になり、祖父の頼みで大津村の出来事を調べることになる。近くの道立図書館で調べるうちに過去の見事な闘いを知り、歴史に目覚めていくのである。そして自分の意志で勉強することの大切さを知り、新しい生き方をすることとなる。力のこもった力作である。

 

 この本全体を通じて、西浦さんの抒情性と同時に凛とした意志の強さを感じることが出来る。文学少女として出発し、教師、町議会議員、そして介護の仕事と懸命に生き抜いてきた。同時に文学サークルで創作の仕事をたゆまず続けてきた。

 

 こういった西浦さんの生き方がこの作品集に結実していると思う。現在は心臓病の病気を抱えながら、美唄で夫と二人で暮らし、あと二冊の作品集を作ることを目指しているとのこと、これまで書いてきた原稿がたくさんあるのだろう。あるいは、まだ書きたいテーマがたくさんあるのだろう。

 

 私は似たような人生を送り、十年前に民主文学会札幌支部に加入した。そして研究会で西浦さんに出会い、特に深川西高校の「あゆむ会事件」という共通の出来事をめぐって親しくなった。なんとも不思議な出会いだった。

 

 私は創作をしないが、評論に携わってきたので、西浦さんの力量が理解できる。今後の前進を期待してやまない。

 

 

 

 

NHKテレビドラマで描かれた女性たち⓶

 

   「八重の桜」

 

               泉  脩

 

 

 

 二〇一三年に放映されたNHK大河ドラマ。東北大震災で苦しむ東北地方の人々を励ますための、福島県の会津を舞台にしたドラマである。

 

 幕末、薩摩藩とともに最強の武士団をもつ会津藩は、幕府に頼りにされる。

 

 藩主松平容保は、もっとも有力な親藩の藩主である。

 

 

 

 主人公八重(綾瀬はるか)は鉄砲組頭の家に生まれ、子供の時から鉄砲に興味を持った。父親は、とんでもないと叱り続けたが、ついに根負けして後を継いだ兄に鉄砲を学ぶことを許した。

 

 会津藩は尊王攘夷で、あれる京都の守護職を幕府から命じられ、容保は多くの藩士をつれて京都に赴く。そして浪士を集めた戦線組がその支配下に入る。

 

 容保は孝明天皇の信頼も得て辞めることもできず、十年も京都守護職を続ける。しかし、薩長同盟を中心に討幕運動が激化し、一八六八年、明治維新が成功する。京都を追われ、鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩は、会津に逃げ帰り官軍に攻撃される。

 

 鉄砲の名手になっていた八重は、行方不明の兄に代わって鉄砲組を指導して大活躍する。会津城(鶴ヶ城)は二ヶ月持ちこたえ、ついに力尽きて降伏する。

 

 八重の兄は京都で捕らわれの身になっていたが、その見識を認められて、京都府知事のもとで働くようになり、母、妹を呼び寄せる。

 

 八重は京都の女学校で働くようになり、キリスト教牧師新島襄に求婚されて結婚し、牧師夫人として活躍するようになる。そして、夫の目指すキリスト教大学(同志社大学)の創立を成功させる。

 

 このような八重のけなげな姿は、見ていて実に気持ちがいい。特に会津戦争の悲惨な様子は「獅子の時代」とともに実にリアルで身に迫る思いである。

 

 私はこのドラマ放映の翌年、古い友人たちと会津を訪ねた。ジャンボ観光タクシーの運転手がガイドも兼ねて説明してくれた。

 

 当時の官軍の非道なやり方が、最近になってやっと公にされるようになったという。声を震わせた説明を聞くうちに、会津の人々の心の傷の深さを知らされた思いだった。

 

 彼は八重の話になると、とても誇らしげになった。そして綾瀬はるかが、今でも行事に招かれていると言う。

 

 自分がこの車に乗せて移動したと言う。彼が会津で一番の運転手でありガイドだったのだろう。私が三日間座った席が綾瀬はるかの席だったと言われて、私は彼女のファンとしてとてもうれしかった。思いがけないことだった。

 

 官軍が会津藩の恭順を認めず、連日千発もの砲弾を城に撃ち込んだのは、新選組によって無数の志士が殺されたからだろう。

 

 それにしても降伏後三か月も戦死者の埋葬を許さず、鳥や野犬に喰われて無残な姿になったという。最大の賊軍とされた会津藩への憎しみの大きさを知る思いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 219号

 

 

 動乱を生きた女性たち

    幕末から明治にかけて

               泉  脩

 

  テレビドラマで描かれた幕末から明治にかけて、何人かの優れた女性がいる。男たちに負けない見事な活躍をした。私は心から感銘を受け、女性の偉大さを改めて知った。

 

 

    篤姫

 

 二〇〇八年に放映されたNHKの大河ドラマである。原作宮尾登美子、脚本田渕久美子、主演宮崎あおいと、すべて女性による力作である。

 

 第十三代将軍徳川家定が暗愚とあって、次の将軍を誰にするか幕府内は大揺れした。保守派と大奥は、紀伊家から若い家茂を迎えようと考える。改革派は、水戸藩主斉昭の息子一橋慶喜を迎えようと考える。斉昭は尊王攘夷の熱烈な信奉者で慶喜は若いが英明と噂されていた。

 

 外様の有力大名の一人、島津斉彬は、分家の娘で聡明な篤姫を養女とし、家定の正室として大奥に送り込む。彼女を通じて家定に慶喜を後継にするよう企てたのである。

 

 明るく積極的な篤姫は。夫家定に気に入られる。しかし、大奥の反対と大老になった伊井直弼の後押しで十四代将軍は家茂に決まってしまう。

 

 篤姫は若い新将軍をも味方につけ、大奥に新風を吹き込んでいく。幕末の激変の中で家茂も急死し、結局は慶喜が最後の将軍になるが、薩長を中心とした討幕が進み官軍が江戸に迫ってくる。

 

 篤姫は前将軍の正室の和宮と協力し、勝海舟と結んで最後の大仕事をする。

 

 姫時代から仲がよかった西郷隆盛に働きかけ、将軍慶喜の助命と引き換えに江戸城を明け渡すのである。こうして徳川時代は終りをつげ、江戸は戦火を免れるのである。

 

 篤姫は江戸(東京)の一隅に邸を構え、御三卿の田安家から養子を迎え、徳川宗家を存続させるのである。西郷隆盛が西南の役で死に、大久保利通は暗殺される。かつて親しかった者たちが次々世を去ったが、篤姫はひっそりと家を守り続けたのである。

