192号

 

  【童 話】カッパの子    小縄 龍一

 

 

 

 リイヤは今日も男の子たちからいじめられている。

 

「おまえのこのつむじのはげはカッパの皿だろ。乾いているから水をかけてやる」

 

 男たちは次々と紙コップでリイヤの頭に水をかけている。リイヤは頭から水を浴びせられて全身ずぶ濡れになっている。

 

「おまえはカッパなんだってな。人間の女の子でも学校へ来れない子がいるんだから、カッパの女の子なんて勉強する価値はないんだ、村の税金がかかるから学校に来ない方がいいんだとおっ父がいっていたよ」

 

 イサムのおっ父は村長である。ひどいことをいっている。果林はカッカしてランドセルを脱いで男の子たちの前に行った。

 

「あんたち、リイヤに難癖つけていじめるのやめなさい。やめないとわたしが相手になってやる」

 

「リイヤは人間でなくカッパなんだ。カッパ、カッパ、カッパらい。だからいじめてもいいとおっ父がいっている」

 

「リイヤは人間だ。三年生まで一緒に勉強している同級生だべ。リイヤにいじわるされたことないしょ。それをよってたかって何人もで」

 

 といってイサムに向かっていった。果林がつかみかかる前にイサムが足げりをしてきた。果林はひょいとそれをよけて、リイヤの手を引いて逃げ出した。

 

「果林、逃げ出すのか。口ほどにもないやつだ」

 

 といったが追って来なかった。

 

「リイヤも、もっと強くならないとだめだよ。私と親友にならない。私は町はずれにある果樹園の娘。兄が五年、妹が一年生なの。リイヤは」

 

「私は一人っ子。おっ父は漁師、毎日海に出ている。おっ母は沼で貝を採って売っている」

 

「リイヤのところへ遊びに行きたいな。どこなの」

 

「あの山を一つ越えた所、一時間歩くよ」

 

「今から行っていい。リイヤは何で名前がリイヤなの」

 

「リイヤってどっかの国の言葉でお星さまのことなんだって。私が生まれた時、一番星が出たんだって。それでつけたんだって」

 

 いつの間にか男の子たちも一緒に歩いていた。

 

「やっぱりあやしい。どっかの国ってカッパの国でないのか。カッパの住家が見られるぞ、おっ父に知らせよう」

 

 とイサムがいった。

 

「わたし歌が大好き、聞いてくれる」

 

 リイヤが美しい声で歌い出した。果林はその調べも、歌詞も初めてだった。

 

「何という歌なの」

 

「おっ母が小さい時から聞かせてくれた子守唄なの」

 

「聞いていて心がなごやいで、やさしくなれるような気持ちになって行くの。わたしに教えてくれない。そして学校でみんなで歌おうよ。先生にも聞いてもらおうっと」

 

 二人は一小節ずつ何回も歌った。男の子たちも歌った。山の頂上に着くと沼と家が見えた。

 

「きれいな沼ね。早く行こう」

 

「カッパの住家を見つけたぞ。そのリイヤという女の子はカッパの子どもだ。撃ち殺してやる」

 

 村長はいつの間にか鉄砲を持って後ろを付けてきていたのだ。果林はリイヤの前に立ちふさがって大きく手を広げて踏ん張った。

 

「リイヤはカッパでなく人間です。戸籍があるから学校へ来て勉強しているのです」

 

「カッパのくせして、人間社会に入って勉強するなんてとんでもないことだ。果林どけろ」

 

 村長は筒先を揺らした。

 

「カッパはわたしたちの村に何をしたっていうの。

 

「この村の人たちを何人も沼に引きずり込んだり、盗みを働いた。それでこの村が貧乏になった」

 

 村長は果林の前まで近づいて来た。

 

「リイヤはわたしの大事な親友です。わたしは絶対守ります。村長はカッパの悪いことをしたのをはっきりと見たのかい」

 

「いや、見ていないが、そうだ」

 

「それは俺が生まれる何代も前のことだ。そういう言い伝えが村にある。何年前といわれても分からないが、しかし、リイヤがカッパの子孫なんだ。だから根絶やしにしないとだめなんだ。昔の言い伝えはそうなっている」

 

 今まで黙っていたイサムがおっ父に口答えをした。

 

「おっ父はリイヤがカッパだという証拠は示せないんだろ。今いったことだって昔話でないか。おっ父やめろ。俺たち男の同級生もリイヤを守る」

 

 と手をつないで立ちはだかった。

 

「リイヤ、俺たちがいじめて悪かった。悔しかったのだ。どんなに頑張っても勉強でも泳ぎでもリイヤに勝てないから。これからはいじめではなく競走し合えばいいんだ。今、分かったよ。おっ父、人殺しだけはやめてくれ」

