210号

 

 

 

  ものさしはあるのか

 

              岩井 よしあき

 

 

 

 立川流の落語家立川談春のエッセイ「赤めだか」がなかなかおもしろい。文庫本の帯でビートたけしが、「談春さんは談志さんが残した最高傑作」と激賞している。また「落語家前座生活を綴った破天荒な名随筆」とあって二00八年講談社エッセイ賞を受賞している。

 

 じつは、「最高傑作はほかにもいる。当時前座の中の最古参であった立川志の輔、入門は談春より一年半後輩の立川志らくもそうなのだ。二人とも立川流のきびしい二ツ目の基準をもっともはやく達成したのである。

 

 その基準とは、「古典落語なら五十席覚えること。それに寄席の鳴り物を一通り打てること。講談の修羅場を噺せること。あとは踊りの二つ三つ。そして談志がアトランダムに選んだ根多をその場で演じ、談志を納得させる出来であること。」である。真打でも合格するとは限らないそうだ。

 

 志の輔は一年ちょっとで五十席をものにし、前座でいながら二ツ目待遇だった。志らくは談春が二年かってやっと二十四席まで進んだころに、週に一席のスピードで覚え、半年で追いついてしまった。

 

 はっきりいえば、彼らは、談志が師匠の柳家小さんのところからからだを張ってまでとびだし、立川流を名乗ったあげくにひねりだした「二ツ目の基準」という最高傑作の産物なのである。

 

 昨年十二月発行の「奔流」(札幌民主文学会編)のなかの数字表記について、いったいどういう基準があるのかすこし気になった。

 

 小説・評論・エッセイなどの場合、縦書き漢数字では「十月十五日」のような表記がふつうであると思い込んでいた。ところが洋数字の0をつかう「一0月一五日というという表記もすくなからずあったので驚いた。これは新聞記事や実用文の表記だと思っていたからである。もと凄いのはひとつの作品のなかで、「一0月」をつかってみたり、「十五日」にしてみたりしている。こうなるともはやなにをかいわんやである。断っておくが十月十五日はわかりやすくするためにつかったにすぎない。

 

 参考にしたのが講談社校閲局編纂の「日本語の正しい表記と用語の辞典」(一九八三年発行)であった。さすがに発行当時でも七十年余年の歴史をきざむ講談社の内部資料をもとにしただけあって、本にかかわるひとびとにとっては信頼にたる辞典である。ほかに同類をあげると「朝日新聞の用語の手引」や通信社の「記者ハンドブック」などがある。

 

 両者の内容をくらべていちばんちがうのは数字表記の項であった。

 

 講談社の辞典には、巻末の参考資料のなかで「縦書きの数字の書き方」二十一ページにわたって記載している。世紀・暦年・日付・年代・月数・日数・時刻など二十六項目に加え、概数A(ばくぜんとした数)・概数B(一定の基準の前後をあらわすもの)・概数C(ふたしかな数と数量の幅を示すもの)まで網羅している。そのすべてを「望ましい表記」「さしつかえない表記」「不可の表記」「備考」に分類しているのである。

 

 一例をあげてみる。零時二十分「望ましい表記」、零時二0分・0時二0分は「さしつかえない表記」、0時二十分・0時二〇分は「不可の表記」、零時20分・020分は「備考」で許容することもある、とそれぞれを分けている。

 

 もういっぽうの「朝日新聞の用語の手引」には、「2001年4月から、記事中の数字表記を洋数字主体に切り替えた。」とある。「数詞・助数詞」の項は洋数字使用の原則からはじまり、巻末の資料でも漢数字と洋数字の使い分けが主な内容である。

 

 そうなった理由は読者の高齢化に対応して新聞文字の拡大をおこなったことにあるのではないか。その結果一行に収める文字数を減らさざるをえなくなった。かといって記事による情報量をそのまま減らすわけにはいかない。漢数字使用をつづけるよりも洋数字のほうが字数を増やすことができる。しかも原稿用紙の一マスに縮小文字を二ついれることができる。効率的であることは確かである。