 

 宮崎あおいが見事な熱演をし、女性の大切な役割を明らかにした。

 

 篤姫が子どもの時から読書に熱中し、江戸城内で水戸斉昭と日本外交史について論争し、いっぺんに彼を味方にしてしまう場面はおもしろい。また、囲碁が強く、島津斉彬と何度も対局して親しんでいく。薩摩藩の家老となり、西郷、大久保らを支えた小松帯刀とも何度も対局して意志を通わせる。碁の好きな私には、何ともたまらないシーンの連続である。

 

 夫家定とは連珠で夫婦として仲良くなっていく微笑ましい場面も忘れられない。

 

 彼女は、やさしくて賢い女性の典型だったのである。

 

 

 

 

 NHK連続テレビ小説をめぐって

 

        「ウイスキーを買う」

 

                    泉  脩

 

 

 

一昨年の九月十五日、絶好の秋晴れのもと、小樽、余市をまわるバス旅行をしました。市民サークル「リラ文学散歩の会」の年一回の日帰り旅行で、会創立以来十六年、欠かさず楽しんできました。今回の参加者は十四人でした。

 

おなじみの小林運転手の中型バスで、まず小樽のオタモイ水族館に行きました。私は家族三人で行ってから、ほぼ四十年ぶりで、内容が充実していました。幻の魚イトウの生きた姿を見るのは初めてでした。

 

セイウチのショーを見ましたが、やはり初めてでした。雄のキバが見事でした。トドの大きな太った姿は二度目でしたが、前回見たあと、私が太ると妻にトドと言われました。ペンギンのショーはかわいらしく、行進は大人気でした。旭山動物園が始め、各地に拡がったのです。

 

昼食後、余市のニッカウヰスキー工場に向かいました。「マッサン」放映以来、大人気で、予約をとるのに苦労したようです。創立が昭和九年とありましたが、私が生まれた年です。マッサン(本名、竹鶴政孝)とエリー(リタ)の夫婦が、やっとスコットランドに風土が似た余市に工場をたて、戦争の苦難を経て、見事なウイスキーを作り出したのです。私はこのドラマをDVDで集中的に見て心から感動しました。

 

自信を失いがちなマッサンをエリーがたゆまず励まし続けます。このエリーを、周囲の人々がしっかり支えます。見事な人間ドラマでした。戦時中、思いがけず海軍が助けてくれるのも不思議です。陸軍や特高よりは、ひらけていたようです。

 

ガイドに案内されて構内を歩き回りましたが、ガイドの説明は熱が入っていました。ブームにのっただけでなく、創業者夫婦の人柄にほれているのでしょう。創立当時の建物が残っていて、今は使われていませんが、実験室、第一号倉庫、そしてマッサンとエリーの家に感銘を受けました。

 

ウイスキーは原酒の熟成が大切で、現在も使われている倉庫には、たくさんの樽が並んでいます。ドラマでは、マッサンが熟成期間の違う何種類もの原酒をブレンドして、自分で試飲して理想のウイスキーを求めていました。私はドラマを見ていて、毎日試飲ばかりしていてアル中にならないか気がかりでした。

 

ガイドの話では、マッサンは酒豪で、毎晩、ウイスキーを一本飲んだそうです。七十歳になってエリーが心配するので、三日に一本になったそうです。たしかにアル中になっていたのかもしれません。なおエリーの用意したつまみが、塩辛と梅干とのことで見学者は笑いました。ウイスキーと合うのでしょうか。

 

ウイスキー博物館の見学が終り、いよいよ試飲になりました。注意する人がいないので、何杯も飲んで出来上がっている人もいるようでした。私もウイスキーとワインを一杯ずつ飲んで酔ってしまいました。広い部屋のいたるところで、機嫌よく話し合うグループが多く、わがサークルの女性たちもご機嫌のようでした。小樽、増毛、余市と三年続けて、アルコール工場の見学を続けたので、すっかりなじんでしまったのでしょう。

 

私はこの見学が決まった時、ドラマを見たこともあって、一本買って帰ろうと考えていました。アルコールは弱いのですが、最近ビールやワイン、そしてハイボールを飲むようになりました。十年も続いている一人暮らしの淋しさもありますが、なによりも料理がおいしくなるからです。

 

販売所に並んでいるウイスキーから、スーパーニッカをえらびました。二、七〇〇円で、マッサンの永い苦労を考えれば高くはありません。生まれて初めてウイスキーを買いましたが、果たして飲めるだろうか。

 

あまり文学的でない文学散歩は、小樽で生鮨の夕食をとり高速道路を通って札幌をめざしました。バスの中で俳句、短歌のコンクールがあり、私もやっと一首作りました。

 

セイウチや 

 

トドとペンギン 

 

かわいいな

 

 もちろん落選しましたが、私には歌心がないようです。季語がないうえ、子供のような川柳なのです。

 

 なお、バスの運転手の小林さんは、小林稔侍に似たしぶい二枚目です。そのうえカラオケの名手で、この日も録音されたプロ並みの歌を、車中でたくさん聴かせてくれました。文学散歩の楽しみが一つ増えました。

 

 

 

 

 

 218号

 

  木村玲子

  「イトムカからのメッセージ」

       故郷を汚した犯罪への怒り

                 泉  脩

 

 

 

この本を読んで心から感動した。一行一行渾身の力を込めて書かれ、全て心から出た文章である。

 

全三部からなり、ドキュメンタリー「ふるさとイトムカの埋もれた歴史を追い求めて」である。二〇一〇年、愛知県で行われた、中国殉難者慰霊祭に出席した木村さんが、かつてイトムカで強制労働させられた唐元鶴(トァンユァンフー)さんと対面する。唐さんはイトムカと聞くと「おお、イトムカ」とすぐ反応した。そして木村さんの質問に答えて想い出を話した。

 

船で日本に連れて来られ、長い汽車旅で約四〇〇人の仲間とイトムカに来たこと。約半年、住宅の地盤作りをさせられ、夏に山一つ隔てた置戸に連れていかれ、十一月に愛知県の大府飛行場で働き、翌年六月にまた北海道きて赤平で働き、ここで終戦を迎えたこと。着る物も食べ物も粗末で、よく生き抜いたこと……である。

 

一九四四年三月から四年にかけてのことである。木村さんは通訳を介してむさぼるように聞いた。木村さんは唐さんをイトムカに迎える決心をし、努力の末に多くの協力者を得て、唐さんの娘さんの来日、来道を翌年実現した。