 

 村長はがっくり膝を折って鉄砲を落とした。

 

「俺の思い違いで大変な過ちを犯すところだった」

 

 といって立ち去った。

 

 沼が急に盛り上がった。

 

「あ、カッパだ」

 

「うちのおっ母だよ」

 

「リイヤ、友だちかい。連れてきたのははじめてだね。みんなに焼き貝をごちそうするからね」

 

 とカゴの貝を見せた。

 

 子どもたちはランドセルも上着も脱いで、いっせいに沼に飛び込んだ。

 

 みんなカッパの子になった。

 

(おわり)

 

 

 

 190号

 

 「第五〇回記念 平和盆踊り大会」に参加して

                        小縄 龍一

 

  私は、初めて平和盆踊り大会に参加しました。

 会場は北海道矢臼別自衛隊演習場のど真ん中です。東西二八キロ、東北一万六千八百ヘクタール、根釧原野にまたがっています。ここに五十四戸の酪農家が住んでいたことも学校があった集落だったことも想像することが難しくなっています。

 会場の大きな櫓に「二万町歩の土地を農民に返せ」とかいてありました。宿舎になったD型ハウスの屋根には川瀬氾二さんの直筆で憲法前文が書いてありました。川瀬さんは最後まで頑張りましたが二〇〇九年に亡くなり、その意志をついで渡辺佐知子さん、浦舟三郎さんが新しい住人となり活動しています。

 舞台では「歌声」があり、男性合唱団の「地底のうた」がありました。

 私にとって矢臼別は平和運動の聖地です。日々の炭鉱闘争、目を覆うような炭鉱災害闘争で「地底のうた」を歌い、矢臼別の闘いに励まされたものでした。しかしその炭鉱も今はありません。矢臼別が平和の砦として五〇年輝き続けていることに感動しました。

 私も支援団体が作ってくれた八〇〇キロのジンギスカン鍋に舌鼓を打ち、一五〇〇人の大きな輪の中に入りました。この日は実弾射撃の音も聞こえず蚊や虻もいませんでした。夜空に大きな花火が上がりました。

 一〇日、「米海兵隊移転訓練反対8・10全道集会」のデモに参加しました。この十七年間、米海兵隊による実弾射撃訓練は増強され、沖縄でできなかった夜間演習が矢臼別では常態化している、という報告がありました。

 昨年六月十一日には、誤射された155ミリ榴弾砲が演習場の外の町道、国道近くに着弾しました。そこは農家が利用する牧草地、山菜採りの人が入る生活圏です。そこに人がいたら大惨事になるところだったと農家の方が語っていました。集会アピールには、『これらの米海兵隊の態度は、私たちを「自分たちの言いなりになる犬」程度にしか見ていない現れです。その根本には日米安保条約があります。日本には日本国憲法があります。安保を破棄する闘いを進めましょう』とありました。

 川瀬牧場のD型ハウスの大きな文字が今も光っています。

 

 

 

 189号

 

  掌編小説     

                小縄 龍一

 

  落合部落の一番の長老長兵衛のばっぱ(婆さん)が亡くなった。秋田県でも十人の中に入る高齢者で九十二歳だった。

 部落では天寿を全うしたので湿った雰囲気はない。部落では葬式の前日は、親戚以外の人たちが一人ずつ出て準備をするのが仕来たりになっていた。

 京三は中学三年の夏休みなので、初めて腰に鉈を差してばっぱの家に出かけた。もう大勢の人たちが玄関の土間に筵を敷いて仕事をしていた。

 女の人たちが、ばっぱが冥土に旅立つ支度をしていた。ばっぱの体に合わせて晒で白足袋、手甲、頭陀袋などをつくっていた。古い端切れ裂いていて、男たちが縄の間にその端切れをはみ出して挟んで長い友綱をなっていた。大工の心得のある人は葬儀の祭壇、捨姿、いろいろなものをこしらえていた。わらじと脚絆はもう立派なのが出来上がっていた、ばっぱの入る座棺は町から届けられていた。男たちは、それを持ちやすいように太い荒縄をなって座棺にしばった。親戚の人が湯灌するときに使う、鉢巻、たすきを実子縄できれいに作っていた。山からえん樹の枝を切ってきた人はあぐらをかいて鉈でばっぱの杖をこしらえ磨いていた。