 

 現在それがどうなっているか。たとえば、「2016年(平成28年)3月14日午後2時2230秒」や「168人」があたりまえになっている。

 

 これを「望ましい表記に」書き換えてみると、「二〇一六年(平成二十八年)三月十四日午後二時二十二分三十秒」や「百六十八人」になる。つぎに「さしつかえない表記」のほうは、「二〇一六年(平成二八年)三月一四日午後二時二二分三〇秒」や一六七人」となる。

 

 だからいまの表記は「さしつかえない表記」にも「不可の表記」にも該当しない。かろうじて「備考」に「算用数字を使いたい場合は、例=20世紀の形を許容することもある。」と小文字であつかわれているのみである。

 

 ここではっきりいっておくけれど、新聞記事やルポルタージュなどたいていの実用文書の場合、数字表記と、文章や記述の評価とはまったくかかわりのない別の次元の問題である。「望ましい表記」が最良で、「さしつかえない表記」が次善、それ以外は論外なんぞとはとうていいえない。

 

 最新の直木賞小説、「流」(東山彰良 著)は「望ましい表記」であった。横書きの帯まで表裏とも念入りに「二十年に一度の傑作」「十五年間で一番幸せな選考会でした。」とあるではないか。「二〇年」あるいは「一五年間」ではなかった。

 

 「さしつかえない表記」の用例が豊富な本を紹介しよう。これは文句なく本田勝一の「北海道探検記」がおすすめである。一九六五年に刊行されたのちいったん絶版になり、一九七九年一二月に復刊したルポタージュである。いいすぎかもしれないが、「さしつかえない表記」の教則本にちかい。実用文や記録文などの記述にあたって役にたつはずである。

 

 「奔流」には「望ましい表記」派と「さしつかえない表記」派が堂堂と並立している。

 

 もとより「奔流」は文学の向上をめざして小説・シナリオ・エッセイ・評論を網羅したものである。となれば「望ましい表記」が当然と思ったものだが……。

 

 やっかいなことに、「望ましい表記」派が圧倒的に多数とはいえない。「さしつかえない表記」派もなかなかの勢力である。どちらかにきめようと決戦におよんでもひきわけになるかもしれない。してみれば、どっちも作者の選択や趣向次第ということなのだろうか。

 

 しかし、このままほっておいていいはずはない。そのきざしがすでに同誌のなかにあらわれているからだ。あろうことかおなじ作品のなかで、「望ましい表記」と「さしつかえない表記」をまぜこぜにしている「どうでもいい」派だけはなんとかしてもらいたいものである。

 

 くりかえすが、数字表記と、文章の記述や評価はまったくかかわりのない別の次元の問題である。本田勝一の「北海道探検記」をわたしは独断をもって「さしつかえない表記」の教則本に指名した。といって、「北海道探検記」に文学的あじわいがないとはつゆほども思っていない。それどころか、「『幻のルポ』といわれた初期の紀行文。著者のあざやかな出発点でもある。」というすずさわ書店の評はまことに的確であったと感じいったのである。

 

 散文とは「形式やリズムなどにとらわれずに、自由に書かれたふつうの文章」(角川必携国語辞典)とある。それを承知のうえで、異次元の数字表記というありかたについて、文学作品の本流はなにゆえ「望ましい表記」なのか、「さしつかえない表記」をつかう必然性あるのか、論をまじえてはどうか。そうしないかぎり、これからもまぜこぜ流はなくなるまい。

 

 井上ひさしをして「名人芸」とまでいわしめた丸谷才一の文書読本の一齣をあげたい。

 

 「作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに盡きる。(略)われわれは常に文章の伝統によって学ぶからである。人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない。」

 

 近代文学にしてもたかだか百年余の歴史を数えているに過ぎない。そのためかどうか、いまだ数字表記のありかたを記載した本格の国語辞典はない。だからこそ丸谷才一の至言がむねをうつ。