 

木村さんは北見市に近いイトムカ水銀鉱山の社宅で生まれ育ち、中学三年の中頃まで過ごした。札幌の高校、大学を卒業し、札幌の私立高校で国語の教師をし、結婚して二児を得た。夫の死の前後、父母と夫の母を見送り、今は札幌民主文学会など、いくつもの会で活動している。

 

二〇〇八年、イトムカ水銀鉱山閉山四〇周年の記念誌を発行した。全国に散らばった元鉱員とその家族の協力で立派な本ができた。木村さんは最後の鉱長を勤めた方で、よい人柄で鉱員やその家族から慕われてきた。だから娘さんからの求めに応じて多くの原稿が集まったのである。

 

ところが連絡のとれた何人かの女性から、戦時中に朝鮮人、中国人が大勢働かされていて悲惨な状況だったことがわかった。衝撃を受けた木村さんは、このことを記念誌に載せようとして反対された。過去の忌まわしい思い出は隠しておこうというのである。

 

木村さんはなつかしい故郷を汚した悲惨な行為を見逃せず、生き残りの人々を訪ねては真相を質ね、自分の創作やエッセイに書き込み、ついに一冊を自費出版したのである。

 

ドキュメントの第二話に「キミさんの詩(うた)」というすばらしい文章がついている。当時十七歳のキミさんは、イトムカで炊事係として働き、朝鮮人の悲惨な姿にショックを受け、あまった食物を分けたり、自分の服を縫い直してあげたりして力をつくした。

 

キミさんは木村さんの努力を知って、まっ先に電話をかけてきて、木村さんもキミさんを訪ねて話を聞いた。

 

キミさんはイトムカから自宅に帰され、不幸な結婚で苦しみながら三人の子どもを育て、今では当別の自宅で一人暮らしていた。詩を作り絵を描き、どちらも認められた。木村さんは、何篇かの詩を紹介しているが、身体が震えるほど見事である。キミさんは癌で入院しながら、木村さんをかえって励ましてくれた。

 

ドキュメンタリーは、唐さんの娘さんをイトムカに案内したあと、今度は木村さんが訪中し、武漢に近い黄石市に唐さんを訪ね、さらにくわしい聞き取りをする話を書いている。すごいファイトである。

 

第二章は創作で、イトムカの元選鉱場の近くのため池のそばに一九四四年に建てられた石碑について書いている。水神碑と刻まれ、裏には地崎組と刻まれ、さらに個人名が刻まれているが、これはセメントで塗りつぶされている。

 

強制労働で掘られ、水銀鉱石の最後のカスを捨てたため池である。

 

働きの悪い一人の朝鮮人が殺され、池の底に人柱として埋められたという噂を、木村さん自身が子どもの時にきいたことがある。この碑は何のために作られたのか、その謎を追いながらも、木村さんに共鳴する仲間が、一回目は唐さんの娘と共にお参りし、二回目も翌年に行った。イトムカで亡くなった朝鮮人、中国人、約五十人を忌んだのである。

 

残された報告書によると、一九四三年から四万人の中国人、捕虜やら拉致されてきた人々が日本各地で酷使され、多くの方々が亡くなった。それ以前から朝鮮人、中国人を合わせるのと何十万という人々が働き、多くが亡くなったのである。日本人の男たちが召集され、その穴埋めのためだった。

 

木村さんは、イトムカから始まって全国の悲惨な事実を知り、せめて亡くなった人々の遺骨を故国に戻そうとする取り組みが早くからあったことを知った。

 

イトムカの置戸では、町をあげての運動で立派な慰霊碑が建てられている。それならばイトムカでもと考えるのは自然の動きである。

 

しかし別会社ながら水銀再利用の工場がイトムカで操業していて、留辺蘂や北見から多くの人が通勤していて、慰霊碑建設に反対が強いという。補償問題がおきたり、中小企業ではもたないからである。

 

韓国と中国は早くに平和条約を日本と結び、賠償や経済協力と引き換えに、国民の個人補償を置き去りにしてしまった。個人の訴えは全ての日本の最高裁で却下されてきた。国家の取引の犠牲になったのである。

 

木村さんの努力は、故郷を大切に思う気持ちから発して、人権を守る国際的な運動に合流しているのである。

 

最終章に、ミニコミのコラムが載っている。私よりずうっと若いのだが、登山、海外旅行、各種の集会にとタフだ!

 

 

 

 

 

NHK連続テレビ小説をめぐって

        「花子とアン」とてもよいドラマ

                         泉  脩

 

 

 

 私は子供の時、たくさんの本を読んだ。戦時中は娯楽が少なく、本を読むことが何より楽しかった。

 

子供向け世界文学全集で「王子と乞食」と「アンクル・トムの小屋」を読み、どちらにも心をゆすぶられた。「王子と乞食」は、中世のイギリスで王子と乞食が服を取り換え、顔が似ていたので本物とまちがえられる話である。王子は貧しい人々の間ですごす間に、貧しい人々の苦しみ、悲しみを知る。やがて元にもどると、貧しい人々のために尽くすようになる。

 

「アンクル・トムの小屋」は十九世紀のアメリカで、黒人の子供トムが、奴隷として売られて、苦しい生涯を送る話である。リンカーン大統領による奴隷解放の力になったという。

 

 どちらも人間は平等だという思想が貫かれていて、私に大きな影響を与えた。この二冊の翻訳者が花岡花子だということを、「花子とアン」で初めて知った。

 

 このドラマは実話だけに、とても迫力があった。山梨県の貧しい小作農の家に生まれた花子が、父親の努力で東京のミッション女学校の給費生になり、けんめいに勉強する。英語が上達して、代用教員、出版社を経て、児童文学の翻訳者になる。

 

 カナダ人の女教師から託された「赤毛のアン」の原作を、戦争中に翻訳し、戦後七年たってやっと出版するのである。そして大ヒットし、現在にいたっても名作としてよみつがれている。

 

 孤児の娘アンが、まちがって兄妹の老人の家にもらわれ、けんめいに働き、やっと養女になる。彼女の愛らしさ、けなげさで人々のアイドルになり、立派に成長していく。

 

 私は高校生の時にこの本を読み、夢中で読みふけった。出版直後のことである。

 

 自分の名前の綴りにこだわり、自分の赤毛を恥じ、そして自分の空想の世界に夢中になる。親友を求め、男の子に興味をもつ。養父母の二人に、一心に尽くす。こんなアンに心からひきつけられた。