 それを京三はうっとりとして見ていた。

「京三、スコップ持て。お前にぴったりの仕事がある」

 と言われ墓場に行った。

 十数軒の墓場が集まったところに長兵衛の家の墓場はあった。

「ここにするか」

 と親戚の人が言ったので、若い人で土を掘った。こんもりと盛り上がっている横だった。そんなに広くはない。どこの墓も石碑がなかった。町にはまだ火葬場がなく土葬だった。

「さ、京三、度胸試しだ。少し深くなったので一人で下りて掘ってみれ」

 と言われて飛び下りた。一尺、二尺ならまだしも、それ以上だとひんやりとして気持ちが落ち着かない。

「ここに白いのが出てきたが、これ骨だべか」

「ほう、やっぱり出てきたか。それは二十五年前に死んだばっぱの連れ合いの爺っちゃだ。迎えにきてくれたんだな」

「気持ち悪くなった。俺もう上がる」

 と手を出したが誰も引っ張ってくれない。

「何言ってんだ。ばっぱのねぐらだ。快適にしてやれ。一番若い京三に作ってもらって、こんなに嬉しいことはないだろう」

 ばっぱには小さい時よく怒られ、追っかけられた。捕まえられて真っ黒い泥だらけの京三の顔を首の手ぬぐいを取ってゴシゴシこすった。京三は、ばっぱの汚い手ぬぐいこすったらもっと汚くなると悪態をついた。

「こういう雑巾みたいなもので顔をこすったら大きくなっても人にやすめられる(いじめられる)ことないんだよ」

 とばっぱは言った。

 墓穴(はかあな)は完成した。

 ばっぱの葬式には部落中の人が野辺送りに来た。和尚を先頭にばっぱを入れただみから友綱がのびていた。人々はその端切れにつかまってゆっくり進んだ。

「ばっぱ。ありがとさんよ。ばっぱから、百姓の仕事のこと、山菜採りのこと、子育てのこと、いっぱい教えてもらった」

「ばっぱに教えてもらった念仏を唱えるか」

 と誰かが言って、みんなで唱和した。

 京三は和尚の横でカラスに似た棒の飾りを持って歩いていた。

 落合部落には平野がなく沢田だけで米も多くは採れず、みんな貧乏していた。京三は、それでもばっぱは落合部落の人々と楽しく、百姓の人生を悔いなくいきたのだと思った。

「ばっぱ。俺な、来年、中学卒業したら集団就職で東京に行く。たまに帰って来て、ばっぱの墓参りするからな」

 と話しかけた。

 集団就職は、町の次男、三男対策の一つになっていた。

 

 町に火葬場ができて落合部落に共同墓地がつくられた。全部おなじ大きさの石碑が建っている。

 ばっぱの孫娘と結婚した京三は久しぶりに帰った。ばっぱの墓は霊を抜いて自然に帰っていた。墓地だったところは蛍の名所になっていた。

 運が良ければ人だまをみることもできるらしい。

 この墓地に誰かが野花と線香を手向けた跡があった。

 しかし、部落の人がみんなで葬式を出した風習はすっかりなくなっていた。

 蛍が京三の娘の髪に止まって点滅していた。

 

 

  188号

 

 リトアニア・ポーランドを旅して

                  小縄 龍一

 

 二〇一四年六月九日から六月一八日まで、初めてヨーロッパを旅してきました。新千歳空港から成田空港へ、成田からヘルシンキへ、そしてカウナスへ。九時間の空の旅でした。七時間の時差と白夜を初めて体験しました。夜中の十二時を過ぎてもまだ明るい。暗くなっても朝四時になると夜が明けているのです。私は眠れないままに外を見ていました。

 カウナスで杉原千畝という日本人の活動を詳しく知りました。

 一九四〇年七月一八日、ナチスドイツの影響下にある国から逃れてきた二〇〇人にも及ぶユダヤ人たちが日本の領事館に押し寄せてきました。杉原(領事代理)はソ連政府や日本国から再三の退去命令を受けながら、カウナスを発前の一ヶ月あまり、ビザを書きつづけました。杉原の書いたビザで救われた命はおよそ六〇〇〇人。ナチスドイツの犠牲になったひとはその一〇〇〇倍、およそ六百万人です。一九八五年、イスラエル政府からヤド・バシェム賞を授与されています。そのことをビデオと講演で知ることができました。

 旅行団一行二十一名は正装してリトアニア記念館でリトアニア議長とお会いすることができました。

 そして一時間以上リトアニア独立の話を聞きました。六四〇kmの距離を二〇五万人の人間の鎖を作って独立を叫んだこと、その時、地元の人は誰も武器を持っていませんでした。一九九一年にソ連から独立しました。私たちは現地に行って、実際に人間の鎖の跡を歩いてみました。一国の最高責任者と親しく会い、握手できるなんて、本当に記念すべき思い出となりました。