 

「王子と乞食」「アンクル・トムの小屋」そして「赤毛のアン」は、日本中、世界中の子供、若者そして大人の心をゆさぶった名作である。翻訳者の花岡花子の功績は大きく、ドラマ「花子とアン」の感動も大きい。

 

 花子はアンと同じように、家族、友人を心から愛し、けんめいに尽くした。必然的に戦争に反対し、戦争で殺された人々を心から悼むのである。

 

 戦争が終ってからの、にわか民主主義者、平和主義者ではなく、筋金入りの民主主義者、平和主義者であることが、このドラマを通じてよくわかるのである。

 

 歌人白蓮との交友も、興味深く、胸を打たれた。とてもよいドラマだった。

 

 

 

 

 

 217号

 

 NHKテレビ小説をめぐって

 

   『純と愛』 過酷なメルヘン

 

               泉  脩

 

 

 

 理想のホテルをめざすヒロイン純が、人の心が詠める愛(いとし)の協力で奮闘する物語。母方の祖父が宮古島に作ったホテルは、孫の純にとっては魔法の国だった。宿泊客がみんな笑顔で帰るからである。

 

 ところがホテルを受け継いだ父親は、もうけ主義で失敗し、あげくにホテルを観光資本に売却してしまう。反対した純は勘当され、大阪の一流ホテルに勤めて努力する。愛と出会い、彼の協力で、次々とピンチを切り抜ける。二人は結婚するが、人の心が読めるために人の顔が見られない愛は、次々と勤めに失敗し、主夫の役目を引き受けることになる。

 

 純が働くホテルが外資にのっとられ、純を理解する社長が解任され、純はやめてしまう。苦しむ彼女を救ったのは、沖縄人が集まる木造ホテルの女将で、彼女はここで働くようになる。奇妙なホテル仲間や宿泊人たちは、純の働きでよみがえり、理想のホテルに近づいてくる。

 

 しかし宿泊者の失火でホテルは焼滅し、またもや振り出しに戻ってしまう。

 

 純と愛の間もぎくしゃくするが、ホテルの客だった笑顔を失った女性デザイナーから宮古島の別荘をゆずられ、再スタートすることになる。愛・母・兄夫婦、そして純を慕うホテル仲間が協力することになる。

 

 別荘をホテルに改装し、島の人々の協力も得て、オープンの日が近づく。ところが次々と困難に襲われる。母の認知症が進み、愛が脳腫瘍で手術を受け、台風でホテルが荒れてしまう。

 

 オープンを延期した純は、ひたすら愛の意識が戻るのを待ち、希望を失いかける。駆けつけたかつての仲間たちに励まされ、やがて気力を取り戻した純は、愛の看病のかたわら、オープンを決心する。

 

 なんとも過酷なシリアスなドラマであり、スーパーウーマンと超能力者の織りなすメルヘンらしくない。リーマンショック(二〇〇八年)による大不況を反映した、リアリステックなドラマである。

 

 純を演じる夏菜が、一本気なヒロインをよく演じている。かつて「金八先生」で不気味な引きこもり男を演じた風間俊介が、愛を好演している。武田鉄矢がめずらしく悪役の父親を演じている。

 

 朝ドラにはめずらしい、深刻に考えさせる作品だと思う。あまり楽しくなかったが、観てよかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『寂しくても悲しくてもネギ刻む』

 

               泉  脩

 

 

 

 昨年この作品が「奔流」に載り、札幌支部合宿研で討議した時、次のように発言した。

 

「小説のテーマとして私が好きなものが三つある。男と女が愛し合い家族をつくること。病気が治る話。そして子ども達が集団的に成長する話。この作品は三番目にあたり、とても感銘を受けた……」

 

 札幌の公立高校で、いわゆる「進学校」でない、周辺の高校が舞台である。私はこのような高校にも入れない生徒たちが入学する、私立高校の教師だったので、この作品の内容がよくわかる。

 

 三年生のクラスを卒業させたばかりの山本が、また新三年の七組を受け持つよう頼まれる。やむなく承知した山本は、ほとんど知らない生徒たちに、「貧しいことは恥ずかしくない」「どんな職業に上下がない」といった最初の話をする。

 

 三七人のクラスの三分の一が片親の家庭、四割が生活保護などの貧困家庭、半分の生徒が就職希望である。新学期早々放課後に個別の進路相談を始める。トップの清水はラクビー部のキャプテンで、就職希望である。ところが彼は「私はラクビーを続けたいので、大学に行きたい。しかし母子家庭で、高校進学が近い妹がいるので、進学希望とは言えなかった」と話す。山本は、すぐにはわからないので、これからも話し合おうと言って終わりにする。

 

 次の阿部は女生徒で、「私はキャバクラ嬢になる」と言い、山本は「ダメだ」と言って事情を聴く。彼女は両親がなく祖父母と暮らしていて彼女は手っ取り早くお金がほしいのである。

 

 この二人が後で大きな役割を果たすようになる。苦境にある若者は、人や社会の真実に触れて本物の教師を見抜くのである。

 

 山本は国語の教師で現代文を教える。まず短歌、俳句を教え、石川啄木と俵万智が生徒たちのヒーローになる。生徒たちにも作らせ、授業の最後の十分間に発表させていく。阿部のこの句が生徒たちと山本の心を打つ。

 

私の心は 青い模造紙

 

   紙飛行機も飛べません

 

生徒たちが、進路相談と授業で、山本に率直に心を打ち明けるのは、なぜだろうか。

 

 生徒はよく教師を見ている。新しい担任がどんな教師なのか、いち早く先輩や友人から情報を仕入れ、悪い教師ではないと、山本に期待していたのだろう。

 

 そして「貧しことは恥ではない」「どんな職業にも上下がない」といった山本の最初の発言が、「この先生は生徒に偏見を持たず、差別をしないという印象を持ったのだろう。

 

 短歌を生徒に作らせ、順々に発表させ、みんなで感想を出し合う中で、山本への信頼と生徒同士の理解が進み、クラスの結束が強まったのである。

 

 こうなると生徒たちは自発的に動き出す。阿部がひどい遅刻をして山本がしかると、他の生徒が、阿部は定期券が買えず毎朝二時間も歩いてくると教えてくれる。

 

清水が生徒を放課後に集めて話し合うので先生も出てほしいと頼みに来る。

 

 この集まりは、クラスの男子十七人を集めて、生徒の司会でフリートーキングするのである。山本の出番は少なく、もっぱら聞き役である。三十分の予定が六十分を超え三回の予定が、毎週木曜日の放課後に行うことによる。阿部や学級委員の細谷ら女生徒も出るようになる。山本の提案でテーマを決めて、他の教師にも出てもらう。会の名前も「自立塾」と生徒が決め、あくまでも生徒が運営していく。クラブで鍛えられたスポーツマンは、夏休み以後は暇になり、体力と指導力を発揮する。なによりも良いことは、一生の進路を決めるという三年生の切実な要求にぴったりしたことである。

 

 山本や他の教師たちにとっても、生徒の本音を聞き、生徒たちを理解し、自分の専門的知識を生かすよい機会になる。

 

 私も長い教員生活の中で、まれにこのような経験をした。「青春の飛翔」「すべての生徒がドラマをもつ」という本まで出すことができた。教師が倦まず弛まず生徒に働きかけ、それが生徒たちの要求と合致した時、生徒たちは自発的に立ち上がり、すごい力を発揮するのである。多くの失敗の後の、教師としての至福の時である。

 

 この作品は、民主文学会の支部誌・同人誌の優秀作に選考委員全員一致で選ばれたという。宜なるかなである。

 

 作品の最後に、阿部と細谷が連れ立って山本を訪ねてくる場面はなんとも清々しい。

 

教え子の成長ほど嬉しいことはないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

216号

 

NHKテレビ小説をめぐって

 

 『カーネーション』      泉  脩

 

 

 

 大正時代、大阪の岸和田で、小原糸子が生まれる。呉服商の長女の彼女は、子供の時から洋服に興味をもつ。女学校を中退し、パッチ屋に勤め、初めてミシンの使い方を覚える。その後、紳士服店、布地店と変わり、二十一歳で小原洋服店を開くことになる。

 

 落ち目の呉服店をやめて、娘に店をゆずる父親の姿が見事に描かれている。この父親と、祖母、母、四人の妹をかかえて、糸子はなんとか洋服店を発展させる。

 

 親のすすめで、紳士服職人を婿にむかえ、三人の娘が生まれる。戦争が始まり、男たちは次々と出征し、戦死していく。糸子の夫も同じ道をたどり、糸子の責任はますます重くなる。

 

 三人の娘は成長するが、何ともにぎやかで、けんかがたえない。そして食糧難と空襲に苦しめられ、洋装も統制によってきびしく制限される。この中で父親も死ぬ。

 

 戦争が終ると、洋装が息を吹きかえし、糸子の大活躍が始まる。三人の娘も洋裁の道に進み、有名なファッションデザイナーになる。

 

 私は洋裁のことはわからないが、おしゃれをし、自分を輝かせたいという女性の気持ちは理解できる。パリを中心に拡がる流行の力もだんだんわかってきた。そして三人の娘にデザイナーとして取り残され、シルバー向け洋裁の道に活路をみつける糸子の苦労と努力もよくわかった。

 

 おとなしい三女に岸和田の店を継がそうとしたが、末娘もまたイギリスに行って、ロンドンに店をもつようになる。それでも八十代になった糸子は店を守り、ついには高級既製服にまで手をのばす。かけつけた三人の娘に支えられて、糸子の新しい門出が盛大に祝福されスタートする。

 

 ドラマは、最晩年の糸子の感動的エピソードを紹介して終る。

 

 家出してきた孫娘を自分の生きざまを見せることでよみがえらせる。自分が通院する大病院で、ファッションショーを行い、患者たちや病院職員をふるいたたせる。そして中年になって禁断の恋をした相手の死を知ってショックを受け、涙を流す。

 

 全体を通じて、小原糸子が、どなり、しかり、説得する岸和田弁がとてもおもしろい。そして勇壮なダンジリを引く岸和田祭が見事である。

 

 

 

 214号

 

 

感動のドキュメント⑥

 

    現実は小説より奇なり

 

                泉  脩

 

 

 

 小説は、作家が虚構(フィクション)を通して、真実を表現するものである。読者はその虚構や物語の書き方のおもしろさを楽しみながら、知らず知らずに真実を学ぶのである。私は高校、大学時代に、主としてヨーロッパの小説を読んで多くのことを学び、自分の生き方を探求した。

 

 ドキュメントは、筆者の実体験や実践が書かれ、これを読んで多くを学ぶのである。現実は小説より奇なり言葉どおり、迫力があり、大きな感動を受ける。人間の生き様ほど、人を変える大きな影響を持つものはない。

 

 これまで取り上げてきた5篇のドキュメントは、私に大きな感動を与えてくれた。どれも私心のない、捨て身の実践であり、繰り返し読んでも感銘を受けた。こんな生き方もあるのかと、目が見開かされる思いだった。

 

 この他にも、いくつかの勝れたドキュメントを簡単に紹介したい。

 

 

 

 田村宣征「海に鳴る序曲」

 

 小樽昭和高校の田村先生の、学級担任としての努力が書かれている。私立の底辺の学校で、荒れる女生徒を、まず集団遊びで惹きつけ、学校行事で結束を強め、立派なクラスを作っていく。

 

 私の尊敬する友人の田村さんの力量が実によくわかる。同じような私立高校の教師だった私にとってはバイブルのような本だった。

 

 

 

 及川一男「村長ありき」

 

 戦後まもなく、岩手県の山村で、新任の村長が取り組んだ改革。まずブルドーザーを後払いで手に入れ、豪雪地帯の道路の除雪をする。次に保健婦を多く採用し、家庭訪問で病気の予防に努める。  

 

この上で、日本で最初に六〇歳以上の医療費無料化を実施し、全国の自治体に大きな影響を与えた。

 

 

 

道下俊一「霧多布人になった医者」

 

 道東の漁村に、短期の医師として派遣された著者が、村人の支持を得て、慣れない外科や産科まで手を出し、ついに住みついてしまう物語。「ルパン三世」を描いた漫画家も、子供の時に患者だった。

 

 

 

 カッパブックス「丸山ワクチン」

 

 日本医大の丸山先生が副作用のない癌治療薬を作り出した話。その使用例や開発のいきさつを書いている。高価で効きめのない制癌剤で巨利を得る学者、製薬会社、そして厚生省の妨害を受け続けている。実に説得力がある本である。

 

 

 

 小澤征爾「ボクの音楽武者修行」

 

 世界の小澤として活躍してきた大指揮者の自伝。二四歳から二年間、ヨーロッパとアメリカを回り、三つの指揮者コンクールに優勝する。この縁で、ミンシュ、カラヤン、バーンシュタインの弟子になる。痛快な冒険物語。