 アウシュビッツのガイドは、博物館でただ一人の日本人ガイド、中谷剛さんがしてくれました。

 広大な土地に収容所やガス室がいくつもあったことに驚きました。一周三〇キロメートル、三時間かけて歩いても、まだ終わらないのです。ユダヤ人が詰め込まれて来た線路と貨車、人毛、靴、眼鏡などの多さは写真で見るのとははるかに違います。

 ユダヤ人は一日にして捕まえられたのではなく、迫害され、学校もなくなり、仕事が奪われ、財産を奪われて行ったのです。

 中谷さんは、なぜ、こんな横暴ができたのか、ナチスが巧みな手を使ったのは事実だが、ヒトラーを首相・大統領・総統に押し上げたのはドイツ国民だった、なぜ当時のドイツ人はみな諸手をあげてナチスを賛美したのか、それは無関心がそうさせたと何回も話しました。

 翻って日本の安倍首相はどうだろう。

 行き詰った経済政策を巧みに利用しながら戦争できる日本にしようとしている。ナチスは経済政策、領土拡張政策で国民を誘導してきた。

 私はアウシュビッツへ行って、人間として悲しかった。声が出なくなった。涙が出た。歴史から学ぶことがたくさんあって頭がいっぱいになった。みんなが「私たちは九条を守ることだ」と言っていた。

 ヨーロッパ各地から小中高校生大勢来ていて熱心に説明を聞きながらメモをしていました。日本人の若者はいません。

 ヨーロッパは広大だなあと実感したのは、列車でワルシャワへ行った時でした。果てしなくつづくライ麦畑。草原にホルスタインが放牧されていて、それが小さく見えます。真っ青な広い空。白い雲が地平近くに二つ三つ。突然、薄墨で布くように一変し、それが濃くなってザーっと激しい雨になりました。そして一時間ほどで青空に戻りました。大きな虹がかかっていました。

「あ、うさぎ」

 隣で見ていた女性が言いました。

 うさぎだけではありません。カモの親子が茂みの中から姿を現したり、豊かな自然が広がっているのです。

 二時間走っても商店らしきものが一軒もなく、これにも驚かされました。

 何と言っても今回心を癒してくれたのはショパン博物館のピアノ生演奏でした。ショパンが誕生し、そこで作曲活動をしていた白い建物の窓を開けて、外の木のベンチに腰掛けている私たちの耳に直接名曲が流れてきたのです。夢心地の四〇分でした。白ビール、黒ビール、白ワインをいただきながら、ゆったりと流れる時間を旅で出会った友たちと満喫しました。

 

 

 187号

 

 「愛を抱きしめて」が日本共産党後援会ニュースに載ることになりました

                  小縄 龍一

 

  昨年一〇月、新札幌近くの日本共産党青葉後援会ニュースに別刷りにして連載小説として配りたいという依頼がありました。一昨年にも「夕張の郷」を後援会ニュースのべつ別刷りにして一年間連載した経緯がありました。

 この後援会は三〇〇人くらいの会員を擁しています。「夕張に郷」を読んだ後援会の方から、また小縄の小説を読んでみたいという話が持ち上がったとのことでした。

 私は「北海道民主文学」十九号に投稿した「愛を抱きしめて」を薦めました。

 会長がパソコンで打ち直し、各号に自然のカットを付け、対面配布と「しんぶん赤旗」の折り込みの他に四〇部配布したと、このほどお便りがありました。憲法記念日に大きな贈り物をしたようで嬉しかったと言ってくれました。連載七か月の間に、会長が入院療養することになり、今月は休もうと考えていると、何人かの女性後援会員から「今度はいつ出るの。待ち遠しい」と電話が来たということでした。私には思いもよらない話でした。

 お便りには、「今月をもって最終稿となりました。この半年余り、咲さん、伸太さんと付き合ってきましたが、情が移ったのでしょうか、版下を作りながら泣けてきました。切ない思いでやっとのことでパソコンを打ち終えました。前作の『夕張の郷』もそうでしたが、あなたの夕張によせる愛の深さと愛党精神に感銘を受けた次第です。これからも郷土愛に満ちた、愛党精神に満ちた作品を期待します」とありました。

 電話でお礼を述べると、「読んでくれた人も同じ思いでしょう。元気に会議に出てくるのをみると、そう思います」と話してくれました。

 軍人だった彼は、広島原爆投下の直後に現地に入り被曝しました。今、高校生たちにその体験を語り伝えている人です。

 自分の作品が、こうして人の目にふれて、何らかの影響を与えていると思うと、嬉しくもあり責任を感じています。