 

 今後とも勝れたドキュメントがたくさん書かれるにちがいない。大いに期待したい。

 

 

 

 

 

 

 212号

 

 寺内タケシ「愛のエレキ ロシアを翔ぶ」

 

                 泉  脩

 

 

 

 感動的で読んで涙が出た。

 

 一九七四年(昭和四九)、日本のエレキギターの元祖、寺内タケシの事務所に、ロシア語の手紙が届い感動のドキュメント④

 

た。シベリアのノボシビルスクの八歳の女の子からのファンレターで、父親からもらった寺内タケシのレコードを聴き、とても好きになったと書いてあった。

 

 やがて父親からも手紙が来て、娘は白血病で助からない。寺内さんにノボシビルスクにきてほしい、と書いてあった。寺内はすぐ決心をし、ロシア側と交渉し、一九七六年に行くことが決まった。

 

 彼が率いるブルージーンズは、メンバー八人で、スタッフが八人だった。山のような電気機器とともに日本海を船で渡り、飛行機でノボシビルスクに飛んだ。

 

 病院に入院中の少女エリーナとの面会は、涙、涙だった。日本中から寄せられた土産が渡された。

 

 ノボシビルスクでの三日間の公園は大成功し、三日目にはエリーナも出席した。第二部の途中で、エリーナから寺内に花束が渡され、二人は得ついしっかり抱き合った。七千人の聴衆は総立ちになり、二〇分も拍手を送った。

 

 ブルージーンズがなぜ来たか、そのために三千万円の借金をしたことを知って感動した。

 

 こうして五十二日間、四十二回の公演が始まった。どこでも野外劇場、競技場が使われ、数万人の人々が集まった。ロシア人は世界一の音楽好きであり、ブルージーンズの演奏には圧倒的な迫力があった。第一部は民謡など日本の曲、第二部は世界の名曲だった。

 

 さまざまなハプニングがおきた。ロシア側の官僚主義がひどく、怒った寺内は「日本に帰る!」と怒鳴った。民衆の圧倒的支持があるので、役人たちも無理押しできなかった。

 

 単調なロシア料理に飽きて、日本から持って来たインスタントラーメンが貴重品になった。オデッサで女子大生がメンバー一人を恋して、どこまでも追ってきた。メンバーとスタッフは二人をかばって、二人の恋を守り通した。このジーナは、帰国のジェット旅客機がモスクワ空港を離陸した時、滑走路まで走り出て追ってきた。

 

 最大の困難は、ミグ25戦闘機の日本への亡命事件だった。日本とロシアの関係が悪化し、ロシア在住の日本人は危険になった。それでもコンサートは続き、どこでも超満員だった。民衆には政治より音楽の方が大切だったのである。最後の公演は首都モスクワで三日間行われた。寺内はある決心をした。一日目の昼と夜の公演の間に、リハーサルと称して、会場にスポーツ宮殿を借りた。そこで在モスクワの日本人三〇〇人を集めて、彼らを励ますミニコンサート開いた。

 

 ブルージーンズの伴奏で、まず母親たちをステージに上げて合唱させた。「赤とんぼ」から始めたが、すすり泣きで途切れがちだった。子どもたちには「たいやきくん」から始めたが、小さな子どもたちが走り回るので学芸会と運動会がごちゃ混ぜになった。父親の合唱は「柔道一代」だが、大の男が号泣し出した。最後の全員合唱は「ふるさと」だったが、歌にならなかった。

 

 ミニコンサートが終ると、寺内は全員に夜の公演のチケットを渡して、必ず来てくれるよう頼んだ。彼は大胆な行動をする決意をしていたのである。

 

 一万八千人の超満員の会場で第一部が終って大いに盛り上がると、寺内はマイクに向かってスピーチを始めた。

 

「今、二つの国の対立が起きています」とミグ25亡命について話し始めると会場は異様に静かになった。寺内はロシアに来た経過を話し「二つの国の対立と私たちの善意の行動とどちらを信じるか、もし私たちを信じる人はピースのサインをして立ち上がってくれ」

 

 すると全員が指をVの字にして立ち上がり歓声を挙げた。日本人は万歳を叫んだ。

 

 この瞬間からモスクワの空気が一変し、残りの公演も大成功し日本人の女性はおにぎりの差し入れに励んだ。そして全員が帰国の途についたのである

 

 寺内タケシは、私の人生でもっとも中味の濃い五〇日間だったと述懐している。

 

 この後、エリーナはロシアの面子をかけた全力の治療で、「愛のエレキ ロシアを翔ぶ」が出版された時も存命していたという。

 

 

 

 

 

 211号

 

 感動のドキュメント③

 

  田村京子「北洋船団 女ドクター航海記」

      「捕鯨船団 女ドクター南氷洋を行く」

 

泉  脩

 

 

 

 この二冊は、実に痛快なドキュメントである。一九八三年に北氷洋のサケ・マス船団に、一九八四年には南氷洋の捕鯨船団に、女一人で乗り込む話である。どちらも五〇年来の操業の歴史で、初めてのことだった。

 

 田村京子は東邦大学麻酔科の四〇代の医師で、男たちが尻込みする中で、ただ一人の船医になることを承諾したのである。会社側は女医と聞いて、反対が続出したため、他に男性医師を探したが見つからない。船医がいなければ出航できず、やむなく彼女を乗せることにしたのである。

 

 最初は彼女も船酔いが心配で、病人を看る前に自分が病人になるのではないかと考えた。ところが、どんなに海が荒れても船酔いしないことがわかった。持ち前の行動力と好奇心から、彼女は乗り組んだ母船の中を歩き廻り、船底の機関室まで行った。船員たちとだれかれなしに話し合い、すぐ仲良しになった。高級船員扱いなので、船長ら幹部と毎日会食し、すぐ友達になった。大切な漁業会議まで顔を出し、あれこれと口を出してあきれさせた。

 

 船団は母船と十数艘の小型船からなり、サケ・マスの船団では独航船、捕鯨船団ではキャッチャーボートと呼んだ。乗組員は全部で千人をこえた。船医は全員の健康維持に責任を持ち、中年以上が多いので持病持ちが多かった。

 

 彼女は医師として優れていて、どんな病気も治療した。最新の麻酔機器を積み込んだので、手術までおこなった。機会に手をいれて怪我をした船員も何とか手術した。次の日、彼女に付き添われて船上を散歩する船員の姿を見て、みんなびっくりしたという。虫歯の抜歯までした。思い切って抜くと、「ギャッ」と叫んだが、抜いた歯を喜んで仲間に見せて歩いたそうである。

 

 独航船で病人が出ると、無線室まで行って、直接病状を聴き取り、備え付けの薬の服用を指示した。ズーズー弁の船員が多く、おかしな会話になり、他の船の無線にも入っておもしろがられたという。こんなことは初めてのことだったので、彼女の評判はとても良くなった。

 

 彼女は物怖じせず、おしゃべりでだれかれなく話し合った。船内のリクレーションには全て参加し、特に大荒れの日に卓球をするのをおもしろがった。ピンポン玉が空中で漂ったり、あらぬ方向に流れるのである。

 

 子供の時、床屋で育ったので、鋏や櫛をおもちゃにして遊んだという。彼女は船員たちの髪を切り、長髪の幹部を追い廻して短髪にしてしまった。帰国したら女房に怒られるとぼやいていた。

 

 このようにして、彼女はドクターとして尊敬され、人柄と唯一の女性として、全船団のアイドルになった。誕生日には、長い心のこもった祝電が集中し、帰国が近づくと、お別れと感謝の電報がつづいた。彼女は涙を流して感激し、生まれてから最初で最後のモテ方だと書いている。

 

 長い航海と激しい労働の日々で、彼女は荒くれた男たちの中の女神のような存在になったのである。こんなに楽しい航海は初めてだと船員たちから電報で言われ、彼女の方も、毎日ご馳走を食べ、モテモテで過ごし、またとない日々を送ったのである。

 

 かつての「蟹工船」の悲惨さと違った、実に明るくおもしろい航海記だった。ドキュメントの良さを充分味わった思いだった。

 

 今は、捕鯨船団はなくなり、サケ・マス漁は制限が厳しくなっている。

 

 

 

 

 

 

 210号

 

 感動のドキュメント②

 

 高杉良「祖国へ、熱きこころを」

 

                 泉  脩

 

 

 

 主人公和田勇は、在米日系人二世で、大戦後ロスアンジェルスでスーパーマーケットをつくり成功した人物である。大戦中は、敵性人として辛酸をなめ、戦後にやっと盛り返した実業家である。

 

 一九四九年(昭和二四)、ロスアンジェルスで行われる全米水泳選手権大会に、日本男子水泳選手団も出場することになった。和田夫妻は、自宅を宿舎に提供し、すべて私費で選手たちの世話をした。まだ小さい和田夫妻の子どもたちが、選手たちと遊び、またとないリラックスできる時間になったという。

 

 体力と精神が充実した選手たちは、大会で次々と自由形を中心に世界記録を出し、アメリカ中を驚かせた。ロスアンジェルスでは、一夜にして「ジャップ」から「ジャパニーズ」に変り、日系人は肩身の狭い思いから解放されたという。

 

 このニュースは日本でも報道され、日本中を沸き立たせた。敗戦で沈んでいた日本人が勇気と希望を持ったのである。

 

 この頃中学生だった私も、毎日ラジオや新聞が流す日本選手団の活躍に胸を躍らせ、中心になった古橋・橋爪の二人を心から尊敬した。アメリカへのコンプレックスが少し薄れてきたのである。

 

 和田勇が次に取り組んだのは、一九六四年(昭和三九)の東京オリンピックである。戦争で日本でのオリンピック開催が流れているので、敗戦国となった日本でのオリンピックは難しくなっていた。和田は愛する祖国の人々を盛り上げるために、東京オリンピックの開催を考えたのである。

 

 和田夫妻は、私費で中南米諸国を廻り、現地の日系人に支持を訴えた。どこでも熱烈な賛同を得て、協力して各国のオリンピック委員に働きかけた。貧しい国が多く、オリンピック委員のオリンピック総会への出席がままならないと知ると、現地日系人はお金を出し合って旅費をまかなったという。

 

 こうして東京オリンピックが決定され、和田たちの隠れた努力が実ったのである。大戦後の日本の復興の一つのピークである東京オリンピックは成功し、日本人は自信を持つようになった。

 

 高杉良は優れた日本人の業績を明らかにして、次々と伝記的小説を書いた。全て事実に基づいているので、ドキュメントと言ってよかった。

 

 日本興業銀行頭取中山素平、東洋水産創立者森和夫、昭和重工業技師垣下怜、そして和田勇である。いずれも私心を持たず、将来を見通して、大きな仕事をした人物である。和田勇については、「現代日本人の恩人」とまで書いている。和田勇にとっては、二つに祖国、日本とアメリカの友好こそ、在米日系人七〇万人の未来がかかっていると考えたのだろう。そして日本人が失いかけている祖国愛を、より純粋に持っていたのだろう。

 

 高杉良は、城山三郎が「小説日本銀行」「毎日が日曜日」などで作り出した経済小説を受け継ぎ、高度成長期後半からバブル崩壊後の不況期の企業の内幕を小説化してきた。その中で老醜をさらして権力にしがみつく政財界人、経済ゴロ、やくざ、右翼などを徹底して批判した。そして企業再生のために奮闘するサラリーマンを励ましている。彼は「私はサラリーマンの応援歌」を書くと言っている。

 

 高杉良の書いた「金融腐蝕列島」「呪縛」「再生」の銀行三部作は、山崎豊子の「沈まぬ太陽」と共に、二〇世紀末の二大傑作考えている。

 

 

 

 

 

 209号

 

  感動のドキュメント➀

 

 杉原幸子「六千人の命のビザ」 --人の日本人外交官がユダヤ人の命を救った―

 

        泉  脩

 

 

 

 この本を読んだ時、私は感動してとてもうれしかった。あのアジア・太平洋戦争の時、日本は悪事の限りをつくし、無数の人々の命を奪った。合計二千万人あまり、さらに日本人も三百万人以上が亡くなった。

 

 この中で、日本と日本人の名誉を救った人もいたのである。外交官の杉浦千畝(ちうね)さんである。ヨーロッパ各国の大使館員を務め、一九三九年(昭和一四年)の末に、フィンランドからリトアニアに領事として転勤した。バルト三国の一つで、当時の首都はカウナスだった。

 

 この年の九月、ナチスドイツはポーランドを侵略し、第二次世界大戦が始まった。八月に結ばれたばかりの独ソ不可侵条約の秘密条項により、ドイツ軍はポーランドの西半分を占領し、ソ連軍も侵略して東半分を占領した。翌年春にソ連はバルト三国も併合した。

 

 リトアニア領事の杉原千畝は、このような成り行きを本国に報告するのが任務でした。一九四〇年(昭和十五)七月末、日本領事館に多くのユダヤ人が押しかけました。ポーランドのドイツ占領地から逃げてきた人々で、ソ連を通って日本に行く通行許可証(ビザ)の発行を求めたのです。

 

 その数は日に日に増し、代表が杉原千畝に面会して、必死に嘆願しました。彼が本国に問い合わせると、拒否の回答でした。

 

 幸子夫人の文章によると、「私を頼ってくる人を見捨てることはできない。でなければ私は神に背く」と言い、杉原千畝はビザ発行を決意し、婦人も同意しました。夫妻はクリスチャンで、神の声として人道にかなう道を選んだのです。

 

 領事館は総出で、日夜を分かたずビザ発行を続けました。杉原千畝の手が腫れあがって食事も十分にとれなかったそうです。一か月後に外務省から引き上げの命令が来るまで、杉原一家が乗った列車が出発するまで、ビザ発行が続けられました。

 

 こうして約六千人のユダヤ人がソ連を通過して日本に向かい、さらにアメリカに渡りました。この頃、日本はソ連と中立条約を結び、アメリカともまだ戦っていませんでした。だからこのルートだけが救いの道だったのです。

 

 まもなくドイツはソ連に全面的に侵略を始め、一九四一年(昭和十六)の十二月には、日本が米英に宣戦布告をしました。世界中に広がった戦乱の中、杉原一家はルーマニアなど東ヨーロッパで過ごし、ドイツ敗北とともに連合国に捕えられました。

 

 終戦後、やっと日本に帰った杉原千畝は、外務次官から解雇を申し渡されました。「リトアニア事件」の責任を取らされたのです。戦争が終り、むしろ人道にかなった外交官として表彰されても良かったのに。

 

 杉原千畝は、家族の生活を守るために、語学力を生かして貿易商になりました。

 

 彼に命を救われたユダヤ人たちは、彼の所在を探しましたが、日本の外務省の協力が得られませんでした。やっとビザ発行から二十八年後に、最初の再会が実現しました。この後多くの人に会い、イスラエルから勲章をもらい、顕彰碑が建てられ、博物館、記念館に彼に係る品物(ビザなど)が飾られました。

 

 しかし一九八四年に彼が亡くなるまで、日本外務省は彼の名誉を回復しませんでした。政府は侵略戦争の責任を認めず、彼は国に背いた外交官なのです。戦争に反対し殺され、迫害された人々と共に、いつの日にか、名誉が回復されなければなりません。

 

 

 

207号

  心に残る大衆小説⑩(完)

 

      渡辺淳一「阿寒に果つ」

 

               泉  脩

 

 

 

 中年の作家が、自分が生まれ育った札幌に来て作品の取材を始める。高校時代のクラスメートで初恋の人、時任純子の男友達を次々と訪ねたのである。男たちは渋々と会い、重い口ぶりで語った。

 

 画家たち、新聞記者、医師……であり、だれもあまり精彩がなかった。特に画家は、二〇年前、天才女流画家とされた時任純子は、男たちにもてはやされ、恋の相手になった。芸術家ということで自由奔放な生き方が許されたのだろう。

 

 その結果、彼女の絵は荒れ、相手の男たちも生気を失ってしまった。当時、高校で彼女を恋した主人公は、放課後、図書館でのデートを楽しんでいた。修学旅行では、東京の自由行動でそれぞれのグループを抜け出し、二人で会ってホテルに入ったが、うぶな彼は何もできなかった。

 

 このころから彼女は変り始め、絵よりも文学に興味を持ち、東大出と称する若い医師と付き合うようになった。彼は釧路で診療所の医師になるが、まもなくニセ医者として逮捕される。同行していた彼女は、彼に面会後、阿寒湖畔で自殺してしまった。

 

「阿寒に果つ」はこのような内容だが、作者の渡辺淳一の生々しい体験記である。札幌南高校を卒業する寸前に恋人に自殺され、それでも北大に入学し、札幌医大を卒業して医師になる。

 

 彼は、整形外科の講師にまでなるが、かたわら文学修業に励み、「小説―心臓移植」を発表して評判になった。同じ札幌医大の和田教授が、日本初の心臓移植に失敗した話である。批判を許さない強引な和田教授を、いわば内部告発したのである。

 

 渡辺淳一は大学を追われ、プロ作家の道に進んで成功する。

 

 そして彼は、かつての恋人、加清純子の自殺を明らかにするため、「阿寒に果つ」を書いたのである。札幌南高の木造の旧校舎をそっくり再現し、教師たちも実名または本当の仇名で登場する。作者はこの作品で、自分の青春時代を埋葬し、恋人をもてあそんだ連中に復讐したのかもしれない。

 

 この小説は、私にとって実に身近で恐ろしい作品である。私は作者の一年後輩で、加清純子と同じ美術部に入っていた。もちろん渡辺淳一は知らないし、上級生の加清順子は雲の上の存在だった。もともと女性に臆病な私は彼女と一度も話をした憶えがない。

 

 私は二年の中頃から、進学の悩みから勉強が手につかず、絵を描かなくなった。そして、加清さん(当時はこう呼んでいた)と同じに文学にのめり込むようになった。はからずも、同じ生徒会誌や同人誌に、二人の文章が載るようになった。

 

 加清さんの自殺は、私にとっても衝撃だった。彼女は絵が濁ってきて、自身も妖艶な美しさに加えて孤独の影が深くなっていた。だから、ある程度は思い当たることもあったといえる。

 

 私も北大に入学し、文学部の史学科を出て高校の教師になった。文学は評論の道に進んだ。到底、プロになるどころではなかった。

 

 おもしろいことに渡辺淳一とは縁があるらしく、年上の従兄が彼の高校のクラスメートで、かなり親しかったらしい。年下の従兄が彼の札医大時代の友人になり、同じ整形外科の医師になった。だから私は、この二人の従兄から作家の裏話を聞くことができたのである。

 

 私は、この先輩の小説では、医師物以外は好きでない。加清純子の自殺から、女性不信、人間不信になったのではないかと推測している。クールなニヒリズムと私は名付けている。

 

 さらに不思議なことに、加清純子の兄が、私が三十五年勤めた私立高校の理事・理事長になっている。退職近くから言葉を交わすようになったが、なかなかの人物であり文章が見事だった。